(前回からの続き) |
雀部 |
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ここに、「SF映画データバンク|日本国内興行収入ランキング」てのがありますが、SF映画けっこう多いので驚きました。 映画『ソラリス』もそうですが、『いま、会いにゆきます』(91位)とか『黄泉がえり』なども再生を扱っていて、情緒に重きを置いた構成になっています。ここらあたり、小説と映画の違いが出ていて興味深いですね。これは、視覚情報を一番重視する映画の特質なんでしょうかねえ。 (良い悪いじゃなくて、小説と映画を比べると、小説のほうがより多様なとらえ方を出来ることと関係しているのでしょうか) |
たなか |
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すみません、ちょっとよくわからないのですが、小説と比べると映画のほうが、情緒に重きをおいた話になりがちだとか、そういうご指摘なんでしょうか。そうだとしたらそれはちょっと安易に過ぎる気が……(笑) 興行収入うんぬんで話をするのであれば、当然ジャンル外の人も取り込めないといけないので、宣伝効果とか、視覚効果とか、泣きとか、そういったわかりやすいものが受け入れられやすいという点は避けられないように思います。でもそのあたりってたぶん、小説においても、ジャンル SF にかぎらず、クロスジャンル的な、いわゆる境界と呼ばれているあたりの小説にまで手を広げて、小説の実売ランキングなどを作成したとしても、宣伝効果の高い、物語の筋がわかりやすい、泣きの入った小説が上位に並ぶような気がするんですが、どうでしょう…… 小説と映画とに手法の違いがあるというのは、いまさらとりたてて指摘するほどのことでもないと思うのですが、だからといって、小説のほうがより多様なとらえ方ができるというのも、一概に言えないのでは。映画にはある程度の尺という制限があるので、扱えるエピソードの数に制限があるというのはそのとおりだと思いますが、別にそれだからといって映画的手法では断面的なものしか表現できないということでもないと思います。 ただ、アプローチの仕方が異なるのはもう厳然とした事実なので、同じテーマを同じカラーで表現することはできないだろうとは思います。それは、小説の映画化でもそうですし、映画のノベライズでもそうだと思います。違和感が生じない方がおかしいんじゃないでしょうか。 ていうかやっぱり、興行収入の高い映画にかぎった話をするのであれば、どうしても商業的なテコ入れは免れないだろうと思うので、小説のほうも爆発的なベストセラーにかぎった話にしないと、バランスがとれないと思うのですが…… って、なんか全然見当外れのことを語っているのであればすみません…… |
雀部 |
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う〜ん、映画はほとんど視覚で見せているので、小説ほどには想像力が働く余地がないだろうという前提でのお話です(汗) それと、小説に比べて制作にかかる金額が桁違いだから、どうしても見て面白い作品に流れやすいと思うんですよ、失敗すると莫大な借金しか残らない(笑) 先月たまたま、芥川賞受賞作品と候補作二作を読む機会があったのですが、こういう実験的な作品を映画でやるのはもの凄い冒険だと。小説だと、まあ売れる売れないは別として、挑戦するのは簡単ですよね。 |
たなか |
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このあたりのお話って、たぶんわたしじゃなく、もっと映画に詳しい方におまかせすべきだと思うんですが。(笑) 映画の手法と小説の手法が異なることは、もう動く余地のない大前提ですから、映画のほうがその手法に制限があるという断定は、やはり一面的なものになるんじゃないかと思います。小説と比べて、かかわる人数の多さと制作費の巨額さが、たしかにひとつの制限にはなると思いますが、目標が黒字を出すということに特化すれば、映画も小説も行きつくところはたいして変わらないんじゃないでしょうか。 売れる売れないは別として、というお話になるのであれば、たしかに映画のほうが赤字になったときの辛さは大きいと思いますが、実験作の製作へのハードルに高い低いはないんじゃないかという気がします。もうモチベーションの問題になりますよね? ひとつそこに大きな違いがあるとすれば、文芸誌にあたるものの存在があるかないかじゃないかと思います。文芸誌自体にどれだけの黒字が出ているのか、文芸誌に作品が掲載されるだけで作家はメシが食っていけるのか、そもそも文芸誌は黒字を出すことを目標にすべきなのか、といったことに関しては、わざわざお話に出すまでもなく、問題提起がおこなわれていることですよね。文芸誌を抱える版元がそのあたりを守っているという事実は、やはり存在するんじゃないかと思います。文芸系にかぎらず、毎年刊行されている小説をすべて一律に並べたとき、実験的な小説のパイはやはり小さいですよね。文芸誌にあたるものが映画界には存在しないという視点からみれば、たしかに映画は守られていない部分もあるということでいいのかもしれません。目先の売上げばかりにとらわれて、若い監督を育てる土壌が邦画にはない、と言われていた時期もありますよね。でも、一時期が嘘のように、最近邦画は元気なんじゃないかなぁとも思いますし。 映画にも当然実験的と言われる作品は多いわけで、ここでわたしなんかが名前を出しちゃいけないような気もするんですが〜、タルコフスキーとかブニュエルとかシュヴァンクマイエルとか? 「メメント」とか「ラ・ジュテ」とか「CUBE」あたりもそうなのかしら。邦画なら塚本晋也さんとか? ああー。このあたりはもっと詳しい方にフォローしていただいたほうがいいと思うのですが〜 映画のほうが想像力が働く余地がないというのも、わたしにはちょっとわからないです。たしかにそういったつくりの映画も存在しますが、それは小説でも同様じゃないかと思うので。映画の受容と小説の受容とは当然その方法が異なりますから、受け手に与えられる想像力の種類は、たしかに異なるとは思いますが。 小説にかぎって言えば、実験的な作品って、手を出すのはたしかに素人でも簡単ですが、読むに足る作品に仕上げるのは難しいですよね。挑戦するのが簡単か否かという話と、それが成功するか否かという話と、赤字を出すか否かという話を、全部同列に並べるのは、やっぱり無理があるんじゃないかと…… それこそ、それが赤字になるか否かという話に特化するのであれば、それが実験作であろうとなかろうと、映画をつくるにおいては宣伝効果の話を抜きにしては語れないと思いますし、一作目から大黒字、とかいう夢みたいな結果は少ないんじゃないかと思います。 なんかどんどん話が変な方向にいっちゃってますか? すみません…… |
雀部 |
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いや、良いんですよ。変な方向大歓迎ですから(笑) 昔から、良くある話なのですが、音楽ファンが「オーディオは、視覚情報がないのでそのぶん音に集中でき想像力を働かせられるので、聞く度に新しい発見がある。しかしビデオは、目からほとんどの情報が入り想像力をあまり働かす必要がないので数回見たら飽きる」という意見があるんですよ。当然映画ファンは猛反発するわけです。私がそう言っているわけじゃないですよ、念のため(笑) その理屈なら、小説と映画の間にも言えるんじゃないかと。例えば『ソラリス』と映画版『ソラリス』の間に。 |
たなか |
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なにを受容するにしても訓練は必ず必要になってくると思うんですよ。で、ものすごく個人的な話で恐縮なんですが、たぶんわたしは、小説を読むことと、映像作品を観ることと、音楽を聴くこととを並べて比べると、明らかに小説を読むことに子どものころからいちばん慣れていて、だから小説がいちばん楽しみやすいというのはあると思います。例えば映画を観終わったあと、記憶に残っているのは字幕や台詞部分で、そのときの映像や音楽については、ほとんど覚えていない、なんていうこともよくあるんですよ、わたし。だめですね。(笑) いろいろな人と同じ映画の感想を話してみて気づいたんですが、これって小説読みに特化した人間の楽しみ方かなぁという気がします。「こんな BGM が流れてたシーンだけどさ。ふんふんふ〜ん♪」って歌われても、すみません、それわたしには全然わかりませんよ! みたいなことがよくあったりして…… それはわたしが映画をすみからすみまで受容しきれていないということでもあると思います。上で、映画と小説の受容の仕方は違う、というようなことを語ったのは、わたしのなかの映画受容に対する劣等感のようなものが底にあるんだと思います。 『ソラリス』についていえば、原作をもとにしてつくってあるとはいえ、主体となる作り手は、映画と原作とでは異なるというのは動かしようのない事実なので、底に流れるテーマ等が変化していて当然だと思います。それは、タルコフスキー版とソダーバーグ版とがまったく異なった捉えられ方をしていることでもう明らかですよね。当然、タルコフスキーとソダーバーグとでは、映画に対する姿勢が異なるでしょうし、時代性や映画をつくる環境、想定していた観客なども異なるでしょうから、できあがるものがまったく別の方向を向いていたとしても、それは当然という気がします。 で、想像力うんぬんの話ですが。上で語ったとおり、わたし並みの視聴者だと、映画をひととおり観ただけでは読みこぼしがいっぱいあるんですよ〜 なので、観るたびに新しい発見があります! 小説と異なり斜め読みができないこと、また、自分のテンポで視聴するというのが難しいため、複数回観るハードルは小説に比べて高いですが、わたしの場合、数回観たら(読んだら)飽きる、というのは、小説と映画と、どちらがどうとは言いにくいです。わたしがあほだから、という話は、この際棚上げにしてしまって〜 |
雀部 |
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なるほど、なるほど〜。つまり受け手によって、楽しみかた・受け取り方は多種多様だということですね。当然、映画好きな人と小説好きな人とは感想が違って当然だと。 ところで、コアなSFでない人とは『完全な真空』『虚数』の話になることが多かったそうですが、特にどの短篇あたりでしょうか? |
たなか |
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特にどれが、というわけではなく、ただ、実在しない書物を対象とした書評・序文集であるという、その形式がもうそれだけで興味の対象でした。メタフィクションというだけでこころが揺れる時期ってありませんか? わたしもそういうワカモノだったわけですよ。(笑) でもたとえば、『虚数』には「序文」にはおさまらなかった「GOLEM XIV」などもあって、レムの意気は汲みますが、読み物としておもしろいかというと、わたしレベルの読み手にはわりと辛かったりとかも…… そういう意味では、すべての作品をおもしろいと感じられたわけでもないのですが。 |
雀部 |
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メタフィクションだからといって心引かれる時期はありませんでしたねぇ(爆) 巽先生の『メタフィクションの謀略』とか買って、理論武装してから読んだりもしましたが、作家によって、面白いのと面白くないのがあって。SFシーンからメタフィクションのほうに行かれた筒井康隆先生とかラッカーとかは面白く読めるんですが、ピンチョンとかエリクソンあたりは難しいです〜(汗) たなかさんが一番面白いと思われた作品は、どれでしょうか? |
たなか |
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ピンチョンは難しいですよね。かれの作品のおもしろさがわかっている人って日本にどれだけいるのか謎だとか、本気で思っているわたしは、弱い読者です。もちろんわたしにはわかりません、ごめんなさい。(笑) ピンチョンに比べれば、エリクソンのほうが物語の骨子が見えやすいので楽しみやすいと思います。わたしはエリクソンは好きですよ。とはいえ、エリクソンのすべての作品が楽しめるかというと、やっぱりそんなことはないわけで。あまりに難解なものには食指が動かなかったりして。だめだなあ。 ひとつ挙げろ、ということであれば、なにをさておいても、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』ですね。作品ごとにその筆致を意識的に変えてきたカルヴィーノですが、本作では、ある種の文体練習ともいえる各ジャンルの書き癖をていねいに追いかけつつ、「読者」という登場人物を物語のなかに取り込んでいます。また「目次」にも遊びがあり、わたしが「物語を読む」というこ とに意識的になったきっかけともいえる作品です。 |
雀部 |
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読んでなかったので、今読み終えました〜(大汗) カルヴィーノで今まで読んでいたのは、『レ・コスミコミケ』と『木のぼり男爵』と『まっぷたつの子爵』と『柔らかい月』。ここらあたりは、SFファンにもお勧めだと思うのだけども、この『冬の夜ひとりの旅人が』は難物だと思います。だいたいSFファンは保守的なので(笑)、手の込んだ構成とか技巧を凝らした文体とかは、ほとんど評価の対象にならないんです。それを端的に現した言葉として“異星人を抽象画で描いたら、何を書いているか解らない (C)今岡清”というのがあります。 たなかさん的には、『冬の夜ひとりの旅人が』の“ここがポイント”というところはどこでしょうか? |
たなか |
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カルヴィーノは新しい作品を書くたびに、意図的に書き方を変えているということを先ほど述べましたが、つねに新しい書き方をとりこみつつ作品をつくりあげているんですね。なので、時期によってその筆致がおそろしく違います。『まっぷたつの子爵』をはじめとした「我々の祖先」三部作は、ファンタジーのテイストをもった寓話的な作品ですし、『レ・コスミコミケ』や『柔かい月』あたりは、カルヴィーノ自身も SF としての意識をもち、日本にも SF として紹介されたわけですから、SF としての読まれ方をされるんでしょうが、たとえばそのなかにおいてすら、『レ・コスミコミケ』のおもしろさを『柔かい月』に求めても、それはもう無理ですよね。さらに後期になると『パロマー』という作品があって、わたしは大好きなんですけど、『パロマー』にいたっては、いわゆるナラティヴとしての物語はないに等しいです。ある種『柔かい月』の延長と言えると思います。 『冬の夜ひとりの旅人が』は、カルヴィーノが最も「物語で遊ぶ」手法をわがものとしつつ、なおかつ最も物語として成功している作品ではないかと思います。『宿命の交わる城』という作品がそののちに生まれるのですが、こちらはタロットカードをめくりながらそれに沿って物語が進む実験的な作品で、形式としてはたいへんにおもしろいのですが、その形式に比して、物語としての完成度が高いとまでは評価されていません。『冬の夜ひとりの旅人が』は、メタフィクションという実験的な手法を用いながら、物語としてのおもしろさをも充分に保持した作品として成功しているという意味で、ある種の金字塔だと思います。 |
雀部 |
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ううむ。メタフィクションは鬼門かも(爆死) では、『完全な真空』『虚数』のなかで、SFファン向けという短篇はありますでしょうか? |
たなか |
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SF ファン向けかどうか、という作品を特定するのは難しいのですが、たとえば「未来」に発行されたとされる本についての作品であれば、当然記述されている文化なども「未来」なのですから、興味深いんじゃないかと思いますがどうでしょうか。具体的にはたとえば『虚数』に出てくる本のタイトルには刊行年が記してあるものがあり、「ビット文学の歴史」などがそうなのですが、ビット文学というのは人間の手によらないあらゆる作品、つまりコンピュータによる文学などを意味するのですね。本文のテキスト自体は学術的なスタイルにのっとって書かれているなど、ここで語られるビット文学の内容や方向性などは、SF 的に読まれるものだと思います。また、「ヴェストランド・エクステロペディア」は、未来の百科事典というべきものですが、見本ページもあり、楽しめます。そこでは現在使用されている語義が過去のものに分類され、新たな語彙・語意が並べられていますが、言葉遊びが好きな方にはたまらないんじゃないかと思います。レムは他の作品においても、これと似たような切り口を見せていますね。『泰平ヨンの未来学会議』(深見弾訳、集英社、1984年)などにもその断片が見られます。『完全な真空』からいくつか取り上げるとすると、わたしは「ギガメシュ」が大好きです。ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』で頭をかかえた経験のある方には、「ギガメシュ」という文学作品内のあらゆる語に限らず、あらゆる文字においてまで、恐るべき量の含蓄を含んでいる、といった記述には、もう笑うしかないんじゃないかと。そういう意味で、正しくコメディだと思います。やはりレムの他の作品でも言及の多い人造セックスなどに関する集大成としては、「性爆発」があげられると思います。「あなたにも本が作れます」「ビーイング株式会社」あたりは、新型の機械あるいは株式会社をテーマに、比較的純粋に SF 的手法をとった作品かと思われます。“小説組み立て器”によって作られる小説とはどんなものなのか、ビーイング株式会社によって仕組まれる生活とはどういったものなのかなど、たいへん楽しめる内容じゃないかと。って、この調子だと全部の作品について語ってしまうような気がするので、このあたりで……(笑) |