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BookReview

レビュアー:[雀部]&[栄村]

『大失敗 Fiasko』
> スタニスワフ・レム著
> Evolution de la pianete Phoebus,vue depuis Antinea.
SSHUTEN & PEETERS (C)CASTERMAN S.A
> ISBN978-4-336-04502-7
> 国書刊行会
> 2800円
> 2007.1.30発行
> "Fiasko" by Stanistaw Lem 1987

先月のつづき)

栄村 >  わからないもの、理解できないものをまえにしたとき、心の奥から湧きあがる不安や恐怖が、暴力衝動をよびおこしてゆくというのは、人間の自己防衛本能からくる感情でしょう。それが身の安全をおびやかすものなら、なおさらです。大きな人間の集団でも、ふだんのわたしたちの身のまわりでも起こっている。これは人間が地球上にでてくる前から自然の中で準備されていたものなのかもしれませんけど。
 「大失敗」の世界で人間は、空間や時間、重力をコントロールし、星々の運命を変えるどころか、死者までよみがえらせる力を持っている。そして、何千光年という深淵を渡っていきますが、人間が生物の進化の中からうけついできたものを、うまくあやつることができなかったがために、大きな災いを引きおこし、旅自体も悲劇に終わります。
雀部 >  レム氏は、そこらあたりも書きたかったんでしょうかねえ。
栄村 >  「大失敗」のあらすじを書いているとき、詩人でエッセイストの*蜂飼耳さんが紹介していた*「球形時間(多和田葉子著)」という小説を読んだのですが、これが「大失敗」の図式をいまの日本の高校――それも学級崩壊したクラスにもってきたような話でして……。蜂飼さんは、
 「現代の日本が抱える社会問題やさまざまな事件の背景にある人間関係、あるいはコミュニケーションの問題をサンプルとして集め、組み合わせ、構成したところに、この小説は立っているといえる」
 とエッセイの中で書いておられるのですが、読んでいると登場人物のうごきが、異星人との接触がうまくいかず、しだいにフラストレーションにおちいって、最後には暴力が生まれてくる「大失敗」とだぶってくる。
 「球形時間」は、女子高生とその男友達、友人の大学生、若い高校の先生たちの絡みあった日常の何気ないエピソードを描いたものですが、みんなどこか少しキレやすく、壊れて、病んで、崩壊してる。しかも、何かあったら、とりあえず他人のふりをして、要領よく身をひいてゆく。ひとつの場でおなじ時間や感情を共有したとしても、それぞれがほんとうに混じりあうことがない。「ソラリス」の海じゃないけど、みんな“内に秘める法則によって定められた境界線を踏み越えねばならない状況が生ずると、中途で引き上げてしまう”。
雀部 >  他人との濃密な関わりを避けているというか、他人と係わることによって生ずる軋轢で、自我が傷つくのを恐れている若者が多いんでしょうね。
栄村 >  物語の前半でおもしろかったのが、主役の女子高生のもとに送られてくるメル友からのメールでして、これは女の子の「変なところが文字化けしていて、ちょっと気持ちが悪い。」というせりふのとおり、
 「あた死は、好きな人はいません。探しているんだけれど、見つかり魔せん」
 というかき出しからはじまるんです。相手がなにを考えているのかわからないばかりか、どこかよじれて、ばらばらになっている。
 真意がよくつかめないところなど、なんだか、月の崩壊後、クウィンタ星人が人間におくってきたメッセージの中の「……アナタガタニ平和忘却ヲ保証スルアナタガタノ」みたいでしょう。
 このあと、ふわふわと書いている本人でも自分の心がわからないような、もやもやした文章が続くのですが、じつは、このメールの送り主と女子高生は一度も顔をあわせたことがないんです。
 その後、話の中でもう一度、この人と女子高生とのメールのやりとりが出てくるのですが、この内容というのが、
 「……知らない人とも友だちになれる人が、うらやましいです。あたしは、メールなら平気だけれど、人と向かい合うとなにも言えなくなってしまいます。赤くなるとか、どもるとか、そういうのではなくて、言いたいことが消えて、頭が白紙になって死まうのです。これでは、一生、友達らしいものもできないかと思います」
 というもので、あきれた女子高生が、今度一回会いましょう、茶店でハーブしませんか、というメールを出したとたん、送り主は、ぷつん、と糸が切れたみたいに物語から姿を消してしまう。結局、どこの、どんな人だったかわからずじまいです。
雀部 >  相手のこれからのことを思って探し出して強引に会うか、それとも相手の感情を尊重して連絡不通のまま放っておくか、悩ましいですね。まあ小説とかドラマだと、放っておいたのではストーリーが続かないですけど(笑)
栄村 >  そして、若い高校の先生がヤキトリ屋に行ったとき、たまたま向かいの席にすわった戦争を経験してきたらしい70代後半の年輩の人とケンカになる話が出てきます。この年輩の人は酔ったいきおいで、
 「人類は戦争がなければ、進歩しませんよ。いくら強くても死ぬ気でがんばるから、新しいアイデアも生まれてくる」
 と持論を展開するのですが、一方の若い高校の先生は、人にものを押しつけたり、押しつけられたりすることを非常に嫌う人です。でもこのとき、売り言葉に買い言葉で、意見のちがう人にはげしい暴力衝動を感じてしまう。そのあと、嵐のような感情が収まりかけたとき、わきあがってくるのは自分への怖れです。
 「まぶたが引きつっていた。あの男を突き飛ばしたいという衝動はまだ肉のなかに残っていた。暴力はどこから来る。まるで、悪い霊にでもとりつかれたみたいに、自分の意志ではないところから、ふいに襲ってくる。それを制御できない自分は、生徒を殴ってしまうかもしれない。」
 “まるで、悪い霊にでもとりつかれたみたいに、自分の意志ではないところから、ふいに襲ってくる”という部分の描写など、心の奥底からから突然ふきあげてくる衝動をうまく表現していておもしろいですね。この部分を読んでいると恐怖と怒りによって氷の輪の破壊したものの、クウィンタ星におこった破局のあまりの大きさをまのあたりにして、両手で顔をおおってしまう登場人物の姿が浮かんでくるのですが。
雀部 >  惑星規模の破壊と、目の前の相手を突き飛ばしたいという感情の発露の根っ子は同じなんでしょうねえ……
栄村 >  レムの小説の場合、人間のつくりだした文明と別の星で進化した文明との接触というテーマをたどってゆくと、心の裏側にある、だれもが心の奥底にもつ本能的な感情に行きついたという……。小説の中で、「エウリディケ」がクウィンタ星に起こった異変を観測して騒然としたとき、ひとりの数学者がこう発言する場面がありましたね。

 「クウィンタ星がわたしたちの存在を認め、彼らなりのやりかたで「ヘルメス」号を受け入れる準備をしていると見るものもいます。それは合理的データに基づく推測ではありません。それは、要するに――私の意見では――不安、あるいは直截な言い方をすれば恐怖の現れです。大昔からある原初的な恐怖で、かつて宇宙からの侵攻すなわち破滅という概念を生み出したものです(172P)」

 ――この高校の先生もそうですが、ふたつの作品に共通しているのは、コミュニケーションできないもの、理解できないものに出会ったとき、人間が抱く根元的な「不安」や「恐れ」という感情が次第にエスカレートしてゆき、激しい爆発をひきおこす点です。

 ところで、最後におもしろかったのが、小説の終わりのほうで出てくる女子高生とおなじクラスの女の子のモノローグでして……。この子は、病的で、相当アブナイところまでいってる。気に入らない相手の写真をひそかに手に入れてハサミで切り刻んだり、相談を持ちこんだ担任教師の対応が信用できないというので、後からこっそりと職員室に入って教頭の机から現金袋と手帳をひきだし、担任教師の机の中に入れたりします。モノローグを読んでいると、外側の現実とそれを受け止める彼女の内面の間には、相当なへだたりというか、異常なほどのずれがあって、心を病んでいる気配がある。でも、読んでいくと、その行動には、彼女なりのちゃんとした論理と理由があり、悪いのはそちらのほうじゃないか、ということになる。
 前回、たなかさんが個人対個人のコミュニケーションのところで、「わたしの世界の「正義」が、あなたの世界の「正義」とイコールではない場合」ということで、話をされていましたけれど、この子にはこの子なりの「正義」があったということが、登場人物の誰にも話されることなく、モノローグというかたちで小説の最後の方で明かされます。
雀部 >  あ〜、そこんとこSFぽいですね。
 見方を変えれば、センスオブワンダーそのものの切り口です。
栄村 >  「大失敗」では、クウィンタ星人の内面はついに明かされることがありませんでしたけど、もし、彼らが大陸プレートの基盤を動かすほどの破壊力を持つレーザーが発射された後も生きのこり、人間との「接触」を続けていたとしたら、テムペなき「ヘルメス」号の乗組員が知るのは、この話と似たような事実だったかもしれませんね。

 「球形時間」で出てきたようなコミュニケーションのゆがみや断絶が、事態の混乱をひきおこし、登場人物の運命を大きく変えてゆく。
「大失敗」では「混乱」と「対立」というふたつの力が、おたがいに絡みあって事態を思わぬ方向にうごかしてゆくように思います。「宇宙での混乱は、地球上に勝るとも劣らない」という言葉が、物語の冒頭に登場人物の口から、これからはじまる物語の予告みたいにして出てきます。
 実際、パルヴィスが緊急召喚をうけ、彼の運命が大きく狂っていくのも、情報の伝達ミスによって、彼の輸送船にタイタン星での作業の専門家が乗っているとレムブデン・クレーターの副空港長が考えたからですし、22世紀になって、ガラス固定化から甦ったものの自分自身の名前すらはっきり確かめることができないという状況に陥ったのも「エウリディケ」号発進時のトラブルからひきおこされた通信の混乱に加え、そもそもパルヴィスの遭難時、タイタン星でロボットがつけていたコンピューター日誌の混乱からでした。
 そして、「ハルピュイア星群」に到着した地球人たちが目撃する、クウィンタ星のさまざまな不可解な現象――惑星上にあふれかえる異常電波、月面上の原子プラズマ、閃光、惑星全体の冷却化――まさに「核の冬」を思わせる現象ですが、こうした「情報」が人間に「戦争」という先入観をあたえてしまったところから、コミュニケーションのゆがみがおこり、悲劇がはじまります。

 「情報」でも、受け取りようによっては「球形時間」に出てくる少し病んだ女の子みたいに、外側の現実とそれを受け止める人間の内面の間に、相当なへだたりというか、かなりのずれが生じてしまう。「球形時間」は「休憩時間」の文字化けのように見えてくると、蜂飼さんはエッセイの中で書いてましたけれど、情報を受けとった時点で、ねじれ、というかよじれみたいなものが、心の中に生じていたんですね。
 60年代の終わりに発表された、宇宙からの有意信号らしきものを解読する「天の声」でも、この「ねじれ」というか「よじれ」は作品の中心的テーマでした。
 「大失敗」で、それが色濃く出ていると感じたのは「宇宙的終末論」の中で指揮官スティアガードと人工知能との対話の部分でした。クウィンタ星がたどってきた歴史を推察する部分です。
 ウェルズの小説では、タイムマシンで描かれる未来の人間はモーロックとエロイは19世紀イギリスの階級社会を反映したものでしたし、「宇宙戦争」に出てくる火星人のキャラクターも人間の何百万年後かの姿をイメージしたものでした。レムの書いた「エデン」も20世紀半ばの社会の暗い部分を変形させたものでした。
 「大失敗」では、読者も「ヘルメス」号の乗組員とおなじくらいのことしかクウィンタ星人のことについてはわからない。いろいろ情報はでてくるのですが、決め手がない。五里霧中のなかで乗組員たちはクウィンタの文明についていろいろ考察するのですが、誰も経験したことのない状況で、サンプルとなるケースがない。そこで、人間をはるかにこえる処理能力を持った人工知能にクウィンタ星の知的生命体の心理を読み解くコマンドを出すわけですが、そのとき、土台にしたものは自分たちの過去の姿でした。しかも、読みを誤ったら殺されるかもしれないという状況のなかで、相手の存在を探っていくわけですから、生まれてくるイメージは、歴史のなかでかつて存在した病んだ文明をグロテスクにディフォルメしたものなんですね。レムがこの部分でモチーフにしたのは、SDIを開発していた米ソ冷戦時代の世界でしたけれど。
 こういうところから、地球の文明は宇宙にうまれた知的文明の平均値から見て、はたして「常態」なんだろうかという疑問や、宇宙に存在する文明の中では、生まれたときから、果てしなく続く主導権争いや敵対主義という癌にむしばまれ、いちどたりとも「健康」であったことがない病んだ文明、自殺する文明というイメージも出てきます。
雀部 >  クウィンタ星人が、生存を賭けた競争と戦いの中のみで進化してきた生命体だとしたら、その社会形態は、どうなっているんでしょうね。それとも社会形態は無いのかな。戦いに有利なのが民主主義とは思えないし(笑)
栄村 >  最後まで謎の存在なので、本当のところはわからないでしょう。物語の最後で見せるあの姿も、本来の彼らの姿なのか、あるいは何らかの肉体的な改造がおこなわれた成れの果ての姿なのかは、わかりませんから。
――しかし、社会形態について言えば、以前紹介した「逆進化」には、後の「大失敗」に発展してゆくモチーフがいろいろと出てきます――中に、こんな一節がありましたね。

 「シンセクト(人工虫)がつくりだす疑似社会はハチの巣や蟻塚とは比較にならないほど複雑だった。その共同体の内部構造とシンセクト間の相互関係は、自然界に存在する進化的に均衡のとれた特殊な地域や生息地に見られる共生型の生態学的ユニット―敵意と共生が複雑な相互依存のネットワークをかたちづくっている植物と動物の「種」のピラミッド型社会―に非常によく似ていた。しかし、その全体像は―実際の作戦行動はおろか、単なる査察でも―大学の評議委員会の頭脳を持ってしても完全に掴みきれないほどの複雑さをそなえていた。」

 レムはイメージとして「敵意と共生が複雑な相互依存のネットワークをかたちづくっている植物と動物の「種」のピラミッド型社会」みたいなものを考えていたのかもしれません。「大失敗」には「蟻塚」の挿話に加えて、昆虫のイメージが何度も出てきます。
雀部 >  その「シンセクト(人工虫)」の擬似社会、クウィンタ星人と共通するかもですね。単なる想像の域を出ないのですが(笑)
 人類も戦争とか争いごとに関してはちょっとした蘊蓄を持っているわけですが(笑) なぜ、争いごとが得意そうなクウィンタ星人に対してその交渉術がうまく働かなかったんでしょう?
栄村 >  物語の終わりのほうで、クウィンタ星人が地球からの「使者」をうけいれることに同意し、その条件について数々の交渉が行われたことを示したところがありましたが、交渉過程で、地球人たちは、「使者」が現地の政権、学者代表と直接、対面することをのぞみますが、「接触」という言葉の概念を、人間たちが詳細に定義しょうとすればするほど曖昧になってゆき、さらに、「政権」「中立性」「不公平」「保証」といった抽象的な言葉も、クウィンタ星人の使う用語と不十分にしか重ならなかった、と書かれています。
 別の星で進化してきたヒトとは異なる精神構造を持ち、社会形態も異なるものに、どれだけ人間の交渉術が通用するか……。なにしろ、むこうに人間はいないのですから(笑)。むつかしいでしょうねえ(笑)。
雀部 >  そこらあたりも、「シンセクト」がつくりだす疑似社会ぽいですね。ますますそういう気がしてきました。
栄村 >  「球形時間」を紹介した蜂飼さんの文章には、
 「誤解ならば解かれる可能性がある。だがこの小説の登場人物たちのあいだにあるものは、誤解ではない。むしろ誤解さえ生じないくらい、各自がばらばらに漂っている。たとえ言葉や時間や場所を共有しているように見えても、そこから何かが生まれるという感触はない。どこまでも漂いつづけるのだ。」
 というところがあるのですが、レムの描いてきたペシニズムにいろどられたコンタクト・テーマの一面にも通ずるようで、たいへんおもしろい。茫漠たる宇宙空間の中で、人間と異星の知的生命体とが、接触によってたまたまおなじ時間や場所を共有しても、その関係はまったくばらばらで、なにかが生まれてくるという感触などまったくない。人間は知性と精神を全開にして接触に挑むけれども、鏡を見るのとおなじで、見つかるのは自分自身の心の内部にあるものだけです。両者は、ほんの一瞬、接触するけれど、たがいにガラスの球のようはじき合い、広大な空間と膨大な時間の流れの中で、別々の運命を背負い、流され、やがては消えていきます。
雀部 >  それは、光瀬SFの無常観にも通ずるかも。
[注] *「孔雀の羽の目が見てる(蜂飼耳著 白水社刊)」より「暴力の発生」
*「球形時間(多和田葉子 新潮社刊)」

[栄村]
レムの30年来のファン。「砂漠の惑星」を読んだのが、SFに本格的に身を入れるきっかけとなりました。彼が亡くなる前に一度、ポーランドを訪れたかったのですが……。
生前、レムが言っていたように、インターネットで世界中から情報が入ってきて便利になる反面、駆けめぐる膨大な情報のために、ますます世の中は複雑化し全 体像が掴みにくくなっているような気がします。彼のような広い知識と視野をもつSF作家は、これからますます生まれにくい状況になっているのかもしれませ んね。
[雀部]
スタニスワフ・レム追悼ブックレビュー再開第二弾です。いよいよ終わりが近づいてきました。もう少しお付き合い下さいね。

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