泰平ヨンシリーズをはじめ、レムの一連の小説を読んでいると、遠い未来や別の星の文明が描かれているなかに、彼が現代文明について彼が抱いていたひとつの仮説がうかびあがってくるのですが、それについてはPeter Swirskiが97年に刊行したレムとのインタビュー集「A STANISLAW LEM READER」の序文でくわしく説明しています。このなかで書かれているのは、わたしたちの問題と争いは自分自身の目的、願望、計画そのものにあるということです。一部を紹介すると、わたしたちの住んでいる社会は空虚感や停滞感をひどく嫌います。そのため計画や目的といったものは日々の生活の中に浸透していますが、小さなたくさんの改善は、わたしたちがもっと劇的な変化をのぞんでのことでしょう。改善のなかでも−−たとえば政府の新しい政策や、技術革新など大きな変更が起こったときは、前もって考えていた以上に、もっとひろい範囲でながく続く影響があらわれてきます。 文明が進んでゆく勢いには、ひとつの傾向があります。変化にさいして文明を崩壊させるよりむしろ、変化をとりいれ、順応するというものです。しかし、社会があたらしい事柄に適応する能力(柔軟性)にはかぎりがあるため、ある程度の圧力はうけいれるものの、ストレスがあまりにつよければ、社会は完全に力をうしなうか、さもなくば、根本的にあたらしい安定した姿になります。これは丸い大きなお椀めがけて、上からボールを落とす姿をイメージすればとらえやすいかもしれません。上から落とされたボールが安定した状態になるのは、椀の底でとまるときです。毎回、人の手がボールを椀めがけて落としますが、ボールは、はずみで椀からとびだそうとするものの、重力の力で下にひかれ、底でとまり安定した状態になります。ボールはある段階までは、説明したうごきをとるでしょう。しかしこのバランスが破られるとき、たとえばボールに強い力が加えられたときは、椀の外側にとびだし、遠くにころがってゆきます。ボールはやがてとまり、そこで安定した状態になりますが、これは今までとは完全に異なるあたらしい安定状態です。 人間の願望とそれを実現するテクノロジーによって領域を広げ、ますます複雑化し、想像をこえて急速に変貌してゆく世界。いまや歴史には一定の目的に向かって進んでいるものであり、しかもそのあゆみには一定の法則があるという考え方も、変化のあまりの激しさの前にその確信が揺らいでいるようにみえます。この世は無限の善に満ちた世界ではなく、またある目的に向かって進歩している世界でもない。人は願望の導く進歩のもと美しいガラスばりの快適な温室へ向かって歩んでいると思いこんでいるものの、実はむきだしのコンクリートの壁と作業台があるだけで、命をけずる激務を強いられる場所へと向かっているのかもしれません。先にあげたボールと椀のイメージでいえば、いまのわたしたちの社会は、すでに強い力を加えられて椀をとびだし、どこで静止するのか、ころがる先に何が待ちうけているのかさえも予測がつかず、ひたすらはずみでころがり続けてゆくボールにたとえられるかもしれません。ある変化だけでは文明に大惨事級の影響をあたえないとしても、いくつかの不安定要因の結びついた結果、事態は深刻になるかもしれないのです。 今世紀に入りますます不可解な様相を見せはじめた世界の中で生きるわたしたちは、この制御不能に陥りはじめた文明のなかで、いったい何を念頭において生きていかねばならないのでしょうか? これに対する答えはレムとのインタビューを終えたPeter Swirskiが、「A STANISLAW LEM READER」の中でこう語っています。 「……相乗的に作用する組み合わせが、文明を不安定にして崩壊させていくか、あるいは、まったく新しい、そして予想できない仕方で再構築するかどうかを予測することは不可能でしょう。しかし、わたしたちは、これらの要因が持つ、いわば、文明の椀から外に投げ出そうとする衝撃のどんな徴候をも見逃すまいとする調査を止めてはなりません。 経験と後からの知恵は、いろんな点で、これらの新しい潮流と現象が、おそらくわたしたちの日々の生活の一部となることを教えています。さらにこのプロセスが、誰かのいかなる故意の計画なしに起こることも教えています。実際、文明の激変に対するおきまりの反応は、「あまりにも小さく、あまりにも遅い」ものです。結果として、このような文明の激変が持つあふれんばかりの可能性、斬新な技術、法にそった倫理的な先例などの事柄は、けっしてはっきりと理解されません。そして、そもそもそれらを持ったほうが前より暮らし向きがよくなる、ということが常にあるわけではないのです。」 |