■神戸の話
古くからあった廻船問屋の話。江戸時代、家光のころには北風彦太郎という当主が北前航路をひらいた。昼夜を問わず人の出入りがあったため、常時ご飯に味噌汁漬け物くらいは用意があり、「北風」のはっぴを借りれば、紛れ込んで飯にありつけると言われていた。この話は、桂米朝師匠が「兵庫船」という落語のまくらで解説されていて、知ったのだそうです。
勝海舟の「氷川清話」の話。蛤御門の変の時には、京都が大火になり、神戸の海軍操練所に居た勝海舟が、京都の空が真っ赤に染まっているのが見えたという。山の彼方、はるか遠くの京都の火事が見えたということは、昔は電気がなかったので町なかも夜空も真っ暗だったのだろうし、もの凄い大火事だったからだろうと推測した。
鈴木商店の話。一時的には、三井・三菱の財閥系商社の取引高を超えたという、明治時代から昭和初期にかけての総合商社。社長が亡くなったとき、大番頭の金子直吉という人が後を任されてそこまで大きくしたが、第一次大戦後に他の会社が持ち船をすぐに売却したのに、大量の船舶を保持したままだったなど、判断ミスが命運を決めた。現代教養文庫から『幻の総合商社 鈴木商店―創造的経営者の栄光と挫折』という本が出ていました。
また漱石の細君である夏目鏡子の『漱石の思ひ出』の中のエピソードから、兵庫の禅寺、祥福寺(しょうふくじ)の若い雲水と夏目漱石の交流のお話も出てました。漱石に恩義を感じている雲水が漱石の死を知ったとき、泣きながら神戸の街を歩きまわった様を描いたところは、何度読んでも泣きそうになるとのこと。
かんべ先生の祖父母は、どちらもかんべ先生が生まれる前に早く亡くなられた。また双方とも「造り酒屋」に縁があったとのこと。
■小松左京先生の話
『やぶれかぶれ青春記』から神戸一中時代のエピソードの紹介。ここのモットーは、質実剛健ならぬ「質素剛健」だったとか。また、夏でも冬でも弁当を校庭に立って喰う伝統があったそうです(笑)
実は、これが連載されていた「蛍雪時代」、私はリアルタイムで読んでいるんですよ。一人だけ名乗り出たため、配属将校や教師から散々殴られた話は覚えてました。将校はともかく、尻馬に乗って小松左京少年を拷問したこの教師だけは許せなくて、殺して自分も死のうと本当に考えていたそうです。また、小松少年が友達をかばって、名前を出さずに死にそうな目にあい、ようやく解放されて学校から出ると、その友人達が待っていて喜んだのもつかの間、彼らは小松少年が、自分たちの名前を出したかどうかだけが心配で待っていたと知り、落胆したというエピソード。終戦後、この教師は掌返して、私は元々民主主義者だとのたまっていたとか。小松先生のこの当時のあだなが「うかれ」だったそうで、懐かしい。旺文社文庫からだけかと思っていたら、勁文社文庫からも出てるんですね。
小松先生が、勤労動員されて川崎造船所に通っていたころ、その近くにダイエーの中内功さんの父親が開いた薬局があった話。ただし中内さん本人はそのとき出征中だった。
昭和10年代。二代目桂枝雀師匠(前田達)が灘区中郷町2丁目に、野坂昭如氏(養子先が張満谷家)は、3丁目に住んでいた。神戸空襲のとき、野坂氏は15歳、前田少年は5歳だった。お姉さんと一緒に逃げたのだが、姉が弟をかばい火事に近い側を走り、前田少年は、お姉ちゃん僕は大丈夫だと声を掛けた。後に師匠が落語のまくらで語られたところによると、子供心にもこういう時はそう言わなきゃいけない気がして……だそうです。
戦争中は海軍が睨みを利かせていたので、勝手に海に入れなかったが、終戦後漁が出来るようになり、初めて食べたイワシは、もの凄く美味かった(行商に来たのを小松先生は兄と一緒に買いに行ったそうです)
神戸一中時代、同級だった高島忠夫氏とジャズバンドを組んでいた。当時から芦屋高等女学校の寿美花代嬢は、美人姉妹として美女の誉れが高く、小松先生も電車内で一度話をしたことがあるそうだ。後に高島忠夫が彼女と結婚したとき、小松先生は大いに驚かれたとか。( 『やぶれかぶれ青春記』に高島さんの「神戸一中時代の小松左京と私」という一文が収録されてます)
終戦直後、小松先生が甲子園球場近くの道路脇に戦闘機「雷電」が隠されているのを見つけ、操縦席に乗り込んだ友人が20mm機関砲を操作したところ、弾が発射され死ぬかと思ったという話。これは、かんべ先生が小松先生から、直接聞かれた話だそうです。
これも直接聞かれた話。小松先生が若い時代、尼崎の大衆食堂で炒飯だか焼きそばだかを食べていた時に、旋盤で削った鉄の削りカスが入っていて、小松先生は口の中を怪我した。この体験もあって『アパッチ族』が書かれたのだそうです。公式的には、勤労動員中に腹ぺこになり、煉瓦がパンだったら喰えるのにと言っていた事などが元になったと語っておられるが、この二つのエピソードは、望遠鏡の対物レンズと接眼レンズの関係ではないだろうか。望遠鏡がそうであるように、その二つが組み合わさり、ある位置にぴたりと来たとき対象が鮮明に見え、名作が生まれたのだろう。
■「うかれ」というあだ名
ラジオ大阪の「題名のない番組」を録音した古いテープをかんべ先生が聴くと、米朝師匠は声が若いだけであまり変わりないが、小松先生の声はうわずっていて、ただの調子のいいおっさんにしか思えなかった話。後に小松先生にもその旨伝えたら、笑っておられたそうです。小松先生は、機嫌の良い時は声がうわずるクセがあり、なるほど「うかれ」というあだ名はここからついたんだなぁと思われたそうです。
■開高健氏
小松左京先生の盟友。自伝的小説として『青い月曜日』がある。小松先生は、自らの体験をSF的に一捻りして小説にするが、開高先生は体験が生のまま出てくる。そこが対照的。かんべ先生が雑誌に、故開高健氏に関する連載を書いたとき、小松先生から電話があり「わしの親友のことをまじめに書いてくれてありがとう。あのベトナム戦争体験については、ケン坊が夜中に電話してきて、切々と訴えよったこともあったなあ……」と。
かんべ先生は、開高健先生と小松左京先生が、どの時点かで経験や体験を摺り合わせるような真剣な話し合いをしたのではなかろうかと推測していたそうです。ある程度歳を取ってからの大親友というのは、そういう事実があったからこそではないかと思い、確認したかったのだが、デリケートな問題なので、聞く機会をつかめないまま終わってしまったそうです。
(『むさし走査線』に収録されている山田正紀先生との対談でも、「開高健はスゴイ、あんなもの絶対ぼくら書かれへんもんね」と盛り上がってます)
■かんべ先生の覚えている小松先生のエピソード
かんべ先生がデビューして二、三年という時代、忙しくて頭が疲れた状態になり、執筆できなくなった時に、小松先生にそのことを話すと笑い出して、みんなの前で「おい、こいつスランプや言うとるで」と笑われた。スランプは、もっと一杯本を出してる作家がかかるもんですね、はい(笑)
後で「小説書けないときは、エッセイとか書いてれば、そのうちにまた書けるようになる。」とフォローがあったそうだ。
■小松左京先生に話すと、なんでも大きくしてしまう
「何かあったら何でも相談せえよ」と言われていたけど、そう言われたが故に、なまじのことでは頼ってはいけないと気を引き締めていた。それに、話が大きくもなるし。
NHKのTV番組「テレビファソラシド」の女子アナ頼近美津子嬢が良いなぁと話したら、じゃ見合いするかと言われた。
『笑い宇宙の旅芸人』でSF大賞を受賞したとき、「笑いをえらい学問的に考えてるなぁ、それなら関西大学の教授に推薦したろか」と言われた。
戦闘機や軍艦などのプラモデル作りが好きで、その方面の知識も豊富だったので、航空博物館の館長になるかと言われた。小松先生の言うとおりにしていたら、瀬近嬢を奥さんに迎え、関大の教授になり、博物館の館長にもならないといけなかったかも(笑)
■SF作家になって良かったこと
1975年(昭和50年)に神戸でSF大会があった(SHINCON)。初めて参加者が千人の大台を超えた大会。目玉は、米朝師匠のSHINCON版『地獄八景亡者戯』と筒井康隆先生がドラマーとして加わった山下洋輔トリオによるジャズセッション。これは空前絶後の企画で、小松先生と米朝師匠、筒井先生と山下洋輔氏の繋がりがなければ絶対に実現しなかった。小松・筒井の両先生は、この企画に当たって自腹を切られたんではなかろうかと想像してますとのこと。(詳しくは『SF街道二人旅』参照)
SF大会の時、参加した作家が集まった席上で、星新一先生が「神戸に来たのに、かんべむさしに会えなかったな」と発言されたとき、筒井先生が壁際に立っていたかんべ先生(当時まだサラリーマン)を指して「そこに来てますよ」と。その時星先生がなんとも照れ臭そうな顔をしたのを見て、いっぺんに星先生が好きになったそうです。
そのSF大会の時、初めて小松左京先生に紹介されたのだが、実は広告代理店に勤めていたときに、一度小松先生の自宅に仕事で伺っている。後に、そう言ったところ覚えてらっしゃらないようだったが、その時に確か息子さんがエレクトーンを弾いていたと話すと、あー、そのころの話かと納得してもらえた。
SF作家クラブに入れてもらった当時、毎年鎌倉霊園へ大伴昌司氏の墓参りに行き、そのあと熱海へ一泊旅行をするという行事があった。夜は宴会のあと、麻雀などしながらダベるのだが、そのおもしろさたるや、本当に筆舌に尽くしがたかった。星さん、小松さん、筒井さんを筆頭に、皆が該博な知識を駆使して、多方面にわたる問題を冗談まじりに議論し、とんでもない発想を披露しながら麻雀してる。自分が興味持ってることを話そうにも、会社員時代にはその相手が居なかった。でも、こうして好きなことがしゃべれる幸せを感じた。また同時に好きなことを職業に出来た幸せも感じている。
講演終了後、かんべ先生にご挨拶させていただいたのですが、サインをお願いしていたご婦人が「面白かった〜。作家でこんなにしゃべりがうまい人は他におらへんわ〜」と言われていたのが印象的でした。 |