ダ・ヴィンチ9月号のインタビューで、「ぼのぼの」の作者、いがらしみきおがこんなことを言っている。「今の時代は便利なものがどんどん増えたけど、僕は携帯電話もインターネットも本当はいらないと思う。それがなくなるだけで、世の中はだいぶ良くなりますよ。人工的なものばかりで、やってもやっても満たされない。日本は『不況』と言われていて、みんなモノを買わなくなってきてますよね。それは日本人が実は気づいたんです。いらないモノはいらないんだって。結局、全部ゴミじゃないかって。そういう意味で日本は資本主義の最先端にいる
と思う。」
「それがなくなるだけで、世の中はだいぶ良くなる」・・・実は、無くても全然困らないものをわざわざ作って、あたかもそれを手に入れることが現代人の使命かのように思わせ、消費を喚起する。昨今のテレビ放送一斉デジタル化構想。そこにかつての3Cのような好景気の夢を見るのは勝手だが、双方向でクイズに参加できたり、ショッピングが楽しめたり、ってそんなのおもろいか?それが皆のニーズか?ハイビジョンで放送される映画は確かにハイクオリティだけど、観られるタイトルは局まかせ。ハイビジョン画質で保存するためにまたレコーダーを買うの?・・・
「それがなくなるだけで、世の中はだいぶ良くなる」・・・新しい仕組みを作るとその面倒を見続ける必要がある。その仕組みは人間が作りだしたものだから、その有用性を十分に享受すべきなのに、知らぬ間に主従関係が逆転し、その仕組みを維持していくことに我々は一日の大半を費やしてしまっている。これだけ文明の利器に囲まれている我々なのに、この閉塞感、切迫感、不安感はどうだ。実はむしろない方がよっぽど安穏な日々を送れるのではないだろうか。
ケータイのワン切り騒動。ケータイを持っていない私にとっては茶番でしかないのだが、持っている人々はちょっとでも通じないと我慢ならないのでしょうか。ケータイがあるから、ケータイをみんな持っているから、いつも通話できる状態にする必要がある。だからそれを阻害するワン切り業者を取り締まるための法整備が必要になったり。
私は何故皆がケータイに必死になるのか全く理解できない(持っていないからわからないのかもしれないが)。そもそも電話というのはコミュニケーションツールとして、離れた二者が会話できる、という機能さえ満たされれば良いのではないのか。携帯電話によって、家庭や公衆電話という「その場にいなければいけない」という制約から解放されたことは大きな利点ではあろう。しかし、バリバリの営業マンやエグゼクティブ以外に、四六時中外を動き回っていて、四六時中連絡を取る必要がある人というのはどういう人種なのだろうか。
ケータイの普及率が60%を超えたという。3人に2人は持っているということになる。持っていない私は3人の内の残り1人。多数決なら負けてしまう少数派になってしまった。おかげでNTTは公衆電話を減らすという。必死になって付近の電話を探し、見つかったらICカード専用だった、てなことも往々にしてある。
そもそも、私がケータイが嫌いなのはちゃんと会話ができないことが多いから。よくあんな聞こえにくくて重要な仕事の話ができるものだ。仕事の話じゃなくたって、途中で切れたりすると、再度相手と会話出来るまで気持ちが宙ぶらりんになって不安なことこの上ない。「もしもし、あのさあ、至急・・・ぶちっ」速攻で公衆電話からかけ直してほしいものだ。重要な話じゃなくても、「じゃあ、さようなら」と言って電話を切らないと私は寝付きが悪いし、そういう人間関係でありたいと思っている。
それにケータイは無礼だ。眼前の人と会話しながら手許と視線はケータイに行っている、そんな光景よく目にするし、自分だって飲みに行って相手からそういう仕打ちにあう。デート中のカップルでさえ、隣の男との話は上の空、ケータイチェックに夢中の女。傍目には、そういう状態に置かれている男は相当間抜けに見えるが。
みんな電車の中などでいつもメールをチェックしているけど、そんなに用事がたくさんあるのだろうか。それに、ケータイメールの入力インターフェース、あれもどうにかならんもんかって私は思う。電車でちまちまと文字入力している人、最近殊に増えてきたが、小さい画面と数少ないキー、どんな達人だって指10本を使う通常のキー打ちにかなうわけがない。よく投げ出したくならないものだ(関西弁なら「いーっとなる」という状態)。確かに電車の中で座らなくても電子テキストを作成できるメリットは大きいが、あんな貧弱なインターフェースじゃ、長文を作るのはものすごく能率が悪い。それ以前にそんな気もおこらんか。
私もこのエッセイの大部分は電車内で考えるが、専用のミニ手帳に手書き、後に自宅でPCに清書。実はこれが一番能率的なのである。もし、ケータイのそのあたりのインターフェースが改善されたら私も持つ意義をやっと見いだせる。たいそうに車中でノートPCを広げずとも(持ち歩くのは重いしそのためには座席を確保しなければいけない)、立ったままで入力できるくらいのサイズと重さでキー配置はPCと変わらず、というもの。
例えば、ケータイの長辺側を軸にしてパカっと見開きになり画面とキーボードが現れる、てなケータイが商品化されたら買うぞ。電車内で思いついたアイディアの骨子をつらつらーっと入力、電車を降りる前にメールサーバーに送信。ザウルスやCEマシンがある?いやいや、PDAともちょっと違う。エクセルが動くほどのスペックもいらない。テキストさえ作成できれば。以前はNECのモバイルギアをそういった用途のためにいつも持ち歩いていたけれど、あれでさえ毎日カバンの中は体力的にしんどいです(800グラムぐらいか)。ましてや電車で立って入力なんて、やったことあるけど(笑)ムリムリ。
この文を書くため、実はビックカメラのいつもは立ち入らないケータイ売場でリサーチもしたのである。PDAに外付けのキーボードはあっても、やはり普通のケータイにオプションとしては無いようだ。それに外付けケーブルでつないで、という時点でコンセプトが違っている。
でも、そういうニーズを持つ人ってあまり多くないのかもしれない。私の上記新製品コンセプトを同僚(ケータイバリバリのベテラン)に披露したのだが、イマイチ反応が悪かった。あの変換方式にもすぐ慣れるし、第一メールは車内の暇つぶしなんだと。そんな大層な文を書くでもなく、吊革つかんで片手で操作できる、これがポイントのようだ。
つまり、ちまちま入力だからこそ成り立つ文体での短さ手軽さの会話なのであり、そういう文化なのだ。
しかし、大きなお世話だろうけど、あの親指入力の工数、その通信コスト、日本全国合計したら相当なマンパワーだしリソース消費なんじゃないかと。
オリエンタルランド(TDL)の社長がこんなことを言っていた。「USJはもちろんだけれど、ケータイやCSも強力なライバルだ」ケータイのせいでモノが売れないんだ、という声も聞くし、可処分所得の大きな部分が、およそ創造的ではない(失礼)、例えば飲み会の呼び出しや居酒屋でのツーショット画像なんてものの通信コストに費消しているとすれば、これはもう通信文化が成熟を通り越して腐敗へ向かっているといえば言い過ぎか。ケータイなんて無い方がよほど未来に向かったお金の使い方が出来るのではないだろうか。大きなお世話だ?ハイ何様な発言すいません。
さて、ケータイはおろかインターネットもない無人島に突然放り出される話が「キャスト・アウェイ」だ(今回もうまくつながったぞ)。現代文明、文化的生活の全てがリセットされる時、我々が一から自分で作り直すことがいかに難しく、ひとつひとつを成し遂げた時、その喜びがいかに大きいか。火、水、食物、安全な寝床。トム・ハンクスは飛行機事故唯一の生存者だが、流れ着いたのが南方の孤島。助言をしてくれる上司、知り合い、友に連絡をつけようがない。ネット検索、そんな事も昔はしていたっけ。
私がこの映画で一番身につまされたのは、歯痛に苛まれるところ(どう解決したかは本編を観て下さい)。医者に行けばつらい時はほんの短い間だが、無人島だから誰も治してくれない。放っておいても進行するだけ。これはコワイです。
画質音質もおすすめレベル。dts-ES収録で聴く飛行機墜落シーンは相当の迫力である。また、無人島での一人芝居が話の大半を占めるため、英語が苦手でも、R1モーマンタイだ。
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