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Author Interview

インタビューア:[雀部]

『詩人の夢』
> 松村栄子著/かずふみ装画
> ISBN 4-89456-838-1 C0193
> 角川春樹事務所
> 840円
> 2001.2.18 発行

 書記である運命の親のもとにシェプシがやってきてから六年。自らが決まりを守らなかったため子ども達を保護する役目の詩人<ジェセル>を死に追いやることになってしまったことを悔いながら、詩と音楽に慰めを求め、真実の恋を追求する気がないシェプシだった。そして、シェプシが解読した神の言葉により、禁囲区域であった紫の砂漠も解放され、児童の館が建設されようとしていた。
 天変地異、巫女たちとの確執、戦争の渦中で、シェプシは何を見いだしたのであろうか……

 今回の読みどころは、神の子の隠された秘密かな。前作のような、物語世界の背景そのものに潜む謎の解明という大がかりな仕掛けはないので、SFファンにはちょっともの足らないかも知れませんが、シェプシという若者(未だ性別が決まっていない)を通して、人間性そのものあり方に鋭く迫った作品だと思います。

イマジネーションをぐぐっと喚起してくれて面白いですね

雀部 >  今月は、『紫の砂漠』『詩人の夢』でSF&ファンタジーファンの心を虜にしてしまわれた松村栄子さんです。松村さんよろしくお願いします。
松村 >  よろしくお願いします。
雀部 >  もっと早くインタビューをさせて頂きたかったのですが、私がぼーっとしていて気が付いたときは、松村さんが不在になられる(世界一周旅行に出かけられるため)直前だったので今になってしまいました。『詩人の夢』('01/2刊)が出てからちょうど一年ということで、お許し下さい。
 松村さんのホームページを拝見しますと色々な国を訪問されたようですが、特に印象に残った国とかはおありでしょうか。
松村 >  船旅ですと、一カ所にそう長くはいられないのですが、ゆっくり回れたという意味でアンコール・ワット周辺が印象深かったです。特に周辺の小さな遺跡は観光客も少なく森閑としていて、月並みですが時の流れといったものを感じることができました。
 異なる民族が異なる時代に造ったものというのは、そのワケのわからなさがイマジネーションをぐぐっと喚起してくれて面白いですね。
 タ・プローム寺院では木の根が建物を抱いている様子に「天空の城ラピュタ」みたいだと思ったり、ニャック・ポアンでは池の中に神馬の像が建っている様子に「もののけ姫」のシシ神を想像したりもしていました。

 もうひとつの楽しみはエジプトのルクソールへ行くことだったのですが、これは折悪しく旅の途上で起こったNY同時多発テロのために航路変更になり、断念せざるを得ませんでした。

 地球を一巡りした中で最も印象に残ったのはどこかと聞かれれば、リビアのレプティス・マグナ遺跡だったと思います。これはローマ時代の巨大遺跡ですが、真っ青な地中海を背景に円柱の林立するさまは圧巻です。まだ観光化されて日が浅いので、古代の遺跡を肌で感じることができました。リビアにはもちろん砂漠もあります。この砂漠の民トアレグ族の存在も、うっとりするほど素敵でしたね。
雀部 >  レプティス・マグナ遺跡を見ると他の遺跡はつまらなく思えるとは良く聞きます。
 確か映画「グラデュエイター」の舞台にもなったし、最近ではCMにも登場してました。私は行ったことがないのですが、素晴らしいところみたいですね。
松村 >  そうでしたか。わたしは自分が行くまでその存在をまったく知りませんでした(^_^;)
雀部 >  いえ、私も良く知っているというほどでもないです〜(汗)
松村 >  アンフィ・シアターという場所がありましたが、たしかにグラディエイターそのものという感じでした。あんなに綺麗な海を背景にして、なんで流血試合を見物したいという気持ちになるのか、理解に苦しむ場所でもありました。

そこに救いを期待してしまっては自己矛盾なんですね

雀部 >  全く、人間てヤツは〜。
 『紫の砂漠』の中では、生まれた子供は七歳までは生みの親と暮らし、その後の七年間は運命の親の元で育てて(修行させて)もらいますよね。リビア付近は、紛争の絶えないところなんですが、例えばアメリカとアラブ世界で、同じ様な子供の総取り替えが社会習慣として行われていたら、紛争は減るもんなのでしょうか?
松村 >  少なくとも人種差別を根とした紛争は減るでしょう。与えられた子供をかたっぱしから殺さない限りは、やがて混血が進んで人種の差が消える理屈だからです。
 ただ、今アメリカがしているような、おのれの利益のための(「報復」とか「正義」とかいう言葉は子供だましにしか聞こえませんよね)争いは消えるとは思えません。そのときに国民ひとりひとりの「親子の情」が為政者の前に立ちはだかる壁になれるかどうかは、はなはだ疑問です。その社会習慣が永続的なものになったときには、人間の親子感情というようなものも根底から変わっている可能性もあるし、そうでなくても、教育や情報操作でいくらでも断ち切られてしまう可能性も、また実例もあります。

 そもそもわたしは「血縁」とか「肉親」とかの絆は鬱陶しいじゃないかという観点から作品を書いたので、そこに救いを期待してしまっては自己矛盾なんですね。
雀部 >  そうですね、『詩人の夢』を読ませていただいた感じでは、(特に日本的な親子の情愛的な)血縁関係は鬱陶しくて、例えば戦争になったときなど、あの村には、あの子(親)が居るから戦うのは止めるとかいう絶対的な抑止力にはならないであろうと感じました。
 子供はジェンダーを強制されることがなく、真実の恋に出会って初めて自らの役割を選び、その時性別が決定されるということは、この世界の人々は、現代女性が感じているような、ジェンダーによる社会的抑圧からは解放されているという事でしょうね。
松村 >  そのつもりです。この小説にはあらかじめ綿密な構成があったわけではなくて、好きなものばかりを並べたらさぞかし気持ちがいいだろうとお気楽に書き始めたものです。ジェンダーの抑圧のない社会は、好きなもののひとつとしてありました。
 最初に考えたのは、単純に性別のない世界だったと思うのです。ですが、それはたとえば男子校とか女子校とかのようなもので、単一の性の中でもやはり何か役割分担的なものが生まれそうな気はしますよね。第一、生殖の問題をどう解決すればよいのかわかりませんでした。
 そもそも、なぜ人類は今ふたつの性に分かれているのでしょうか。生物には単性生殖をするものも両性具有的なものも存在するのに、人類はそうではない。というか、雌雄の別のはっきりしないのは原始的な生物ばかりです。
とすると、このシステムには何か種の保存とか進化といった面で有利な点があるはずです。思いついたのは、
  1)他の個体の遺伝子を取り入れながら生殖することで抵抗力と多様性を増していく
  2)ペアを組み役割分担することで、弱点をカバーしあう(いわゆる身重の状態で外敵にさらされずにすむなど)
というようなことです。好みは別として、性差があること自体は必ずしも悪というわけではないのだな、と。

 ところで、人々がジェンダーによる抑圧から解放されるためには、方法が二通りあります。〈社会が抑圧しない〉か〈個人が抑圧と感じない〉か。
 〈真実の恋〉というシステムは、後者を具現しているのだと思うのです。
雀部 >  思考実験ですね。最近、女性作家の方でも、松村さんのように論理的に物語を構築されていると思われる人が増えてきたのは喜ばしい限りです。(あ、これもジェンダー発言かぁ。訂正、男でも女でも論理的に考えられない人は多いです)
松村 >  うーん、論理というものをあまり信用しすぎるのも危険だとは思うのですが。どんな論理でも、とことんまで突き詰めていくとメビウスの輪のように表裏逆転する地点がありませんか? わたしは物事を考え始めるといつもそういう結果になってしまいます。厳密に言えば結論というものが出ないのですね。だから世の中で論理的だと言われている人々は、もしかしたら中途半端に論理的なのであって、非論理的だと言われている人々のほうが、過程をすっ飛ばしてむしろ結果的には論理的なのかもしれない……というような抽象的議論自体がすでに論理的でないかもしれないから、やめます……(^_^;)
雀部 >  はい、女性の直感というのは侮れないというのは身にしみて(汗)
松村 >  で、〈真実の恋〉に話を戻しますと、このネーミングは自分で発音するのも恥ずかしいくらいなので、どうにかならないかと思うのですが、他に言いようがないので〈真実の恋〉で我慢してください。
 ここで〈守る性〉と〈生む性〉が分かれているのは、社会的なジェンダーの概念によってではありません。そうではなくて、二者間の関係についてだけなのです。社会から、「おまえは女性なのだから子を産め」と言われれば拒絶反応を起こす女性は多いと思います。でも、もしも愛し合ったひととの間に子供がほしいと思い、どちらかが子供を生まねばならない、どちらかがその間自分たちふたりと生まれてくる子を守り養わねばならないという状況に至ったとき、これはどちらがよりその仕事に適しているかという二者間の相談になってくると思います。どちらも不向きだというカップルも、もちろんいるかもしれません。それでも、どちらがより向いているか、好ましいかと無言の相談をするうちにおのずと答えは出てくる。なにしろ彼らは競い合うライバル同士でも責任を押しつけ合う敵同士でもなく、愛し合うふたりなのですから。
 もちろん、互いの適性を逆転させる答えが出たとしても、ふたりさえ了解すればそれでかまいません。このときに妥協が成立しないということは、「そこまでしてこいつと一緒になりたいとは思わない」ということですから〈真実の恋〉ではないという理屈です。シェプシとジェセルの場合は、「そこまでしてこいつを自分のものにするのはしのびない」という無意識が障害になったのではないかと思うのですが。
雀部 >  ありゃ、そうなんですか。この二人の結びつきは深いように読みとれたのですがそうでもなかったのか。
松村 >  どう読まれましたか? できれば聞いてみたいです。もちろん正解をわたしが握っているわけではありませんから。
雀部 >  切なげに泣くジェセルを見たシェプシが、守る性になりたいと思う場面がありました。あそこでもう一押しがあれば、真実の恋に落ちたんじゃないかと感じてたのですが、いま思うとジェセルとシェプシは、よく似てますよね。似ているがために引かれ合うけど、お互いに補完しあうことということはない故に、真実の恋に陥らなかったのかなと感じてます。
松村 >  なるほど。それは意識したことがなかったけれど、ひとつの真実でありそうですね。わたしが意識していたのは、恋愛における理性の妨害みたいなことだったと思うんです。やはりある瞬間、〈馬鹿〉になれないと恋愛は成立させられないですから。
雀部 >  そうですね。愛は盲目とも言いますから(笑)恋愛感情というものは、ある種のウィルスの感染によって引き起こされる心神喪失の一種だというアイデアで、短編を書いた女性SF作家もいらっしゃいます。
松村 >  もう一押しあれば真実の恋に落ちたというのは、そのとおりだと思います。守る性でも生む性でも、シェプシにとってはまったく問題なかったわけで、どちらかを選択すればよかっただけなのに、あまりにもこだわりがなさすぎて選べなかったという言い方もできます。シェプシの場合は、まったく自力で決めなければならなかった(ということになっている)ので、なおさらです。関係性の中の揺らぎで定まるものが、針がゼロからどちらにも振れなかった……雀部さんのおっしゃることは、こういうことでしょうか。
雀部 >  そういう感じですね。もしジェセルから「慰めて欲しい」とかの一言があったなら、その瞬間に〈真実の恋〉に落ちていたんじゃないでしょうか。
松村 >  ええ、そう思います。
 それで性的抑圧の話に戻りますが、 いったん二者間の了解ができて性が決定すると、身体的にも心理的にもより役割に特化した成長を互いはとげるので、性同一性障害的な違和感や抵抗は生まれない。わたしはいわゆる女性らしい女性を羨ましいと思いこそすれ批判する気持ちはありません。もちろん、他者に依存しすぎる甘えというようなものは、男女を問わず、まず人間としてどうかとは思いますけれど。

 けれども、理想的だと思えたこのシステムの元でも、やはり、そこからはみ出して苦しむ者はいます。〈真実の恋〉は、〈社会が抑圧する〉部分までは消すことができませんでした。
 それは、〈守る性〉だから〈生む性〉だからどうこうという抑圧ではなくて、性のない者に対する無言の抑圧という形で現れてきました。『紫の砂漠』を書いていて学んだのはそういうことです。100%の正解、完璧な理想郷はないんだなと。
雀部 >  『ファイナルジェンダー』という作品でも、男女どちらかを選べなかった中性の存在は、社会から忌むべき(馬鹿にされた)存在として登場してきますね。ここらも人間の限界でしょうね。
松村 >  かもしれないけれども、わたし自身は、大多数の幸福からはみ出して苦しむ詩人やシェプシのほうにつねに共感を覚えてしまう…。

 それで、彼らを救う道を捜して『詩人の夢』に出てくるのが〈神の子〉という概念です。この子たちは、肉体としての母胎を必要とせずに生まれてきます。であれば、〈生む性〉も〈守る性〉もいらなくなるはずです。性のない者も新人類として大手を振って生きていける。そのときに生まれる恋愛こそが、きっとわたしの理想とする、人間対人間の純粋に精神的な結びつきに違いない。という仮説にもとづいて。

そういう自分に対して反証を並べているというか

雀部 >  さすがに考察が行き届いてらっしゃいますね。ファンタジーでも、そういうところまでね気を配って下さっていると、背筋に一本太い柱が入っているようで、安心して読めます。
 で、私が感じたのは、作中では、親子の情愛は否定はしてないけれどそれほど重要であるとは思われていない(今の世の中、親が子供の学業とか進路に色々口を出すのは、子供の側からすれば鬱陶しい以外の何物でもないでしょう)しかるに<真実の恋>によって結ばれた相手となら身も心も縛られあいたいと。この愛に対するambivalentな描き方からすると、作者はきっと欲張りな人に違いないと思いました(笑)
松村 >  かもしれません。恋愛至上主義者である自分を否定しません。まあ、作者がどういう人間であるかはどうでもいいとして、もちろん、世の中で一番カッコイイのはひとり孤高に生きて不足を感じない人間です。そういうひとにわたしはなりたい(^_^;)。
 ただ、そこには〈物語性〉の生まれる余地がないのも確かなことで、登場人物としては、美しき敗者のほうが書きやすいのです…。

 親子の情愛よりも恋人や夫婦の情愛を優遇するのは、ひとえに〈意志〉的な関係かいなかの差によります。
 こんなこと語っても仕方がないのですが、正直に言えば、わたし自身はこの世に生まれてくることが最大の不幸だと考えている人間で、どれほどの幸運や歓びが人生にあったとしても、それがこの不幸を補うことはあり得ないと感じています。その意味において、原罪を負うのは〈創造主〉であり、次に罪深いのは〈親なるもの〉です。だからこのひとたちにはとても冷たい。物語の中では、そういう自分に対して反証を並べているというか、形だけみれば、だいぶ譲歩してもいますが。
 そのように淋しい人間なので、生まれたくもない世界に生まれて途方にくれて、どうしたってしがみつくものがほしくなるけれども、親は対象でないとすれば、答えはひとつしかなくなってくると思うのです。同じようによるべなく漂う孤独な魂です。この結びつきには、だから生死をかける(本人にとっては実に安っぽい生ですが)価値があると思う。恋愛至上主義というのも、〈真実の恋〉というのも、そういう意味です。
雀部 >  生まれてきたのが最大の不幸ですか。う〜ん、私もなんで生まれてきたんだろうと考えていた一時期がありましたが、それは死ぬのが怖い(自分が死んだ後も、何の変化もなく世界が続くかと思うと癪に障るというのもあった)からでしたが。
 普通親子の情愛は永続的であるけど、恋愛は激しく燃え上がるものの、いつかは冷めるとか言われますよね。
松村 >  厳密に考えれば、もちろん〈真実の恋〉で性別を決定した後に、心変わりすることも役割を負担に思うことも、それはあるだろうと思いはしました。
それをどこまでも突き詰めていくと、肝心の砂漠がどこかへ行ってしまうのでこの作品の中では深追いしませんでしたが。

このことの難しさには書いてみるまで気づきませんでした

雀部 >  そりゃ、そういう例外を書いてしまうとインパクトが薄れてしまいますね(爆)
 ところで、仕事を持った女性はあまり出てきませんよね。自分で選んだ性別だから、その人が元々そういう性格をしているのかなぁ。
松村 >  さきほどの言と重複しますが、〈生む性〉を選んだときから家庭内の仕事に向いた性質を開花させていくのですね。仕事って、何も外でするだけが仕事ではないでしょう。炊事洗濯も他人(家族も含めて)のためにすれば立派な仕事だという意味では。そしてこの砂漠の社会では、家事仕事にいそしむ妻や母を疎外はしないのだと思います。というか、基本的に資本主義社会ではないので、外で稼ぐとエライという感覚はないのではないでしょうか。生産は家族単位で分配されているのかな(無責任ですみません)。
 では、女性は家にいればよいというような社会なのかというと、多分そうでもない。そう読まれたなら、きっと書き方が悪かったのです。たしかに世話のかかる幼い子供のいる母親は家にいるようですが、たとえば『紫の砂漠』では、イマトは薬草摘みを仕事にしているし、星見の巫祝も一応、巫祝稼業で生計を立てています。『詩人の夢』では、シェプシの母もイブも保育所で働いていますし、セベアは天文学の導師を、二の書記も女性ですが指導的立場にいます。
 ただし、わたしは心地よいファンタジーを書きたかっただけなので、あまりフェミニズム色を色濃く出したいとは思わなかったのです。できればそんなものは隠れていたほうがいい。
雀部 >  良かった(笑)あまりフェミニズム色を出されると、男の読者としては引いてしまいます。特に物語の流れを阻害するほどだと、読み続けるのも苦痛で(泣)
 そういえば、確かに作中では女性も仕事を持ってますね。
松村 >  女性の権利を追究すれば、どうしたって男性の権利も追究せざるを得ず、結局、権利闘争のお話になってしまいますね。
 なにより、それはストーリーの背景にすぎない部分なので、全部説明しようと思うと、ファンタジーの場合はすべてが空想だから世界をまるごと説明する百科事典を編纂してからでないとお話が始められないことになってしまう。このことの難しさには書いてみるまで気づきませんでした。あまり現実とかけ離れた設定をしてしまうと大変なことになるんですね! 天体の設定とか、方角の設定とか、ストーリーに関係のない些末な部分で頭がこんがらがってます。
雀部 >  ですね。菅浩江さんも『暁のビザンティラ』という本で、公転周期なんかに納得がいかなくて、ハードSF研の橋元淳一郎さんの助け船を呼ばれてました。
松村 >  わたしは、お月様関係のMLの方に救いを求めました。周期のグラフまで書いてくださって、いやー、わかるひとにはわかるのだと尊敬してます。そういう細部を考えているほうが楽しいですね。

フェミニズムSFという一分野

雀部 >  やはりそうなんですか。あまり表には出てこないんですが、そういう背景がきちっとしてますと、読んでいて安心できますから。
 松村さんは、海外の、いわゆるフェミニズム系の小説は、お読みになられるのでしょうか?
松村 >  たとえば、どのようなですか?
雀部 >  『紫の砂漠』の後書きで、高原英理さんが『闇の左手』との関連を指摘されていますね。これとかジョアンナ・ラス女史の『フィーメール・マン』とか「変革の時」なんかですね。私としては、グイン女史は社会学的な方に視点が向いているので、個人的な問題を突き詰めるスタイルの松村さんとは、少し違う気がします。またラス女史は、どちらかというと女性同士の連帯を大事にされる作家だから、こちらも少し違う気はするのですが、先鋭的なフェミニズムSFというと、やはりこの人かな。
 共同体の感覚が幻想に過ぎないという思いのもとで、人間の孤独と深い悲しみを描き、孤独を自覚することによって初めて他を求める心が生まれると信じているケイト・ウィルヘルム女史に近しい感じを受けています。作品的には『鳥の歌はいまは絶え』ですか。『クルーイストン実験』は少し違うかも知れませんが。
松村 >  『闇の左手』は読んだことがあります。たしかカヴァー裏の梗概に〈性差のない世界〉というような意味のことが書いてあったのでワクワクしながら読んだのに、わたしの思うところとはだいぶずれていてがっかりした記憶が。
 ですから、高原さんが書いてくださった解説の「『闇の左手』に、ある種の不満を感じた読者からの、新たな想像力の展開」という記述には、自分ではまったく意識していなかったけれど、なるほどそのとおりだと感じ入りました。

 他のおふたりのことは、不勉強で何も知りません。面白そうだから読んでみますね。
雀部 >  今は無きサンリオSF文庫ですから、難しいかも知れませんが(泣)
松村 >  残念ですね。それにしても思ったよりもジェンダーがらみのご質問が多いので不思議に思っていたのですが、SFとジェンダーは相性のいい取り合わせなのですか? わたしは今ここで言われるまで、『紫の砂漠』がSFに属すという認識はなかったので、いささかぽかんとしているのですが、伺っていると、SFにはそういう作品がかなり多いのですね? さきほどの『ファイナルジェンダー』というのは、どなたの作品でしょうか。なんだか、未知の宝の山がそこにある、という感じで、金属探知機が鳴り続けているようなんですけど(^_^;)。
雀部 >  ジェイムズ・アラン・ガードナーという男の人です(ハヤカワ文庫SF)
 まあフェミニズムSFという一分野を形成してますから、それなりに多いのかなぁ。ただこの作品は、本質的にはフェミニズムを味付けに使った冒険小説だと思います。あと、ブリン氏の『グローリー・シーズン』という女性のクローンが人口の殆どを占めている世界を描いた小説もあります。でも、やはり男性の書いたのは、フェミニズム小説じゃない感じはします(笑)
 一番手に入りやすくて、フェミニズムSFを如実に味わえるのは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア女史の短編でしょう。「接続された女」「男たちの知らない女」(『愛はさだめ、さだめは死』所載、ハヤカワ文庫SF)とか「ラセンウジバエ解決法」(『星ぼしの荒野から』所載、ハヤカワ文庫SF)なんかは、お薦めですね。
 『紫の砂漠』は、ファンタジーの衣を被ってはいますが、その骨格(伝説)には、確固たる裏付けがあり大変感心したのですが、SF系の小説はよくお読みになられるのでしょうか。ホームページの"Best2001"では、スタージョン氏の『人間以上』があげられていますけど。
松村 >  スタージョンに出合ったのは、ほんとうにごく最近なのです。発想の奇抜さとそれを飲み込んで当たり前のように流れるストーリー構成にびっくりしました。あそこにある〈シジジィ〉という概念がとてもわたしの肌に合います。

 特にSFというジャンルを意識して読んだのはかなり昔で、あまり細かくは覚えていませんが、小説でいうとJ・Gバラードやブラッドベリが好きだったと思います。影響を受けている度合いでいえば、萩尾望都や竹宮恵子のコミックのほうが小説よりもはるかに大きいかも知れません。
雀部 >  私が入っていたSFファンクラブで、初めて会合に出た時に聞かれたのが「『アラベスク』と『エースをねらえ!』とでは、どちらが好きか?」なんですよ。全然SFではないですけど(爆)
松村 >  わたしなら『アラベスク』ですね(^_^)
雀部 >  あ、私も『アラベスク』派なんですよ。カミさんが熱狂的ファンでして(汗)
松村 >  そういえば、昔、白泉社文庫の『アラベスク3』に解説を書いてます。
雀部 >  うちにあるのは、昔のヤツ(全8冊)だったので、本屋さんで見てきました。
 ひょっとして、いじけのノンナのキャラが登場人物に入っていたりして(笑)
 萩尾望都さんや竹宮恵子さんとかの少女漫画は、SFファンの定番品ですね。
 共通したところというと……少年愛の美学かな。
 少年愛というと、なんかユニセクシャルな感じがするのですが、そういうところは『紫の砂漠』『詩人の夢』にも見られるような気がしました。
松村 >  そういう点が見られるというような生やさしいものではなくて、そのものなんですね。ファンタジーを書いたのが初めてだということもありますけれども、自分の目から見て、登場人物のすべてがいかにもステレオタイプなんです。もうちょっとよく考えてオリジナリティのある人物設定をすべきだったというのが反省です。もしもまたチャレンジする機会があったら、スタージョンのように、どこにもいない個性的な人物を描き出したいものです。

〈シジジィ〉という概念

雀部 >  ありゃ、やはりそうでしたか。
 ところで、〈シジジィ〉という概念は、どこが肌に合われるのでしょうか?
松村 >  この言葉はもとは細胞学とか天文学とかから来ていて、どうもニュアンスが一定しないのですが、グノーシス派やユングが用いたのは、欠けていた自己を補って完全なる存在に戻った状態、あるいはそのカップルの意味でだと思うのです。本来人間はまんまるで欠けたところのない完璧な存在だったものが二つに分かれて半身を求めさまよっている、その半身を得ようとして恋をするのだとプラトン(だったかな?)は言っていたでしょう? だから、相手は誰でもいいわけではなくて、ほんとうに自分の隙間にぴったりはまる相手はこの世に1人しかいないわけです。ちょっと〈真実の恋〉に通じるところがあります。ちなみにここでは男性×男性、女性×女性、男性×女性の組合せすべてが等価です。

 これを、秋山さと子氏は〈愛情乞食〉の対義語として用いています。どちらも社会的にはミュータントと呼べそうな存在なのですが、愛情のあり方が対称的です。〈愛情乞食〉たちの愛は、社交的で集団的で獲得的。恋人ならばいつも自分のことを思っていてほしいし、いつも一緒に行動したがるようなタイプ。これに対して〈シュジュギュイ〉はすでに自己完結的なのであまり他者の存在を必要としない。基本的にひとりでいるのが好きなので恋愛や友情もどこか淡泊。ですが、決して冷たいわけではなくて、優しさを示すとき、その優しさはむしろ純粋で見返りを求めるようなものではないのだと…。
 この〈シュジュギュイ〉は単に表記がちがうだけで〈シジジイ〉のことです。
 そして、〈シジジイ〉の概念を最もよく伝えているのは、スタージョンの小説らしいということで、彼の作品に出合ったわけです。が、肝心の作品は『一角獣・多角獣』という短編集に収められている「反対側のセックス」という作品だというところまでわかって、この本がまったく入手できないでいる状態です。どなたかお持ちではないでしょうか?
雀部 >  なんとなく分かってきました。
 自分の欠けた半身を求めるというのは良く聞きますね。
 『一角獣・多角獣』は、早川書房の異色作家短編集シリーズなんですが、再版されたとき、なぜかこの短編集は出ませんでしたから入手困難なんですよ。
 でも、こうしてWebでつまびらかになると、どなたかから申し出があるかも知れませんよ。
 さて、私は『紫の砂漠』を読んで、慌てて芥川賞受賞作の『アバトーン』を買いに走ったという困った人間なんです。(結局古本で買う羽目に^^;)
松村 >  別に困った方ではないと思います。実にまともかも(^_^;)
雀部 >  SFファンとしてはまともかも知れませんが(笑)
 で、同書で鉱物研究会というサークルが出てきますよね。そして『紫の砂漠』のあの紫の鉱石が砕け散った欠片で出来上がった幻想的な砂漠のイメージを思い起こすと、松村さんはかなり"石"という無機物に思い入れがあるのではないかと推察するのですが、どうなんでしょうか。
松村 >  思い入れ……決してマニアではないのですが、好きです。先日の旅行でも、サハラで大きな〈砂漠の薔薇〉を買ってきてニコニコしてます。なんというのでしょうか、石が欲しいのではなくて、石になりたいみたいな好感です。だから、レプティス・マグナのような石の廃墟でゾクゾクしてしまうんですね、きっと。おっしゃるとおり、石に限らず無機的なものが好きです。黙って、冷たく、ただそこにあるだけ、というようなもの。たとえばステンレスのやかんとか(^_^;)
雀部 >  ステンレスのやかんもですか。う〜ん、恋愛至上主義と無機物かぁ。鉱物も、いわば自己完結的な存在ですから、綺麗なと言うだけではなく、そういうところからもお惹かれになるんでしょうね。
 今回は、旅行帰りのお忙しい時に、インタビューさせて頂きたいへんありがとうございました。少しでも多くのSF・ファンタジーファンが、松村さんの本の魅力に気が付いてくれるようがんばって布教したいと思います。
 最後に、これから出される予定の本がありましたら、お聞かせ下さい。
 どうぞ、その中にファンタジー的な作品も含まれていますように(笑)
松村 >  こちらこそ、いろいろと教えていただいてありがとうございました。

 わたし自身は、今、書きたい気持ち満々なのですが(構想から始めなければなりませんが)、どうもずっと他者に時間を奪われ続けている状態から抜け出せなくて、それで長旅に出てみたけど状況は悪化するばかりで、予定が立ちません。ただ、願望としては、形やモチーフはどうであれ、神とか宇宙とか存在論とかにつながる骨太の作品を書いてみたいと思っています。そういう場としてファンタジーがもっともふさわしいという手応えはつかんだと
思うのです。
雀部 >  神とか宇宙とか存在論というと、骨太のSFが得意とするテーマでもあります。非常に楽しみですので、よろしくお願いします。あ、SF、ファンタジーは問いませんから(笑)
(注):シジジイ現象
 シオドア・スタージョンの『夢みる宝石』に出てくる水晶たちが、それぞれの体の一部を一時的に融合させ、ふたたび元にかえることによってたがいに相手の一部を獲得するという単為生殖生物の生殖方法を模した概念。
 なお、有性生殖という、一見まどろっこしく不経済な方法を多くの生物が獲得したのは、そこに入り込んできた有害な寄生体に対抗するために宿主側が編み出したもっとも有力な対抗手段であるとの見方が主流です。当初、単細胞生物はただ、全部が同じ遺伝子を持ち、接合と配偶子の交換だけで遺伝子のシャッフルを行っていましたが、その細胞質に有害な寄生体が入り込み、それが配偶子に乗って全体に広がって行くようになりました。それを排除するために、細胞質を持たず遺伝子だけを詰め込んだ核からだけなる配偶子(精子ですね)を持つ突然変異体が生じ、これが種個体群全体の半数にたっしたところで平衡状態に固定されたとされる説が一般的です。

 

[松村栄子]
静岡県生まれ。筑波大学比較文化学類卒。'90年に『僕はかぐや姫』で海燕新人文学賞、'92年に『至高聖所(アバトーン)』で第106回芥川賞を受賞。著書に、『あの空の色』『生誕』『ひよっこ茶人の玉手箱』など多数。
[雀部]
48歳、歯科医、SF者、ハードSF研所員。
ホームページは、http://www.sasabe.com/

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