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Author Interview

インタビューア:[雀部]&[児島]&[真殿]

『超短編SENGEN』
> 本間祐著
> ISBN 4-944164-87-4 C0093
> 澪標
> 1400円
> 2002.4.20発行
収録作:
 49の超短編が収録されています。
 個人的には、計算と題された10作品が特に大好きです。
 このちょっぴり数式を交えた作品群は、ユニークで面白く、しかも考えさせられるという傑作揃いです。

一般の読者には馴染みのない言葉ですよね。

雀部
児島
真殿
>  今月の著者インタビューは、四月に澪標社から『超短編SENGEN』を刊行された本間祐さんです。本間さんよろしくお願いします。
本間 >  よろしくお願いします。児島さん、真殿さんとは最近もお会いしましたが、雀部さんとお話するのは「ソリトン」以来で、なんだかとても懐かしいです。
雀部 >  あれ、そうでしたっけ?(^_^ゞポリポリ
 井上雅彦さんの<異形コレクション>なんかで作品を拝見していたし、“まぐまぐプレミアム”で毎日配信される超短編のメールマガジンを読ませていただいているので、久しぶりという気もしないんですが(爆)
 超短編というと、わがアニマ・ソラリスでも特集が組まれましたが(特集記事) どんなものかは、読んでいただくのが一番だとは思うのですが、一般の読者には馴染みのない言葉ですよね。
本間 >  わっ、まぐプレ読んでいただいてるのですか。ありがとうございます。有料なので申し訳ないです。
 超短編って、耳で聞くと「長短編」だと思う人もいるみたいです(笑)。書店でも『超短編SENGEN』が時々、詩のコーナーに置かれたりしてますから、世間での認知度はまだまだです。ある書店ではなぜか女性エッセイのコーナーに並んでいました。面白いのでそのままにしておきました(笑)。
雀部 >  わはは、本間祐子さんという方がいらっしゃるのかな(爆)
 まぐプレは、毎日楽しみにしているんですよ。ウェットな作品あり、ユーモラスな作品あり、パズル的な作品ありで(有料といっても、100円/月)
 では、どういった作家の本が有名なのでしょうか。
 また、その文学史上の位置づけはどうなるのでしょうか?
本間 >  日本では96年に出版されたバリー・ユアグローの超短編集「一人の男が飛行機から飛び降りる」(新潮社)が、けっこう話題になりました。超短編という名称は、94年に出た「Sudden Fiction 超短編小説集70」(文春文庫)がおそらくはじまりだと思います。この本の共訳者だった村上春樹さんがSudden Fictionの訳語として案出したのです。
 あと有名なのは世界各国に翻訳された「恐竜」の作者、アウグスト・モンテローソでしょう。ラテンアメリカにはMicrorelato、Microcuentoという超短編的な文芸の伝統があって、多くの作家が書いています。モンテローソはホンジュラス生まれで、現在メキシコ在住。メキシコでは大変な名声を得ている人ですが、日本ではほとんど作品が紹介されてなくて残念です。
 超短編の文学史上の位置づけというのは難しい問題です。ラテンアメリカでこうした短い文芸が最初に開花したのは1917年とされていますが、日本では稲垣足穂が1919年に「一千一秒物語」を書いていますね。同じ頃、カフカなどもその種の作品を書いていますから、世界のあちこちで同時発生的に生まれたといえるかもしれません。でもね、私が思うに、超短編的な作品の誕生はもっと以前にさかのぼれるんです。今、ゲラ校正中の「超短編アンソロジー」(ちくま文庫)の裏表紙の解説にも、「90年代、超短編という呼び名が生まれる前からそれは存在した」という意味の文章を載せましたが、非常に短いお話というかたちの文芸は、詩やエッセイ、箴言といったジャンルの中に幅広く見られるもので、その意味では古くから私たちも目にしていたんです。ただそれをひとつの表現形式として呼ぶ名称がなかっただけのことで。
 それがなぜ20世紀の前半に現れ、今またこうして世の中に出まわりはじめたのかという問題はものすごく興味あるテーマです。最近また再評価されているマクルーハンとも関係あるかもしれないし、SFっぽく言うと、物語のネオテニーという面からもとらえられそう。まあそのへんは他で書いたりもしましたし、ここでは長くなるので、またいずれ。
雀部 >  そっか、稲垣足穂さんか。なるほどね、最近始まった形式ではないのですね。
 日本には短歌とか俳句・川柳の伝統がありますので、もっと広く一般に浸透してもおかしくないかな。
本間 >  こういう短い表現への関心は潜在的にかなり高いと思うんですよ。私は昔から短編小説が好きでしたし、SFはオールドファンなので、シマックの「都市」やブラッドベリの「火星年代記」、ああいう短編の連作ものが大好きでした。詩でも尾形亀之助や丸山薫の短詩にすごくひかれました。亀之助なんか今でも読み返してます。長いものでは出せない味があるし、心のすきまにふっと入り込んでくる短さにひかれる読者って、私のまわりにはかなりいます。
 書き手の面からいうと、短いと、誰でもつくれそうな気がしますよね。そのへんが垣根の低さになって、短歌、俳句、川柳では書き手の裾野の広がりをつくっている。超短編はお話のかたちになっているところが特徴で、そこが短歌、俳句、川柳とは違う面白さで、書き手の創作意欲を引き出してくれるんじゃないでしょうか。
 でも、こんな理屈は抜きにして、超短編は自由でのびのびした表現が楽しめるジャンルなので、そのへんのところを楽しんでもらうのが一番かなと。短さは制約ではないです。短いからいろんな表現が広がるというところがわかってくると、書くのが楽しくて仕方なくなるでしょう。

計算シリーズのヒントは認知科学なんです。

雀部 >  そうですね。私も超短編を何作か書いたことがあるのですが、短いと自分にも書けるんじゃないかという気になってきますよね。
 『超短編SENGEN』のなかでは、計算と題された10作品が収録されてますよね。あれが特に大好きなんです。以前に、プログラミング言語で書かれた超短編を書いたかたがいらして、分かる仲間内では大いに評価されていたのですがちと一般受けは難しかったようなんです。でも、このちょっぴり数式を交えた作品群はユニークで、しかも考えさせられますよ〜。
 そこで、このアイデアはどういうところから思いつかれたかお聞かせ下さい。
本間 >  計算シリーズのヒントは認知科学なんです。人間の意識にスポットを当てて、言語学、論理学、心理学、コンピュータサイエンス、哲学などを横断して研究する最前線の分野で、人工知能とかの開発のベースになってます。その基本になる考え方は、人間の思考や感情は計算できるというものです。ある大学の講座で認知科学を知った時、世界中の頭のいい学者たちが、一生懸命に思考や感情を計算式であらわそうとしている姿に衝撃を受けました。私は人間の心の動きは計算という概念とはなじまないと思ってたのです。よしんば計算式であらわされるとしても、文字どおり計算できるということとはまた別だと。講座がすべて終わった時点でも、私の疑問はとけませんでした。
 でも、ものを書く目で認知科学を見直すと、面白いんですよ。なんでも計算してみたらどうなるかってね。そんなことを考えているうちに、イソップとの組み合わせを思いつきました。イソップ寓話は末尾に必ず教訓がくっつくわけですが、計算シリーズでは証明がくっつく。スタイルができあがると、あとはどんどん書いていくだけ。というわけで、このシリーズは好評で、「超短編SENGEN」を読んだ方からの反響も一番多いです。私が計算に弱いので、誰にでもわかる易しい数式しか使ってないのがいいんじゃないでしょうか(笑)。私自身も気に入っていて、本が出た後も、続編を時々書いて、毎日配信のメルマガに載せてます。
雀部 >  なるほど、やはり一般受けも良いんですね。ちょっと簡単な数式を入れただけで、すごく全体の印象が変わるので、ぜひ続きも読みたいです。
 関係ないんですけど、私も将棋を指すので「禁じ手」という短編もすごく受けました。笑えて、しかも含蓄がありますね。本間さんも指されるのですか?
本間 >  学生時代に初段の認定書をもらいましたが、どこかになくしてしまいました。
長いこと実戦は指してないので、今はもっと弱くなってると思いますけど、お相手しましょうか?
 雀部さんはなんか強そうですね。
 将棋をネタにした長編の草稿もあります。将棋はルールが完成されてるでしょう。でもやってるのは人間ですからね、どこかずれが出てくる。矛盾というのか。こういうずれとか矛盾は世の中にあふれていて、だから面白かったり、せつなかったり、絶望もあれば希望もあるわけで、書くネタは尽きません。長編の方はまだ陽の目を見ませんけど(泣)。
雀部 >  いや、下手の横好きの段階です(爆)将棋の長編もぜひ読ませて下さい。期待しております。
 ありがとうございました。では、児島さんと真殿さんにバトンタッチするといたしましょう。

毎日書いてると、超短編のフェアリーとお友達になれるんです。

児島 >  『超短編』の定義とはどういうものでしょうか?
 具体的に短編やショートショートとは、どこが違うのですか。
 また、詩との違いも教えて下さい。
本間 >  児島さん、いつもどうもです。早速、ズバリのご質問ですね。
 超短編というのは数文字から数百文字の物語です。形式上の定義はこれで尽きると思います。中身でいうと、散文と詩の中間的なものです。中間ですから、詩との境界線はけっこう曖昧です。今ゲラ校正中の超短編アンソロジー(ちくま文庫より刊行予定)には、詩からもいくつか選んでいます。詩には散文詩なんていう呼び名からして矛盾した作品群がありますが、その中には超短編と呼んだ方がしっくりくるものもあります。そう考えると、これまでは超短編という名称が無かったので、詩やエッセイの仲間に入れられていた作品群がこれからは独立したジャンルとして再生、自立する可能性もあるというわけで。
 ショートショートとの違いについてもよく聞かれます。一般にショートショートの長さの標準は原稿用紙10枚程度ですね。これだと超短編との違いは歴然としている。しかし、ショートショートもどんどん短くなって1000文字くらいになってくると、超短編に片足突っ込んでくるでしょう。外見だけだと境界は曖昧です。でも、読み比べると、両者のテイストの違いはわりとはっきりしてると思うんですよね。ショートショートはどこまでも小説の中の一ジャンルですが、超短編は小説からははみ出ている。そこんとこは理屈を言うより、作品を見てもらう方が話が早いような気がします。
児島 >  最初に『超短編』に目を向けるきっかけとなったのは、何でしょうか。
本間 >  先にも挙げたバリー・ユアグローの超短編集とSudden Fiction のアンソロジーで関心を持ちはじめ、モンテローソの「恐竜」などラテンアメリカの超短編をみて、ぐっとそそられました。Sudden Fiction はそんなに面白いと思わなかったのですが、ユアグローとモンテローソは、ああ、こんな面白いものがあったのかという感じで。
 その頃、インターネットで何か新しいことできないかと思っていて、超短編の短さがパソコン画面で読むのに適していたことも動機でした。けど、もともと私はこういう短いものが好きで、やっぱりそそられたっていう感じがぴったりです。十代の頃は詩を書いたりもしてましたし、前から下地みたいなものがあったんだと思いますね。
児島 >  本間さんにとって『超短編』の魅力とは?
本間 >  書いて楽しい、読んで楽しい。それに尽きます。ぱっと燃えてぱっと消えて余韻だけ残るというのが、とても贅沢じゃないですか。稲垣足穂は「一千一秒物語」以外にも短いものをほんとにたくさん書きましたが、全集なんかでゆっくり読んでると、ほんとに贅沢な気分にひたれます。長編ばっかり読んでる人にはこの楽しみ、死んでもわかるまい、という感じです。
児島 >  6月号のダ・ヴィンチで本間さんは「月に40本以上の超短編を書く」とありますが、これらの膨大なアイデアはどこから生まれて来るのですか。
本間 >  毎日書いてると、超短編のフェアリーとお友達になれるんです。そしたら見たもの、聞いたもの、なんでも超短編にできるようになります。超短編は物語なので、そんなことができるわけです。そのへんは「超短編SENGEN」の解説で書いたことと重なるので、今日はフェアリーのお話をします。素材をアイデアに発酵させる呪文はフェアリーが知ってるのです。私には教えてくれませんが、頼めばいつでも唱えてくれます。だから、このインタビューだって、超短編にできます。今も横でフェアリーがうなずいてます。
児島 >  フェアリーですか? 素敵ですね。
 『超短編』について本間さんはサイトやメルマガによる投稿・選評活動を行っていますが(アサヒネットの『超々短編広場』など)、こうした活動の内容とねらいを教えて下さい。
本間 >  『超々短編広場』は500文字以内の作品の投稿から毎回、優秀作一、二編と、入選作数編を選んでいます。超短編の普及のためにはじめた活動ですが、スタートしてすでに3年半が経ち、広場のメーリングリストも活発で、今では投稿メンバーが自分たちでメルマガやサイト、紙のミニコミなど、いろいろな活動をはじめるようになりました。こうやって超短編のミームがどんどん広がっていくのがネットのいいところですし、もともとそれが目的ではじめたことです。
うれしいのは、とても優秀な書き手が集まってきたことで、今、産経新聞の土曜夕刊(西日本版)で連載している「本間祐の超短編レッスン」もその人たちに作品を書いてもらうのを前提にした企画です。掲載作には傑作と呼びたい出来ばえのものも現れています。こんな連載ができるようになるなんて、ネットで活動をはじめた頃は夢にも思いませんでした。これを読んで、超短編に興味が湧いた人は、とりあえず私のサイトメルマガ(無料)をご覧下さいませ。
児島 >  また本間さんは『超短編』の朗読の活動にも力を入れていますが、『超短編』を音読することの意味はあるのでしょうか。。
本間 >  朗読するのは楽しいからです。下手っぴですけど、聞き手を前にしたライブの感触というのは体験するとまた味わいたくなるもんです。理屈をこねるなら、視覚文化としてのネットの普及、煮詰まってしまった活字文化の反動として、朗読という聴覚文化、身体性の復権うんぬんとかいうことになるのかもしれませんが、どうも私の場合、個人的な体験がもとのような気がします。
 十代の終わりに、ある詩の朗読会で吉増剛造さんの朗読を聞いたんですが、それが背筋がぞくっとするほど素晴らしい朗読で。ようするに目で読んだのでは絶対にわからない肉声の力というのか。あれが原体験で、いつか自分でもやってみたいとずっと思ってたんです。もちろん吉増さんの万分の一にも及びませんし、超短編はやはり詩とは異なるもので、朗読のスタイルも新たに考えていかないといけないと思うので、まだまだこれからなんですが。
 今んとこポエトリーリーディングの詩人の方たちと時々一緒にやらせてもらってます。超短編朗読会はまだ二回しかやってませんが、10月6日に東京でまたやります。児島さんには実際の朗読も聞いていただいてますが、よかったら児島さんもやってみませんか。
児島 >  面白そうですね(^o^)。

ある種のInteractive art

真殿 >  どうも、本間さん。私の方からも幾つか質問させていただきますね。
「超短編SENGEN」を読ませていただいて、まず感じたことなのですが、感情移入する前に終わってしまう超短編も多くて、なんか狐につつまれたような感じがします。SFファンとしては、「見事に幻惑されたい」という意識が強くて、どうもなじめません。もしかしたら、超短編って反SFなものなのですかね?(稲垣足穂はSFだと思うのですが・・・)
本間 >  小説を読む感覚で超短編を読むと、とまどう人もいるでしょう。そういう意味では反SFというより反小説かも。でも私は小説も好きですよ。
真殿 >  先ほどの児島さんの質問にあった朗読ということと関連するかとも思うのですが、超短編って、ある種のInteractive artのようなものと考えていいのでしょうか?
本間 >  またあ、真殿さんもズバリの質問ですね。お手やわらかに。
 えっと、読者の想像力が参加することで成り立つ作品が多いという意味では、超短編はInteractive artに似てると言えなくもないですね。ただ、文芸の世界でInteractive art的なものを探すならリンク機能を生かしたハイパーフィクションなんかの方がぴったりでしょう。井上夢人さんの「99人の最終電車」がその実例ですね。ただ、この作品でも作品の構造は自由に入れ替わりができますが、テキストそのものが読者の参加によって変わるわけではないので、厳密な意味でInteractive art的とは言いにくいんじゃないでしょうか。となると、超短編はなおさらInteractive art的ではないということになりますね。
真殿 >  読者の参加を促すという意味ではInteractiveだと思うのですが、少し表現を変えてみます。読んだ後に想起することは、全て自分の「今」を表しているような気がして、自分の過去が試されているみたいで、とても恐ろしいです。作者と読者の距離が無限にあるジャンルですね。
 それに、読んだ後のイメージなのですが、「all or none」という感じがします。自分にとって印象深い超短編は永遠かとも思わせる感動を与えてくれるのですが、何も感じさせてくれない超短編は、自分の中に何の痕跡も残してくれません。中間というものがないのです。読む方が超短編という形式に慣れていないからかもしれませんが、これほど白黒がはっきりつく物語(小説?)は珍しい気がします。
 その辺りのところ、本間さんはどうお考えでしょうか?
本間 >  ひとくちに超短編といってもほんとにいろいろあって、作者と作品の距離のとり方はさまざまです。その距離感によって、作者と読者の距離も決まります。
 超短編のコアな作品について言うと、作品の中の作者はとっても希薄です。いるように見えても近づいて見ると消えてしまったりします。だから読者は作品に自由に入っていけるわけ。そこんところがコアな超短篇を読むときの楽しさなわけですが、自由というのはけっこう不安なので、最初は入ってきにくい人もいるでしょう。先の質問で「幻惑されたい」と真殿さんは言われましたが、超短編は作品の方から幻惑してあげましょうと手をさしのべたりしないのです。そのかわり作品の中に入ってきた人には、一見からっぽに見えた作品の内側に大きな宇宙があるのを発見できると思いますよ。小さいけれどふところは無限に深い。そこが超短編の面白さですね。
真殿 >  「SFはオチだ!」とはよく言われますが、本間さんはどうお考えでしょうか?
本間 >  私の好きなSF作品はオチに頼らないものが多いし、オチがあっても、私が好きなのはその部分ではなく、ディテールの方にあります。なのでオチはあってもいいけど、なくても全然かまわないです。超短編についていうと、オチの無いのが標準形ですね。仮にオチがあっても通常のオチじゃなくて、そのオチがあることで読者の前にまたぽっかり大きな黒い穴が口を開いてるようなのがいいなあ。
真殿 >  少し意地悪な質問です。
「超短編SENGEN」の付記は、なんとなく「反超短編」のように読めるのですが、それは私の方の読み誤りなのでしょうね。
本間 >  あの付記は超短編そのものというよりも物語についてのノートです。超短編は物語のひとつのかたちなので、その背景を語るにはまず物語からはじめないといけない。物語の方が超短編より普遍的だというわけです。もひとついうならSFよりも物語の方が普遍的です。なので、強引な解釈をするなら、あの付記は反超短編であり反SFでもある。あ、なんかこれをネタにして超短編が十編くらい書けそうな気がしてきた(笑)。
真殿 >  最後に感想です。
 幾つかの超短編について、「これは長編で読みたい!」と思わせるネタがありました。不遜な言い方ですが、こんなおいしいネタを超短編に使ってしまってはもったいないのではないかと思ってしまいます。プロの作家ですから、そこのところはよく考えておられるのでしょうが、このように思ってしまうファンもいるのです。
本間 >  長編、あるいは短編にできそうなのは確かにありますね。いつか書くかもしれないです。もとの超短編とはずいぶん違うものになるでしょうけど、違うものになるから新たに書く意味もありますし。
 ただ、どの作品が長編にできるかという感覚は人によってかなり違うでしょう。真殿さんは以前お会いしたときに「飛ぶ男」が長編になると言われてましたけど、私はあれは超短編だから書けた世界と思うので長編化にはなじまないと思うんですよ。作品への入っていき方が私と真殿さんでは違うのでしょう。違うのが当たり前で、だから面白い。こんな短い小さい作品なのに、もうすでに受け取り方がこんなに違う。そのへんがふところの深さの一端なのかなと、なんとなく思ってもらえたら。
 超短編を書いているおかげで、いろいろアイデアが湧いてきます。でも超短編はアイデアノートではなく、それじたいが独立した作品です。今はまだ世間の理解を得ているとは言えませんけど、この機会にどうか温かい目で見てもらえるようになったらうれしいです。まだなじみがないだと思いますけど、今回は超短編そのものについての質問がほとんどでしたね。時間も経ったようですし、作品についてもまた別の機会ということで。
雀部
児島
真殿
>  今回は、毎日の創作の合間を縫って、インタビューに応じていただきありがとうございました。9月12日には、本間さんの監修でホメロス、カフカ、夏目漱石、筒井康隆等々古今の東西の名作を集めた『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)が出版されるそうなので、楽しみにしております。

[本間祐]
 大阪在住。作家。94年、「私の果て」が第1回パスカル短篇文学新人賞の最終候補になり、筒井康隆・小林恭二・井上ひさし選「パスカルへの道」(中公文庫)掲載。96年、「くろ」で第3回パスカル短篇文学新人賞優秀賞受賞。最新作は「恐怖六面体」(光文社文庫、アンソロジー『恐怖症』所収)日本の超短編の夜明けをめざして、創作と普及活動を展開中。
 '01年1月より月刊PR誌「道偕」で「物語考」連載中。'98年10月より朝日ネット超々短編広場の選者を務める。'99年10月、まぐまぐよりメールマガジン"Micro Story Japan" を創刊。現在も発行中。
 産経新聞(西日本版)「本間祐の超短編劇場・TANTANポップ」の連載は、3月末まで。4月から新シリーズ「超短編レッスン」がスタートしてます!
[雀部]
50歳、歯科医、SF者、ハードSF研所員。
ホームページは、http://www.sasabe.com/
[児島]
アニマソラリスにときどき作品を掲載いただいているモノ書き志願兵です。ただいまワールドカップ燃え尽き症候群まっただ中。ベッカムさま、カムバック!
[真殿]
41歳、肥満ぎみ。成人病が気になるお年頃。

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