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Author Interview

インタビューア:[雀部]&[ヒラマド]&[ケダ]

『どーなつ』
> 北野勇作著/西島大介画
> ISBN 4-15-208410-3
> 早川書房
> 1500円
> 2002.4.30発行
粗筋の代わりに見出しを:著者が粗筋のかわりになると(笑)
1,百貨店の屋上で待っていた子供の話
2,熊のぬいぐるみを着た作業員の話
3,火星に雨を降らせようとした女の話
4,逃げた脳ミソを追いかけた飼育係の話
5,ズルイやりかたで手に入れた息子の話
6,本当は落語家になりたかった研究員の話
7,異星人に会社を乗っ取られた社長の話
8,大きなつづらを持って帰った同僚の話
9,あたま山にたどり着けなかった熊の話
10,溝のなかに落ちていたヒトの話

 熊のぬいぐるみを着るというのは、人工知熊に乗り込んで働く(戦う)ことなんですが、今までの作品の集大成というか、共通する部分も多いです(ちなみに北野さんは、昔フォークリフトの作業員をされていたことがおありとか)
 それもそのはず、この『どーなつ』こそが、総ての作品の源泉なんですね。北野さんのオリジナルな世界が楽しめる作品に仕上がっています。

『北野勇作どうぶつ図鑑 その4 ねこ』
> 北野勇作著/西島大介画
> ISBN 4-15-030719-9
> ハヤカワ文庫JA
> 420円
> 2003.5.15発行
折り紙つきコンパクト文庫。短編20本、ショートショート12本を全六巻に収録。
「かめ」「とんぼ」「かえる」「ねこ」までが既刊、今月「ざりがに」と「いもり」が刊行予定
収録作:
「手のひらの東京タワー」「蛇を飼う」「シズカの海」

『ハグルマ』
> 北野勇作著/広瀬健二郎画
> ISBN 4-04-369301-X
> 角川ホラー文庫
> 590円
> 2003.3.10発行
粗筋:
 完成間近で自殺した同僚が手がけていた、サラリーマンの日常が舞台のリアルなゲーム。その完成を押しつけられた男は、あまりに自分の仕事や家庭と似たゲームの世界に侵食されていく……

“SF界のどうぶつ博士こと北野勇作さん”?

雀部 >  今月の著者インタビューは、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションから『どーなつ』('02/4)を、ハヤカワ文庫JAより、《北野勇作どうぶつ図鑑》シリーズ全6巻を刊行中の北野勇作さんです。よろしくお願いします。
北野 >  よろしくお願いします。
雀部 >  もうお一人、気合いの入った読書系サイトで、北野先生の作品にもお詳しいヒラマド@ざぼんさんをお迎えしました。ヒラマドさん、よろしくお願いします。
ヒラマド >  どうぞよろしくお願いします。
雀部 >  《北野勇作どうぶつ図鑑》シリーズの表紙カバーの[どうぶつかいせつ]の紹介欄に、“SF界のどうぶつ博士こと北野勇作さん”と書いてあるのですが、やはり動物好きだから、お詳しいのでしょうか。
北野 >  特に動物好きというわけではないし、「学研の科学」なんかを読むのが好きな子供くらいの知識しかありません。怪獣のほうが好きですね。怪獣っぽい動物は好きです。
雀部 >  そういえば、《北野勇作どうぶつ図鑑》その4<ねこ>所載の「手のひらの東京タワー」にもあの怪獣が出てきますね。
ヒラマド >  「手のひらの東京タワー」って、松任谷由実の歌にあるんですね。検索して初めて知りました……。関係あるんでしょうか。
北野 >  そうです。好きな曲で、タイトルも大好きだし、模型の歌ということで。
 いや、ほんとあれはいい歌ですよ。それが入ってる『昨晩おあいしましょう』というアルバムタイトルもなかなかSFですよね。松任谷由美の(荒井由美もですけど)言葉の使い方には、たぶんかなり影響を受けていると思います。
 最小限の言葉からイメージを立ち上げる力がすごいですね。
雀部 >  北野さんと松任谷由美さんですか。う〜ん、意外と言えば意外だなあ。
 怪獣ぽい動物というと、3月に出された『ハグルマ』(角川ホラー文庫)に出てくるHelicoprionというサメの歯の化石とその想像図も、かなり怪獣ぽいですね。商売柄この歯列で、本当に獲物がとれたのか興味大です。まあ例のカンブリア紀のアノマロカリスの口も、一時クラゲと思われていたこともあるそうですから、北野さんの説もあり得なくはないですし。やはり化石動物とかはお好きなのでしょうか?
北野 >  まあ学研の科学が好きな子供にとっては、恐竜と怪獣はかなり近しいものですし、カンブリア紀の変な形の化石生物の想像図なんかも、見ていてわくわくします。水木しげるの妖怪図鑑を見ても、同じようにわくわくします。
 脳味噌の同じようなところが刺激されているのかもしれません。
雀部 >  大伴昌司さんの本を見てもわくわくします!SF者だけか(笑)
 学研の科学は私が小学生のころに創刊されたんですよ。毎月学研のおばちゃんが配達してくれてました。水ガラスとか、光伝導セルなんかが付録についてきたりして。当時、家では灯油のボイラーがあったのですが、その炎を監視するのに、光伝導セルがついていて、時々それをきれいに磨いてやるのが、私の仕事でした。それがどういう機能を持つものか理解していたのは我が家で私だけ。思えば、科学の付録と、アトムで、以後の性向が決まってしまったような気が(笑)
 タヌキ、クラゲ、かめ、ザリガニ、イカと続いてましたから、更に"とんぼ"や"かえる"や"いもり"があってもおかしくはないんですが、なぜ短編集が、どうぶつシリーズになったのでしょう?
北野 >  早川のS澤さんが、そうしたいと言ったからです。
雀部 >  ありゃま、単なる編集部の意向だったんですか。
 もう一つ、あの折り紙の狙いはなんでしょう。
 今月出た"ねこ"の折り紙は難しくて折れませんよぅ。
北野 >  わかりませんが、たぶん折り紙目当てで本を買う折り紙マニアを狙っているのではないでしょうか。うまくいけば、「折り紙マガジン」とか「折り紙の雑誌」とか「オ・りがみ」なんかでも特集を組んでくれるかもしれないし。
 私は不器用でイラチで飽きっぽいので、あんなものはまず折れないと思いますし、初めから折るつもりなどありませんね。
雀部 >  不器用でイラチで飽きっぽい人が、ペットを吹いたり、劇団で俳優として活躍されたりは出来ないと思うんですが(笑)
北野 >  なかなか思い通りにできないからいつまでも飽きずに続けられるものというのもあって、それは、完成しないことがわかっていて、でも、何年か前にできなかったことが、ちょっとだけできるようになっているのに気づくのが喜びだったりするようなものであることが多いのですが、たぶん私にとっての折り紙はそういうものではないのだろうなというだけのことです。あ、あくまでも、私にとって、ですよ。 オリガミストの皆さん、ごめんなさい。
 とりあえず、プラモデルを完成させる能力のない子供だったことは確かですね。
ヒラマド >  装丁もJAにしては物凄く大胆で、すさまじく力が入ってますよね。
 イラストの西島大介さんも、SFセミナーで初めて折った、とのことでした(笑)。
私も頭から4種類折りましたが、どんどん難しくなっていって、「ねこ」にはてこずりました。折り紙監修の志村さんの指導のおかげで、形にはなりましたが……。でも、面白かったです、本当に。
北野 >  たしかにすさまじいですよね。私は最初にこの企画をS澤さんから聞いたときは冗談だと思って笑ってたんですが、そのうち本気らしいことがわかって、あまりの忙しさに気がふれたのかと思いました。いや、ほんと。
ヒラマド >  収録作は、だいたいテーマごとになっているようですが、この選定も編集部なのでしょうか。
北野 >  そうです。S澤さんですね。ああ、この巻はこうきたか、と毎回楽しませてもらいました。

根っこにあるのはSF

雀部 >  ところで、ご自身のHPの「カメ天国通信」で、“4月12日に堂島のジュンク堂で、牧野さんと対談みたいなことをする。そうか、牧野さんは本当に申し訳ないと思っているのですか。牧野さんとぼくとのいちばんの違いはたぶんそのあたりなのだろうなあ。”とあるんですが、この違いって、具体的には何なのでしょうか?
北野 >  具体的には、牧野さんは「自分が日本SF大賞をとったことを本当に申し訳ないと思っている」、
そして私は「自分が日本SF大賞をとったことを申し訳ないとはまったく思っていない」という点です。
雀部 >  そういう違いだったんですか。
 反対に、牧野さんとの共通点っておありだと思われますか?
 読者の立場から言うと、前述の『ハグルマ』でも、怖さを減じるかも知れない可能性大にも関わらず、ホラーでありながら説明をしちゃうところなどに感じたんですが。
北野 >  説明しないことによる怖さというのは確かにあるんですが、でも同時に説明できないようなことを無理やり説明してしまう快感みたいなのがSFにはありますよね。
 でも説明がついてしまうと怖くなくなってしまう。
 だから、説明しながら、でもその説明がちゃんとした説明になってなくてそのズレ具合が気持ち悪くて、それが怖さに繋がればいいなあと『ハグルマ』なんかでは思ったりしたんですが、牧野さんもけっこうそういうところはあるような気がします。それはふたりとも根っこにあるのがSFだからじゃないでしょうか。
ヒラマド >  以前池袋ジュンクで対談された、小林泰三さんの作品にも、同じ事が言えるような気がします。小林さんはミステリーも書かれてますが、ミステリーは書かれないんですか?
北野 >  なんというか、もともとミステリーの熱心な読者ではなかったので、正直言って読む人がどういうものを求めているのかよくわからないところがあります。
 SFだと、「自分みたいな読者」に向けて書いてるからいいんですけど。
 ミステリーに関して、SFとかホラーなんかと決定的に違うのは、子供の頃、ミステリー映画なんかを怪奇映画と勘違いしてみていて、それがミステリーだったとわかったときにものすごくがっかりしたという記憶がけっこうあるんですよ。
 ぐらぐらしていると思っていた世界が最後に「いや、じつはぐらぐらしてないんだ」と解かれてしまうのがどうも嫌だったようです。大人になってから、そういうのにもおもしろいものはあるし、ぐらぐらしたままのミステリーもあるんだということはわかったんですけど。でも、幼児期の記憶というのはあとを引きますから、それで書きたいという気があまり起こらないのかもしれません。
 書いてみてから、ああ、これはいちおうミステリーとしても読めるかなあ、というようなものは書くかもしれませんが、意識して書くつもりは今のところありませんというかたぶん無理です。
ヒラマド >  勿体無い。叙述トリックなんかハマリそうなきがするんですが……。
 語り手である主人公の視点からはずれた描写は全く事がないのに、読み進むうちに、読者には彼を含む外側の景色が見えてくる。
 それも、とんでもなく大きなスケールで、唐突に広がるわけです。
 初めて『クラゲ』を読んだ時に、「あー、これがセンス・オブ・ワンダーというやつなんだ」と、本当に感動しました。テーマがナノテクだったり、ロボットだからということ以前に、小説の形として、SF以外のものでは決してありえないと私は思っているんですが、そういう形に関係なく、かわいくて、ちょっとしんみりする話としても読める、というのが、『かめくん』以降のブレイクに繋がったと思うのです。読み方というのは読者によって、千差万別ですが、「可愛い」面と、その奥にある「物凄くSF」な部分を両立させることを、書く際にはどの程度意識しているものなのでしょうか。

##わ、わかりにくい……(--;;;;;。意味わかりますでしょうか。
北野 >  とてもよくわかります。でも、可愛いかどうかというのは、単に感情移入の度合いですからね。「物凄くSF」と「可愛い」というのは、対立項ではないと思ってます。
 とくに意識して両立させようとはしてませんが、まあ自分で書いているものは皆、いとおしいですよ。自分の延長だからそれはあたりまえと言われればそれまでですけど。
 私にとって、小説というのは、自分の好きなものを好きなように並べる箱庭ですからね。
 亀も火星も量子論も、同じ好きなオモチャとして、箱庭に配置しているだけのことだと思います。
 それにしても、ブレイクはしてないでしょう。私は未だに増刷知らずなんですから。
ヒラマド >  でも、続々再刊されてますし。あの時は、びっくりするやら感動するやらでした。
 で、割とはっきりと同じ世界を舞台にしていると思われる『かめくん』と『ザリガニマン』の他にも、『火星』と『かめさん』とか、『クラゲ』と『どーなつ』など、深読みすると同じ世界を舞台にしているような小説がありますが、実際はどうなんでしょうか。
北野 >  やっぱり同じ人間の作った箱庭ですから、いろんな意味で繋がっているとは思います。同じオモチャを並べていることもありますし。でも、例えば年代記みたいにできるようにはきちんと繋がってはいないし、むしろそれは意識してそうならないようにしているところもあります。
 でも、相互が矛盾してても繋ぐことができる言い訳は作品中に常に埋め込んであるはずなので(記憶違いだとかパラレルワールドだとか信頼できない語り手だとか)、そういう意味では全部が同じ世界と言ってもいいと思います。
ヒラマド >  ラジオドラマ版『昔、火星のあった場所』はご本人脚本ということで、苦労話なんかはありますか? 私は主人公も課長も小春の声もすごく好きです。
北野 >  もう何年前ですか。阪神大震災よりも前ですね。あの少し前に、たしかNHKの大阪局から声をかけられて、ラジオドラマの研究会みたいなのを何人かの作家でやってたんですね。その流れで、青春アドベンチャーを書きませんかという話があって、それならと自分の小説をドラマ化したのでした。だからあれ、自分で立候補したものなんですね。まあ、そうでもなければあの小説をラジオドラマ化しようなんて話は絶対になかったでしょうけど。
 おかげで、あれは青春アドベンチャーとしてはかなり異色なものになったと思います。小春の声と時計屋の声は私の所属している劇団の役者でやらせてもらったし。そのへんも、ほんと、やりたいようにやらせてもらったんですね。
 読みあわせにも録音にも全部立ちあって、しっくりこない台詞を直したり、どうしても時間におさまらないところをその場で縮めたりして、まあ大変でしたけどこういうのは苦労とは言わないでしょうね。
ヒラマド >  『ハグルマ』や、異形コレクションの短篇では、やはり「ホラー」としての形を意識されているのでしょうか。
 「ホラー」だと、主人公が死ぬほど怖がっていて、読者も怖くなる。
 で、主人公が実は怖い状況にいるのに、それを知覚できないような話だと、「SF」になるような気がします。『クラゲ』とか『かめくん』とか。
 私にはこっちの方が怖いんですが……。
北野 >  『ハグルマ』は、いちおう意識はしてますね。でも、それで何かを我慢したとか曲げたというようなことはないです。あれは、何をいまさらとしか言いようのないようなベタな話で、ほとんど三つしかコードをつかってないフォークソングみたいですけど、「こうきて、こうきて、こうきたら、こうなるしかない」という枠があらかじめあるぶん、それ以外のことをいろいろとぐちゃぐちゃできたとは思います。
 あ、それから『ハグルマ』の主人公は、たしかに怖さだけは知覚してるんですけど、罪悪感はまったく感じてないんですね。まあそういう話にしたかったのです。
 異形の方は、一種の大喜利だと思ってますので、お題を楽しんでる感じです。
 だからそんなにホラーの形は意識してないですね。むしろ、きれいにまとめるよりも、ちゃんとした(というのも変ですが)ホラーの形をしてないものを出す役割を振られていると思うので。
 あ、でも、そういう意味では意識していることになるのかな。

SFのメインストリーム

雀部   >  『ねこ』所載の「シズカの海」って、異形の<月>というお題で書かれたものですが、まさに大喜利の醍醐味でした。そうかこんな料理のやり方もあるのかと……
 ジュンク堂での対談では、どんなことを話されたのでしょうか。差し支えなければお教え下さい。
北野 >  日本SFの話とかをしました。まあそれで「SF大賞申し訳ない話」なんかになったわけですけど。
 牧野さんの「自分の書くようなものは日本SFのメインストリームではないので、それが日本SF大賞をとってしまったのは申し訳ない」という発言に対して、私が「むしろ、境界線からはみ出していくベクトルをもったもののほうにSFを感じる」というようなことを言ったと思います。
「でもやっぱりSFにも確固としたコアというかメインストリームみたいなものは存在するでしょ」
「そうかなあ? じゃ、牧野さんにとって、どんなのがSFのメインストリームなんですか?」
「宇宙が舞台で、科学に対する愛があって、まあ、野尻さんの『太陽の簒奪者』ですね」
「それをメインストリームだと定義づける必要はあるんですか」
「でも、一時の、なんでもSF、みたいな言い方には、やっぱり無理があると思う」
「まあ、それはわかりますけど」
 というようなことを話しました。そのあたりの意見のくい違いはけっこう意外でおもしろかったんですが、でもこれは、SF観の違いというよりSFの生き残り戦略についての考えの違いでしかないように思います。
 「自分の書いているものが、SFであれなんであれ、なにかのメインストリームではない」という考えは二人とも共通してますし。
雀部 >  私自身の考えは、北野さんのほうに近いです。『太陽の簒奪者』は、確かに面白かったんですが、一般的なSFというよりは、日本では絶滅寸前のハードSFのメインストリームですよね。一番SFを感じるのは、やはりユニークな作品、例えば『ソラリスの陽のもとに』なんかは、コミュニケーション不可能な異星の生命体を描いていて、ああSFってこんなにも凄いんだと感じました。
 お二人とも、他の人では書けないユニークな作風で、SFでしか書けない話を書いているという点から考えれば、SFのメインストリームというか王道と言えるのではないかと思います。
 で、生き残り戦略の違いって、具体的にはどういうことなんでしょうか?
北野 >  SFが売れる、とまではいかないまでも、とりあえずコンスタントに出版されるためには「これがSF」みたいなイメージが必要だろう、ということです。
 たぶん、「どういうものなのかは説明できないんですけど、とにかく読んでみてください」とかではダメでしょう。出版社内の会議すら通らない。
 だから、「これが文句なしのSF」といえるような作品が、SF全体にとって必要なのではないかということだと思います。そして、それがメインストリームであるべきだ、と。
 でも、それはあくまでもセールスを頭においてのことであって、例えば、牧野さんの日本SF大賞の受賞の言葉のなかにもあるように、牧野さん個人のSF観というのは「世界がぐらぐらする感覚を与えてくれるもの」だと思うんですよ。それに関しては、私もまったく同感ですから。
雀部 >  「これが文句なしのSF」ですか。それは、難しいなあ。なんかSFの多様性を考えると特に。SFファンによって千差万別だし(爆)
北野 >  でも、そういうSFのメインストリームと呼べるような作品がある程度売れているという状況にあれば、ちゃんとしたことはそっちに任せて、こっちはこっちで安心して好き勝手やれるということで、そのほうがSFは多様性を持ちやすいということも考えられますよね。そういう意味では、SFにもメインストリームと呼ぶべきものが必要である、という意見はすごくよくわかるんですよ。
ケダ >  横から割り込んですみません、ケダと申します。牧野さんや北野さんの作品は、一般にいう「SFファン」以外の人も大勢読まれていると思いますので、その一人として質問させて下さい。
 先ほどの「メインストリームSFではない」というお話ですが、北野さんも牧野さんも「SFではある」という自覚はお持ちだろうと思います。
 だとしたら、(メインストリームではないとしても)SFの川からあがって別の岸に乗り上げずにいる、SFのアイデンティティはどこにあるのでしょうか?
北野 >  このあたりは、自分でも整理がついてなくて、どう表現したらいいのかわからないんですが、まず、たぶん自分のなかでいろんなものが形成される時期にSFと呼ばれるものを好んで大量に食べたという記憶があるわけです。
 「そういえばずっとこういうのが子供の頃から好きだった、こういうのをぜんぶひっくるめたものをSFというのか」、ということに高校生くらいの頃に気づいたんですね。
 だから、本当に腹がへっていた時期に大量に食べたそういうものが、何かを表現したいという衝動とかそれをやるための方法論なんかも含めて、今の自分を形作っているのは間違いなくて、それを使っていろいろやっているんですから、どう使おうがそれはもうそういうものにしかならないように思うんですよ。
 他の人にそれがSFに見えるかどうかはわかりませんし、それはまさに私の知ったことではないんですけど。
ケダ >  「こういうのをぜんぶひっくるめたものをSF」ですか、なるほど。
 あの、では、具体的に『どーなつ』とか『かめくん』とかから、これを抜いてしまったらSFじゃなくなる、というものはありますか?
北野 >  何かをひとつ抜いたら、小説はそれでたぶん成立しなくなるか、成立させるためにまた別の何かを入れなければならなくなりますから、なんとも答えられません。私の場合、小説は自分のなかからずるずるずるずる繋がって出てくる紐のようなものなので、何かを抜くとそこで切れてしまって出てこなくなってしまうようです。
ケダ >  では、北野さんにとって「これはSFである」とか「これはSFではない」という分類そのものに意味があるのでしょうか(読者として、そして創作者として)。
 そしてそういうものを意識した上で創作をされているのでしょうか。
 もうひとつ、SFに不可欠とご自身がお考えの要素を排除した小説を今後書く予定はおありですか。
北野 >  自分にとっては意味がありますが、自分以外の人がそれをどう分類しようが意味はありません。自作も含めて。まあ、おもしろいので怒ったふりをすることはあるかもしれませんが、でも基本的にはどっちでもいいです。
 ザ・ハイロウズの歌詞で「ロックがもう死んだんなら、そりゃあロックの勝手だろ」というのがありますが、まあそんな感じですかね。
 だから書くということに関しては意識以前の問題で、「SFしか書かない」と言えればまあかっこいいんですが、「SFしか書く方法を知らない」だけです。
 ただでさえ手持ちの材料が少ないので、あえて何かを排除したりする余裕はなかったし、これから先もたぶんないと思います。ええっと、これで答になってるのかなあ。
 どうも、うまく言葉にできなくて申し訳ないです。
ケダ >  いえいえ。ジャンルで分けるより、北野さんの小説は「北野さんの小説」と言ってしまったほうが、わたしなんかにはすんなり納得できるのですが、その小説世界はこんなふうなところから出てきていたんだな、となんとなくですがモワ〜ンとわかって大変興味深いです。ありがとうございます。
 ところで、その北野さんは飲んだときに、「おれは日本の椋鳩十」とかおっしゃってたそうですが(<銀河通信>SFセミナー) 、ご自身が「日本SFの北野勇作」と色分けされることには抵抗とか喜びとか、なにか感じるところがおありでしょうか?
北野 >  別に飲まなくても言いますけど。やっぱり「日本のゴッホ」とか「和製マドンナ」 とか「浪速のロッキー」みたいな呼び名はあほらしくていいですね。
 でも、「日本の椋鳩十」もそろそろ飽きてきたので最近では「日本の北野勇作」か「浪速の北野勇作」あたりを名乗るのがいいんじゃないかとも思っています。
 だから「日本SFの北野勇作」でももちろんかまいませんよ。
 まあ、「日本SF」に関して言えば、例えば「小松左京と星新一と筒井康隆」が日本SFというひとつの言葉で表されるわけで、それだけ考えても、日本SFという言葉は最初からなにかをくくったり色分けしたりする言葉ではなかったと思います。
 むしろ、私を「日本SFの北野勇作」と見るか「日本SFじゃない北野勇作」と見るかで、その人の読み方とか考え方が色分けされることになるんじゃないでしょうか。

不連続な自分、虚構と現実

雀部   >  「日本SF」って、日本の作家がこれはSFだと思って書いた小説の総称かな?
 出版社の都合で、SFと呼ばれてない場合も多々ありましょうが(笑)
 私が、北野さんの一番ユニークな点だと思っているのは、登場人物たちが記憶があっちゃ行ったりこっちに来たりと、とてもあやふやにも関わらず全然それを気にせず生きているところです。普通、ホラーなんかだと、そういう自分の記憶の曖昧さとかアイデンティティの喪失とかいうのは、怖いネタとして使われてますよね。
 恩田陸さんの『月の裏側』のラストの怖さもそれでしたし。
 しかし、北野さんの本の登場人物の開き直りというか、おおらかさは、いったいどこから来たものなんでしょうか。狙って書かれているんだとは思いますが。
北野 >  とくになにかを狙っているつもりはないんですが、人間の感覚というのは同じ刺激に対しては鈍化していく、というのが当たり前だし、脳味噌の自衛手段でもあると思うんですね。どんな状況でも、それを日常として感じるようになるのではないでしょうか。いちいちびっくりしたり怖がっていたんでは、とてももたないような脆くてあやういものだと思います。いや、それで壊れない強い人もきっといるんでしょうけど。
雀部 >  特に大阪のおばちゃんたちは、強いかも知れませんね(笑)
北野 >  それと、私は自分が連続しているということにいまいち自信がないんです。
寝るたびにいちいち死んでいるような気が子供の頃からしていて、いったい昨日の自分と今日の自分はちゃんと繋がってるんだろうか、とかそういうことをよく考えたりしてて、まあそういうこともあるのかもしれませんね。
雀部 >  むぅ。そう言われればそうですね。昨日までの記憶を全て入れた促成クローンが出来たとしたら、クローン自身は、自分の記憶の連続性に自信を持っているはずですから。
 この記憶の問題なんですけど、『どーなつ』の中でも“『落語』と『落語家』の関係は、『電気熊のなかに蓄えられる記憶』と『電気熊の乗り手』の関係によく似ている”という記述が出てきますよね。とすると、もう一つ、北野さんのご職業である舞台俳優に関しても、『脚本』と『俳優』の関係にも良く似ているのではないでしょうか?
北野 >  まあ別にそれで生計を立ててるわけじゃないので、舞台は職業ではないです。
 でもそれを言い出せば小説のほうも職業らしくなったのは、今世紀にはいってからなんですけどね。
 それはおいといて、電気熊のほうは、どっちかといえばやっぱり落語のほうでしょうね。落語というのはあくまでも自分ひとりでやるものですから。ネタを演るというのは、回想にかなり近い行為だと思うんですよ。
 大変な目にあったのに、こうやって思い出してみると妙におかしいなあ、というのが落語のように思います。
 舞台の方は、なにしろそこには他人がいますからね。落語ほどの自由度はありません。あえて例えれば、メタフィクションの登場人物になったような感じでしょうか。
 じつはそこが舞台の上で、自分が虚構の登場人物であることを知っているのに、そんなこと知らないふりをしてその人物を客の前で演じてるなんて、メタフィクションそのままの状況じゃないですか。
雀部 >  なるほどそうですねえ。観客もそれがわかっている上で、感情移入しちゃうし。
 メタフィクションのお話が出たんですが、日本でメタフィクションと言えば、筒井康隆先生の作品が有名だと思います。ご自身も虚構を演じる俳優業もこなされていて、北野さんとの共通点がありますね。筒井先生の『虚航船団』が、世界史のパロディであるならば、北野さんの一連の作品群は、現在から未来史へのパロディ、もしくは虚構(小説だけではなくマンガとかTV番組を含む)の現代史のパロディであると言えるような気がします。
 そこでお聞きしたいのですが、北野さんのなかで、例えば「ウルトラQ」とか「ウルトラマン」、「ドラえもん」なんかは、現実と比してどれくらいの比重を持っているのでしょうか。
北野 >  どれくらいの比重というより、現実そのものでしょう。現実にテレビでやってたりマンガで読んだりしたのですから。感覚がいちばん鋭敏な頃に入力された情報でもあるし。
 なかでもテレビというのは強烈な現実で、なにしろビデオなんかない時代ですから見逃したらもう二度と見ることはできない。そして、一家にテレビは一台です。どうしても観たい番組は何日も前から家族と交渉したり、絶対にその時間に用事が入らないように、自分の生活すべてをその放映時間にあわせて調整しなければならない。これが現実でなくてなんだというのですか。

穴つながり?

雀部 >  確かに見逃したらアウトの時代でしたね。ドラマなんかも生放送のがありましたし。私は、実写版の「アトム」とか「鉄人28号」もリアルタイムで見た世代なんですが、鉄人なんかはあまりにしょぼくて、現実とは認めたくなかったなあ(爆)
 最後にお聞きしたいのですが、北野さんの作品には穴が重要なモチーフとして出てきますよね。商売柄、口には人一倍関心があるのですが、口は口腔とも言って、穴ぼこだし、虫歯は、別名齲窩といってこれも穴で、虫歯治療の短編もあります。これも、やはり穴つながりなのでしょうか(笑)
 それとも、最初の読者は奥様であるとのことですが、奥様は歯の形が大好きだと聞いたことがあります。奥様の影響で歯とか口の中に興味を持たれたのでしょうか。
北野 >  虫歯は怖いです。穴があいて、神経が剥き出しになっているというイメージがまず怖いですね。それがそのまま脳まで繋がっているというのがまた怖いです。穴があいているものだからついついそのなかを探りたくなって、楊枝みたいなものを入れたりして、どこまでも入っていく感じが怖いです。調子にのって奥まで入れて、それがなにかに触れて激痛がくる、というのも怖いですね。とりかえしのつかないことをしてしまったのではという気になります。
 もちろん、歯医者でドリルみたいなので穴を開けられるのも怖い。それを舌の先でさぐると、なんだか知らない感触で自分の歯でなくなってしまったようでまた怖い。
 歯を抜いたあとのなんにもなくなった感じはツングースの隕石穴みたいなものが自分の口のなかにできたようで怖い。
 これは子供の頃からで、別に妻の影響ではないはずですが、そう言われてみると確かに私の妻は歯医者で貰った自分の虫歯の型なんかを持っているようです。あれはいったいどういうつもりなのか、もしご存知でしたら教えてください。
雀部 >  歯の型は、たまに持って帰られる方がいらっしゃいますよ。抜いた歯とかも。あ、乳歯を抜いたときは、歯の形をしたケースに入れて子供さんに渡すのは普通です(笑)
 あ、そうだ。前回のインタビューのときにおうかがいした「牛丼DNA」(笑)はどうなりましたでしょうか。日記の方にも時々書かれているようなことが書いてありましたが。
北野 >  痛いところをつかれました。枚数はけっこう書いたんですが、最後までいけずにまだ抱えています。でも、他の小説の形でちょっとずつ蒸発していってしまうかもしれません。小説というのはなかなか思い通りにはいきませんね。
ヒラマド >  章切りしていない、長編のSFというのも読んでみたいです。これからも楽しませてもらいます。
北野 >  またまた痛いところをつかれました。そうですそうです。じつは私は、これまでの長編も短編の連作という意識でしか書いていません。自分では短編型だと思っています。
 そのうちなんとかしたいとは思っていますが、小説というのはなかなか思い通りにはいきませんね。まあ、それがおもしろいんですけど。
ケダ >  最後に今後の作品発表のご予定を、よろしければお聞かせください。
北野 >  今のところ、毎日中学生新聞の連載くらいしかありません。
 まあこれまでも、書きあがってから「こんなのあるんですけど、どうでしょうか」という感じで送りつけたりしていただけなので。ずっと書き続けてるのはあるんですが、はたしてどうなるかはわかりません。まったく、小説というのはなかなか思い通りににはいきませんね。
ケダ >  これからも、いろんな間口からいろんな趣味嗜好の読者が入りこんで、怖がったり、不思議がったり、ほのぼのしたりできる浪速の北野勇作小説を読ませていただけることを楽しみにしております。
 個人的には「帰ってきたかめくん」を読みたいんですが、そんなの出ないんだろうなあ……。
雀部 >  お忙しい中、インタビューにお答えいただきありがとうございました。
 おかしくって、ほのぼのしていて、それなのに切なくって、最後にじ〜んと来る北野ワールドが、いつまでも読めますように。
北野 >  どうなんでしょうねえ。とりあえずは自分の書くようなものが本になるような世界がもうしばらく続いてくれれば、私はそれでいいんですがね。


[北野勇作]
1962年、兵庫県生まれ。甲南大学応用物理学科卒。
1992年、『昔、火星のあった場所』(第四回ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作新潮社刊)
1994年、『クラゲの海に浮かぶ舟』(角川書店刊)
2001年、『かめくん』日本SF大賞受賞!
劇団『虚航船団パラメトリックオーケストラ』の役者でもある
ホームページ『北野勇作的箱庭
e-NOVELの北野勇作特集
[雀部]
50歳、歯科医、SF者、ハードSF研所員。
ホームページは、http://www.sasabe.com/
[ヒラマド]
Webサイト「ざぼん」を運営する会社員。日本で発行される新刊書籍のほぼ9割に触れられる幸せな仕事をしていながら、読書範囲は超ピンポイント……。
[ケダ]
牧野修ファンサイト管理人。ファン歴は3年強と短い上、SFもホラーもファンタジーも幻想もジャンルそのものには特に興味のない外周部のファンです、すみません(雀部談:そんなことをおっしゃってますが、けっこうお詳しいので驚きました)

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