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Author Interview

インタビューア:[雀部]

『フィニイ128のひみつ』
> 紺野あきちか著/岩郷重力カバー
> ISBN 4-15-208503-7
> ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
> 1575円
> 2003.7.31発行
粗筋:
 亡くなった叔父が握りしめていた紙切れに導かれ、私がヨットのキャビンで見つけたメモには、『フィニイ128のひみつ』と書かれていた。その一週間後、英語のニュースグループのなかで、偶然"finney128"という文字列を見つけた私は、その投稿者からの返事から「暁の舞踏会」を調べるべくアメリカ探索行に出発した。
 「暁の舞踏会」が何かを調べる私のもとに届いたのは、熱狂的な参加者が全世界規模で展開しているノンヴァーチャルRPG『W&W』への誘いだった。

ある時期からファンタシイしか受けつけなくなったんですよね

雀部 >  今月のインタビューは、『フィニイ128のひみつ』の著者、紺野あきちか先生です。紺野先生よろしくお願いします。
紺野 >  こちらこそ、よろしくお願いします。
雀部 >  この『フィニイ128のひみつ』が、早川書房から出版されることになった経緯など、かまわなければお教え下さい。
紺野 >  いわゆる持ち込みですね。『フィニイ〜』の原稿を送ったら《S-Fマガジン》の塩澤編集長から反応があって、「Jコレ」で出そうと思うので、こことあそこをもうちょっとわかりやすく直してください、と言われて。実績のある作家さんばかりのレーベルだったのでちょっとびっくりしたんですけど、言われてみると新世代作家云々って書いてあるし、なんとなくハードSF中心の叢書ってイメージがあったので作風的にどうなのかなと思ってたら、こういうのもふくめて展開するつもりだから気にするな、とおっしゃるので、じゃあ好きにやります、って。
雀部 >  今でも持ち込みあるんですねぇ。それで認められたってことは、『フィニイ128のひみつ』のインパクトが、それだけあったってことでしょうね。
 しかし、JコレってハードSFのイメージがありますかぁ?第一回配本には、確かにハードSFの『太陽の簒奪者』が含まれてますけど、後の二冊が『どーなつ』と『傀儡后』なんですけど(笑)
紺野 >  すみません。ハードSFというと語弊がありますね。なんていうか、理系的でなく、かつ幻想味も強くない作品というと、当時は佐藤哲也さんの『妻の帝国』しか思いつかなくて。
雀部 >  幻想味が強くないというと、確かに『妻の帝国』しかないですね。SFとファンタジーの中間が少ない(笑)
 この本、後書きが無いですよね。SFだとたいてい後書きがあるんで、ちょっと奇異な感じを受けました(笑) 裏表紙の著者紹介も二行だし(Jコレクション中最短)
 これはなにか理由がおありでしょうか?
紺野 >  いえ、それは単に書くことがなかったので。本文で力つきてしまったし、あとがきはない方が普通だと思っていましたし。
雀部 >  紺野先生が単なるSF者ではないことがよくわかります(笑) SFだと単行本でもたいてい後書きがありますから。SFマガジンの'03/9月号のインタビューで、現代アメリカ文学に影響を受け、SFでは、作中でも言及されているヴォネガットやバラードを挙げられていますが、他にお好きなSF作家はいらっしゃいますか?
紺野 >  SFの影響は、基本的に文体的なものなんですよね。若いころ読んでいたのが、SFをふくめて海外作品ばかりだったので。
 SF作家でヴォネガットとバラード以外だと、アルフレッド・ベスターの短篇が好きです。一行たりともまともな文章を書く気がないような、過剰に知的な感覚が。それから10代のころから一貫してけっこう重要な存在が、星新一さんですね。日本とか海外とか関係なく。
 自分の中の文学的な何かに火をつけてくれたのは大学時代に読んだカミュとジョイスで、20代のころ何度も何度も読み返したのがダグラス・クープランドの『ジェネレーションX』なんですけど、この辺のお話は、お題の範囲外になってしまいますね――
 これでも12歳くらいのころは海外SFばかり読んでたんですけど、ある時期からファンタシイしか受けつけなくなったんですよね。いわゆるヒロイック・ファンタシイのファンで。今でも作家の中の作家だと思うのはロバート・E・ハワードで、映画『草の上の月』は涙なしには観られません。
 まあ、そうはいいつつ、いまは国産のライトノベルもよく読むんですけど。
雀部 >  『草の上の月』は心にしみる映画(ビデオで見たんですが)でした。ハワード氏があんな繊細な人物だったとは。どうしてもコナンのイメージがありますからねぇ。
 では、星新一先生が重要というのは、どの点においてでしょうか?
紺野 >  うまく言えないんですけど、モラルに関することというか、ある種の枷をもって書くという姿勢でしょうか。これはヴォネガットにも感じることですけど。
 もっと具体的な影響もあると思いますが。平易な文章とか、ショート・ショートゆえの展開の速さとか、時事風俗を書かないとか――まあ、ぼくは書くんですけどね。
 小説とはかくあるべし、というひとつの規範をあたえてくれたと思います。
雀部 >  下ネタを書かないとか(際どいのはありますが^^;)
 ある時からファンタシイしか受け付けなくなったのは、なにか理由があったのでしょうか?
紺野 >  文明否定と野蛮回帰というのが、ある種のファンタシイの本質だと思うんです。ハワードがかつて Beyond the Black River で、野蛮こそが人間の自然な状態であり、文明は“a whim of circumstance”にすぎない、と書いたように。中・高生時代の自分は、ヒロイック・ファンタシイの根本にあるこの思春期的な思想に、もろに同調しちゃったんでしょう。
 1980年代にファンタシイとTRPGとパソコン文化がいっぺんに日本に入ってきたときに、マーケティングの受け手側にいた人間の気分というのは、なかなか説明しづらいものがあって――冷戦下で加速する「情報化」や「映像化」のイメージを真に受けて、同世代の一部が音楽のニューウェイヴなんかに逃げ込んでいたのと同様、自分はファンタシイに逃げ込んでいた、みたいな世代論的な説明もできなくはないんですが――とにかく当時を思いだすキーワードといえば、サイバーパンクとかよりも、ファンタシイとか、TRPGやコンピュータRPGのもつ双方向性の衝撃の方が先にきてしまいますね。
 今さらの話だし、そういうことばかり考えるのもいいかげん飽きてきましたけど。

『猫のゆりかご』

雀部 >  一番多感な思春期にゲームとファンタジーの洗礼をお受けになり、その衝撃による影響が大きかったと。
 では、そろそろ本題に。
 え〜、小説をどう読むかは本来読者にゆだねられた行為であって、特に『フィニイ128のひみつ』のような性格の本について著者にお聞きするのは、禁じ手だとは思うんです。しかし、どうしても『フィニイ128のひみつ』のひみつについて知りたい気持ちがむらむらと溢れ出て来て、紺野先生にご無理を言ってしまいました(爆)
 では、紺野先生よろしくお願いします。
 前述の、SFマガジンのインタビューで「この小説のコンセプトは、ヴォネガットの『猫のゆりかご』の1990年代版だった」とおっしゃられていますが、骨格として『猫のゆりかご』を踏襲されているわけですね?
紺野 >  了解しました。できるだけ疑問に答えてみたいと思います。
 まず『猫のゆりかご』との関連については、その通りです。決して作品世界が地つづきである、というような意味ではありませんが、『フィニイ〜』は、ヴォネガットが『猫のゆりかご』で提示した「信仰(宗教)と現実逃避」の問題を、もう一度とりあつかおうとした作品です。
 つまり、この小説に登場する「ウィザーズ&ウォーローズ」というRPGは、『猫のゆりかご』に登場するボコノン教の、いわばなれの果てなんです。要するに、最終的にフィクションに閉じこもる話じゃなくて、こちらは最初っから、現実から逃げまわってる人たちのお話。
 それ以外にも作品中に、意識的・無意識的にヴォネガットを反映した部分はたくさんあります。たとえば作中に登場するステイプル・X博士の思想に、形骸化した〈フォーマ〉信仰をみるといったことは容易だと思います。
雀部 >  少し分かりかけてきました。
 ある人たちにとっては、ゲームが宗教の代わりになりうると考えても良いのでしょうか?
紺野 >  というか、ゲームをそうしたものの戯画としてえがいています。
 もともとぼくは特定の作家や小説ではなく、現代アメリカのサブカルチャーの方に関心があったんですよね。特に1990年代というのは、アメリカでそれまで地下に潜伏してきた“オルタナティヴ”な思想が浮上した時代で、――だから実際に、作品の舞台も'90年代を選んでいるんですが――そうした中で気になっていたのが、ある時点までは精神的マイノリティのための「よい思想」として機能していたはずのオルタナティヴの思想が、いつのまにか個人崇拝や階層化などの、典型的なカルトの兆候を示すようになっていたことです。《S-Fマガジン》では〈オルタナティヴのカルト性/カルトのオルタナティヴ性〉という言い方をしましたけど、カルトの根底には反体制的な思考が潜伏しており、逆に反体制の思想は容易にカルトへと転化するんです。
 そういうことを考えるうちに自分のなかで重要さが増してきたのが、むかしから愛読していた『猫のゆりかご』という小説だったんですが、同時に、1960年代当時の「こんなひどい世の中だから、少しぐらいフィクションに逃げ込んだっていいよね」というこの小説の――すこし乱暴にまとめますが――結論は、もはや半分しか機能しなくなっているのではないか、という疑問が浮かんできて、それがぼくが『フィニイ〜』にとりかかった直接の動機です。
 つまりヴォネガットにおいては正しかった、〈無害なウソ〉への現実逃避が、継ぎ目なく〈有害なウソ〉、つまりカルト的狂信へと転化してしまうことを、現代という時代はもう知っています。逃避は不可避だけど、それはフィクションに無際限に逃げ込んでもいい、ということを意味しない。『フィニイ〜』の最大の関心は、ナードたちの姿を通じて、その違いを考えることにありました。
雀部 >  途中ですいません。このオルタナティヴの思想というのは元々は具体的にはどういうものを指したのでしょうか。
紺野 >  えーと、ぼくがいちばん影響を受けたのがロックなんで、ロックの話でいうと、1980年代にはブラック・フラッグやソニック・ユースやバットホール・サーファーズ等々のバンドが体現していた精神で、'90年代初頭にニルヴァーナと一連のシアトル産バンドのブレイクとともに一気にメジャー化した運動、ということになっています。その後いろんなところに拡散したり尖鋭化したり誤解されたりして、今は一部のエモ系バンドなんかに形だけ生き残っていたりするような――いや、ほんとはむしろ別のところにたくさん残ってるんですけど、今はほかの見方を披露している余裕はないんで、これで勘弁してください。
 何というか、スタイル的な共通項というより、ある種の原理回帰とか反時代精神とでも呼ぶべきものです。とりあえずぼくにとって“オルタナティヴ”といえば、マッドハニーとプライマスとメルヴィンズのことでしかないですけどね!
 '90年代以降、というと『新世紀エヴァンゲリオン』がすべてを変えたかのように語られるし、あれはあれで素晴らしい作品だと思いますけど、自分にとってはグランジとの遭遇の方が先で、衝撃度もはるかに上だったんで、それを生み出したアメリカという国の土壌はどうしても気になってしまいます。今やアメリカの病理は、アメリカだけの問題ではなくなってしまいましたしね。
雀部 >  三男がロック小僧なので聞いてみたら、そんな有名なことも知らないのかと言われました。う〜む(汗)
 ところで『猫のゆりかご』は127章、『フィニイ128のひみつ』は、128章。これも関係あるんですか?
紺野 >  まあ、そこはどうにでも答えようがあるので返答に迷うのですが、そもそも128の節に分けるというのは、着想した瞬間に決まっていたことなのです。
 ぼくはむかしからヴォネガット風のものを書いていたわけではないし、実際、違う部分もかなり目立つ小説だと思います。あえてヴォネガット風の寓話スタイルを借用したのは、単なるオマージュのたぐいではなく、『猫のゆりかご』とのテーマ的なつながりを明確に意識してもらうためなんです。
 だから、よく勘違いされるようなんですが、これはいわゆる“ディック風”の〈現実〉と〈虚構〉が混淆していくタイプの小説でも、最後に壮大なクライマックスが待ち受ける、「世界の謎を解きあかす」タイプのSF探求譚でもないんですよね。ヴォネガットを参照していることは言わずもがなだと思っていたから、どうしてむりやり別の定型で読まれるのか、不思議でしょうがなかったですね。

ゲーム的な不条理感覚をもったインタラクティヴな青春小説

雀部 >  『猫のゆりかご』とのテーマ的なつながりが重要であるということですね。
 章が、01〜0F、とかに分けられているのは、プログラムの時などに使われる16進法ですよね?
紺野 >  はい。この小説はアナログのLARP(ライヴ=アクション・ロールプレイング)を素材にとっていますが、それと同じくらい、8ビット時代のコンピュータRPGにも影響されて書かれた作品ですので。
 コンピュータRPGの本当の主人公は、世界なんですよ。プレイヤーはモニターという窓から、世界の一部をちょっとずつだけ垣間みせてもらえるんです。初期の《ウルティマI・II》なんか、キャラクターのCGは中心に固定で、テンキーを動かすと、「世界」の方が動くんですよ!
 主人公が単なる「窓」でしかないこういう一人称感覚って、主人公はTVカメラを回しているだけで最後まで画面に映ってこない映画とか、あるいは読者の視界をひどく制限する、カミュの端正な一人称にも似たもどかしさがあって、そういうゲーム的な不条理感覚をもったインタラクティヴな青春小説を書きたい、という思いはむかしから持っていました。
 まあ、とりあえず16進法については、0A、0B――と来たあたりで「これはまともな小説じゃない」ということに気づいてもらえれば充分なんですが。
雀部 >  いわゆる"まともな小説"じゃないというのは、直ぐに気がつくと思います(爆)
 そうするとなにやら背後で進行しているらしい事件は、登場人物たちにとっては現実の出来事なんですね?
紺野 >  「これは現実か夢のなかの話か」みたいな議論って不毛だと思うんですよね。小説は小説なんだから。
 ともあれこの作品に関しては、極度に現実からはなれた話にしようという発想は最初からありませんでした。たとえば〈虚構〉が〈現実〉を転覆するタイプのメタフィクションは、すでにほかの人がたくさん書いていて、あらためてぼくが書く必要はないし、それに「現実もまたひとつの虚構にすぎない」という言い方は、「現実を認めたくない」人たちの“願望”と容易に結びついてしまう。まさにそういう逃避的な人々をあつかった作品を、そんな無責任な地点に着地させるわけにはいかなかったんですよね。
 それに過度な虚構性の強調が、フィクションにおける「人の死」をひどく軽いものにしてしまうのもイヤでした。これは人の命がかかった、同時にとても卑小な物語ですから、それにともなう居ごこちの悪さは最後まで残しておきたかった。
雀部 >  小説は小説だからというのは全くそのとおりなんですけど(汗)今まで読んだことのない、しかも新人作家の方で後書きもない作品ということで、どうしても色々勘ぐってしまいたくなるんです。例えばファンタジーとSFでは作品に求めるものも違ってきますから(笑)
 居心地の悪さは、確かにずっと付きまとってました。なるほど、これは作者の手の中で踊らされていたんですね。
 では、その現実世界の出来事が、例えば神の視点から多く語られるというという形式を取らずにわざと情報不足な描き方をされているのはなぜでしょうか?
紺野 >  むしろもっと曖昧にしたかったし、情報も足りてると思うんですけどね。
 ジョイスの『ダブリンの市民』の短篇の視点の使い方が好きなんですよ。「語り手にとって当然の事実は説明されない」「語り手の視界に入らないものは語られない」という一種のリアリズムの原則を徹底して、卑近なできごとの描写に終始するあまり、背後の世界で進行するもうひとつの物語が、異化されてはるか遠景に追いやられてしまうという。限定された視界から世界全体をえがこうとする点で、ある種のコンピュータRPGにも通じる感覚だと思います。まあ、ジョイスに影響されたのは、おもに基本的な考え方においてですけれど。
 そうした「世界の物語」と「個人の物語」を、徹底した一人称で描こうとしたのが『フィニイ〜』の初稿で、いま思えば、そこから過剰な部分を上手に刈り込んで文体をびしっと磨いてやれば、あるいは村上春樹さん風の青春小説にでもなったのかもしれませんが、実際の初稿はその辺半端な代物で、一発でOKは出なかったので、じゃあどうしようかと自分なりに考えなおして、せっかくゲームを題材にとっているのだからと、ゲーム的手法をもっと大胆に導入することにしたわけです。
 つまり一回のプレイでは世界の全貌はみえず、各キャラクターの行動線が錯綜し、分岐をまちがえば伏線は置き去りにされ、イベントは強制的に進行する。いわゆる小説らしくない異常な要素というのはほとんどこの辺からきていて、これは完全に意識的にやったことです。まあ、お望みなら人生の不条理な一回性なり、あるいはゲームのライヴ性なりを小説として表現した、と言い換えてみてもかまいませんけれど。
 だから最終的に一人称を徹底しきれなかった部分もあるし、また、読み手を混乱させる要素があるとすれば、それはむしろ全体に情報が増えた結果じゃないかと思います。
雀部 >  ジョイスとRPGですか。私には、気づかないはずだ。高校の時にギリシャ神話かと思い『ユリシーズ』を図書館で借りて、めげてしまいました(爆)
 SFマガジンのインタビューで「クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』を先に読んでいたら、『フィニイ128のひみつ』は書けなかった」とおっしゃられていますが、こうやってお話を聞かせていただいた後だと、作品の目指す方向性は、全然異なっていますよね。このインタビューを読んでいたんで、現実か夢(ゲーム)かというのが気になった、というのはあるんです。
紺野 >  それが、本のかたちならではのむずかしさなのかもしれませんね。
 作者はあくまで本文だけが唯一の判断材料、という前提で最初から全力投球しているわけですよ。タイトルがあって扉があって、変なエピグラフがあって、何かステキな冒険ものっぽく話が離陸したと思ったら、「ええっ、そっちに行っちゃうの?」って感じで話がくるくると失速して、そのまま一向に還ってくる気配がない――みたいな方向性の揺らぎを最後まで楽しんでもらおうとしているわけです。
 それが本というパッケージになると、本文以外にもカバーや内容紹介や、あるいはこうしたインタビューといった予断の材料が色々ついてきてしまうし、たとえば「ゲームの話です」ってあらすじに書いてあるだけでも、本来最初から最後までどう転ぶかわからないふらふらした話として書かれたものが、何やらメインの「本編」があって、そこまでは本編につなげるための退屈な序章、みたいに思われかねませんからね。これから読む人は、何もかも一切みなかったことにして読んでもらいましょうか?
 『ユニヴァーサル野球協会』に関してはおっしゃる通りで、知らないフリをする気はないし、事実好きな作品ですけど、あれは「作者と作品の関係」ということにこだわって書かれた小説だと思うし、むいてる方向は全然ちがいますよね。
 ぼくはアメリカ国内の世代間の問題とかを延々と考えているうちにこういうものを書いてしまったわけで、その結果むしろピンチョンの陰謀史観に近づいた風もなくはないのですが、それも特に意識した結果ではなくて。これは、何というか、もっと青春小説なんですよね。
雀部 >  読まなかったことにできるなら、確かにそのほうが良いかも。で、このインタビューを読んで、もう一度読み返してもらえれば、一粒で二度美味しい(笑)
 まあ、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションから出たということで、まずSFとして読まれますよね。私もそうだし、誰も青春小説とは思わない(爆)
 『フィニイ128のひみつ』にとっては、不本意な読まれ方かも知れませんが、その一方で、SF界は紺野先生という得難い書き手を手に入れたとも言えます。
 考えるにこの『フィニイ128のひみつ』は、SFというよりは、ヴォネガット氏や、さきほど名前の出たピンチョン氏寄りのメインストリーム系の実験小説として読んだほうが良いように思いました。
紺野 >  そんな名前がならんでいると、さすがに腰が引けますが。精進します。
 ただ、いわゆる「ポストモダン作家」のなかでは、ヴォネガットってちょっと特異な存在だと思うんですよね。きたるべき未来をまるで歓迎していないというか、はっきり言うと単なる説教オヤジというか。彼がポストモダン作家に分類されているのをみると、まあ文学史的にはそれでいいんでしょうけど、なんか違和感をおぼえます。モダンじゃないのって。
 ピンチョンは実は最近になってハマってるんですけど、彼は寓意というよりも隠喩の作家だと思っていて、テーマ的にも意識してしかるべき作家だったと思うんですが、執筆当時は全然頭においてなくて。そういう意味でも、『フィニイ〜』を書くうえで特にこだわったのは、ヴォネガットをおいてほかにないですね。

アメリカに存在する価値の一元化圧力とその反動

雀部 >  ヴォネガット氏は私の中では、クールにボケたおす話を書くオヤジだな(笑)
 ピンチョン氏の方は、オールドSFファンには難しすぎます(爆)
 『フィニイ128のひみつ』の秘密というか謎についてもお聞きしたいんですが、例えば、テイラーと女の子の<てら>と地球のテラと名前の類似性を追求するのは意味がありますか?
紺野 >  うーん、これは推理小説やパズルじゃなくて寓話なわけで、くらげをクジラだと思い込んだままいくらつつきまわしても、永久に何も出てこないと思いますよ。くらげにはくらげの体構造というか、ロジックがあるわけで。
 それに、TaylorとTerraの発音って全然似てないと思うんですけど……
雀部 >  あれま、そうなのかぁ。ミステリじゃないんですね(汗^2)
 では、この『フィニイ128のひみつ』も主人公の青春小説であるとともに、背景で起こっているらしい世界的な災厄があるのですが、これはジョイス的もしくはある種のRPG的に主人公の視点からの情報に制限されているんですね。SFファンは説明されるのに慣れちゃってるからなぁ、分からないわけだ(爆)
 SFではディレイニー氏という、物語が二重構造をしている作品(『アインシュタイン交点』とか『時は準宝石の螺旋のように』とか)を書かれる作家がいるんですが『フィニイ128のひみつ』も、表向きのお話とは別に、なにか象徴的な意味合いを持ったテーマが存在しているのでしょうか。
紺野 >  あります。逆に、いったんコードを見落とすといちばんわけがわからないところだと思うので、基本的なところから説明しましょうか。
 つまり一人称の、ままならない視点の背後で進行しているのは、現代アメリカの国内問題と世界全体の問題の寓話なんです。むかし『ナーズの復讐』なんて映画もありましたけど、アメリカの、特に田舎の州の学生社会には、ジョックと呼ばれるスポーツ選手、特にフットボール選手たちや、女子の場合はチアリーダーを頂点に置くような、保守的な、一元的価値観が根強くあって、そこからハミ出した人はみんな二流とみなされて、ナードとかギークとかゴスとかに細分化される精神的マイノリティになってしまっている現実があります。
 たとえば1999年のコロンバイン高校の悲劇というのは、迫害されていた「ゴス」たちが自衛のために“トレンチコート・マフィア”を結成して、ジョックスを殺してまわった事件として記憶されていますよね。あの事件で「実際に」何があったかについては、われわれには永遠にわからないわけですけど。
 そうした歪みの犠牲者、あるいは代弁者として、たとえばウィーザーのリヴァース・クオモやマリリン・マンソンのようなミュージシャンがナードやゴスたちから偶像視されている現実があるわけだし、リヴァースなんか歌のなかでいきなり「自分はD&Dプレイヤーだ」ってカミングアウトしてた人ですからね。アメリカでLARPとしても人気のあるTRPGの「ヴァンパイア:ザ・マスカレード」なんかも、“地下に潜伏して暗闘する吸血鬼たち”という設定が、ゴスとしてのプレイヤーたち自身の隠喩になっているような批評性があって、その辺が面白いと思うんです。作中の「W&W」という架空のゲームをささえているものも、そうした支配的価値観に対するある種の敵意で。
 で、この小説では、主流からはずれたそういうオルタナティヴな人々は、「かつて支配者であった何か巨大なもの」――たとえば恐竜とか太陰暦とか女性原理とか、あるいは“南半球”とか――に自分たちの姿を仮託して、いつかくる逆襲の日を夢みているわけです。そういう発想って1980年代のオルタナティヴ・ロック・バンドの名前に典型的で、J・マスシスは自分のバンドを「ダイナソーJr.」と名づけたし、スティーヴ・アルビニは「ビッグ・ブラック(黒い巨大な何か)」と称した。作中で一貫してもちいたのも、そういう“社会の片隅に押しやられていたものが逆襲する”という神話的モチーフで、単なる趣味的なゲーム設定というわけではないんですよね。
 『フィニイ〜』で創作したそうした設定のなかでひとつ重要なのが、「ローラシア(北半球)/ゴンドワナ(南半球)」という二項対立です。つまりこの小説は、本来は「ジョック対ナード」というアメリカの国内問題だったはずの二項対立が、「ローラシア対ゴンドワナ」というイデオロギー的図式や、あるいは個人崇拝といった一連の過程を経て、「マジョリティ対マイノリティ」「北半球対南半球」とどんどん拡大解釈されてカルト的に尖鋭化していき、――第二次大戦中の“アーリア人”のメタファーのたぐいを連想してもらってもかまいませんが――アメリカの国内対立が鏡像のように世界情勢に敷衍していく、という、いわば政治的ファンタシイの構造になっています。
 それらすべてを引き起こしているものは、アメリカという国に存在する価値の一元化圧力とその反動です。9.11同時多発テロはこの小説の改稿中に起きてしまって、大枠としての構図が非常に似ているのでどうしようかと思ったんですけど、意識しつつも大きな変更はしませんでした。だからこれは結果的にアナザー9.11というか、その前史的な内容になっていると思います。
雀部 >  そこらあたりはSFマガジンのインタビューでも触れられていたんですけど、私には分かりづらかったんです。なるほど大元は、アメリカに存在する価値の一元化圧力なんですね。現在も続いているイラク戦争(?)も、イスラム世界にアメリカの規範を無理に持ち込もうとしている感じがします。
 ところで、bk1の著者コメントで、「ところでこの作品の内部には、ある巨大なカタストロフィが用意されています。ふたつのことに気がつけば、進行中の終局的な事態がはっきりと浮かびあがってきます。しかしその帰結は、通常の方法によっては提示されません。」「そこにたどりつくには、意識である彼女はあまりにも明晰だからです。」ってあるんですが……
紺野 >  あー、あのコメントはもう忘れてください。あくまで“おまけ”ぐらいのつもりで書いたんですけど、文字どおりに解釈する人がいたらかえって混乱するだけだし、ここでいちいちロジカルに説明しなおしてる余裕もないし。すみません。
 あと、オビやあらすじのこともなぜかよく聞かれるんですけど、それは作者が書いたものじゃないのでぼくに聞かないでくださいね。
 そのコメントの部分ですが、何の話をしているかというと、つまりきたるべき破局の予感にいろどられた「世界の物語」とは別に、近景にある「個人の物語」の方はある意味神話的な構造をもっていて、これは意識の世界の住人による無意識への探索行という、いわば変形オルフェウス神話のようなかたちをとっているんですが、ただその結末については、ぼくはどうしてもはっきりと書きたくない部分があったんですね。それが、事件の核心から疎外された語り手の視界から、外れてしまっている部分です。
 その決着のしかたとしては、最後にちょっと乱暴にハンドルを切った個所があって、おそらくそれが「謎解き小説」と誤解される原因になっていると思うのですが、これはテーマ全体からみればメインでもなんでもない小さなことでしかなくて、謎が解けたからどう、という性質のものではありません。あくまで「ところで」くらいの話なんですよ。
 だからいわゆるミステリ小説で流行のトリックのたぐいを使ったりはしていないし、攪乱のために無関係な情報を挿入したわけでもない。ただ断片的に語られているというだけで、いったん線がつながってしまえば、何だ、そういうことか、というようなささいなお話で、そもそも知ろうとする必要もないんです。
雀部 >  ジョイス氏的に主人公が知り得ないことは描かれていないと。それで、そもそも主人公の性別すら私にはよくわからない。確かにあまりに自明なので、なにもなければ俺は男だと自分に言い聞かせたりしませんね(笑)
 そう言われるとこの話はミステリではなくて、主人公が「人生は、なんと不条理なものなのか。」ということに気づく「青春小説」のような気がしてきました(爆)
紺野 >  まあ、ジョイスは端的な例で、自明なことをえがかないというのは、むしろ常識的な文学作法としてやったことですけどね。それも無際限にとはいかなくて、相当逸脱しているようにみえてもどこかでバランスをとらないといけないし。
 青春小説的というのは、ビルドゥングス・ロマンということではなくて、もっと狭い、すこしネガティヴな意味で言っています。勝ち目のない試合で延々と敗戦処理をやっているような、慢性の失望感とでもいうか。そういう感傷って、ブンガク的にはマイナス評価されるだけの部分だし、大部分の人にとっても辛気くさいだけでしょう。
 上でいろいろ話したようなことにしても、少なくとも大枠についてはあとで後悔しそうなくらい解説したし、たしかに自分の“考えていたこと”はそうだったのかもしれないけど、あらためて自分で読みかえしてみたら、なんだかまるで感触のちがう作品のような気もしますしね。

「W&W」というゲーム

雀部 >  私の鈍い頭でも、肝心の所はだいぶ分かってきたみたいです。理解できたとはとても言えませんが(汗笑)そういった、難しいところは抜きにしても作中の「W&W」というゲームは魅力的ですね。最初読んだときは、隠された意味合いなどは全然分からなかったので、単純にゲームの進行を楽しんでました(爆) これは、紺野先生のオリジナルのストーリーですよね。
紺野 >  どうなんでしょうね。すくなくともむかしの米国のTVドラマの『アメリカン・ヒーロー』に出てきた“Wizards and Warlocks”という架空のゲームの影響については、読む人が読めばすぐにわかるだろうし、隠す気もありません。そういったことについては、実際に作品を読んだ人がどう思ったかを聞く方が、ぼくとしては楽しいんですが。
 実際のストーリー展開には、ゲームの主人公って何なんだろうな、という疑問が反映しているかもしれません。なぜだか知らないけど特別で、ほかのキャラクターのように世界の一部ではない存在。小説とは微妙に違いますよね。
雀部 >  このゲームの場面転換の時は、勝敗(進行)を決める手段がじゃんけんということで、なんかしょぼくて面白かったです。これはわざとなんですか。それともこういうゲームでは普通の手段なんでしょうか?
紺野 >  実際のLARPではじゃんけん推奨って書いてあるルールもあるし、カードやダイスを使う場合もあるし、現場の都合によって色々じゃないでしょうか? 本来は厳密さよりも楽しさ優先でライヴ的に処理するものだし、作中の描写でも、プレイヤーとキャラクターの区別が段々いいかげんになっていったりするでしょう?
 作品中でどうしてじゃんけんなのかは、ご想像におまかせします。
雀部 >  今回はお忙しいところ『フィニイ128のひみつ』の核心に迫るお話を聞かせていただきありがとうございました。これだけのヒントが提示されれば、後どう読むかは読者次第ということですね。
 最後に、次の出版予定とか、現在執筆中の本がございましたら、お教え下さい。
 SF界では、実験小説的な作品を書かれる方は少ないので、期待しております。
紺野 >  いまは長めのやつにとりかかっているんですけど、ひどく効率の悪い書き方を考えていて、ちょっと長引きそうな感じです。それより先に短篇がふらっと出ることはあるかもしれません。
 個人的には、コースのはずれ方に微妙なコントロールを要するような作品は「実験小説」とは言えないと思いますが、まあ、あまりに普通のスタイルのものは、自分が読みたくないので書かないと思います。
 こちらこそ、ありがとうございました。
雀部 >  いえいえ、こちらこそ、色々ネタばらしをして頂き申し訳なかったです。
 このインタビューが契機となり、もう一度読み返す人とか、新たに読んでみようと思う人が出てくれば、うれしいのですが。


[紺野あきちか]
'71年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。本書がデビュー作
[雀部]
ゲームには疎いハードSF研所員。ついでにジョイスとかピンチョンとかも苦手(爆)

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