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Author Interview

インタビュアー:[雀部]

『夏の滴』
> 桐生祐狩著/山田博之画
> ISBN 4-04-873309-5
> 角川書店
> 1500円
> 2001.6.30発行
 夏休みに入り、藤山真介(僕)、徳田、河合の3人は、突然転校してしまった同級生の桃山ヨハネの消息を訪ねて東京へ向かっていた。そこへ突然知り合いのレポーターの女性が現れるが……
 ちょっと前、夏休み直前にクラスで突然流行りはじめたのが、八重垣といういじめられっ子の女生徒が持ってきた「植物占い」。二百二十種類もの分類があるその占いの人気は、クラスを席巻した。その日の運勢も教えてくれるテレホンサービスも登場し盛り上がるが、クラスのひとりが「植物占い」の通りに怪我をしてしまい、それっきり姿を見せなくなってしまった。
 この小学校4年生の悪ガキ三人組、その中の一人徳田という生徒は足が不自由で車椅子の生活なのだが、その徳田と仲間たちの暮らしぶりを、毎年テレビ局が取材し『とっきーと3組のなかまたち』という番組として放映されていた。あと、突然転校していった桃山の父親は、彼らの住んでいる街がバックアップしていたが見事にこけてしまい莫大な借金だけが残った「伝統工芸博覧会」というイベントのメインスポンサーの企業グループに勤めていた。
 これらの要素が絡み合い、少年たちはその流れに流されながら怒濤の結末へと……

『フロストハート』
> 桐生祐狩著/沢田竜彦写真
> ISBN 4-04-873441-5
> 角川書店
> 1800円
> 2002.12.25発行
 須藤千香子の両親は、腎臓病の弟の腎臓移植のためにオーストラリアに滞在していた。そこで移植のためドナーの出現を待っているのだ。両親にお金を届けに行った千香子は、単身オーストラリアから帰国したのだが、たまたま駅でぶつかった男が薦めるまま一緒に怪しげな喫茶店へ入る。その喫茶店の中で、突然千香子の目の前に、三十代になった自分が南国のリゾート地で優雅にバカンスを過ごしている状景が現れる。我にかえって店を出ると、さっきまで一緒にいた男が踊り場で死んでいた。
 実家に帰った千香子を出迎えたのは、年老いた祖母と他人のための妊娠を繰り返してお金を稼いでいる姉の多佳子だった。これに、新興宗教に凝る叔父夫婦、奇石を集める医者がからみ、とんでもない結末へと……(しかし、こういう設定で途中から時間SFの要素も出てくると想像できます?^^;)

『剣の門』
> 桐生祐狩著/田島照久画
> ISBN 4-04-370301-5
> 角川文庫
> 781円
> 2003.3.10発行
 女優を目指しニューヨークの学校に留学している圭子のもとに14才になる妹の瑛が訪ねてきて一週間。圭子は、明日に迫った演劇科の発表会で上演するシェイクスピアの『から騒ぎ』の準備に余念がなかった。圭子は、他人の言うことはなんでも鵜呑みにして利用される、人が良いにも程がある瑛のことが心配でならなかった。梱包した荷物を郵便局に預けるべくニューヨークの下町に出かけた二人だが、ある出来事から荷物の一つが行方不明となりそれを探す羽目に。
 一方そのころ、生きたまま犠牲者の肉体を、まるでケーキのように切り分けて殺す異常殺人鬼、通称<ケーキサーバー>事件が連日ニュースを賑わせていた。

『物魂』
> 桐生祐狩著/戸澤泰偉カバー
> ISBN 4-7584-3114-0
> ハルキ・ホラー文庫
> 560円
> 2004.7.18発行
 人形愛好家の祐里子は、人形の気持ちが分かるという人形修理師と「半月堂」で出会う。
 一方、編集者の中尾と四十沢、占い師の玄武リドヴィーナ、歌人の遊佐緑子、サブカルチャー評論家の吉見昌弘らは、食事会を開きつつ、近く開催される予定の『少女の鑑』というイベントの準備を行っていた。ある日の食事中、突然彼らの前に見知らぬ男が現れ「あなたたちは、まもなくすべて死にます」と告げ何処ともなく消え去った。その予言どおり、その時たまたま参加してなかった四十沢は、体中を切り刻まれた惨殺死体で発見された。かつて彼らは、吉見の弟子を一人彼らのサークルから追い出した後、人形に対してあるおぞましい行為を行っていたのだった……

『小説探偵GEDO』
> 桐生祐狩著/笹井一個画
> ISBN 4-15-208581-9
> ハヤカワSFシリーズ Jコレクション
> 1800円
> 2004.7.31発行
 おれの名前は三神外道、通称“げど”。酒と小説を愛するしがない広告屋だ。だがおれには眠ることで小説世界に侵入できる「小説探偵」としての顔があるのだ。
 今日もげどは、とびっきり美人の女性から、小説のなかでは殺されたことになっている息子の諄一を捜して欲しいとの依頼を受けていた。彼女はミステリ小説『黄金の船』の登場人物だが、自分の意志でこちらの世界にやってきていて、夜は駅前のクラブで働いているというのだ。
 げどが眠ってたどりつく小説への入り口は、毒きのこみたいな屋根をした川縁の家で、そこには悪い小人のような爺さんと、子供の頃に大切にしていたテディベアの姿をしたグムがいる。この爺さんがげどのために、いろいろな服装やアイテムを用意してくれるのだ。


雀部 >  今月は、昨年の7月にハヤカワSFシリーズ Jコレクションから『小説探偵GEDO』を 出された桐生祐狩先生です。桐生先生、よろしくお願いします。
桐生 >  こちらこそよろしくお願いいたします。駆け出しですが頑張って答えていきたいと思います。
雀部 >  SFマガジン'04/9月号のインタビューで“日本SFは星新一から入って筒井康隆に行って”とコメントされていますが、筒井作品のどういうところに心惹かれたのでしょうか。
桐生 >  たいへん単純明快きわまりない返事となってしまいますが、ドタバタ&スラップスティックな要素にです。母親の腹の中に社会性というものを落っことしてきたらしく、とにかく物心ついた時から規則を守らされたり秩序に配慮させられるのが大嫌い。あちこちで言ってることですが、デビュー作「夏の滴」に登場する八重垣潤という少女はまるっきり私がモデルです。「規則を守れ」「自分の属する社会に配慮した行動をとれ」というのは為政者(大げさですが)の捏造した嘘だと思っていましたし、それだけに筒井作品を読んだときの感激はものすごく(ハヤカワポケSF版の「馬は土曜に蒼ざめる」が最初だったと思います。小学三年生のころかな?)、「ほれ見ろ! やっぱりあたしのやり方で正しいんじゃないか!」と確信を強めました。今も昔も私の本心というものは、「面白いほうが正しい」「例外こそ真実」というもので、さらに生来不潔系の描写が大好きで、これはもうモーツアルトも罹っていたというトゥーレット症候群(やたら汚くてヒワイな言葉をわめきちらす精神病)だと思うのですが、糞尿だの皮膚病だのぐちゃぐちゃ死体だのを、花の好きな人が花を愛するように愛しております。小学校に筒井氏の短編集持ってって「最高級有機質肥料」を朗読してましたからね。「夏の滴」の八重垣潤と同じように、面白がってくれる同級生もおりましたですよ。やっぱり女の子(←誰がやねん)ですから「七瀬シリーズとか好きで」なんて言ったほうがいいのでしょうが私の愛する筒井作品はドタバタスカトロぐちゃぐちゃ系です。
 偏愛作品を言ってったらキリがないのでやめますが、小学校4年の少女が「トラブル」を読んで窒息死寸前まで笑いころげていたと言えばその精神の歪みぐあいを判ってくださるでしょうか。
 ちなみに中学一年のとき、夏休みの宿題の読書感想文は「俗物図鑑」でした。非SF作品ですが未だに私のベスト1です。
 筒井氏はSFマガジンでも言った通り私の上位自我です。ただし、いちおう私も女性ですので、氏のアンチフェミニズムにだけは共感できませんが。
雀部 >  小学三年生から筒井康隆先生ですか、凄いなぁ。小学生の頃から、ませていたというか頭が良かったんでしょうね。理論武装とかしてそうだし、きっと先生も手を焼いていたんでしょうね(笑)
桐生 >  手を焼くというより、教師というのは(特に担任教師)というのは天敵ですね。あいつらは要するにおとなしく授業を進めさせてくれて言うなりに当番でも掃除でも従順にやる、意思のないマシーンをいい生徒だと思ってますから(現在では、協力して何らかの作業をすることにも何らかの意義を認めてはいますが、世間に出るまでそういったものを完全にバカにしてたのでこのような憎まれ口になる)。特に小学校4、5、6年の担任だったN村!! 中学3年んときのT中!! 高校2、3年のM川!! まともに小説の一冊も読んどらんくせして週番を前進的に撤退して詩を書いてた私に説教しくさって何さまのつもりだ。まだ生きてたら殴りに行く。死んでたら墓のうえでダンスを踊ってやる。逆に国語の先生には愛されましたねえ。私は、贔屓というのはあってしかるべきだと思います。あ、ついでに言うとそう言う私の父親がまた教師(英語)で、贔屓のカタマリのような人でした。いい先生でした。
雀部 >  国語(というか現国)は、私も好きでした。試験勉強しなくても、点数が取れるから(笑)
 お父さんが、たくさんのSF本を持っておられたとそうですが、SF好きになられたのもお父さんの影響が大きいのでしょうか。
桐生 >  父とそして六つ年上の姉ですね。姉はつまり父から仕込まれたわけですけど、そもそも創刊当時から父親がSFマガジンと少年サンデーを購読していて、「0マン」(手塚治虫)の初版単行本を絵本代わりに読まされる三歳児とはいかなるものか(笑)。本来だったらかなり屈折してからでないと消化できないものを離乳食代わりに与えられ(通常のSFファンの星新一デビューが中学生、と知った時には驚愕しました)、発達の過程はかなり偏向したものだったと思いますが、そのことを感謝しています。
雀部 >  あ、私も星先生を初めて読んだのは中学生だ(汗)
 ほかに、どんなSF作家(海外作家も)の作品を読まれていたんでしょうか。
桐生 >  定番平井和正「ウルフガイ」シリーズ(平井氏が宗教にはまる前のもの)、小松左京作品ひととおり、キャプテン・フューチャーシリーズ(大好き♪)、フレドリック・ブラウン、ロバート・シェクリイ、ブラッドベリ、ベスター「分解された男」(「破壊された男」でない創元版)、ヴォークト「非A」シリーズ(未だにワケわからんが好きでした)、何かにつけ読みかえす半村良「亜空間要塞」、180円だったころの(だったんです)創元SFひととおり(「不老不死の血」とか「テレパシスト」とか渋いのが多かった)、ハヤカワポケSFひととおり(親父が銀背をやたら揃えていた)、要するにサイバーパンクがはやる前のレトロSF全般。
 高校んときかんべむさし「サイコロ特攻隊」の感想文で県の作文コンクールにも出たりして。
 あっとヨコジュンも好きでした。かなり当たり前な返事ですけど後年読んだもののなかではジェイムズ・ティプトリー・Jrが好きです。以前戯曲書いてたころやたらと男性作家だと思われるので内心「ティプトリーみたい♪」と喜んでました(←諜報機関のエリート女性と一緒にするなアホ)。
 いまや復刻の目もないような作品群ですが、ハヤカワ銀背のみなみなさま方が懐かしいです。
 「300:1」とか「海の消えた日(海底の地割れに海水が全部吸い込まれるだと。なめとんのか)」とか………
 あの抽象的だったりシュールだったりする表紙絵が、私の陰鬱で退廃的な美意識を培ってくれたのだと思っております。
雀部 >  『300:1』は、太陽の異変で地球の温度が急上昇するために、火星への移住しか生存の手だてがなくなるが、ロケットに乗れるのは人類の1/300。で、誰を乗せるかを決めるのは、そのロケットのパイロットという凄い設定の話でした。桐生先生のあげられたSFは、私も全部大好きなんですよ、こんなにコアなSFファンであられたとはうれしい驚きです。
 先ほどのご発言で出た「例外こそ真実」というのもSFが説く面白さの一つだと思いますが、桐生先生にとって、SFのここは好きだけど、これは嫌い(許せない)というのはございますか?
桐生 >  許せないのは、わからんSF(笑)。名古屋在住の濃厚SF者で作家でもある蔭山琢磨氏とSF話で盛り上がっていたときの氏の名言、「SFは義理と人情!」というのがまさに正鵠を得ておりまして、「愛も人情も相対化されてマイクロチップの一部になるんだもんね」みたいな態度を、設定でなく全体として持った雰囲気のものは、SFといわずアニメといわず演劇といわず純文学といわず蛇蝎のごとく嫌いです(いやヘビやサソリに失礼)。「だっせー」と言われるのを覚悟で申し上げれば、愛する女がクローンだったとしてもなんでそこで立ちすくむ!! いきなり女の子に戻りますが愛こそは実在であり相対化できないものです。相対化はSFの極めて優れた機能ですが、相対性を究めていった果てに愛が(人間間のそれとは限りません)残ると証明できなくて、なんの創作であり表現でしょうか。ギリシャ悲劇的濃厚人間ドラマ喜怒哀楽を深く深く愛しているので、そういったものを鼻で笑うような態度には頭にきます。SFの道具立てが人間関係を濃厚にするのでなく希薄に向かうような作品は軒並み嫌い、というより理解できません。まああと、「と学会」なんぞに入ってる私が言うのもなんですが、正直現代SFに充満する「萌え」要素にはフェミニストの1人として正直うんざりしております。乳もケツもないが主張がはっきりしててはきはきした喋りかたをする、曖昧でなく気を持たせない、姉でも妹でもない女性を愛してくれい。
雀部 >  コアSFファンとして真面目に反論(笑)
 桐生先生がお嫌いな(笑)サイバーパンクの作家でも「愛も人情も相対化されてマイクロチップの一部になるんだもんね」とは考えてないようです。「人間の記憶を全部マイクロチップに写せるとしたら、それは人間として思考するだろうか?」という質問に「地図の山と実際の山は違う」と答えているくらいですから。また「萌え」も、主戦場はライトノベルじゃないのでしょうか? 少なくとも、ハヤカワSFシリーズ Jコレクションには「萌え」キャラの主人公は、いないような(爆)
 と学会なんですが、桐生先生がなんでまたという感もあります(笑) 前節、山本弘先生にインタビューさせて頂いたのですが、桐生先生のSFの好みをうかがうと、山本先生の嗜好とけっこう近いものがあり、ちょっと納得したりしました。桐生先生ご自身は、「とんでも」が入った作品を書かれることはないのでしょうか?
桐生 >  えーと、SFファンにしてロマンチックサスペンス好き(激爆)として再反論。サイバーパンクの世界における愛の検証にどうしても違和感をおぼえるのは、実はかなり私が古典的な男女関係が好きだからだろうと思います。とはいえ言葉の足りなかった面もありまして、たしかに私が真に嫌いなのは、SFの相対化機能だけをとりこんだ、熱い血を持たない境界作品であるような気もいたします。とはいえ(←しつこい)、私はハリウッド映画的な大甘なエンディングが大好きというバカなので(書くものとちがうやないか!という突っ込みはおいといて)たとえばP・K・ディックの小説はつらく、大衆向けリライトと言うにひとしい映画化作品のような展開が魂の本道なのですね(ああこうやって馬鹿だということがバレていく)。一転して「萌え」に対してはいささか過剰反応的なところもありまして、一時はいずれ「女性と外見」という問題は完全に無化されると思っていたほど旧弊なフェミニストなので(ロマンス小説好きと矛盾するやないか、という突っ込みはおいといて←こればっかし)、真逆の方角に流れているとしか思えない男性の女性に対する趣味(私の場合男性というのは何らかのオタク趣味を持っている人のことです)がもう悔しくて悔しくて。ごくごくたま〜〜〜に「可愛い」なんぞと言われると「馬鹿にすんな!」と怒り狂う、始末におえない少女だったころと本質的にはあまり変わらないのです。SF小説が、とは言いませんが映像メディアにおけるSFに萌えキャラが多く(というかそれが企画を通す条件)になっていると思えるのは錯覚でないような気がします。それに応じて現実の世界でも、アニメから抜け出してきたような少女たちが実在を始めているのは福音でもありましょうが、私はなんだかとても悲しいのです。でも私本人はロリキャラが好きで………って矛盾のかたまりですな。
 「トンデモ」要素に関して言えば、「夏の滴」なんてメインアイデアは完全なトンデモであります。本来私は誕生日占いなどてんで信じない人間なのにあのようなものを書いてしまいました。と学会員なので当たり前ですが、「と」ネタはもともと大好きです。と学会の人々を知る前に書いた戯曲作品「ピンク・レインの娘」は新興宗教に人工地震にマジカルヒーリングと「と」ネタのオンパレードですよ。
 ちなみに納谷銭形警部悟郎氏演出で上演されました。その他にも、ほとんどすべての自作品がトンデモの影響下にあります。
雀部 >  銭形のとっつぁん演出の『ピンク・レインの娘』にも食指が〜。
 『夏の滴』の植物占いは、人を喰っていて面白かったですよ−文字通り−(大爆笑)
 今回『夏の滴』『フロストハート』『剣の門』『物魂』『小説探偵GEDO』と読ませて頂き一番感じたのは、桐生先生の旺盛なサービス精神でした。どうやったら読者が喜ぶか、驚かせることができるか、一番面白がらせるにはどうしたらよいかと。元々は、漫画家か役者になりたかったそうですが、そういう方面を目指されたことが、著作に活かされているというのはございますか?
桐生 >  そう感じていただけましたら望外の幸せです。漫画であるを問わず演劇であるを問わず、とにかく何かをでっちあげてご覧にいれるのが好きでたまらず、すべての表現がその衝動にかられてのことです。
「フィクションは現実よりえらい」とかたくなに信じているので、現実を後追いするだけのフィクションや、 現実の事件に対して「これではフィクションの出番はない」などと実作者が言ったりする現象には憤りをおぼえます。小説は常に事実よりも奇なのであります。サービス精神に関しては、常に自分を第一の読者に想定しているためだと思われます。世の中には「メニューはこだわりのハンバーグ定食のみ」というコックさんタイプの作家もおられましょうが、私は壁が見えないほどメニューが貼られた和洋中なんでもござれのしかも味つけの濃い、テーブルの上には思いつくかぎりの調味料の乗った(ラーメンはコショーをかけずに食え、などというたぐいの職人気質を私は軽蔑します)お店が好きで、自分でもそうありたいと思っております。漫画家志望役者志望もその衝動の結果であって原因ではないです。しかし当節、漫画にうとい小説家というのもあまりおられないでしょうが(そうでもないか?)、演劇および演劇界の内幕に通じているかたはあまりおられなそうなので、なんらかの武器になるやもしれませんね。もっとも、「剣の門」における演劇描写のように「よくわかんね」と言われる危険もあるわけですが。
雀部 >  『剣の門』の演劇描写素敵でしたよ。私は全くの素人なんですが、演劇について良くわかった人でないと書けない魅力があって、演劇を見に行きたくなりましたもの。
 この作品に出てくる『聖キャサリンの殉教』って、なにか元ネタがあるんでしょうか。“本当の善良さというのは、一種の致死遺伝子なんだ”とは、切なくも凄いアイデアです!
桐生 >  聖キャサリン(もったいぶった言い方すれば聖カトリーヌ)はキリスト教の殉教聖人の中ではわりと有名なほうです。人気もあるみたいです。やっぱりむさくるしいおっさんが殉教するよりうら若い美人が惨殺されるほうがみんな楽しくて好きではないかと♪(あっ、自分でも気がつきませんでしたがこれって「剣の門」のモチーフですわね)。てきとうにサイトを探して貼り付けておきます。「聖キャサリンの殉教」で調べれば絵画のほうで山ほど出てくると思います。
http://www.st-catherine.jp/history/
 ちなみにミルヒ教授が言及した聖ルチアはこちら。
http://www.ffortune.net/calen/xmas/saint/lucia.htm
 私自身は敬虔な無神論者ですが宗教フェチで宗教ネタが大好きです。今度引っ越したのも神社が目と鼻の先という理由で場所を選びました。何か得体の知れない崇高なもの、永遠にしてはるかなものへのあこがれはSF好きの血のかもしだすものかとも思います。また、宗教に親しむことによって私の本来のテーマであるインモラリティや鬼畜趣味に磨きがかかるということもあると思います。およそ宗教関係の資料ほど鬼畜ネタが豊富なものもありませんし(とりもなおさずそれは、この世界が地獄であるということを意味しますが)。
 何かというと「自分がモデル」というのもずうずうしい話ですが、「剣の門」の瑛は(これもあっちこっちで言ってますが)やはり自分の性格がベースになっております。実在の姉が「あのお〜〜〜、あれって実感?」と電話をかけてきて困りました(実感ですがそう言ったら姉も困るでしょう)。世界そのものに対しては深い憎悪と違和感を感じているのに、相手が個人となると疑うことも憎むこともどうやっていいのかわからない、この性格は私を苦しめ続けていますが、言葉と真実の一致を求めることのどこがいけないのか私にはわかりません。駆け引き、裏読み、思わせぶり、裏腹な気持、すべて私には不可解でおぞましく、あらゆる苦しみの根本にあるものです。統合失調症あるいは自閉症に関する本に自分と似た人格の人々を見つけます。それはある種の脳内物質の按配によるもののようですが、だとしたらなぜそのような個体を自然は生み出し続けるのか。もし神がいるとしたら、そのような個体は、旅人が道しるべに木に傷をつけるように、何らかの信号なのではないか。そんな気持を「剣の門」にこめました。
雀部 >  なるほど。桐生先生の人格が『剣の門』では、瑛に投影されているんですね。では、『物魂』では誰なんでしょう。私は人形じゃないかと思ったんですが。
桐生 >  ぶわはははははははは! いや失礼。私がモデルなら、純粋ではあっても(ぎゃはは)復讐するようなキャラにはならんですよ。私がベースになってるのは、歌人の遊佐緑子です。感性やセンス(同じか)はそれなりにあるけど駆け引きができなくて自己主張が弱く、どこにいてもおミソになってしまうタイプ。「剣の門」の瑛は美人っていう設定でしたけどあれは読者サービスというもので、実際の私は遊佐さんに果てしなく近いです。父親が著名な文学者ということはありませんが。えーわたくし実は短歌が趣味でして、深森未青とか森魔とかいう歌号でネット短歌の世界に出没しております。よかったらそっちもよろしく。
雀部 >  深森未青とか森魔でググって見るとたくさん出てきますねぇ。あっち系とか電脳系のネタが多いのが桐生先生らしい(笑)
 モデルの話なんですが、『フロストハート』では主人公の千香子が同じキャラですね。で、究極の自己主張ができないのが、人形ではないかと思ったわけで。それにSFマガジン'04/11月号で鈴木力さんが読みといた“<語る者>の暴力性”をプラスすると、『物魂』の人形のキャラになるんじゃないかと。
 あれは、桐生先生が人形の姿を借りて、この世の中に出した警告ということは無いですか?(笑)
桐生 >  ううむ。なんせ当の本人(桐生)が、「リカちゃん人形を裸にむいてエプロンさしたら男連中が喜ぶであろ」と発案した当人なのでなんと言っていいのか。私自身は、残酷に関して、警告するもしないもそれは世界の構成要素であって、抑制も自省も不可能なものと思っております。一度でも暴力にさらされると、シニカルとかいう次元でなくて精神のある部分が完全に死んでしまいます。残酷さや暴力が世界の基本の色彩であり通底音となって、その色彩や音に気づかず、染まらない大多数に対して非常な違和感を覚えるようになります。そして闇がその人間の精神の背景となって消えることはありません。この点、「いや人間はそこから立ち上がることもできるはず」というたぐいの意見は、かえって当人の苦しみを助長する軽薄なものに私は思えます。「物魂」において、ぶち殺される人々はみなひとかどの人物であり、普通以上に倫理観や哲学を持った人々です。決して無知や未熟が人形虐待という行為に走らせたわけではありません。残酷さは不完全さの現れではなく、人間を人間たらしめているきわめてハイブラウな行為なのではないか。その供物である存在はまた、神性を持った存在でもあるのではないのか。そういう意味では、人形のおかれた位置は「警告」ではなく「神聖化」ではあると思います。くれぐれも、「人間はこういう残酷さを発露してはいかんよ」というたぐいの教訓はあそこにはまったくありません。おとしめられた者の勝利は、そこから這い上がることではなく地の底で王座につくことなのです。「夏の滴」の終盤、八重垣が洞窟の奥へ消えていく光景の意味をお汲み取りください。
雀部 >  なんと、八重垣は地の底で王座につくのか。人間=残酷ってのは、言われればなるほどありそうだけど、建前上は認められないみたいな感じがあります(爆) 相手のことをちゃんと考えれば、そんな残酷なことはできないというけれども、それでもなお残虐行為に走っちゃうのが人間の性か。昨今のニュースを見ていると、特にそう感じます。
 それとは反対に、“本当の善良さというのは、一種の致死遺伝子なんだ”というのは、『リングワールド』に出てくるティーラ・ブラウンの幸運の遺伝子に匹敵するアイデアですね。
 人間=残酷ならば、本当に善良な人間の遺伝子が稀少なのは当然ですよね。
桐生 >  実は、影響を受けてます。肉体的なものだけでなく、運命にも遺伝的要素があるというのは魅力的なアイデアだと思います。
雀部 >  ラリイ・ニーヴンあたりは読まれていらっしゃるんだ。なんかうれしいな(笑)
 さきほど、『夏の滴』に登場する八重垣潤という少女は、ご自身がモデルだということなんですが、桐生先生の諸作品に登場する人たちにも、実際のモデルがいるんですか?
桐生 >  上の回答とかぶりますが、基本的にすべての作品に「私」がまぎれこんでいます。出さないとなんか構成しづらいんですよね。「剣の門」の瑛、「フロストハート」は一見そういうキャラがいないように見えますが実は隠れキャラで、コーディネーター三人組が食い物にした精神病の少女、というのがサイドストーリーに存在します(編集さんが煩雑だと言ったので残念ながらカットいたしました)。「物魂」なら言うまでもなく遊佐緑子、「小説探偵GEDO」だと真性のサイコパスにして純真きわまりない魂の持ち主(←やっぱりずうずうしい)忍冬麻希がそれに当たります。
 「物魂」でぶち殺される人々は、とっくにバレているでしょうが「と学会」の幹部諸氏がモデルです。えーとあの、本人見てないといいんですが豊田京一にもモデルがおります。Iくん元気ー(って呼びかけるなっての)? エンディングにあきれかえった人もいるようですがあれ本当にやりました。誰とは言いませんが「人形の首を切って酒×薔×ごっこをしよう」なんぞと言った大会社社員もおりましたですよ。「小説探偵GEDO」では本屋の店長石田さんが実在の人物で、知り合いです。あの通りの風貌性格の人で本人も喜んでました。げどさん本人もイメージキャラクターは先ほど事故死なさった中島らも氏です。一面識もありませんが、酒やつれ顔した読書家で、放蕩者なのに実はモラリストで純情、というあたりがぴったりくるのです(だからげどさんも、らも氏がかつてそうだったように広告業者なのです)。いつかお会いして勝手にモデルにした謝罪と感謝を告げたかったのに、亡くなられて非常に悲しいです。ほかにもちょこちょこと、いろんなキャラにいろんなモデルがいます。尋常ならざる知り合いが多いので助かります。
雀部 >  ありゃ、げどさんは、中島らもさんだったのかぁ。『ガダラの豚』は大傑作でした。もう新作が読めないのが悲しいです。モデルと言えば、“夜(ナハト)”の名前は、先程名前が出てきたモーツァルトの有名な「アイネクライネナハトムジーク」から取られたのでしょうか?(笑)
桐生 >  実はこれも鬼畜ネタで、「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」からの連想です。続編で、大学時代の夜(ナハト)とスコラの専攻がドイツ語だというところがちょこっとだけ出る予定です。ばかたれ大学生たちが、「虐殺って我らがクイーンにふさわしいぢゃーん」くらいの乗りでつけた仇名です。
雀部 >  それは全然気が付きませんでした〜。ユダヤ人虐殺の始まりの夜(ナハト)だったとは。
 『小説探偵GEDO』に出てくる、これまで書かれた物語とこれから書かれるだろう物語が渾然一体となって流れている川がありますよね。あれは、SFマガジンの64年11月号に載った、レイモンド・F・ジョーンズ「騒音レベル」に出てくる<雑音理論>(雑音は複数の情報が輻輳したもので、すべての情報が入っている)と本質的には同じだと思うのですが、桐生先生の創作方法も、物語のほうが、作家を見つけるタイプなのでしょうか?
桐生 >  実は「騒音レベル」という作品の存在は、山本弘と学会会長の『トンデモ本?違う、SFだ!』で初めて知ったのですが、「すでにどこかにある物語が勝手に頭に流れこんでくるのが創作」という感覚を私はずっと持ってまして、というのも私はご承知の通りものすごくバカでして、本人には教養とか知識とか思考力というものがまるでございません。私にとって創作というのは、なんと言いますか、「だってほら、そこに落ちてるの見えるでしょ? 私、それ拾って写してるだけだもん」という気がするものなのです。内部から出てくるような気がしません。だって、ネンコとか角さんとか、広瀬さんとか等々力貴正とか、モデルになるような人に会ったこともなくそうした人々がどう考え行動するか、私が知るわけがないのですから。また、出まかせで書いたことが後で見つけた資料と一致していたりすることもしょっちゅうです。シンクロニシティ、唐沢俊一氏おっしゃるところの西手新九郎の介在を覚えざるをえません。そんなわけで私は、典型的な(んな典型があるかどうかはともかく)「作品に命じられて書くタイプ」だと思います。作中人物は出たが最後勝手に行動してどこへ行くのかさっぱりわかりません。
 ネンコだってあんな大きな役になるとは思ってなかったのですが………。 ただ、三島由紀夫のように、「作中人物に勝手に動かれるなんてもっての外」という作家さんも多くいるのも確かなようです。
雀部 >  小説の神様が降りてこられているんですね。それはある意味うらやましがられる才能かも。
 小学生の時から本格SFを読んでこられた桐生先生が、SF的な作品を書かれているのは当然の帰結なのかも知れませんが、桐生先生の本にはSF、ファンタジー、ホラー、ミステリなど様々なジャンルの要素が渾然一体となった魅力があると思います。では、いわゆる主流小説はお書きにならないのでしょうか。もしくは、ジャンル小説では語れるが主流小説では語れないような事柄はあるとお考えでしょうか?
桐生 >  なんとゆーか、父親がSFが好きで冒険小説が好きでマンガが好きで、姉と母はそれに加えて推理小説が好きで耽奇小説が好きで、そういう環境で育ったもので私にとって「主流」というのはあくまで読者を快楽死にさせるようなエンターテインメントのことなのですが、おそらくこの場合はじゅ、純文学?とか、恋愛小説とか人生のしっとりしっぽりを描くものとか芥川賞が取れるものとか………という意味なのでしょうね!? 話を純文学に限って言えば、「ここで予定調和にしとけば面白いのになぜ外す―――っっっ!!!!!!!」と言いたくなるような作品が、私にとっては多いような気がします。ある高名な純文学作家の、「文学は読者にカタルシスを味わわせてはならない」という意味の発言を読んだことがありますが理解に苦しみます。SFに限らず物語とは畢竟義理と人情ではありませんか(義理と人情あってこその鬼畜表現ですし)。この場合の「主流小説」というのが、波乱万丈をあえて避け淡々ないしはくそリアルな描写の中に人生の真実を見出してるつもり、というタイプのものをおっしゃっているなら、私はそれが何かを語り得るとは実は思えないのです。そういうのを私は、「手抜き」と呼んでおります。現実とはナスティでスラップスティックで、まさしくジャンル小説が語るようなものです。
 ですから万が一「文学界」や「新潮」からお話が来て書くとしても、波乱万丈起承転結バカやキチガイや死体がごろごろ、という話になるのは必至であります。やっぱこの場合手本になるのは筒井康隆が純文学の衣を借りて書いた数々のドタバタ作品ですね。
雀部 >  筒井康隆先生は、フランスでの評価は高いですね。まあ、日本の評価のほうがおかしいんですが。
 そういや、『小説探偵GEDO』は、義理と人情の世界だなぁ。ところで、このお話の設定である“物語に記述されてしまっていることには、干渉や変更はできないので、げどは、本文に明記されていない「行間の部分」でしか活躍の場がない”というのが、整合性という点からするとSF的で面白かったです。この設定は、最初の二篇がSFマガジンに発表されたことと関係あるでしょうか?
桐生 >  いえ、「小説探偵GEDO」はもともと発表のあてもなしに書いていたものです。某K川書店に第一話を渡したのですが(「Y生時代」あたりに載せてもらおうと思ってた)なしのつぶてで、その後たまたまと学会のトンデモ本大賞の模様をレポートするという仕事が入ってきて、そのついでに塩澤編集長にメールで送って読んでもらったら気に入ってもらえて、あとはとんとん拍子にことが進みました。とはいえ、整合性にこだわりたいと思うのはやはりSF育ちな面があずかっているでしょう。「時の門」とかの頭ウニ作品を、スケジュール表片手に解析するような読者、というのを大前提にしているので、「たいていはそんな細かいとこ気にしねえよ」というとこが気になるのです。ただ、本来の性格が論理的でないので、あまり厳密にできないことも多々ありますが。それでもできるかぎりつじつまを合わせようとするのは、証明問題(図形が好きでした)が解けたときの快感を、文系なりに知っているからだと思います(余談ですがウチのダンナは、これが本当に男かと思うくらい論理系がダメで、たぶん広瀬正「マイナス・ゼロ」の因果関係もわからんと思います。その為「バック・トウ・ザ・フューチャー」の、写真の人物が消えていくというすっとこどっこいな展開を「画期的に論理的」だと大感激してました)。
雀部 >  それは、一般的な普通の男性の反応だと思いますが。コアなSFファンか、天文・物理に詳しい人くらいしか、そういう問題を深く考えようとはしないと思います(爆) そっか、桐生先生はご結婚されているのかぁ。
 『小説探偵GEDO』は、桐生先生のジャンル小説に対する愛が一杯詰まっていて楽しく読ませて頂いたんですが、なぜSFは登場しなかったのでしょう。ひょっとして、続編で登場するとかは?
桐生 >  ふっふふふふふふふふ(不気味な笑い)。楽しみにお待ちください。
雀部 >  え〜っ、やだなぁ。でも、楽しみに待てということは、きっと続編には!!
 刊行予定はいつごろでしょうか?
桐生 >  まだ書いてる最中で(泣)。なかなかにこの、3歩進んで10歩さがるというかなんというか(号泣)。どうもこの、書きはじめてから、自分が取りついた山のでかさに気がついて絶壁の途中で泣いているというのがいつものパターンです。でも少女小説、不倫小説、冒険小説純文学そしてもちろんSFもまじえてバラエティ豊かな続編にして、春ごろには脱稿したいと思ってますのでどうか今しばらくお待ちください。
雀部 >  計七歩も下がっちゃっては、だんだん減っちゃいますよ〜(爆) まあ、進み始めたら一気呵成ということだと思いますので、楽しみに待ってます。
 その他、執筆中の作品、近刊予定がございましたらお教えくださいませんか。
桐生 >  とりあえず、角川書店からホラー文庫のお話がきております。なんとか今年中に刊行できたらと思っております。内容はいろいろ考えておりますが、担当様と話し合いのうえ決めようと思っております。
 なお、もとが戯曲であった『フロストハート』は知り合いの役者さんのプロデュースによって今年上演予定です。小説版とはまったく違う内容ですが(登場人物はほぼ重なってます)、東京のみの上演で難しいとは思いますが皆様ネットなどでチェックして足をおはこびください。
雀部 >  ホラーは、SF味付けのホラーだとうれしいです(笑) 『フロストハート』の舞台化も楽しみですね。
 東京だけだと、行けそうもないのが地方在住者にとっては辛いですが(泣)
 それでは、桐生先生にとって書くという行為は、そもそも何なのでしょうか。
桐生 >  自分の創作物を形にする、ということなら作曲も絵画も彫刻もすべてそうなのでしょうが、私はものわかりのよい作者(ジャンルは何にせよ)のかたがたが言うように、「創作の形は人それぞれ、自分はたまたまコレを選択しただけでそこに上下はない」などとは言いません。ずばり、創作を文字で行うというのは他の何にも増して永遠性にせまる行為です。人間は言葉の中から生まれ言葉によって存在し言葉なしでは泥の中を這いまわる手足のない動物にも劣る生き物です。そもそも自分のたずさわるジャンルに特権性を感じなくてなんの創作者でありましょう。私にとって書くということは、無限をつらぬいて流れる「霊銀の川」から水を汲みつづける行為です。何のために、ではなくその行為それ自体が快楽をもたらすから。この世界の混沌を混沌のまま描写するのが正しい創作、というかたもおりますが私はそうではなく、この混沌を材料として、体操競技で言うならみごとな演技とフィニッシュを決めてみたい。出来すぎ、従(つ)きすぎと言われようと、各パーツがおさまるべきところにおさまる快楽を追求してゆきたい。書くということが、私と読者の双方にとっていかなる風俗産業にもまさる快楽を提供するものであってほしい。まだまだ力は足りませんが、考えているのはそのようなことです。
雀部 >  「人間は言葉の中から生まれ言葉によって存在し言葉なしでは泥の中を這いまわる手足のない動物にも劣る生き物です。」というのは、名言ですね。最近、日本全体の言語能力が低下してきているような気がしてなりません。私見ですが、子供が切れやすくなったというのも、子供の言語能力が昔より低下してきていて自分の感情を他人に適切な言葉で伝えられないためだと思っています。どうしたんでしょうねぇ。
桐生 >  お子様の犯罪については、ことさら現代のお子様がワルいとか短気とか言うのでなく、(近刊で唐沢俊一さんも言ってましたが)その年頃にあって当然の殺意を実行に移せるだけの体力とノウハウを彼らが身につけてしまった、ということだと思います。実際のところは青少年の凶悪犯罪は全体としては減ってきており、ただ唯一違うのは、それが歌舞伎町の盛り場だろうが郊外の一等地の住宅街だろうが同じ確率と残酷度で起こりうる、つまり犯罪が普遍化しているということだと思います。
 子供の言語能力は昔から大して高くなく、小学校ではまだしもだったのですが、中学高校と進むにつれて昼休みに図書館に入りびたってるのは、全校で私ひとりというような状況を四半世紀もまえに体験しておりますので、「昔の子供はよく本を読んだ」とはとても思えません。日本人の言語能力についても、たまに帰省した時母から仄聞する近所の爺さん婆さんの無教養っぷりというのは戦慄ものでありまして、ひょっとして日本人て読み書きは全員できるけど内容はともなってないのでは、と考えたりもします。日本全体の言語能力が落ちてきているように感ぜられるとしたら、昔は発言の機会のなかった人々(むづかしいことはセンセイたちにまかせときゃええだわやハア、という階層)がインテリを尊敬しなくなりネットなどで発言するようになり、もとから低かった平均値があらわになったということではないでしょうか。絵画で言えば、「ピカソなんてあたしでも描けるじゃん」というレベルの感想が引け目なく発せられるようになりそれに賛成する大多数が力を持ってやがてはそれが主流になる、という現象だと思います(とはいえピカソの絵にはまさに「こんなんあたしでも………」と思ってしまうのですが)。
雀部 >  サイレントマジョリティの顕在化ですか、そこまでは気づきませんでしたが、なるほどあるような気がします。
 今回はお忙しいなか大変ありがとうございました。
 え〜、最後にお聞きしたいのですが、たまには大甘なハッピーエンドのお話を書く予定はございませんか?(笑)
桐生 >  エンディングというのも作者でなくその小説自体が決定するものでありますから、そっちの方角へ行く内容に降りてこられる、ということも有り得るかもしれません。もっとも、ハッピーエンドではないにしろアンハッピーエンドとも自分の作風を思ってはおりませんが、あっ、バッドエンドという言葉がありましたね。どうもひどいバッドエンドを決めると(いちばん自分を「鬼畜やな〜」と感じたのが小説版「フロストハート」)、脳内麻薬が出て気持いいんですよね(どういう性格だ)。まあそれは、どういうスタイルの物語が私の上に降りてくるかで、おしまいからさかのぼって書き始めるタイプではないのでいまは何とも申せません。ただ、「物魂」のラストで人形に憑依されてヒドイ目を追体験したヒロインはもともと別に考えている小説の主人公で(「物魂」はその前日譚)、いずれ再登場させるつもりです。人形修理師となった佑里子が結婚も繁殖もする人形の一族を追跡するお話で、人形との恋愛も出すつもりです。それならハッピーエンドになるかもしれません。
雀部 >  桐生先生にとっては、、脳内麻薬の影響で、バッドエンドがグッドエンドになりうるわけですね(爆)
 佑里子さんの追跡行も楽しみにしておきます。
 どうか、桐生先生と読者のグッドエンドが一致しますように(笑)


[桐生祐狩]
1961年長野県生。高校卒業後、上京。演劇活動を始め、戯曲を執筆する。2001年『夏の滴』で第八回日本ホラー大賞長編賞受賞。『スタンド・バイ・ミー』を思わせる青春小説と、モラルを破壊する鬼畜系ホラーを融合させた内容が話題を呼ぶ。
[雀部]
普通、著者インタビューでは、作者ご自身のことはあまりお聞きしないんですが、今回は桐生先生そのものにとても興味がわきましたので、色々見当はずれの質問をしてしまいました。桐生先生の旺盛なサービス精神、ユニークな視点と鋭い舌鋒を、皆様もお楽しみください。

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