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Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[松崎]

『どんがらがん』
> アヴラム・デイヴィッドスン著/殊能将之編/松尾たいこ装画/
浅倉久志+伊藤典夫+中村融+深町真理子+若島正訳
> ISBN 4-309-62187-2
> 河出書房新社
> 1900円
> 2005.10.30発行
 収録作の「物は証言できない」はEQMM短編小説ンテスト第一席、「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」はヒューゴー賞、「ラホール駐屯地での出来事」はMWA賞、「ナポリ」は世界幻想文学大賞を、それぞれ短篇部門で受賞してます。この短編集でも、SFあり、ミステリありのファンタジーありで、その作風の広さがうかがえます。一番SFぽい「さあ、みんなで眠ろう」は、氏のヒューマニスティックな面がよく分かる、日本人好みの好短篇です。

『10月3日の目撃者』
> エイブラム・ディヴィドスン著/仁賀克雄監修/村上実子訳
> ISBN 4-257-62002-1
> 朝日ソノラマ
> 400円
> 1984.5.25発行
 1962年発行の短編集『Or All the Seas with Oysters』からの抄訳。処女作『恋人の名はジェロ』をはじめ、田舎の善良な夫婦と異星人一家の心温まる邂逅を題材に、コンタクティーものを皮肉った表題作。
 老いた異星人種族が密かに地球人の老人になりすまし、合衆国の養老年金をだましとろうとしている。歯がないかれらは地球の食事がとれないため、入れ歯を作らそうと高名な歯科医を拉致した!なんとも馬鹿馬鹿しくも可笑しい『助けてくれ、私は地球人の医師だ』などなど。
 本邦初の短編集だったが、いまや入手困難なコレクターズ・アイテムとなってしまい残念。ちなみに、『どんがらがん』との重複は『人造人間ゴーレム』のみ。(この項松崎)

『The Avram Davidson Treasury』
> Avram Davidson著/ロバート・シルヴァーバーグ&グラニア・デイヴィス編
> ISBN 0-312-86731-X (pbk)
> Tor Books
> $17.95
> 1998年発行
 代表作を年代別に網羅し、全作に親交のあった作家たちの序文つきという、本国での決定版ベスト選集。デーモン・ナイト、ポール・アンダースン、ケイト・ウィルヘルム、フレデリック・ポール、ル・グィン、ディッシュ、ジーン・ウルフ、マイク・レズニック、ウィリアム・ギブスンなどなど目眩がしそうな面子ですね。さらにあとがきはブラッドベリとハーラン・エリスン。これさえ買っておけば、『ダゴン』も『スロヴォのストーブ』も『While You're Up』も載ってますし、『ナポリ』に原文でチャレンジもできますよっ!
(この項松崎)

『ハサミ男』
> 殊能将之著/大滝吉春カバー写真
> ISBN 4-06-273522-9
> 講談社文庫
> 733円
> 2002.8.15発行
 美少女を殺害し、研ぎあげたハサミを首に突き立てる猟奇殺人犯「ハサミ男」。三番目の犠牲者を決め、彼女のことを綿密に調査するが、自分と同じ手口で殺された彼女の死体を発見する羽目に。自分以外のだれが彼女を殺す理由があるのか?「ハサミ男」の奇妙な調査が始まる。

『鏡の中は日曜日』
> 殊能将之著/大滝吉春カバー写真
> ISBN 4-06-275119-4
> 講談社文庫
> 781円
> 2005.6.15発行
 梵貝荘と呼ばれる法螺貝型の異形の館。フランスの文学者マラルメを研究する館の主人・瑞門龍司郎が主催する「火曜会」の夜。奇妙な殺人事件が発生する。事件は、名探偵の活躍により解決するが、年を経た後、再調査が現代の名探偵・石動戯作に持ち込まれる。
 続編「樒/榁」を同時収録。

雀部 >  さて、今月は著者インタビューじゃなく、ちょっと趣向を変えて『どんがらがん』に収録する短篇を選ばれた同書の編者で、アヴラム・デイヴィッドスン氏のファンサイト「SPPAD60」を開かれている殊能将之先生をお招きしました。
 殊能先生よろしくお願いします。
殊能 >  はじめまして。こちらこそよろしく。
雀部 >  もう一人のインタビュアーとして、先月に引き続き松崎さんにご協力願うことになりました。
 松崎さんよろしくお願いします。
 先月の『血液魚雷』は、表芸。今月は裏芸でのご参加ありがとうございます(笑)
松崎 >  よろしくお願いします。
雀部 >  『どんがらがん』の後書きに“資料を提供してくれた松崎健司氏”とありますが、殊能先生とはどういうきっかけでお知り合いになられたのでしょうか?
松崎 >  そもそもは、殊能先生のアヴラム・デイヴィッドスン・ファンサイトをみつけて、リンクのお願いメールを出したのがきっかけです。私はラファティのファンサイトをやっており、ひそかに次はアヴラム・デイヴィッドスンだと思っていたんですが、先生のサイトSPPAD60をみて物凄い充実ぶりに圧倒され、これはもうおまかせするしかないなあ、と。
 その後は先生の本家サイトとファンサイトの両方を愉しみにみてまして、『どんがらがん』編集で未所持の作品が幾つかあるようでしたので、手持ちのコピーを送らせていただいたというわけです。
雀部 >  なるほど。アヴラム・デイヴィッドスンの一番のファンと、ラファティの一番のファンの出会いだったわけですね。
 そういや、今月号(2006/3月号)のSFマガジンに、アヴラム・デイヴィッドスンがモデルの短篇、アイリーン・ガンの「遺す言葉」が載ってました―実は殊能先生のサイトで、これに関する記述を見つけて、あわてて読みました(汗)
 作家の本質を突いた、しみじみとした味わい深い話だったんですが、アメリカのSFファンとかミステリファンは、作者の〈付記〉がなくても、この短篇がアヴラム・デイヴィッドスンがモデルだとわかるのでしょうか?
殊能 >  遺されたメモの内容が異常にペダンティックだし、「日本に滞在して禅を学んだことがあった」(実際は天理教ですが)というくだりもあるから、わかる人にはわかるんじゃないですか。わたしにわかったかどうかは怪しいものですが。
雀部 >  まさか殊能先生にわからないわけが(笑)
 全然関係ない話題で恐縮なんですが、これも、今日(2/2)殊能将之先生の本家サイトのmemoをみたら、“石橋幸緒の半生が紹介されたので驚いた”と書いてありました。将棋を指されるのはお好きなのでしょうか?
殊能 >  将棋のおもしろさを知ったのは20歳すぎなので、人間相手には指しません。コンピュータソフトの初級にぼこぼこ負ける程度の棋力で、もっぱら観戦派ですね。
雀部 >  最近の将棋のコンピュータソフトは強いですから、終盤だとプロ棋士でも、気を抜けないですよね。観戦派ということは、お好きな棋風の棋士はいらっしゃいますか? 私などは、昔は自分の指す将棋に参考になる棋士(振り飛車党)が好きだったのですが、最近はやはり新趣向の手を指す人が(笑)
殊能 >  謙遜ではなく、ほんとうに弱いんです。短手数の詰将棋も解けないくらい。生まれ変わったら、3歳から将棋を勉強しようと思っています。
 観戦のほうも、もう将棋雑誌も買わなくなったし、日曜日にテレビ将棋を見る程度ですね。それも「北浜健介七段は藤井隆に似てるなあ」「橋本崇載四段はチンピラみたいだな」「千葉涼子タンはあいかわらず毒舌だねえ」などとテレビ的な楽しみ方をしております。
雀部 >  棋士は棋譜によって、作家は作品を読むことによって評価されるべきだとは思いますが、棋士でも実生活が破天荒な人はやはり面白いです(笑) 坂田三吉とか升田幸三とか。
 私には作家だと、フィリップ・K・ディック氏なんかが、私生活がもろに作品に反映していて、ふつうとは違った読み方ができて面白いです。
 アヴラム・デイヴィッドスン氏も、先生のサイトを拝見してから読むと一度目に読んだのとは違う感慨深さがあるように思ったのですが、そこらあたりはどうお考えでしょうか。
殊能 >  わたしは作者本人にはまったく興味がないんですよ。作者に直接会いたいとか、作者の話を聞いてみたいと思ったことがない。
 たとえば、わたしは法月綸太郎さんのファンで、たぶん会おうと思えばご本人に会えるんでしょうが、「でも会ってもしかたないし」と思ってしまう。「ファンでーす。サインしてくださーい」と言ったあと、もう話すことありませんからね。変な中年男にそう言われたって、法月さんはうれしくないでしょう(笑)。
 ただし、これはたぶんわたしの感覚が変なので、割り引いて聞いていただいたほうがいいでしょう。
 昨年、「山中常盤」(羽田澄子監督、2004)という映画を見たあと、監督の講演がありました。「監督の話なんか聞いてもしかたない」と思ったから帰ろうとしたら、席を立ったのはわたしだけ(笑)。非常に目立って、かっこわるかったですね。(映画がつまらなかったからではありません。非常に興味深く鑑賞しました。念のため)
松崎 >  わたしも先にアヴラム・デイヴィッドスンがモデルと知ってから読んだのですが、なるほど、あのペダントリーが散りばめられた作品群が生み出されてきた背景はこうだったのか、と思わず納得してしまいました。
 ところで、作中に『彼の死とともに本が新たに出版され』とありますが、実際に今なお遺された作品の出版が進んでいる現状は嬉しいことです。わたしも嬉々として買い漁っているんですが、魔術師ウェルギリウス三作目の『緋色の無花果』(The Scarlet Fig)は結局入手されたのですか?
殊能 >  買ってませんよ。まあ、どうせ読まないだろうし(笑)。
松崎 >  では、もしめでたく(ウェルギリウス一作目の)「不死鳥と鏡」が出版される機会があれば、解説執筆用にお貸しいたします。わたしは、少なくとも老後までは読まないと思いますので(笑)。
殊能 >  解説は手間がかかるばかりで、なかなかうまく書けませんから、正直あまりやりたくないですね。今回、自分に解説者の才能がないことを痛感したな。
松崎 >  いやいや。アヴラム・デイヴィッドスンに対する共感溢れる筆致には参らされました。先生による「わたしが最も偏愛する作家の一人である」との帯の文句は、単に作品に対してだけじゃなくって、執筆に対するスタンスや、生き様まで含めたものなんだなと、わたくし勝手に(笑)解釈しております。
 それと、さすがに読み応えのある小伝は、「遺す言葉」をイントロに持ってきてそのまま映画化してもいいような。これではじめてアヴラム・デイヴィッドスンを知ったひとも、思わずかれを応援したくなるんじゃないでしょうか。
殊能 >  そういうことにわたしは興味ないんですよ。作品さえおもしろければ、作者はどんなに性格の悪いゲス野郎でもかまわないと思う(笑)。
雀部 >  そもそも、殊能先生はアヴラム・デイヴィッドスンの作品とどういう風に出会われたのでしょうか?
殊能 >  若いころはSFマガジンを購読していましたから、「サシェヴラル」や「さあ、みんなで眠ろう」はリアルタイムで読みました。ちなみに「サシェヴラル」はさっぱり意味がわからなかった。
 『10月3日の目撃者』(村上実子訳、ソノラマ文庫・海外シリーズ)もリアルタイムで買い、読んだはずです。いまはもう本をなくしてしまいましたが。
 「さもなくば海は牡蠣でいっぱいに」(当時は「あるいは牡蠣でいっぱいの海」ですが)は読んでたのかな。コレクターの友人に『ヒューゴー賞傑作集』を借りて読んだかもしれない。
 その後、東京に住んでいたころ、いまは亡き東京泰文社でワーナー・ブックス版の『エステルハージィ博士の事件簿』を買いました。このとき「眠れる乙女ポリィ・チャームズ」は読んだんですが、ぴんとこなかった。
 つまり、若いころのわたしにとって、デイヴィッドスンは「よくわからないけれど、なにかひっかかる作家」以外の何者でもなかったんです。だから、『どんがらがん』を読んで「よくわからない」と言う人の気持ちも理解できます。
 「これはおもしろい」と本気で思うようになったのは、ワイルドサイド・プレスのリプリントを読みはじめてからですから、ほんの4、5年前ですね。
雀部 >  やはり、SFマガジンを読んでいらっしゃったんですね。というのは『ハサミ男』を読んでいたとき、“「今週の〈知ってるつもり!?〉は〈男たちの知らない女――ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア〉」とTVからCMが”との記述があり、あれっ?と思いましたもの。次の言及してある箇所に出てくる翻訳家は伊藤典夫さんらしいし(笑)
 で、ティプトリー女史の作品は、お好きなんでしょうか?
殊能 >  嫌いじゃないですよ。
雀部 >  ありゃ、その程度でしたか(汗)
 うちのカミさんは、ミステリファンでして、『ハサミ男』にはけっこうはまってました。私の買った新書とカミさんの文庫と二種類あります。なんで買っていると教えなかったのと怒られました(汗) 何でって、そりゃ、SFマガジンで紹介されてたからなんですが(笑)
 『ハサミ男』や『鏡の中は日曜日』を読ませて頂くと、本格ミステリへのこだわりと、SF等も共通するのですが、しばりがある中で、どう独自性を出すのかに腐心されていらっしゃる感じがしました。
 本格ミステリとコアSFは、物語の整合性が大事であるところなど親和性が高いと思うのですが、殊能先生はどうお考えでしょうか。
殊能 >  ミステリとSFはまったく別物じゃないですかね。昔、SFファンの知人にクリスチアナ・ブランド『緑は危険』(中村保男訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)を勧めたら、「この小説はいったいどこがおもしろいんですか」と真顔で訊かれましたよ。
 最近、ヒラリー・ウォー『ながい眠り』(法村里絵訳、創元推理文庫)を読んで、たいへんおもしろかったんですけど、SFファンに勧めようとは思いませんね。
雀部 >  え〜っ、そうなんですか。殊能作品におけるSFの影響とかについて考察する予定が潰えました〜(笑)
殊能 >  作者の見解なんか無視して考察なさればいいんじゃないですか。
雀部 >  そ、それはそうなんですが(汗)
 私らの時代は、小説好きは思春期にSFはともかくとしてホームズとルパンは必ず読むのがお決まりのコースだったのですが、殊能先生はいかがだったでしょうか。
殊能 >  わたしは小学生のころに横溝正史とエラリー・クイーンと大藪春彦を読んでいたイヤなガキなので、ジュヴナイルはほとんど読んでいません。
 おかげで同世代の人とそういう話ができない。あかね書房がどうとか言われても、まったく知らないものでして。
雀部 >  横溝正史とエラリー・クイーンと大藪春彦とは相当なものですね(爆)
 『どんがらがん』を読ませて頂き、アヴラム・デイヴィッドスンに目覚めて、『10月3日の目撃者』をアマゾンで入手したのですが、この中で、「助けてくれ、私は地球人の医師だ」"Help! I Am Dr. Morris Goldpepper"が商売柄気に入ったんですが、殊能先生の評価ではどうでしょうか?
 日歯広報誌に掲載するのを進言してみたいです(笑)
殊能 >  普通におもしろいかな。歯科医学的な評価はわかりませんが(笑)。
 ちなみに、ドクター・ゴールドペッパー物はシリーズ化されてまして、"Dr. Morris Goldpepper Returns"という続編があります。あと、共作の"The Teeth of Despair"にも名前が出てきますね。これは金歯で通信する話なので。
雀部 >  く〜っ、翻訳で読みたいなぁ(汗)
松崎 >  『どんがらがん』は代表作を網羅したうえに、巧みな編集の技を発揮されて非常にバランスのいい作品集となっていますが、選から漏れた作品にもけっこう面白いものがあると思います。わたしは『ダゴン』と『スロヴォのストーブ』が好きなんですが、先生のお勧めはいかがでしょうか?
殊能 >  『ダゴン』は傑作の部類に入ると思いますが、他人様に「訳してください」とは言えない短編ですね。「オレが自分で訳す!」と言える人でなければ、選べない。
 そういう意味では、『ナポリ』が世界幻想文学大賞受賞作でよかったと思いますよ。「これは受賞作ですから、なんとかお願いします」と言えましたから。賞をとってなければ、選べなかったでしょうね。
 『スロヴォのストーブ』はしみじみとしていて、わたしも好きな作品です。ただし、ちょっと渋すぎるし、分量も長い。東欧系移民の話は日本人読者にはぴんとこないんじゃないか、という気もする。
 デイヴィッドスンには、こういったなじみのなさすぎる短編がけっこうありますね。『象を見た男』は人情話系のいい話なんですが、クェーカー教徒ネタだし……。まあ、こんな自主規制はせず、どんどん紹介して評価は読者にゆだねたほうがいいのかもしれない。
 わたしの絶対的なお勧めは『エステルハージィ博士の事件簿』です。
松崎 >  エステルハージィ博士ものは、是非とも出版して欲しいですね。異国趣味、ペダントリー、ユーモアと、アヴラム・デイヴィッドスンの持ち味のいいところが生かされた好シリーズで、けっこう人気を博するんじゃないでしょうか。
 SPPAD60では地図、用語辞典、レビュウ、翻訳と事細やかにご紹介されていますね。わたしも読み耽ってしまいましたが、ネット系でも評判が良いようで、出版を待ち望んでいるかたも多いと思います。
殊能 >  どなたか訳してくださる奇特な方がいればね。相当の難物ですよ、あれ。
 SPPAD60に置いてあるサンプルはあくまでサンプルで、商業翻訳のレベルに達してませんから、めでたく出版されたら、恥ずかしいから速攻で削除する予定です。
松崎 >  いやあ、十分愉しませていただきましたよ。『英国人魔術師スミート閣下』なんて、もう読んでる間は最良のコメディ映画を観ているような感じで。
雀部 >  SPPAD60にあるサンプル翻訳『英国人魔術師スミート閣下』って、エステルハージィ博士ものなんですね。ぼーっと読んでいて気が付かなかった(汗) ルーディ・ラッカーの小説に登場するマッド・サイエンチストも相当なもんですが、スミート閣下も凄いです。
 依頼があれば、ぜひお受け下さいませ(笑)
殊能 >  翻訳はたいへんですから、やりたくありません。「英文和訳」なら、ある程度英語ができる人は誰でもできるでしょうが、「翻訳」のレベルに持っていくのが難しい。細部をすべて詰めていかなければなりませんからね。できる翻訳者ほど悩むし、迷う。そういうつらいことはしたくないんですよ。
 SPPAD60のサンプルページでエステルハージィ博士物を訳した理由はひとつしかありません。
 エステルハージィ博士物は1編だけ、「パスクァレ公の指環」(浅羽莢子訳、『不思議な猫たち』扶桑社ミステリー所収)が邦訳されていますが、これは80年代に書いたものだから、非常につまらない。お願いだからこれで判断してくれるな、少なくとも「眠れる乙女ポリィ・チャームズ」を読んで判断してくれ、ということです。
 そのためには、無理やりでもインチキでも、とりあえず日本語で読める状態にしておかなければならない。だから無理して訳しただけで、べつにデイヴィッドスンを自分で翻訳したいという願望があったわけではありません。
松崎 >  先生の紹介がきっかけとなって、『エステルハージィ博士の事件簿』出版の企画が現実になるといいですね。ところで、先生は本家サイトのReading diaryコーナーでデイヴィッドスン以外にもいろんな未訳作品の紹介をされていますが、アヴラム・デイヴィッドスンに続いて、もしまた短編集の企画が通るとしたら、どなたの作品集がお勧めでしょうか?
 いや、また全部読んで選べなんて言いませんから(笑)
殊能 >  フィリップ・ホセ・ファーマー。
 ポリトロピカル・パラミス(「ダイヤモンドは洗うべからず」「わが虫垂の内なる声」「真鍮と黄金」「だれに樹が作れよう」「シュメールの誓い」)を全編収録して、あとは「キング・コング墜ちてのち」と「わが内なる廃虚の断章」かな。英語で読んだことがないので、未訳短編は知りません。
松崎 >  あ、ファーマーですか。ちょっと想定外(笑)でした。ヴァンスかライバーかな、などと予想していたのですが。
 ポリトロピカル・パラミスのシリーズは古びないタイプのおかしさがありますね。全編に翻訳がある強みもありますし、どこかの出版社がのってこないかなあ。
 しかし、若いSFファンにはファーマーといってもピンとこないかもしれませんね。ファーマーの短編の魅力について少しお話いただけますでしょうか。
殊能 >  まずは発想が異常なこと。1日ごとに1日分の記憶が失われるとか、週に1日しか生活できないとか、非常に変なことを思いつく人です。
 長編もそうで、〈階層宇宙〉も〈リバーワールド〉も基本設定が異常でしょう。ただし、シリーズものの場合は大風呂敷をひろげすぎて収拾がつかなくなることも多々あるようですが、それもまたよし。
 どうもファーマー本人が相当変な人のようですね。あのパルプヒーローへの執着ぶりを見ると、エキセントリックな性格としか思えない。普通の人はターザンの伝記小説を書こうなんて思いませんからね。
松崎 >  ターザンとの架空インタビュー「グレイストーク卿、真実を語る」(SFM'96/10,#484に収録)なんてのもありましたね。異様にマニアックだけど、マニアじゃなくても楽しめるというサービス精神に溢れた作品でした。なんか、SPPAD60での「どんがらがん」編者インタビューにも相通ずるものがあるような。
 先生のおっしゃるようにファーマーの作品はとんでもない奇想が背景にあるのに、言われてみないとその側面が第一に出てこない。〈リバーワールド〉にしても、わたしは面白くて一気に読んでしまったとなあという印象でした。奇想を奇想小説としてまとめてしまわず、ともかくエンターテイメントにしてしまおうって性があるんでしょうかね。そういう意味でも、奇想がよりストレートに出たファーマーの短編諸作を掘り起こしてまとめるのは、いい企画だと思いますね。
雀部 >  わはは。ファーマー氏は私の中では、まず最初に奇想ありきの人なんです。長編では、ちょっとその奇想天外な設定を生かし切れてない印象があるので、奇想短篇を選んでみるというのは、大賛成(笑)
松崎 >  先生は『ナポリ』をヨーロッパの幻想映画になぞらえていらっしゃいましたが、アヴラム・デイヴィッドスンの作品は映像との相性もいいような気がします。エステルハージィ博士ものなんか、テレビの連続シリーズものに最適じゃないかと。あと、「そして赤い薔薇一輪を忘れずに」の不思議な品々は映像でみてみたいですね。
 あるいは、漫画化はどうかとも考えておりまして、例えば異国情緒溢れる半世紀前の中国を舞台とした幻夢譚『ダゴン』だと、高橋葉介さんあたりはいかがかな、などと。
 先生はもし映像化や漫画化があるとして、具体的に監督や作家のイメージが湧く作品はあるでしょうか?
殊能 >  『ナポリ』はすでに映画そのものだと思いますね。
 旅人の案内をする現地の青年は、まずこんなふうに描写されます。
「その青年は上着の襟を立て、喉のあたりをしっかり押さえていたが、その日がべつに寒くもなく、涼しくさえないことを考えると、おそらくワイシャツを着ていないことを隠すためではなかろうか。だが、事実、その青年がワイシャツを着ていないかどうかは、たしかめるすべはなかった。おそらくワイシャツを持ってはいるが、おそらくきょうは洗濯日であり、おそらくそのワイシャツは路地の上に張りわたされた物干し綱に吊されて、なにぶんあまり日のささない路地であるため、すぐには乾かないのだろう」(浅倉久志訳、p.225)
 このまわりくどさはなんなのか。なぜ「その青年はワイシャツを着ていなかった」と書いてはいけないのか。そもそも、「わたし」という話者はいったい誰なのか。
 わたしの考えでは、まわりくどさの理由は映画のように語られているからです。
 まず、青年が「上着の襟を立て、喉のあたりをしっかり押さえて」いるカットがある。もしかしたら、ちらりと襟奥に素肌が見えるかもしれない。そして、次に「路地の上に張りわたされた物干し綱に吊され」たワイシャツのカットが入る。たぶん仰角で、ワイシャツはひらひらはためいているはずです。
 このようなモンタージュから「その青年はワイシャツを着ていなかった」という推測が得られる。しかし、これはあくまで「推測」にすぎない。なぜなら、上着を脱ぎ、上半身裸になった青年のカットはないからです。カメラ(=「わたし」)は見えるものしか映しだすことはできないわけです。『ナポリ』という作品の難解さ、晦渋さはここにあると思います。
 読者を幻想的な空間へいざなう仕掛けも、まさに映画的です。
 青年のワイシャツから始まって、路地に吊された洗濯物が徐々に無気味な「ぼろ切れ」になっていく。目的地の家の中庭は「不潔でじめじめ」しているのに、やはり「洗って濡れたぼろ切れが干してある」。家の住人がいる部屋の入り口には「もはや毛布の面影さえないものが垂れさがって」いる。そして、その向こうで決定的に幻想的なことが起こる。
 これは「ぶらさがった布」という視覚的イメージによる連結であり、因果関係はありません。
 以上の読み方はあくまで個人的なもので、これが「正しい」と主張する気はありません。デイヴィッドスンが映画好きだったという話は聞いたことがありませんから、「わたしはこう読んだらおもしろかった」というだけでしょう。
 ちなみに、例の「ナポリ。」という決め台詞は、「ここでナポリの街角のカットが入るんだな」と思いながら読みました。
松崎 >  ほんとうに、視覚的なイメージ喚起が見事な作品ですね。傑作だと思います。さっぱり訳がわからないのは度外視しても(笑)。ジーン・ウルフに解読してもらいたいなあ。(「眠れる乙女ポリィ・チャームズ」の序参照)
雀部 >  あ、訳が分からなくても良い短篇なんだ。実はちょっと悩んだ(笑)
殊能 >  読者はわけがわからなくても、まったくかまわない。しかし、翻訳者はわからなければなりません。わからないものは訳せないからです。
 それがデイヴィッドスンの翻訳を正式にしたくない理由です。不幸な翻訳者なんかになるのはまっぴらごめんで、幸福な読者のままでいたいんですよ(笑)。
松崎 >  わけがわからないときに、翻訳が悪いんじゃないかって評されることがあり、訳者が気の毒になることがありますね。さすがに『ナポリ』は浅倉久志さんなのでそんな評はみたことないですが。ちなみに、原文でも読んでみましたが、やっぱりわけわからなかったです(笑)。
 先生の『サシェヴラル』、『ダゴン』、『ナポリ』などの短編に対する「わざとわかりにくく書いてあるシリーズ」というネーミングは秀逸と思うのですが、これは先ほども名前が出たジーン・ウルフにも共通する作風ですね。先日、傑作短編集『デス博士の島その他の物語』が出て、今年の話題作となることは必至でしょう。ウルフの作品も『取り替え子』など、一読してわけわからない技巧的なものが多く、『ケルベロス第五の首』では読み解く上で先生の「これはネタバレではない。なぜならこんなネタなどないからだ」を参照されたかたも多いと思います。ウルフとデイヴィッドスンの作風については、いかがでしょうか。
殊能 >  ウルフはわざとわかりにくくしても、よく読めばわかるように書いてますね。実は「このくらいは読者にわかってもらえるだろう」と思ってるんじゃないかな。斜め読みされることを想定していないというか。
 デイヴィッドスンの場合、「ダゴン」や「サシェヴラル」などはウルフ的でよく読めばわかるんですが、もっとめちゃくちゃな作品もありますよ。読者をけむに巻く目的のみで書いているから、作者自身にもわからないかもしれない。
松崎 >  先ほど、ミステリとSFは別物というお話が出ましたが、ウルフの作品はSF好きにもミステリ好きにも楽しめる希有な例かもしれませんね。ミステリ的な精緻な読み解きの楽しみを経て、世界が立ちあらわれてくる感動はSFならではのセンス・オブ・ワンダー。『デス博士の島その他の物語』をきっかけにさらに紹介が進むことを期待しています。
 でも、デイヴィッドスンのめちゃくちゃな作品というのも心惹かれるものがありますね。めちゃくちゃだけど、デイヴィッドスンらしくて面白い作品をご紹介していただけますか。
殊能 >  最適なサンプルは"While You're Up"じゃないですかね。10枚もないくらいのショートショートですが、まったく意味がわからないし、タイトルすら訳せない。「ワインは数分間よく温めてから飲まなきゃならん」などと書いてあり、読者をけむに巻いているとしか考えられません。よくこんなのを雑誌に掲載したな。
松崎 >  なんとも妙な作品ですよね。再録された"The Avram Davidson Treasury"で序文をたのまれたフォレスト・J・アッカーマンが作品の紹介に困り果てているのもまた、笑えるという。
 ちょっとおかしなキャラ達が集って、「いにしえの巫女が占いに使う水晶の大杯に注いだ液体は濃いブイヨンだった」とか、胡散臭くもそれらしいペダントリーなんかも交えながら淡々と話は進み、いきなりとんでもないことが起こるんだけども、また静かに話は終わるという、なんかとぼけた味わいのおかしな小品。たしかに、こんなの翻訳しろなんて言われたら、途方に暮れてしまうでしょうね。
雀部 >  ん〜、ディープな世界だ(爆)
 この『どんがらがん』の収録作品もバラエティに富んでますよね。ブラッドベリ、スタージョン、ラファティ、ヤングのアンソロジーと言うと信じる人が居るかも?
松崎 >  海外の文献でも、しばしばアヴラム・デイヴィッドスンとラファティは並べ評されることがあります。例えば、ジョン・クルートによれば「ラファティ同様に読者の期待を裏切っていくという点で、同時代の作家で唯一挙げられるのがアヴラム・デイヴィッドスンである。ほとんどの現代のSFやファンタジーの作家たちと異なり、かれらは伝統的な宗教に憑かれ、信仰している。ラファティはローマ・カトリックに、デイヴィッドスンはユダヤ教に。
 彼らの全貌を知った後でなければ、その一部を理解しようとするのは不可能だ」。また、ガードナー・ドゾアのラファティ評では、「アヴラム・デイヴィッドスンのみが張り合えるようなオフビートなペダントリーの横溢」とも。
 奇想とペダントリーと宗教という共通点はあるものの、実際は似て非なる作風の両者と思うのですが、そのあたりはどうお感じでしょうか?
殊能 >  デイヴィッドスンとラファティの共通点は、ワン&オンリーの作家であることでしょう。分類すると、どちらも「分類不能」に入る。したがって、同じカテゴリーに属するとも言えますが、実際に比較すると全然似ていない。
 宗教という点でいえば、最大の違いはカトリックと天理教の差ではないかと思っています。
 ラファティはときどき肉体的に残酷なことを書くでしょう? あれはジーン・ウルフ同様、心のどこかに「肉体などは魂の入れ物にすぎない」という感覚があるからだと思う。
 一方、デイヴィッドスンは自ら長年のあいだ肉体的苦痛に苦しんだ人ですから、こういう感覚は持てなかったでしょう。だからこそ、ユダヤ教を棄てて、東洋的な癒しの宗教(と彼には感じられたもの)を信仰したわけです。
松崎 >  なるほど。たしかにラファティの作中人物はやたらと痛そうな目にあうわりに、ぜんぜん辛そうじゃないですね。せいぜい、ゼッキョー、ゼッキョーと叫ぶくらい(笑)。海外のレビュウでは、カートゥーンみたいだと書かれていたりしますが、ジェリーに酷い目にあわされるトム程度のダメージかな。
 先ほど、アヴラム・デイヴィッドスンの映像化のお話をしましたが、ラファティは難しいでしょうね。どうやっても、映像でラファティの「感じ」を再現するのは不可能なような気がします。
殊能 >  ラファティはどちらかというと聴覚型の作家なんじゃないですかね。
 「描く」というより「語る」タイプの作家だろうと思います。
松崎 >  そうですね。ラファティの文章は具体的なイメージの喚起を促すよりも、言葉そのものの持つイメージをぶつけてくる、というか。実際にラファティを原文で読んでみても、そんなに凝った難しい文章じゃないんですね。でも、読みにくい。これは、ひとつには突拍子もない言葉の使いかたにあると思うんです。たぶん、単に調子をとるために奇っ怪な単語を入れてみたり、何気なくOEDでもgoogleでも意味不明な単語があったり。そして出来上がった作品は、なんか計算を間違えた、もしくは何処か別の世界の計算式で構築した建築物のような味わいで、神ならぬラファティはその細部に宿っていると。
 ラファティを読んだことないひとに説明するときの難しさは、細部をそぎ落としてあらすじを語ると、まったく似て非なる別物になってしまうということ。これは映像化しても同じと思います。
 1980年代早期にラファティの『七日間の恐怖』という短編がドラマ化されたとの噂をきいたことがあるんですが、いったいどのようなものだったのか観てみたいような怖いような。一方、アヴラム・デイヴィッドスンの作品なら、うまくやれば持ち味を損なわずに映像化できそうな気がするんですよね。
殊能 >  正直、映像化されることにどれほど意義があるかは疑問ですね。原作と映像化作品は別物ですから。
 池田敏春監督に拙作『ハサミ男』を映画化していただいたとき、わたしは「好きにしてください」とお伝えしました。なにをどう変更してもらってもかまわない、シナリオをチェックさせてもらう必要もない、と。
 原作なんて、監督や製作会社が新しく映画をつくるヒントを与えただけでしょう。原作者はなにもせずにギャラがもらえるんだから、つまらない文句を言ってはいけない(笑)。
松崎 >  新たな読者層の獲得につながる可能性がある、という意味合いはあるんじゃないでしょうか。まあ、下手すると逆効果(笑)のときもあるんで、いちがいには言えませんが。
 そうだ、先生もラファティをお好きということで是非とも聞いてみたかったのですが、特に好きな作品を教えていただけませんでしょうか。
 以前に拙サイトでラファティ・ファンの方々にアンケートをとったことがあるのですが、好きな作品、わけわからない作品、もう見事にバラバラで。「わざとじゃないけどわかりにくく書いてあるシリーズ」(笑)の『草の日々、藁の日々』、『ダマスカスの川』なんか、イチ押しにするかたもいれば、ギブアップされたかたも。
殊能 >  わたしがラファティ大好きというのはデマですよ。『九百人のお祖母さん』の素直に笑える短編は好きですが、『どろぼう熊の惑星』になると、さっぱりわからない。長編はまったく歯が立たない。もちろん英語で読んだこともありません。
松崎 >  おや、そうでしたか。『九百人のお祖母さん』が楽しめたのでしたら、是非とも『宇宙舟歌』をお勧めします。笑えるラファティ短編をオムニバスにしたような感じですので。
 でも、初期のわかりやすい面白さが魅力の短編はあらかた訳されていますので、未訳ものは『どろぼう熊の惑星』系、もしくはさっぱりわけわからないもの(笑)ばかり。うっかり読まれないようご忠告(笑)します。
雀部 >  今回は、お忙しい中インタビューに応じて頂きありがとうございました。
 ファーマー氏のぶっ飛んだ設定の作品群は私も大好きですので、ぜひ機会があれば、編著してくださいませ。
松崎 >  「どんがらがん」宣伝インタビューのつもりが、なんかわたしの趣味に走った(笑)質問ばかりしてしまったような気もしますが、どうも有難うございました。
 このところ、先生がサイトでご紹介された「ケルベロス第五の首」やウルフ短編集、ディッシュ短編集などの出版が相次ぎ、冗談めかして"「このホームページに願望を書くと実現するのでは?」という妄想に駆られそうになった。"と書かれていましたが、やはり牽引力のひとつとなっているのでは、と思います。
 これからも、どんどんと未訳作や埋もれた作品の紹介をお願いします。そこからまた、新たな企画が実現するかもしれませんし、もしかしたら本当に願望が実現するサイトであるという可能性も(笑)。


[殊能将之]
1964年、福井県生。名古屋大学理学部中退。1999年『ハサミ男』で第13回メフィスト賞を受賞しデビュー。他に『美濃牛』『黒い仏』『鏡の中は日曜日』(講談社文庫)、『キマイラの新しい城』(講談社ノベルス)、『子どもの王様』(講談社)がある。
[雀部]
今回は、お二人のディープな話題について行けず、もっぱら聞き役に徹してます。
ミステリも、最近はあまり読んでないもんで(汗) 『どんがらがん』で、アヴラム・デイヴィッドスン氏の魅力に目覚めました。中でも歯科医が出てくる短篇シリーズは面白く、だれか翻訳してくれませんかねぇ。
[松崎]
30年来のSFファンで、ネット通販にて読むあてもない原書を買い漁る日々。ふだんは放射線科医としてCTとかMRIとかをいじくっております。

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