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Author Interview

インタビュアー:[雀部]

『幻視社 vol.5』
> 代表:東條慎生
> 幻視社
> 2011.6.12発行
特集:『イスマイル・カダレと〈東欧の想像力〉を読む』
「類似と自由」―イスマイル・カダレ『死者の軍隊の将軍』について―渡邊利道
短編小説:
「家族サアカス」渡邊利道

『幻視社 vol.6』
>代表:東條慎生
>幻視社
>2011.11.18発行
特 集:〈想像力の文学〉を読む
レビュー:
『猿駅/初恋』田中哲弥 評者:渡邊利道
『全世界のデボラ』平山瑞穂 評者:渡邊利道
『後藤さんのこと』円城塔 評者:渡邊利道
短編小説:
「臨海電車」渡邊利道

『SFマガジン』2012/05月号
 
第7回日本SF評論賞決定
優秀賞受賞作「独身者たちの宴 上田早夕里『華竜の宮』論」渡邊利道 掲載
最終選考会採録
 荒巻義雄/小谷真理/新城カズマ/瀬名秀明/SFマガジン編集長

『華竜の宮(上・下)』
>上田早夕里著/コードデザインスタジオ カバーデザイン
>ISBN-13: 978-4150310851
ISBN-13: 978-4150310868
>ハヤカワ文庫SF
>各巻740円
>2012.11.15発行
 ホットプルームの活性化による海底隆起で、多くの陸地が水没した25世紀。人類は、しぶとく生き残り再び繁栄していた。陸上民は残された土地と海上都市で高度な情報社会を維持し、海上民は〈魚舟〉と呼ばれる人間由来の遺伝子を持つ生物船を駆り生活していたが、陸の国家連合と海上社会との確執が次第に深まりつつあった――。
  日本政府の外交官・青澄誠司は、かつて自分の勇み足が原因で人命を失い、自らも獣舟に足を喰いちぎられるという苦い過去を持っていた。その後、外洋公館の外交官として赴任した青澄は、海上民たちの紛争処理に日々追われていた。
 そんな彼に、アジア海域での政府と海上民との対立を解消すべく、海上民の女性長(オサ)・ツキソメと交渉する役目が回ってくる。両者はお互いの立場を理解し合うが、政府官僚同士の諍いや各国家連合の思惑が障壁となり結論を持ち越されることに。
 同じ頃、IERA〈国際環境研究連合〉は地球の大異変により人類滅亡の危機が迫ることを予測し、極秘計画を発案した……

前回の続き)
雀部> SFが小説である限り「語ること」は普遍的であるような感じがしてます。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア女史の「愛はさだめ、さだめは死」は、人類は登場しないけど、異星人の意識の流れを書いて、SFとしては成功していると思いました。
 この短編だと、『ソラリス』のように起こった現象を記述していくだけでは、読者は何のことかわからないと思うので、作者による言語化は必要だとは思います。映画だと視覚・聴覚も使えるので、また違ってきますよね。あ、テレパシーとか共感覚で体験が共有できれば言葉は要らないかな(小川一水先生の短編にあったな〜)
 青澄とマキの間だと、言葉は要らないか、短縮語に膨大な情報を盛り込むことも可能だと思いました。
渡邊> 「語ること」というのは、5W1Hという視点の問題とテクストに繰り込まれた「作者(誰が)」と、「読者(誰に対して)」という問題があるんですよね。60年代くらいまでは、後者の問題系はSFには重点が置かれていなかったわけですけども、ニューウェーヴ以降はちょっと無視できない「前提」になっているかなあと思います。そのときに、言語論的転回を念頭に置くと、「誰か」というのは主体の問題ではなくて、「言語」が「語る」という行為を生み出すんだ、と、そういう考え方も出来るわけですよね。さいきんでは円城塔さんのある種の作品にはそういう傾向が濃厚に存在すると思いますが、たとえば山田正紀さんが「想像できないものを想像する」というとき、そのテーゼそのものはヴィトゲンシュタインに発するわけで、やはり「言語」が非常に重要な鍵になってますよね。ごく素朴に、科学的な用語の、言葉が持っている多義的なイメージを利用して異様な世界を作り上げるのが山田SFの醍醐味なわけで、SFにおける「語り」というのは現代文学ではわりと独特の展開を有してるのかなあと思うこともあります。批評家的にはちょっと詳細に分析してみたいテーマですね。
雀部> 円城さんの『Self-Reference ENGINE』なんて題名そのものがそういう雰囲気がありますよね。
 『論考』と『哲学探究』は論理的(数学的でもある)で、理系の頭でも取っつきやすい感じですし、「言語ゲーム」の考え方は色々応用が効きそうで面白いんですが、難しいです〜(汗;) SF界隈では、『一般意味論』なんかのほうが名前だけは有名だったりしますけど(笑)
 「想像できないものを想像する」というのは、『論考』の最後の命題「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」に対する(アンチ)テーゼになっているということでしょうか?
渡邊> アンチテーゼと言うか、まあきっかけになったんじゃないかなあと。
 山田正紀さんとヴィトゲンシュタインについては、北海道SF大全の『謀殺のチェスゲーム』の回で少し書いておりまして、描写とか、イメージの記述とかについて思うところがあったのですね。
雀部> ありがとうございます。なるほど山田正紀先生との関連性、良くわかりました。
 もう一つ、SFにおける「語り」が、現代文学ではわりと独特の展開しているというのは、具体的にはどういった作品から感じられているのでしょうか。
渡邊> たとえば筒井康隆さんの『虚航船団』で、ホチキスが「ココココ」と横にハリを出していくところとか、酉島伝法さんの造語には山田正紀さんの宝石泥棒に出てくる「滑魚」とかの系統を感じたりしました。文字の表記的なイメージと意味をあえてごっちゃにして、虚構世界を組み立てるというのはSFではわりとポピュラーな技法ですよね。こないだ林譲治さんの『大東亜の矛』を読んだのですが、怪獣の名前が「弾魔」とか、空母の名前が「亜山」とか、筒井さんや酉島さんのようにあからさまに実験的なやりかたではないにしても、同じような論理が働いていると思うんですね。その延長上に倉田タカシさんの作品などもあるのかなと。
 あと、もうひとつイメージの記述に関連して思うのは、直観的には認識できないはずの状況を、科学的な考察をもとにしてイメージとして記述してしまう、たとえば堀晃さんの『バビロニア・ウェーブ』など、SFにはそういう傾向もありますね。
雀部> 渡邊さんが、「6 道徳・科学・SF」の項で“しかしディッシュやヴォネガットにとって、もっとも重要であるのはそのようなアイデアによって変容させられた人間社会の、人間に関する考察にほかならない”と書かれてますが、これはSFファンにとっても同じだという気がしてならないんですが。せっかくの未来・宇宙船を舞台にしながら卑近な家族問題を取り上げられても困りますけどね。どのSFかとは言いませんが(笑)
 その背景に沿った新たな家族関係が提示されているならSFファンは喜ぶはずですので。昔から、「異様な(現代とは違う)環境に放り込まれた人間が、いかに考え行動するか」を描くものがSFであったと思うので、“多くのSFにおいて、アイデアが、そこで描かれる人間および人間社会より重視されている傾向が存在する”は、“SFにおいては、アイデアが、そこで描かれる人間および人間社会より重視された作品も評価される”であるのではないかと……
渡邊> ああ、それはそうかもしれないですね。まあ、状況論は切り取り方の問題なので、違う見方もあるとは思います。たまたまそういう意見を目にする機会が多かったというのもありますね。
 たとえばSFやファンタジーは、文明批評の要素が伝統的にありますけど、他方、現実逃避的な指向も根強くあって、けっこう反目があるのだなあと思うことがあったりとか。
 また、どれだけ違う世界でも、人間は同じ卑近な問題に悩んでいるものだというのも物語のやり方ではありますよね。あと、たとえば世界の運命よりも、自分の恋愛問題のほうが重要だとか、そういうことはまあ普通にあるだろうと思います。
 基本的には、それらの差異というのは物語の都合というか大枠の問題なので、まあ、読者としての好みはあるとは思いますが、私個人としては巧くやってくれたらそれはどっちでもいいじゃないかと思うわけですけども、対立があるんですよね。
 で、評論でそういう対立を扱うと、どうしてもどちらかの側に重点を置くことにならざるをえないのが難しいところではあります。
雀部> ま、そこらあたりは評論しない私でも、なんとなく分かります。
 『SFが読みたい!』に載った対談だと、大森望さんはちょっと文藝寄りだと思うし、鏡明さんはコアSF寄りな感じを受けました。渡邊さんも私のなかでは文藝より(笑)
 で、SFファンは、そういう卑近な問題に悩むような小説に興味がないので、SFを読んでいるという側面もあると思うのですが、どうでしょう。
渡邊> ああ、私はあの対談では、大森さんは翻訳家なので作家の思考に沿って読んでいく感じで、鏡明さんは作家的に、「自分ならこのテーマはこう書く」という視点が強く出てるのかなあというふうに思いましたね。
 そういえばとり・みきさんが登場人物の恋愛とか興味ないというふうなことをどこかで書いてたのを見た記憶があります。私は「文藝より」というか、作品は一種テクニカルに受容してる部分が強いですよね。テキストの中でモチーフをどういうふうに処理しているか、という技芸の問題として見ているので、そのモチーフが社会的にどういう意味合いをもっているのかというのはコンテキストの一つに過ぎないように思うんですよ。
雀部> なるほど、翻訳家と作家と批評家では読み方が違ってもおかしくはないですね。
 でも、SFファンは、SFという枠内においては、保守的なんだと思います。新しいムーブメントには、最初拒絶反応を示しますよね――ニュー・ウェーブとか(笑)
 どのジャンルのファンも同じかどうかは知らないのですが、なんか自分のテリトリーを侵される気がして……(笑)
渡邊> あとあれですね。私がSFを読みはじめた頃はサンリオSF文庫とか新刊で出ていた時代で、筒井康隆の『みだれ撃ち涜書ノート』でラテンアメリカ文学を紹介してたりとか、そういうものをナチュラルにSFだと思って読みはじめた世代なので、むしろジャンルというのはどんどん境界を侵蝕してこそ面白いんだと無意識に思い込んでるところがありますね。ニューアカデミズムなんかの影響もあって、権威とか伝統とかのあるお硬いものをポップに読んで、ポップカルチャーの不真面目なものを哲学的(たとえば記号論のような)に詳細に分析するのがかっこいい、みたいな。文系と理系を区別するのはダサいという感覚とかもあって、複雑系とかああいうものが流行ったわけですけども。
 だから、いまひとつ「保守的なSFファン」というのがピンと来ないというのが正直なところでもあるんです。SFってなんでもありだったじゃん……的な気分がけっこうあります。小松左京さんにしても容赦なく知的で、かつ通俗的でもあるのが凄いなあと思うので。
雀部> 小松左京先生には、あまりニュー・ウェーブ的要素は感じないなあ(笑)
 う〜ん、というか世代的なSFのとらえ方の差って大きいような気がするんですが。最初にSFの洗礼を受けたときに読んだSF小説の影響とでも言いましょうか。SFの黄金時代は15歳(14歳だったかも)とか言われてますし。
  私は年代的には鏡明さんと同じ世代ですので、大森さんよりも鏡さんの心情に近しい気がします。さきほど出た言語ゲームの考え方で言うと、SFという言葉の意味が読んだSFによって自ずから確立してくるとしたら、各個人でそれが異なってくるのは当然ですよね、同じSFファンでも微妙に違った言語ゲームに参加しているわけですから。
渡邊> ニューウェーヴのひとつの画期性に、SFであっても文学性を追究するべきだという主張があったと思うんですけど、小松左京さんの未来の大文学としてのSFという主張とか、ダンテとピランデッロを出発点にしているところとか、SFと文学をまったく分けてないと言うか、十九世紀的な文藝がおかしくて、SFのほうこそ文学の主流なんだって発想がありますよね。筒井さんにも、物語批判(パロディ/メタフィクション的なもの)こそ現代文学のフロントだって意識があって、やっぱり私のSF観はこのお二方に規定される部分が強いですね。
 作品のほうでも、筒井さんはいうに及ばず、小松さんでも『題未定』とか、眉村卓さんの『ぬばたまの…』とかってニューウェーヴっぽいと思うんですけどね。最近出た異世界コレクションは狂喜乱舞しましたねえ。
 世代ということでいうと、私は瀬名秀明さんや東浩紀さんと同世代なんですねー(あんなに頭よくないですけども(笑)。とくに意識したことはなかったのですが、こないだ酉島伝法さんと話していて、メチャメチャ話が通じるので「ああ同世代なんだなー」とびっくりして、やっぱりそういうのってあるのかもしれないなーと思ったりしました。
雀部> ちょうど本格SFを読み始めた頃(中2で定期購読始めた)、SFマガジンで連載されていた小松左京先生(『果てしなき』)と笑犬楼さま(『馬の首』)は、私のSFの原体験です(笑)
 渡邊さんからのご指摘もある通り、ニュー・ウェーブに関しては日本独自の環境もあった気がします(元々文学性を追求する下地があったので、なにをいまさら感もあった)。それとニュー・ウェーブと称する小説に、文学性を追求するあまり面白くない作品もあったしで。実のところ、J・G・バラード御大や、オールディス、ハリスンあたりの作品は大好きなんですけどね。
 私見ですが、SFファンってちょっとひねくれてるから、横からあれこれ指図されると、そんなことはわかってらいと、直ぐにへそを曲げちゃう。あと、このムーブメントは凄い、これは絶対読まなくてはと押しつけられちゃうと、なんか胡散臭く感じちゃうんですよね(笑) 
渡邊 >  私は雑誌からではなくて、古本屋の棚で、星新一、安部公房、小松左京、筒井康隆の新潮や角川の文庫が50円とか100円とかで揃ってて、それを中学生くらいでどんどん読んでったのがSF小説のはじめですねー。ハヤカワJAはちょっと後でした。もっともSFというジャンルでは小学生のときに永井豪、手塚治虫、藤子不二雄、楳図かずお、萩尾望都などをいっぱい読んでて、そちらのほうが原体験かもしれないんですけども。『ねじ式』なんかも私の中ではSFでした(笑)
  ところで新しいムーブメントに乗れなかったといえば、私の世代ではサイバーパンクがそうだったかもしれないです。流行ったんですけど私はいまいちピンと来なかったですね。ガジェットの使い方が新しいだけで内容は古くさい感じがしてしまって。だからスチームパンクとか実はほぼ読んでないんですよ。最近また流行ってるんで読んでみてるんですけど、やっぱりどうもよさがわかりにくいですね。ともかく小説の分量が長いのもしんどいですねー。
雀部 >  いやぁ、原体験といえば小学生の時、巡回映画で観た『宇宙大戦争』とか『ゴジラの逆襲』とか、近所の映画館で観た『妖星ゴラス』です。それからTVの特撮モノ(実写版鉄人、アトム)も。見た順番だとその次あたりが手塚先生のマンガかな。
  上田さんは、サイバーパンクからSFに入ったそうですから、やはり世代によって違いますねえ(笑)
  話は変わるんですが、渡邊さんが寄稿されている『幻視社』という雑誌なんですが、この雑誌について教えて下さいませ。
渡邊> 幻視社はhttp://www.geocities.jp/gensisha/のサイトに詳しいのですが、2004年に東條慎生さんが主宰されて発足した文芸同人グループで、現在までに同人誌「幻視社」を準備号含めて七冊刊行されています。主なメンバーには東條さんの他、ケータイ小説などで活躍中のプロ作家のエンドケイプさんと佐伯僚さん、評論家の岡和田晃さんなどがいらっしゃいます。私は四号からの参加です。同人誌の内容は、テーマ競作のみじかい小説と、ある程度テーマに関連する特集形式の評論、それに早稲田文学などで活躍された物故作家向井豊昭さんが遺された原稿を紹介する活動をしています。だいたい二年に一回くらいの割合で文学フリマというイベントに新刊を出して、そこで売れ残ったものをインターネットで通販している感じですね。
雀部> 「幻視社」5号で「家族サアカス」、6号で「臨海電車」を書かれてますね。6号の“〈想像力の文学〉を読む”特集の評論面白かったです。特に田中哲弥さんの『猿駅/初恋』の評論は良かったです。なんか私がとらえ損ねていたことが、そのまま言葉になってるようで、そうだそうだよなと思わずつぶやいていましたよ。
渡邊> おお、どうもありがとうございます。田中哲弥さんはずっと好きな作家で、でも論じようと思うとなかなか難しくてちょっと変則的な書き方になってしまったので、お誉めいただけると嬉しいですね。
雀部> けっこう格調高い雑誌だったので感心しきりだったんですよ。
  (次号に続く)


[渡邊利道]
1969年愛知県生まれ。流れ流れて現在は東京在住。
週三回透析治療を受ける病人、専業主夫。
たまに評論や小説を書きます。
[雀部]
1951年岡山県生まれ。
孫の守に追われる日々(汗;)『幻視社 Vol.5』の故向井豊昭氏作、方言入りまくりの「自分稼豊昭のガードマン」のリズム感凄いっす。面白いし。

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