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八月の花の名

前編

高本淳

 

 モモミヤシの葉裏を庭園灯が薄暗く照らしている。頭上をすっぽり覆う六角パネルの行列に反射した無数のそれらの光が偽の星空をつくり、ときどき誰かが遠くで遮るたびに親しげに瞬く。住み慣れた、しかしひどくちっぽけな宇宙――かりそめの星々の背後には底知れぬ闇が広がり、天頂を中心にぼやけた円環を描く『月』も木々の葉がつくる影をはらいのけるぼどの明るさはない。
 だから眼に軽い障害のあるレイにとって夜間の外出に懐中電灯はかかせない。診療所前のベンチに居心地悪げに座り、その頼りない光の輪をあちらこちら動かしながら彼は退屈しきっていた。目を上げると頭上に斜めにかぶさるパネルに小さく自分が映っている。夜の闇のなかにぽつんと浮かんだ孤独な少年。膝小僧のつきだした細い脚に薄い肩からひょろりと生えた長い腕と小さい頭――画像データベースで見たシロテナガザルそっくり。視野狭窄のためあたりを見まわすとき人一倍顔を動かさなければならないのでなおさら油断のない野生ザルに似てくる。もっとも同年の遊び相手もなくエネルギーをもてあましている少年に落ち着きがないのはあたりまえだし、当然ここで大人しく待つよう母親に言われていてもじっとしていられるはずもないのだ。
 ママが医療担当のジム・エヴァンス老人に相談にきた内容が自分に関するものである以上、どんなに退屈でも文句を言うわけにはいかない――でも、それにしてもいつまで待たせるんだろう? ベンチのすぐ後ろは診療室の壁があって通気のための高窓が開いている。もっと小さい時分に叱られながら何度もやったことがある――ヤシの幹を窓の高さまでよじ登るのは簡単なことだ。十一歳にもなってそんなことをするのはみっともないと思い我慢していたが、とうとう辛抱しきれなくなったレイはすばやくあたりを見回し、だれも見てないのを確認するとまさしくテナガザルのように身軽に幹をつたいそっと窓ガラスを押し開いて中の話に聞き耳をたてた。

「……会話の破綻や感情の平板化、そして否定的妄想の類は一切認められません。多少、内向的なところはあるようですが、それは他の子供たちと年齢が離れていて話し相手がいなかったせいでしょう。基本的には健康なお子さんです」
「でも――幻覚症状は間違いなくあります」診療机の上に重ねられた息子のパステルで描かれた絵を見やりながらクリスは答える。「……翼の生えた女性や猫たち。最初はただ空想癖の強い子だと思っていたんですけど……」
「ええ」老人はうなずく。「それらはたぶん視覚障害に起因するものです。――いや、ご心配なく。この症状は格別危険なものではありません……」
「本当に?」
「こうした症候群は視覚の衰えはじめた一般には教育程度の高い老人にみられる幻視体験として最初に報告されました。たしかに患者は実在しないさまざまな幻覚を見ますが、それらは統合失調症のそれのように強い怖れや不安を伴うものではありません。また現実と混同して強迫神経症的な行動をとったという例もありません」
「視覚の欠損が原因なんですね? やはり汚染事故が……」
「いや」エヴァンスは頭をふる。「先天的角膜混濁の原因特定は難しいです。むろん神経毒汚染が引き金になった可能性は否定しませんが、同時にあなたはご主人を亡くされ強い精神的ショックを受けられもした。妊娠中の過度なストレスも胎児の生育には大きな影響を及ぼします」
 沈黙する相手の腕に手を軽くおきなぐさめるように彼は微笑みかける。
「いずれにせよ自分を責める必要はない、クリス。レイノルドくんの視覚障害は日常生活にはほとんどハンディとはならないレベルのものです。また幻覚についても同じく問題になるようなものではないと考えます。たぶん成長とともに幻覚は次第に消えていくはずです。仮にこの先続くとしても何らかの望ましからぬ結果が生じると考える必要はないのです……」
 自分の言葉が相手の中に落ちつくのをみきわめつつ彼はつづける。
「そんなわけで、あえて臨床的措置の必要はないとわたしは考えます。しばらくいまのままで様子を見られることですね」相手が了解のしるしにうなずくのを待って彼はにっこり笑った。「けっこう――それでは、クリス、どうぞレイノルドくんを呼び入れてやってください」
 母親が診療室の扉までの数歩を歩きドアを開いて見ると少年はすでにきちんとベンチに座っている。それから彼は無邪気そうな顔で首を傾げ、彼女にまねきいれられるとおもむろに立ち上がり入り口を通って老人の前にすすみでる。
「こんばんは、レイノルド」
「こんばんは、エヴァンスさん」
「ふむ」老人は苦笑する。「身体の調子はどうかね?と今さらたずねるまでもないようだな。さぞや木登りで忙しいのかな?」
 レイは赤面しつつズボンの前についた樹皮のクズをはらいおとす。
「元気がありあまっているのは結構なことだ――まあ座りなさい」
 大人ふたりの顔を交互に見比べつつ少年が居心地わるげにスツールに腰かけると老人はおだやかな調子で言葉をつづける。
「あの妖精は最近現れたかね? ああ、夜ベッドに寝ているとききみを訪れるというあの羽のある小さな少女――名前はなんといったかな?」
「ティンカーベル。一週間ほどまえ会いました……」
「いちおう聞いておこうかな。どんなふうに彼女はやってくるの?」
「ふと目覚めてお客さんがきていることに気づくんです」
「『お客さん』?」
「その――ティンカーベルたちのことをレイをたずねてくる『お客さん』とわたしたち呼んでいるんです」
 母親が代わりに答え、老人はうなずく。
「『お客さん』たちはいつも同じ場所に見えるのだね?」
「寝室の左の隅の闇のなかに。すぐに目を動かすと行ってしまうのでじっと上を見つめたままで相手の姿をさぐります。そうしているとだんだんはっきりしてきます」
「何も話しかけてはこないのかな?」
「ええ。何かを言いたそうだけれど声を出すことはありません。闇のなかにうすぼんやりと光って立っているだけです。だから、ほんとうのところは『ティンカーベル』という名前であるかどうかはわかりません。ぼくとママが勝手にそう呼んでいるんです」
「きみはどう思う? 彼女はほんとうにそこにいるのだろうか?」
 ちょっと口ごもった後レイは答える。
「わかりません」
「ティンカーベルのほかにも『お客さん』はいるのだね?」
「――猫、葉を茂らせた枝、回転するプリズムや小さな建物なんか――以前はいろんな『お客さん』がたずねてきました。最近になってめっきり少なくなってきたけど」
「なるほど」老人は満足げにつぶやき机の上の絵のひとつをとりあげる。そこには背中から翼を生やした少女の姿が描いてある。
「よく描けている。ずいぶん細かいことろまで見えるんだね?」
「レイ、うなずくときにはまっすぐ首を傾けるものよ」
 癖で首を斜めに傾けそうになったレイはあたらめてこくりとうなずく。
「うん、そうしたほうがいい。きみは視野の中心でわたしの顔を見られるはずだ。さて、こっちの花らしいものの絵は? 新しい作品だな。しかし、なんだか萎れているようだが」
「それはドームの外に落ちていたんです。砂の上ですっかり枯れていて――」
 エヴァンスは興味を惹かれたようにその絵をじっと見詰める。
「きみの寝室ではなく?」
「はい」
「ふうん。枯れた花か。なるほど外は極度に乾燥しているからね……理屈はとおっている」
 微笑む老人にレイはたずねる。
「先生……」
「うん?」
「ぼくは病気なんですか?」
「いや、もちろん病気なんかではないよ。きみは健康そのものさ」
 母親がため息をついたのを聞いてレイはこれでようやくこのやっかいごとが終わったと感じる。
「じゃあもう帰っていいですか? 今夜中に『名無しおばさん』の宿題をかたづけなければならないんです」
 老人は一瞬母親と顔を見合わせ、それから苦笑しつつうなずく。
「ああ、もちろん。いいとも」

 苔むしたコンクリートブロックのオーバーハングから身を乗り出し、レイは手がかりになりそうな蔦を選ぶ。すぐ下には他の子供たちからひとり離れ、両手にすくった水に顔をつけるようにして滝壷の縁にかがみこんでいるスージーの小さな姿。
「……だめだ!」
 少年がタイミングよく蔦を放し猫のように芝のうえに着地したとき、ひとりの男が叫びつつ少女を乱暴に引き立てて小さな頬を平手打つかわいた音が聞こえる。彼女は突然の出来事にわけもわからず……痛みよりむしろ身体を激しくつかまれたことに驚き……人形のようにカールしたまつげをいっぱい見開いて一瞬呆然とし……それから自分を叩いた相手が頬を朱にそめながらかがみ込み「濾過されていない水を飲んではいけないと言ってあるだろう! スージー」と感情をおさえたしわがれ声で叱るのを聞くと、整った顔を悲しげにゆがめ口いっぱい息を吸い込んで小さな身体から発するとは信じられないほど大きく通る声で泣きだす。ママ……ママー……と叫ぶ泣き声はその場にいた他の子供たちすべての動きを止め、そして一瞬の怒りに我を忘れた男の顔にはたちまち悔悟の色。物陰から凍りついた子供らのストーンサークルの中心に近づくレイは冷静な非当事者のつねとしてふたりの足許で小さな輝きが跳ねるのを目ざとく見つけることができ、なかば衝動なかば義務感にかられて少年は背後から男のひじを取る。
「違うんです。ディロンさん」
 農業技師ジェイムス・ディロンはびくりとふりかえり……視線を少年の目の高さまで下げ、それがレイであることを認めると顎を引きしめ厳しい目つきになって低い声で問う。
「何が違うというんだ、レイ?」
「スージーは水を飲もうとしていたんじゃないってことです。彼女はただ小魚を手にすくってながめていただけです。ぼく見てました」
 少年は足許の小さな水たまりを指さし、ジェイムスもまたようやくその小魚に気づく。
「それなのにあんなに叩いて……」
 ディロンはゆっくり顔を上げてレイの目を少年が握っていた手を離すまで無表情ににらむ。それから身をかがめ小魚を掌にとると黙ったまま流れの縁まで行ってそれをそっと水中にはなし、彼は少年の前にもどってくると両腕を胸のまえで組みなおも不機嫌な声色で尋ねる。
「ところできみはいったいどこから現れたんだ? いままでここにいなかったのは確かだし、そっちの方角には道なんかない。まさかまた森の中を通ってきたんじゃあるまい?」
 威圧的なもの言いが少なからず少年をむっとさせ、彼は答えるかわりに押し黙ってしまう。
「どうした?……聞き分けのない子供じゃないんだから決められた道を歩かなければならないことはもう知っているはずだな? ここの生態系がどんなにデリケートなものかも……。ひとりひとりの無分別な行動が『スフィア』の全員の長年にわたる注意深い努カの積み重ねを無にすることだってあるんだ」
「そんなことはわかってます……」
「わかっているならなぜそうしない? レイ、今後は二度と歩道を離れて歩くことはやめるんだ……」
 それからディロンはいまだ泣き続けている少女をふり向く。
「いつまでめそめそ泣いてる、スージー? いきなり叩いたのは悪かったが、魚を手にとったらだめだと何度も言いきかせてあるじゃないか」
 それでも少女はときおり母親を呼びながらすすり泣き続ける。途方にくれた顔でそれを見下ろすジェイムスの背を敵意と反発とを浮かべた目でしばしにらみつけ、やがてレイはくるりとまわれ右をすると小さな肩をそびやかしつつその場を歩き去っていく。

 シエスタの習慣を持ち込んだ『スフィア』の午後は人影もまばら。それでもスペイン語と英語で『立ち入り禁止』と書かれた密閉扉の前で素早く周囲を見渡し、ゆっくり押し開いて出来た細い隙間をレイはするりと抜ける。数年前の水質汚染で幾人もの犠牲者を出して以来、一部にこんな閉鎖区画が生まれていた。ガス循環から切り離されたこれらの区域は二酸化炭素による窒息の危険もあって立ち入りを厳しく制限されているが、打ち捨てられた気配の漂う空間はかえって独りぼっちの少年の心を強くひきつけた。なにより遮る茂みがないために視界がひらけていて外界を眺めるには絶好の場所。淀んだ貯水池の縁、園芸耕作や建築補修のための資財パックの間の人目を避けられるお気に入りの位置に身体を横たえレイはうっすら開いた目で、まるでそこから眺められるすべてを所有する征服者であるかのように『スフィア』の外部をながめわたす。
 八月は冬のおわり。でも外に広がるのはいつもと同じ赤茶けた砂漠。砂礫でおおわれた地表は透明なパネルの外側一メートルぐらいまでは何の変哲もなかったが、そこからさき曇りガラスを透かして見るように急速にぼやけていき、最後に地平線とおぼしきあたりで白茶けた塵のベールとなって空の青みに溶けていく。『スフィア』をとりまくすべての色も形も、陽炎に似た発散限界面の外はピントの外れたレンズを通して見ているようにぼやけ、細部のディテールというものが一切欠けていた。
 押しつぶされた赤褐色の霞のような大地には一切凹凸がなく、書き割りのようなのっぺりした空には奥行きを感じさせる雲の欠片ひとつ浮かんではいない。ただ昼をすぎたばかりの今、天頂付近に『スフィア』の住人たちがこの季節「大天使(アークエンジェル)の輪」と呼ぶ眩く輝く小さな金色の環だけがある。
 かつて太陽と月はそれぞれが金と銀の小さな円盤として見えたことをレイは知っている。しかし秋分の日をのぞいていまではそれらは天頂を中心にぐるりと描かれたにじんだ光の帯として眺めることができるだけ。春分の日の正午にはその光の輪はうすぼやけ直径は最大になり、反対に秋分の前後数日間のその時刻には天頂に凝縮した眩しい光の塊になる。とはいえそれはつねに脈動し滲みぼやけ揺れ動き、くっきりした円盤としての輪郭を描くことは決してない。
 その光の帯の縁の滲みの幅を観測すれば『スフィア』の存在確率分布がわかるだろう。緯度の不確定性が太陽の見かけの高さを変えるのだから――頭上を見上げ眩しさに目を閉じた瞬間レイはぼんやりと考え、すぐに深く眉をしかめる。ちぇっ! ぼくはもうすっかり洗脳されている。いかにもあの『名無しおばさん』が持ち出しそうな話題じゃないか!

「……現在の『スフィア』にとって場所や方位は意味をもちません。なぜなら『スフィア』はいま可能性の重ね合わせの状態にあるからです。もちろんその可能性は無限ではなく、『スフィア』が建設された地点を中心にした確率分布のひろがりとして与えられます。しかしその不確定領域のなかで『スフィア』のドームがどこにあり、そしてどこを向いているかを知ることはできません。逆に言えば『スフィア』の内部から外部のある事物の位置を特定することができないということです。したがって例えば太陽はわたしたちにとってひとつの仰角全周に広がった金色の輪として見えます。さて、それではレイ、簡単なテストに答えてもらいたいのだけど、いいかしら?」
 ボルメトリック・ディスプレイのなかの『名無しおばさん』が言う。
「前回学んだように『スフィア』はフラクタル次元をもつユークリッド量子時空構造で包まれています。そこで質問――微小領域で時間の矢の方向がばらばらなのに、なぜ太陽から発せられた光はこのエントロピーの逆転面すなわち『ホーキング・スクリーン』を通過できるのか?」
 午後の学習の時間、ミツバチの巣房に酷似した六角形の教室の白い壁に貼られたエッシャーの『天使と悪魔』のポスターをながめながらレイはうわのそらの調子で答える。
「――光子の反粒子が光子自身だから」
「そのとおり。でもそれは正解の半分でしかないわ。レイ、あなた自身の知識を確認するためにここでホーキング・スクリーンの光学的な性質について述べてみてくれる?」
 ため息をついて少年はとっくの昔に記憶している頭のなかの文章を淡々と読み上げる。
「光子はスクリーン上で対生成する。内側に向かった光は外部から射し込んできたかのように見え、いっぽう外部に向かった光は時間を遡って運動する結果、内部からはあたかも太陽からの光、あるいは環境からのその散乱光のように観測される」
「それもまた正しい答えのひとつね。できれば教科書に書かれていたことの棒読みではなくあなた自身の言葉で説明してほしいところだけれど……」
 レイはちらりとディスプレイを見る。この言い回しをするときこのバーチャル映像の教師はいつでも同じ残念そうな表情をすることに少年は気づいている。
「それでは先にすすみましょう。夜間の『スフィア』内部から外部への熱の移動はこの原理を知っていれば簡単に理解できます。太陽光を赤外線におきかえ、いまのあなたの説明のなかの対生成の部分に対消滅という言葉をもってくればいいわけです……」

 外に広がる赤茶色の平面にはある一定の確率で水面や真っ白い塩の大地がまぎれこんでいる。それらは高原地帯の強い陽光を高い反射率ではね返し、そうした見えない紫外線源を長時間直視すると目を痛める。だからレイは物心ついたときからずっと外部を裸眼で長く見てはいけないときつく警告されてきた。それでも少年はこうしていつでも大人に隠れてしばし外部の眺めに見とれてしまう。
 そうしてしばらく景色を眺めたのち彼は身を起こすと無数に並んだ六角パネルのひとつを選びそばに近寄っていく。そこに座り込むと透明なパネルの表面に額を押しつけ、彼はすぐ外の地面をじっと眺める。いちばん最初に見たとき少年はそれを錆びた針金だろうと思った。『スフィア』のドームを形づくるフッ素ポリマーパネルはホーキング・スクリーンの展開導体になる特殊な合金の枠組みに取り付けられている。時とともにその接続部分が古び酸化していけばあるいは小さな部品が地面に落ちることもあるかもしれない。砂に埋もれたそれが今風の悪戯でわずかに顔をのぞかせたとしても不思議ではない。しかし何日か同じ場所を眺めているうちにレイは乾燥し萎びきっているもののどうやらそれが何かの植物の細い枝か茎らしいと気づく。砂地からわずかに顔をだしたか細い枯れ枝――これがもし幻覚でないなら、レイにとってはじめて外界に発見した変化だ。
 風で折れた小枝が他の土地からはるばる運ばれてきたのだろうか? レイは細部はわからぬまでも荒涼としていることが一目でわかる風景を眺めながら考える。それとも、小動物、あるいは鳥――砂漠の生き物が運んできたのか。レイはその思いつきに魅了される。もしそうならここで待ちつづけていればやがてこれを運んできた生き物の姿を見るチャンスがあるかもしれない。
 腕時計がやわらかいチャイムをひとつ鳴らす。あっというまに午後の学習時間。ため息をついて立ち上がるとレイはおもい足取りでバーチャル教師の待つ教室へとむかう。

 予想したより急速に砂は風に運ばれ、はじめて見かけたときからわずか数日で『枯れ枝』はさしわたし二十センチほどの全体を地表にあらわした。レイはそれが『枝』ではなく一輪の花を咲かした草の茎だと気づく。水分の最後の一滴までも失ってやせ細り白茶けていたがたしかに一本の茎の先についた数センチほどの大きさの花だ。ただそれが本当に存在するものなのか、それともあの『お客さん』たちと同じに彼だけに見える幻覚なのか――レイには判断できない。だからこそ、それが果たして実在する品種なのか調べてみる必要がある。
 もちろん『封鎖区域』に立ち入っていることを大人たちに知られるわけにはいかないから、すべて彼一人で解決しなければならない。しかし幸い『スフィア』には植物学に関する膨大なデータを収めたライブラリがあるのだ。
「ここの土地に咲いている花の種類を知りたいのだけど……」
 学習が一段落した後『名無しおばさん』にそう尋ねても秘密が漏れる心配はないことをレイは知っている。『スフィア』を制御するインターフェースAIに対して人間はプライバシーというものをほとんど持っていなかったけれど、そのぶん彼女は口は堅いのだ。
「おや、レイ。それは漠然とした質問ね。ここの土地というのはどこまでを言うのかしら? もちろんアタカマ砂漠は世界で一番乾燥した土地でほとんど植物は育たないわけだけれど……」
「じゃあ、こう言い直します。アタカマ砂漠のどこかに萎れた花がひとつ落ちているとしましょう。それはどんな花である可能性が高いですか?」
「白ユリ」
「なんですって?」予想していなかった答にレイは戸惑う。
「もっとも近い砂漠の街サン・ペドロ・デ・アタカマには教会があり、そして当然墓地がある。墓にたむけるのにふさわしい花と言えば白ユリです」
 ――AIのくせに人間をからかったりできるんだろうか? ディズニーの『眠れる森の美女』に登場する魔女マレフィセントにどこか似た3Dイメージの女教師をにらみながら少年は考える。
「その可能性は除外して――『スフィア』のすぐ外側に野生の花が何かの方法で運ばれてくるとしたら?」
「何かの方法というのに人為的な手段を含めるなら――以下の植物がありえるわ。クリスタリア・エヤネア、バルビジア・ペデュンキュラリス、コルディア・デカンドラ、ランドリニア・ロンギスカパ……」
 学名の洪水にレイはたじろぐ。
「名前を聞いただけじゃ何もわからない。映像を出してもらえる?」
 一瞬のうちに半球状の立体ディスプレイに写真と図版のスタックが現れる。時間をかけて少年はひとつひとつを丹念にチェックしていったが、肝心の花が萎れすぎているためにいまのところこれと特定することは難しい。
 やはりあれは現実にあそこに存在するのだろうか? しかしなにかの偶然で野生の花が運ばれてくることはちょっとありそうもない。――そもそもどこにも存在しない場所にどうやってたどり着くことができるのだろう……。そうとも、たぶんあの花は幻覚で自分の期待なんてもともとかなわない夢なんだ……。そう言い聞かせながらもレイは何かが起こるのを待ちつづけることをやめられはしない。

 月一度の集会は十歳をすぎれば傍聴することができる――というより十二歳からあたえられる拒否権(ベトー)にそなえて奨励されていたから、あの花の運命がひどく気になっているにもかかわらずレイは、野外集会場のベンチにすわって死ぬほど退屈な時間をすごすことを母親から強いられている。
「……同様に一平方メートルあたり千五百グラムを収穫しました。このとき植物体中のリン酸飽和係数は1コンマ5gP。土壌中の有効態リン濃度は両地点とも0コンマ1mgP以下であり、これによってわれわれはこの品種によるリンとカリウム回収の有効性があらためて実証できたと考えています」
 十二ある研究班の責任者がそれぞれ立ち上がり壇上の自治委員たちに報告する。居並ぶ老人はみな前回の危機を脱するのに力あった功労者ぞろい。とはいえぶかぶかのショーツから痩せてしみだらけの太股をのぞかせた姿にあまり威厳はない。まして彼らと並んでマレフィセントがすまして座っていてはなおさらのこと。
 各班からの栽培実験の報告がようやく終了しかかり少年がほっとしたとき委員長のエヴァンス老人が質問する。
「あの区画でリン循環に目鼻がついたのはおおいに結構だが、パンパスグラスは取り扱いがやっかいじゃないのかな。きみの班でも怪我人が続出したはずだが?」
「――あのときはご迷惑をかけました。切り傷は葉の縁に珪酸体でできた鋭い歯があるためです。次回からは暑さを我慢して長袖と長靴、手袋着用で防げるでしょう」
「とはいえ粉砕せずに家畜にあたえられるならずいぶん手間がはぶけるはずだ」
「時間をかければいずれ改良できると思います」
 瞬間沈黙がおり、やおら立ち上がりかけたレイはふたたび老人が話しはじめたのを見て、ため息とともにふたたびベンチに座り込む。
「問題はそこまでの余裕があるかどうかだな。ご存じのとおり今年から例の新種の菌根菌をテストしたいという申請がタカモトくんの班からあがっている。もしスタートするならスタッフ全員の手を借りたとしてもかなり忙しくなるのは間違いない」
「それについては必ずしもすべてのメンバーの了解が得られてはいないのでは? 委員長どの」
 彼らの三列前にすわったディロンがそう口をひらく。彼が話しているあいだ母親がその背中をいかにも興味ある様子で見つめているのを察してレイはちょっと不快げに眉をしかめる。
「まずわかって欲しいのは環境中の有機態窒素およびリンを低減することこそがわれわれの最大の使命である、という事実です。ご存じのとおり湖沼や沿岸部の水質の大規模な富栄養化が破局の原因のひとつであるわけだから……」
 タカモト氏の説明に農業技師はさらに反論する。
「しかし少なくとも例の『皆殺し藻類』の由来については専門家の間でも意見がわかれていたはずです――ちがいますか? ミス・チェアウーマン?」
 非のうちどころのない笑顔で議長役の『名無しおばさん』が答える。
「そのとおり。あれを生み出したのが遺伝子組み替え技術そのものであるという可能性を看過すべきでありませんね。ただ、もともと溶存態有機リンを利用できる有毒鞭毛藻類は自然界に存在していたし、たまたまスピルリナの一変種がそれを何かの拍子に細胞質内に取り込んだということも同様に十分考えられますけれど……」
 エヴァンス老人は芝居気たっぷり議段の背景に飾られているプレートをふりむく。それはフランス語で『時間から始めて、ぼくらの運命を変えろ、災難を篩え(*)』と書かれていることをレイは知っている。
「――先の危機のときに奥さんをなくされたあなたが人命を第一に考えることは理解できる。しかし創設者たちがあえてこの標語を選んだことにわたしは注目したいな。……世界の破局に際して生命工学技術の負のリスクを見積もる際には、それを行わなかった場合の危険まで正しく評価しなければいけない、というのがわれわれの得た教訓だったはずだ。増大する人口の前では危険な挑戦と同様、無策もまた最悪の結果をもたらしうる……」
「わかります。しかし『スフィア』は外部と切り離された小さな閉鎖系です。ちょっとしたミスが命とりになりうる。なによりも世界人口の増加が深刻な段階に至るのはわれわれが到着する時代より数十年後になるはずです。かならずしも窒素固定技術の開発を急ぐ必要はない――」
「それはいちおう正論に聞こえます。しかし一方でこうも言える。われわれを迎える世界が必ずしもわれわれに協力的であるとは限らない。たぶんさまざまな民族国家の利害関係が足をひっぱることでしょう。その点『スフィア』のスタッフの意志は比較的統一されている。加えて物質的閉鎖系だからこそあえてある程度の挑戦とリスクも許される……」
「まんいちのときも全滅するのはわたしたちだけですむ――タカモトさんはそうおっしゃりたいのでしょうか? それならひとつ指摘しておきたい。『わたしたち』とはここにいる子供たちをふくめてであるということをね」
「もちろんそのとおり。だからこそ近々レイノルドくんに次世代特権としての拒否権を与える用意があるわけですよ」
 大人たちの視線がいっせいに自分に集中するのを感じて少年は顔を赤らめる。そしてそれを皮切りに大人たちはわれ先に発言を求めはじめ、レイはしばらくあの花の運命は天にまかせるほかないと覚悟する。それ以上に彼は母親が共感をこめてうなずきながら農業技師の意見を聞いている姿に内心穏やかではない。

 例のパックの山の間に倒れ込むように身を投げ出し、レイは大きくため息をつく。見上げた『大天使の輪』が目をくらませ、まぶたを閉じて少年は視野のなかの滲んで輝く帯がじょじょに青緑色に退色していくまでしばらくそのままの姿勢でいる。
 ――ママはずっとぼくの目のことを気にやんでいた。エヴァンスさんにああ言われてほっとしたろうな。ぼくもママがほかの男性に関心を持てるようになったとしたら喜ぶべきなんだ。でもそうはいっても……。
 目を開きためらいがちに身を起こすと彼はあの花が落ちている場所にむかってゆっくりと歩いていく。それが消えてしまっていることを半ば覚悟しながら。
 花はまだその場所にあった。いまではかえってつい先ほどつまれたかのように生き生きとして見える。茎の端は不自然にまっすぐで、ちょうど人間が鋭利な刃物で切り取ったようだ。嵐や動物が戯れに折り取ったものが砂漠を越えて吹き飛ばされてきたとはとうてい思えない。
 ――この花だってティンカーベルと同様存在しないのかもしれない。レイはそう想像してみる。いずれ消えていくただの幻覚だったとしたら? そして幼い日のさまざまの夢は終わり、やがてぼくはその場にあるものしか見えないごく普通の大人になっていく……。
 消え去れ! そう命じて目をきつく閉じてみる。恐る恐る開いてみるとまだ花はそこにある。そしてレイはいまあらためて見てその先の地点にも不自然にくっきりとした窪みがあるのに気づく。足跡といわれればそうも思える。昨日もその前もずっとそこにあったのかもしれないが、風が砂を動かして今日になってはっきりと見えるようになったのだろう。それをもっとよく観察しようとその場に座りこんで彼は顔をちかづける。そのとき不意に目のまえにあった花が消え失せた。
 一瞬何が起こったかわからず、欠けた視野をおぎなおうとあわてて立ち上がった少年は透明パネルの外側に目をやって呆然とする。そこに見知らぬ少女がひとり立ち、あの赤紫色の花を握った手を彼にむかって差し出していた。

 『お客さん』だ――瞬間レイは思う。少女は全身をすっぽり包む妙な金属メッシュのスーツを着て立っている。現実ばなれしたいでたちという点ではティンカーベルの白いローブと同じ。しかし幻たちがこんなに明るい光のなかに現れたことは――彼女が手にしている花をのぞいて――いままでなかった。
 出現したときからずっと少女は無表情だ。パネルごしにじっと見詰めながらもなにかのコミュニケーションをとろうとする様子はまったくない。そのあたりもティンカーベルと似ているが、こちらの少女が違っている点はその眼差しで見つめられるとなぜかレイの心のなかがひどく波立ち騒ぐことだ。『お客さん』がそんなふうに自分の心を乱すことはけっしてなかった。現実なのか幻なのか判断がつかないのでレイはどう反応したものかもわからない。いずれにせよ、どこかとがめるような眼差しで少女に睨みつけられている間彼は金縛りにあったように動くことができない。
 レイにとっては永遠に思える時間――おそらく十数秒の後、そうして見詰めあったあげく少女は不意に腕を下げると後ろ手に花を隠し、そしてそのままの姿勢で大きく一歩背後にしりぞいた。発散限界を区切る陽炎のスクリーンがその姿を覆うとともに一瞬で彼女は消滅する。
 おおきく息を吐いてようやく少年は自分が呼吸を止めていたことに気づく。それとともに膝ががくりと折れ、レイは腰がぬけたように地面に沈み込む。
――いったい何があったんだろう?
 数分たってようやく動悸がおさまりかけると今度はいまさっき見たことがやっぱり一切がっさい幻だったようにも思えてくる。おそるおそるよつんばいで進み、レイは花が落ちていた地点を覗く。しかしいまはそこは何の変哲もない砂礫があるばかりだ。

 少女の出現から数日の間レイは途方にくれていた。枯れた花を発見して以来のわくわくした気分が不意に終わりをつげたという以上に、彼自身実際にあの時あそこでなにが起こったのかを理解するのが難しい。母親は少年の様子がふつうでないことに気づいたかもしれないが、彼は一切を口にするつもりもない。たとえ話したとしてもだれもまともにとってくれるはずもなく、ただ閉鎖区域への立ち入りをとがめられるだけになるのはわかりきっている。
 それでも彼はまるで引き寄せられるようにして毎日少女と出会った場所にでかける。もしふたたび彼女が現れるとしたらと思うと居ても立ってもいられない。もっともまた彼女が現れたとして自分がどうしたいのかはわからない。ティンカーベルの姿がべつに感情をさわがせたりはしないのと正反対にあの少女に見つめられることを想像するとレイはなんだか胸が締めつけられるような気分になる。だからあれほどお気にいりの場所だったというのに密閉扉をぬけるとき彼の表情は嫌々ながらというのに近い。そして何事もおこらずにそこを立ち去る時間がくると内心ほっとするほどだ。
 しかし三日目にそこに行ったときにもまだ少女はあらわれず、この先二度とその姿を見ることはないかもしれないと思い始めて、レイは自分が痛みに近い喪失感と落胆に似た安堵感の交錯した何とも複雑な心持ちになっていることに気づく。
 あれは現実だったのだろうか? それとも幻――? 現実だとしたら少女はまた戻ってくるだろうか? いや……外部にいる人間にとって確率的に存在する『スフィア』に二度とめぐりあうことはできないはず。たぶんいままでのことはこれで全部おわりで以後はふたたび変わり映えしない毎日がずっと続くことになるのだ。レイは思わずため息をつく。だとしたら、こうやって馬鹿みたいに陽炎のようにゆれうごく景色をながめていてなんの意味がある? この先いくら待ってもあの出会いほど衝撃的な体験なんてありっこない、というのに……。
 そう思いつつも、なおひきよせられるように――いまではとおい昔の出来事に思える花の落ちていた場所に歩きより、透明パネルに両手をついてなんだかひどく惨めな気分で外を眺めるレイ。しばらくそうしていてふっと目をあげると――あの少女がふたたび目の前に立っていた。

 おもわずのけぞって数歩下がり、あっけにとられて眺め入る少年の前で彼女は――なぜか肩の高さにあげていた右手を体側に沿うようにしてゆっくりと下げ――つぎの瞬間くるりと背を向けてその場に座り込むとパネルにもたれかかったまま、目に見えない雲を眺めるように斜め上方を見上げたままじっと動かなくなる。
 ――いくらなんでもこれはあまりの仕打ちじゃないか? じょじょに驚きから立ち直ってレイは思う。せっかくこちらが諦めかけたときになんの前触れもなく不意に現れたかと思うと、今度は背中をむけて座り込んだまま完全にぼくを無視するなんて……。
 自尊心をいたく傷つけられ、おかげで逆に少年の心から怖れや不安の影がきれいさっぱりぬぐい去られる。レイはむっとした顔で腕組みし、そこに立ったままで相手の後ろ姿を睨みつける。たぶん年齢は彼と大してかわらない。こうして見ると超自然的な存在などではなくごくごく普通の少女だ。もっとも同い歳の異性とつきあった経験のないレイにとって普通の少女そのものも神秘的で謎めいてはいたが……。
 ――いったい何を見ているのだろう? 外にはぼやけた景色しかないのに……。少女は片方のわきにおおぶりのホワイトボードをかかえ、ドームの外部を吹く風がその襟足の栗色の巻き毛をふるわせている。なぜか喉がつまりレイは咳ばらいした。ティンカーベルとはぜんぜん違う。どう見ても『お客さん』なんかじゃない。そんなこと不可能なはずだけど――現実にドームの外に生きて存在する人間なんだ。しかしこちらにとってそれは驚天動地の出来事なのに、当の本人はすずしい顔で背をむけ座り込んで空をながめている……。突然レイは笑い出したくなる。なんてことだろう!
 彼が腕組みをほどきふたたびパネル側に近づくのと同時に少女は立ち上がってこちらをふりむく。笑顔はなく妙にこわばったしかめっ面で、それから少女はこわきにかかえていたボードをこちらにむけてかざす。
『あなたの名前はレイノルド・マクファーレン。あなたのことはよく知っているわ』
 少女が目の前で突然緑色のモンスターに変身したとしても彼はそれほどのショックを受けはしないだろう。手書きの英語でそう書かれた文面を見たレイの気持ちは単に驚いたというだけではすまない。
 ――言葉が通じる?! ……というより、いったいぜんたい、どうしてこの子はぼくの名前を知っているんだ?
 くるりとボードをひっくりかえしその表面に緑色のフェルトペンをさらさらと走らせると反対の手にもったティッシュでそれをぐいぐいとぬぐい、それから再度少女はレイにむけてボードをかざす。
『わたしはジーン。歳は十三であなたよりひとつ上。お友達になりましょう、レイ』
 少女の口元にはじめてかすかな微笑が生まれていた。

(以下次号)

 (*) A.ランボー『イリュミナシヨン――或る理性に』堀口大学訳


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