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八月の花の名

中編

高本淳

 

6 (承前)

「ジーン……きみはいったいどこからきたの?」
 パネルを透して声は伝わらないことを忘れてレイはそう訊ねてみる。相手はそれを無視しふたたび書き直したボードを彼にむかってかかげてみせる。
『毎日この時間に会いましょう。あなたも明日からボードを持っていらっしゃい。おたがい声は聞けなくてもちゃんとお話ができるわ』
「まさかそんなこと……」言いかけてレイは口をつぐむ。これ以上この少女に馬鹿みたいにうろたえた姿を見せたくはない。
『想像するほどやっかいじゃないのよ。ちょっとした「こつ」があるの』
 まるで彼の疑問に答えるかのように少女は書いた。
『その日自分の言いたいことをまえもって整理してメモしておいて、その場で逆向きにならべるだけ。いまわたしがそうしているようにね。でもね、』
 得体の知れない子のはずなのに、こうして微笑みかけられるとなぜかすごく親しい相手であるように感じられる。なんだか昔から知っている友達みたいに――視覚の障害を感づかせないように意識的にまっすぐうなずきながらレイは思い、それから、もしこの少女が幻覚だったらぼくはエヴァンスさんに自分の頭が完全におかしくなりましたと報告しなきゃならないんだろうな、とぼんやり考える。それでも男の子らしい自尊心からあえてしかめ面をくずさないようにして、つぎつぎに相手がかかげるメッセージを黙って読んでいく。
『ALMAの観測施設が近くにあって、まえにそこの日本人スタッフのひとりに教えてもらったのだけど――茶道の言葉に「イチゴ・イチエ」というのがあるそうよ。人との出会いはいつでも生涯でその日その瞬間一度きりと考えてふるまいなさい、っていうような意味だって。だから』
『たとえ何も話し合わなくても、あなたがそこにいて、わたしがここにいる。本当はただそれだけでもいいんじゃないかな?』
 そこまで書いて少女は笑顔を消し急にレイとの会話に興味を失ったかのように無表情になる。無言の会話ながら一方的にまくしたてられたていの少年は目をしばたたいて相手の態度の急変にどう反応したものか考えあぐねてしまう。
『さあ今日はこんなところにしておきましょう』
『さよなら、また明日ね』
 最後にそれだけ書かれたボードをこちらに向けると彼女はレイから目をそらし、頭上のなにかを見上げるように仰向いた姿勢でその場につっ立ったままになる。その視線の先を追ってみても遙か連なる六角パネルのほか何もそこにはない。
 もとより声は伝わらないのだしフェルトペンもボードも持ってない少年にはもはや相手の注意をひくすべはなさそうだった。
 ――またこれだ!
 完全かつ一方的に無視されたかたちでいささか歯がゆい思いのレイはそう察してため息をつくと腹立たしげに背後をふりむきそこから立ち去ることにする。しかし最後に閉鎖扉を締めながら振り返ってみると、少女はふたたびこちらをじっと見つめている。手をふろうか――ちょっと心が傾きかけたけれどあえて背をむけ、レイはその場をあとにする。

「なんだ、これはいったい!」
 怒声に振り向くと農業技師がシャツの前をぐっしょり緑に濡らしていた。カートに乗せたタンクの口がしっかり締まっていなかったため揺れた拍子に汚水が漏れてしまったらしい。アオコをすくい取ったそのぬるぬるした液体をバケツからタンクに移し口がねを締めるのはレイの役目。しかし今日彼は朝から心ここにあらずだった……。
「レイ。真面目にやる気がないなら手伝わなくていいんだぞ。いい加減な作業をされてはかえって迷惑だ!」
 相手にそうなじられ、つい少年は謝罪するタイミングを逸してしまう。
 『スフィア』住民総出で異常発生してしまった藍藻の除去作業――水が抜かれた溜め池には胸まであるハイウェイダーの男女。中にはひそかに笑っている者もいる。しかしすぐ側にいる母親が柄杓の手を止めいかにも当惑したように見つめているのを視野の端に感じ、不意にレイはなんだかすべてが面倒くさく感じられてくる。
「着替えてくるかい?」
「いや、たいしたことはない。どうせこの匂いだしな」
 そう話し合う男たちの声を聞きながらレイはもういちど汚水タンクのネジ蓋を確認していく。気がつくと母親が脇にいて同じように確かめながら彼にそっと声をかける。
「ディロンさんにちゃんとあやまりなさい……レイ!」
 そういわれてかえってかっと頭に血がのぼり、あえて無視するように母親から顔をそむけると、脱いだエプロンを足下に投げ捨て彼は走り出す。

 密閉扉をぬけるとすぐにジーンの姿が見えた。なぜかほっとして――手をふりながら近づくレイを少女はやっぱり堅い表情でじっと見詰めている。遅れたことを怒っているのかな? 高ぶった心が静まったあとの苦く落ち着かない気分を味わいながら少年は考える。
『おそくなってごめん。急にアオコの清掃がはじまっちゃって……』
 彼が用意してきたボードにそう書いて見せると表情をかえないままジーンは自分のそれをこちらにむける。
『なんとかまにあうかな――』
 唐突にそんな台詞でむかえられ当惑するレイ。しかし少女はどこか苦しそうな奇妙な微笑を浮かべつつボードの文字をなぞり消し汚れたティッシュでこすった表を見せる。
『立っていないですわらない?』
 窓枠の土台に透明パネルに左肩をもたせかけるようにして相手が座ったのを見てレイはうなずき乾いた地面にどっかりとあぐらをかく。
『去年、ラグナ・ベルデの観測所とキャンプのスタッフが合同の親睦旅行をかねて砂漠の花園を見に行ったの。海岸近く、国道五号沿いにコピアポあたりまで――そう言ってもあなたには見当がつかないでしょうね』
 思わず首を振ってからレイはそれがまったく無駄な動作だと思い直し、ボードに手早く書いた文字を相手に見せる。
『知るはずないよ。そんな花園なんて』
『毎年十月、南極の冷たい空気と赤道の暖かい風がぶつかる時期になると赤紫の花が突然、ちょっと前まで草ひとつなかったなかった土地を一面に埋めて咲くのだって……』
 到底ついていけそうもないと悟って彼は半ばあきらめる。
『外のことはよくわからないな。ぼくにとって海沿いの国道なんて地図の上の線にすぎないし』
『ああ、そういえばスタッフが持ち込んだパタ・デ・グアナコの苗が何本かキャンプの前庭に植わっているわ。条件をうまく調節できたので季節はずれの花がもうじき咲くはず』
 ――そうか! 不意にレイの頭に赤紫の花のイメージがひらめく。
『あれはパタ・デ・グアナコっていう花なんだ。ありがとう。わざわざ持ってきてくれて。直接受け取れなくて残念だけど、あれのおかげでちょっと刺激的な時間をすごせたよ』
 いまだ哀しげに微笑んでいる少女にレイはそう書いたボードを掲げる。
『たぶん、あなたはわたしが誰で、どこから来るか知りたいのよね?』
 うなずきそうになってからくも踏みとどまり、レイは相手がつぎの言葉を書くのを辛抱づよく待つ。
『わたしはクライマトロン調査キャンプで実験助手をやっているの。父がラグナ・ベルデのミリ波観測施設の所長をしていて……夏休みに遊びにきたところをスカウトされたってわけ』
 レイは一瞬とまどう。――『クライマトロン』?
『そう。あなたたちの施設は「クライマトロン」――ミズーリ植物園の大温室に似ていたのでそう呼ばれているのよね』
『聞いたことがあるよ。『スフィア』のアイデアはミズーリの閉鎖型温室までさかのぼれるって』
『アオコ……水質汚染か。完全な閉鎖型温室の中での生活って大変でしょうね?』
『今日のシアノバクテリアの大騒ぎなんかを経験するとね……他にも二酸化炭素の濃度やら土壌のpH値の傾きやら、トラブルは日常茶飯事さ』
 少年の目を見てうなずきながらも、しかし一方でなにか少女は別のことに気をとられている気配。こんなものかな――話が弾んでいるようでいながら、まるでふたつの風がすれちがっているかのよう。それでもレイは見知らぬ少女と話しあえる驚きと喜びに密かに胸がときめくのを感じる。
『ごめん、ちょっと混乱しちゃって。わたしのことはおいおい話すことになるわ』
『ぜひ知りたいな。聞きたいことがあんまりありすぎて何からたずねていいのかわからないぐらいだよ』
 レイのそんな熱い思いが伝わったかのようにジーンはまたうなずく。とはいえその表情はやはりどこか無理して微笑んでいる。そして知らないうちに少年はつねになく多弁になってしまう。
『最初はきみのことを幻と思ったんだ。ぼくはときどき、実在しないイメージを見ることがあるので……こうして話せることがいまでも信じられないぐらいだ。だけど話ができてよかったよ。「スフィア」の子供たちはみんなぼくよりずっと年下で相手にするには正直幼なすぎるんだ』
 気がつくと少女は視線を落としいまだに心ここにあらずという調子でひたすらメモをくっている。そんな姿にもどかしくなってきたレイはつい衝動的に心に思っている台詞をその場で書く。
『よかったらこれからもずっと話し相手になってもらえる?』
 自分はほんとうにこういうことに慣れていない。友達をつくるやり方なんかまるでわかりゃしない。恐る恐る相手の表情をうかがう彼にほっとしたことにジーンは顔をあげて微かに笑いかける。その笑顔を見つめかえしたレイはみぞおちのあたりがふっと暖かくなり、その暖かみは次第に上に昇ってきてしまいには妙に頬がほてってくるのを感じる。自分はいまきっと真っ赤な顔のサルに見えるに違いない。少年がいたたまれなくなるのと同時に腕時計のチャイムが鳴った。もし学習時間に遅れたらママに理由を聞かれるにきまっている。自分自身でも信じられないぐらいだから、少女のことは今のところ誰にも話したくはない。半分後ろ髪をひかれる思いで立ち上がりジーンに手をふるとレイはまわれ右してその場からむしろ逃げるように駆けだす。しかし最後に気密扉を閉めながらふりむいた時、手の掌を六角パネルに軽くあてて、少女はまだこちらをじっと見ていた。

 レイが希望をつげたのちめずらしく『名無しおばさん』は検索に数秒をかける。
「……あなたのその注文はこのまえの質問と関連しているのかな? 『この砂漠のどこかに萎れた花がひとつ落ちているとして、それはどんな花である可能性が高いか?』というあれ」
 AIが意味のない好奇心をもっているはずはない。むやみにプライバシーを詮索したりはしないとしても『スフィア』の安寧を脅かす状況であれば話はべつ。だから質問されてレイはちょっと警戒する。
「もし関係しているとしたらどうなんです?」
「――パタ・デ・グアナコである可能性はたしかにゼロではないわ。ただしそれらが群生しているのはここよりずっと海に近い土地。だからドームの外にこの花があったならたぶんそれは誰か人間が運んできたもの」
 少年は人格をもつインターフェースに秘密をあかしてもいいかどうかしばし迷う。結局うち明けるかわりにレイはべつの質問によって話題をはぐらかすことにする。
「何もない砂漠にあるときこの花が一面に咲くという話なのだけど?」
「画像があるわ。見てみる?」
 彼がうなずくとディスプレイいっぱいに赤紫色で埋もれた平原が出現する。
「なぜこの花たちはこんな具合にいっせいに咲くの?」
「それらは一億年前のゴンドワナ大陸で進化した花々の子孫と言われているわ。ゴンドワナは現在の南米、アフリカ、インド、南極をいっしょにしたより大きい超大陸で、ちょうど恐竜たちが繁栄していた時代に赤道の北から南半球のほとんど全体にひろがっていたの。そののち時代が下るにつれて超大陸はじょじょに分裂し移動して現在では海で遠く隔てられたべつべつの大陸になってしまった。でもいっしょに過ごした時を花たちは忘れていないらしい。南回帰線上に並ぶナミブ砂漠、オーストラリア砂漠、そしてここアタカマ砂漠で夏のはじまりの十月、いっせいに開花してつかのまの花園をつくる――という話だわ」
 少年はそれを素敵だと感じ、そしてそんなふうにドームの外の事柄に感動する自分自身に少し驚く。
「この花のイメージを印刷してもらいたいな」
「おやすいご用だけれど、問題はあなたの今月のプリントのわりあてはもうおしまいということ。何度も言うけど『スフィア』では――」
「『紙は貴重品』……。でも是非欲しいんだ」
「来月までお待ちなさい。そうしたら一番でプリントアウトしてあげます」

 到着してみると、まるでその場所でずっと待っていたかのように少女は同じ姿勢で立っている。でもまさかここにずっと居るはずはない。食べたり寝たりするために発散限界のむこうに戻っているはず。もし実在の人間であるなら……。そうとも。幻であるわけがない。微笑みつつもどこか不安げな眼差し――今日のレイにはそれがいっそう気になるのだから。
 しかしいざ始まると少女は昨日とうって変わりうちとけた態度。レイを驚かせ安堵させもする。彼女はその場で驚くほど長いストーリーを組み立て、少年は相手が一見簡単にそれを行なっていることに手品を見ているように感心させられる。
『……わたしは十歳の誕生日に父から望遠鏡をプレゼントされたの。古めかしい手動のお下がり品。最愛の娘にどうかと思うでしょ? でもせっかくもらったのだし、女の子といえすこしはパパの期待に応える必要もあるかな、と思ってしぶしぶ使い方を勉強したわ。
 なにしろ自動導入なしの屈折赤道儀。テディベアで満足してる少女にはいささか手にあまる品物だったわ。しかもそのとき父は何て書き送ってきたと思う?“これで海王星を発見してごらん”ですって……。
 ……なぜ海王星なの?! もっともそのときのわたしはネプチューンとネブガドネザルも区別できなかったんだけど……。後で聞いたら本当は“冥王星を発見して”みるよう言いたかったんですって。でも考えたら2インチの口径で冥王星は無理ってことになって、それで“海王星”だったらしいの。実をいうと父自身、いまだに海王星も冥王星も見たことないのよ。こんなドームのなかにいるあなたは天体観測したことがないでしょうね? だから天文学者である父が冥王星を見たこともないなんてきっと変に思うでしょ。でも例えば天王星――いえ土星だって予備知識なしには夜空では簡単には見つけられないものなの。あのコペルニクスにいたっては生涯水星を見たことがなかったぐらいよ』
 いやはや、女の子って誰もかれもこんなにお喋りなのかな?――半分あきれつつもレイは知らぬまにその話に引き込まれてしまう。
『とにかくわたしは何とか海王星か、出来れば冥王星を見つけて自慢してやろうって決心したんだけど、これは十歳の女の子にとっては身の程知らずな思い上がった計画だったわ。まず赤道儀というものの基本的な使い方から勉強しなければならなかったの。ガイドスコープの調整から始まって北極星の見つけかた。極軸をセットする方法。目的の天体のカリフォルニアでの南中高度。星図の見方。そして肝心の海王星の天球上の位置……といった具合。
 口径2インチで見える星の極限等級はせいぜい10.3……冥王星は現在地球から遠ざかりつつあって絶対等級で15等だから見えるわけがないの。いっぽう海王星は8等の明るさがあるから理屈のうえでは見えるはずよね。そして夏休みのキャンプでいよいよシーイング最高の星空を望むチャンスがきたわ。わたしは勇んで山羊座にレンズを向けた。……でもね星は等級がひとつ増すごとに約三倍の割合で増えるってこと、あなたは知っている?
 つまりそのとき望遠鏡で望いた夜空には肉眼に比べて八十一倍の数の星がひしめきながら輝いていたってこと。有効倍率五十倍の望遠鏡で薄暗い目立たない星をひとつそのなかから見つけだすっていうのは……たとえ星図に精通していたとしても想像するよりずっと難しいことなのよ。
 いま考えればきっと極軸のセットも甘かったんでしょうね。どの星がどれなのか特定することすらできなかったの。じれったいのと情けないのとで腹がたつったらないわ。それまでの苦労を考えて頑張ろうとするんだけど涙で星がかすんじゃうんですもの!』
 少年は笑い、少女も苦笑する。
『仕方ないからそれらしい星を海王星であることにしちゃった……。実際、視野のなかにあるのは間違いないんですものね。だから“海王星を観測しました”ってパパに手紙に書いて送ってやったわ。
 でも父にとっては娘が星図を読むことができるだけで満足だったらしい。その手紙を机のうえに飾って同僚たちに自慢したみたい。「百六十年ぶりの海王星の再発見」とか言って……。親馬鹿よね。後で聞いて赤面しちゃったわ。
 そんなわけでわたしの最初の天体観測は失敗におわったの。考えればうかうかとパパの作戦に乗ってしまったわけなのよね。お陰で赤道儀は今でも5分以内にセットできるわ』
 半ば圧倒され、少女の話術にほとほと感心し、そして次はレイの番。前もって準備すれば決して難しいことじゃない――と気楽に思っていたけれど、しかし少年のメッセージは彼自身どうにもはがゆいことに断片的で無器用なレポートでしかない。そう、肝心なのはそもそもお喋りそのものに慣れているかどうか、ってことらしい。
『ぼくはガラス球に入った小エビをペットにしている。だけどちっとも面白くない相手さ。小エビと藻類とバクテリアが互いに小さな共生態を作っていて閉鎖系の勉強になるってことなんだけど、なんだか自分自身を見ているようで嫌な感じだ』
『シープドッグを飼ってみたい。かなわぬ夢だけどね。「スフィア」には犬も猫もいないんだ。繁殖力が強くてまんいち野生化すると生態系のバランスを脅かしかねないからなんだってさ』
『この中から星は見えない。でも夜はガラスに内側の光が反射してなんだか星空みたいになっている。実際の夜空はもっとずっとたくさんの数え切れないほどの星たちが輝いているんだろうけどね』
 ……汗びっしょりで慣れない文章に悪戦苦闘しながらも、ともかくレイはボードを使ってのコミュニケーションをなんとかこなす。とはいえ、彼にとってその経験はけっして苦痛ではない。むしろずっとこうしていたいと願うぐらいだ。
 とはいえ、別れの時間が迫っているらしいことがわかったのは相手が立ち上がったから。レイもしぶしぶ立ち上がりズボンの尻についた砂を払いながら最後に何を伝えたらいいのかあわてて考える。
『きみにとても感謝している。ここの毎日は口でいえないほど退屈なんだ』
 そう書いたボードを見せ、また明日という気持ちをこめて手をあげたとき、少年は少女が掌をパネルの例の同じ位置に乗せていることに不意に気づく。無意識の霊感にうながされ彼は右手を少女の左手をぴったり覆うようにパネルにあてがってみる。するとジーンの表情からあのどこか不安そうな気配が消え、そうやって互いの目を見つめあったとき自分のなかに広がる馴染みのない充足感にレイはむしろ怯えうろたえる。

『母はいないわ。わたしが二歳のときに死んで――五歳まで伯母に育てられたの。パパはそのころボストンの大学にいて伯母の家があるバーミンガムにはたまにしか帰ってこられなかった。それからプレップスクールの寮に十歳まで入っていたわ。だから母親のはっきりとした思い出はまるでないの。幼い時に女のひとがいつも側にいてくれたことはうっすら覚えているけれど、それが誰だったか…母だったのか伯母だったのか確実な記憶はないわ』
 また別の日の、同じく身の上話。少年は今日こそはうまく相づちをうってやろうとタイミングをみはからっている。
『いちおう今現在はロスのジュニア・ハイスクールに籍を置いているのよ。でも、こんな世の中でしょ? 二月には同じ歳ぐらいの少女が撃たれたり……仕事で南米にいるパパからのメールを読むたびに治安に不安を感じているのがわかるし、けっきょく避暑をかねてこっちに来ることになったの』
『そうか、きみにとっていま季節は夏なんだね?』
『このパネル一枚の内と外でずいぶん隔たっているのね。いまはサマーバカンスシーズン。だからロスからカラマまでリマでの乗り継ぎをいれて十二時間、乗客はほとんど帰省する家族づれで、あとはたまたま観光で来た団体さんもいたな。アメリカン航空の機内で飛び交っているのはもっぱらスペイン語と日本語ばかり。仕方ないから見飽きたSF映画と、あとは雲をひたすらずっと見ていたわ』
『うらやましいよ……雲を見てみたい。あんなに巨大な物でありながらいつも動きつづけて同じ形を二度ととらないなんて、ぼくには考えられないほど不思議に思える。たぶん海を明暗に塗り分けた模様が風とともにゆっくりと流れていくんだろうな。そもそも発散限界面のこちら側ではきちんとした影だってできはしないんだ。季節もほとんどないようなものだしね』
『夕暮れに水平線に積み重なる雲は恐ろしいような眺めよ。まるで無造作に積み上げられた山脈みたい。しかも、どんな陸上の山にもないような鮮やかな色で窪みや洞穴やオーバーハングのある断崖が手にとれるほどくっきり見えるの。そしてその色合いが刻々と変化していく。あれこそは人間が見ることができるもっとも雄大な対象だわ』
『海か……。周囲全部が目のとどくかぎり全部水なんて――いったいどんな感じなのかな。小さな滝やせせらぎは見たことあるけどそれをどんなに大きくしたところで海にはなりはしないだろ? データベースの小さな画像で見られる海といえば赤潮でまだらにそまった海岸の様子ばかりだし……』
『そういえば、わたしも初めて海を見たのはアメリカへ渡ってからだったな……。伯母の仕事の都合でバーミンガムから数キロ以上遠くへ行ったことがなかったから。サン・フランシスコの長い坂道の終点に初めて青黒い太平洋が見えたときには本当に感動したわ。まるで頭も尻尾も見えない地球サイズの大蛇がそこに横たわっていて、その巨大な横腹の一部がビルの間から見えているみたいだった。その瞬間、そこに生き物が呼吸しながら確かに横たわっていると感じられたわ』
『ぼくがいちばん知りたいのはそれさ。母なる自然そのもの……「スフィア」の動植物はしょせん人間が管理することでからくもバランスを保っていられるひ弱な人工の自然でしかないんだろうなと思う。それにいつだって家畜の糞尿のアンモニア臭とよどんだ池の青臭い匂いが漂っている。嫌になっちゃうよ』
『気の毒よね。海辺の潮の匂い。深いブナの森の湿った土の臭い。そしてラベンダー畑を渡る風の香り――こんなに世界は香しく広くて光に満ちているのに……』
『それにしても、たった一人で“北”からはるばる旅して来たわけだよね? どうしてそんなことができるんだろう? だって、ぼくなんか――生まれた場所から数百メートル以上離れたこともないんだぜ』
『まあ子供である利点もあるけど……カラマについたとき父の教え子だったという青年が出迎えてくれて親切にホテルまで案内してくれたわ。陽気で気のいい若者だったな。背はすっきり高く、睫はくっきり長く、顔立ちも浅黒いスペイン系。ちょっと歯並びが残念といったところだったけど……。でもはなからわたしをひとりの女としては見ていないのよね』
『おたがい大人たちのなかの子供ひとり、ってわけか』
『ほんと、まわりがみんな自分よりずっと年上っていうのはある意味で悲惨なことね。それは本当の話し友達がひとりもいないってことですもの』
『こうしておしゃべりできて、きみに会えてほんとうによかったよ。……会える時間が終わってひとりになるのが逆に辛くなってしまったけれどね……』
 そうしてふたりは顔を見合わせにっこりと微笑みあう。

 そうした時を超えた会話はレイには奇跡的なものに感じられる。ジーンと過ごす幸せは彼を完全に魅了してしまい、また会えるまでの一秒一秒すら途方もなく長い。会えば会ったで今度は迫り来る別れにせき立てられ心が苛立つのだ。彼女に書き送りたいことがありすぎて何から話していいかわからなくなる。それなのにジーンは軽く唇に指をあて静かにというサインを作り、大人の女のようなすました表情でレイを諭すのだ。そしていきなり一連の美しいソネットを書き送ってくる。

『   君を夏の一日に譬(たと)えようか。
    君は更に美しくて、更に優しい。
    心ない風は五月の蕾を散らし、
    また、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
    太陽の熱気は時には堪え難くて、
    その黄金の面を遮る雲もある。
    そしてどんなに美しいものでもいつも美しくはなくて、
    偶然の出来事や自然の変化に傷つけられる。
    しかし君の夏が過ぎることはなくて、
    君の美しさが褪せることもない。
    この数行によって君は永遠に生きて、
    死はその暗い世界を君がさ迷っていると
    得意げに言うことは出来ない。
    人間が地上にあって盲にならない間、
    この数行は読まれて、君に生命を与える。』(*)

 詩句の内容よりもむしろその表現の連なりに心打たれ、少年は身動きさえできずにただ呆然と黙するばかり。そしてジーンは静かに笑い、まるで大切な秘密を打明けたかのようにゆっくりと彼にうなずいてみせる。
『人間が見ている宇宙はいまこの瞬間の静止画像にすぎない。「いまこの瞬間」というものさえ画像を見る位置によってそれぞれずれている。ほんとうの宇宙の姿、ほんとうの時間の流れそのものは日常的な感覚を離れて数学的な言葉や詩的な言葉で素描するしかない――ってこれはまあ、パパのうけうりだけど……』
『まるで人はだれも気にいった瞬間を凍結させて心の奥底にずっと保存しておくことができるんじゃないかなって思えてくる。素敵な詩だな』
『パパは詩人でもあるのよ。書棚に天文関係の書物といっしょにいつも詩集が並べてあったな。これはそのなかで見つけたわたしのいちばんのお気に入り……』
 そうなんだ――レイは気がつく。詩を読むあいだぼくの身体を包んでいる時の流れは止まっている。しかしそれと同時に詩そのものは動いていく。だとしたら、時間はドームのこちら側にあるわけでも向こう側にあるわけでもない。ぼくらが同じ詩を読んでいるとき、ぼくらの過ごす時は一緒だ……。

10

 少年はベッドに座って小さな鏡に自分の顔を映している。最初は斜め右から……、つぎに左。前髪をわざと乱し、眉をしかめて上目づかい……。そして正面を向きちょっと唇を突き出して……、さすがに自分で恥ずかしくなって頬を赤らめた。
「レイ?」クリスは息子が枕の下に何かをすばやく隠したのを見逃さない。
「やっぱりあなただったの。さっきからさんざん捜していたのに……」
 少年はばつのわるい思いで手鏡を彼女に返そうとする。
「もういいわよ。セットしちゃったから……。あなた、虫歯があるんじゃないでしょうね?」
「いいや、ママ」
「そんなら何見ているの?」
「……ちょっとね」
「いくら見たってまだまだ口髭なんか生えないわよ」
「そんなんじゃないよ」
「とにかく、いたずらしていて割らないでよ。鏡は貴重品なんだから」
「うん……」
 母親は左手で髪のボリュームを調整しながら右手でひとつしかないパンプスの箱をあわただしく探った。
「それじゃ、お留守番おねがいね。ゲームをやっていていいけど、9時にはベッドに入ってるのよ。……ああ、この踵! ……わかった?」
「わかった。……ねえ、ママ」
 クリスは部屋の出口で振り向く。
「ぼくってハンサム?」
 彼女は思わず笑った。「突然、何よそれ……」
「いいよ……、忘れて。なんでもない」
「変な子……」
 母親はいそいそと“デート”に出かけていき、少年はまた鏡を取り出す。そこに映っているのはぼさぼさ頭の陰気な目つきの痩せた少年。レイはしばらく自分自身と睨み合っていたが、やがてクリスが聞いたら耳を疑うであろうほど切ない溜め息をつく。

 ……いまや毎日は少年にとって黄金の季節。『スフィア』の幾度も循環される微かな臭気をともなった空気でさえ、まるでそのなかに微細な結晶が漂っていてつねにきらめいているかのように新鮮に感じられる。身の回りのあらゆるものが隠された意味をまとい、ついさっき産みだされたばかりであるかのように艶やかなオーラに包まれている。そして、もちろんそれらすべてはジーンと過ごす時間の発する目もくらむ輝きのごくわずかな反射にすぎない。
 彼自身驚いたことには母親と農業技師との関係すら今は大して気にならない。ふたりの交際がむしろ幸せな実りにつながってくれればと心のどこかで望むほど。真に人を愛するということがどういう意味なのかレイにもようやくうっすらとわかってくる。たまたま顔をあわせたジェイムスに謝罪することにももはやさしたる抵抗もない。
「ああ――べつにいいさ。もうとっくにすんだことだ」
 不意をうたれ、いぶかしげな皺を眉間によせつつ、そう答える相手の様子がなぜか愉快だった。こんなにもすべてが変わってしまうなんて――レイはすこし怖いぐらいの新鮮な歓喜とともにそう思う。

 別の一日、少女はただ外のガラス面に背をもたれてものうくページをめくっていく。その膝にひろげられているのはアタカマ砂漠周辺のさまざまな観光スポットをおさめた写真集。調査キャンプのスタッフからジーンに手渡されたものだという。まみえるすべもない人々から少年へのささやかながらも暖かいメッセージ。ちょっと心うたれレイはかえって沈黙し、じっと動かずページを見つめつつ流れゆく時を過ごす。数センチ離れたふたつの身体の間を目に見えぬ時の砂がゆっくりと滑り落ちていく。そうやってお互いを間近に感じながら静かに座っているかぎり彼我の世界に区別はない。
 時折、少女は微笑とともに少年を振り向き、そしてまた視線を写真にもどす。写真にはひとつひとつレイのためにさまざまな筆跡で手書きの説明がついている。――タティオの温水プールで泳ぐたぶん近くの村からやってきたのだろう親子づれ。アタカマ塩湖の猛烈に塩辛い水辺で羽を休めるフラミンゴ。雪をかぶった日本の富士山そっくりのリカンカブール山。ウユニ塩湖に近いサンファンでの幻想的な夕日。ふたりの瞳は時を同じくしてそれらに注がれ、この世のものとも思えないダリの奇岩群を見て破顔し、荒涼とした月の谷の風景にうっとり魅了される。なんと豊かで満ち足りた時間――しかし、それでも少年の心にはいつの頃からだろうか、次第に抑え難い不安が忍び寄ってきている……。

 

 (*) W.シェイクスピア 『十四行詩 第十八番』 吉田健一訳


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