| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

八月の花の名

後編

高本淳

 

11

 薄闇のなかに佇む姿――『ティンカーベル』を見るのは久しぶりだ。すこしリアルさが足らないのじゃないかと感じられる。どこも変わっていないしあいかわらず鮮明なイメージなのだけど……レイの生きているこの現実へのかかわりが以前より薄くなっている気がしてならない。それにひきかえジーンは――彼女を幻覚じゃないかと疑ったことがいま思い出すと笑えてくる――彼にとって彼女といる時間は『スフィア』のすべてより大切になっている。
 そう思ったとたんに鼓動まで速まり、眠りに落ちかけていた少年はうつつにひきもどされてしまう。ティンカーベルの溶け去った闇のなか、手探りで枕元の明かりをつけた少年はベッドのうえにおきあがりほっとため息をつく。
 そう感じることは少年の心をいくぶん誇らしげにし、逆に憂鬱にもする。たしか『イチゴ・イチエ』という言葉をジーンが教えてくれた。いまという瞬間がすべて――本当にそう信じることできれば気が楽だろう。でも人はついつい明日を考えてしまうものさ。明日と、そしていつかくる別れを……。
 カリフォルニアの夏休みはいつからなんだろう――少なくとも前の学期が終了する日にはジーンは教室にいなければならない。たぶん実際にはもっとずっと早く。なるほど……例えふつうのふたりであっても別れは必ずおとずれるものかもしれない。それでも彼らには思い出は残るだろう。再会の誓いだって……。
 でも――レイはむりやり自分を現実にむきあわせる――ぼくたちふたりは時間が逆転しているんだ。ぼくにとっての別れは彼女にとっての出会い――それがいつになるにせよ、その時から先ジーンにとってぼくはまるで知らない他人。これから先の人生、ぼくは彼女を何度も何度も限りなく思い出すだろう。でも彼女はそうじゃない……。
「……まだ起きているの? レイ」
 となりの部屋から母親のくぐもった声が聞こえ――レイは手をのばして枕元の明かりを消し答える。
「ごめん。寝るよ、ママ」
「――レイ」
「うん?」
「なんかこのごろ元気がないけど、どこか具合が悪いわけじゃないでしょ?」
「いいや――」
「あなた……ひょっとしてママとディロンさんのことが気になっている?」
「そんなことないよ」
「そう――?」
 ここはママを笑わせないと、と少年は思う。
「ママ。このごろ化粧の時間長すぎるんじゃない? 塗りたくっても無駄だと思うけどな」
「……いきなりなによ、それ」
「どうせバレるんだから素顔で勝負したほうがいいんじゃないか、ってこと」
 思惑どおりクリスはくすくす笑った。
「あなたも言うようになったわね。そういえばもうじき誕生日ね。ベトーの歳なんだから、しゃんとして元気だしなさい」
「うん、おやすみ」
 それからしばらく闇のなかで横たわっていた少年はやがて声にならない声でひとりぽつりとつぶやく。
「こんなことってない。ぼくは彼女の声すら聞いたことがないんだ……」

12

 ココヤムの大きな葉を左手に坂を下っていく途中でレイはジェイムスとはちあわせる。ぎこちなく挨拶を交わし、行き過ぎようとした農業技師は意を決したように振り向いて少年に声をかける。
「ちょっといいかな?」
 立ち止まり、レイは相手の顔を見返す。
「話しておきたいことがあるんだ」
 そう言うと男はどんどんココヤムの列の間のあぜ道に入っていく。いまは頭がごちゃごちゃで誰とも話なんかしたくないんだけどな。しかし――仕方なくレイも後を追い、カリオカの木立に囲まれた空き地で先に腰を下ろしているディロンの隣にぎこちなく座る。
「ぼくを嫌っているのはわかっている」
 まるでレイが目線の先にいるかのように、ジェイムスはカリオカの枝先についた白い蕾を見つめながら唐突に言う。
「大好きだったおかあさんを奪っていってしまう男だからな。まあそれは間違ってはいない」
 少年が何を言うべきなのか思いつくまえにもう彼は言葉をつづけている。
「好意を抱いてくれ、なんて虫のいい話をするつもりはない。今日明日からそんなこと無理にきまっているしな。まあ、それでも……きみももうベトーの年齢だからわかってもらえると思うんだが、そうした気持ちはひとまずおいておいてだ――おたがい存在を認めあって理解しようと努めることはできるんじゃないだろうか。――言っておくが、これはぼくのために言ってるんじゃないぞ。ぼくらが大切に思っている人たちのためだ。同じ家族としてやっていくのに父と息子が言葉もかわさないというんじゃ、周囲も決して心地よくはあるまい?」
 それからしばらく彼は黙り込み、レイの存在を忘れたかのようにぎっしり生え揃ったココヤムの葉たちの色つやをながめている。ちょっといたたまれない雰囲気に少年は急に立ち上がり「話というのはそれだけですか?」と尋ねる。しかし、まるでそれが聞こえなかったかのようにディロンはおなじ口調でさらに言葉をつづける。
「きみはおかあさんを愛しているだろうし、ぼくも娘が愛おしい。妻が死んでからなんとか見よう見まねで育ててきたけれど、やっぱり男手ひとつというのは限界がある。シャワーの後で彼女の髪型をうまくまとめてやることもできない自分がはがゆくもあるんだ……。きみだってお父さんが生きていたらいいなと思う瞬間があるかもしれない。まして女の子だ。これからますます女らしくなっていくときに、いろいろ教え導いてくれる母親がいないというのはどうしたって不憫じゃないか」
 レイは小魚をすくっているスージーの小さな掌を思いだし、大きく息を吸い込み、肩をすくめるようにして両手をポケットにつっこむと、無意識に足下のミミズの盛り上げた泥を踏みつけつつ言う。
「……そうですね」
 気がつくとジェイムスはこちらを見ている。ちょっと苦しそうな笑いを微かに口元にうかべて。
「すまないな。息子を持った経験がないものだから男の子とどう話したものかまるでわからないんだ。まあ、言いたいことはとりあえず伝わったんじゃないかと思う。あとはそちらで考えてくれ。なんだか大人として無責任な言い方になるけれど――」もっと何か言おうとする気配だったが思いなおしたのだろう、膝頭に両手をあておもむろに立ち上がるとそのまま振り返らずに男はすたすたと歩き去っていった。あとに残されたレイはしばらくその背中を見送り、やがてため息をついてふたたび座り込み、膝を両腕で抱えた姿勢のままずっと動かないでいた。胸の筋肉が膝に触れるのがわかる。このごろちょっと男らしい身体になってきたらしい。

13

『時の流れを分かつもの同士の挨拶というわけね』
 そう書かれたボードを見せながら現れたジーンはパネルにのせたレイの手に向こう側から手をあわせる。何気なくうなずき――これがこの約束ごとの最初の瞬間なのだ、と気づいた少年は不意に全身が電流で痺れたような気分になる。
『もうすこしあなたにつき合うことに決めたわ。今日あなたの言ったことを聞いてそんな気になったの。所長ももう少し時間をかけるように言っているし――明日もここに来るつもり。あなたも……いや、念を押すまでもないわね。あなたわたしのことをすべて知ってるみたいだし、わたしたち親しい友達なんだったわね? それじゃ……』
 なんだか不意をうたれ狼狽して心ここにあらずといった様子。間違いはなかった。別れはすぐそこまで来ていたのだ。何度も自分に言い聞かせて覚悟はしていたけれど――唇をかみしめ、少年はこの日にそなえて用意していたメッセージを記憶の底からすくい上げつつ微かに震える指で綴る。
『いまはこの使命を大切なものだと感じている。ぼくらは必ず過去の世界に行き着いて、間違った歴史を修正しなきゃならない――いや、正直に言わなきゃ。見たこともない国の見たこともない人たちの運命なんてほんとはどうでもいいんだ。いまのぼくの気持ちはこれだけ……きみを守りたいんだ、ジーン』
『生まれてからいままで幾度となくぼくはこの話を聞いてきた。そらで言えるほどに。それでもいままでそれほど真剣に受け取れないでいた。自分とは関係ない「スフィア」の外の話だと思っていたから――でも』
『事態はコントロールできる限界を超えてしまっていた。地球の自浄作用が働いていつかはこの「殺人藻類」も消滅していくかもしれない。でも人間の文明は生き残れそうもない。そこで人類は最後の力をふりしぼって「スフィア」を建設し時間を遡る旅に送り出した。過去の世界に環境に調和した農業技術を教え、いつか人間の未来を奪ってしまう歴史を変えるために……さあ、話はこれで全部さ』
『それは人為的に有毒鞭毛藻類の遺伝子を組み込んだ遺伝子工学技術でつくられた品種だったのかもしれない。あるいは突然変異による自然発生と考える人もいる。でもいずれにしても人間が生命環境を急速に変えてしまったことが原因であることは間違いない』
『「スピルリナ・オムニシーダ」と呼ばれるこの藻類は農薬に含まれる溶存態有機リンを成長に使えることで爆発的に増殖し、またたくうちにすべての大陸の沿岸部と湖沼を覆い尽くしたんだ。世界中で何億という人々が神経毒におかされ、いくつもの大都市までも壊滅した』
『ある日、中東の湾に臨む町のひとつが一夜にして全滅してしまった。人々が原因を探るまもなく被害はつぎつぎに拡大し、やがて世界中の海岸で頻繁にそうした事件がおこるようになった。――犯人が神経に作用する毒素を大量に分泌するスピルリナの一品種だ、とわかった時には手遅れだった』
『水産資源は激減し、食料危機はぎゃくに深刻になってしまった。そこで人間は迫り来る世界的な大量飢餓を逃れるため、全力をあげて海水中で育つマグネシウム耐性を持つ食用藻類の品種を作りだそうとした。でもそれがむしろ決定的な破局のはじまりだった……』
『これからが大切な部分――危機の根本的原因は人口の爆発的増加とそれにともなう環境汚染だったんだ。限界に達した世界人口を養うために人々が農地を拡大し、農薬と化学肥料を大量に土壌に投入した。そのために世界中で水質汚染とその富栄養化が進行したのさ』
『このドームは最大五千人の人間が暮らせる大きさがある。つまり「旅」の終わりにそれだけの人々が破局の原因とそれを回避する技術を伝えるべく世界中に散っていくことになる。ひとりやふたりの力では歴史の流れを変えることはできないけど数千人の人間なら可能だ、と未来の社会学者たちが結論づけたからこそ「スフィア」はこの大きさに作られたんだ』
『きみは疑問に思うかもしれない。なぜぼくらが過去を目指しているか、って。それはとても大事な質問だ。「スフィア」は人々を危機に瀕した世界から救うため、過去を変えるために出発したんだ』
『きみたちの時間で五十年先。二十一世紀のなかごろに「スフィア」は時間を遡る旅に出発したんだ。もちろんそのときぼくはまだ生まれていない。ぼくが生まれたのはそれから一世代たってからさ。きみたちの時間だと今から十二年未来になるかな』
『要するにぼくらは巨大なタイムマシンのなかで暮らしている。時を遡るその動きはとてもゆっくりしているんだ。「スフィア」の一日は外の一日と同じ。ただ方向が逆なだけさ』
『ここ「スフィア」は外部から切り離された農業を主とする生命科学の試験場みたいなものと考えてくれたらいい。環境への負荷のより少ない農法を開発することがぼくたちの目的でね。それはホーキング・スクリーンですっぽり通常の時の流れから隔てられている。きみのキャンプの科学者たちが推測したように「スフィア」の中では時間は逆行しているんだ』
『ぼくはずっとこの「スフィア」――きみたちの言う「クライマトロン」で暮らしている。目つきがちょっとへんだろ? 視野狭窄といって見える範囲がふつうの人より狭いのさ。おまけにときどきシャルル・ボネ症候群っていう幻視体験もある。でも気にしてはいないよ。かわりに他の人が見られない珍しいものが見えるんだからね』
 彼がボードに文字を連ねているあいだ、少女はだんだん落ち着きをとりもどしていった。時間を逆行する唯一の利点は自分のメッセージに対する相手の反応をいちいち気にしないですむ点かな、とレイはちょっと悲しく考える。
『ジーン、まずぼくについてしゃべることにするよ。きみの生い立ち、おかあさんやおとうさんのこと、ここへ来るまでの旅の様子――ぜんぶ知ってる。きみのことは良く知っている、と言ったよね』――やがて言うことになるはずだ――『ぼくたちはお互い逆行する時間を生きてる。きみにとってぼくはまだよく知らない相手だろうけれど、ぼくにとってはきみは親しい友達なんだ』
 少女はつんとすました顔に唐突にもどりボードをかかげる。
『こうでなくちゃ。あなたも笑うとちょっと可愛いわよ』
 レイは思わず苦笑いをもらし、少女もにっこりと微笑む。その瞬間、レイは直感する。これがはじまりなのだ、と。そしてその至福の時は一瞬のうちに過ぎ去り、そして永遠に消え失せる。
『いけない。こういう態度がよくないのね。でもあなたのほうがわたしをよく知っていてわたしはぜんぜん知らないのですもの。これってひどく不公平だと思わない?』
 ちょっと反省しているかのようにピンク色の唇をへの字に曲げて少女はつけくわえる。
『だから今日はまず自己紹介からはじめるつもり。わたしはジーン・パーネル。イギリス生まれの十三歳……まあ、あなたはすでにご存じのようだけど?――』
 少女が急に立ちあがり、別れの時間がきたことをレイは知る。
『すわらない?』
 立ち上がり、そう書いたボードを示しながら少年はパネル越しにジーンを目に焼き付けるかのように見つめつづける。
『こんにちは、レイ。昨日はちょっとつっけんどんだったわね。はじめてで緊張していたのよ。帰って所長に意見されたわ。まずわたしという人間をわかってもらわないとあなたがたに信頼はされないだろうって』
 立っているのがやっとの辛さに耐えながらレイは今日最後のメッセージをかかげる。
『やあ、また会えたね』

 ジーンの姿が消えたあと、しばらくレイはその場から動かずにいる。それからのろのろとふりむくと決心したかのようにひとつうなずく。

14

 その日のジーンには最後の別れを惜しむという様子はない。ひたすら一方的に長いメッセージを書き送ってくるだけ。しかも順序を逆にする手間すら考えてもいない。
『言わなければいけないことはこれで全部。それじゃあね、警告は伝えたわよ』
『これでわかってくれたでしょ? あなたがたに警告をあたえるためにわたしはここにきたの』
『ようやく最近になってタイムトラベルには不確定存在領域の展開が不可欠であることがわかり、またそれをある程度コントロールする方法の目鼻もついてきた。でもまだ時間を遡ることはできないの。作動が不安定で――体重三十キロ以下の人間ひとりをフィールドのむこうに送り込むことがせいいっぱい』
『それ以来クライマトロン・キャンプは時間の逆転原理を懸命に理解しようとしてきた。でも装置は現代物理の範疇を超えた原理に基づいて作動するらしくほとんど努力はむくわれなかったわ』
『冷戦体制下の厳しい軍事機密としてドームの調査研究はつづけられ、やがて科学者たちは結論に達したわ。「クライマトロン」はいわば巨大なタイムマシンであり、どうやらはるか先の未来から送られてきたらしいということを……』
『不思議なのは周囲の気温がなぜか異常に低下していたこと。共和国の依頼で到着したアメリカの調査団はドームの中心で不思議な機械を掘り出した。それは現代の技術では到底作り出せないと考えられるもの――熱エネルギーを一方的に吸収消滅させている装置だったの』
『最初から話しましょう。1967年のこと。当時共産ゲリラ支援のうごきを探っていた軍の哨戒機がアタカマ砂漠で不思議な構造物を見つけたの。つい数週間前までそんなものはなかったのに、それは何十年も昔に建設されたみたいな古びたドームの残骸だったわ。人々は正体不明のそれを仮に「クライマトロン」と呼んだ――』
『なぜそれを知っているかというとわたしたちの過去――つまりあなたたちの未来でだれひとり生き残っていないドームの残骸が発見されたから。でもその結末は必ず到来するわけではないはず。たぶん歴史は変えることができる。そのためにわたしは来たの』
『ええ。あなたがたに危険が迫っている。原因はたぶん二酸化炭素のパランスの致命的な偏りでしょう。そのためにたくさんの人たちが生命をおとしかねない』
 頭のなかでメッセージを逆に並べかえ、整理してからレイはボードをかかげる。
『きみは未来からきた。だから、ぼくらの将来について――の警告だね』
 今日のジーンはまるで見知らぬ人のよう。終始冷たい表情だ。
『まあ、いなければ仕方ないけど。とっても大切なことなの。あなたでもいいから聞いてもらえる?』
『どうも。マクファーレンさんとやら。ご存じかしら? わたしはあなたがたに警告を与えにきたのよ。だれか大人の人はいないのかな?』
 深いため息をひとつついて少年は最後の挨拶を送る。
『ぼくの名はレイ……レイノルド・マクファーレン。明日で十二。きみはぼくを知らないだろうけど、ぼくのほうはきみをよくしっている。きみのなまえはジーン・パーネルだ』
『はじめまして』
 そう書かれた文字を消し、ボードを背負った袋のなかに手間暇かけてしまい込み、それからおもむろに立ち上がるとジーンはレイをじっと見つめる。はじめて出会った相手を値踏みするかのような表情で。
『やあ』と書かれたボードをレイはかかげる。それをちらりと見、ゆっくりとあとずさると少女は発散限界の閾線をまたぎこし、一瞬のうちに消滅する。

 数分の間そこに立ちつくした後、ゆっくりとレイは背後をふりむく。肥料パックの山の後ろから呆然とした表情のジェイムス・ディロンが現れる。
「彼女が――ジーンです」
「――しかし、これは……」
 なんどか唾を飲み込んでから彼は思い直してべつの質問をする。
「なぜすぐにおかあさんに言わなかった?」
「ぼくがときどき存在しないものを見ることはご存じでしょ? ――幻覚を現実と混同しはじめたりしないか、小さい頃から母はそれをとても心配していたんです。だからこのことを騒ぎ立てたら……」
「……うん」農業技師はレイの顔を見てうなずく。
「きみの言うとおりかもしれない。たぶん彼女は迷わずエヴァンス氏のところに駆け込むだろうな」
「ほんとうはすべて秘密にしておこうと思ったんです。でもせっかくのジーンの警告を誰かひとりにでも伝えておくべきだと考えて……」
 黙ってしばらく考えたあとジェイムスはひとことだけ尋ねる。
「だが、なぜわたしに?」
 レイはためらい。やがて肩をすくめて答える。
「……わかりません」同時に少年はうっかり嗚咽をもらした。
 くしゃくしゃのレイの顔から視線をドームの外におよがせつつディロンは言う。
「――きみが辛いときにあれこれ尋ねるべきじゃなかったな」少年の二の腕に手をのばしかけて躊躇し、それから少しとまどったような表情とともにその手をポケットに押し込むとまわれ右し、彼は足早にその場から歩み去る。その姿を見送ることなく背後をふりむき、レイはとめどなく涙のあふれつづける目で少女が消え去った陽炎状のスクリーンの彼方を眺める。

15

「レイ、きみに来てもらった理由はふたつある。ひとつはきみが本日をもって満十二歳になり、次世代としての拒否権(ベトー)をもつようになったことを自治委員長として正式に伝えるためだ。おめでとう、レイノルドくん。もっとも十二歳から十五歳までの有資格者がわずかひとり、という事態は制度を考案した人たちの想定外だろうがね――ともかく、きみはここしばらく『スフィア』の将来についての決定権を独占的に掌握するわけだ。たぶんさまざまな大人たちが争ってきみの頭に意見を吹き込みたがるだろうが……そのあたり覚悟しておいたほうがいいな」
「わかっているつもりです」
 エヴァンス老人と少年をのぞいて『スフィア』の集会所に人影はない。ただかたわらのボルメトリック・ディスプレイのなかで『名無しおばさん』がふたりを見守っている。
「もうひとつ、委員会に『スフィア』の確率存在領域への外部からの侵入という不測の事態について報告があがっている。そのため当事者であるきみの証言が必要なんだが、そのための――まあ、非公式の予備審問といったものを今おこないたいんだ。もっとも質問するのはわたしでなくインターフェースAIを通しての形になる……」
「こうしたケースにデスマスクがでしゃばるのは本来は望ましくないのですけれど、事件の性質上証言がレイノルドくん自身のプライバシーにかかわる可能性がありますので――」
「『スフィア』のような閉鎖空間では個人の秘密は最大限守られなければならない、というのは最優先の原則だよ。あなたにゲタをあずけることについて委員の誰にも文句はないはずだ」
「ありがとう。それでは、すみませんがここはわたしに……」
「おねがいします。わたしはちょっと席をはずしましょう」
 老人は妙に軽い足取りで集会場をよこぎり茂みの小道へ姿を消していく。それを確認するように見送ってから――実際には彼女は『スフィア』中に設置されたカメラですべてのスタッフの居場所を常時把握しているのだが――『名無しおばさん』はおもむろに少年に尋ねる。
「まず最初にレイ、あなたが遭遇した外部の女性の名前は何といいましたか?」
「――ジーン。ジーン・パーネル、です」
「ジーン・パーネル……確かに?」
「ええ……」
「その姓名の組み合わせはデータベース上には存在しませんね」
「そうですか――」
 その結果は予想していたが少年はなぜか少し落胆した。ジーンは「スフィア」とは無縁の人生を送ったということなんだろうけど……。
「しかし、一方でパーネルの名は相当数ヒットしますよ」
「え?」
「なぜなら重力時間理論の第一人者ジェーン・パーネル博士は『クロノ・スフィア』計画の中心的スタッフの一人だから。というわけで、レイ。あなたが出会った少女、ジーン・パーネル――ジーンは愛称で正式な名前はジェーンではないかしら?」
 レイは驚き、あやうくベンチから転げ落ちそうになる。
「どうです? レイ?」
「ぼくは――そ、そうかもしれません」
「けっこう……。もしそれが事実なら、あなたとの出会いが少女ジェーンをその道へ導いたということなのかもしれませんね。ただ博士は残念ながら『スフィア』の完成を待たずになくなりました。あの時代、環境中の毒素によって肝臓や腎臓を冒される症例が激増した。パーネル博士もまた例外ではありません」
 ほとんど一分近く黙りこんだあとレイの目から涙がひとすじ落ちた。……結局ジーンを救えなかった? だとしたら、ぼくたちの旅はどんな意味があるっていうんだ? ――しばらくして彼は『名無しおばさん』がさきほどからずっと呼びかけているのに気づいた。
「レイ……聞いています?」
「――ええ」
「記録によるとあなたはこの十数日間、いままで興味をいだかなかったはずの対象について何度かわたしに検索を命じていますね。それはある種の野生の植物についてですが――これはあなたの出会った少女の存在と関係していると考えてもいいわね?」
 なんでこんな質問を? とまどいつつ唇を湿らせて少年は答えた。
「……はい」
「よろしい。あなたへの質問は以上です。データが出揃ったのでわたしたちは次のフェーズにすすむことができるわ」
「フェーズ……?」
「電子的存在として、外見上そう見えないかもしれないけど、わたしはほんらい完全な自由意志を持っているわけではないの。特に個人情報の管理に関する事柄は厳密に定められていて勝手に省略することはできない。例えばある情報を特定の人々に渡す際にはあらかじめ決められた手順を経てでなければ実行は不可能なのです」
「だから? なんだか言っていることがよくわからないな」
「つまりこういうこと。死の直前、ジェーン・パーネル博士はシステム・インターフェースであるわたしに対してひとつのメッセージを、ある特殊な条件のもとでのみ開かれるまで誰にも知らせることなく保管するよう命じました。そしてこの諸条件がクリアされた今、わたしはメッセージの受け取り手に指定された人物――つまり、あなたにロック解除のためのキーワードの入力を求めなければなりません」
 すべてがあまりに予想していない進行をするためレイはなんだか不条理な夢を見ているような気がしてくる。
「キーワード……? そんなもの知るわけない――」
「心配いりません。わたしはあなたがそれを思い出せるためのヒントを預かっているから。それはつぎのような質問――『レイ、八月の花の名は?』」
 不意に息苦しくなった。高鳴る胸を押さえて少年は声をしぼりだす。
「……パタ・デ・グアナコ?」
 瞬間的に3Dディスプレイの中にひとりの年輩の女性がうかびあがり、ほとんど呼吸もできないでレイが見つめるうちににっこりと微笑みかけ口を開く。
「わたしはジェーン・パーネル。この映像はあなたの時間で五十年時間を遡った過去のもの。わたしにとっては五十年昔に別れた少年であるあなたに送るメッセージになります。
 すこしややこしいけれど、聡明なあなたのことだから時間を遡ることにまつわるこの種の理屈は了解してもらえるでしょう。
 ――というわけで、久しぶりね、レイ。また会えて嬉しいわ――こんなにおばあちゃんになった私を見てちょっとがっかりしたかな? でも……むかしあなたに教えてあげたシェイクスピアのソネットのなかにこんな台詞がある――『君が若さを失わずにいるうちは、私は鏡を見ても自分が年とっていることを認めない』(*)」
 低い声で楽しげに彼女は笑い、そしてレイはしびれた心で思う。おばあちゃんなんて――とんでもない。少年にとってその五十代のジーンはまるで女神のように威厳のある成熟した女性。しかしおしゃまで快活なあの少女の姿には重ねようのない遠い存在でもある。
「……こうしていまあらためて考えても本当に不思議ね。あなたと出会い、別れるまでわずかに二週間。ほんとうに『イチゴ・イチエ』の言葉のとおり――人の一生の長さを思えばほんの一瞬のはず。それでもあなたの記憶はわたしの中に永遠に刻み込まれ、この年齢になるまで少しも薄れることはなかった。少女のころのそんな儚い思い出にいつまでもしがみついているなんて愚かなことだと言う人も少なからずいたわ。でもわたしにとってはあなたと過ごした日々は決して忘れられない大切な記憶であり、そしてその後の人生を決定づけた確かな道標でもあったの」
 いまレイの目に再度にじむ涙。しかしそれはさきほどの無力感をともなったそれとはまったくぎゃく――出会いと別れの後にも決して失われないものが残る、という真実を確認できた喜びからだった。
「……あのとき、警告を運ぶために『スフィア』と連絡をつけようとしていたわたしたちは平行宇宙の性質についてどうやら勘違いをしていたようです。なぜなら、あなたがたはわたしたちの過去に到着した『クライマトロン』とはべつの時間線を動いていたからです。そもそも未来に待ちかまえている危険を伝えるため発散限界面を通り抜けた時点で不可避的に並列する別の時間線に接触してしまう、という原則にわたしたちは気づいていなかった。つまりわたしの過去にはあなたがたは到着せず、したがってわたしたちの未来の破局を防ぐ手段もないということなの。そこであなたと別れて後、わたしたちは『クライマトロン』に残されたフラクタル時空展開装置の原理を理解し、もうひとつの新しい時間遡航施設を建設することに集中しました。将来不可避のクライシスが訪れたときにべつの平行宇宙の過去にむけてスタッフを旅立たせるために……。わたしはそのために学び、戦い、協力者を増やし――そしていまようやく完成間近の『クロノ・スフィア』の中でこうしてあなたへのメッセージを録画しています」
 そして少年は五十年後のジーンの顔に若いころは決して見られなかった深い疲労と、そして生涯をかけた目的を果たした者の満足感と安らぎとを見る。
「これではじめて因果の糸は正しくつながるわけね。今わたしのするべきことは終わりました――けっして楽な道ではなかったけど、いま人生の黄昏にあってなお躊躇なくこう言うことができます。わたしの幸運にも充足した生涯のすべては、あなたとの出会いからはじまったと――そして感謝をしなければいけないでしょうね。わたしを内側からずっと支えつづけていてくれたあなたの記憶に――ほんとうに、素敵な夏の思い出をありがとう、レイ」
 微笑みの余韻を残して画像は消えていき、噛みしめた顎をすりぬけて震え声がでてしまわないようレイは手で顔をおおってその場にひざまづく。
「レイ……」
 いま老女の低い声はふたたび『名無しおばさん』の若くちょっとハスキーなそれに変わっていた。
「メッセージの受け渡しの手続き完了。同時にすべてのデータが過不足なく照合されたことで予備審問も終了します。委員会のほうは代理人として万事わたしが処理するので心配なく。そんなわけでもう帰っていいわよ。明日からいままでどおり学習のつづきをやりましょう」
 しばらく身動きしなかった少年が涙をぬぐいつつゆっくりと立ち上がり、すこしふらつく足取りでその場を去ろうとする。その背にふたたび『名無しおばさん』の声が聞こえた。
「ちょっとまって、忘れもの……」
 同時にことことと音がして議壇の脇にあるスリットからイメージを印刷した紙が一枚はきだされはじめる。
「予約していたプリントアウトを受け取っていってね。そして、お誕生日おめでとう――レイ」
 レイは床におちた用紙のかたわらに歩み寄り見下ろす。そこに鮮やかにプリントされているのは赤紫のパタ・デ・グアナコのイメージ。

16

 少年の姿と入れ違いに広場に現れた老人はうってかわったしっかりした足取りでボルメトリック・ディスプレイの前に進みでる。
「『名無しおばさん』。あらためてあなたにお尋ねしたいことがある」
 そう囁いて委員長はさきほどまでレイが座っていたベンチに腰をおろした。
「――じつはわたしはずいぶん以前から個人的にいろいろ調べていることがあるんです。通常データベースを探るときはあなたというインターフェースを介するのが便利なのだが、この件についてはそうはいかなくてね……なぜか創設者たちはこれを秘密にしておきたかったらしい。だいぶ苦労しましたよ」
「知っていました。あなたはここ数ヶ月のあいだあえてわたしを使わずある問題について集中的に手動検索をされています――ああ、ご心配なく。べつに密かにハッキングしたりはしていません。これは後でモニターカメラの画像記録をモニタリングして得た知識です。ちょうどいまあなたがそこのチャヤの葉陰に潜んでいたことを知ったように――」
「ほほ……、悪いことはできないな。盗み聞きの現場を見られてしまいましたか?」
「まあ、それを知りつつ黙認していたわたしも同罪でしょうけれど……デスマスクとしてそのぐらいの裁量は持っていますので」
「まさにそのデスマスクというものについてふっと興味をもちましてね。それであれこれ調べてみてわかったのは、それが実際に生きている人間の意識を電子環境内部にシミュレートする技術だということ――正しいですかな?」
「ええ。そのとおり」
「さらに付け加えるならそのためのナノプローブによる人格データの記録作業はシミュレートする人間の死後数分の間にすべて完了されなければならない。それ以前ではプローブの働きそのものが精神活動を致命的に阻害するし、反対に脳死後長時間を経ればニューロン/ミエリン・ネットワークは記録不能レベルまで急速に崩壊していく。だからこそそれは『デスマスク』と呼ばれるわけですな?」
「優秀な生徒ね。要領を得たレポートです」
「お褒めにあずかりどうも。しかし――ということは、あなたもかつては生きた人間だった、ということになりますね? 『名無しおばさん(マザー・ジェーン・ドゥ)』――それではあなたはいったい誰だったのです? ま、『スフィア』完成直前に死んだスタッフの氏名は簡単に確認できる。調べることはそう難しくないでしょうが……」
 インターフェイスAIは人間そっくりの躊躇いの間を置いてから答えた。
「答えるまでもなく、もうあなたは結論にたどりついているのでしょう? ジム」
「ええ」
「……レイに話すつもりですか?」
「いや」老人はため息をつきつつ首をふる。
「――あなたがそれを秘密にしている理由がわかるような気がするのでね。ジェーン・パーネル」
「感謝します――わたしの決心はあなたの想像どおり。彼はまだ若いわ。これからまた新しい恋を知りやがて伴侶を得ることもできるでしょう。でも、もしもわたしがここにいることを知ったら――」
「ええ。彼はたぶんあなた以外の女性に決して目をくれなくなるでしょうな」
「レイはようやく母親から自立しはじめている。いまデスマスクであるわたしが彼の心を虜にするわけにはいきません」
 相手の仮想の凝視から背後の茂みへ目をそらしながら老人は答える。
「わたしも主治医として彼にはAIに殉ずることなく人並みに幸せになってもらいたいですからな」
「――意見が一致したようね。できるかぎり知られぬまま、わたしはこれからの彼の成長を見守り、『スフィア』の存続につくし、あなたがたが使命を果たすのを確認したいのです。だからこのことはくれぐれもレイには……」
「異存はありません。ただ――彼は賢い少年だ。遅かれ早かれいつかその事実に気づくでしょう」
「そうなったらそれで仕方ありません。でも少なくとももうすこし時間をおくべきだと思うのです。いま彼はジーン・パーネルとの永遠の別れを必死に受け入れようとしている。悲しいけれど覆らないこともあるという人生の現実として――やがてそれは彼の心に深く根づいていくでしょう。疵と言うならそれは疵ですが、いっぽうでやがて滅びるべき宿命を背負うすべての人にとっての癒しの泉でもある。その後たとえ真相に気づいたとしても彼はきっと理解できるはずです。わたしは自分の愛したジーンではない。単にその木霊にすぎない、と――さ、もう行ってください。彼が変に思うかもしれない。そして気をつけて……あの子は盗み聞きの天才ですからね」
 小さく笑い、それから立ち上がり広場をでるところで最後に振り向き老人は言う。
「じつはずっと昔、人間だったあなたにお会いしたことがあります。二十歳の若造にとって量子時空構造理論のパーネル博士は雲の上の存在でしたがね。そんなわけでこの事実を知って以来少なからず批判的に考えてきた。あなたのような偉人をインターフェース・デスマスクとして『スフィア』に封じ込めるなんて……と。だが、いまようやく理解できた気がする。パーネル博士はいまでも『スフィア』の中でひとりの人間として生きているんですな。だからこそあなたはレイを、そして他の人々をも思いやることができる……」
 3Dイメージのマレフィセントが人間そっくりの声で静かに笑う。
「しかしいっぽうであなたは自分の心の痛みも感じとれるんじゃないのかな? ほんとうにこれで満足なのですか? ジーン」
「ありがとう、ジム――心配はいりません。わたしはすでに独占的な愛欲に悩まされる年齢じゃありませんから……」
 ため息とともに肩をすくめ老人は言う。
「それが本当なのかどうかわたしにはわからない。でも覚えておいてください。あなたは決してひとりぼっちじゃない。秘密を共にわかちあう仲間として、わたしはいつでもそばにいる、とね――」
 別れのしるしに手を軽くあげ、それからエヴァンスは何かなぐさめの言葉をかけるべく先を行くレイの姿を木々の間に探す。しかしやがて彼は立ち止まってにっこり微笑む。集会場からシカクマメの豊かに茂る丘をゆっくり上がっていく小径の途中、小さな姿を囲むように男女と幼い女の子のシルエット――新たに拒否権を授かった少年を出迎える家族の姿が目に映ったからだ。

(*) W. シェイクスピア『十四行詩 第二十二番』 吉田健一訳


トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ