デルレスの神官クラカーシュはまるで夜盗のごとくに影をつたい足音を忍ばせて進んだ。風に流される銀灰色の千切れ雲を満月に近い月が照らす空は真昼のように明るかったが林立する巨木の下は闇に沈んでいる。しかしクラカーシュが目をこらすと木漏れる月光のなか微かに黒い衣がその足取りにあわせ揺れ動いていた。この夜更けの神宮殿の広大な中庭で彼が尾行している相手はエズダゴル。皇帝の覚えめでたき魔道師である。
風の強いその夜、常にもなく風音が耳について寝そびれたクラカーシュは月光に照らしだされた都の偉容でも眺めようと寝苦しい部屋を出た。寺院外壁の望楼に続く小径で怪しい人影に誰何の声をかけた警備の兵は相手が高位の神官であることを知るや慌てていまひき抜いた剣を背後にまわしその場にひざまずいた。
「いや。そのままでよい」
クラカーシュは自らの気紛れがこの真面目な一兵卒の仕事をさまたげたことに微かないらだちを覚えながら言った。
「邪魔をしてあいすまぬ。急に風にあたりたくなって寝床を抜け出てきたのだ」
「どうぞ足元にお気をつけください、猊下。この先、かがり火の灯のとどかぬところもございますゆえ」
「なに、この月明かりだ。心配は無用」
そう言いつつもクラカーシュは妙な胸騒ぎを感じていた。あるいは揺らぐ灯火に奇怪な形で踊り戯れる影たちのためか? 彼は自分に問いかけたが、その正体不明の不安は収まる気配はなかった。
「妙に生暖かい風だな」
「はい、春の嵐の前兆と同じ潮の匂いがします。明日には間違いなくひと荒れ来るでしょう」
「しかし冬も間近いというのに……」
「わたくしもこんな年ははじめてです」
これもまた変異の兆しのひとつなのか……ねぎらいの意味を込めて警備兵にうなずくとクラカーシュは神官の徴である赤い衣を風にはためかせて望楼へ昇る石段への道をひとり辿った。
東の海から遮られることなく吹きわたる湿った風は気持ちを爽やかにはしたが不思議な胸騒ぎは消えることはなかった。しかしそれをしぱしのあいだ忘れるほどそこからの眺めはいつにも増して彼の心を魅了した。眼下には聖都の全容が広がり……すでに家々は眠りにつき灯を消してはいたが、煌々と照る月の光が町並みをくっきりと明暗のなかに映し出している。ところどころ揺らぐ光は時ならぬ強風が吹き荒れる夜半の火事にそなえて夜回りの者たちがつめている広場のかがり火だろうか。そして市街地の広がりの彼方、月明かりに銀の帯となった聖都を取り巻く三重の運河のさらに外側に、まるで天の星をばらまいたかのごとくおびただしい数の瞬く灯が見てとれた。故郷を捨て聖都と皇帝の慈悲にすがらんとする難民たちの野営の灯火であった。闇と野の獣への怖れが思うに乏しい木ぎれをくべてまで夜の明かりを絶やさせぬ理由にちがいなかった。
ほかならぬ彼ら難民の救済問題こそ神官の安眠を許さぬ焦眉の急なのであった。冬の足音も間近く、食料も燃料も乏しい現状のまますておけばこれら難民のうちに多数の餓死、凍死者が生じることは必定。もしも事態を看過するなら遠からずこの者たちに端を発する騒擾、暴動の類いが発生し帝国要たる聖都の治安さえ危ぶまれるに違いないのだ。しかるにクラカーシュら長老議会派の神官たちの救済政策討議の申し入れはことごとくエズダゴルら魔道院を中心とする一派によって退けられていた。
何より問題なのはこのところ陛下が何やら古文書研究という名目で魔道院内に入り浸り政務にかかわる下命、言上すべてこの魔道院長を通してのみ行われることである。いったい神聖皇帝陛下はこの国難をいかにおぼしめしていられるのであろうか? 遠くまたたく灯火をながめつつクラカーシュは溜め息をつく。
クナア平原を埋め尽くすかのごとき夥しい灯はまるでこの聖都が反乱した軍に包囲されているような光景ではある。とはいえ自らの胸騒ぎは必ずしもそうした杞憂からくるものではないことがクラカーシュにはうすうすわかっていた。いかに臣民が困窮しようと神聖皇帝陛下の統べる国家体制そのものが根本から打ち倒されようはずもないではないか? なぜならこの神聖国家の権威は神々自身によってもたらされたものであり、いまなお神殿の奥深く眠る古の神への怖れが人々の意識を今なおしっかりと帝国への忠誠に縛り付けているはずだからである。この帝国を滅ぼすような力が仮にあるにせよそれは人の心に発するものであろうはずはない。そう堅く信じるクラカーシュであった。
われ知らず彼は都の中心に聳える聖塔――ジッグラトを振り仰いでいた。これこそこの神聖なる都がはるかなる太古、人の手によらず造り上げられた奇蹟の証し。高さ300ガルに及ぶこの螺旋状の尖塔はおそらく全体がひとつの岩石から彫り出されたものであり継ぎ目ひとつない。悠久の歴史を経ながらもなおほとんど摩滅することのないその神秘の材質は人間に知られたいかなる鉱石とも異なり鑿、げんのうの類いで傷ひとつつけることもかなわない。神宮殿の中心に位置しながらもこの塔の内部に立ち入った者は彼の知るかぎり一人もないのであるし、また誰ひとりあえてそこに踏み込もうと本気で考える勇気のある者すらいないであろう。それは神自身の墳墓、荒らぶる旧支配者が永久の眠りをその内にむさぼる褥にほかならぬからである。
かつて人間が知恵も力も持たず獣とともに山野に暮らしていた太古、星ぼしの間から忽然と神たちは降り下ったという。金剛力をもって神聖大陸そのものを海原より引き上げ、いまだ魚が跳ねぬかるむ地に壮麗きわだつ都市や橋梁や道路を建設し、神々は生まれてまもない人間にそれらを維持し管理する役割と手段とを授けた。帝国がこの世のあらゆる地に君臨した数千年の間、神々は聖都神殿の玉座からともすれば暗愚へ落ち行く人々を王道楽土へと導いたと語り伝えられている。
しかしそうした繁栄の最後の時代に何かが起こった。慈愛に満ちたこの庇護者は突然恐ろしい破壊の神にその姿を変えたのである。それまで彼を敬し崇め慕ってきた人間たちはこの由々しき変貌にただ戸惑ううちに雑草のごとくなぎ倒され虫けらのごとくに踏みにじられた。やがて破壊と流血の数十年が過ぎ神はその狂乱の末にすべての力を使い果たしてこの聖なる塔の内深く何時果てるとも知れぬ死の眠りについたという。
すべてはあまりにも遠い過去の出来ごとであり、それゆえそうした神話にどれほどまでの真実が含まれているか誰も知らない。とはいえ、いまこうして聖塔を見上げながらクラカーシュはすでに知る者もいないその悠久の昔から人づてに語り伝えられてきたある不吉な詞文を口ずさまずにはいられなかった。
「永遠の憩いにやすらぐを見て、死せる者と呼ぶなかれ
果て知らぬ時ののちには、死もまた死ぬる定めなれば*」
(*)宇野利泰訳、H.P.ラブクラフト「クトゥルフの呼び声」より
果たしていつかある日、ジッグラトの難攻不落の壁がその内部から崩れおちる時が来るのであろうか? そう考えるだけでこの神官は身内に冷気が吹き込まれたかのようにいたたまれぬほどの戦慄を覚え、それゆえにいかなる慢心にとりつかれた心であろうとこの聖塔を一瞥しただけで、必ずやこの聖都を陥としあえて侵略者として神宮殿に入城する野望など失ってしまうに違いないと信ずるのであった。
しかしながらその夜、そうして黙然として聖塔を眺める視野の端にちらりと人影らしきものが動くのがクラカーシュの意識をとらえたのは奇しき偶然であったのか、あるいは虫の知らせとでもいうべき何かであったのだろうか? 人のものとしてはあまりに素早い動きゆえに夜景を眺めるに疲れた目のまよいとも一瞬思われたものの先程からの胸騒ぎにうながされるかのように彼は全神経を集中してその城壁の一隅、かがり火の明かりと闇のあやかな境のあたりをじっとうかがった。ふたたびちらりと何かが動き、クラカーシュは突然身内がかっと熱くなるのを感じた。神聖なる宮殿に大胆不敵にも煌々たる月明かりの夜に怖れを知らず忍び込む輩やある? それはデルレスの眠れる神への冒涜以外のなにものでもないはずではないか? すばやく首をめぐらし警備の兵士の姿を捜すものの、あいにく声の届くほど近くには誰一人としていない。そのうえでもし今目を離せばその黒い人影を見失ってしまうかも知れない怖れのうちにこの神官は、単身望楼からの階段を駆け降りると侵入者を見かけた城壁のあたりまで大胆にも法衣の裾をたくしあげ小走りに走り寄った。
そこから見わたす神宮殿中庭は木々が鬱蒼と茂り月明かりに照らされる樹冠をのぞけば地上は闇に包まれている。もとよりここ神宮殿は聖都の中心部に設けられた古神殿が長い年月の間に大半が埋めつくされたその土壌の上に、新たに庭園を配しさらにそれを取り囲むように建設された魔道院をはじめとする各省庁やクラカーシュの勤める寺院、上級官邸、そして神聖皇帝ご自身の住まう御所といった諸々の政務にかかわる建物の総称にすぎない。それゆえ各建築物を結ぶ通路をかねる城壁に囲まれた広大な中庭はかえって外に広がる市街の明かりもとどかぬ暗闇であった。
月明かりに慣れた目には何ひとつ見えず、またじっと耳をすましても何も聞こえず、慣れぬ動きに息をととのえながらさきほどの胸の高鳴りはどこへやら、クラカーシュは当惑したままその場に立ち尽くすのであった。あるいはこれは正体不明のいらだちがもたらした幻覚の類いであったのか?
……否、彼は自分自身の迷いを叱った。ふと足元に落とした視線が月の光のなか小さな端切れを見い出したのだ。ひろいあげてみれば半ば渇いているものの運河にしばしば自生する浮き草の一種である。さらに目をこらせば城壁の外から黒い小さな染みが中庭に臨むこの地点まで点々と続いている。まちがいなく人目を避けるためデルレスの環状運河を泳いで渡らねばならなかった何者かが城壁をよじ登りいまさっきこの場所を通過したのであろう。
夜警を呼ぶべく声をあげようとした刹那、クラカーシュはまたも別の人影を目撃して沈黙を選んだ。なぜなら今度のそれは闇にまぎれんとするも日頃見なれた黒い装束……神宮殿につめる魔道師の着用する外衣だったからである。その歩き方からこの人物が人目を忍びつつ行動していることはあきらかであった。あるいはこれは畏れおおくも皇帝のお膝元、この神宮殿内部でけしからぬ謀略が密かに進められている徴であろうか?
神官クラカーシュはそこで警備兵を呼ぶかわりにそっと間近の階段を下り、木々の陰をつたいながらその魔道師の不審な動きを見逃さぬよう尾行しはじめた。この夜クラカーシュにとって強い海からの風が味方したのは幸いであった。もしも不用意に風上に立ち外部から庭に忍び込んだいまひとつの怪しい人影に自らの匂いを嗅がれでもしていたなら、こうしたもののふめいた振舞いに不慣れな行政神官の生命はたちまちのうちに奪われていたに違いないのである。なぜならそうして木立の間を抜けて月明かりに照らしだされた瀟洒な東屋にその不審なる魔道師が立ったとき、しめしあわせたかのように背後の茂みから忽然と現れたのは人ならぬ一匹の魔獣であったからだ。
思わず息を飲んだクラカーシュはあわてて庭木の背後に隠れ、暗がりからこの一人と一匹の様子をうかがった。「どうだ?」問いかける声でクラカーシュは魔道師がほかならぬエズダゴル本人であることを知った。わずかな躊躇いの色もなく彼は現れた魔獣に歩み寄りそう訊ね、異形の侵入者もまた何か答えている気配であった。しかしあいにく両者は互いに耳を寄せ小声で囁きあっているために神官の潜む場所までは会話の内容まではとどかない。ともかくここから窺うかぎり魔道師がなにやら相手の報告を聞きまた克明に指示を与えている様子である。
肝心の会話が聞き取れぬことにクラカーシュは身悶えする思いであった。エズダゴルは帝国魔道会議長にして魔道院長、加えて皇帝顧問占夢官までも兼任し、先帝の弟君グリムラン摂政殿下をも凌ぐ影の実力者である。このところ一連の御前長老会議でかのヴーアミタドレス山攻略を強く押す急進党派の後ろに控えているのがこの人物であることを宮廷人誰ひとりとして知らぬ者はない。それゆえにかかる夜半人目を避けて、ほかならぬその暗黒神ドオルの魔宮から訪れたとしか考えられぬ魔獣の一匹に彼が出会っているということは到底見過ごしてはおけぬゆゆしき事件であった。
近年大陸深奥のヴーアミタドレス山中を除いて魔獣が人間に目撃されることはめったになく、各都市近郊でそれらに出会うなどあたかも聖都の大路を肉食竜が闊歩するかのごときあり得ぬ出来事と一般には思われている。しかるにここはほかならぬデルレス神宮殿の中庭である。この魔道師のふるまいを見張りつつも彼はあるいは悪夢でも見ているのかと幾度も自らの覚醒を疑うのであった。
「わかったら行け。気取られぬようにな!」
エズダゴルが身を起こしつつそう告げると魔獣はふたたび出現した茂みのなかに闇に溶けるように消え失せて、後には魔道師ひとりたたずむのみである。そうして月を見上げ……時を計ったのであろうかエズダゴルはきびすを返すと、来たのとは逆の荒れた小道を選び歩き始めた。それはほかならぬかの聖塔につづく路である。クラカーシュはいかにすべきかおおいに迷った。ここはすでに城壁からかなりの距離の場所。今大声で警備兵を呼んだところであのすばしこい魔獣を捕らえることはかなうまい。またたとえエズダゴルの身柄を今ここで押さえたところで魔獣と密かに会話をしていたというだけでは陰謀を証拠だてることはかなわぬ。むしろ彼が今どこを目ざし何をたくらんでいるのかその尻尾をつかむほうが得策かも知れない。そう心を決めた神官は気づかれぬよう一層の注意をはらいつつ魔道師の後を追った。
小道は巨大な一枚岩の壁の前で終わっていた。エズダゴルはためらう様子もなく左に折れ、滑らかな岩盤に沿って歩き出す。クラカーシュもその後を追おうとするが、さすがにこのあたりは木立も少なく月夜に身を隠すものひとつない草地を行くのははばかられる。さらに悪いことにしばしばその気紛れな月は雲間に隠れて城壁を照らす灯火から遠く離れた夜の闇は一寸先も見えぬ帳となり、追う者は立ち止まるほかはない。対するにその間にも修行をつんだかの魔道師は魔界に通じる何かの手段によって道筋を感知するのか、彼我の距離を離していくのであった。
焦った神官がもはやこれまでかと観念したとき、不意に魔道師はその足早な歩みを止めた。すばやくクラカ−シュは身を伏せ夜の帳が自らをひと茂りの潅木とまぎれさせてくれることを祈った。昼間は人々の目にその高位の身分を知らしめる深紅の衣も月明かりの下となれば木々のほの暗い緑と区別がつかないはずである。そのまま息をころしその場に潜みながら神官が見つめるうちに魔道師は奇態にも聖塔の壁に向かってその右手を拡げ伸ばした。いったい何をするつもりなのか?と疑問に思うちょうどそのとき月が雲間に隠れあたりは闇に閉ざされ、数瞬ののちふたたび明るくなったときにはエズダゴルの姿は忽然と消え失せていた。
クラカーシュは跳ね起き相手が消え失せた地点に駆けつけると周囲の暗がりをあわてて透かし見た。だがいくら目をこらしてもそれらしい姿はどこにも見えない。ついに途方にくれた神官は呆然自失のあまり天をふりあおいだ。月はまさに天頂にあって煌々と地上を照らし、その光にくっきりと輪郭を描きだされた巨大な聖塔の円錐形の鋭い尖端につきささらんばかりに低く、千切れ雲たちは吹きわたる風に流されていく。
あの闇はせいぜい脈にして三つか四つ。そのわずかな間にクラカーシュの目前から消え去ることはいかな魔道師と言えど翼でも持たぬかぎりできうるはずはない。後に残された可能性は……。神官は目の前の聖塔の壁に近づき、あの最後の瞬間エズダゴルがやっていたように右手を伸ばして冷たく滑らかなその表面に触れた。ち密な材質にはこれといった特徴はなく月明かりで見ても何ひとつ変わった様子は見えない。しかし拡げた掌でさぐるとごくわずかな突起が感じ取れた。ひとつひとつが芥子粒のように小さいが、それらが五つ不規則に並んでいる。
……不規則に? クラカーシュはその微かな五つの点に右手の指先をひとつづつ重ねたとき掌が壁面にぴったりとはりつくことに気づいた。これはこの位置に掌をそえよとの何者かによる目印ではないのだろうか?
力を入れたつもりはなかったが不意に彼はそうして伸ばした手が突然誰かにつかまれ身体全体が力づよく前方へ引き込まれるのを感じた。悲鳴をあげようとする間もなくクラカーシュは聖塔の不思議な材質でできた分厚い壁の内部に否応もなくひきずりこまれていた。
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