クラカーシュは目を開いた。途端に異様な色合いの光がまぶしく瞳を射て彼はふたたび目蓋を閉じずにはいられなかった。両の腕で庇をつくり薄めた目でうかがう目前に何かが見えているのだが妙なことにそれが何か定かにはわからない。上体を起こそうと試みると不意にぐらりと目眩をおぼえて、あわてて彼は両手を床につき心を落ち着けるべく初歩の神聖呪文を口のなかで唱えた。
気がついてみればすでに自分は夜の戸外ではなく照明された石造りの大きな部屋の内部にいる。とはいえそれが通常の建物のなかとは思えないのは視線の具合がともかくおかしいからである。目を動かすとそれに従って部屋の内部が微妙に歪む。さきほどの目眩の原因は自分のなかではなくどうやら外部の空間の性質そのものからきているらしい。彼はゆっくりと慎重に立ち上がった。身体の不調にあらずと自ら言い聞かせることで気分は少し楽になったものの相変わらず不快な感覚が消え去ることはない。
ひとつには肌を刺すような冷気が身をつつんでいることもあった。そしておよそ日の光の射し込んだことのない地底深い穴蔵に入ったときの息のつまるようなあの圧迫感もある。加えるに何とも表現のしようがないぞっとするような気配もまた感じられた。そうしてクラカーシュはこの不思議な部屋なかに立つには立ったものの一歩動くことにさえ困難を覚えるのである。
床が水平ではない……いや、あるいは水平なのかも知れないが、彼にはそう見えない。なにもかもが歪んで目に映り、視覚の教えるところでは足元の床は壁際から胸元に向かって急角度でせりあがっているにもかかわらず、足を動かして探ってみればそこが平たんな場所であることがわかるという有り様である。どうやら視覚あるいは平衡感覚にかかわる悟性がなんらかの不可解な方法で混乱させられているらしい。
さきほどは何者かに手を強く引かれてここに引きずり込まれたように思ったが、周囲にはそれらしい誰の姿もない。のみならずそこを通して連れ込まれたはずの外部に通じる扉らしきものすらない。部屋は十間四方ほどの広さであろうか。天井までの距離も同じぐらいかも知れぬ。なにしろ目や頭を動かすたびに距離や角度がめまぐるしく変化するので正確なところは把握できず、くわえて部屋そのものがおよそ不規則な多面体をなしているのであった。クラカーシュが立つ床の面は五角――あるいは六角形。なにしろ辺の数を数えることすら困難なのだ――家具らしきものは何ひとつなく、のっぺりとした例の不思議な材質でできた壁や天井からは絶えまなく液体が滲み出ている気配がある。さらには床の中央附近には暗い開口部が闇に続く不規則な形状の隧道を覗かせている。
ここに至ってようやくクラカーシュは自らが魔道師エズダゴルの後を追跡していたことを思い出した。あの最後の瞬間エズダゴルは聖塔の壁面に向かってなにか奇妙なふるまいをしていた。恐らくは魔道師のみ知る秘密の抜け穴のごときものがあって聖塔内部に立ち入ることができるやも知れぬ……そう彼は想像し不幸にもそれはあたっていたのである。疑うべくもなくここはあの恐ろしいジッグラトの内部に違いない。
苦い後悔が彼の全身を駆けた。聖塔内部に入れるかも知れないという思いつきに興奮し性急に抜け穴のからくりを試す前に、まずは慎重に構えて誰かを呼ぶべきであったろう。これでは宮殿の兵士たちは夜風に吹かれに出た神官のひとりが忽然と消えたその行く先を知るよしもない。とはいえまさかあんなに簡単にからくりが作動し、なおも後戻り不可能なこうした状況に連れ込まれるといったい誰が予想しえただろうか?
「悔いたところで仕方ない」
神官は自分自身に言い聞かせた。
「いずれにせよ、あのエズダゴルも通った道。必ずやふたたび外部に出る手段もあるに違いあるまい」
あの魔道師がすでにこれらの暗い隧道のどれかを行ったとすれば当然ながら足元を照らす明かりが不可欠であろう。目を開けたときから周囲の奇妙に歪み傾いた壁に光源が取り付けられ無気味な色合いの明かりを放っているのはわかっていたが、そのうちのひとつが持ち去られているように思えて彼はそれが取り付けられていたはずの壁面に近づきじっくりと眺めてみた。
微かな円形の窪みを除いて何かが取り付けられていたような痕跡はないのだが、すぐ両隣には気味の悪いほど克明に人間の掌そっくりに彫刻された持ち手がその場から直接生えたごとくに壁と同質の材質から彫りだされ――あるいは付着しているのか?――透明なガラス質の球体を掌に乗せて差し出している。その透明球の内部にいかなる仕掛けによるのか青白い光が点っているのである。等間隔で並んでいるうちのこの場所だけが空いているということは、おそらくは同じものがここにもあり、行く先を照らす明かりとするべくそれをエズダゴルが持ち去っていったと考えるべきであろう。それならクラカーシュもまたこの球体を手にいれることができるはずである。
そう思いつつ彼はためらった。なにしろ壁に生き埋め込まれた人間が腕だけを突き出しているごとき無気味な持ち手である。さらになにやら液状の滲出物が壁と持ち手の両方を絶えまなく濡らしているように見える。……否、目を近付けてさらによく見ると実はそれらは細かな砂状の微粒子から成っていてあたかも滲出液に濡れているようにその粒子そのものが流砂のごとく絶えまなく表面を流れているのである。
ぞっとして思わず身を退き、しばらく躊躇って後まさか掴みかかってきたりはしまいと内心びくびくしながらも意を決して神官はその明かりを差し出している把手にそっと触れてみた。すると突然、持ち手が溶け崩れるように壁のなかへと流れ去り、明かりを点した球体だけが思わずそれを受け取ったクラカーシュの手の中に残った。
「なんと! 不思議な仕掛けだ!」
内部に炎を閉じ込めているはずなのにかじかんだ指先を暖めるべく握り締めてもこの異様な炎を閉じ込めた球体はわずかの熱気もあたえてくれようとはしないのだった。クラカーシュは慄然とし、やがてうなずいた。ここは聖なる神の褥所。それゆえこれは古の神々のみ知る世界に属する神秘の炎であろう。しかしそれでもそれは暗い隧道を歩くための明かりの用にはたりた。彼の前を行く魔道師エズダゴルもそのひとつを携えてこれらの穴のひとつを潜っていったのは間違いないのだ。しかし……どの穴を?
ふたたびクラカーシュは後悔に苛まれた。この部屋で初めて気を取り戻した時点ですぐに隧道の入り口を片端から覗いてみればよかったのである。そうすればあるいは先を行く魔道師のかざす明かりが暗がりの彼方にほの見えたかも知れなかった。今となってはこの無数の穴のいったいどれに奴が消え失せたのか判別する手段は一切ない。
「まあ、それもまた運命」
悟りをひらいた上位の神官らしくクラカーシュは諦めのよいところを見せてひとり肩をすくめた。
「なるようになるだろう」
彼は心を決め手近の穴のひとつを選び、ためらう心に鞭うって足を踏み入れた。隧道は相変わらず奇妙な光学あるいは重力に支配されているらしく果たして上りなのか下りなのかさえさだかにはわからない。ともかく冷え冷えとしたぬばたまの闇が続くのみ。さらになにやら膿液めいた液体が絶えまなく壁づたいにしたたりおちるように見えるこの不吉な隧道は時折水平に枝分かれ、のみならず垂直に枝分かれしている箇所さえもあり、もし球体の発する明かりがなかったならばたちまちにしてぽっかりと開いた底なしの穴に落ち込んでしまうに違いない。すべてが異様に歪んでいて、この邪神の眠る太古の遺跡の内部に人の居るべき場所はないだろうことがひしひしと感じられる。
悪いことに進むにつれ冷気は一層厳しくなり、またその背後に絶えまなく感じられる悪意にも似た不快感も強度を増していった。足元を見つめ慎重に歩を進めながらも神官クラカーシュはこの身内を苛む感覚がなんであるのかを見極めようと努めた。あたかも蛇や毒虫の巣窟に踏み込んだときにも似た総身の毛の逆立つ感覚。あるいは腐りゆく死骸が堆く積まれた墓穴に迷い込んだときのおぞましい恐怖。加えるに生きるためのあらゆる力を喪失してしまいそうな底知れぬ絶望……そんな不快な感覚をつきまぜ合わせたいたたまれぬ焦燥感とでも表現すべきかも知れない。そのときようやくクラカーシュはこの夜目覚めたときから絶えることなく感じていた不安の正体に思いいたった。この圧倒的な恐怖感こそがあの胸さわぎのそもそもの源にある感覚にほかならぬ。
次第にたかまる嫌悪感とともにそうした困難な移動を果てしなくつづけるうち、ようやくクラカーシュは隧道をぬけ開けた場所に出ることに成功した。そこもまたあいかわらず歪んだ角度と線分とで構成された空間ではあったものの、今度の部屋は前のものよりはるかに広く、そしてまた何らかの目的をもって置かれたと思われる白々とした石造りの棺のようなものが並んでいた。ひとつひとつがちょうど人間ひとりが横になれる大きさであり、それゆえその機能もそれにほど近いものと想像された。すなわち寝台か、拷問台か、あるいは棺そのものか……しかし、たとえここが邪教の地下霊廟であろうとともかく人間のための空間であるだけでクラカーシュは微かな安堵を覚えた。それほどこの聖塔の内部構造は人間にとって異質な何かを感じさせるものであった。
部屋は、もしこれほど光が歪んで伝わらなかったなら、おおよそ細長い方形に見えたであろう。その長い一辺の中央に彼が出てきた隧道の出口があり反対側の凹面の壁には別の出口がある。左右の壁は塞がれているからこの先クラカーシュがすすむべき道筋は明らかであった。とはいえその部屋に一歩踏み入れるやいなや先ほどからの不快感、嫌悪感がいやますのを彼は感じた。理性は部屋を横切って奥にあるいまひとつの穴をくぐれと命じるものの彼の感情はそれに真っ向から反抗した。何か恐ろしいものがその穴の先にいる……その確信が圧倒的な強さで彼の足を引き止めるのだった。
それゆえにもしも彼がその部屋の中で石の棺のひとつがすでに塞がっているのを見ず、またそのさらに奥の暗がりで蠢く何者かの影を見なかったとしたら、ついに彼はその部屋からさらに先に進むことはなかったかも知れない。
その石棺の中の男は死んではいなかった。しかしそれゆえ一層悪かったのである。青白い顔を無表情に天井に向け手足を力なく拡げたその顔にクラカーシュは見覚えがあった。確か顔なじみの宮廷の神官のひとりである。男は腰帯のほかはなにひとつ身につけず、まったく無防備な状態で横臥し、その腹がゆっくり上下することでからくも生きていることがわかるのみである。それだけでも充分ぎょっとさせられる光景であるが、さらに近づこうとしたクラカーシュが突然身体を凍らせたのは球体が投げかける光がその石棺の背後に作る黒い影のなかに蠢く何かの姿を現にしたからである。
それは人ではなかった。かと言ってそれ以外の何者とも明確には呼びがたかった。ちょうど影そのものが厚みをもってその場に迫り出してきたかのごとく、ゆっくりと這い寄る黒い液体、と描写するのがその怪物を表現するに一番適したいいまわしであろう。そいつは熱したタールのように泡立ちながら男の眠る石棺の側面をおぞましく這い登ろうとしていた。
あっと叫んでクラカーシュは身を翻し、一瞬方向感覚を失ってあれほど躊躇っていた部屋の奥の出口へと突進した。短い隧道を経て道は突然開け放たれた空間で終わり、そこを走り抜けた彼はさらに走りつづけ、ついにすべりやすい床に足を取られて転倒しあやうく光球を落としそうになって初めて気違いのように盲滅法に疾走するのをやめた。しかしその後も彼は慎重に、しかし早足に歩きつづけて、あの石棺の間からかなりの距離をとったことを納得してのち、ようやく息をととのえ周囲の様子を見回す余裕を持った。
この開けた空間の中央部分には差し渡し百ガルにも及ぶ底知れぬ巨大な穴が真っ黒い口を開いている。大穴の内側の壁は垂直に光の届かぬ闇に消えていていったい底に何が潜むのか窺い知ることはできない。その周囲をぐるりと取り囲んで円環状の回廊がめぐっていた。よく見れば回廊と縦穴との境には穴の縁に平行して深い溝渠が刻まれ、奇妙なことに穴の壁を伝い無色透明の液体が暗い底の方からとめどなく逆流してきてはふたたび溝渠に流れ落ちていく。初めは目の錯覚かと思ったが、明かりを近づけあらためて見ても、その奇妙な液体は重力に逆らってあとからあとから垂直の壁をよじ登ってくるようである。どうやら非常な低温らしく冷たい霧が床を這いそれから流れ出している。
これもまたこの世のものにあらず。クラカーシュはそう断じ、その正体を追求することをあきらめ、ついで頭上に目を転じた。広大な空間を覆う天蓋はジッグラトそのものの鋳型と思えるほどの規模である。恐らくは塔と同じ円錐形であろう、その上部はほとんどが球体の火のとどかぬ闇にとざされている。そして頭上はるかなその暗黒の高みから細い糸のような白い直線がまっすぐ縦穴の中心に下りてきて、何やら複雑で不快な有機的な形の構造物をその末端に吊り支えていた。空間はあいかわらず視線を動かすたびに激しく歪み距離を測ることさえ困難であったが少なくともこの位置からあれだけの大きさに見えるのであるからかの構造物はちょっとした屋敷ほどもあるに違いない。
しかしそうした壮大な眺めもふとクラカーシュが回廊のむこう端を歩く人影を見い出すにおよんで一瞬にしてすべて忘れ去られた。猪首のずんぐりとした体型、頭巾を背後に落とし禿げあがった前頭部と隆起した獅子鼻を曝すのはまごうかたなくあのエズダゴル! 彼がここまで追いかけてきた当の相手にほかならぬ。神官はゆがんだ空間のなかで手にした球体の火が背後の壁に並ぶ明かりにまぎれ相手に気取られないことを祈りつつ奈落の対岸を歩む魔道師の行方をひたと見つめた。エズダゴルは……まさか尾行されているとは思いもしないであろう安心しきった様子で脇目もふらず……回廊に沿ってしばらく歩き、やがて開いた隧道の入り口のひとつに消えていった。
今度見失ったらあるいは永久にこの場所から出られなくなるかもしれぬ――クラカーシュは足早にエズダゴルの消えた部屋の反対側の入り口をめざした。しかし縦穴から沼気のごとく立ち上るおぞましい気配はもはや目をくらませる強度であり身も凍る冷気は回廊の表面に薄く氷を置くほどであった。急ぐクラカーシュはふたたび足を滑らせてころび、今度は照明球はうっかり手を離した隙に氷面を転がって溝渠を飛び越し、縦穴の断崖のむこうに落ちていった。それゆえ神官は思わず身を乗り出し、明かりが落下していく闇の底をまともに覗き込んでしまった。
そして見た。
縦穴はそれほど深くはなかった。しかしその底は穴の壁をよじのぼるあの無色透明の超低温の液体で満たされ立ち上る霧が液面をおおっていたし、いっぽうで球体の光はあまりに暗く小さく、実際のところクラカーシュが見たのは全体のうちごくごく一部にすぎなかった。しかしそれだけで充分だったのである。
それは浅瀬にうずくまる軟体動物のごとくに幾分ひしゃげて、巨大な穴の底いっぱいに胎児のように身体を折り曲げて横たわっていた。空間の歪みは穴の内部ではさらに著しく、あたかもプリズムを通して見るかのように視線を動かす度その身体の各部分は異様な角度で偏光されて、透明な液面のいったいどれほど下にそれらのおぞましい形状が浮遊するか測ることはできなかったし、それらがどのように繋がりあい魁偉な全身を形成するかも把握しがたかった。ただぞっとするほど冷たい碧緑の色調や、細かな皺のよった表皮や、軟骨質の鱗や、そこから突出する半透明の鋭い刺やらが悪夢に出現する視覚に転じたおぞましい触感のごとくにおぼろにたゆとうていた。ぐにゃりと溶液中に広がった頭部も……幾分突き出た口吻と思しき場所から枝分かれて微かな対流に揺らめく吸盤のある触手はその尖端では半分溶解した蜘蛛の糸にも似て絡みあいつつ酷寒の液中に長く長く延びていた。
しかしそこには見開かれた巨大な水棲動物の目があり、その燐光を放つほの暗い瞳孔の奥底には凄まじいまでの恐怖と怨念と狂気とがたたえられており、それを覗き込む者は誰でもこの宇宙そのものに対するその果てしない憎しみと絶望のいたたまれぬ苦悩を自らのものとして、あたかも氷の刺を魂に打ち込まれるごとくに味わうのだった。
おぼろげな球体の明かりが水面に到達し、その瞬間に消えるまでのわずかな間に瞳に映ったそうした光景によって、この神官の理性の糸は完全に断ち切られてしまったのだ。彼は絶叫し、正気を失ってすべりやすい氷上でこけつまろびつ、ひたすらただその縦穴から一寸でも逃れようともがく知性のない肉体となった。恐怖のため硬直し言うことをきかない手足のために幾度か立ち上がりかけてはまた倒れ、氷にたてた爪がはがれ落ち指先から血をしたたらせながらも、神官は絶えまなく咽から迸る己の悲鳴を止めることはできなかった。そうして半ば発狂したクラカーシュがわずかなりと理性を取り戻したとき、すでに彼は明かりもなしに手近な隧道を何十ガルも走り抜け、ついに暗闇のなかに開いた深い縦穴のひとつにまっ逆さまに転げ落ちていた。
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