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魔獣大陸

第2部 魔道師の帰還
第3章 魔道師の帰還

藍舟はづき

 濡れたような壁面を落下し、幾度も回転し叩きつけられ、それでも奇跡的にも致命的な打撲を受けることなく彼の身体ははるか地底深い階層に至ってようやくその滑落を停止した。同時にあのおぞましい大穴から離れたことによってその精神の錯乱をもたらした異様な恐怖感、圧迫感も多少なりとも軽減されてはいた。
 しかしそうして五体を粉砕されることもなく分別と正気とをとりあえず取り戻したものの、今クラカーシュが苦痛とともに横たわる場所はジッグラトの分厚い外壁の内、測ることさえかなわぬ土台の下の深みである。唯一この恐ろしい迷宮からの出口を知っている人物であろうエズダゴルとは遠く隔てられ、薄やみのなかで打ち身にうめく彼にはこれからとるべき方策の見当すらつかぬ。さらに悪いことに落下の途中何かに激しく打ちつけたらしく左の脚が言うことをきかない。かんばしからぬ予感ではあるがどうやら骨が折れているらしい。
 もともと文官として身体の鍛練などしたこともない初老の神官であれば、こうして太古の墳墓のなかにひどく傷つき水も食料もなしに孤立無援となって生き延びられる望みは万にひとつもありえまい。つい数刻前まで自室の暖かな寝台のなかで空を渡る風の音を聞いていた自分を思いおこせば、今の状況が悪夢でも見ているように信じ難いクラカーシュである。
 ともかくも身を起こすべくまず仰臥している姿勢から身体を横にした。両の手の生爪をはがし満身に打ち身を負っている上にすでに腫れ上がりはじめた左脚が耐え難くうずき、それだけの動きに精神力のありったけを要する。歯をくいしばり涙で視界をさえぎられながらも長い時間をかけて彼はなんとか半身を持ち上げ、傷めた脚をかばって横座ることに成功した。しばらくそうして苦痛の波がわずかにやわらぐのを待ち目をあげて周囲の光景を見渡すと、そこはいままでの聖塔内部とはまた違った構造の部屋であった。
 空間の歪みはあの恐ろしい場所――クラカーシュはいまはそれについて思い出したくもなかった――から距離をおいているためかよほど改善されていて、熱にうなされつつ夢見ているようなめくるめく印象はない。むしろ深い静寂が洞窟にひとり生き埋められたごとき強烈な孤独を感じさせた。見回す細長い空間は林立する太い柱が天井を支えるごくあたりまえの神殿様式。ただしこうして床に座り込み仰ぎ見ていることを除いても規模の大きさは桁外れであり、柱の根元近くにわずかに点されたあの不思議な照明球の明かりだけでは天井そのものすら見ることはできない。おそらく部屋の高さは百ガルを越すであろう。ここを往来したであろう太古の種族の身体の大きさを想像せざるを得ぬ途方もないスケールである。
 壁は巨石を組み上げた頑丈なつくりで頭上のジッグラトの膨大な重量を受け止めていることを考えればそれも充分うなずけるのだが、ただそれらの壁に鼠が噛み破ったかのような小穴が不規則に開いているのが不調和かつ不自然である。どうやらクラカーシュ自身そのうちのひとつから滑り出てきたことは間違いない。これらの穴が建築家の意図でなく鼠のような生物によって作り出された通路であるとしたら、その一匹に遭遇することだけは願い下げにしたいと神官は切望した。というのも不愉快なことにはどうやら人骨とおぼしき白い塊が床のそこかしこに散見されるからである。
 全体の印象は古代に造られたまま放棄された地下倉であり、その床には用途不明の様々な大きさの品物があたかも引っ越しのため急きょ荷造りされ、この場所に投げこまれたまま忘れ去られたごとく、およそ乱雑な仕方で並んでいる。あるいはこれらは使い道もなくただ場所を空けるためにこの墓場に押し込まれたかつて巨神につかえた者たちの家財道具のたぐいであったのかも知れない。クラカーシュはそのうちのひとつ、五本柱が立つ未完成の東屋のごときものが近くに置かれているのを見ながら考えた。もしもこれが東屋であるなら、この空間を建設し利用していた巨大な種族がその内部に入れようはずもないし、何よりその柱の高さはちょうど人間が雨宿る屋根を支えるにつりあったものであったからだ。
 そうこうしているうちに不意にクラカーシュは微かな音に気づいた。あまり心地よいそれではない、何か湿ったものがゆっくりと流れつつ空気を巻き込むかのようなごぼごぼという不快な音色である。背筋がぞっとして薄やみのなかを見回せば、いましも一本の石柱の影からあのおぞましいタール状の怪物がこちらに向かってゆっくり近づいてくるではないか。さらにいま一匹が反対側の暗がりから這い出しつつあるのを見ると、どうやらここはこれらの怪物たちの巣となってしまっているらしい。
 打ち身のためにまだ呼吸をするのも苦しく折れた左脚にいたっては少しでも動かそうとすれば耐え難い激痛が全身をつらぬくほど。とはいえあの無気味に這い寄る液状の塊に取りつかれる恐怖を思えばそんなことを言ってもいられない。自分に可能であったとは思えない超人的な力をふりしぼって彼は折れた脚をかばいつつ必死の形相で間近の五本柱の構造物に向かって這い進んだ。あの台座の上の柱の一本をよじ登ればこの粘液性の怪物から逃れられるかも知れない。一縷の望みであるが、ともかくクラカーシュに他に選択の余地もなかったのだ。
 そのわずかな距離を行くのに何刻も費やしたと思うのち神官はようやくその円形台座の周囲の階段状態の足場にたどりついた。不吉にも一体の人骨があたかもクラカーシュと同じく足場を上らんとしたままの姿勢で横たわっている。神官が思わず祈りの言葉を囁きつつ背後を振り向けば、床はあのおぞましい液状生物たちに占拠され、うちの一匹のいやらしい粘液性の触手がまさに左足に触れんとしている。背筋が凍りつきクラカーシュは剥がれた爪の痛みも忘れ横たわる骸骨の大腿骨を取り上げ怪物の身体めがけて力いっぱい振り下ろした。湿った泥炭を打つような感触を想像していたが、ほとんど抵抗なくその即席の棍棒は怪物の身体に食い込み、相手の皮膚が膨張してそれを包み込むやいなや今度は押せども引けどもぴくりとも動かなくなった。
 それでもその打撃は相手の進行を一時的にせよ防ぎ止めて、この粘液性の化け物が大腿骨をまさぐるように確かめている間に神官は神聖ゾディアック文様が美しい象眼金細工でほどこされた大理石の表面に這い上がった。微かに燐光をはなつかに見える床からこれもまた未知の灰白色の材質で出来た柱が五本、正確な円形に配置され立ち上がっている。しかし近づいて見ればそれらにはまったく足掛かりになるものはなく、折れた脚でよじ登ることは望むべくもない。いよいよここが自分の墓場かと柱の一本によりかかり、覚悟を決めて周囲を見てみれば床の粘液生物たちは台座を取り巻いたままもはやそれ以上クラカーシュのもとに這い寄ってはこない様子なのである。予想外の展開にとまどいつつ思うに、どうやらこれらの柱が未知の力による結界をつくりこれら妖怪を閉め出しているらしい。そう了解したとたんクラカーシュはその場に倒れ安堵のため息とともにその意識はあらゆる苦痛から救う慈悲の忘却の闇に包まれていった。

 眠りは快適ではなかった。つねにあの恐ろしい縦穴の記憶がクラカーシュを脅かしていた。何か伝染性の病にも似たおぞましくうとましい気配が穴の底の闇から這い上がり床を伝ってこの聖塔の内部に充填しつつあるのだ。そして苦痛にみちた絶望感がその冷たく粘り着くような恐怖の奥底につねにたたえられている。……なぜ神はそれほどまでにこの世界を憎みたまうのか?
 クラカーシュはその腐食性の気配に侵されていく自分の意識を夢見、恐ろしさのあまりはっと目覚めた。とはいえ覚醒もまた快適ではなかった。打撲の跡は身体の半分以上に及び、身体の節々が慣れぬ活劇と疲労とに抗議し、さらに折れた脚は腫れ上がって脈拍のたびに激しい疼痛で彼を苦しめていた。
 命こそとりとめたものの何ひとつ望みがない状況で台座に寝転びながらクラカーシュは半ばすてばちに考えた。この脚では到底この場所から動くことはできぬ。のみならず周囲には無気味な液状生物が待ち構え、また塔からの出口を見い出す可能性はほとんどない。今のうちこそ安全なようだがいつあの怪物が結界を破り押し入ってくるかはわからないのだ。いずれにせよ水も食料もなしに数日ももつはずはなく、なによりこの肉体的な苦痛と絶えまなく心を蚕食する邪悪な気配とによって彼は自らが遠からず発狂してしまうにちがいないと感じた。
 そうして絶望のまなざしではるかな闇の天井を惚けたようににらんでいたクラカーシュはなにげなく視野のなかに立ち並ぶ五本の柱に注意を戻してはっとした。……追われる最中でじっくりとは見なかったが、この五本柱の配列された形状にはどこかかすかに見覚えがある。神官である彼は日頃から神宮殿に伝わる数々の古文書に親しんでおり、それらのいにしえの記録のなかにこのような品物についての記述を見た憶えがあることにいまあらためて気づいたのである。
 思わず身を起こし神官は激痛に悲鳴をあげた。そのまましばらく痛みに啜り泣きつつ耐えていたが、やがてゆっくりといざるようにしてクラカーシュはその柱の一本に近づいていった。神々のいまだ目覚めていた昔、人々は遠隔の地の間を自由自在に往復していたと伝えられる。記録によれば「ハスターの門」と呼ばれる五角柱状の結晶空間を利用することによってそれは行われていた。しかし怒れる神がこの世のすべてを破壊し永久の眠りに入ってより後、これらを働かせていた力の秘密は人々の心から忘れ去られ、のみならず誤って操作された門がしばしば異界の魔物をこの世に呼び寄せるにいたって、ついにそれらは一つ残らす封印され破棄されたと古文書は記している。
 ……もしその「ハスターの門」のひとつがこれであったら? 神官の心に微かな希望の灯火がともった。はかない望みとはいえクラカーシュに残された唯一の手段がもしあるとしたら、まさにそうした門のひとつをなんとか働かせこの塔から脱出することをおいてない。そうして彼は血眼になってこの台座と柱の秘密を解くべくそののっぺりとした表面を克明にしらべはじめた。

 もしこれが門であるにせよ、それは実用性を越えて美しく装飾されていた。すべらかな海泡石状の白い柱が金の葡萄蔦で飾られた台座から立ち上がり、それらの頂上には風の方位四女神と旅人の守り神、醜悪な顔の翼あるザウムの像が置かれている。柱に囲まれた床には先に見たごとく紫の海竜から始まり赤い一角獣に終わる闇の神聖十二宮が見事に象眼されている。時間だけはいやというぐらいにあったからあちらこちら這いずりながら詳細に調べあげた結果、彼は海竜の図案の中に巧妙に隠された例の五つの突起を発見した。いさんでそこに掌を押しあててみたものの五本の柱にはこれといった変化は見られない。それからしばらく台座の周囲を這いずりながらクラカーシュはいろいろ試してみたものの、この魔法の装置を操作すべき仕組みは何一つみつからなかった。
 疲れ、失望し、耐え難い苦痛に冷や汗をながしつつしばらくは五つ柱を見上げたまま呆然としていたクラカーシュだったが、やがてこんどは柱のほうを観察してみることを思いついた。膨れ上がった左脚をかばいながら身体を起こすのは拷問にひとしい試練だったが、彼はなんとか立ち上がると柱のひとつにもたれかかるようにしてその表面をしらべた。前から気づいてはいたが柱にはその中程に神話的怪物たちを彫り込んだ黄金色の輪がはまっている。そして果たして克明に調べてみると装飾と思っていたそれらは柱の全長に沿って滑らかに動くのである。とはいえクラカーシュがあちらこちらを這いずりまわり、それらの輪をすべて軸に沿ってすべらせてみても期待していたような効果は何ごともなく、やがて打ちのめされた彼はもとどおり柱の根元に座り込み再び絶望の淵に沈みこむのだった。
 仮にこれが「ハスターの門」であろうとも、どうやらそれを動かしていた古代の魔力はとうの昔に失われてしまって久しいに違いない。……やはりここで野たれ死ぬ運命か。そうした思いが無意識のうちに幾つかの神聖呪文の記憶を呼び覚まし彼の唇は知らず知らずにそれらをとなえていた。
 むふぐるうふ ふがく いむるむしゅ いあ てぐるん……突然、微かな音が聞こえクラカーシュははっと身を起こした。「門」が作動しているのか?
 しかしそれは何一つ変わった様子もなく、柱たちは彼をじらすようにただ静かに立っているだけだ。そうして台座を取り巻く階段状の足場に目をやって、クラカーシュは思わず呪詛の叫びをあげた。床一面をとりまく例の液状の化け物たちのうちの一匹がいやらしく無数の不定形の触手を伸ばしつつ、じりじりと神官のほうにむけてにじり寄りはじめたではないか! どうやらうっかりして彼は結界を形作る魔力を消滅させてしまったらしい。
 ……目も鼻もないくせに、いったいどうしてこちらの位置を知るのか? そう考えつつもはやこれまでと覚悟しながらクラカーシュは次第に後ずさるほかなかった。とにかくその蠢き沸騰するタール状の化け物は総毛が逆立つ生理的ないやらしさを備えていて、こんな怪物に捕らわれゆっくりと飲み込まれるぐらいなら思い切って自害し果てたほうがどれほどましかも知れない。クラカーシュは短剣のひとつも持っていない無念さを嘆いた。こんな有り様では舌を噛み切る気力もあるかどうか?
 脚の激痛にさいなまれつつその痛みから解放してくれる死もまた不快きわまるものとなりそうで、彼は床を必死に這いまわりながらも少しでも怪物から距離をとるべく空しい努力をつづけた。
 渦巻きつつ流動するような化け物の動きはすばやくはなかったが着実で、次第にクラカーシュは中央から台座の端のほうに追い込まれていた。やがてついにこれ以上退けぬ地点に到達し、泡立ちのたくる液状の怪物はいよいよ間近に迫って、クラカーシュがいよいよ舌噛み切るべく決死の思いを固めてふと例の五本柱の台を見上げると……なんと何時の間にか五つの柱すべてに淡い微光がまといつき、その間の空間が何やら半分物質化した透明な幕が張ったかのように鈍く光を反射しているではないか!
 ……「門」が作動しているのだ! とはいえすでに怪物は肌触れんばかりに迫り、仮に脚が無傷であろうとクラカーシュはそれを避けて柱の中に走るほどの俊敏さを持ち合わせていない。すべては手後れかと神官が諦めかけたとき、不意に五角柱状の強烈な光がひらめきその中から忽然と何者かの姿が出現したのである。
「……助けてくれ!」
 たとえそこへ現れたのが醜悪な魔物であろうと構わない気持ちでクラカーシュは叫んだ。
「こいつをおいはらってくれ!」
「――この巨大な柱から慮るにここは神聖大陸、デルレスの地下神殿にほかならぬぞ」
 虚空からのその来訪者は妙な、しかし聞き取れぬこともないアクセントでつぶやいた。
「ゾタクアの毛だらけの耳に誓って、ついに戻ったのじゃ!」
「門」の閃光で一瞬くらんだクラカーシュの目がそのときようやく、安堵と警戒、感謝と矜持の心をまぜあわせたような複雑な表情であらぬ方角を睨み立っている一人の老人を見分けた。
「こっちです。助けてください! ご老人!」
「はて? どこぞで呼ばわる声がする……」
「助けて!」
「おぬしか? いったい何をあわてふためいておる?」
 ようやくクラカーシュの存在に気づいたのか老人は振り向き、しかしなおもおうように落ち着きはらって答えた。
「おう――見たところひどい怪我ではないか。その下僕はそれを感知したがゆえに医療奉仕をせんとしておるのじゃ」
「ぎゃあ!」ついに液状の怪物にのしかかられてクラカーシュは悲鳴をあげた。皮膚に密着する怪物の触手の感触は無気味としかいいようがないのだが、しかしそうして間近に見るその体表は決して濡れているわけではないことに彼は気づいた。微細な光の波が瞬くごとくにその表面を走り回っているがために一見湿ったものであるような印象があるにもかかわらず、液体というよりむしろ冷たく乾いた流砂により近い。そのひと粒ひと粒が蜂の羽ばたきのごとき素早さで動き回る微細な粒よりなる砂の触感である。
 それはクラカーシュの腫れ上がった左脚をゆっくりと包み込むとそこでいったん動きを止め、つぎに何千何万の蜂たちが一斉に羽ばたくがごとき細かい振動をその全身から発しはじめた。
「……格別恐れるようなことはない。そいつはいま折れた骨をつないでくれておる」
 最初死の苦痛を覚悟した神官はかえって耐え難い骨折の痛みが次第にやわらぐのを知り安堵のあまり半分気絶しそうになった。
「それにしても閑たる有り様じゃの」
 老人はそんな神官の状況にはまるで無関心な調子であたりを睥睨している。クラカーシュはグロテスクにうねる怪物の表皮を恐ろし気に見つめつつ訊ねた。
「……あなたは一体どなたです?」
 白鬚の胸までとどく長さゆえにかなり年輩とおもわれるものの、しかし背筋はまっすぐに伸び、皮膚の張り艶も若々しく、眼光は炯々として射るがごとく鋭いその老人はそのクラカーシュの質問に一瞬とまどった表情を見せた。
「なんと? お前はわしを救い出すべく門を作動させたのではないのか?」
「い、いえ。わたしはここから脱出したい一念であれを出鱈目に操作してみただけです」
「ムンズイグオルムハー!」
 いきなり老人は大喝した。
「ただ出鱈目に動かしたと? するとおぬしがあの呪うべき異世界からわしを連れ戻しえたのはひたすら偶然のなせる技だというのか!」
 彼は手にした錫杖で床を激しく叩いた。
「わが書き残した記録を見ての試みではないと? すると弟子たちはわしを助け出す何の手だてもなさなかったのじゃな?」
 老人は鋭い目をクラカーシュに向けた。
「おぬしは古の神々によって確立された秩序を保たんとする者たちを弾圧する例の手合いの一味ではあるまい? そのくたびれはてたぼろ布同様の深紅の衣は古来より神官の証し。神聖なる国体を崇め奉ることこそ汝らが勤めのはず」
「いかにもわたくしはデルレス神宮殿に勤める神官、クラカーシュと申します。われらが奉る神は……」
 そこまで言いかけ彼はあの縦穴の中に見たものを思い出し思わず身震いした。
「ともかくわたくしは宮中では穏健派に属すると見なされておるようです」
「ふん! わが帰還を出迎えるわずかに一名の者が奴の手先でないというのはまずなによりじゃわい!」
「ところでご老人……いまだ御尊名をうかがってないのですが?」
「ふむむ! 今後二度と老人と呼ぶでないぞ。そして知るがよい。わしこそがかのエドムンドじゃ!」
 その声の調子からクラカーシュはひとつここで誤解を解いておいたほうがいいと決心して訊ねた。
「エドムンド……といわれますと?」
 どうやら別の反応を期待していた老人は一瞬怒髪天をつくかのごとき表情を見せたものの、どうにか思い直したらしくその肩をすくめ、
「いや、待て、待て。……人間どもの無知にいちいち腹を立てるのは馬鹿げておると何百年も前に諦観したはずではないか! わが失踪が帝国中に知れ渡って後、かなり長い時間が経過しているとすればわが名に親しんでおらぬ若輩がおったところで格別不思議でもないわい。はてさて、哀れにも空虚なるその頭でもよもやこの初歩的な質問に答えられぬことはあるまい。言ってみよ。いったい今はロクアメトロス帝紀何年になる?」
 このひとりよがりな問いかけにクラカーシュはいささか憤慨したものの、己の置かれた立場を思えば唯一頼みの相手と思い直し、惨めな思いで答えた。
「その“ロクアメトロス”というのはわたしの知るかぎり古記録に記された皇帝のおひとりの御名です。今上神皇帝はレリオン三世陛下。ロクアメトロス帝が即位されていたのはおよそ今から千二百年ほど昔……」
「イア・オフグルシュ・ムン! なんたること! なんたること!」
 老人は蒼白になって怒り狂い、いまにも彼が興奮のあまり泡を吹いて倒れはしないかとクラカーシュは本気で心配した。

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