「あまりに遅すぎたわい」
かつて神聖帝国に隠れもなき大魔道師エドムンド・ム・トゥーランであった老人は悲嘆をこめた声音で呟いた。
「すでにわが教えは時の彼方に忘却され、帝国はついにその魔道による支配力を取り戻すことなく潰え去ろうとしておる」
「記録によればあなたが行方不明になって間もなく皇帝の命によりエドムンド教団は老若男女ひとり残らず東の大陸の彼方、テュランの地へ追放されたとあります」
クラカーシュはなかば夢見るような調子で訊ねた。下僕がなにやら大量の麻薬らしきものを彼の血液中に投与したらしい。もぞもぞうごめく液体状の人工生命はいまもなお神官の身体を押し包んで泡立っていた。
「気の毒をした。みなわが教えを受け入れ神聖帝国再建のためにつくさんとしていた者たちじゃ」
不意にエドムンドは怒りに身をふるわせた。
「その蛮行を指示した者の名はわかっておる。あの宝飾を纏ったヒキガエル……法務官モルギめが若年の皇帝陛下を言い包めて行わせたことじゃ。奴は己の権益をひたすら守ることにのみ専念する愚かしい小心者。わが教団の活動が先々自らの地位を危うくすることを怖れての仕業に違いない。ああ、無念……われらの計画が成就しておればかかる帝国の没落は防げたであろうに」
「帝紀にはエドムンド教徒らは国家転覆を企てた危険なカルト集団と記されておりますが」
魔道師は激しく錫杖を床に打ちつけた。
「事実は逆じゃ! われらこそが散逸衰退する魔道の知識を集積編纂し後世のために保存すべく唯一の組織であり希望であった。われらの目的は皇帝陛下への反逆にあらず。ただひたすら神聖帝国魔道百科大事典を編さんすることのみ!」
とろんとした目つきで神官はうなずいた。
「なるほど、たぶんあなたの仇敵であるその法務官とやらはデルレス宮の魔道師たちが皇帝陛下への影響力を増すことを怖れたのでしょう。今でも赤衣と黒衣の対立は続いておりますからな。そのあたりの確執は理解できます」
「その万古変わらぬさもしい縄張り根性こそまさに傾国の凶因!」
憤まんやるかたなしといった有り様で立ち尽くしていた魔道師であったが、やがて大きく溜め息を吐き、ひどく疲れた様子でその場に座り込んだ。
「……何もかも手後れじゃ。千二百年もの時を隔て腹をたててみたところで、もはや無益なことじゃわい……」
「――そこは土星の周囲を巡るあまたの月のひとつであった」
大魔道師エドムンドは自分が久しく幽閉されていた世界をそう説明した。
「迫る兵士どもに追われ、わしはそうした緊急時にそなえかねてから用意していた門を潜った。そこをあの馬鹿な魔道武官はすぐ後から飛び込んでくるやいきなり捕縛の呪術を発動しおったのじゃ。衆知のとおり門の回廊内部で魔力を使えば破滅的な結果が生じる。魔法子の飛跡が門の作動を不安定にするからの。奴めよほど頭に血が上っていたとみえる。当然ながら回廊は切断され、わしらは並列する可能性世界のうちのひとつにはじき出された。すなわち別の時間別の空間におけるかの衛星に設置された一方通行の門へと送り込まれてしまったのじゃよ」
島流しの暮らしに人恋しさがつのっていたのであろうか、しばし悄然と座り込んでいた後、この誇り高い魔道師は“下僕”の治療を受けている神官のかたわらで、いままた己が異世界に送り込まれた経緯について語りはじめた。
「並列する可能性世界……?」
「クシュ! おぬしも神官である以上魔道についてひととおりの修行を修めていように! どうやらこの時代の知識の拡散と喪失は著しいものがあるようじゃ。すべてはわしが怖れていたとおりに進んでいく。歴代の為政者たちの無為は許し難し!」
魔道師は不快そうに白鬚をひねった。
「申し訳ありません」
半分夢うつつにまどろみながら神官は幾世代に及ぶ先行者たちのかわりにわびるはめとなった。
魔道師の話によれば蕃神たちは(エドムンドは古の神々をそう呼ぶことを好んだ)可能性の次元にいたる延長を持つ五次元的存在であり、そのテクノロジーもまた並列する多世界を自在に往復する原理にもとづいている。そもそもこの地上に溢れるあらゆる生命そのものがそうした五次元的存在であると言ってよい。すなわち生命は身体的延長として縦、横、高さ、並びに時間的な延長を有しているのみならず、自らの存在を多様な可能性のなかから選び取っていくという本質を持っているからである。
しかしそうした可能性から生み出された複数の宇宙を自在に移動できるのは蕃神たちのみである。われわれ人間は蕃神のテクノロジーの助けを借りぬかぎりはそうした並列宇宙を行き来することはできない。すなわち並列世界とは生命が選び取る複数の「ありうべき歴史」のもとに進化してきた別の時間系列に属する諸宇宙であって、そこでは歴史はわれわれの宇宙のそれとは若干違っているのである。
「その宇宙ではかの衛星上に原始的生命が発生しており、蕃神たちはそれを制御させるべく自律的な研究施設を設置していた。もともと人間のための施設ではなかったのじゃが幸いにも水や食料を合成する装置を発見し作動させることで生きるに支障はなかった。とはいえいかにも退屈極まる生活であったから、連れの武官などそのうち気がふれ猛毒の大気中に飛び出して行ってしまいよったぐらいじゃ!
あやうくこちらもそうならんとも限らないところであったが、幸いわしには微かながら希望があった。わが魔道の研究記録をこちらの世界に残してきたから、いつの日にかそれを読み解きあかした弟子たちの手によってふたたび門が開かれるに違いないと信じておったからじゃ。それが日々を耐え得るものにしてくれた。そうして長い月日を孤独のうちに待ちつづけるうちに果たしてついに門が作動する日がきた」
エドムンドは神官に感無量の思いを込めた眼差しを向けた。
「御主がでたらめに調整したことにより幸運にも並列宇宙の壁を超えた共鳴が生じたのじゃ。わしは取るものも取りあえず門にとびこんだ。てっきり弟子達がわしの残した記録をもとに門を作動させたと思うてな」
自分の必死の操作がもたらした偶然にクラカーシュは苦笑しながら言った。
「確かに“エドムンド書”と呼ばれる経典が神宮殿には保管されております。それは古文書でも最も古い禁書のひとつです」
魔道師はがっくりと肩を落とし、
「いかにもそのとおりじゃ。わしは五次元時空においてふたつの並列宇宙の時間の流れは必ずしも同調しているわけではないということをすっかり失念しておったよ。あちらで過ごした十二年の月日はこちらの世界では千二百年に相当していたのじゃ!
……千二百年とは! 下僕ども相手に過ごす十二年間でさえうんざりするほどの長さと感じていたが!」
おのれの時代から遠く切り離され見知らぬ世界にひとり失意の表情で座り込む痩身のこの老魔道師に対する同情をクラカーシュは禁じえなかった。
「……あなたの言う下僕とはこの粘性の怪物のことですね?」
「さよう……そいつは極めて微細な部品から成る自動人形のごときもの。一定の外形を有しないのは多目的に使役させるがためじゃ。――なに知性は大して高くはない。蕃神どものつくり出したいまひとつの使役奴隷に比べれば実につまらぬ存在じゃ」
「わたしはてっきり人肉を食らう怪物と思うておりました」
神官は周囲の床に散らばる人骨を横目で見ながら言った。
「ふむ、思うにあれらの骨は足を滑らせここに落ちてくるまでの間に死んだ者たちじゃろう。骨折だけで済んだおぬしはよほど運がよいということじゃな。いくら下僕でも死者を蘇らせることまではできんし、また人間の死骸を勝手に始末することも許されてはおらん。やむなく朽ちるにまかせておるに違いない」
クラカーシュはほっと息をついて治療に専念している怪物の泡立つ表皮の活動を見つめた。麻酔のおかげかあるいは慣れというものか、その目に見えぬほど微細な蟻が絶えまなくうごめいている有り様はさほど無気味とも思えなくなっていた。
「はて、そう言えば先程いまひとつの使役奴隷とおっしゃいましたが……まだ別の化け物がここにはいるのでしょうか?」
魔道師は呵々と笑った。
「おるとも! はるかに凶悪かも知れぬ輩がの。すなわちわしやおぬし……人間こそ彼ら旧支配者によって創造されたもっとも有能なる僕にほかならぬぞ」
麻酔による夢見心地のなかにいてもなおクラカーシュは驚き混乱した。
「われわれ人間がこの下僕同様に作り出されたのですって? 申し訳在りません。到底理解しかねるのですが……」
「呪われしコモリオムよ! 知恵は絶えて久しきかな……そもそもの初めから語らねばならんとは!」
魔道師は再び立ち上がり、
「このような事態は我慢がならん。卑しくも御主は誇りあるデルレス神官ではないのか? まるでハイボリアの蛮族どもを相手に説いているような心地がするわい!」
「もうしわけございません」
ふたたび激昂しそうな老魔道師を温厚な神官はひたすらわびるのみである。そのぼろぼろの紅衣をまとった怪我人の有り様に怒りを削がれたかエドムンドは不興の向け所を失ったかのように神聖ゾディアックの象眼細工の床を苛立たし気に往復しつつ呟いた。
「……いや、御主のせいではない。すべては千二百年前の悲劇のしからしむるところじゃ。罪はかの赤衣のヒキガエルめにある。蕃神の最後の一柱がデルレスの神殿で死の眠りについてすでに五千年におよぶことを思えば末世の帝国臣民が俗信のうちにとらわれていても無理はない」
そうして魔道師はひとつ深いため息をつき、神官にむかって驚くべき物語を語りはじめたのである。
――久遠の昔彼らは天空を自在に飛翔していた。天駆ける巨船の懐深く、大宇宙の歴史にも匹敵する長命強大なその種族さえも脅かす数々の真空の脅威から守られて、安寧の眠りのうちに過ごす彼らにある時突然の悲劇が見舞った。今となっては慮ることすらかなわぬ小さな過ちがきっかけであったのだろうか、こともあろうに天空船は誕生間もない星雲系に迷い込み、不運にも灼熱した遊星のひとつに激突してしまったのである。
この想像を絶する衝撃は船を粉々に粉砕し遊星から巨大な月を引き干切るほどのものであったのだが、それでも彼らはこの天文学的な惨事を生き残った。なぜなら彼らは四次元宇宙に限定される存在ではなく精神的、霊的な次元延長を有したからである。とはいえすでに物質としての身体を失った以上は星々の間を自在に移動することはかなわず、半覚醒的な意識としての彼らはしだいに冷却するこの遊星領域に封じ込められてしまった。
それから数億年の時が流れ、かつて灼熱の溶岩の塊であった星はその表面に膨大な量の有毒な海水を保持するに至った。これらの化学溶液中の反応は巨大な月の潮汐力も作用してそもそも複雑にして怪奇なものであったが、そこには自然に期待される偶然を越えたある力が存在していた。すなわち再び物質的身体を回復せんと望む異次元の半覚醒存在が、無意識のうちにそれらの有機的反応に影響を及ぼしていたのである。
もちろんこうした霊的な力は非常に微弱なものであったから直接物質の因果的運動や相互作用を支配することはかなわず、ただ大数法則性のうちに望ましい反応をわずかながら促進し、望ましくない反応はこれをかすかに抑制することが可能なのみであった。それでも恒久の時の流れは彼らに味方し、数億年の後ついに海洋は自己増殖する原始的生命によって溢れた。そしてそれらは物質の背後に影のごとくつきまとう超次元から及ぼされる神秘の作用力のもと、次第により複雑な形態へと進化しはじめたのである。
あるときは無数の奇怪な生命の類型が海中に満ち溢れた。しかしたちまち物質宇宙の苛酷な法則ののがれられぬ淘汰を受けより洗練された少数の形態へと選別されていった。またあるときは全惑星的規模の天変地異のために数知れぬ生命形態が死減した。しかし何時の場合も超次元からの霊的援助を背景に、底知れぬ強かさを発揮してこの星の生命は絶滅の危機からすみやかに復活すると、再び世界を我が物とし以前に増して繁栄したのである。
やがてこうした生命存在が容易には損なわれぬほどの十分堅固な身体を獲得するとともに、超次元の霊的存在はこれら限定された意識へその意志を除々に浸透させていった。それにともない反作用的に彼らの半覚醒的意識は物質宇宙の法則性を受け入れ、時空的分節を得、作用する主体と反作用する客体とを分かち、より覚醒したものへと推移していった。とはいえこうした素朴な意識形態への侵入の段階では、かつて彼らが我がものとしていた膨大な精神力と知覚力と悟性とを獲得するまでには到底至らなかったのだ。
かくて漠然とした目的意識のもとに彼らはこれら生命形態の進化を加速し、より複雑多機能かつ適応性の高い身体を獲得すべく努め計ったのであるが、それは彼らをして再び星々の間の無限の空間を飛翔する至高の存在の座に復帰させる、それが唯一にして無二の方策であったからである。こうして例えば太古の海中世界を支配する強力な頭足類として、あるいはより敏速に移動し海水のみならず河川へも進出できる魚類として、さらには陸上歩行可能な両性類、あるいは爬虫類として、あえかに夢見まどろみつつ、彼らは次第に自らの意識のより高度な覚醒を目指した。
あるときは長い頚を有する水中爬虫類、あるいは自在に天空を滑空する翼竜、さらには強大な下肢と牙を持つ肉食竜……彼らはこの惑星の支配的種族の身体意識を己のものとして活用し続けた。それゆえにこれら各生物種の身体構造において、精神的超次元との共鳴の中枢たる神経系が漸次的に発達していったのは、決して偶然ではないのである。
長く地上に君臨した爬虫類種族の絶減から数千万年後、樹上生活を営む恒温生物からようやく最終的に意識的身体的に僕として使役するにたる二足歩行種族を創造した彼らは、主としてその夢を通じて働きかけることでこの種族に宇宙の様々な相にともなう資源と力とを操る技を伝えた。そして偉大な存在の導きと庇護のもと被造使役種族は地に溢れ栄え、やがて現在人々に失われた神々の国として知られる超古代文明を作り上げたのである。
「そこに至ってついに彼らは最後の目的であるひとつの計画を作動させた。すなわちはるかな昔に破壊され失われた彼らの物質身体を復元し、そのなかにふたたび意識と悟性と意志とをあわせ持つ存在としてこの地上に復活することじゃ。
かくしてこの僕の協力のもとついに数十億年ぶりに神秘の技もて再生された己の身体のなかで目覚めた彼らは、しかしそこで思いもかけぬ事態に遭遇し慄然としたのじゃ……」
クラカーシュは息をのんで魔道師の想像を絶する時間的規模の壮大なる叙事詩にただただ聞きいるのみであった。
「――地質学的年月にわたる意識的融合の営みの繰り返しがある致命的な影響を自らに与えていたことに彼らは気づかなかったのじゃ。すなわち度重なる多種多様な生物への侵入が彼らの意識形態そのものを次第に蚕食して、その昔天空を飛翔していた時代に纏っていた自らの姿をすでに彼らはすっかり忘れ去ってしまっていた。それに代わって新たに得た自己の身体イメージはいままで彼らが乗り次いできたあらゆる種族の組織器官を無秩序に繋ぎ合わせたこの世のものとも思えぬ複雑怪奇なものへと堕していたのじゃ」
エドムンドは皮肉な、しかし微かに悲しみをも含んだ眼差しを頭上に向けた。
「知らぬうちに彼らはまさに醜怪きわまりない怪物となっていたのじゃよ。そしてそれは彼らがふたたび故郷であるあの星々の間の自由な天空に戻る夢を永久に果たせぬであろうことをも意味した。なぜなら物質的な宇宙の姿はそれを思惟する意識的存在の身体性を必然的に反映するからじゃ。
頭足類の宇宙はその多数の触手によって操作される対象、その体躯の中心に位置する口腔、それに続く消化器系、あるいは知覚器官に接続する神経系、それらを統合する中枢といった物質的身体構造に基づく独自の内的意識体験のうちに形成される。ところがそれが彼らのうちでは魚類や両性類や爬虫類の暮らす宇宙と分かち難く融合してしまっていたのじゃ。
すなわち怪物の知覚する世界は畢竟怪物的な――救い難く矛盾し歪んだ異世界であった」
この脱出不能の恐ろしい罠に直面して彼等の多くは絶望のはてに発狂した。そしてさらに歪んだ精神をもつ邪悪な怪物に堕落しつつ世界を破壊し互いに殺し合ったのである。海洋が裂け山脈が崩れ大陸が沈む恐怖の時代は数千年に及び、地上からはあらゆる超古代文明の痕跡を拭い去った。
最終的にその昔惑星との衝突において彼らを救ったあの超次元的防衛手段によって破壊を免れ生き残った唯一の大陸の、その主都神殿に狂った存在の最後のひとつを封印し、ここに至って彼らは残された最終手段にうったえるほか道がなくなったことを悟った。それは超人的な努力によって自らの意識そのものを分断し、いままで獲得した世界認識と身体イメージをいったん深い眠りのなかに忘却したうえで、生き残ったこれら被造種族たちの身体に自らの自意識のもっとも深奥の中核部分をのみ移植することであった。
そこで彼らは多大の犠牲をともなう自己分裂の苦痛を通過した末に相貌を持たぬ変幻自在の、しかし暗愚な存在となってその新しい種族の身体と意識に寄生し、また融合したのである……。
「もう言うまでもなかろう。あの暗黒の太母ドオルこそそうして分割された集合無意識的存在の現し世の姿。以来彼らは僕たる人間の身体、精神と融合を重ね次第にその性質に旧支配者のそれと同じ天空を歩む者としての意志と誇りとを注ぎ込んできた。すなわちわれら人間は僕にしてしかも自らの主。おぬしたちが今日邪神にかかわる神話として聞き及んできた数々の混乱矛盾した説話の、真実の姿とはおよそかかるごときものじゃ……」
「おお、いまこそ得心いたしました」
クラカーシュは叫んだ。
「……なぜあの聖塔の眠れる巨神があれほどの絶望と憎しみと狂気とに苛まれているかが! そのような想像を絶した地質学的年月にわたる果てしない忍従と絶えまのない努力のはてにようやく獲得した身体が、あれほど醜くうとましいものであったとすれば……この宇宙の森羅万象を狂おしく憎悪するのもうべなるかな!」
「まことに然り……とはいえ先程おぬしが話したことのなかで気にかかることがひとつあるのじゃ」
エドムンドは懸念ぶくみの口調でそうつぶやき、クラカーシュがこの地下空間に落下する前に聖塔内部で目撃した光景について再度問いただした。
「なるほど、……おぬしが見たその男は明らかに下僕がその身体の代謝を世話しなければならぬほど深い眠りの状態にあるようじゃな。そしてこのような邪悪な波動に曝されつつそうして長期間睡眠状態にあるなら、やがてその者は自らの意識をねじ曲げられ別人のごとく変容させられもしよう。これが何を意味するかはあきらかじゃろう?」
「と申しますと?」
狐につままれた面もちの神官に老魔道師はつくづく鈍いよのという表情で頭を振り「わからぬか? つまり何者かがこの宮殿内の人々を密かに一人ずつジッグラトに導き入れそのように洗脳をほどこしておるやも知れぬということじゃよ」
クラカーシュは驚愕して訊ねた。
「洗脳ですと!?」
「これを施された者はその心を完全に支配されてしまう。己の意志に従っておるつもりで実は傀儡として自在に動かされておるわけじゃ。しかも悪いことに外見からはまったくそれを感知することはかなわぬ」
「そのような邪悪な犯罪行為が密かに行われ、なおかつその犠牲者を知るすべがないとは……」
神官ははっと気づいて身を起こそうともがいた。
「ということは、すでに何人もの宮廷人たちがこの邪神の思念に汚染され洗脳されているかも知れません。ああ、何とゆゆしきこと……まさに帝国の存亡にかかわる一大事」
「ようやく理解したの」
「急進派の連中の他人の論を入れぬ妙な意固地さがずっと疑問だったが、いまこそ真実が分かり申した。あるいはエズダゴルこそその張本人でしょうか?」
「それはわからぬ。彼もまた単に操られているだけかもしれぬ」
「なんの目的で? 何のために邪神は人々を洗脳するのです?」
「無論、自らを解き放つため。彼らは眠れる邪神のよこしまなる意図に支配されておる。もしもこののち彼らが神宮殿を支配するようなことが起これば必ずや邪神を封じ込める結界の封印がうち破られる事態となるであろう。そうなれば世の終わりじゃ……おや! これはどうしたことじゃ?」
魔道師は急に立ち止まり彼方を見すかしながら言った。
「なにやら武装した者どもが大挙こちらに急ぎおる。剣を抜きはなっているところを見ればわれらを殺傷せんとする心づもりとも思える。あるいはおぬし謀反でもくわだて追われておるのか?」
クラカーシュは上目づかいに魔道師の眺めている方向を見た。確かにうす闇のなかをいったいどこから出現したのか多数の兵士が武器を手に走りよってくるではないか。
「まさか。わたしはデルレスの神官。追われるような理由はなにひとつありません。しかもあの甲冑は神宮殿の衛兵たちの装備。彼らはむしろわれわれを守るのが仕事のはず」
「しかし現にああして弓矢を構えておる。ということは物言えば魔。どうやら邪神に支配された兵士たちのようじゃな」
エドムンドは錫杖をつき立ち上がりながら言った。確かによく見れば男たちの様子は尋常ではない。冷静に職務を遂行する職業軍人の態度にはあらず、まるで憎しみにかられてふたりを八つ裂きにせんとする暴徒のごとくである。
「おそらくわたしの跡を追ってここまでやってきたのでしょう。あの時思わず上げた悲鳴をエズダゴルに聞きつけられたに違いありません。おそらく奴が放った刺客たちです!」
麻酔の効果でともすれば非現実感に閉ざされそうになる意識を奮い立たせクラカーシュは「門」の柱の陰に後ずさろうと試みながら叫んだ。
迫りくる兵士たちはどうやら仁王立つ魔道師を先に始末しようと考えたらしい。そうして自分に向けて男たちが弓に矢をつがえ引き絞るのを落ち着きはらって見つめつつ、エドムンドはすばやく口中で呪文を唱えるやさっと片手をのばした。つぎの瞬間、あたり一面に青白い閃光と鋭い爆発音が生じ、男たちはあっと叫んで弓を取り落し何かに突き飛ばされたかように背後に倒れた。
「神聖大陸に並ぶ者なき大魔道師エドムンドに一兵卒の分際で弓ひくとは身の程知らずにもほどがある。これでだいぶん懲りたろう」
なんとも言えぬ匂いが立ちこめるなか鼻の頭に皺をよせながら魔道師はつぶやき、ついでハスターの門に駆け上ると柱の装飾を慣れた手つきでつぎつぎに調整しはじめた。
「いまのうちに座標を定めるぞ。この世界には必ずやまだ他に門が存在するはずじゃ!」
「わたしはどうすればいいんです? この化け物に取付かれていては……」
魔道師が「クトゥシュ・ムイル・ドゥーパ」と聞こえる言葉を叫ぶやいなや液状の下僕は神官の身体からすみやかに後退し床の上に無気味な液滴のごとくまるまってぶるぶると震えた。
「よろしい。共鳴が成立した……場所はどこかわからぬがそう遠くでないことを祈ろう」
突然眩しい光芒が五本の柱を貫いて駆け上がり、空中でオーロラのごとき虹色がめくるめく乱舞する。ハスターの門の内部にプリズムに似て揺らめき彩りを変化させる半ガラス状の空間領域が出現した。ほとんど同時に兵士たちが立ち上がり殺意に顔を歪め剣を抜きはなって押し寄せてくる。
「もう骨もついたことじゃろう。さあ、わしにつかまれ」
エドムンドは叫ぶとクラカーシュに駆け寄り腕を持って立ち上がらせた。
「感謝いたします。魔道師殿」
「イムズハー! はるばる異世界から連れ戻してくれた恩人を見捨ててもいかれまいが」
彼らはそのままハスターの門の不可思議な法則が支配する空間へところがりこんだ。
(第2部 魔道師の帰還 おわり)
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