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シャンダイア物語

第三部 海洋民族の島
第二章 海の都

福田弘生

 航海二十六日目

 今日は朝から不思議な出来事を体験する事になった。海の精霊ホックノック族の一人が船にやって来たのだ。外見はとてもチャーミングだが、どうやら私達とはまったく異質な種族のようだ。
 今夜、彼女達の女王が迎えに来るという。私はエイトリ神の英知がつまっている巻物に何度も目を通したが、ホックノック族についての記述は無かった。エイトリ神はリラの巻物がカラマドールのアイシム神の像から叩き落とされて、そこから逃れてサルパートに着くまでの間に時に海の上をお通りにはならなかった。海に関する知識が巻物に書かれていないのはそのせいかもしれない。だが私は今、海の上にいる。この巻物の空白を埋めてゆくのがリラの巻物の守護者である私の使命だと思う。
 ああ、ふと気がつくと、今日は船の中がとても静かだ。

(スハーラ・レリスの航海日誌より)

 明るい三日月が雲を縫って、星がいつもより遠く見える夜。カインザー大陸の中部に位置する大都市セスタにあるクライバー男爵の邸宅には、星を追いやる程の灯が燦然と灯され、楽しげな笑い声が広い庭園まで漏れていた。最も暑い季節が終わったばかりで風もようやく涼しくなり、開け放たれたベランダからは草木のすがすがしい香りが屋敷の中にまでただよってきている。明るい部屋の中、十歳を迎えたアーヤ・シャン・フーイの誕生パーティは仲間達の楽しい語らいの中で進んでいた。パーティを取り仕切る若く美しいクライバー男爵夫人のポーラと、厨房を取り仕切る温和なアシュアン伯爵夫人のレイナのコンビネーションは抜群で、客達の目と耳と腹はたちまち時間を忘れた。
 パーティと言っても、ごく一部のアーヤに親しい友人たちばかりだったので、ベリック王の身代わりのダンジという名の少年もその場には招待されていた。アーヤが見ると、ダンジはクライバー男爵の跡取り息子のアントンと楽しそうに笑いながら何か話している。この二人は数ヶ月の間にすっかり仲良しになっていた。ダンジは本物のベリックには及ばないが、バルトール人の少年らしく賢く抜け目が無かった。一方アーヤより三つ年上のアントンは、今日は濃い青の服で盛装をして周りの人々に頼もしさを感じさせる程に大人びて見えた。
 それはどこから見ても完璧な誕生パーティーだった。でもその夜、主役のアーヤ・シャン・フーイはとても孤独だった。いや、いつも誕生日は孤独な思いがするのだ。
(だって今日は私が本当に生まれた日じゃない。マルヴェスターおじいさまが三歳だった私をつれてマイスター城に現れた日なんだもん。本当にその時三歳だったかも怪しいわ)
 アーヤは甘いお茶のカップをもってベランダに出る扉を開けた。風に吹かれて白い巻髪が軽やかに揺れ、紫のドレスからはピンクの靴下がのぞく。遠くにはセスタの町の中央公園の灯が見える。この街は夜でも賑やかだ。
 アーヤがコトコトと靴を鳴らしてベランダに出ると、そこには先客がいた。
「ご気分はいかがですか、レイディ」
 夜露に少し湿った手すりにもたれて、バルトール人のクチュクが立っていた。今日のクチュクはゆったりとした服に豪華な緑の帯、赤い上着に柔らかな布の帽子をかぶってニコニコと微笑んでいる。この男はベリック王の側近フスツの手下で、王の留守中にベリックの身代わりのダンジの補佐をしている。アーヤは顔をツンとあげて丸い体形の地下商人に近づいた。
「クチュク。ベリック王は今、どこにいるの」
 クチュクは右手で酒のグラスを捧げるようにして、アーヤに向けて首をかしげた。
「それは申し上げられなくなりました。北の将ライバーの要塞が落ち、サルパートが解放された事によっていよいよ戦場がソンタール本国に近づきました。うっかりベリック様の居場所が漏れるとその身に危険が及ぶかもしれません。というか、実は私も知らないのです」
 アーヤはカップを持っていない片手を腰にあてて、クチュクを睨んだ。
「嘘おっしゃい。あなたは今のところ、このカインザーにいるバルトール人の総元締めでしょう。あたなが知らないで誰が知っているというの」
 クチュクは左手を口に当ててホホホと笑った。
「おそらく、サルパートのマスター・モント。そして」
 そこまで言って太ったバルトール人はグラスの酒を一口含んでアーヤにウインクした。
「たぶん、ここカインザーのマスターもご存知のはずです」
 アーヤは驚いた。
「カインザーのバルトールマスターが決まったの。それは誰なの。私も知っている人かしら」
「それはいずれお判りになるでしょう」
「意地悪いわねえ、教えて頂戴」
「いいえ、私の口からは申し上げられません。しかしご安心ください。時期が来れば間違いなくアーヤ様もお知りになるはずです。あなたはどうやらシャンダイアの重要人物のようですから」
 アーヤの灰色の瞳が一瞬白くなった。クチュクは少しおびえたような表情をしたが頑張って持ちこたえた。そして、おそらく類いまれな美しさになるであろうアーヤの整った顔を興味深そうに見つめ返した。
「ベリック王に警告されております。あなたの瞳が白くなった時に気をつけるようにと」
「クチュク、隠し事はやめましょう。私について何か知っているの」
「それを調べるようにとの、王のご命令です」
「わかったわ、一緒に調べましょう。私も自分の事を知りたいの。園遊会に現れたザイマンのマスター・メソルは私の素性を知っているようだったわ」
 クチュクが酒を持つ手を止めた。
「ほう、それは知りませんでした。重要な情報です」
「ねえ、マスター・メソルって何者なの」
 クチュクが何かを話そうとした時、ベランダの扉をコツコツと叩いて、いつのまにか来ていたアントンが二人に呼びかけた。
「アーヤ、クチュク。メインのお料理がきたよ。早く中へ」
 後ろからレイナ伯爵夫人も年齢のわりには皺の無いつやつやした顔を出した。そしてエプロンで手をふきながら言った。
「美味しい小羊のお肉よ。でも食べ過ぎに気をつけてね、私のように素敵なスタイルになっちゃうから」
「はーい。席を外してごめんなさいね。ちょっと外の風にあたっていたの。クチュク、また面白いお話を聞かせてね。あ、そうだアントン。フオラにもお食事をあげたかしら、今日はご主人様の誕生日なのだから彼にもこの幸せを分けてあげたいわ」
「もちろん。今日の干し草は角砂糖入りさ」
「すてき」
 アーヤはそう言うとキャアキャアとはしゃぎながら、レイナに肩を抱かれるようにして部屋の中に入って行った。それを見送ったアントンはクチュクと二人になった。カインザーの誇りであるクライバー男爵の若き後継者はクチュクの隣に並んで手すりに背をもたせた。
「アーヤは何か言っていたかい」
「マスター・メソルがアーヤ様の素性を知っているかもしれません」
 アントンは唇に人差し指を当てて少し考え込んだ。
「こんな事をしていいのかなあ。マルヴェスター様がそのうちに教えてくれる事だと思うんだけど」
「しかし、マスター・マルヴェスターは現在遥か北方のバルトールの旧都ロッグに向かっている所です。アーヤ様を守ろうにも、情報を集めなければ起こりうる危険の可能性を予測出来ません」
「そうだね。よし、セントーンのマスター・リケルに連絡を取ってセルダン王子にこの事を伝えてくれ」 
 クチュクは自分より三まわりくらい小さい指導者を見つめた。
「アーヤ様に特別な護衛をつけたほうがよろしいでしょうか」
 若いマスターは首を振った。
「いや、バルトールの護衛が付けばバルトールの暗殺者が気がつく。今のところカインザーの人達の中にさりげなくいたほうが安全だろう。マルヴェスター様の養い子という事実がある程度の保護になってくれるはずだ」
 そう言うとアントンは、部屋の扉に歩み寄ってノブに手をかけて振り向いた。
「さて、僕はまだ学ばなければならない事がたくさんある。人の正体を調べるにはまずどこから始めたらいいんだ」
「それはもちろん」
 クチュクは真面目な顔でアントンに近づいてささやいた。
「本当の名前をつきとめる事から始めるのです」

 満天の星の下、ブライスの船団は速度を落として海上にただよっていた。セルダン、ブライスをはじめ、主立った者たちは前方の甲板に立って海を見つめている。五隻の船の甲板には、船に乗船しているほとんど全ての者が出ていた。船団の先頭を進むブライスの旗艦の船首に立っていたセルダンは、この航海でようやく見慣れた夜の海面に目をこらした。満月の下で見るとそれはなめらかな黒い大地のようにさえ見える。セルダンはやけに落ち着いた様子で横に立っているブライスに話しかけた。
「ブライス、海は広いな」
「なんだ、突然」
「二年前。父が西の将マコーキンと戦っている頃。僕の頭の中には二つしか国が無かった。カインザーとソンタールだ。でも戦い続けているうちにいくつもの国があることを知った。そしてさらに人間以外の集団がある事も知った」
「ああ。小さな意味で言えば、あのテイリンという若い魔法使いが率いているゾック達も一つのグループだ。そして大きなものではこれから出会うホックノック族だ」
 ブライスは太い両腕を組んだ。
「ホックノックは、バステラ神が姿を隠した時にアイシム神が集めた言葉を話す動物達の一つだった。ただ彼らの住む場所は深い海の底なので、コウイの秤の安定を保つ任には向かなかった」
 セルダンは月光に照らされたブライスの横顔を見た。
「人間も向かなかったね。結局三千年もの戦争を生み出してしまった」
「まあな。さて、どうやら海の女王のお出ましだ」
 ブライスが船団の前方の海面を指差した。甲板に並んだ人々の間からオオというどよめきがあがった。セルダン達が見守る前で広大な範囲の水面のすぐ下の水の中を無数の光が走った。その範囲は船団全体を包むほどだから一キロ四方位はあるかもしれない。白と黄色の光が集まっては散り、大きな円を描くかと思えば真っ直ぐな列になって点滅した。
(水の中をどうやってあれだけ早く動いているのだろう)
 セルダンはあまりの不思議な光景に息をのんだ。ブライスが光の点滅している範囲に向けて手を振った。
「光る点の一つ一つがホックノック族だ。海の力を引き出しているんだ。おそらくこれから、彼らが動いている範囲全体に異変が起こるはずだ」
 無数の光はセルダン達が見守る中で円のように広がった。そして光が広がった後の水面が逆に漆黒の闇に包まれた。やがてその中心部あたりの水中にボウッと淡くて丸い大きな光が宿り、叙々にその円の形が鮮明になってきた。光は次に縦に細長くなり、明るさが弱まると白い人影が真っ直ぐに海面に立っていた。その人影は昼間に会ったチッチ・ヒッチと同じ粘膜質の透明な羽を体に巻きつけていて、その羽をゆっくりと広げた。
「蝶のようね」
 いつのまにかブライスに並んだスハーラがささやいた。スハーラの白い衣装が月光の下で透明に近く見えた。その姿を見てゴクリとつばを飲み込んだブライスが説明を続けた。
「ミッチ・ピッチはこの星の最初期の生物なんだ。初期のホックノック族は皆ミッチ・ピッチから生まれた。蜂で言えば女王蜂だな。その後、男と女が十分な数になってから交尾で子孫を産むようになったんだ」
 セルダンは意外な感じを受けた。初期の生物はみな怪物だと思っていたのだ。
「じゃあ、巨竜ドラティや巨大な狼バイオンと同じだ」
「まあ、そうだ」
 海の蝶のように美しい女王ミッチ・ピッチの体がそのまま真っ直ぐに海面から宙に浮いた。一瞬本当に飛んだのかと思ってセルダンがよく見ると、首の長い生き物の頭の上にミッチ・ピッチが立っているのがわかった。
「竜だ」
「海竜だ。俺も初めて見るが、ゼネスタと呼ばれる海の女王の友人だそうだ」
 ミッチ・ピッチの柔らかそうな羽がさらに大きく開いた。
「きれい」
 スハーラがため息をついた。ミッチ・ピッチが静かに両手をあげると、海面に流れていた光が五隻の船団の前に二筋の道になって続いた。そしてその二筋の光の間の海面が徐々に窪んで坂のようになった。ブライスの船団は坂になった海を下るようにして海の中に入って行った。セルダンは驚愕の面持ちで巨大な坂になった海面を見つめた。
「精霊ってこんなに凄い力を持っているの」
「いや、これは精霊の力じゃあ無い。海自体に元々この力があって、それに精霊が依存しているんだ。ホックノック族は海の力を引きだしているだけだ」
「よくわかんない」
「俺にも理解できない。だけどそういう事なんだ」
 蒼白な顔をしていたスハーラは胸に巻いた帯の中のリラの巻物に手を当てて祈っていたが、たまらずにブライスにしがみついた。ブライスは大きな胸で受け止めた。
「そんなに怖いか」
「私は山育ちですから、海の中に入るなんて考えたこともありませんでした」
 ブライスは笑いながらスハーラを太い腕で抱きしめた。
「俺がサルパートの峰に登った時も同じだったさ。雪山に登るなんて思いもしなかった。だからサルパートを行軍している間中、頭がおかしくなるかと思うくらいに不安だった」
 スハーラはブライスの胸にうずめていた顔をあげた。
「どうやってその恐怖を我慢したの」
「君の事を考えていた」
 スハーラは笑ってブライスの胸を叩いた。
 甲板の先頭に立っているセルダンの視線が海面を見上げるようになった頃、坂はそのまま筒のようになって船団を包んだ。セルダンはこれ程壮大な光景をもう見ることはあるまいとさえ思った。直径が1キロメートル近い海水のトンネルの中をザイマンの船団はすべり降りてゆく。トンネルは船団の後方で轟音をたたて崩れて閉じた、前方は中心部から押し開かれるように渦を巻いて開いていった。そのトンネルの内側は天井も底も、そして左右の壁も無数の光で彩られている。ホックノック族が輝きながら海水を引っ張って広げているのだ。やがて突然に渦を巻いていた前方の海水の壁がザアアッという音をたてて崩れると、そこには一転して静かでおだやかな海底の海があらわれた。
 一行が目を丸くして見つめる中、船団はその静かな海に入って行った。船団の後方でトンネルが閉じ、セルダンが見上げると広大なドームのような海水の天井があった。天井全体が淡く光ってドーム内全体を明るく照らしている。もしかしたらその光は無数の光る生き物達なのかもしれないとセルダンは思った。
 やがてブライスの船団の前方の海上に、珊瑚のような形をした奇妙な都市が現れた。セルダンがつぶやいた。
「トンポ・ダ・ガンダ、だっけ」
「ああ、すべての流れが行き着く都。海の中の海の中心、海底都市トンポ・ダ・ガンダだ。ここには十万と言われるホックノック族のすべてが住んでいるはずだ」
 都市はかなり大きいようだった。そして都市の向こうのほうに青と赤の巨大な柱のようなものがドームの天井まで続いているのが見えた。ブライスに聞いてもそれが何なのかはわからなかった。
 船団は湾のようになった陸地に接岸した。海の生き物の都には船も港も無い。
 セルダン達が渡り板を伝って船を降りると、魚にトカゲの手足が生えたような生き物に乗り、三叉の槍を持ったホックノック族が迎えに来た。このホックノック族は男なのだろう。大きさは女性よりも一回り大きく身長は一メートル六十センチ程、羽はなく体も緑色でやや皮膚が硬そうな印象を受けた。その中から一人のホックノック族が進み出て、セルダン達に水を含んだようなゴロゴロとした声で告げた。
「女王様がお待ちです」
 セルダン、ブライス、スハーラの三人の聖宝の守護者は、ベロフやアタルス達兄弟を船に残して、徒歩でミッチ・ピッチの宮殿に向かった。都市全体が巨大な珊瑚のような街の中にはいくつもの穴が開いた家があり、ホックノックの男女が沢山行き交っていた。スハーラが驚いたように言った。
「もっと静かな所かと思っていました。これだけの数のホックノック族がすべて海の力を引きだせるのでしょうか」
 ブライスが答えた。
「ああ。だが一人一人の力はそれ程ではない。この種族は何かをする時には女王の命令で皆で一緒にするんだ。その力の集合がさっきの海水のトンネルを作るような巨大な力になる」
 その時、セルダンがホックノックの中に人間の姿を見つけた。
「あれ」
 ブライスもこれには驚いた。
「流れ着いたあとで息を吹き返した者達だと聞いた事がある。まれにそういうことがあるそうだが、本当にいるとは知らなかった」
 やがて一行の前方に尖塔のように上方に伸びた塔が見えた。塔の向こうには海水の池が見える。見ると塔の下部に大きな入り口があって赤い扉がすでに開いていた。
 扉をくぐり、赤い内壁の広間を進むと、湖に向けて開け放たれた大きな部屋があった。その部屋の奥に、湖を背にして海の女王ミッチ・ピッチが巨大な貝殻に腰掛けて待っていた。ミッチ・ピッチの大きな目が真っ直ぐに一行を見つめている。頭の上のほうに猫のような耳と先の丸い小さな角が付いているのは昼間のチッチ・ヒッチと同じだったが、その体はふた周りくらい大きくて人間の男性くらいあった。女王が座る貝殻のむこうには岸辺に頭を乗せて海竜ゼネスタが眠っているのが見える。ミッチ・ピッチは水かきのある手で一行を手招きした。セルダン達が近づくと、今まで部屋の中に置かれた岩だと思っていた海亀がのっそりとよって来て椅子代わりになった。ミッチ・ピッチは甲高いとも聞こえるコロコロとした声でセルダン達に話しかけた。
「ようこそ剣の守護者セルダン、冠の守護者ブライス、巻物の守護者スハーラ。さあ暁の女神を呼んでちょうだい」
 言われるままにセルダンとスハーラが進み出たのを、ブライスが制した。 
「ここにはバステラ神の力が無いのだし、ザイマン人の好きな海なのだから俺一人で大丈夫だろう」
 ブライスはひざまずくと、額の銀の輪に両手の指を当てて祈った。しばらくして額の輪が輝き、そしてセルダン達とミッチ・ピッチの間にエルディが立っていた。今日は体にピッタリとした水色の長いドレスを身にまとっている。女神は腰に手を当てて珊瑚の天井を仰いだ。
「ようやくここに来ることができたわ。一度来なければならないと思っていたんだけど、ここには神界から通じる道が無かったの。ブライスのおかげで道が通じた」
 そう言って両手でドレスをつまむと、膝を折ってミッチ・ピッチに優雅にお辞儀をした。
「海の女王。ごきげん麗しゅう。あなたに話したい事がたくさんあるの」
 ミッチ・ピッチの小さな口が微笑みの表情を浮かべた。
「私もよ暁の女神」
 エルディは横を向いて人さし指をクイを動かすと、おどろく程の速さで海亀がイソイソとやって来て椅子になった。エルディはドレスを広げてちょこんとそこに座った。海亀の甲羅がすこしピンクに染まった。
「さて女神、何から聞きたい」
 海の女王が楽しそうに言った。
「そうね、まずこの質問から。マルヴェスターが探していた人はここに来たの」
「ユマールの将の艦隊と戦って死んだとされる魔術師セリスか。いや、ついに来なかったぞ。海で死んだ者は一度は必ずここを訪れるはずなのだが」
 海の都の女王は緩やかに羽を体に巻き付けた。
「もしかしたら翼の神の弟子は違う所に運ばれるのかもしれぬ。あるいは死んでおらんかだ」
 それを聞いたエルディの美しい顔が曇った。
「セリスは翼の神マルトンの弟子。強大な魔力を持った若者だったから、そう簡単に死ぬとは思えない。でも五百年間も地上に現れないのはおかしいわ。それともう一つの不思議は、その強い魔術師セリスをどうやってユマールの将が倒したかなの。ユマールの将の元にいる黒い冠の魔法使いはそんなに強いのかしら」
 ミッチ・ピッチが首をかしげた。
「ふむ。先代の魔法使いはそれ程でもなかったぞ」
「あら、いつ代替わりしたの」
「いつかはわからんが、明らかになったのは数百年前だ。新しい魔法使いはどんな者かわからん。名も無き魔法使いと呼ばれておる。セリスとザイマンの大艦隊を滅ぼしたのは魔法使いではなく、ユマールの将の大きな獣だ」
 ブライスが乗り出した。
「そいつだ。我らがザイマンの最も憎むべき敵だ。女王、あなたはその獣を見ましたか」
「いや。不思議な事にこのトンポ・ダ・ガンダに通じる海の道がすべて閉ざされた。我らが海に出ることが封じられたのじゃ。信じられぬ」
 ミッチ・ピッチの羽が紫になった。セルダンはこの種族が長い話をする時には羽の色で言葉を繋ぐ感情を表わしているのに気がついた。ミッチ・ピッチは身を震わせた。
「気をつけよザイマンの王子。ユマールの将はとてつもない怪物をかかえておる」
 そしてエルディに向かって言った。
「そなたの願いを聞こう。三人の聖宝の守護者とその仲間をすみやかにセント−ンまでの流れに乗せる。そのかわり約束じゃぞ、地上に向かったまま行方をくらましている我が弟、シュシュシュ・フストを探しておくれ」
 エルディはうなずいた。
「その話は聞いたわ。私が責任をもって探す。わかったわね、ブライス」
 ブライスは驚いて女神に問い返した。
「えっ、俺が探すんですか。俺達はマルヴェスターの弟弟子を探さなきゃならないのですが」
「守護神の責任は、守護者の使命。一緒に探してちょうだい」
 エルディはピシャリと言った。ミッチ・ピッチが言葉を継いだ。
「われらが兄弟はこの星の最初に生まれた。その片割れがいなくなった苦しみは、この三千年の間我が心を痛ませ続けている。手がかりはセントーンのミリアに聞いてくれ。翼の神の弟子の中では最も賢い娘だ。それにミリアならば弟を無くした私のこの苦しみもわかろう」
 興味深そうにセルダンが尋ねた。
「ミリア様にも弟がいたのですが」
 エルディが伏し目がちにセルダンを振り返った。
「そうね知らないはずね。もう知っている人間はすべて死んでしまったし、知っている者は口にしないものね。セリスはミリアの弟よ」
 ブライスとセルダンは顔を見合わせた。ブライスが言った。
「だからセリスに似ていると言われるサルパートのマキア王は、ミリアに似ていたんだ」
 スハーラがミッチ・ピッチに恐る恐る尋ねた。
「セリス様がここに流れ着かないのに。セリス様が持って沈んだと言われるルドニアの霊薬が地上に戻りました」
 ミッチ・ピッチの目がするどくなった。
「うむ。海の道の封印が解けた後、白い魚がくわえてこの宮殿の池にまでやってきた」
 そう言って背後の池を振り向いた。
「ゼネスタがその魚を通したのも不思議じゃ」
 女王の貝殻の後ろでゼネスタが眠そうな顔を向けた。スハーラが尋ねた。
「その薬はどうして地上に戻ったのでしょう」
「地上から来たものはいつまでも留め無いのがここの決まり。この宮殿の後方に青と赤の柱が見えたろう。赤が地上から海底への流れ、青がここから海面への流れだ。その流れに乗せた。数十年前の事だ」
「その白い魚はルドニアの霊薬を地上に戻して欲しかったのですね」
「おそらくそうであろう。何者の使いかはわからぬが」
 そう言った後、ミッチ・ピッチは立ち上がって指で上を指し示した。
「ザイマンの船団は、明日海面に送りだすとしよう。今夜はぐっすり眠るが良い」
 セルダン達はミッチ・ピッチに礼を述べて女王の前を辞した。船への帰り道でブライスが傍らを一緒に歩いている女神に話しかけた。
「そうだ女神、覚えてますか、サルパートを解放したら一度だけ抱きついていいとおっしゃった事を」
 エルディは嬉しそうに笑った。
「あら、素敵な考えね。でもいいのスハーラの前で」
 ブライスはしまったという顔をしてスハーラを振り返った。スハーラは口をとがらせてにらみ返した。
「いえ、やめておきましょう」
「そう、それは残念。じゃあ私はザイマンに戻るわ」
「え、もうですか」
「ザイマンと南の将が一触即発なの。わたしは戻って目を光らせていないと」
「一つお聞きしたい事があるんです。アードベルの町に住むというマルヴェスターの弟弟子の事を知っていますか」
「いいえ、聞いた事が無いわ。アードベルについてはよく知らないの。私の注意はいつも北に向いているから。アードベルって沼が多いんだっけ」
 それを聞いたブライスがエルディ神を不思議そうに見つめた。
「あなたはザイマンの事をどれくらい知っているんです」
「それはどういう意味」
 エルディの声に険悪な響きが混じった。
「いえ、落第生とは言えマルトン神の弟子だった者ですからよほどの魔力を持っているはずです。それに、バルトールマスターのメソルはザイマンのどこかで、バルトールの王家の子孫のベリックを育てていました」
「そうよ。でも私はそのどちらも知らなかった。いいことブライス、聖宝の守護神には明確な特性があるの。私は未来に起きそうな出来事の兆しを感じる事ができる。だから道を示す神と呼ばれるけれど、物を調べたり謎を解いたりは苦手。それはエイトリの役目よ」
 そう言ってスハーラを見、次にセルダンに目を向けた。
「もちろん戦うのはクライドンの力。ザイマンには私の目の届かない所でたくさんの事が起きているようだけど、私にはその全てはわからない。だからあなた達は急いでザイマンにやって来てそれらの謎を解いてちょうだい。頼むわ」
 ブライスがやさしくうなずいた。
「わかりました。おまかせください」
「頼むわブライス、そしてセルダン、スハーラ」
「もちろんです」
 セルダンとスハーラも力強くこれに答えた。エルディは三人に向き直った。そしてセルダンに声をかけた。
「セルダン。エルネイアに気をつけていてね。何かあの娘に起きそうな予感がするの」
 セルダンがハッとすると、それ以上何も言わずにエルディは消えた。
 三人が船に戻る頃には海水のドームの天井はすっかり暗くなっていた。天の光がとても弱まっている。これもこの都市の不思議な力の一つなのだろう。
 その夜、船に戻って眠ろうとしていたセルダンの元をアタルスがたずねた。
「王子、このトンポ・ダ・ガンダに流れ着いた後、生き返った男の一人が参っております」
 セルダンは脱ぎかけた上着にもう一度手を通した。
「それは会ってみたいな」
 そして他の者には声をかけずにアタルス達三兄弟だけを引き連れて船を降りた。見ると、船の下の岸には頭を剃り上げた小柄な男が静かに立っていた。セルダンはその姿を見た時、一瞬、黒い盾の魔法使いゾノボートが立っているのかと思ってゾッとした。だがその男にはあの魔法使いの禍々しさはかけらも無く、近づいたセルダンは別人である事を知って胸をなでおろした。男は胸の前で手を組むとうやうやしく頭を下げた。
「カインザーの王子にお伝えしたい事があります」
「あなたは」
「五百年前にこの海に沈んだ者です」
 セルダンは少し驚いた。
「この海に沈んで生き返った人は死なないのですか」
 男は手を振った。
「いえ。私は一度ある種の力を極めたために長命なのです。でもそれも、そろそろ終わりに近づいています」
 セルダンがよく見ると男の顔のあちこちには高齢の印があらわれていた。男は言葉を続けた。
「名も無き魔法使いにお気をつけください」
 それを聞いてセルダンは思い当たった。
「あなたは先代の黒い冠の魔法使いですね」
 男は黙ってセルダンの剣に目を移した。セルダンはあわてた。
「いけません。ここでこの剣を振るうわけにはいかない」
 男は寂しそうに笑った。
「大丈夫です。もう私は黒の魔法使いではない。その剣が無くともこの魂は黒の秘宝からは開放されています。いずれは静かに死ぬ事が出来るでしょう。だが」
 男の言葉が厳しくなった。
「名も無き魔法使いはその剣で倒さなければなりません」
 そう言って男は再びゆっくりと頭を下げると、少し晴れ晴れとした顔をして去って行った。セルダンは剣に手を置いて、言葉も無くその後ろ姿を見送った。

 翌朝、ミッチ・ピッチはゼネスタに乗って船団を導いた。セルダン達は再び巨大なトンネルの中を進んでいった。やがて無限の時が過ぎたと思われる頃、トンネルの前方の壁いっぱいに陽光が煌めき。次の瞬間に真っ青な空と共に暖かい風がセルダン達を包んだ。セルダンが振り向くと、スハーラが涙を流して笑っていた。
 船団の前にいたミッチ・ピッチがゼネスタの上で振り向くと、前方を指さした。それを見たブライスが船員達に叫んだ。
「よし。このまま真っ直ぐだ。エルセントに向かうぞ」
 その船団の方向を見届けると、ミッチ・ピッチとゼネスタは静かに海に沈んで行った。

 小鬼の魔法使いテイリンは、南の将の要塞の北に併設された広い闘技場の中央で、黒い剣の魔法使いザラッカと向かい合って立っていた。とても黒の神官とは思えない逞しい体をしたザラッカの手には黒の長剣が握られている。茶色い上着のテイリンは慎重にザラッカとの間合いを取った、あの剣の攻撃が一撃で致命傷になる事は確実だろう。ザラッカの手の中で剣が一瞬ひらめいたように見えた次の瞬間、テイリンの頬を切っ先がかすめた。細い筋のような血が頬から糸を引いた。
「見事。よくぞよけた」
 ザラッカはそう言って一呼吸置くと、巨大な剣を軽々と操ってテイリンに襲いかかった、テイリンは間一髪で魔剣を避け続けると体勢が良い瞬間を見つけて指先から光の針を放った。ザラッカは信じられない事に、その光の針を長剣の切っ先ではじいてよけた。鈍い色の剣の先で光の針が閃光を放って消えた。ザラッカが驚いた顔をした。
「貴様、あなどりがたい魔力の持ち主だな。俺の剣をかわし続けた事といい、光の針といい、おまえがギルゾンに手も足も出なかったとは思えないのだが」
 そう言ってザラッカは剣をさやに収めると。片手で空中に放った。剣はゆっくりと弧を描いて闘技場の壁の鉤にかかった。ザラッカが同じ手先をクイと振ると、今度は太い鞭が壁から飛んできて魔法使いの手に収まった。
「受けよテイリン」
 ザラッカの手の中で鞭が変幻自在に踊った。テイリンは懸命にその鞭をよけようとしたが、変化に富んだ動きが読めなかった。テイリンがアッと思った次の瞬間に鞭は激しく若者を打ちつけた。気を失うほどの激痛に目がくらんだテイリンは床にたたきつけられるように倒れた。もし、ドラティ、バイオンという二頭の巨獣の血で体が強化されていなかったら、そのまま即死したかもしれない。ザラッカの手になると、魔法のかかっていない普通の鞭ですら恐るべき武器になるのだ。ザラッカが鞭をしごいた。
「なる程わかったぞ。お前の魔法はお前の心そのままなのだな。俺のまっすぐな剣はかわせたが、変化がある鞭はよけられなかった。ましてやギルゾンのねじくれた短剣の前には無力であったのも仕方あるまい」
 テイリンはうめきながらヨロヨロと立ち上がった。
「しかしカンゼルの剣の守護者、カインザーのセルダン王子はギルゾンの短剣の妖気を楽々とかわしました。彼は素直な若者だと聞いています」
「ハッハハハハハ」
 ザラッカが大笑いした。
「カインザー人には心が曲がる程の知能も無いのよ。ギルゾンの短剣の妖気をセルダンがかわせたのは戦闘の本能だ。そして反撃が出来たのは比類なき剣の技だ。それこそが戦闘民族カインザーの王子、カンゼルの剣の守護者の実力なのだ。楽しみだ、楽しみだぞ。早くこの南の海にやって来い。戦ってみたくてウズウズするわ」
 ザラッカは大笑いしながらテイリンに近寄って肩を叩いた。その時テイリンはゾクッとした冷気を感じた。ザラッカの雰囲気が一変した。テイリンは黒い盾の魔法使いゾノボートよりも黒い短剣の魔法使いギルゾンよりも、はるかに破壊的な魔力の近くにいる事を知った。
「おまえの目的はこの要塞ではあるまい。どこを目指しているのだ」
 その圧倒的な威圧感を持つ言葉に、テイリンはこの要塞に来た本当の目的を隠す事ができなかった。
「セントーンを目指しています」
「目的は」
「ミルトラの水を探しに行くために」
 ザラッカは鞭を放ると、太い腕を組んで考え込んだ。
「セントーンの力の源と呼ばれるミルトラの水か。聞いた事はあるが、それがどこにあるのかは俺は知らん。おまえは知っているのか」
「はい」
「ほう、どこだ。それがわかれば俺と兄はセントーンを落とせるかもしれない」
 テイリンは隠さなかった。ここから先は自分一人で切り開ける道ではない。何者かの助けが必要なのだ。
「ミルトラの水は、盾の守護者と共にあるそうです」
 これを聞いたザラッカが嬉しそうに笑った。
「フフフフフ、ハッハハハハハ。面白いぞ、これは面白い」
 ザラッカはさらに頭をのけぞらせた。
「なぜミルトラの水を探しているのかまでは問うまい。そこまで聞けば、事によってはおまえとて俺と対立せざるをえないかもしれんからな。よし、行ってこいセントーンへ。ゾックの事は心配するな、この俺があずかる。誰にも危害は加えさせん」
 テイリンは自信無げに首を振った。
「しかしセントーンは鉄壁の都。陸は東の将の軍とセントーン軍の境界線によって封鎖されています。どうやって入り込めば良いのか私にはわかりません」
「ふむ。東の将を後ろから襲っても良いが、そんな事をすればガザヴォック様はともかくハルバルト元帥が兄を許さないな。ならば海か空だ。かまわん、当分ザイマンとの間は硬直状態だ、デルメッツに相談してみろ」
「私がですか」
「あたりまえだ。不滅の鷲は自分が気に入った者しか乗せない。それとも空が恐ろしいか」
 テイリンは身振るいした。恐ろしくない者などいようか。この魔法使いは少し異常なのだ。しかし試してみるしかあるまい。
「デルメッツに話してみます」
 ザラッカは満足そうに丸い腹を叩いた。
「よし、見事ミルトラの水を手に入れたら帰ってくるときには船でこい」
「船ですか、でも私は船に乗った事がありません。セントーンでどうやってここに戻る船を探したら良いのか見当もつきません」
 黒い剣の魔法使いは心配するなというようにテイリンに向けて指をたてた。
「最近俺に協力を申し出た者の中に、ちょうど良い者がおる。ザイマンに本拠地を置くバルトールマスターだ。一月後にセントーンに着くように指示しておく」
 そう言って黒い剣の魔法使いは、また大笑いした。

 サルパート戦線からカインザーの最前線であるポイントポート城に帰還したロッティ子爵とクライバー男爵は、本人達もすっかり忘れていた命令違反で罰を受ける事になった。二人は城に着くとすぐに城代のトルソン公爵に呼ばれた。敵であるソンタールにまで名を知られた豪傑のトルソンは、苦々しげな顔で机の向こうに座っていた。スラリとした若い金髪のクライバー男爵と小柄なロッティは神妙な面持ちで怪物のような公爵の前に立った。トルソンはコツコツを机を指先で叩いて二人を睨んだ。
「もう半年以上も前になるが、お前達はポイントポートとサルパートのテイト城の間の街道を制圧するために出発したはずだったな」
 ロッティが答えた。
「だが、機会があれば北をうかがえとオルドン王はおっしゃったぞ」
「それは街道を確保してからの事だったはずだ」
 トルソンはドンと机を叩いた。
「オルドン王からのご命令だ。クライバー、おまえは謹慎だ。しばらく戦場に立つ事は許さん」
 クライバーが身を乗り出したのを、ロッティが片手で抑えた。
「ロッティ、お前も謹慎といきたい所だが、この時期にさすがにそこまでの余裕は無い。カイトがサムサラに行ってしまったおかげでこのポイントポートは少し手薄になった。ここにとどまって、ソンタール軍の動静を見張ってくれ。何だクライバー」
「俺は謹慎で、ロッティはこのまま最前線ですか」
「そうだ。何か文句があるか」
 クライバーは何か言おうとしたが、トルソンはギロリと睨んで若い貴族を黙らせた。ロッティがクライバーの背中を叩いた。
「王の命令では仕方がない、おまえは少し休んでこい」
 クライバーは憮然として、翌朝早く青の要塞に向かった。五日後、青の要塞に若い貴族は物々しく駆け込んだが、あいにくオルドン王はマイスター城に行っていて留守だった。クライバーは王の不在を確認すると、広大な要塞の食堂に向かった。そして恐々とする給仕人達に命じて、カインザー流の塩を振っただけの上質の焼き肉を山盛りにして持ってこさせた。さらにビールのジョッキを並べさせると、伊達男に似合わない作法でやけ食いを始めた。
 しばらくして豪快に肉を口に運んでいるクライバーの前に、大柄な男がドッカリと腰を下ろした。クライバーは上目遣いで来客を見た。
「久しぶりですね」
「ああ」
 そこには青い目の顔も体もゆったりと大きいつくりをしたバイルン子爵が太い腕でビールのジョッキを持ってニヤニヤしていた。
「よく無事で戻ったなクライバー」
 それからしばらくクライバーは肉を、バイルンはビールを黙々と口に運んでいた。やがてバイルンがクライバーに話しかけた。
「最近、セスタの町で商いが活発になっているのを知っているか」
 クライバーは首にかけた布巾で口をふきながら答えた。
「いや。俺はサルパート戦線から戻ったばかりだし、セスタは戦場とは無縁の都市になりつつあるので全然気にかけていなかった」
「おまえらしいな。自分の領地だろうが。セスタで商いが盛んになっているんだが、売り買いされている商品が宝石やドレスなどの装飾品や衣類なんだ。それがどこから供給されているのかは不明だ」
 クライバーはあまり興味を示さなかった。
「ふむ。あそこにはベリック王がいたからな、表向きは今でもいる事になっているのだからバルトールの商人達が活動しているのだろう」
「そうだ、だがその商品を買っているのがカインザーの貴族の妻達だとしたらどうする」
「そうなのか」
「ああ、ここだけの話だがポーラはバルトール人の窓口になっている」
「それは悪い事だろうか」
「いや。ただ、それ程の影響力がポーラにあるのがおかしいんだ。どうもセスタに新しいバルトールの実力者が入ったらしい」
「誰だ」
 バイルンはジョッキを置いて椅子に寄り掛かった。
「わからん。空席になっていたバルトールマスターが決まったと考えるのが自然だろう。クライバー、一度セスタに戻ったほうがいいぞ。ベリック王は友軍だが、今セスタにバルトールの大勢力が生まれると余計な摩擦が生まれる」
 クライバーが不満そうな顔をしたのを見て、年長の貴族が叱った。
「戻れ。ポイントポートには無敵のトルソンがいる。サムサラにはカイトがいて、元の北の将の要塞にはマキア王がサルパートのほぼ全軍を率いて頑張っている。いまのところ、おまえには出番が無いんだ。セスタに戻って様子を確認してこい」
「そう言うあなたはどこに行くんですか」
 バイルンは嬉しそうに笑った。
「ザイマンのブライス王子から要請が来た」
 クライバーがハッとして顔をあげた。
「そうだ、南の将を攻めに行く」
 そう言って乗り出したクライバーを手を上げて制した。
「今度は俺の番だ」
 そう言ってゆっくり立ち上がると、水色のマントをひるがえして食堂から出ていった。クライバーはその後ろ姿を悔しそうに見送って天井を仰いだ。
「ああ、俺も行きたいなあ」

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