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シャンダイア物語

第三部 海洋民族の島
第五章 海洋民族の王

福田弘生

 航海七十二日目

 海を渡る風が暖かい。ドン・サントスの根城であるグーノス島を出てから、この船団は暖かい海流の上に乗ったそうだ。甲板では男達が皆裸でのんびりと昼寝をしている。さすがにザイマンの制海域に入った事で船内にも安堵感が漂っている。でも私は逆にザイマンが近づくにつれ心の中で不安が広がってゆくのを止めようがない。海洋民族の島ザイマンに行くのは今回で二度目になるのだが、前回に比べて今回はとても緊張している。三年前の私はただのサルパートの巫女だった。しかし今回はブライスの許嫁として訪れるのだ。
 最近いつのまにか部屋をかたづけている自分に気が付く時がある。私の船室はグーノスからここまでの間にとてもきれいになってしまった。 

(スハーラ・レリスの航海日誌より)

 テイリンはまだセントーンの首都エルセントに辿り着いていなかった。セントーンの平野はテイリンの予想をはるかに越えて広大だったのだ。一つだけ幸いだったのはセントーンの警備がうまくかわせた事だった。以前に警備兵に誰何された時は深夜で、テイリンの人相まではわからなかったようだ。セントーン軍は潜入しているのがまだ二十代の若い魔法使いだとは思いもよらないらしい。
 テイリンはその夜、ある大きな川に面した町の酒場で食事をとっていた。セントーンには大河が多い。橋がかかっている川もあるが、大きなものは船で渡らねばならず、それが水に不慣れなテイリンの速度を落としていた。テイリンがカウンターの端で静かに食事をしていると、横に座った商人らしき二人の男が会話を始めた。
「このところ雨が降らねえなあ」
「エルネイア様がミルトラの泉に行っているんだろう」
「三月に一度だからもうそんな時期か」
 テイリンは耳を澄ませた。男達がそこで黙りそうだったので、テイリンはおずおずとたずねた。
「あの、私は南に仕事で出かけておりまして。これから北のほうの故郷に戻るのですが。もうしばらく雨は降らないと考えて大丈夫でしょうか」
 隣の商人は気さくにこれに答えた。
「大丈夫だよ若いの。エルネイア様がミルトラの泉においでになる前の半月程は雨が降らない事になっているんだ」
「私は猟師の家に生まれたので、そういう事は知りませんでした」
 商人はテイリンをジロジロ見た。
「なる程、北の山のほうの人間の顔立ちをしてるな。農家の者だったらこんな事知ってるもんな」
 男は親切に説明をはじめた。
「この川に沿って西に行くと、ミルトラ神にゆかりの施設がいくつかあってな。西のソンタールとの境に近い山のふもとにミルトラの泉という泉があるんだそうだ。俺も見たことは無いが、代々のミルカの盾の守護者は三月に一度そこでセントーンの平和をミルトラ神にお祈りする事になっている」
「そうですか。色々と教えていただいてありがとうございました」
 テイリンは心の中でしめたと思った。
(助かったぞ、それならばおそらくはエルセントより近い、しかも厳重な警備の都市に潜入しなくて済む)
 テイリンは翌朝早く宿を出ると、川に沿って上流を目指した。

 ザイマンの首都ザ・カラドは、ザイマン五島の本島と呼ばれる一番大きな島のやや西よりの北に位置している。ドレアント王の居城バラサールを取り仕切る侍従長のロタスは、城の中の執務室の大きな窓から街並みを見下ろしてため息をついた。その細い顔と短い髭には疲れがにじんでいる。
 最近ドレアント王の行動に理解に苦しむ事が多い。カインザー、サルパートと続いた戦闘に影響されているのか、最近しきりにグルバの艦隊を牽制に出撃してゆく。何かにあせっているような気すらする。そんな王の様子を見たザイマン国内の貴族達の動きにも怪しい気配が感じられる。ロタスはブライス王子の帰還を待ちわびていた。
(王子が帰ったら、今度こそ王に譲位を進言してみよう。もうその時がきているのだ。ザイマンは新しい王を迎えないとおさまらない)
 しかし、ロタスにはもう一つ悩みの種があった。ブライス王子とサルパートの巫女スハーラの問題だ。
(我々はどうやってあの巫女を迎えたら良いのだろう。ザイマンの王子がサルパートの巫女を娶るなんて)
 かつて無かったこの事態に小柄な侍従長は頭をかかえた。その時、ドアにノックの音がして、柔らかなクリーム色の清潔な衣装を来た部下が入ってきた。
「ロタス様、ブライス王子の船団が入港してきました」
 それを聞くなりロタスは壁にかけてあった帽子をひっつかんで部屋を飛び出した。

 セルダン達を乗せたブライスの船団はザ・カラドの広大な港の中央に堂々と入港していった。帆柱のてっぺんには濃い緑色のザイマン王家の旗がはためいている。セルダンはまだ五つくらいの頃に訪れて以来なので、もう十五年ぶりくらいのザ・カラドだった。航海を続けていると、陸上から見た景色と全く違う都市の姿を見る事が出来る。海から見るとこの都市にはあまり背の高い建物が無い事に気が付く。二、三階建ての建物が港を中心に低く広く広がった都市には影が少なく、明るい陽の光が満ちていた。その街を見下ろす高台には2つの塔にはさまれたドームのような形の水色の屋根が見えた。あれがバラサール城である。着岸したセルダン達が船を降りて港の敷石の上に立つと、港中の人々が集まってきた。しかしそこには華やかな歓迎の雰囲気は無く、人々の中にはブライス王子に声をかける者、静かに見守る者など様々だった。セルダンは不思議そうに港を見回した。
「ブライス、人気がイマイチだね」
「まあな。ここはけっこう複雑な国なんだ」
 街に向かおうとした一行の前にガラガラと大きな音をたてて馬車が止まった。馬車には背に鎌のようなヒレのついた魚の絵柄の紋章があった。馬車の扉が開いて金髪でそばかすだらけの顔の大柄な男が降りてきた。青い豪華な衣装を着ている。まだ若いその男は大声で笑いながらあたり一帯に響く声でどなった。
「ほう、トンポ・ダ・ガンダから生きて帰る者がいるとは思わなかったぞ」
 ブライスが恐ろしいくらいの笑みを浮かべた。
「あいにくだったなデル・ゲイブ、俺が戻らなきゃおまえが次期国王だったのになあ」
 金髪の大男も負けずに残忍な笑いを浮かべた。
「ハッハア。戻ったってこの国の船長達がおまえに従うと思うなよ」
 ブライスがデル・ゲイブと呼んだ男はそう言い放つと、笑いながら馬車の扉を後ろ手に荒々しく閉めて去って行った。セルダンは説明を求めて友人を見上げた。
「従兄弟のデルだ。親父の妹の息子になる。俺には兄弟がいないから、俺が帰らなければあいつがカスハの冠の守護者になるんだ」
「なる程。そういう問題があったのか」
 そこにもう一台の馬車がこれもけたたましい音をたてて走り込んで来た。ブライスは耳に小指を入れた。
「うるせえなあ。自分で馬に乗れるようになって思うんだが、ザイマンの男が馬に乗れないのはそろそろどうにかしないといかんぞ」
 馬車からは白い柔らかい宮廷衣装のままのロタスが転げ落ちるように降りてきた。侍従長の頭の上に乗っていた平らな帽子が風にあおられて敷石に落ちた。それを見てブライスは嬉しそうに笑った。セルダンはいつも自分を出迎えてくれるカインザーの心配性の外務大臣アシュアンを思い出した。
「お、お、王子。ブライス様」
「ああ、帰ったぞ」
「お待ちしておりましたぞ」
 ブライスは腕を組んで空の雲を見上げた後、ちょっと口を曲げて心配そうなロタスにたずねた。
「俺はザイマンを空け過ぎたか」
 ロタスは帽子を手に取ってはたきながら答えた。
「ご不在が長すぎましたぞ。サルパートまで行く必要はございませんでしたでしょう」
 そう言ってチラッとスハーラを見た。
「それは必要な事だった。エルディ神もお力添えをしてくださっている」
「わかっております。しかしそれをザイマンの貴族すべてに納得させなければなりません。とりわけ」 
 ブライスは手をあげてそれを遮った。
「わかった。デルに思い知らせてやろう、馬を連れてきてくれ」
 そう言ってザイマンの王子は歩き出した。

 セルダンとブライスとスハーラの三人はロタスが用意した馬でカパカパと城に向かった。巫女の衣装を着ていてもスハーラは横座りで上手に馬を操っている。その後をロタスの馬車が追うように続き、少し遅れてベロフが抜刀隊を率いてゆっくりと街の中を行進した。アタルス、ポルタス、タスカルの三兄弟は情報を収集するために街の中に消えた。
 丘を登ってセルダン達が到着した時、バラサール城の朱色の巨大な城門は開かれたままだった。ブライス王子が城に入ると待ちかねていたように人々が繰り出して一行を迎えた。中には涙を流す者さえいた。ブライスは皆に声をかけながら城の中に進んで行った。
 海洋民族の王ドレアントは城の上階にあるテラスでビールのジョッキを傾けていた。ここもグーノス島のドン・サントスの庭と同じように見晴らしがいい。海の男はよほどこの眺めが好きなのだろう。大きな王はゆっくりと振り返った。
「帰ったか、せがれ」
 ブライスは父親の正面にまわった。太陽がブライスの後ろから射す。
「親父、グルバにちょっかいを出すのはもうしばらく待ってくれ」
 ドレアントは息子をジロリと睨んだ。その目は赤く充血している。それを見てだいぶ疲れているようだとセルダンは思った。
「カインザーのオルドンは西の将を追いやった。あの軟弱者のサルパートのマキアでさえ北の将の要塞を攻め滅ぼした。なぜこの俺が南の将を倒しに行ってはいかん」
 ブライスは父親に諭すように説明した。
「そんなに単純な戦いでは無かった。西の将マコーキンは、黒い盾の魔法使いゾノボートをセルダンが倒したので自ら要塞を捨てた。北の将ライバーは、黒い短剣の魔法使いギルゾンが狼の群れに食い殺された後、元の巻物の守護者サンザと共に身を投げた。バルトールのベリック王もマスター達も俺達と一緒に戦った。みんなで力をあわせて、一歩一歩ソンタールの圧倒的な力を突き崩していったんだ」
 ドレアントは目をつむった。
「カインザーにはオルドンという強い王がいる。サルパートは巫女、神官、王家の分権が長く安定している。しかしザイマンは一枚岩では無い。王は力を見せ続けなければならないんだ」
「それは俺もわかっている」
「わかっているなら、何故これ程長くザイマンを空けた。しかもお前、トンポ・ダ・ガンダに寄ったな」
「ああ、サルパートから早く帰らないといけなかったんだ。エルディ神の指示だった」
「グーノスにも寄ったろう」
「ドン・サントスと手を結んだ」
 ドレアントは手にしていたビールのジョッキをテーブルに叩きつけた。
「狂ったか。デル・ゲイブの思うつぼだぞ」
「仕方が無かったんだ。グルバとの海戦の最中にサントスに妙な動きをされては困る。いっそ同じ艦隊に置いて内側から監視したほうがいい」
 ドレアントは髭をひねった。
「ふむ、艦隊の中央か。グルバを始末したら、一緒につぶしてしまおう」
「いや、左翼だ」
 ドレアントは泡を吹かんばかりだった。
「ならん、左翼で裏切られてみろ。ザイマンの艦隊は壊滅するぞ」
「させない。セルダンとベロフの抜刀隊がサントスの艦隊に乗る」
 ドレアントはセルダンを鋭い目で見た。
「危険だぞセルダン」
「まかせておいてください。僕らには海戦の作法はわかりません。でもサントスをグルバとの戦闘に引きずり込むくらいの事は出来そうです」
 ドレアントの目は精気を取り戻した。
「カインザーのバイルンとクライバーが三十五隻の兵員輸送艦でこっちに向かっているという報告は届いている。サントスの戦力は四十隻。問題は」
 似たような親子はにらみ合った。父親は言った。
「おまえがザイマンの全艦隊を統率できるかどうかだ」
 ブライスははじかれたように大笑いしてドレアント王の背中を叩いた。
「まかせておけ親父」
「頼むぞ、デル・ゲイブと奴を支持する船長達はお前に従わない可能性が高い」
「冠の守護者は俺だ」
「それはそうだが、もう一つの問題がある」
 そう言ってドレアントはスハーラを見た。
「すまん、スハーラ。君が問題になる」
 スハーラはうなずいた。
「わかっています。お国の事情は複雑なようですね」
「ザイマンの国民は民族に対する偏見は無い。どこの国の男でも女でも相手として結婚するのに反対をする者は無い。だが問題はブライスが王子だって事だ、裏を返せば娘を王女にしたがっている有力者がたくさんいるって事なんだ。ブライスがサルパートの巫女を迎えれば、デル・ゲイブを王にして自分の娘をその妻にしたがる奴がわんさか現れる。他の時ならばともかく、グルバとの決戦を真近に控えたこの時期に、ザイマン中の貴族と船長達に次の王を選ばせなきゃならなくなったんだ」
「つまり時期が悪かったという事でしょうか」
「すまん、そうなるな」
 ドレアントは立ち上がった。
「こんな時で無ければわしもデルなんぞに大きな顔はさせん。だが、今大事なのは船長達が誰を次の王に選ぶかだ」
 そう言ってドレアントはスハーラの肩に両手を置いた。
「スハーラ、私は君を大歓迎なのだよ。君がリラの巻物の守護者である事よりも、サルパートのレリス侯爵の娘である事よりも、君の人間としての価値が何よりもザイマンの宝になると思うからね」
 スハーラは涙を流してドレアント王を抱きしめた。

 アタルス達兄弟はザ・カラドの街の中心にあるバルトール人が経営する酒場に入った。威圧感のある似たような風体の三兄弟は酒場中の目を引いた。三人がテーブルに着こうとすると店の主人がうやうやしくやってきて、三人を二階の個室に導いた。主人は部屋の扉を閉めると言った。
「アタルス様でございますね」
 すっかり日焼けして、恐ろしい位の形相になっているアタルスはいかつい顔に笑みを浮かべて主人にうなずいた。
「もう俺達の姿はどこに行っても正体がばれてしまうようだな」
 店の主人は両手をもみながら答えた。
「仕方がありません。カインザーのセルダン王子と共に戦っている、バルトールの暗殺者の訓練を受けた三人のカインザー人の事はもはや我々バルトールの者で無くとも知っています」
「それでは我々は王子の護衛に専念するしか無いな」
 そう言ってアタルスは店の主人に向き直った。
「質問がある、ザイマンのバルトール人はマスター、メソルの支配下のはず。我々をどうするね」
「どうもいたしません。メソル様はまだ何の指示もしてきていません」
 アタルスはその言葉の背景の意味を考えた。
「我々は何処に行けばその答えがわかる」
 主人は少し躊躇したが、きっぱりとした声で言った。
「私はベリック王に忠誠を誓う者です。カッソーに行ってみてください」
「よし、とりあえず酒と肉を持ってきてくれ」
「わかりました」
 主人が部屋を出ると、アタルスはポルタス、タスカルの二人の弟に向かって言った。
「俺は船では無く陸路で一足先にカッソーに潜入してみる。お前達はセルダン王子の護衛をしてくれ。我々の誰一人が生き残っても、守るはセルダン王子。そしてミリア様だ」
 二人の弟はうなずいた。

 数日後、セルダン達はザ・カラド港に併設されている軍港を訪れた。そこには四種類の軍船が係留されていた。一つはこれまでにすっかり見慣れた背の低い高速艇。次が戦闘艦である小型のガレー船。これには約百人の戦士と百五十名程の漕ぎ手が乗る。この艦は速度が速く小回りがきくのが特長である。そしてそれを大型にしたガレー船がある。これには二百名を越える戦士とそれを上回る漕ぎ手が必要だった。さらにもう一つ見慣れない巨大な船があった。幅がとにかく広く大型のガレー船のさらに三倍程もあり、中央にはしっかりしたつくりの台座と巨大な大砲が積んである。ブライスが驚いているセルダンに説明した。
「これは役に立たん。西の将の参謀のバーンが使う大砲がけっこう威力があったので船にも取りつけられないかと思ったんだが、まだまだ命中精度が低過ぎる。それに船の速度が遅いので、他に五隻の船をつけて曳航しないと艦隊の他の艦についていけない。ただデカイだけだ」
 セルダンはその巨艦をほれぼれと眺めた。
「そっか、残念だなあ。この大砲で不滅の鷲デルメッツを撃てればいいのに」
「俺も初めはそれを考えたんだが、デルメッツが真上まで来てくれて、撃った一発がたまたま命中しないとどうしようも無い。戦力としては計算できない」
 西の将に散々苦しめられてきたベロフがその大砲を見つめて言った。
「どうせ使えないなら隠しておいてはいかがです。布でもかぶせてデルメッツをおびきよせてズドンと一発。イチかバチかですが」
 スハーラが言い添えた。
「布より木の囲いのほうが、航海の途中に手間がかからないかもしれないわ。撃つ時に囲いは壊してしまえばいい」
「やってみる価値はありそうだな」
 ブライスは後ろに控えていたロタスに聞いた。
「何日くらいで出来る」
「ただの箱をかぶせるようなものでしたら二日で出来ます」
「すぐに取りかかってくれ」
 ブライスは続けた。
「俺はむしろ戦闘の際にこのデカイ甲板の上にグルバの兵士を呼び込んで、カインザーのバイルン子爵の兵士の餌食にでもしてもらおうかと思っていたんだ」
 セルダンがベロフと顔を見合わせて笑った。
「それはどうかなあ、クライバーが来る。敵が自分の船に来るまで待つような男じゃないから、戦闘は主に南の将の艦船の上で行われると思うよ」
 ブライスも笑った。
「そうか。今度の戦いはどうも俺の予想通りにはいかなそうだな」
 その時、一行の前に突然エルディ神が現れた。今日は水色の線が入った白いズボンと上着の水夫の姿をしている。髪の毛は後ろでくくられていて、頭にはつばの短い帽子が載っていた。セルダンはその可愛らしさに驚いた。エルディ神の手には銀色に輝く冠が握られている。ブライスが驚いて言った。
「これはこれは女神。今日はまた何か怒っていますか」
「あなた達と旅をしている時のマルヴェスターの機嫌の悪さがよくわかるわ。こんな所で何をグズグズしているの。行くのよ。あなたはザイマンの王子、今は行動で示す時」
 ブライスはおおきく伸びをして海を見た。
「ですね」
 パチンとエルディが指を鳴らすとブライスの額の銀の輪が消えた。ブライスが女神の前にひざまずくと、エルディはブライスの頭に手にしていたカスハの冠を載せた。そこに居合わせたすべての人々が手を叩いた。
 セルダンがはしゃいだように言った。
「そうこなくっちゃ。ブライス、ザイマンの一番西の端はどこ」
 冠を戴いたブライスが立ち上がった。
「風の岬だ」
「よし、そこでバイルンの艦隊と合流でいいね」
「ああ」
 セルダンは風の岬と書いた紙をスハーラに渡した。鳥籠を下げて待っていたスハーラは紙を伝令鳥の足の管に押し込むと、鳥を空高く放り上げた。伝令鳥は白い翼を広げて西に向けて飛び去った。鳥を見送ったブライスは港全体にとどろくような大声でどなった。まわりにいたすべての男達が振り向いた。
「よし、明後日、砲台の囲いが完成したらすぐに出航するぞ。ザイマン全土の船乗り達に呼びかけろ、ザイマンの王子がザイマンを東に回る。ザイマン五島に散らばる勇者達よ、俺に合流してこい。ザイマンを一周したら風の岬でカインザーの艦隊と合流する。南の将との決戦の時は来た。グルバを倒し、その艦隊を海の藻くずに変えたら南の将の要塞を制圧して、ソンタール帝国にシャンダイアの足場を築くんだ」
 そしてセルダンを振り返った。
「セルダン、ザイマン本島を東に半周した所がアードベルだ。マルヴェスターの弟弟子を探すぞ」
「よしっ」
 二人は大きな音をたてて手を打ち合わせた。エルディ神はスハーラに嬉しそうに微笑むと、クルリと一回転して消えた。

 ミルトラの泉と呼ばれる泉はセントーンの西の山脈のふもとにある小さな洞窟の中にある。奥行二十メートル程の洞窟の中には数多くの蝋燭が灯され、さらに天井に開けられた小さな穴から差し込む光で中は明るく照らされていた。洞窟の壁や天井の岩は青い色をしていたため、洞窟の中は青一色に染まっている。
 セントーンの宝石と呼ばれるエルネイア姫は、その泉の縁に腰掛けて足を水にひたしていた。白いドレスに青い水面のゆらめきが映る。エルネイアは最近機嫌が良くなかった。一か月前のセルダンの訪問で話したい事がたくさんあったのに、かつてのセルダンの「聞いていい」という言葉をたくさん聞きたかったのに。セルダンがあまりに立派な戦士になっていたのにも驚いたのだが、逆に近寄りがたくなっていた事が寂しかった。
 エルネイアのつま先で水がチャポチャポと音をたてた。やがて不思議な事に泉の水がだんだん白く濁ってきた。八メートルくらいの幅の泉の水がすっかり白くなった頃、ランプを持っていつもの淡い黄色のドレスを着た背の高い魔術師ミリアが洞窟に入ってきた。
「ミルトラの乳が満ちてきたわ。時間よ」
 エルネイアは浅い水の中に立って水を両手にすくうと、泉の反対側に立つミリアの元に歩いていって魔術師に手を突き出した。
「ちょうだい」
 ミリアはエルネイアの両手の中の水に、手にした小さな箱から白い粉をつまんで落とした。エルネイアは手の平の水を飲み込むと、白いドレスのまま水の中に横たわるように浮かんだ。ミリアはランプを岩棚に置くと、岩の上に座って美しい王女が水のなかに浮いている姿を見つめた。エルネイアがつぶやくように言った。
「ミリア、セルダンってどんどんカインザーの戦士らしくなっていくのね」
 ミリアは泉に少し手を入れた。
「モッホの粉が体内にあるのよ。静かにしていらっしゃい」
「大事な事。私がモッホの粉で夢をみる時、楽しい夢じゃないととても辛いの。セルダンの事が気になっていると、たぶん楽しい夢を見る事はできないわ」
「それは気がついていたわ。安心してエル。男の子は成長すればそんなに女の子に話しかけないものなのよ」
「ゼリドルお兄さんは宮廷の中でも外でも、女の子をたくさん引き連れて歩くのが好きよ」
「あなたのお兄さんは特別。あれもそろそろやめさせないといけないわ」
 エルネイアは笑った。
「あれはミリアに見せつけているのよ。兄さんはあなたが好きなの」
 ミリアも笑った。
「ダメよ。ゼリドルにはちゃんと奥様がいるじゃない」
「シリーは素敵な女性だけど、子供にかかりきりなんだもん。それに奥さんと好きな人は別みたいよ。男っておかしいの」
 そう言ってエルネイアはおおきなあくびをした。
「ああ、眠い。ミリア、ねえミリア、これは怖いわ。何回やっても怖い」
 エルネイアの様子がうつろになりやがて眠ると、ミルトラの乳とミリアが呼んだ白い水がその体を覆った。やがてエルネイアが苦悶の表情を浮かべたのをミリアは見た。
(危険だわ。この水はエルの心を吸って力に変える。シャンダイアの聖宝神の中で尤も過酷な試練に耐え続けるミルトラとセントーンの民の絆。モッホの粉で心を開放している時に心に傷を負えば、そのまま命にかかわる。この試練は代々のミルカの盾の守護者と私しか知らない。エルを支えてくれるようにセルダンに知らせたほうが良いのだろうか)
 やがてエルネイアの苦しそうな悶えが止んだ。そしてエルネイアを包んでいた白い水が徐々に透明になっていった。ミリアは涙を浮かべた。
(強い。この娘は強い)
 その時、ミリアは洞窟の中に人の気配を感じた。
(しまった)
 ミリアが振り向いた時、一人の男が白から透明になった泉の水を、手にした小瓶にすくうのが見えた。ミリアは素早く立ち上がって声をたてずに男に近づいた。男は立ち上がってミリアと向き合った。
「大きな声を出さないで。あの娘の命にかかわる」
 男は瞬時に後ろに数メートル跳びすさった。
「わかりました。それにしても不思議な物を見せていただいた」
 ミリアはその素早さに相手がただの人間では無い事に気づいた。
「そう、エルディが警告していたのはこれね」
 そして試しにその男の魔力を探ってハッとした。
「あなたね。カインザーでゾックを率いていたのは」
「はい。テイリンと申します。ある理由でミルトラの水というものが必要なのです」
 ミリアは厳しい表情になった。
「確かにあなたが手にしたのはミルトラの水。でもそれはエルネイア姫が命をかけて紡いだセントーンの命の源。マルトン神の名にかけて私はそれを渡すわけにはいかない」
 テイリンも気づいた。
「翼の神の弟子、魔術師ミリアというのがあなたですね」
 ミリアはテイリンと名乗った魔法使いをよく見てクスリと笑った。
「あなた中々可愛いわね。マルヴェスターも不思議がっていた魔法の謎を教えてもらうわよ」
 テイリンは笑った。
「それは私が知りたいくらいです。でも捕まるわけにはいきません。ザラッカの元でゾックが私を待っています」
「おお危ない、ザラッカに大事な者を預けるなんて。それは急いで帰ったほうがよさそうね。でも私は逃がさない」
 テイリンは青い光の踊る洞窟の中で影にまぎれ込んだ。ミリアは漆黒の髪を揺らしてしてこれを追おうとした。その時、水の中で目覚めたエルネイアが立ち上がった。
「どうしたの」
「エル、気をつけて。黒の魔法使いが侵入してきたの」 
 エルネイアは素早くミリアの後ろに隠れた。テイリンとエルネイアの間にミリアが立つ。テイリンは足下の泉の水に指を向けて呼びかけた。水は応えて二メートル程の高さの壁になってテイリンとミリアの間を塞いだ。それを見たエルネイアが驚いた。
「あれは誰。セントーンの水はミルトラ様の力の及ぶもののはず。なぜ彼はこの泉の水を操れるの」
「ただの黒の魔法使いで無い事は確かね」
 ミリアは水の中に踏み込んで、テイリンの前の水の壁に手をつけた。水はそのままミリアを包んだ。黄色のドレスが水にぬれて美しい体の線があらわになった。
「水自体に害は無いわ」
 ミリアは腕をひねって水を鞭のように腕にまといつかせると水の壁を腕に巻き取った。テイリンはその魔力の静けさに驚いた。
(さすがに翼の神の弟子の力は凄い)
 ミリアはその水を水面に戻すと、テイリンにむけて跳んだ。テイリンは巨竜ドラティの血で強化されたスピードでミリアの前から消えるように移動した。
「やるわね」
 テイリンは泉のある洞窟から跳びだした。その後をミリアが追う。
 洞窟の外はうっそうとした森に包まれていた。警備の兵はその森の外側を固めている。テイリンが地面に手の平を向けると、地面の土や落ちた木々の葉が舞い上がった。それを見たミリアが手で円を描いて前に押し出すと、その土埃の渦の中にポッカリと穴が開いた。テイリンは唖然として穴越しに美しい女魔術師を見つめた。
「本気を出してご覧なさい。坊や」
 テイリンは反射的に右手の指を立てた。すると光の針が人さし指と中指の間に立った。しかしミリアの姿を見てテイリンは躊躇した。
「甘いよ」
 ミリアはテイリンの上に跳び上がって真下のテイリンに向けて力の糸をかぶせた。テイリンは猛烈な力で体が大地に縛りつけられるのを感じた。ミリアはテイリンの後ろに降り立ってテイリンに手を伸ばした。しかしテイリンは体に巻き付いた糸から逆に大地の力を吸い取ると、その糸を手の中に丸めて後ろにいるミリアに投げつけた。ミリアがそれをよけている間にテイリンは近くにある木の上に駆け上がった。
「もうっ、手間をかけて」
 そう吐き捨てたミリアはテイリンの後を追って木を駆け上がったが、さすがにテイリンのほうが素早かった。テイリンは木から木に飛び移ると、一気に護衛兵達の包囲の向こう側に飛び降りた。ミリアは木の梢の上で笑った。
「いいわよ坊や。翼の神の弟子の力を見せてあげるわ」
 木の梢の上に立ち上がったミリアは、見る間に明るい黄色の羽を持つ鳥になって飛び立った。下には猛スピードで走るテイリンが見える。
(尋常の速度ではないわ。あれは魔法ではなくもっと本質的に彼の体の能力が上がっているのだわ)
 鳥になったミリアはテイリンに向けて急降下した。その時、テイリンの姿が一瞬ダブって見えた。
(何っ)
 ミリアは一回転して空中で踏みとどまった。これ以上行かないほうがいいと勘が告げている。テイリンはミリアの下を走り去って行った。ミリアはくるくる回りながら地上に降り立つと人間の姿に戻った。
(あの魔法使いとは別の何者かの力が邪魔をした)
 ミリアはすぐに頭を切り替えると、ドレスを翻しながらミルトラの泉に向かって急いだ。天が曇り、やがて雨が降ってきた。雨はミリアの美しい頬をぬらして細い首から豊かな体に流れ落ちた。
(ミルトラの乳は、ミルカの盾の守護者の心と一体となってミルトラの水となる。ミルトラ神は泉の水を天にあげて雨として降らす。雨はセント−ンの大平野を流れる幾筋もの川となって大地を潤し、力強く忍耐強く、そして明るい民をはぐくむ)
 ミリアの頬を流れる雨に暖かい涙が混じった。
(それはすべてあの美しく、健気で、感情の起伏の激しい女の子の犠牲によって成り立っているのだわ)
 ミルトラの泉がある森を守る兵士達は、ズブ濡れになって歩いてくる魔術師に少し驚いた様子だったが、ミリアはテイリンを追うように短く指示を伝えて洞窟に戻った。洞窟の中では空っぽになった泉の底でエルネイア姫が泣いていた。その肩に新しい水の雫が天井からしたたり落ちている。
「エル、冷えるわよ。さあ宮殿に帰りましょう」
 ミリアは若い娘の肩を抱いて立たせると、その細い体を抱きしめるようにしながら外に向かって歩き出した。

 ミルトラの泉を逃れたテイリンはまず川を目指した。どうしても船を見つけて一目散に海を目指すのだ。地理がよくわからないので、水に頼って移動するつもりだった。目的を達成した以上、テイリンには慎重に行動する必要が無くなっている。海に着いたら今度は海岸線沿いに南に逃げる。すでにセントーンに潜入してから一月以上たっているので、迎えの船は期待しないほうが良いだろう。
 このまま西に向かって山を登ればソンタール帝国領だが、国境線はソンタール帝国の東の将キルティアの軍によって閉鎖されていた。そこに飛び込むのはあまりに危険だ。何を考えているのかわからない東の将にはまだ接触しないほうが良いだろう。幸いまだセントーンの警備はテイリンを捉えていない。だが翼の神の弟子ミリアと対決した以上、自分の情報がセントーン全土に伝わるのは早いはずだ。
 テイリンは川岸に着くと船を探した。だが突然降り出した猛烈な雨に視界がせばまった。船着き場に急ごうとしたテイリンはその煙るような雨の向こうから、一人の女が歩いてくるのに気がついた。近づいてきた女に目を凝らすとその女の額で宝石が光った。女は微笑みながら近づいて来た。
「ザラッカの言った魔法使いね」
 テイリンは驚いた。
「あなたがバルトールのマスター、メソルですか。しかしなぜ私がここにいるとわかりました」
 先ほどのミリアよりは少し年かさの落ち着いた雰囲気の女性は、黒い印象的な瞳でテイリンを見つめた。
「ミルトラの水は盾の守護者と共にあるのでしょう。ならばここで待てばあなたに会えるわ」
 テイリンは驚いた。
「あなたはそれを知っていたのですか」
「ええ。バルトールはシャンダイアの五つの王国の一つ。私はそこの七人のマスターの一人だもの。さあ脱出するわよ、急いで」
 テイリンはメソルに導かれるまま、小舟に乗って川の中央にこぎ出た。そこには中型の商船が停泊していた。テイリン達が乗り込むと船は滑るように川の流れに乗った。テイリンは雨に打たれた河岸の森や家並みが、流れるように目の前を過ぎ去って行くのをしばらく茫然とした思いで見つめていた。メソルの船は追い風を受けてみるみる速度を上げていった。
 その日の夕方、あてがわれた部屋で疲れを癒していたテイリンは、だんだん頭痛と吐き気を覚えてきた。どうしたものかとフラフラしながら甲板に出て、雨が止んだ後の星空を眺めながら手摺りにもたれていたテイリンに、メソルが近づいてきた。
「どうした小鬼の魔法使い」
 テイリンはぼんやりとした目を向けた。
「なんだか異様に気持ちが悪いのです」
 メソルは姿に似合わぬ豪快な声で大笑いした。その声がテイリンの頭にガンガン響いた。テイリンは情け無さそうに続けた。
「私はある程度の治癒の力を持っているのですが、どうも自分にはうまく効かないようで」
 メソルはまた大笑いした。
「ただの船酔いだよ。もっとはらわたを鍛えな、坊や」
 テイリンは高位の黒の神官である獣の魔法使いを坊や扱いする女性に、二人も続けて会った事に面食らっていた。でもその事はあまりに殺伐とした世界に踏み込んでしまっていた自分の心を、忘れかけていた故郷の日常に取り戻してくれるような気もした。

 セルダン達のいるザイマンから遥かに北方、テイリンが脱出したセントーンからは遥かに西方にあたる智慧の峰サルパートにはもう早い秋が訪れようとしていた。テイト城を出発したアシュアン、エラクの両伯爵を乗せた馬車はその秋から逃れるようにサルパート山脈の南をまわって、山脈の東側の夏の名残が豊かな街道をゆっくりと進んでいた。そしてある日、かつて吟遊詩人サシ・カシュウがマスター・モントにさらわれた村に宿泊した。もちろん二人はそんな事があった事など知らない。
 町は北方の要衝となりつつあるサムサラに向かって街道を進んだカイト・ベーレンスの指示によって整備され、カインザーの部隊も駐屯していた。それでもこのあたりはソンタールに対して手薄になっているのだが、軍事拠点が無いため直接の戦場になる可能性は低いと思われていた。
 その夜、アシュアンとエラクは町一番の宿で部屋に食事を運ばせ、これからの計画を話し合っていた。エラクは赤いワインを楽しげに飲みながら言った。
「この街道はすっかりカインザーの勢力圏になりましたね」
 部屋着に着替えてくつろいだ様子のアシュアンが首を振った。
「いえいえ、地理的に言えばサルパート圏ですよ。外交担当者同士の話し合いなのでそのあたりはきちんとしておきましょう」
 学者肌のエラクは笑った。
「シャンダイアが再び統一されれば、カインザーやサルパート等と呼ばれる国は無くなるでしょう。現在の王はただ候と呼ばれる事になるはずです」
「なる程、それはそうですな。そうなると王は誰になります」
 エラクは目を光らせた。
「それは十分に話し合わなければなりません。知性に溢れた政策が問題になって参りますので」
「それはいかがでしょう。力なき王には民は従いませんぞ」
 その時、部屋の扉にノックの音がした。アシュアンが応じると、一人の物静かな老人が部屋に入ってきた。エラクが驚いて声をあげた。
「おお、マスター・モント」
 老人も嬉しそうに声をあげた。
「久しぶりですな。お二方ともお元気でなによりです」
「あなたもご健勝なようでよかった。北の将の要塞の陥落以来になりますね。まあ、お座りください」
 モントはすすめられて二人と同じテーブルについた。
「オルドン王の要請でしてな。どうやら私はベリック王がお帰りになるまで、バルトールの外交担当者になったらしい」
「ほう、それはまさに適任」
「ベリック王の帰還を生きて目にできたのです。もう思い残す事は無い。あとは私に出来る事であれば何でもさせていただくつもりです」
 そう言って一息ついてから、二人に向かって笑顔を見せた。
「さてと、すみませんが私が聞きのがした所から聞かせていただけませんかな。カインザーのオルドン王とサルパートのマキア王から、お二方がなぜサムサラに向かっているのかをまず聞くようにと申し付けられております」
 アシュアンとエラクは顔を見合わせた。アシュアンが口を開いた。
「そうですね。あなたにも知っていただく必要がある」 
 ワインをつごうとしたエラクがアシュアンを遮った。 
「その話の前に一つうかがいたい。あなたはシャンダイアが統一された時、王になる人物には何が求められると思いますか」   
 モントはニコニコとした笑顔で答えた。
「それはもちろん、商業の才能でしょう。王は国を富ませなければなりません」
 三人の外交担当者はそれぞれの思いを込めて乾杯をした。

(第六章に続く)

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