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シャンダイア物語

第三部 海洋民族の島
第六章 天の星と大地の花と

福田弘生

 航海九十八日目

 ブライスの艦隊に最初にはせ参じたのは、朱色に塗られた美しいガレー戦艦が率いる七隻の艦隊だった。そのマストの先端に翻る旗には鮮やかなイルカの紋章が染め抜かれていた。ブライスがその船を見た時の複雑な表情を私は忘れない。次の寄港地で朱色の戦艦はブライスの旗艦に寄り添うように着岸し、皆の見守る中で岸に渡されたタラップから船長が降りてきた。船長は目を瞠るほどに美しい女性だった。肉感的な体に褐色の肌、乱暴なくらいに広がった黒い髪。赤い唇と大きな青い目。真っ赤な短いズボンに赤いチョッキ。腕はむき出しで左の手首には輝く宝石の腕輪をつけている。
 ベゼラと紹介されたその女性は、ザイマンで王家、デル・ゲイブに次ぐ第三の実力者のイズラハ侯爵の娘だそうだ。ベゼラとブライスの過去に何があったのかは知らない。だが私も女だから、二人の間にかつて細やかな気持ちの交流があった事はすぐにわかる。
 二人が言葉をかけ合う時、私はちょっとのけものにされたような気持ちになる。

(スハーラ・レリスの航海日誌より)

 乾いたカインザーの大地に珍しく雨が降ったある日の昼下がり。若きバルトールマスターであるアントンは、自分の部屋にバルトール人のクチュクを呼んだ。太った商人がいそいそと参じると、アントンは豪勢な部屋の中央の低い机の上に何枚かの白い札を並べていた。クチュクがそれを覗き込むと、そこには少年の不格好な文字で短い単語が書かれていた。
「何ですかこれは」
 アントンはその札の中の「フオラ」と書かれた札を自分の手前に置き、その上に「シャンダイア」と書かれた札を縦に並べて置いた。そして顔を上げた。
「いつだったか、人の正体を調べるにはまず本当の名前をつきとめる事だって教えてくれたよね」
 そう言って先に並べられた二枚の札の上に、残りの札を横に並べて置いた。クチュクがアントンの後ろにまわって横に並べられた札を読み上げた。
「アケニエ、アカナン、アムロリラ、アナハ、アレメイ、アロス。私が書きだした、ア、で始まる花の名前ですね」
「ああ、どれかはわからないけれど、たぶんこの中のどれかだと思う。試しにアムロリラとしてみよう」
 アントンは中央にあった「アムロリラ」と書かれた札を机の上に残すと、残りの札を重ねて手の中にしまった。机の上には三枚の札が縦に並べられて残った。
「続けて読んでくれないか」
「アムロリラ・シャンダイア・フオラ」
「わかるかい」
 クチュクは髭の無いあごを指でなでた。
「ええ、この並びはシャンダイア王家の者につけられる名前です。花の名前で始まるのは女性ですが、フオラは星座の男読みですよ」
 アントンはその三枚の札を上から一枚ずつ順に裏返した。裏には似たような音の文字が書かれてあった。
「これでいいんだろう。読んでくれ」
「アーヤ・シャン・フーイ」
 クチュクは読み上げて息を飲んだ。
「アントン様、これは」
 アントンは札をかきあつめて暖炉に放り込むと、火打ち石を使って火をつけた。そして小さく煙をあげる暖炉を背に立ち上がった。
「誰にも言うなよ。僕らは、今世界で一番大切な宝物を守っているんだ」
 クチュクは震える体を抱くようにしてうなずいた。

 ザイマン海洋王国の首都ザ・カラドを発進したブライスの艦隊は、続々とはせ参じた船長達が加わって徐々にその数を増やしていった。出航当初はいささかふさぎ込んでいたブライスだが、船の数が増えるに連れてその表情が明るくなってゆくのが仲間達にはわかった。
 そして風を受けて颯爽と進む大船団は、出航から二週間程でいよいよアードベルの町を目前にする場所にやって来た。この地には弟弟子のトーム・ザンプタがいるはずだと、北に向かった魔術師マルヴェスターが言い残している。
 アードベルはザイマン五島の一番東にある島の南側に位置している。海上から見るとアードベルの港は平たい緑の密林の中に埋まっているように見えた。町の中には細い川が網の目のように走り、その上流にはいくつもの小さな池とやや大きめの沼がある。白いシャツに短い筒のようなゆるいズボンをはいたスハーラが、船べりから陰うつな町を見渡して顔をしかめた。ゆるい暖かい風が吹いている。
「ずいぶん湿気ているわねえ、なんて生暖かい風なのかしら」
 一緒に甲板に出ていたブライスは意外といった顔をした。
「そうかな、港町なんてこんなもんだろう」
「あなたはこんな気候はへいちゃらかもしれないけれど、サルパート育ちの私にはほとんど生存不可能だわ」
「なるほど、確かにサルパートとは正反対だな。でも俺はサルパートの乾いた寒さを我慢したぞ」
 スハーラは怖い目つきでブライスを睨んだ。
「私の愛情を試さないほうがいいわよ」
「愛情というのは試すものなのか」
 スハーラは隣に並んで航行している赤い船に目を移した。
「試すの、試し続けて二人で老いてゆくのよ。そのほうがいいわ、お互いの成長にあわせて心を確かめ合っていけるもの」
 スハーラは悲しそうな目でブライスを見た。
「サンザ様と北の将ライバーは試す事ができなかった。若いころに燃え上がった心だけを抱いて互いに離れたまま年老いてしまった。それがあんな悲しい結果になってしまったのよ」
「二人は不幸だったと思うか」
「死ぬ前のサンザ様は楽しそうだった。でも私は幸せだったとは思わない」
 ブライスがスハーラの肩に手をまわそうとしたが、スハーラはその手を払い、クスリと笑った。
「ベゼラ様はあなたのお友達なの」
 ブライスはちょっとひるんだ。
「幼なじみさ。俺と、ベゼラとデル」
 スハーラは驚いた。
「デル・ゲイブとも仲が良かったの」
「まあな」
 ブライスはそれ以上言わずにその場を離れた。その頭の上でカスハの冠が光っていた。
 ザイマンは海洋国家なのでどの港にも立派な設備があったが、ソンタールに面していない南側のアードベルの港は規模が小さかったので、ブライスとベゼラの艦隊だけが入港する事にして、残りは少し離れた所にある港に別れて入港した。陸地に降りるとブライスはすぐにこの地を治めているニガッソ男爵に使いを出した。合流したベゼラが使いに走って行く男を見やりながら言った。
「ニガッソは来ないと思うわ。デル・ゲイブの家臣みたいな者だもの」
「この国の王は俺の親父のドレアントのはずだぜ」
「デルも王家だし、南部では昔からゲイブ家の勢力が強いもの」
 ブライスは面白く無さそうに、ズカズカと町に向かって歩き出した。セルダンら他の者達は急いでその後を追った。

 その夜、セルダンとブライスを中心にした主立った者達は、町の入り口にある大きな宿に宿泊した。
 夕食が終わった後、ブライスとセルダンは食堂の椅子に座って物足りなそうに残り物をつつき、スハーラはテーブルの上に薬箱を広げて何かつぶやいていた。セルダンが頬杖をつきながらスハーラにたずねた。
「スハーラさん、虫よけの魔法はできた」
「ちょっと待って、もう少し時間がかかりそう」
 赤いマントを身にまとったベゼラは、剣を腰に差して立ったまま宿の窓から外を警戒していた。そのベゼラが心地良く響く低い声で言った。
「大丈夫かしら。ニガッソ男爵はデルのご機嫌を取るためなら何でもする男よ。船にいたほうが安全なんじゃないかしら」
 ブライスが温かくなってしまったビールを飲み干した。
「大丈夫だ。この宿のまわりにはベロフの抜刀隊が警備についている。喜ぶべきか悲しむべきか、ザイマンの兵士じゃとても歯が立たない」
 そのベロフが腕をピシャピシャしながら部屋に入ってきた。
「スハーラ殿、虫よけの魔法を急いでください。カインザーは乾燥した土地が多かったせいか、我々はこれ程の数の虫には慣れていません。兵達が集中力を保つのが難しくなってきています」
 ブライスが笑った。
「さすがの抜刀隊も虫には勝てんか」
 そこに兄のアタルスを先にカッソーに送りだしたポルタスとタスカルが情報収集から帰って来た。セルダンが近づいて来た二人に気が付いて鼻をピクつかせた。
「妙な匂いがしてるね」
 ポルタスが胸のあたりをパタパタとはたいた。
「ええ、虫よけの香を焚き込んでいますので」
 それを聞いたベロフがうなった。
「そういう事は早く言うものだ。その香はどこにある」
「このあたりの家にはどこにでもあります。宿の主人が持っているでしょう」
 ベロフは宿の主人に香を頼みに部屋を出た。セルダンはポルタスに聞いた。
「どう、何かトーム・ザンプタについての情報はあった」
「いえ、アードベルの町は相変わらずです。ニガッソ男爵のとりとめのない政策の変更が続いています。まあ、どう変わろうとあまり市民の生活に変化は無いでしょうが」
 タスカルがその後を継いだ。 
「変わった事と言えば内陸の沼地に怪物がいるという噂くらいでしょうか」
 セルダンがちょっと嬉しそうな顔をした。
「よしよし怪物と来たな。で、その被害は」
「有るような、無いような。どうも何かを見たという噂に尾ひれがついたような感じの話ばかりです」
 ブライスが空っぽのビールジョッキを振りながら言った。
「アードベルの沼の怪物の噂は昔からだろう。ありとあらゆる怪物がここにいるような話が伝わっているぞ。ニガッソがちゃんと川や沼地を整備すりゃいいんだが、ニガッソ家のものぐさぶりはつとに名高いからな。もっとも歴代のザイマン王も昔からこの地方には無頓着だった。海をへだてた南の将とユマールの将との戦いが忙しかったからな」
 ベゼラがブライスの後ろに立った。スハーラは相変わらず呪文を唱えながらベゼラを見た。野性的な女船長は今夜はとても美しく見える。
「でも沼地に何かがいるのは確かだと思うわ。伝説と呼べる程の昔から伝わっている話もあるくらいだから」
「ならば行ってみるか。他に変わった事は無いしな」
 ブライスがいささか投げやりに答えた。セルダンは伸びをして立ち上がった。
「どうしてマルヴェスター様にトーム・ザンプタの事を詳しく聞かなかったの」
「元マルトン神の弟子程の人物なら、それなりにこの地方で有名だと思ってたんだ」
 ベゼラが面白そうに笑った。
「あなたもあなたのお父さんもいつもそうね。ザイマンの国内の事情について驚くほど知らない」
「エルディ神よりは知っているぞ」
 ベゼラはちょっと驚いた。
「そうなの」
「ああ」
「そう。それはともかく、南の将グルバやユマールの将ライケンと戦うのもいいけれど、あなたも時々は自分の領地を巡航したほうがいいわ。ああ見えてデル・ゲイブという男は細かい所まで目が届くの。彼に恩義を感じている領主や船長はザイマンの中に多いのよ」
 ブライスが馬鹿にしたように笑った。
「デルが海戦で先頭に立った姿を見た者がいるか」
「私は仲良くして欲しいのよ。王家が戦いの先頭に立ち、ゲイブ家が国内をまとめる。元々そういう役割だったはずなのに、あなたとゲイブの仲が悪くなってしまったから、自然に貴族達も両派に別れてしまったのよ」
 ブライスは黙ってベゼラを見つめた。ベゼラはうつむいて外に目を向けた。スハーラはベゼラがブライスに何かを話さなければならない事を迷っているのに気が付いた。

 翌日、セルダン達は町を出て内陸の湖沼地帯に進んだ。向かったのはセルダン、ブライス、スハーラの三人の守護者。ベゼラ船長、ベロフ男爵、そしてポルタスとタスカルの兄弟。今回は抜刀隊は二十名しか引き連れていなかった、むしろニガッソ男爵のほうに警戒したのだ。ブライスはさすがに暑くて汗をかくので、船上でかぶっていた冠を背中の袋に入れて運ぶ事にした。
 一行は濃い緑の密林の中の、乾いた粉のような茶色い土の道をたどって暑い空気の中を歩いた。奥地に進んで五日は人が住む村に泊まり、六日目からは漁師や狩をする者達が使う小屋に泊まった。そして九日目、一行は人気の無い淵で釣りをしている一人の老人に出会った。一番最初に見つけたブライスが、小走りに近づいて大声でたずねた。
「じいさん、釣れるかい」
 皺だらけで、簡素な衣服を来た老人は嫌な顔をして振り向くとつばを吐いた。
「うるさいわい。おまえの大声で逃げた」
 ブライスがムッとして言い返した。
「嘘つけい。糸がちっとも揺れてなかったぞ」
 負けじと耳障りなガラガラ声で老人が応じた。
「若いのに細かい事を言うな。馬鹿者め」
「なんだと。嫌なじじいだな」
「まあまあ」
 セルダンが割って入ると、老人は釣り竿を上げてさっさとその場から離れようとした。セルダンはあわてて呼び止めた。
「ちょっと待ってください。このあたりに妙な出来事はありませんか」
 老人はうさんくさげにセルダンを見た。
「アホウかおまえらは、おまえらが一番妙じゃろう。何だその腰の化け物みたいな剣は」
「いや、これは」
 セルダンは仲間を振り向いた。
「そんなにおかしいか」
 老人は興味無さそうにセルダンを見て目を細めた。
「カインザー人か。どうりで鈍いわい」
 そう言いながら老人は他の者を見回してちょっと驚いた表情をした。
「なんとカインザーの戦士にサルパートの巫女か。おまえたちゃ何しに来た」
 ベゼラが進み出た。
「私はイズラハ公爵の娘ベゼラ。ここいいるのはカインザーのセルダン王子。そして最初に声をかけた大きな男がザイマンのブライス王子。そして白い衣装の方がサルパートのスハーラ殿。決して怪しい者ではありません」
 老人はまたつばを吐いた。
「なんじゃ物々しい。これ以上に怪しい者達がいるかい。ここは静かな生き物達の住み処だ。出て行け」
 老人はそう言うとアッという間に森の中に去って行った。スハーラは老人の言葉の奇妙さに気が付いた。
「ねえ、あのおじいさん、私達の人種をすぐに見分けたわ。こんな奥地に住んでいる人にしてはおかしいわ」
 ブライスはカンカンに怒っている。
「ザイマン人はほとんどの者が航海の経験を持っている。おそらく昔は船乗りだったんだろう」
「それだけかしら」
「それ以上の者じゃないだろう」
 スハーラはまだ気にしているようだったが、ブライスの怒りにその場はそれ以上口にしなかった。
 その夜、一行は沼地の近くの無人の小屋を中心にテントを張った。ようやく虫よけの魔法を使いこなせるようになったスハーラのおかげで、この数日一行は快適な夜を過ごす事が出来るようになっている。このあたりまで来ればニガッソ男爵が不意打ちをかける可能性も低いだろうと言う事で、抜刀隊も警戒を解いてテントの中に入って休んだ。
 その夜遅く、暑さで中々寝つかれないセルダンは小屋の外に出て、星空の下に月を映して煌めく沼を見つめていた。この沼は今までに通り過ぎて来た沼に比べてかなり大きい。セルダンは見つめているうちに沼の中に色が付いた光が見えたような気がした。さらに目をこらすと確かに青い光とピンク色の光が水の中で揺れている。セルダンは小屋の中のブライスを外に呼んだ。
「なあ、ブライス。あれって何だろう」
 セルダンの指し示す先でチラつきながら揺れている青い光を見たブライスは、厳しい顔をして今度はスハーラを呼んだ。
「スハーラ、あの光に見覚えは無いか」
 セルダンとブライスが見つめる沼の表面を見て、スハーラの表情が月明かりの下でこわばった。
「嫌な物を思い出すわ。セルダン王子、アードベルの町に残してきたベロフの抜刀隊の全員を呼んだほうがいいかもしれないわよ」
 ブライスも同意した。
「セルダン、そうしてくれ。抜刀隊が来るまで、ここから先には進まないぞ」
「どうしたの」
「ここにいる者の中では俺とスハーラしか知らない。あれと同じ光をサルパートのジンネマンの大洞窟で見たんだ」
「まさか」
「ここは洞窟の中では無いが、今回はマルヴェスターがいない。もし俺が思う通りの物があそこにいるなら総掛かりで戦う準備をしてゆくぞ」
「大事な時期だよ。避けて行こうよ」
「ダメだ。俺の国にククルカートの悪魔がいるのならば俺にはそれを排除する義務がある」
 ブライスはセルダンの目を真っ直ぐに見た。そして湖を指さして厳しい声で言った。
「あそこに肉食植物のソチャプがいるのならば。俺は戦わないで通るわけにはいかないんだ」

 五日後の夕方、急いで駆けつけた抜刀隊が到着した。翌朝、ブライスは小屋の前の空き地に全員を集めて座らせた。
「いいか。これから君たちがかつて見た事の無い怪物と戦う事になるかもしれない。十分に心して慎重に行動して欲しい。スハーラ、君が知っている事を教えてくれないか」
「はい」
 スハーラは立ち上がって、暑さの中で完全武装した抜刀隊を見渡した。
「ソチャプはアイシム、バステラの二神がつくった最初期の植物です。肉食で巨大で青く光る触手とピンク色に光る花を持ちます。水棲ですが歩いて陸上でも移動できます。その速度についてはわかりませんが、住民が逃げ切れずに町が丸ごと全滅したのですから、かなりの速さなのでしょう」
 最前列にいたベロフがたずねた。
「夜行性なのですか」
「わかりません。ただククルカートの町が全滅したのは夜です。サルパートでは洞窟の中に生き残っていた事から推測しても、夜に活動的になる可能性が高いと思います」
 ブライスが長い棒で地面をつついた。
「昼間にひきずり出せればいいんだが、まずは湖を見下ろす場所から偵察してみよう」
 そこで一行は二手に別れた。セルダンはベロフ、タルカス、ポスタルと抜刀隊百人を連れて湖を東に、ブライスはスハーラ、ベゼラと抜刀隊百人を連れて西に回る事になった。
 沼のまわりはなだらかな山に囲まれているので偵察はたやすいように思われたが、そこに育成している樹木がかつて人の侵入を許した事が無いのは確かだった。下生えを切り分けて少しずつ森の中を進んで行くと、その森の中のどこからかいつかの老人がひょっこりセルダン達の前に現れた。セルダンはキョトンとして声をかけた。
「こんにちは、おじいさん」
 老人はチラリとセルダンを見てプイと顔をそむけた。
「まだいるのか。さっさと立ち去れ」
 そう言ってつばを吐いた。セルダンは駆け寄って両手を広げて説明した。
「そうはいかない。この沼にソチャプと呼ばれる巨大な肉食の植物がいるらしいんですよ。危険ですからおじいさんもここに近づかないほうが良いですよ」
 老人は驚いたようにセルダンを見た。
「おぬしらどうしてソチャプの事を知っている」
「一緒に来たブライスが見たことがあるんです」
 老人は地団駄を踏みながら叫んだ。
「馬鹿な。ソチャプは滅んだぞ」
 セルダンは首を振った。
「サルパートにいたんです。ジンネマンと呼ばれる大洞窟の中の、地底の池に生き残っていたそうです」
 老人はすこし唖然とした様子だったが、顔を二三度振ってセルダンにたずねた。
「そうか、ジンネマンか。で、誰か食われたか」
「マルヴェスター様が退治しました」
 今度は老人はみるからにうろたえてセルダンの背を向けた。
「なんと。大地の花の生き残りを滅ぼしたのか」
 そうポツリと言うと、老人はブツブツとつぶやきながら無意識に沼に向かって歩き出した。セルダンがあわてて止めようとしたのをベロフが制した。
「王子、どうもおかしい」
 老人は沼に歩いていくとそのまま水に踏み込んだ。そして次の瞬間に見えなくなった。あわてて抜刀隊の数人が水に入ってあたりを見回した。
「いません」
「どこに消えたんだ」
 ベロフが推測した。
「木が密生していますので、視界が遮られている所がたくさんあります。地元の者ですので我々の知らない場所に隠れたのでしょう」
「よし、今日はここまでにしておこう」
 セルダン達は様々な疑問を胸に小屋に戻った。

 その夜、ブライスが作戦を決めた。
「餌を沼に投げ込んでみよう、明日の夜にやってみる。たいまつと弓を用意しておいてくれ」
 翌日の夜、かがり火の明かりの元で、抜刀隊がしとめた鹿に縄をつけて木の枝でつくった大弓にのせて沼に打ち込んだ。抜刀隊がゆっくりとその餌を引いた。一回、二回、三回とそれが繰り返されたが、沼には何の変化も無かった。それを眺めていたセルダンが退屈そうに言った。
「この調子で続けるの」
「もちろんだ。ソチャプの恐ろしさは見たものしかわからない」
 ブライスはいつになく熱心だった。セルダンは一人で前に進み出ると沼に近づいた。
「アイテム、バステラの二神がつくった初期の生き物ならば、聖宝に反応しないかな。ここに三つもあるんだぜ」
「冠を投げろとでも言うのか」
「いや、剣を水につけて」
 セルダンは沼の浅瀬の水の中に立つと、カンゼルの剣を沼の水に沈めた。そして剣に力を込めた。しばらくすると剣がにぶくオレンジ色に光り出し、その光の筋は一気に沼の対岸までのびた。ブライスが驚いた。
「おい、いつそんな使い方を覚えたんだ」
 セルダンは嬉しそうに顔を振り向けた。
「ギルゾンと戦っている時さ。ギルゾンは黒の短剣を何倍もの長さで使った。使い手が力の使い方さえ覚えればカンゼルの剣でも出来ると思ったんだ」
 セルダンは沼の端から沼全体をなでるように光を動かした。その時、突然後ろの森の中から人間が飛び出してきて、バシャバシャと水を蹴立ててセルダンの前の水を乱した。剣の光は乱れた水のせいで揺らめいて一気に剣の長さまで縮んでしまった。セルダンが驚いて立ち上がった。
「おじいさん」
「やめんか、アホウども」
 ブライスが駆け寄った。
「ジイさん、何をするんだ。あんた何者だ」
「誰でも良いわい。カンゼルの剣をそんなふうに使うな、沼ごと煮え返ってしまうぞ。マルヴェスターは聖宝のまともな使い方も教えなかったのか」
 セルダンが驚いてカンゼルの剣を水から上げた。ブライスの後ろにいたスハーラがハタと気が付いた。
「もしかしてあなたは、元マルトン神の弟子のトーム・ザンプタ様ではありませんか」
 それを聞いた老人は大笑いした。
「懐かしい名前を聞くのう。そう名乗っていた事もあった」
 今度はスハーラが駆け寄った。
「マルヴェスター様に、あなたを探して力を借りろと言われました」
 老人は鼻で笑った。
「何をいまさら。わしに翼の神の弟子の真似はできんわい」  
 セルダンが驚いて目の前の老人を見つめた。
「あなたがザンプタだったんですか。僕たちはその翼のある怪物と戦う力を借りたいんです」
 老人の目が光った。
「翼のある怪物だと」
「不滅の鷲デルメッツです」
「ああデルメッツか、俺は嫌だ」
「どうしてです」
 ザンプタは頭の真上に指を向けて、天に瞬く星を指さした。
「俺はあれが欲しかった、俺は空を飛びたかったんだ。だから翼の神の弟子になった。しかし無理だったんだ」
 ザンプタがそう言った時、その後ろの沼の中央に噴水があがるようにして青い輝きをおびた植物のツタが突き出した。ブライスがあえいだ。
「ソチャプだ。間違い無い」
 ザンプタは振り返ると水の中に踏み出した。
「あぶないぜじいさん」
「アホウ。見ておれ」
 ザンプタは手を大きく広げてソチャプに向かった。水面には次々にソチャプのツタが現れた。セルダン達が唖然として見守る中、ツタはとぐろを巻くようにしてザンプタに押し寄せるとその体を包み込んだ。抜刀隊の後ろで見ていたベゼラが悲鳴を上げた。ソチャプのツタは波打つように盛り上がり、やがてその向こうにピンク色の花が浮かび上がった。花はまだつぼみのように閉じている。ベロフが部下の抜刀隊に叫んだ。
「皆下がれ、岸から離れろ」
「その必要は無い」
 ソチャプのほうから鋭い叫び声が聞こえた。やがて視界を遮るほどのソチャプのツタがゆっくりと開くと、ピンク色の花のつぼみの前のツタの上に不思議な姿の生物が立っていた。それを見たスハーラが息をのんだ。
「ホックノック族」
 月光の下ではその肌の色は見えないが、肌色で無い事は確かだった。背の高さは一メートル六十センチ程、硬そうな皮膚が濡れて光る。人ととかげの合の子のような顔が無表情にセルダン達を見つめた。そのホックノック族の男はゴロゴロとした声で言った。
「セルダン、ブライス、そしてスハーラ。聖なる宝の守護者達よ、これがわしの本来の姿だ。俺は水の属性を持つ精霊だ。俺にはマルトン神の魔法が操れなかった、マルヴェスターのようには鳥にはなれなかったのだ」
 セルダンが勢い込んで言った。
「ミッチ・ピッチの弟だ、そうですね。あのシュシュ、何だっけ」
 トーム・ザンプタは濁った声で笑った。
「さらに懐かしい名前じゃな」
「シュシュシュ・フスト」
 スハーラが言った。
「ミリア様が言った通り、エルディ神が私達に探索を依頼したというのは、私達が進む道にあなたがいる事を感じていたんだわ」
 ブライスが驚いた。
「シュシュシュ・フストとトーム・ザンプタが同一人物だったなんて」
「人では無いわい、わしはホックノックだ。そして今ではこの大地の花を守ってここで暮らしておる」
「守ってるって、こいつを育てているのか」
「そうだ」
 ソチャプのツタはトーム・ザンプタを乗せてセルダンとブライスに近づいた。その時ブライスが気が付いた。
「このソチャプは大きいぞ、スハーラ」
「ええ、私も気が付きました。ジンネマンの洞窟のものより二回りくらい大きいわ」
 ザンプタがゴロゴロと説明した。
「おまえらがサルパートで見たのは、おそらく洞窟の池のサイズにしか成長できなかったものだろう。ソチャプは元々このくらいになるんじゃ」
 ソチャプのつぼみがゆっくりと開いた。その花は直径で十メートルはあろうかという大きなものだった。ザンプタはツタの上から沼に飛び降りてアッという間に皆の前の岸に上がってきた。スハーラがたずねた。
「ソチャプは肉食でしょう、どうやって飼いならしたんですか」
「わしは元々水の妖精だった。水棲の生物と感応する能力があるんじゃ」
 ブライスがソチャプを眺めた。
「こいつは元々ザイマンにいた種なのか、今までに聞いた事が無いぞ」
 ザンプタが説明した。
「いや、ソンタールのランスタイン山脈だ。元々ソチャプは北のほうに棲息している、これの俗称の由来になったククルカートはランスタイン山脈の北にある町だった」
「見つけて、連れてきたんですか、こいつを」
「このままでは無い。アイシム、バステラの二神がこれを滅ぼそうと決意された後、ほとんど最後に生き残っていた花を見つけてその種を譲り受けたんだ。その花はわしに種を託して枯れた、それがこの素晴らしい花の最後かと思っておった。だからその種を遠く南の果ての人の目にふれないここまで持ってきて育てた。最初は気候に慣れさせるのが大変だった。成長すると、どう猛な性格を馴らすのに苦労した」
「でもジンネマンに一匹残っていたんだ」
「そうだ、だがマルヴェスターが滅ぼしたそうだな」
 スハーラが答えた。
「いいえ、厳密には死んでいません。後でマルヴェスター様に聞いてみたんです。ソチャプはマルヴェスター様とエイトリ神が、ピンク色の小さな薔薇に変えたそうです」
 ザンプタが驚いた。
「何と、ソチャプを薔薇に変えたのか、それは今はどこにあるのだ」
「マルヴェスター様はバルトールのベリック王に渡したそうです。ベリック王はサルパートのエレーデという馬と話の出来る少女の名前をそれに付けました。今ではエレーデの薔薇と呼ばれています」
 ホックノック族の姿がゆがんで人間の老人の姿になった。そのザンプタの顔に不思議な表情が浮かんだ。
「その薔薇を見てみたい」
「ベリック王は今、マルヴェスター様と一緒に旧バルトール地方に潜入しています」
 ザンプタはまわりの人間達を、問い掛けるように見回した。セルダンが言った。
「一緒に来てください。だけどその前に南の将グルバを倒して行かなければなりませんが」
「おまえらはどうしてそう戦いばかりにこだわるのだ。戦わずに手を繋ぐ方法を考えたら良かろう」
「できればそうしたいです。ただガザヴォックという魔法使いがそれを望んでいないと思うのです」
 ザンプタは険しい表情をした。
「わしがソチャプを見つけたのは、ロッグの監視をマルヴェスターに頼まれていた時の事だった。わしはロッグを見張っていなければならなかったのだが、偶然見つけたソチャプに心を奪われていささか監視を留守にしてしまった。その間にガザヴォックがロッグに潜入してバリオラ神を陥れてしまったのだが、たとえわしが気が付いていても、どうにも出来なかっただろう。確かにあの魔法使いを倒さねば平和は来るまいな」
 スハーラが歩み寄ってザンプタの手を取った。
「一緒に来てください。すでに黒い盾のゾノボートと黒い短剣のギルゾンを倒しました。今度は黒い剣の魔法使いザラッカを、次は黒い巻物の魔法使いレリーバを。一人ずつ倒してガザヴォックの力を排除してゆくのです」
 トーム・ザンプタは腰をのばした。そしてしばらく考えた後に、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「行くか、ここを離れるのは二千五百年ぶりという事になるが」
 ブライスがソチャプを見た。
「これはどうします。あなたがいなくなって、人を襲い出しませんか」
「大丈夫だ。ソチャプは肉食だけではない。滋養の高い水の中にいればそれだけでも枯れる事は無い。実際、この大きさを肉だけで維持するのは無理なのだ」
「ジンネマンの洞窟のような生き物が少ない場所でも生き延びられたのはそのせいですね」
「さよう、さすが智慧の峰の巫女は理解が早い。今夜一晩待ってくれ、わしはソチャプと話をする」

 翌朝、出発の支度をして待っていたセルダン達の前に、大きな楕円形の赤黒い石のような物をかかえた人間の姿のトーム・ザンプタが現れた。セルダンが聞いた。
「何ですか、それは」
「ソチャプの種だ」
 セルダンは興味深そうに近づいて表面に細かい皺が刻まれた種を観察した。
「これをどうするんですか」
「ザラッカを倒すにはデルメッツと戦わねばなるまい。ブライス、おまえさんの艦隊の船を数隻繋いで、ソチャプが乗るような大きさの船を用意できるか」
 ブライスはベゼラと顔を見合わせた。ベゼラが言った。
「あの、砲台が乗った船を使いましょう」
「そうだな。あれの左右にさらに一隻ずつ船を繋いで安定性を増せばいい」
「ふむ。わしはその船の中央でソチャプを育てる」
「デルメッツとソチャプを戦わせるのか」
「ソチャプは育った水で生きる。海水で育てれば、海でも棲息できる。デルメッツにからみついて水の中に引きずり込めれば、いかな不滅の鷲といえども深く傷付こう。その間にセルダン、お前がザラッカを仕留めるのだ。デルメッツは無理に殺す事は無い」
 ブライスはザンプタの抱きかかえている種を見た。
「しかし間に合うのか、グルバの艦隊と決戦するまであと数ヶ月しか無いぞ」
 ザンプタはしわがれた笑い声をあげた。
「海水を支配する力はホックノックの民に分け与えてしまったが、海の生命力をこの種に与えるくらいの魔力は残っておるよ。まかせておけ」
 ザンプタはスハーラにたずねた。
「知恵の神の巫女。船に着くまでの間、これが芽吹かないようにしておける魔法をエイトリは教えなかったかな」
「いえ、それは習っていませんが、溶けない氷の箱というのがあります」
「おお、あれを持ってきたか。それではこれを入れておいてくれ」
 スハーラは抜刀隊に言って、運んできていた箱を持ってこさせた。箱を開けると、生臭い匂いがただよった。ザンプタがのぞいて顔をしかめた。
「なんじゃこれは」
「あらいけない、まだ残っていたわ。ソホスの塩辛です」 
 ザンプタは驚いて箱から後ずさった。
「あんな物を食うのか」
 ブライスが腕を組んで笑った。
「あきれるだろう。カインザー人とサルパート人は何でも食うんだ」
 スハーラが首を左右に軽く振った。
「あら、そんな事はないわよ。トーム様、種を」
 ザンプタはちょっととまどった。
「様はいらん。それより一緒に入れて大丈夫なのか」
「もちろん」
 スハーラはトームから種を受け取ると、箱の中に押し込んだ。ザンプタは悲しそうな顔をしてブライスを見た。
「このソチャプが妙な匂いをさせない事を祈りたい。でないとわしも愛情を注ぎにくくなるかもしれんからな」
 ブライスがトームの肩をやさしく叩いた。こうして元マルトン神の弟子、海の精霊ホックノック族の始祖トーム・ザンプタはセルダンとブライス達の仲間に加わった。

 カインザーのアシュアン伯爵とサルパートのエラク伯爵、そしてバルトールのマスターモントの三人はモントの部下の用意した馬車でサムサラに築かれつつある城に入城した。新しい城は土塁を延々と築き、平原を遥かに見はるかすやぐらを持つ立派な物だった。かつてロッティやクライバーがこもった砦とはその堅牢さにおいて格段の差がある。こういうものを造らせると、カイト・ベーレンスという若者は無類にうまい。アシュアンは驚いた。
「カイトが作ったのでなければ、ここを造った者は王になるつもりなのかと疑うくらいの堅城だな」
 乾いた城壁を見たエラクは嬉しそうだった。
「これで北にあるマキア王の要塞に行く軍はなくなりますな」
「まあな。カイトが守るここが抜かれるようならば、サルパート兵が守る要塞はまず守り抜けまい。その時はもう一度ブンデンバート城まで引いたほうが良いだろう」
 エラクが首を振った。
「マキア王の性格では引きませんよ」
 モントは不思議そうだった。
「それが不思議です。こう言っては失礼かもしれませんが、聖王マキアというお方は特に勇気がある人にも見えないのですが」
 エラクがあっさりと応えた。
「意地っぱりなのです」
「それはそれで大事な特質ですよ。時には勇気よりも意地のほうが戦いを左右する時があるものです」
 三人は城の中庭で馬車を降りた。そこへ額の秀でた若いカイト・ベーレンスがニコニコしながらやってきた。
「これはこれは。こんな田舎にシャンダイアのきらびやかな外交官の方々が顔を揃えるなんてどうしたんです」
 アシュアンは嬉しそうにカイトと抱きあった。
「ちょいと用事があってな」
「牙の道に温泉をつくる計画ですか、それは僕も興味がありますよ。カインザー兵の傷ついた者達を養生させる場所があったほうが良いでしょう」
「いや、他の用件なんだ」
 カイトが警戒した。
「オルドン王が不思議がっていましたよ。僕はむしろあなたを送り返す役目になりそうですが」
「冷たい事を言うな。土産だ」
 そこでエラク伯爵が毛生え薬の入った箱を取りだした。カイトの目の色が変わった。
「レンゼン。ジキロロ。ミスカ。カンオア。何と高名な育毛の薬ばかり」
 エラクは微笑んだ。
「智慧の峰の医学の結晶です、試してみて下さい。少なくとも私の従兄弟には効果がありましたぞ」
 カイトの目には涙が浮かんでいた。
「何でもあなた方の言うことを聞きましょう」

 南の将の要塞は町の灯に照らし上げられて、平たい大地を背景に壮大な姿を浮かび上がらせていた。マスター・メソルの船の甲板から要塞を見つめているテイリンの後ろから、そのメソルが声をかけた。
「どうしたね、テイリン」
 テイリンは振り向いて手摺りに背をもたせた。
「あなたはなぜ南の将グルバに協力しているのですか」
 メソルはうっすらと笑った。
「ふむ、海の上の勢力というのは複雑なんだよ。むしろ陸の上より複雑かもしれない、船長というのは一人ひとりが王様だからね。そいつらを束ねていくには、お前さんの単純な敵味方の概念では計れない事がたくさんある。南の将グルバとザイマン王ドレアント、海賊王ドン・サントスとあたし、さらには他の海賊ども。色々と駆け引きがあるのさ」
「あなたはバルトールマスターでしょう。シャンダイアの復興のために何かしようとは思わないのですか」
「バルトールマスターもまた一人ひとりが王様でね。まあ、サルパートのモントとセントーンのリケル。そして新しいカインザーのアントというのはベリック王に尽くすつもりだろう。ユマールのケイフもそうかもしれん。だが最も勢力がある肝心のロッグのマサズは敢然とベリック王に叛旗を翻している。次に有力なグラン・エルバ・ソンタールのジザレは何を考えているのかさっぱりわからん。もしこの二人が組めばモントやリケル、ケイフあたりが手を結んでも対抗できん」
 テイリンは驚いた。
「グラン・エルバ・ソンタールにもバルトールマスターがいるのですか」
「当たり前だよ。何も知らんのだねえ、黒の神官達が儀式に使うモッホの粉は誰が調達していると思っていたんだい」
「そうかあ」
「そんな事を聞きたかったのか」
「いえ」
 テイリンはちょっと口ごもった。
「あの、このまま要塞に行けば、ザラッカにミルトラの水を渡さなければならなくなるでしょう」
「何だ、そんな事か。ミルトラの水は汲んできたすべてが必要なのか」
 テイリンはドラティの言葉を思い返した。
(ドラティはミルトラの水に浸けよと言っていた。でも浸ける程の水の量は最初から無い)
「いえ、どちらにしろ足りないかもしれません」
 マスター・メソルは右手の小指でポリポリと髪を掻いた。 
「おぬしその水の事をどれだけ知っているんだ。何に使うのか知らんが、その水は原液のまま使う必要は無いんだぞ」
「え」
「泉一つで、セントーン全土を潤す力の水だよ」
 テイリンはミリアと対決した後の豪雨を思い出した。
「あの雨は」
「ミルトラの雨じゃ。ミルトラの水をミルトラ神が汲み上げて全土に降らすのだよ。もっともこの事を知っているのは聖宝神とマルトンの弟子以外ではたぶん私だけだろうがね」
「あなたは何者です。そして何故私にその事を話すのです」
「私はメソル。そしてこれが秘密なのは、それを知れば泉が狙われるからだ。お前はもうすでに知っているからね。要塞から離れた所に降ろしてやるよ。水を必要な事に使ったら、適当に薄めてザラッカにやれば良かろう。もっとも私ならその前にゾックに飲ませるが」
 テイリンは呆気に取られた。
(考えもしなかった)
「あたしはこのままザイマンに帰る。ザラッカによろしく伝えておくれ」
 テイリンは要塞から遠く離れた陸地で船を降りると、要塞の灯を横目で眺めながらドラティの卵を隠した場所に向かった。

(第七章に続く)

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