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シャンダイア物語

第三部 海洋民族の島
第八章 イクス海の海戦

福田弘生

 航海二百四十五日目

 もうすっかり深い海の緑色の水を見慣れてしまった。ずいぶん遠くまで来てしまったと思う。サルパートは今はどの季節なのだろう、それすらもわからなくなっている自分に気が付く。ブライスもまた無口になってしまって、この頃さすがに心細くなる時がある。
 風の岬を出航した後の海路は不気味なくらいにおだやかだった。エルディ神のご加護なのか、海の精霊ミッチ・ピッチの力なのか、それとももっと大きな意志が働いているのか私にはわからない。マスター・メソルが艦隊に合流した時にはデクトと呼ばれる謎の男の姿は無かった。私は、あの長身の総髪の男が何か大きな意志に仕えているような予感がしてならない。
 私がエイトリ神からお預かりしているリラの巻物は、今回の戦いには役に立ちそうにない。私はせめて傷付いた者達の痛みを取り除き、癒す事に専念しよう。時々思うのだが、黒の神官達には癒しの魔法がちゃんとあるのだろうか。敵であっても人が苦しむのを見るのはとても辛い。

(スハーラ・レリスの航海日誌より)

 ブライスの率いるシャンダイア艦隊は戦闘配置をほぼ終えて進んでいる。グルバの艦隊より出撃が遅れた事によって、海戦の行われる海域はザイマンの近海になると予測されていたからだ。艦隊の中央にはザイマン王家直属の船団が堂々と進んでいた。これらは皆大型のガレー船で構成されていて、ブライスの旗艦がその中でも一際大きい。カインザーのバイルン子爵が率いてきたカインザー船団にはザイマンの熟練した船乗り達が操船のために乗船し、苦手な作業から解放されたバイルン子爵の弓兵を中心とする兵士達は、ザイマン貴族の各艦に分散して乗船した。残されたカインザーの船にはクライバー男爵の率いる兵が残っている。カインザー船は甲板が広いので、戦闘の際には戦いの足場として十分に役に立つだろう。
 ブライスの王室船団の後方にはトーム・ザンプタの巨大な船が続いている。アードベルの沼から種を持ち出してきたソチャプは、すでに巨大な成体になっていた。最初に作られた木の囲いのさらに外側に新たな囲いがつくられていたが、それでも所々から太い緑色の蔦がはみ出している。航海中の問題は船底から海中に出ている根で、これが船の速度を極端に落としていた。そのため現在では八隻の船で引いて艦隊に続いている。
 海戦の緒戦の段階ではブライスの船団は無防備なザンプタの船を守る事になるが、ソチャプとデルメッツの戦いが始まったら目標を南の将グルバに絞ってソンタールの艦隊に攻撃をかける事になっていた。ブライスは刺しちがえてでもグルバを倒す覚悟でいる。
 艦隊の左翼にはドン・サントスの海賊船団が進んでいる。セルダンとベロフはサントスの船に乗り、抜刀隊は各海賊船に分散して乗船していた。そして右翼にはマスター・メソルの率いるバルトール船団が配置され、ザイマンの貴族と船乗り達は三つに別れてそれぞれの船団についた。

 戦いがいよいよ真近に迫った日の朝、ブライスは何かに起こされたように早く目が覚めた。外はまだ薄暗いようだが、かなり明るさが増している。起き出して甲板に出てあたりを見回すと、エルディ神が甲板に置かれた樽の上に座っていた。今日の女神は薄い緑色の袖が長い着物に幅の広い帯をしめている。これはバルトールの女達が着るものに似ている。エルディはブライスを見ると、ピョコンと甲板に降り立った。
「ブライス、グルバと遭遇するまであと一日よ」
「ありがとう女神。俺達には鳥がいないから敵の接近を知るのが遅い」
「そのために私がいるのよ。それで調子はどう、勝てそう」
「正直、自信が無い」
 エルディは海面を埋める船の群れを見渡した。
「弱いのはどこ」
 ブライスは東に見えるやや小振りな船の集まりを指差した。
「右翼だ。左翼のサントスは戦い慣れしているが、メソルにはグルバの艦隊の相手はきつい。ザンプタの船の護衛のために中央が思ったより厚くなってしまったんだ。やっぱり親父を連れてきたほうが良かったかなあ。中央を頼んで、俺が右翼にまわれたのに」
「だめよ。もうザイマンの指導者はあなたなの。それにもうドレアントにグルバの相手は無理だわ、あなたがグルバを倒すのよ。右翼のメソルを中央にまわして、中央のザイマン貴族達を左翼のサントスの後ろに動かしなさい」
「右翼がからっぽになる」
「大丈夫よ」
 そう言ってエルディはメソルの船団のさらに向こうに見える東の水平線を指差した。海は朝日を浴びてまぶしいくらいに輝いている。
「デル・ゲイブが来るわ」
 ブライスが目をこらすと、光のきらめきに混じって小さな船影が水平線に見えた。
「デルとベゼラを右翼になさい」
 ブライスは笑った。
「これで最強の艦隊になるだろう」
「少なくともザイマン史上は最強ね。でもこの星で最強を名乗るのはグルバを倒してからだわ」
 ブライスがホッとしたようにため息をついて、太い腕をまわして頭をかいた。
「いや、これは俺の口がすべった。グルバは強敵だが、イクス海とマルバ海には親父もサントスもメソルもいて、グルバもそれなりに傷を負い続けてきた。五百年前の大海戦以来、無傷のまま虎視眈々と南下の機会を狙っているユマールの将ライケンの勢力のほうがおそらく大きいだろう。そしてその上にソンタールの海軍提督ゼイバーがいる。大エルバナ河を要塞化して七つの水上城塞で首都グラン・エルバへの水上の道を守っている」
 エルディがうなずいた。
「よくわかってるわねブライス。グルバ相手にあまり船を減らしてはだめよ。南の将の要塞を落としたら、セントーン沿岸の制海権を確保しなければならないのだから。すぐにライケンがやって来るわ」
「わかっている。だが船の数を減らすのを恐れていては勝てない」
「そう、それも確かなこと。たとえ南の将の要塞を手に入れても、ここにいる兵士達で守りきれるかも疑問だものね。まだまだシャンダイアの力は足りないわ」
「ああ、圧倒的に足りない。セントーンの制海権の確保と同時に、カインザーからの兵員の輸送も開始しなければならない」
 エルディが何か気にする様子で、慎重にブライスに言った。
「それから、デルの船団が近付いてきたら、ベゼラの朱色の船の旗をよく見てね」
 ブライスはちょっと不思議そうな顔をしたがすぐにうなずいた。
「ああわかった」
 エルディはマスター・メソルの小振りな船を探した。
「ねえ、ブライス、私がメソルに会うとメソルは驚くかしら」
「いや、そんな事を気にする女じゃあないだろう」
「そう、姉の気配が感じられた事について聞きたいのよ」
「それに関してはどうかなあ、かなり動揺していたようだから。おれたちの質問には何も答えなかった。あなたはバリオラ神の気配を感じなかったのですか」
 エルディは首を振った。
「何も。今、私の力で様子がわかるのはクライドンがいるカインザーと、エイトリがいるサルパート。そこまでは完全にシャンダイアが掌握している地域だから気配がわかるのだけれど、旧バルトール領に関しては力が届かないの」
「そうですか」
「でも姉が完全に復活していないのは確かだわ。それならばバルトールもシャンダイアに復帰して、私の力も届くはずだもの。おそらくメソルは巫女だけが持つ特殊な繋がりで姉の気配を感じ取ったのだと思う」
「なる程、目覚めはしたけれど。まだまだ力が戻っていないというわけか」
「そう思うわ。頼むわねブライス、おそらく今はベリックとマルヴェスターが懸命に姉を守っているのだと思う。早く助けてあげて」
 そう言ってエルディはブライスの頭に軽く手をやってやさしくなでると、ゆっくりと消えて行った。

 ブライスがメソルに中央部に入るように指示して、艦隊の編成替えを終えた頃、デル・ゲイブの船団がゆっくりと近付いてきて右翼に合流した。ブライスはさすがにザイマンの実力者といった風格のあるデルの船団の中にベゼラの朱色の船を探した。ベゼラの船はデルの一際大きく豪華な戦艦の横に寄り添うように進んでいた。その船のメインマストの先端には背に鎌のようなヒレのついた魚の絵柄の紋章の旗がなびいていた。それを見たブライスは納得したようにつぶやいた。
「そういう事か」
 ブライスと一緒にデル・ゲイブの船団を眺めていたスハーラがたずねた。
「どうしたの」
 ブライスがベゼラの船の旗を指さした。
「ベゼラの船にゲイブ家の紋章がなびいている。デルと婚約していたという事だ」
 スハーラは納得がいった。
「そう、以前にベゼラがあなたに何か言いたそうにしていたのは、それね」
 ブライスは心から驚いたようだった。
「そうだったのか」
「にぶいわねえ」
 そう言ってスハーラは手摺りに身をもたせてベゼラの赤い船をながめた。そしてポツリと聞いた。
「デルとベゼラは仲が良かったの」
「子供の頃はね。俺とデルだって、本当に相手を嫌っているわけじゃあ無いんだ。ただまわりの状況が変わってきただけなのさ」
「そう、それでは今は親友二人の結婚を祝福できそうなの」
「もちろんだ」
 ブライスとスハーラはしばらく黙ってベゼラの船を見つめていた。やがてブライスがスハーラの肩にそっと手をまわした。
「スハーラ、戦闘が始まったら部屋の中にいて絶対に外に出ないでくれ。本当はここまで連れて来たくなかったくらいなんだ」
 スハーラは微笑んだ。
「私達は離れないのよ、二度と」
 やがて二人の横の空間がチラチラときらめいてエルディの声が聞こえた。
「始まるわよ」
「ああ、決戦は明日の夜明けからだ。見ていてくれ女神」

 ソンタールの南の将グルバは偵察に出ていたコッコのもたらす情報によって、早々と戦闘予定海域を決めて着々と布陣を整えつつあった。ソンタール大陸にある南の将の要塞と、ザイマン五島を結んだ直線がちょうどマルバ海とイクス海の境界線になる。ザイマンの北のあたりの海域では海流はイクス海からマルバ海に向かって西から東に流れ込んでいる。そのため、要塞を出たグルバの艦隊はまず西に進路を取り、イクス海に入った。そしてゆっくりと南下して東に向かう海流に乗ると、風の岬に向かっていたカインザーのバイルン子爵の艦隊と平行するように西からザイマンの北西方海域に侵入した。
 グルバの艦隊は全体に渡ってほぼ均一の統制のとれた戦力で構成されている。中央に総大将のグルバの旗艦と約百隻の戦艦。両翼には五十隻ずつの戦艦。主力を構成する大型のガレー船と中型のガレー船には赤い簡素な鎧のグルバの戦士が乗り込んでいた。海で生まれ、海で育ったグルバの兵は精強である。そのガレー船のまわりを、小型の黒い船が異様な速さでスイスイと動き回っている。これはソンタールにのみある船で、黒の神官達が魔法で操船している。ザラッカの神官達は、与えられた命令はいかなる困難な事であろうとも黙々と遂行するように訓練されていた。空を見上げると、艦隊の上空には猛禽コッコの数百羽に及ぶ大群が舞っており、艦隊から少し後方の空には不滅の鷲デルメッツが飛んでいる。これがソンタール帝国の南海の勇、南の将グルバの全勢力である。
 グルバと双子の弟の黒い剣の魔法使いザラッカは、その大艦隊の中央の戦艦の上に立っている。これまで南の将とザイマンは常にほぼ同数の艦数で戦ってきていた。だが今回はザイマンのほうが五十隻以上も多いとの報告がすでに入っており、初めて両軍の艦数に大きな差が出る事になった。それでも自分の艦隊は勝てるとグルバは考えている。敵の増えた船は初めて海に出るカインザーの艦隊と、海賊とバルトールマスターの部下達だ。むしろその統制の無さでザイマンの戦力は落ちているかもしれない。
(なぜブライスはあえて艦隊のまとまりを犠牲にしたのだろう。ドン・サントスとメソルの戦力は大して問題では無い。カインザー兵とて海の上ではその力は半減するに違いない。未知数なのは三人の聖宝の守護者だ。だがリラの巻物は知恵の力、カスハの冠はある種の予測の力。気にするべきはカンゼルの剣のみ。カインザーの王子一人で何が出来るだろう)
 グルバは横に並んでいる弟に顔を向けた。
「ザラッカ、カンゼルの剣の守護者はおまえにまかせるぞ」
「わかっている兄者。カインザーのセルダン王子は俺が倒す」
 グルバは嬉しそうに笑った。
「よし。ならばこの戦いは我らの勝ちであろう」
 ザラッカは答えなかった。ザラッカは負けるかもしれないと考えている。
(セルダンと相打つ事は出来る。だが、そうして俺が死ぬと俺の魔法で生き延びている兄も死ぬ。それでは我々は負けてしまう)
 ザラッカが兄を見ると、グルバは弟に言った。
「お前がセルダンと戦うのは、俺がブライスに止めを刺してからにしろ。もし俺がブライスにやられたら艦隊を引いて要塞に戻り、次の将が来るまで守れ」
「兄者、俺は死ぬ時は兄者と共に死ぬ。他の将に仕える気は無い」
「わかっているだろう、先に死ぬのは俺でなければならないんだ」
(そうでは無いかもしれない)
 ザラッカはテイリンからもらったミルトラの水の入った小瓶に手を置いた。
(この水がもしかしたら兄の命を救うかもしれない)
 その時グルバが尋ねた。
「俺達が見落としている事があるだろうか。今回の戦い、何かが気になるんだ」
 ザラッカが太い腕を組んで答えた。
「実は俺も気になっている。ザイマンの王子は兄者が倒す。カンゼルの剣の守護者は俺が倒す。艦隊同士の対決では、数はザイマンのほうが多いが結束力で我らが上回る、これはほぼ互角だろう。戦闘民族カインザーの戦士が敵に加わろうとも、我々にはコッコの大群がいる」
 その時天が陰り、二人のまわりに影が落ちた。見上げるとデルメッツが大きく円を描いて艦隊の上空を舞っている。ザラッカがハッと気が付いた。
「兄者、デルメッツだ。敵がデルメッツに対してどんな手を打ってくるのかがわからん」
 グルバも一緒に空を見上げた。
「不滅の鷲を落とす者がいるだろうか」
「それはわからん。だが戦いの中でその点を見逃してはいかん」
「わかった。それでは戦いを始めよう。ザラッカ、お前は艦隊の最後方に控えていろ。倒す相手はセルダン一人だ」
「承知」
 ザラッカは短く答えると、巨体を舞わせて旗艦の横に着けられていた黒の神官の船に飛び降りた。その黒い船はアッという間に艦隊の最後方まで移動して、艦隊全体を後ろから見渡せる位置に静かに陣取った。

 こうしてザイマンの北西の海域で行われ、後にシャンダイア・ソンタール戦争の後期三大海戦の第一戦として記録される事になるイクス海の海戦の朝が来た。戦いは早朝の赤い空を黒く染めて、ザラッカが操るコッコの群れの襲撃で幕を開けた。
 カインザーのバイルン子爵が率いてきた兵は、カインザー軍五千のうちの三千五百にあたる。残り一千五百がクライバーの兵だ。カインザー軍の中では騎馬より歩兵戦に長じているバイルンの兵は皆、弓と大弓の名手でもあった。ザイマン貴族達の船に分乗した弓兵達は空を黒く染めるコッコの群れを見上げた。艦隊の中央部のブライスの旗艦の前方に位置する艦に乗船しているバイルンは横で紅のマントを海風にひるがえしているクライバーに聞いた。
「お前の兵は弓は引けんのか」
 クライバーは即答した。
「弓は引けるが矢が飛ばん」
「弓が引ければ矢は飛ぶだろう」
「いや、俺自身が試した事がある。何度やっても手を離した途端に自分の足元に刺さるんだ。俺の部下もみんな同じようなものだ」
 バイルンは長い弓で肩をポンポンと叩いた。
「まあいい。軽い剣を使え。しばらくは鳥を斬る事になりそうだ」
 そこにバンドンが部下達と共に漁師の網を引きずってきた。
「出航前に買っておいたぜ。グルバに勝ったら代金を払ってくれよ。鳥が襲撃してきたら俺達が柱の上からこいつをかぶせる。他の船にいる部下達にも持たせた」
 クライバーは笑った。
「さすがに良く気が付いた。鳥に網がかぶせられたら、俺の部下が突き刺す。ベロフの抜刀隊はソホスというイカを食べたそうだが、コッコの焼き鳥のほうがうまいだろう」
 バイルンが背中の矢筒から矢を一本手に取ると、はるか上空に偵察に飛んで来た一羽のコッコを射ぬいた。コッコはくるくると回ると、甲板にドサリと落ちた。甲板でバタバタしている巨大な鳥を見てクライバーがつぶやいた。
「これは食いでがあるな」

 カインザーの王子セルダンは茶色の服の上に抜刀隊と同じ黒い鎧を着込んだベロフ男爵と共に、海賊王ドン・サントスの船に乗っている。王子は近付いてくるコッコの群れを見ながらサントスにたずねた。
「あの鳥とどうやって戦うつもりなの」
 サントスは後ろにいるはぐれ魔法使いのシャクラに声をかけた。
「コッコをどうやって防ぐかだとよ」
 シャクラは薄い髭をかいて口をゆがめた。
「さて、火球の魔法がいくらかは役に立ちましょう。コッコはザラッカが支配しているのですが、私にはその支配力に割り込む程の力はありません」
「というわけだ王子。お前さんの剣は役に立たんのか」
 セルダンと並んでいたベロフがかわって答えた。
「王子はザラッカと戦うまで、余計な力をお使いにならないほうが良いでしょう。抜刀隊の槍の技をお楽しみください」
 サントスは嬉しそうだった。
「さすがに武芸者の集団だな。もしかしたらこの艦隊で生き延びる確率が一番高いのが俺達かもしれん」
 ベロフはサントス配下の海賊達が腰につけている短剣をジロリと見た。
「敵の兵との戦闘がはじまっても、抜刀隊だけで十分そうだな」
 これにはサントスの部下のベズスレンが意気込んだ。
「海賊の短刀の技を見て驚くなよ」

 右翼から艦隊の中央に移ったマスター・メソルは、ザンプタの艦のそばを平行して航行している。メソルが目を凝らして見ると、トーム・ザンプタと呼ばれる海の精霊はソチャプを囲った木の枠の上にチョコンと腰掛けてぼんやりと空を眺めていた。メソルから見てもソチャプとトーム・ザンプタの組み合わせは不思議な見物だった。メソルは振り返ると、部下達に命令した。
「コッコが来たら、みんな船室の中に隠れておいで。鳥は他の者が始末してくれる。あたしらの出番は最後のほうだ。戦闘が混乱したら流れてきた敵の手負いの船を襲うんだ。元気な敵には手を出すんじゃないよ」
「わかりやした」
 バルトール人の小柄な部下達が声を揃えた。その中の一人がずる賢そうな顔でメソルに尋ねた。
「メソル様、ついでにサントスの艦隊の船でも沈めちまいましょうか」
「ブライスの手前、そうもいくまい。まあ、サントスが勝手にグルバに殺されちまえばそれが一番いい」
 メソルはそう言ってカラカラと笑った。

 艦隊の右翼にはデル・ゲイブ率いるザイマン貴族の分厚い陣容の艦隊が航行している。ベゼラは戦闘が近付いたため、デルの豪勢な船に乗り移っていた。デル・ゲイブは手摺を握って中央のブライスの船団のほうを眺めていた。ベゼラは後ろから近づくと声をかけた。
「デル、ブライスを助けてあげましょう」
 デルはそばかすだらけの赤ら顔を向けた。
「わかっているさ。ザイマンが滅びては何もならん。だがな、俺はブライスがザイマン国内の事にもっと目を向けるようになるまでは、あいつを王には推薦しないぞ」
 ベゼラは首を振った。
「ブライスはザイマンにはしばらく帰ってこないわ。わかってるでしょ、ブライスはグルバを倒したら、次はおそらくソンタール軍に包囲されているセントーンを助けに行くはずだわ。シャンダイアの聖なる宝であるカスハの冠の守護者なんだもの」
「ブライスの口癖だな。シャンダイアに王が戻れば、ザイマンに王はいらないってな」
「そうよ。たぶん王が戻ったらブライスはザイマンには帰ってこないわ」
「何処に行くんだ。リラの巻物の守護者がいるサルパートか」
「いいえ」
 ベゼラはすっかり明るくなった空を見た。
「知っているでしょ。ブライスのもう一つの口癖を」
 デル・ゲイブは笑った。
「ああ、未踏の大陸に行くんだろ」
 デルは手摺りを強く叩いた。
「いずれにしろザイマンは俺がしっかり守ってやるさ」
 ベゼラは、ほがらかな顔で笑った。
「そうよ。それがわかっているからブライスは外で活躍出来るの」

 鳥の襲来は驚くべき早さでやって来た。猛禽コッコの襲撃は騒然とした音としてセルダンには記憶されている。戦いには役割がある。この戦いでセルダンのなすべき事はザラッカを倒す事のみだ。セルダンは船室の中からベロフ達が次々と鳥をたたき落とすのを眺めていた。中央で指揮をするベロフの見事な肉体が躍動し、流れるようにコッコをはたき落としていた。時折、乱れた髭を直す余裕すら見える。見慣れているとはいえ、セルダンはその技の見事さに見とれた。アタルス達兄弟もバルトール仕込みの剣技で踊るように鳥と戦っている。時折チラチラと光るのはシャクラの火球の魔法かもしれない。
(ようやく始まった。ザラッカに続く長い戦いだ)
 コッコの猛攻は続いたが、準備万全のシャンダイア連合艦隊は効率良くこれを退けていった。やがて騒然とした羽音が止み、コッコの襲撃は終わった。シャンダイア艦隊の被害は最小で済んだ。しかしコッコが去って行った彼方には、水平線を埋めるグルバの大艦隊が姿を現していた。

 歴戦のグルバの艦隊は見事な扇形でシャンダイア艦隊の前に展開していった。ブライスですらグルバの全艦隊と対峙するのは初めての経験であり、その船団の規律の見事さを見たシャンダイア艦隊には称賛にも似た戦慄が走った。
 艦隊同士の戦闘はカラカラという無数の矢の応酬で開始された。バイルン率いる弓兵隊は艦隊の最前列の艦に陣取って、グルバの艦隊に猛烈に矢を打ち込んでいった。両軍の艦船の距離が狭まると、グルバの艦隊の兵士達の姿がよく見える。目が良いバイルンは隆々たる筋肉で大弓を豪快に引き絞り、彼方の船上にいるグルバの兵士達を次々と射ぬいていった。グルバの艦隊からも船べりに陣取った赤い鎧の兵士達が剛弓をビシビシとシャンダイアの艦船の甲板に突き刺したが、総じて距離があるためこの矢の応酬は双方にあまり被害を及ぼす事は無かった。
 やがて両軍のガレー船は激突するようにぶつかり、甲板を舞台にした白兵戦が始まった。当初クライバーの戦闘顧問である元山賊のバンドンは、山の中で使うような様々な仕掛けを甲板に張り巡らそうとクライバーに提案したが、クライバーはこれに応じなかった。そのクライバーが表情を引き締めた。
「来たか、始めるぞ。バンドン、おまえ達は城攻めまで船室に篭っていろ」
 バンドンは真っ赤に日焼けした顔を掻きながら吐き捨てるように答えた。
「わかってら。こちとら山賊だ、こんな海の上で無防備なまま戦えるかい」
 クライバーは軽く笑うと、部下を連れてグルバの艦隊の船に飛び乗った。紅のマントがひるがえり、細身の剣が水車の様にクライバーの回りで舞った。赤い鎧のグルバの兵をなぎ倒しながら紅の男爵クライバーは突き進んで行った。バイルンがその姿に叫んだ。
「クライバー、あまり深入りするな」
 クライバーは笑って答えた。
「よくわからんが、乱戦に持ち込んでしまえば、味方の統一の無さも敵の結束も大して意味は無くなるだろう」
 バイルンはつぶやいた。
「なる程」
 残ったバイルン子爵とその兵は、近付いてきたために射程圏に入ったグルバの兵を面白そうに次々と射抜いていった。

 左翼のサントスの艦隊ではベズスレンが率いる海賊部隊が、グルバの兵を待ち受けていた。派手な色の衣装のベズスレンは両手に短刀を持つと、グルバの兵士の鎧の間を器用に刺して回った。配下の海賊達も小型の刀を巧みに操って装備に勝るグルバの兵たちと互角に戦い続けた。それを見たベロフは素直に賛嘆の声を上げた。
「見事だぞ海賊」
「あたりめえよ」
 ベズスレンが笑ったとき、海賊達のまわりに黒い煙が巻くようにして立ち上り、数人の海賊が咽を押さえて倒れた。海面を見ると、巨大な船の間を縫うようにして黒い小型の船が走り回っている。船の上には黒い衣の神官達が立って呪文をとなえていた。ベズスレンが舌打ちした。
「ザラッカの神官どもだ」
 煙がまた海賊船の甲板に立ち上った、それを見たシャクラが両手を振ると、煙が丸い球になって縮こまった。シャクラは指先でそれを操ると神官が乗る高速艇に向かって投げつけた。船は黒い煙に包まれ、方向を見失って大型のガレー船に激突すると大破した。ベズスレンが歓声を上げた。
「やるなあ、シャクラ」
「ザラッカが出てこなければ、この程度の下級神官など」
 そう言うとシャクラは暑そうに黒い衣を脱ぎ捨てた。神官服の中には赤い胴衣を来ている。そして自分の姿を見下ろして、恥ずかしそうにつぶやいた。
「どうも海賊の間に長い間居過ぎたわい。神官の慎みを忘れつつあっていかんな」

 戦闘が始まって小一時間も過ぎた頃、天を覆う巨大な鷲が西の空に現れた。序盤戦が済んで、甲板に出ていたセルダンは、初めて見る不滅の鷲を驚嘆の面持ちで見上げた。
「あれがデルメッツか」
 その鷲の巨大さはまだ見ぬ者達の予想をはるかに越え、すでに目撃した事のある者たちの心にも恐怖を巻き起こした。デルメッツは巨大な両足の鍵爪に巨大な石をつかんでいた。そしてまだ戦闘に参加していないシャンダイア船の上空に行くと、船に向かって片足に掴んだ石を落とした。石の直撃を受けた船は真っ二つになって沈没した。デルメッツは上空で大きく弧を描くと、さらにもう片方の足に掴んだ石で別の船を大破させた。次に不滅の鷲は大きな羽ばたきでシャンダイアの艦隊を後方からあおった。シャンダイア艦船が大波の間で木の葉のように揺られ、甲板に乗っていた兵士達が次々に海にころげ落ちた。艦隊の最後方の船の中にいたメソルが悪態をついた。
「ちくしょう。ザンプタ、出番だよ」

 デルメッツの壮絶な威力を見物していたトーム・ザンプタは、スハーラからもらった砂糖菓子を口に放り込むと、ゆっくりとソチャプの囲いの上で立ち上がった。その姿が元のホックノック族の男の姿に戻った。そして海の精霊の始祖はデルメッツの下のあたりの水面を鋭く指さした。すると水中から細い噴水が高々と上がって滑空してきたデルメッツに届いた。デルメッツは少し驚いたように飛び上がった。やがて噴水は次々に立ち上がって、一筋の道のようにザンプタの待つ艦にまで届いた。デルメッツはその水のカーテンに導かれるようにザンプタの艦の上空にやって来た。
 ザンプタは額に手をかざして心の声で呼びかけた。
「ほーい。デルメーッツ。空の王」
 デルメッツは旋回しながらこれも心の声で答えた。
「これは驚いた。シュシュシュ・フストではないか。そんな所で何をしている」
「どうじゃ、人間同士の争いはしばらく放っておいて、わしらは高見の見物といかんか」
 デルメッツは大きく羽ばたいてザンプタの乗る巨船を揺らした。
「何だ、しばらく姿を消していたかと思ったら、今度はシャンダイアの国々の味方になったのか」
「いや、今のわしにはどちらが勝とうが関係無い。わしにはわしの理由がある。ここはお主にしばらく手を引いていて欲しいだけじゃ」
 デルメッツはクカカカと笑った。
「嫌だと言ったらどうなる」
 デルメッツがそう言ってザンプタの乗る巨船の上にさしかかった時、突然水流が猛烈な勢いで立ち上がって鷲の巨大な翼を打った。不意を突かれたデルメッツの高度が落ちた。そしてザンプタが囲いの枠から飛び降りるのと同時に、囲いを破壊してソチャプの蔦が信じられない程の長さにのびて不滅の鷲の翼を捕えた。デルメッツは懸命に抵抗しながら叫んだ。
「ソチャプか、馬鹿な」
 ザンプタは飛び降りた甲板の上から壮絶な光景を見上げた。
「こうしてみると、いかに自分が小さい存在かわかるのう。すまんデルメッツ、しばらくじっとしていてくれい」
 デルメッツは猛烈に羽ばたいた。ソチャプの蔦が引きちぎられる。ザンプタは水流を操って、デルメッツを打ち続けた。やがてソチャプの蔦がデルメッツを完全に捕えた。巨大な船の甲板の上で、太古の二大生物の格闘が始まった。他の船の者達は、シャンダイアの戦士達もソンタールの兵も神官も驚きの表情でその戦いを見つめていた。

 自分の旗艦の後方でソチャプがデルメッツを捉えたのを確認したブライスは。王室船団の全艦に向けて、前方に立ち塞がるグルバの艦隊の中央部に突撃するよう命じた。
「行くぞ。目指すはグルバの艦だ」
 ブライスの旗艦を中心にくさび型になった船団は、切り込むようにグルバの艦隊の中心を押し分けて進んで行った。だがグルバの艦隊の中央部はまだ無傷のままであり、そこで壮絶な死闘がはじまった。ザイマンの貴族の兵達も勇敢に戦ったが、ここで最も働いたのはやはりクライバー男爵とバイルン子爵だった。バイルンは矢が尽きた後、大振りの剣で敵を叩くように戦い続けていた。しかしグルバの兵とザラッカの神官達の反撃も凄まじく、ブライスの主力部隊は大苦戦を余儀なくされた。

 ブライスの率いる艦隊の中央部とサントスやベロフの抜刀隊がいる左翼が死闘を続ける中、強い結束力でまとまったデル・ゲイブとベゼラの率いる右翼の船団は、徐々にグルバの艦隊の左翼を圧倒しつつあった。ブライスやベゼラに政策能力が無いと言われていたアードベルのニガッソ男爵の艦などは、血だるまになってグルバ軍の中で奮闘していた。この長髭の老男爵は政治能力は低いかもしれないが、ザイマンの貴族の中では勇猛で名高い戦士だった。イズラハ侯爵の娘ベゼラも自ら剣を取って戦っていた。この女性も勇敢な剣士である。そのベゼラが、艦橋の大きな椅子に腰掛けて戦いの指揮をしているデルに向かって叫んだ。
「ブライスが動いたわ。デル、中央に進路を取ってブライスの援護を」
 デルはどなり返した。
「そうすると俺達は敵に横っ腹を見せる事になるぞ」
「デールッ」
 デル・ゲイブはイライラしたように立ち上がった。
「わかってる。わかっている。ようし、グルバの本体の左翼を突け、ブライスを助けるぞ」
 デルの艦隊は方向転換してグルバの中央部に切り込んで行った。そのためグルバの艦隊の左翼に横腹をさらす事になったデルの艦隊は、グルバ軍の猛攻を受け始めた。それを見てデル・ゲイブは椅子の横に立てかけてあった大剣を持って甲板に降りた。そしてグルバの兵に斬り込んで行った。ベゼラはあわててデルに駆け寄った。デルはあやういながらも、その腕力でグルバの兵と互角以上に渡り合っていった。ベゼラは驚いた。
「なんだ、やるじゃない、デル」
「俺はザイマン王の甥だぞ。戦えなくてどうする」
 ベゼラは笑ってデルに背中をあわせた。
「あなたとこうして戦えるなんて思ってもみなかった」
 デルは無言で汗を流しながら剣を振るい続けた。

 ソンタールの南の将グルバは艦橋から徐々に自分の艦隊が押されつつあるのを見ていた。カインザー戦士があっという間にグルバの艦隊の船に乗り移って来たのが誤算だった。グルバが得意としている艦隊全体の機動力が活かせなくなったのだ。もう一つの驚きはデルメッツの姿が消えた事だった。だがその原因はすぐにわかった、物見の者からシャンダイア艦隊の巨大な船の上で得体のしれない植物と戦っているという報告が入ったのだ。
 グルバは頭を切り換えて目標を目の前に進行してくるブライスの旗艦に定めた。元々ブライスとの戦いが肝心だったのだ。グルバは大声で叫んだ。
「開けろ。ブライスを通してやれ。俺が戦う」
 グルバの命を受けたソンタール艦隊はブライスの船に道を譲るように左右に開いた。その真ん中をブライスの船がゆっくりと進んで来てグルバの船に横付けした。ブライスはクライバーとバイルンを連れて、扱い慣れた斧を手にゆっくりとグルバの艦に乗り移った。広い甲板の中央には巨漢のグルバが待ちかまえている。ブライスは手にしていた銀色の冠を頭に乗せた。
「やっと会えたな南の将」
 グルバも剣を抜いた。
「待っていたぞドレアントの息子」
 そして気合いと共に、両軍の総大将がぶつかった。

 シャンダイア艦隊の左翼にいるドン・サントスの船の見張り台にいた海賊が、甲板にいるサントスに大声で叫んだ。
「おかしら、ブライスの船がグルバの船に横付けした」
 サントスは横にいたセルダンを見た。セルダンはうなずいた。
「よし、ブライスとグルバの戦いが始まった。僕はザラッカを探す、ベロフ」
「はい」
 ベロフと抜刀隊がセルダンのまわりを素早く固めた。アタルス達三人がセルダンの前に立つ。隣の船に乗り移ろうとするセルダンにサントスが叫んだ。
「王子、負けるなよ」
 セルダンは船べりに足をかけて笑いながら振り向いた。
「もちろんさ」
 ベロフとアタルス達兄弟を先頭に、抜刀隊はまるで黒い竜のように繋ぎ止められた船の甲板の上を突き進んでいった。細かく分けられた黒い鎧を装備したベロフの精鋭部隊は、長い剣で行く手を遮る敵兵を次々に切り倒していった。さしものグルバの兵もザラッカの神官も行く手を遮る事は出来なかった。頼もしい大男達に囲まれたセルダンは、その間懸命にザラッカの姿を探し求めた。そしていつのまにか戦闘海域の最西端に達している事に気づいた。ふと見ると、そこに真っ黒な船が浮かんでいる。そしてその小型の船の舳先に大柄な人物が立っていた。腰には巨大な黒い剣を携えている。セルダンは挑戦の叫び声をあげた。
「ザラーッカ」
 黒い影がセルダンに気づいた。そして黒い剣を高々とかかげた。ベロフが小舟を降ろして抜刀隊と共にセルダンを乗せて漕ぎだした。しかしザラッカの船はセルダン達を迂回するように、混乱した海上の戦場のただ中に進んで行った。セルダンを乗せた船が後に続く。

 激戦が続く中、海流に逆らうように進んでいるシャンダイア艦隊の最後方にいるマスター・メソルの近くにソンタールの傷ついた船が流れてくるようになった。メソルは配下のバルトール人達に命じて、手際よく傷ついた船を攻撃した。短い杖を振るって指揮をしていたメソルは事も無げにつぶやいた。
「まあ、この程度の仕事で良けりゃたやすいもんだわね」
 後ろにいた小柄な部下が小手をかざして流れてくる船を確認した。
「マスター、サントスの部下の船が流れてきやすぜ」
 メソルは笑った。
「さあてどうしようかねえ、まあほうっておきな。サントスとはいつだってけりがつけられるさ」
 部下は残念そうにうなった。

 グルバとブライスの決闘が続いている。両者一歩も引かない気迫で戦っていた。グルバはザラッカの魔法で長命しているが、その筋肉は完成されつくしている。弟のザラッカにはかなわないが、その戦闘力はソンタール兵士の中でも群を抜く。一方のブライスには若さがあった。こちらもカインザーの戦士程では無いが、その勇気と持久力は抜群であった。
 ブライスは常に身を斬らせるようにして、相手の間合いに踏み込んだ。きわどくグルバの切っ先をそらして致命的なダメージを与えるつもりだ。これには集中力とそれを維持し続けるスタミナが不可欠になる。その一点においてブライスがグルバを上回った。ブライスの斧がグルバの幅広い剣を圧倒し始めた。
 その戦いの最中に、弟のザラッカがようやくグルバが戦っている船上に辿り着いて叫んだ。
「兄者」
「手を出すなよザラッカ」
 グルバがどなり返した。
 少し遅れてセルダンも到着した。
「ブライス」
「まかせろセルダン」
 ブライスがそう言った次の一瞬、グルバは渾身の力を込めてブライスに打ちかかった。しかしブライスの額の銀の冠が一瞬ひらめき、ザイマンの王子はまるで予期していたかのようにグルバの剣をかわすと、手にした斧でなぎ払うようにグルバの胸を切り裂いた。大ソンタール帝国の南の将グルバは血しぶきと共に甲板に倒れた。その時突然、グルバの回りを闇が包み、闇が吹き消すように消えるとグルバの死体も無くなっていた。セルダンは船の甲板の彼方にザラッカの姿を見た。黒い剣の魔法使いは涙を流しながら兄の体を抱きかかえていた。その腕の中でグルバの体はみるみる衰えて縮んで行った。数百歳の年齢は肉体の形を保つこともできなかった。

 ザラッカは全艦隊に退却を命じると、干からびたグルバの亡き骸を左脇に抱えたまま船から船へと飛び移ってシャンダイア艦隊の最後尾を目指した。その前に立ち塞がった者達は、右手に持った黒い剣の一振りで消滅した。それを見たセルダンは単身でザラッカを追った。もう戦いは完全にシャンダイア艦隊が勝利している。セルダンの行く手をはばむ者はいなかった。
「ザラッカ」
 ザラッカは追ってくるセルダンに叫んだ。
「セルダンか、この勝負あずける」
「逃げるのか」
「ああ、この混乱した場では思うように戦えぬ。要塞に来い」
 そして黒い剣の魔法使いは不滅の鷲を呼んだ。
「デルメーッツ」
 コーッと甲高い鳴き声を上げたデルメッツは、死力を振り絞ってソチャプを引きずったまま羽ばたこうとした。ザラッカは巨大な船の上のデルメッツを見つけると。最も近い船を伝ってデルメッツとソチャプが組み合っている船の甲板に降り立った。トーム・ザンプタがその前に立った。
「ザラッカ。決着はついたろう」
 ザラッカは驚いた。
「シュシュシュ・フスト、そしてソチャプ。ブライスの用意していたのはこんな仕掛けだったのか」
 ザンプタが首を振った。
「わしらは別に仕掛けではない。シャンダイアとソンタールの戦いをそろそろ終える時が来たと思うておるだけじゃ」
 ザラッカはデルメッツに走り寄ると、ミルトラの水をデルメッツにかけた。デルメッツは体力を回復した。
「テイリンが持ち帰ったものか」
「ああ」
「その脇に抱えているのはグルバか。なぜ使わん」
「今はそなたのほうが大事」
 それを聞いたデルメッツは一声叫ぶと、ソチャプの蔦を引きちぎって飛び上がった。ザラッカはデルメッツの尾羽からその背中に駆け登った。黒い剣の魔法使いと不滅の鷲は戦場を後にして北の空に消えて行った。ひと足遅れて辿り着いたセルダンはその姿を無念そうに見送った。

 ザラッカはデルメッツの上から、獣を操るクラスの魔法使いにしか扱えない念波で、要塞にいるテイリンに報告した。
「テイリン」
 要塞の書庫で本を読んでいた小鬼の魔法使いテイリンは驚いて跳び上がった。
「ザラッカ様」
「敗れた。兄が殺された、今から戻るぞ」
 若いテイリンは愕然として手にしていた本を取り落とした。

 ブライスはセルダンの後を追うようにしてザンプタの船に辿り着いた。
「ザラッカは」
「逃げた」
 ブライスは肩で大きく息をした。
「そうか、やむを得まい。セルダン、親父さんにポイントポートのトルソン公爵をエルバナ河の近くまで進出させるように頼んでくれないか。ソンタールのゼイバー提督の艦隊をエルバナ河から離れさせないでもらいたいんだ。今ゼイバーに来られたら俺達は全滅だ」
「わかった」
 やがてザンプタの巨艦の上にスハーラもやって来た。セルダンはベロフに命じて書状を書かせるとスハーラに渡した。智慧の峰の巫女はそれを受け取って伝令鳥を飛ばした。ブライスが配下の船長達に命令した。
「艦隊を整えろ。一気に南の将の要塞を落とす」
 そこに人間の姿に戻ったトーム・ザンプタが近付いてきた。
「ブライス、セルダン、スハーラ。妙な事に気が付いた」
「何だ」
「さっき、ザラッカがデルメッツに何か水のようなものを振りかけた。その途端にデルメッツが力を取り戻した」
「何かの魔法か」
「いや、あれ程の力を持つ水は一つしか考えられない。ミルトラの水を知っているか」
 スハーラが驚いた。
「聖なる盾の守護者と共にあると言われる水ですか」
「さすがに知恵の巻物の守護者だな」
 セルダンの顔色が変わった。
「エルネイアに何かあったのか」
「わからん。しかしソンタールの何者かがセントーンに潜入してミルカの盾の守護者に会った事は間違いない」
 セルダンが何か叫びそうになるのを見てブライスが背中を叩いた。
「セルダン、エルネイアにはミリアがついている。そう簡単に危害は加えられないはずだ。とにかくバリオラ神の目覚めといい、ミルトラの水といい、わからない事が多過ぎる。俺達に出来る事はまず目の前の敵を倒す事だ」
 言葉も無く拳を握りしめたセルダンは、ベゼラの赤い船が近付いて来るのに気が付いた。やがて、小舟が降りて赤い鎧のベゼラがやって来た。それを見たブライスがハッとした。
「デルは無事か」
 ベゼラはにっこりと笑った。
「大丈夫、生きているわ。でも全身に傷を負って動くのは無理みたい。滅多に自分で戦わないから、どの位血が流れたら動けなくなるのかわからなかったのね」
 そしてスハーラを見た。スハーラはうなずいた。
「ええ、すぐに行きます」
 次にベゼラはブライスに言った。
「デルは勇敢だったわよ」
「ああ、俺も礼を言いに行こう。他の貴族達にも声をかけねばならん」
「あなたは王子らしくなったのね」
 ブライスは手にしていた冠を頭に載せて恥ずかしそうに笑った。
「それが俺の役目だ」

 (第九章につづく)

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