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シャンダイア物語

第四部 打ち捨てられた都
第十章 闇の手

福田弘生

 戦士の大陸カインザーの中心部にある大都市セスタのクライバー邸で、若き奥方ポーラに赤ん坊が生まれたのは世界各地の戦場で戦闘が開始される直前の事だった。
 どんな時代でも子供は無垢のまま生まれてくる。ピンク色の肌の宝石のような女の子の誕生を、カインザーに残された貴族の妻達は世界で最大の事件のように大騒ぎして歓迎した。ポーラの夫レドの母のマリナは、昼間のほとんどの時間をポーラの部屋で過ごし、孫の顔を覗いては飽きもせずに自分に似ていると繰り返した。
 にぎやかな屋敷の一室の床の中でポーラは幸せに包まれていた。隣には小さな命が眠っている。そしてその向こうのベッドに夫が帰って来る日がとても楽しみだった。
 義母マリナが小柄な体を抱くようにして自分の部屋に帰り、午後の暖かさの中でポーラがウトウトしている所にアシュアン伯爵の夫人レイナが訪れた。疲れているのか皺の無い頬が今日はくすんで見える。ポーラは心配そうに親友を見上げた。
「まだご主人からの連絡は無いの」
「何をしているのかしらね。あなたのレドも他の貴族達も最前線で活躍しているのに、うちの人だけ行方知れず」
 そう言ってレイナはポーラが伸ばした手を握った。ポーラは力づけるように言った。
「大切な使命なんだわ。レドのように戦うだけよりずっと大変。でも大丈夫、アントンが必ず知らせてくれるから」
「ごめんなさいね。あなたは夫も息子も送り出しているのにね」
 ポーラはニコニコした。
「あの人達は楽しんでいるんだもの。私が心配するだけ損しちゃう」
「そうね」
 レイナはポーラを布団の上から軽くポンポンと叩いた。
「無事を信じて待ちましょう」

 そのアシュアン達は今、ユマール大陸の首府モンゼラットに潜入している。
 いつの間にか一行の代表になったサルパートのエラク伯爵は、謎の名も無き魔法使いについて調べるため、モンゼラットの教育機関が立ち並ぶ区域にある図書館に行ってみた。案内役のマスター・ケイフが手続きをして、エラクは巨大な図書館の中に足を踏み入れた。太い柱が立ち並ぶ廊下に沿って専門分野に分かれた部屋がいくつも並んでいる。エラクは素直に驚いた。
「立派なものですね」
「ユマールの将が書物が好きですからね。正直、ここの人々の暮らしはそう悪くない」
 エラクはケイフを悲しげに見た。
「ならばなぜ他の国を攻めるのでしょう。これ程の国を統治出来る人物ならば、ソンタールとシャンダイアの戦闘を止める努力が出来そうなものだ」
 ケイフは頭をかいた。
「そいつはどうかなあ。本当に困っていなければ、平和を求めないものなのかもしれませんよ」
 半日程、エラクは館内を歩き回った。どの部屋でも多くの学生や市民が熱心に本を読んでいる。エラクは気になる部屋には必ず一度は入って本の並んだ棚を丁寧に調べていった。数時間後、ケイフはさすがに厭きたようにエラクに声をかけた。
「ちょっと飯を食いに出ませんか」
「ここには食堂は無いのですか」
「ありますが、どうも味がね。それにモント達とも待ち合わせしてますから」
「おお、そうでした」
 そう言って出口に向かって歩き出した二人の後ろから、大きな重い本を抱えた若い館員が声をかけた。
「こんにちはケイフさん」
 この地の名士として知られているケイフは振り返って微笑んだ。
「やあゼリッシュ。まだいたのか、いつまでだっけ」
「ええ、明日までです」
 金髪で細面のハンサムな若い館員はニコニコして答えた。ケイフがそうかと言った顔をした。
「ここはしばらく騒々しいから、故郷に帰るのもいいかもしれないな」
 エラクがたずねた。
「お辞めになるのですか」
「ええ、母の具合が悪いので故郷に帰ります」
「そうですか、それはお大事に」
 若者はおじぎをして去っていった。ケイフが言った。
「優秀な館員だったんだがなあ。調べ物があれば彼に聞くといい」
「いや、やめておきましょう」
 なぜかエラクは蒼い顔をしていた。ケイフはけげんに思いながらも、エラクを図書館の正面にある大食堂に連れて行った。中ではすでにアシュアンとマスター・モントが待っていた。
「先に始めてるよ。アシュアンがうるさくてね」
 アシュアンは口のまわりをナプキンでふきながら言った。
「まるで私が卑しいみたいじゃないか」
「違ったかね」
「いやまあ、あまりいい匂いなのでね。ケイフ、ここの食べ物はなかなかじゃないか」
「ここは値段は高くはありませんが、味は良いですよ。何せ仕入れは俺の部下ですから」
「さすがだね」
 そんな三人の会話の中、エラクは何かを考え込んでいた。適当に追加の注文をした後、アシュアンがエラクに尋ねた。
「どうかしたのか」
「気になることがあるんです。ケイフ、あのゼリッシュという館員について教えてください」
 ケイフは意外そうな顔をした。
「さて、あまり図書館に行く事は無いのですが、けっこう以前からいるようですよ。非常に親切で物知りだ。頭もいい」
「他には」
「さあて、気にした事も無かったので」
 モントがうながした。
「何が気になるんだエラク」
「サルパート人だと思う」
 ケイフが妙な顔をした。
「ユマールにだってサルパート人はたくさんいますよ。商人である私の部下にもいるし、学校関係にはもっと多くいる」
 エラクが首を振った。
「それがただのサルパート人じゃないんだ。あの若者の顔はサルパート王家の顔つきに似ている。これはサルパート王の一族をよく知る者にしかわからないと思うんだが、一瞬マキア王に会ったかと思ったよ」
 アシュアンがビールのジョッキをあげた。
「君がそう言うなら間違いないだろう。だが似ているからと言ってそれが何なんだ。マキア王に弟でもいたと言うのかい」
「よくわからない。だけど何かとても重要な事だと思うんだ」
 食事の後、エラクは今度は一人で図書館に戻った。先程の若者に会えないかと歩きまわっているうちに「伝承」という札がかかった部屋の前に来た。エラクが中を覗くと、そこにゼリッシュがいた。ゼリッシュは人の気配で振り向いた。
「ああ、先ほどケイフ様と一緒にいらっしゃった方ですね」
「はい。エラクと申します」
 ゼリッシュは嬉しそうな顔をした。
「サルパートの伯爵家と同じ名前ですね。ご親戚ですか」
 うっかり本名を言ってしまったエラクは冷や汗をかいた。そしてこういう隠密行動には自分は向いていないと知った。
「はい。遠い親戚にあたります」
「そうですか。ケイフ様の所にはご商売の関係で色々な所から人がいらっしゃいますからね。僕の先祖もサルパート出身なんです。お会いできて嬉しいです」
 エラクはゼリッシュの前の背が高い本棚を見上げた。
「伝承に興味がおありなんですか」
「ええ」
 ゼリッシュは目の前の棚に並んでいる本にそっと触れた。
「神々と魔法が世界には存在しています。そのすべてについて僕は知りたいのです。ここにはその手がかりがたくさんある」
「それではこの都を離れて故郷に帰るのは残念ですね」
「そうですね。でもまたここに戻ってきます。そしていつかは他の国にも行く機会があるでしょう。サルパートにも様々な知識があると聞いています。一度は行ってみたいものです」
「さあて、ここ程の立派な図書館はありませんよ」
「でも智恵の巻物があるでしょう」
「あれは守護者がいなければ役に立たないものですから」
「そうですか」
 ゼリッシュはそこですこし言葉を切った。あたりがだいぶ静かになってきた事に気づいたエラクは、外がすでに暗くなっている事を知った。
「おお、すっかり遅くなってしまった。それでは私はこれで」
 若者は寂しそうな顔をした。
「そうですか、灯りをいれますよ」
「いえいえ、あまり土地に詳しくないので遅くならないうちに宿に戻ります」
 エラクはそう言って部屋を出た。ゼリッシュは中に残ったが、灯りをつけた様子は無かった。エラクは出口に向かおうとしたが、ふと思い直して扉の陰からそっと部屋の中を覗いてみた。すっかり暗くなった部屋の中に若者がポツンと立ち尽くしている。やがて雲が流れ、月が出た。窓の向こうの中庭に図書館の建物が長い影を引いた。エラクは窓から差し込む月光に照らされているゼリッシュの姿をしばらく観察した後、床に目を落して凍りついた。若者の影に七本の腕がついているように見えたのだ。
 サルパートの伯爵は急いで図書館を出ると、ケイフの迎えで待っていた馬車に震えながら転がり込んだ。

 (第十一章に続く)

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