マルヴェスターは左手で杖を掲げると、獣の前に立ちはだかった。 「ミリアの報告通り、これは旧シャンダイアの主都カラマドールにあったバステラ神の像だな。あの美しかった像に魔力が宿り、これ程までに醜く巨大になったか」 獣はマルヴェスターの仕える秤の魔法にとまどった、目の前にある秤の魔法は先程西の平原に感じた秤の魔法よりも乱暴で気まぐれな気配がした。獣が立ち止っている隙にセルダンは獣の後ろに回り込んだ。さらにデクトが銀の剣を抜いて獣の右に移動し、獣が北や西に向かわないように身構えた。 獣は自分を取り囲む魔法の不快さに声を上げると、残された一方、エルガデール城の方角に駆け出した。セルダンは驚いた。 「うわッ速い」 マルヴェスターが悪態をついた。 「しまった化け物め、あいつは魔法を避けるか、求めるかの本能だけで動いておる」 デクトが言った。 「ならば」 「ああ、今度は魔法を求めてエルガデール城に駆け上るぞ、ゆっくり誘導するつもりが追い立ててしまった」 獣はキルティアによって焼き尽くされた都市を走り、まっすぐにエルガデール城を目指した。やがて巨大な獣でも見上げるようなエルガデールの城壁の下に辿り着くと、血ぬられた城壁に腕を突っ込んだ。獣の腕は城壁の硬い石を炭に変え、易々と肘の近くまで差し込まれた、そして獣は七本の腕と逞しい足で城壁をよじ登り始めた。 城の中には五人の守護者が残されていた、ブライスとベリックが城壁の上から登って来る獣を見下ろして顔を見合わせた。ブライスが頭に手をやって唸った。 「どうやって防ぐ」 ベリックが、手の上で短剣を小さく放って握り直した。 「駄目だ、この短剣じゃ戦いようが無い」 「だらしがないわね、どいて、この時のための盾があるんだから」 エルネイア姫が二人の男共を押しのけると、城壁から小さな盾を外に出して獣に突き付けた。盾は金色の強い光を発し、その光におびえたように獣は一時動きを止めた、しかし咆哮を上げると再び城壁をよじ登りだした。 「あら効かないわ」 小さいアーヤが背の高いスハーラの手を引いてエルネイアの隣に並んだ、そして顔をしかめた。 「厭だわ、真っ黒いの嫌い」 そう言ったアーヤの左手の指輪が白く光ると、獣が腕を突っ込んでいる炭と化した城壁が蘇って獣の腕と足を硬い石が捉えた。さらに緑の苔と草がその黒い腕を這い上がった。 獣は驚いて腕を引き抜こうとしたが、城壁はビクともしなかった。獣はしばらく考え込むように沈黙したが、やがて咆哮を上げると、回復した城壁を炭に変えて三度城壁をよじ登る動作を開始した。 その時、アーヤの後ろに白い鳥が舞い降りてマルヴェスターの姿になった。そしてその後を追うようにアンタルの背に乗ったセルダンが舞い降り、竜の背から飛び降りた剣の王子が叫んだ。 「みんな大丈夫か」 エルネイア姫の顔が輝いた。 「ええ、でもあの獣を止められないわ」 城壁の階段を駆け上って来た猪がデクトに姿を変えた。 「先ほどの光は指輪の光ですね」 アーヤが驚いた。 「あらデクト、いつシムラーから来たの。そうよあたしの指輪が光ったの」 「指輪を使いこなせるようになられたのですか」 アーヤは肩をすくめた。 「ぜーんぜん、勝手に光ったの」 セルダンが城壁に片足をかけてカンゼルの剣を掲げた。 「やはり僕が剣で戦う」 「待ってセルダン王子」 スハーラがそう言うと懐から小瓶を取り出した、それを見たマルヴェスターが驚いた。 「そうじゃ、ルドニアの霊薬を持っておったな。それで解放してやれ、この哀れな獣を」 「でもこの距離と相手の大きさを考えると、霊薬を使い切ってしまわないといけません」 「かまわん、ある意味、最も厄介な怪物を相手にしておるのだ」 獣の手が城壁の最上部の石にかかり、やがて守護者達の前に上に覆い被さるように上半身を現した。スハーラはブライスと頷きあうと、その怪物めがけてルドニアの霊薬の小瓶を投げつけた。瓶は獣の胸に当って砕けた。 獣は天を裂くような咆哮を上げた、そして体を支える二本の腕を残して五本の腕で胸をかきむしった。ブライスが不安げにマルヴェスターを振り向いた。 「効いてるんでしょうか」 「だからああして苦しんでおる」 獣はつんざくような叫び声を上げたが、やがてその声が細くなって人の泣き声のようになり、やがて途絶えた。腕を投げ出して城壁にひっかかったように動きを停止した獣に、ベリックが近付いて見上げた。 「止まった、魂が解放されたのですか」 デクトが答えた。 「魂は消えました、暗黒の波動が感じられません」 しかしマルヴェスターは答えずに獣を見つめていた。 怪物が動きを停止した次の瞬間、エルセントの海上に停泊していたライケン艦隊の旗艦、航海時にはライケン自身が乗船する巨大な艦の最下層にあり、かつて黒い冠の魔法使いが使用していた小部屋の中で小さな箱が鳴動した。旗艦で指揮をしていたヤーン伯爵をはじめとして、乗船していた者達は突然の寒気に襲われて思わず身を震わせた。 品の良い細身の貴族のヤーン伯爵は部下達と顔を見合わせ、そして遠く陸上のエルガデール城の上空を覆う黒い雲に目を戻した。 獣を見つめる守護者達の前で巨大な黒い体が一瞬ブレたように振動し、力無く投げ出されていた腕が石の床を叩き始めた。デクトが唸った。 「蘇った、すぐに動き出します」 マルヴェスターが困ったといったように頭を振った。 「そもそもこいつの魂とは何だ、どこから来た。わしはバステラ神の像を見た事がある、 あれはただの石像だ、その像にどうやって魂を宿した。セルダン、黒い冠の魔法使いはこの獣を繋ぎ止めていたのだな」 「ええ、その魔法使いを僕が倒して獣が自由になったんです」 「黒い冠の魔法使いは未来を見る魔法使いだ、自分が死ぬ可能性を予測していたはずだ。だから自分が死んでも獣を解放しない方法をみつけたのだ」 ブライスが怒ったように言った。 「わかりやすく説明してくれマルヴェスター」 「黒い冠の魔法使いは、自分が死んでもこの獣に何かをさせたかったのだ。だから簡単には獣が滅びない仕掛けをしたのだよ」
(第六十七章に続く)
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