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ダークマター

1/3

高本淳

 悲しみの重荷に悩むこの魂に教えておくれ、かの遠いエデンの苑に、
 天使らがレノアと名づけた清い乙女を、わが魂の抱く日が来るかどうかを――
 天使らがレノアと名づけた世に稀な光りかがやくその乙女を?

   鴉は答えた、『最早ない』

                      (E・A・ポオ 『鴉』 福永武彦訳)

                  *

 眼を開いた瞬間に何かがうまくいっていないことがわかった。ポッドの窓にびっしりと霜がはりつき、それを通して非常灯の不吉な明りがぼんやりと見えている。ゆっくりと厚い蓋が跳ね上がると周囲の闇から冷気が一気に押し寄せてきた。身を震わせ白い息をはきながら見上げる視野のなかに赤い光に浮き上がった宇宙服がまるで悪夢のなかのグロテスクな怪物にも似た姿でゆらゆらと近づいてくる。喪服のように黒いそれが実はリッキィ――上の娘のネイビーブルーに彩られた装備であることをエリオットはどうにか見わけた。
「何があったんだ?」
「……ベンチレーション・システムは動いていないわ。テントのなかの酸素はボンベから直接開けたもの……。汚れたら全部放出して加圧しなおさなくちゃならない」
 彼女はフェイスプレートをわずかに持ち上げ早口に喋った。ようやくまわりの状況が彼にも飲み込めてきた。ポッドはすっぽり緊急用の与圧テントでおおわれている。ぴんと張った透明な皮膜が居住区画の気密性がまったく保たれていないことをもの語っていた。
 もうそれ以上質問をせずエリオットは手渡された彼自身の宇宙服に脚を通しはじめた。細かい振動と加速度から『機械』の動力シャフトが生きていることはわかる。しかしもちろんそれは全員の生命と安全についてなにも意味してはいない。
「みんなは……?」
 テントの内部は零下数十度まで低下していて着終わるころには身体の芯まで冷えきっていた。生命維持装置が温度を上げるまでしばらく時間がかかり、彼は顎をがくがく震わせながら尋ねた。
 リッキィはしかし、沈黙のまま傍らの仕切りのファスナーを引き上げ、簡易エアロックのなかに立って待っている。影になったフェイスプレートの奥から薄青色の瞳がじっと彼を見つめていた。深呼吸をひとつするとエリオットはゆっくり立ち上がり娘の後を追った。インナースーツは冷たく、暗闇の底は霜におおわれている。最悪の事態への予感に押し潰されそうな気持ちをふるいたてながら、エリオットは娘の後を泳ぐように追った。

 遠くからでもそのポッドたちが作動していないことは見て取れた。パイロットランプは全部消え、なかに納められたものとともにそれらはいまでは居住区画の凍結した床に重々しく置かれた黒い二つの棺となっていた。すでに何を見ることになるか十分知りながら、彼は小さな断熱ガラスの窓越しに中を覗き込んだ。ヘルメットの照明の放つ光のなかにまるでおだやかな眠りを眠っているような白い顔が浮かびあがる。マイア……。そしてヘンリー。……彼の下の娘とその夫の身体は、周囲の真空と同じく冷えきった物体となっていた。
「一体なにが起こった……?」
 誰か別の人間が喋っているような耳障りなささやき声が言った。
「よくわからない……突然、本当に突然。鋭くて断続な一連の音と激しいショックがあってすぐに船内の気圧が急に低下し始めた。気密ロッカーまで行くのがやっとだった。宇宙服を着て出てみると二人のポッドの維持装置が働いていないことに気づいた。でもどうすることもできなかった」
 エリオットはうなずき、相手に伝わらないことを思い出して言葉を絞り出した。
「……そうか」
「せ、船外映像のモニターを見たけれど、カメラが半分以上壊れていて状況がちっともわからなかった」
 リッキィはそのときの恐怖に凍りついたような表情のまま説明した。
「架台が破損したらしく加速状態で固定されてしまって回転しない。だから『エンキドゥ』を出して観測することもできなかった。でも時々小さなショックがあるのでどうやらスクープ・フィールドも対隕石防御システムも作動していないらしいことはわかった。それで重水素に切替えてシールド制動噴射を指令した。だけどシャフトにも被害があるらしく最大加速〇コンマ一Gが限界……」
「ジェネレーターとエンジンが両方やられたのかも知れない……」
 エリオットはそう言いながら眩暈を感じ思わずポッドに寄り掛かった。
「……パパ?」
「大丈夫だ……。今の位置と速度は?」
「フィラメントC−八の中央をオリオンの腕に沿って航行中。速度は光速の九十五パーセント。十分の一Gで逆噴射を継続」
 彼はマイアの側から自分を引き離すようにして管制コンソールへと移動した。椅子に崩れるように座り込みコンピューターに回線を接続する。
「外部展望!」
 生き残ったモニターに外景が映しだされた。――制動のために加速度は現在『機械』の長軸に沿って働いていて、それは永遠の闇のなかに聳え立つ二万メートルの高さの塔の中腹からの眺めだった。船首方向のほぼ半分のカメラが焼きつき、見える範囲は広くはない。生き残ったモニターには準光速飛行にともなう光行差のために進行方向である船尾にかたよった星空があった。密集した星々とシールド噴射の淡いコロナを背景にしてねじ曲がった骨組みのシルエットが浮かびあがって見える。
「ヘリウム回収装置にもダメージがある……船首の状況は何もつかめない」
 エリオットはしばらく映像の列を眺めてから言った。
「破損は最大ジェネレーターの半分だけだ。……さもなければわれわれは今ここに生きてはいないからな。プラズマが流出したのが運よく船体の反対側だったのだろう」
 彼は陰鬱な表情で娘を見た。
「誰かが外に出るほかないようだな」
「無理よ!」
 リッキィが悲鳴に近い声をだした。
「まだ秒速二十八万四千キロ以上で、しかも……防御システムは作動してないわ!」
 その速度でぶつかればたとえ芥子粒大の宇宙塵でもやすやすとヘルメットを貫通するだろう。噴射プラズマのシールドも船外作業をするなら停止しなければならない。……いま船外へ出ようとするのはほとんど自殺的行為だった。
「しかし状況を把握しなければ対策のたてようもないじゃないか? 船体に隠れて身体を曝さないようにして……どうしても身体を晒さなければならないなら何かを盾にすればいい」
 娘はヘルメットのなかで力なく左右に首を振った。
「わたしが行く。もうこの年齢だし、多少放射線被爆しても問題じゃないからな」
「パパはここにいて。わたしが行く」
「それはだめだ」
「平気。どうせ子供の持てない身だし……」
「……その言い方はやめなさい、リッキィ」
 エリオットは堅い口調で言った。
「議論している時じゃない。ともかくわたしがまず行く」

 準光速で飛行しながらも『オー・ビー・ア・ファインガール』は自由落下状態にある。シールド噴射なしでは軌道上のあらゆる粒子はミクロの隕石となって光速度の九十五パーセントで船体に激突する。しかしそれらは危険としては確率の低いものだ。彼にとって本当の脅威はフィラメントに含まれる水素イオンや進路前方の星々の光のほうだった。それらはきわめて透過力の大きい一次宇宙線やガンマ線となって、周囲の空間に絶え間なく降り注いでいるからだ。
 背負った推進装置のうえに切断したクルーザーの外装予備パネルをくくりつけ、銀白色の甲虫にも似た姿でクルーザーの外に出たエリオットはいやでもそれを意識させられた。進行方向へかき集められて異様に変形した星空。――肉眼で見るその眺めはまるで全宇宙がとてつもない力によってたわめられ、ついに一挙にカタストロフィーをむかえようとしているかのようだ。後方の赤外領域は悪意を秘めた巨大な闇となって膨張し、その縁を彩る暗赤色の帯も恐ろしい何かが今にも起こりそうな印象をあたえる。彼は背中のパネルがつねに船尾方向を向くようにした。そうすれば見慣れた空がグロテスクに歪んでいるのを見ずにすむし、放射線や直径数ミリまでのサイズの粒子ならパネルの傾斜機能構造がそのほとんどを防ぎとめてくれる。……だが、それ以上の大きさの隕石については運を天にまかせるほかはない。
 エリオットはエアロックの脇に浮かびながら、その姿勢のままリッキィから借りた手鏡を掲げて背後を見た。……船尾のヘリウム回収システムの被害は著しく、偏向リングそのものがめちゃくちゃにねじ曲がっている。あれを再建することはまず望めないだろう。それが意味するのはヘリウム三はクルーザーに無事に残った分ですべてということだ。『グレタ』はもう二度と飛び立つことはないのだ。だが探査機のために融合燃料は必要だった。
 エリオットはゆっくり漂いながらクルーザーの球形の船体を巡り、船首方向にむかった。船体の陰にいるかぎり危険のほとんどは避けられる。彼は少し緊張を解き操縦区画の天窓の宇宙服姿を見上げた。スクープフィールド・ジェネレーターが停止してのちも『ファインガール』の巨大な船体に残留する磁場に螺旋状にまといつくイオンたちの悲鳴があたりに満ちていて通信は不可能だ。リッキィを安心させるように片手を上げ、エリオットはあらためて被害の調査にとりかかった。
 架台のフレームはクルーザーを船首方向に頭を向ける形で横だおしにしたまま動かなくなっている。あいにく探査機のハンガー扉は『ファインガール』の船体側に向いているから、それらを使えるようにするためにはまず架台を修理して『グレタ』が自由に回転できるようにしなければならない。
 架台をとりまく磁気プラットホームの下を臨くと最初の穴が見つかった。直径三十センチほどで予想していたものよりも小さい。しかし衝突の瞬間生じた超高温の気体のジェットが船体のなかに噴出したことは間違いなく、それらは内部で円錐形にひろがる破壊をもたらしたはずだ。……プラットホームの一部がねじ曲がり、さらに衝突で発生した熱のために船体にしっかりと溶接されてしまっている。クルーザーの自由な回転が妨げられているのはこのためだった。しかし時間はかかるが壊れた部分を切断すれば修復は可能だとエリオットは判断した。
 衝突の痕跡は大きいものだけで三個所。さらに小さな穴が無数にある。全部をふさぐことは到底不可能に見えた。……唯一幸運だったのはクルーザーの天頂方向から飛来したにもかかわらず隕石たちが居住区画そのものを直撃しなかったことだ。おかげでその真下に納められているメインコンピューターと予備発電システムも被害を免れた。まさに不幸中の幸いだ。しかし……。
 エリオットの心の隅に何かひっかかるものがある。
「……どこかがおかしい?」

 無事に戻ってきた父親の姿にリッキィは見るからにほっとした様子だった。身体を晒すことになるために外部ロッカーを使わずエアロックのなかにじかにパネルを装着したスラスターを置いて、彼は禁忌を侵すちょっとしたスリルを感じながら開いたままの船内側扉をくぐった。
「キャビンを再び与圧することはどうやら諦めなければならないようだ。だがクルーザーの架台フレームは修理できると思う。探査機を出せれば被害状況ももっと詳しく調べられるだろう」
「でも修理作業はとても危険だわ。シールド噴射したままではだめ?」
 エリオットは考えた。――たとえ十分の一Gの加速度といえども物体は一分間に千八百メートルもの距離を落下する。そして微小重力はそれに慣れているはずの人間でさえちょっと油断するとやっかい事に巻きこまれる難条件だ。
「……いや、いずれにしても大きな隕石はプラズマを突き抜けてくる。むしろ無重力で作業時間を短くしたほうが賢明だろう。……幸い修復すべき個所はほとんどが船体の陰になっているから想像するほど大きな危険はないはずだ」
 リッキィは不安そうだった。その娘の表情を見てエリオットはさきほどの船外での漠然とした妙な感覚を思い出した。
 ――それはなんだったろう? 船体に穿たれた穴の形状か? それとも数か……? 何かが高速で衝突したことを物語るクレーターが三つ。クルーザーの小さな船体にそれだけの数の隕石がぶつかっている。……『ファインガール』全体ではいったいどれだけの被害があったことか?
 いかに数万年を生きてきた不死のイシュタル機械といえども、これほどのダメージを受けてなお飛び続けられるものだろうか? それを確かめる必要があった。何よりラム・スクープが破壊されたことが痛かった。現在の重水素の貯えだけではせいぜい数十箇月の十分の一G加速がせいいっぱいのはずだ。それが尽きた後は無力に宇宙空間を漂うほかすべはなく星間物質や放射線の一勢攻撃を防ぐ手だてもまた失われる。――そもそもなぜ『機械』の防御システムが働かなかったのか……?
 心の表層の少し下に何かがあった。しかし今彼の心はマイアを失ったショックのためか凍結しているようだった。

 リッキィは歪んだ星空を仰いであえいだ。
 無線が使えないのでエリオットは身振りでこちらに来るよう指示を送る。彼女は身震いをひとつすると彼のほうを振り向き、エアロックの縁をけるとクルーザーの陰へと回りこんだ。
 手順の確認はすべてジェスチャーで行われた。――切断するべきフレームの位置と長さ。焼き切るべき外装パネルの形状と大きさ……。
 それから彼らは仕事に取りかかった。すでにやるべきことはわかっているから作業は円滑にすすんだが、それでもフレームのひとつを切り離すまでにふたりの酸素はほとんど使い果たされた。
 はじめエリオットは切り離した鋼材は宇宙空間に投棄するつもりだったが、リッキィが目ざとく発見したものを見て気を変えた。……ライトに照らしだされるぎりぎりの彼方の薄闇に蠢いているものがある。どうやら『機械』の作業ユニットたちが船体表面に姿を現わしているらしい。
 彼はスラスターの物入れから電子スコープを取り出した。波長補正された視野のなかに球形の胴体から放射状に伸びる触手が見える。赤外域のオレンジの輝きをまとって、まるで黄金色の昆虫のようだ。しかし『機械』のメンテナンスが任務のはずのそれら蜘蛛たちの作業の進めかたはどこか奇妙だった。外装の炭素結晶材を取り外そうとしているようにさえ見える。
 ――なるほど……皮膚移植か?
 エリオットは暗然とした気持ちで了解した。プラズマで破壊された知能素材の自己再生が不充分なので無傷の部分の材料までも用いなければならないのだろう。そこまでしなければならないほど被害は大きくまた深刻らしかった。
 作業ユニットたちのほうへふたりは力を併せて切り取ったフレームを押し遣った。それはゆっくりと漂いながら船体に平行に流れていき、やがて一台の蜘蛛のマニピュレーターにしっかりと掴まれた。……あの材質は『機械』の物質循環システムに組み込まれてわずかながらもその再生に役立つだろう。

 それから幾度も船外へ出てふたりは架台の修理に取り組んだ。リッキィの工夫で通信ケーブルのターミナルが船外に設けられ、彼らは身振り手振りの会話からも解放された。もっとも互いに作業の手順は完全に了解していたし、修理そのものも順調に進んでいたから、実際にはほとんど指示や質問は必要なかった。それでもごくたまに光回線を通じて短い言葉が交されることもあった。
「あ……また光った」
「気にするんじゃない。遠雷の光とでも思うことだ……」
 自由落下状態での作業は確かに重量のある素材を少ない人数で取り扱うには便利な半面、また避けられないリスクを秘めてもいた。ときおり暗闇の奥で青白い閃光が瞬間的に輝き、彼らは自分たちが今置かれている恐ろしい危険についての認識を新たにした。
 幾度目かに外へ出たとき、エリオットは蜘蛛たちがあまりに近くにいることに気づいて少しぎょっとなった。船尾方向、二十メートルも離れていない。作業の為に仮設した照明の光が金属光沢の装甲をにぶく輝かせていた。それらがプラットフォームの上には決してあがってこないはずなのを知りながら、そちらへ背中を向けるとき彼はなんとなく自分が若干神経質になっているのを意識した。確かに『機械』の無機的な生命代謝の証を見ることは人間の感覚を逆撫でする何かがあるようだ。
 架台の修理はほとんど終了し、最後の接続個所に補強板をあててボルト止めする作業を残しているだけだった。一人で十分できる作業だ。ただしそのためには進行方向に身体を晒さなければならず、リッキィは今回にかぎってプラズマ噴射によるシールドを主張した。
「万一ということがあるでしょう?」
 しかしエリオットは気がすすまなかった。
「分厚い手袋でスパナやボルトをあつかわなければならない。それらを取り落としたら百分の一Gでもやっかいなことになるぞ。船体を不要に傷つけることになりかねない……やっぱり無重力状態のほうがいいだろう」
 彼はパネルを二重にして背負い――そうしなければリッキィを説得できなかった――傍らの窓から彼女が心配そうに見守るなか、黙々と作業を続けた。
「あと十分以内に完了する」
 ナットがひとつ手袋で鈍くなっている指から逃れた。それは毎秒数センチの初速を得、あわてて延ばした彼の手をすりぬけて恒星間宇宙へ向かってゆっくりと漂っていった。
 ナットのかわりはいくらでもある。しかし少し動けば手が届く距離だった。エリオットは舌打ちし、わずかにイオンパルスの押しを加えて数メートル上昇した。そして仄かな星明りにきらめく金属片に手を伸ばす……。
 ――つぎの瞬間、彼は自分が『ファインガール』の船体のうえにながながとうつぶせに横たわっていることに気づいた。一瞬前まで握っていたレンチは影も形もない。奇妙な感じだった。記憶が瞬間的に完全に欠落していた……。身動きをしようとして彼は突然の激しい痛みに呻き声をあげた。
「……パパ!」
 リッキィの絶叫がヘルメットのなかで響いていた。
「……どうしたんだ?」
「ああ、マシンよ、感謝します! ……生きていたのね! てっきり……」
 頭が今では耐え難いほど痛んでいた。
「頭痛がひどい。……少し吐き気がする。それに……」
 彼は宇宙服のうえから自分の身体を慎重に触って確かめた。
「……骨折はないようだ。だが呼吸が苦しい。どうやら胸を打ったらしい」
 恐る恐る周りを見渡し、いつのまにか自分がもとの位置から十数メートル船首よりに移動していることを知って彼は驚いた。背後にはリールいっぱい巻き出されたファイバーケーブルが延びている。身体の横にあったはずのスラスターのハンドルは腹のほうに向って妙な形に折れまがっていた。それが意味することを理解してエリオットはぞっとした。――恐ろしい力で背後からつき飛ばされたのだ。そしてケーブルの張力によってからくも引き留められ、そのまま船体に叩きつけられたらしい。
「今行く。待っていて」
「いや!」
 エリオットは叫び、痛みをこらえ苦労して身体の向きをかえた。
「大丈夫だ。出てくる必要はない」
 こうしている間にもガンマ線は容赦なく身体を貫通しているだろう。彼は必死の努力でスラスターを操作しクルーザーの陰へと自分の身体を運んだ。ヘルメットのなかに嘔吐するわけにはいかない。不愉快なだけではなく無重力では窒息する危険もある。そして、そこに力無く浮かんだまま彼はしばしマシンに祈った。もしも内臓にも何らかのダメージがあったら……。
 やがてひどい気分は少し楽になり、どうやら打撲によるショックが致命的なものではないらしいことがわかった。彼はヘルメットの給水パイプで唇を湿らせ、呼吸を整えた。
「説明してくれ。何があった?」
「すぐ後ろで作業していた蜘蛛のひとつが突然爆発したの……。そのまま吹き飛んで……もう少しで触手のひとつが当たりそうだった……猛烈なスピードで回転しながら船首のほうへ消えていった」
 エリオットは目を閉じた。
「……隕石だ。まさに九死に一生をひろったな!」

「ちょうど核融合エンジンのプラズマ噴射を至近距離からあびたようなものだ。ごく瞬間的ではあったろうけれどね」
 気密ロッカーの狭い空間のなかでリッキィから脇腹のテーピングをしてもらいながらエリオットは説明した。
「秒速二十八万キロメートルを超える速度で衝突すれば安定した元素も核反応を起こしうる。それらは一瞬のうちに素粒子のスープになり、つぎに電離した陽子と中性子と電子のプラズマのビームとなって拡散していく。わたしを背後から直撃したときも大部分はせいぜいミクロン単位のレベルまでしか凝縮していなかったろう。もちろん超高温だから直接浴びれば生命はなかったろうし二重のパネルを貫通するだけの大きさの破片もあったはずだ。しかしそれらは運よく逸れたらしい。……もっとも幸運と言えるかどうかはわからないな。恒星間宇宙であのサイズの質量に遭遇すること自体確率的にはゼロに近いだろう。『起こる可能性のあるトラブルは必ず起こる』という例のマーフィーの法則はどうやら不滅の真理らしいな」
「生きた心地がしなかった」
 リッキィの顔はまだ青ざめていた。
「あの蜘蛛が半分白熱しながらパパの傍らを通りすぎたときには。……きっと挾のひとつはほんの数十センチしか離れていなかった」
 エリオットは苦い笑いを浮かべた。
「死に方としては理想的かも知れないぞ。なんの苦痛もなく……」
「……やめて!」
 リッキィの口調は冷たかった。
「こんなときに冗談なんて。忠告を聞き入れないで死ぬほど心配させておきながら……」
「……すまない」
 彼はひびの入った肋骨に手早くテープを張り付けていく娘の真剣な表情と手付きとをしばらく見ていたが、やがて言った。
「おまえは最初のショックがあったとき、突然、断続的な鋭い音が聞こえたといっていたね」
 リッキィはちょっとの間、テープの張り具合を確かめていたが、父親の目を見てうなずいた。
「……ええ」
「幾つかの鋭い音がごく短い間を挟んで連続して聞こえたということだね」
「と、思うけれど……終わったわ」
「うむ……。ありがとう」
 エリオットは言い、娘の手を借りて立ち上がり、ゆっくり身体を捻ってみた。
「痛む?」
「……いや。だいぶよくなった。だがまだ腕が自由に動かせない。悪いが宇宙服を付けるのに手を貸してもらえるか?」
「はい。でも、もう少し休んでからのほうがいいと思うわ」
「そうもいかない。……もしもわたしの考えが正しいなら残された時間があまりないんだ」
 リッキィは父親のインナースーツを床から取り上げながら不安な表情をした。

「『グレタ』の船体には三個所穴が開いていた。互いの間隔は十メートルもない。クルーザーの船体の直径は三十メートルほどであるにもかかわらず、そんな小さな投影面積に三つも衝突の痕跡がある。恐らくこの隕石たちの平均距離は数百メートルからせいぜい数キロといったところだったはずだ。……星間物質の分布密度としては異常に高いと思わないか?」
 制御卓のモニター群に目を走らせながらエリオットは言った。
「そう言われればね」
「だが、おまえは断続した衝突音を聞いているという。妙じゃないか?」
「妙? なぜ……?」
「……いいかね。そのとき『ファインガール』は光速度の九十五パーセント以上で航行していた。もしもそんなふうに密集した隕石群に突入したのだったら、おまえはひとつひとつの衝突音を聞き分けられたはずはない」
 リッキィはうなずいた。
「そのとおりだわ」
「そもそも被害だってこんなものではすまないだろう。さきほどわたしにぶつかりそうになった微小隕石はおそらく直径が幾センチもなかったはずだ。それでもその衝突の衝撃は蜘蛛を半分以上溶解してしまった。一方あの隕石群はたぶん、数十センチ大の粒子からなっていただろう。それは本来なら『ファインガール』をわれわれもろとも粉々に粉砕してしまったはずだ。何より準光速航行にとってそうした隕石群は致命的な障害であるのだし、だからこそ『機械』の防御システムがとっくの昔に探知して衝突を避けているべきなのだ。何光日も手前からレーダーには星雲みたいにはっきりと見えたはずなのだから」
「……でも『機械』は回避に失敗した」
「なぜなら、それらは実はそうしたものではなかったから……」
 エリオットは映像のひとつに注目し、それに見入った。
「……なるほど太陽を背にしているのか。ドッグ・ファイトの原則に忠実だな。しかしそんな小細工では誤摩化されないぞ。……見てごらん」
 それは光行差を補正したうえで船尾方向の球状星団の中心付近を拡大したものだった。さらに電磁スペクトルを広範囲にわたって処理して加視光以外を現わす色彩が混沌と入りまじっている。
「この部分だ」
 彼がモニター画面を指す位置に、はっきりほかとは違う白い小さな円形があった。
「星団の輝きで噴射プラズマはごまかせてもラムスクープの発光は消せない。……ほら、こいつは赤へとシフトする背景のなかで唯一短い波長で輝いている」
「いったい何? これは……」
「『ファインガール』の後方にあってほぼ同じ速度で動いている別のスクープ融合光さ。つまりわたしたちの後を密かにつけている存在があるということだ」
 リッキィは信じられない様子だった。
「こんな深宇宙のただなかで……? いったい何者?」
「われわれを襲った隕石群は自然の現象ではありえない。あれほどの密度で隕石を集めるためには小さな恒星ほどの質量が必要だが、そんなに強力な重力場なら当然より微小な星間物質を引き寄せているはずだ。そうすればそれらの摩擦によって各種のエネルギー反応がひき起こされていなければならないし『機械』がそれを探知できないはずはない。だからあの隕石群はいきなり『ファインガール』の鼻先にばらまかれたに違いない。……システムに回避行動がとれないほどの近距離で」
「でも……誰が? それに、どうやって?」
「……十分な比重をもった岩石をミサイルに詰め込んで発射すればいい。そして『ファインガール』と秒速数キロの相対速度に達したときに軌道と交差させる。ナビゲーション・システムが危険を察知して回避しようとする前に破裂して岩を周囲に撒き散らす」
「でも……それはパパの想像でしょ?」
「それならいままでの謎をどう解釈する? ……隕石群の密度が異常に高いのはそれが一点から撒き散らされたばかりだったからだ。さらに船体の被害が最小であったのも隕石群との相対速度が数十万キロでなくて、わずか秒速数キロにすぎなかっためだと考えれば説明がつくだろう?」
 コンソールに身をのりだしていたエリオットは急に疲労を感じたかのように椅子の背にもたれた。
「間違いない……わたしたちは待ち伏せされ、周到に準備された攻撃を受けたんだ。……おそらくは『イルスター』によってね」

 エリオットは近傍の空間の水素イオン分布を示す立体画像に見入っていた。C−八は直径百二十光年ほどの球体の表面を形成する水素イオンの線状雲――フィラメントのひとつであり、サイラシン=タスマニア星系をその一部に含むこの巨大な球状殻は貴重なフィラメントの連鎖――『北方航路』の主要な部分をなしている。
 ……およそ一万五千年前、この領域に存在した白色巨星のひとつが超新星爆発を起こして大量のニュートリノと恒星の構成元素を周囲の空間に投げ出したのだ。中心には高速で回転するパルサーが残され、爆発にともなう衝撃波は星間物質を掃き集めながら拡大した。星間物質は圧縮され、原子量ごとに各層に分離し、内部からのX線に照射されて、電離した各種イオンの殻を形成する。やがて球状殻は膨張の速度を緩めて細かく千切れ始め、細長く延びた希薄なガスとなってフィラメントを構成するが、それらはラムジェット推進機関の燃料となる水素イオンを豊富に含みクレイドルから各方向へと延びる理想的な自然の航路を提供していた。

 コンピューターによるフィラメントC−八の立体画像は次元のひとつが短縮されていて、エリオットの目にはまるで苦悶に身体をねじる長頚竜のように見えた。その竜の左前足の先に天体記号がひとつある。銀河標準番号はGSN―18202a/b。そしてすぐ脇に警告の赤い文字のスペクトル表示がA5=M2V。ふたつの間がハイフンでなく等号で結ばれているのは〈近接連星〉を意味する……。
 彼はつぶやいた。
「答えは三体問題にあるというわけか……」
「何してるの? パパ?」
 エリオットは振り向きリッキィが懸念を含んだ視線でずっと自分の後ろ姿を見ていたのを知った。
「……眠っていたんじゃなかったのか?」
「眠っていたわ。……くたくたに疲れてね」
 彼らはここ数十時間ほとんど不眠不休で探査機の噴射システムの調整を行なっていた。微小隕石が回路の一部を損傷していることがわかったからだ。そしてつい数時間前になってようやく『エンキドゥ』が飛べるようになったのを確認して、ふたりは気密ロッカーに倒れ込み、折り重なるようにして眠ったのだった。――エリオットはまるで何かに憑かれたかのように自分と娘の身体を限界までこき使って、探査機を使えるようにすることに全力をつくした。
「寝苦しくて目が覚めたら姿がなかったから……」
「どこへも行けはしないさ」
「パ……パパだって死ぬほど疲れている筈。それが闇のなかで宇宙服を着たままモニターの青白い光を浴びながら何かをつぶやいている。……大丈夫?」
「もちろん大丈夫だ。こんなに気力が充実しているなんて近頃なかったほどだ」
 リッキィの陰うつな表情に、彼は苦い微笑を浮かべた。
「お前が眠っているあいだに『エンキドゥ』を出した」
 彼女は驚いた表情をした。
「探査機を? 全然気づかなかった」
「ご覧……」
 彼はモニターに再生画像を呼び出した。
「……船首方向から映した『ファインガール』だ」
 リッキィは画面に顔を寄せ、眉をひそめた。
「……船首レーダー、FEL反射鏡、そしてスクープ・ジェネレーターがやられている。大量の金属が解けて流れ出しているのがわかるだろう?」
 エリオットは画面を切替え、リッキィは息をのんだ。
「側面だ。……幅約百メートル、長さ数キロにわたって結晶素材が完全に失われている。電磁フィールドのバランスが崩れたときに噴出したプラズマで一瞬のうちに気化したんだな。『グレタ』の反対側で本当によかったよ」
 裂け目が拡大されるとまるで壊された蟻塚の表面のように無数の作業ユニットたちが蠢いているのが見えた。蜘蛛以外にもエネルギー補給や情報処理などを担当するさまざまな形態、大きさのそれらがいりまじっている。
「傷は船体の長さのほとんど三分の一に達している。深さもかなりありどうやらシャフトを取り囲む磁場制御装置の一部にまで被害が及んでいるらしい。推進力が十分に維持できないのはたぶんそのためだ」
「回復できる?」
「レーダーとレーザー発振装置はそれほどかからずに直ると思う。しかしジェネレーターと融合シャフトの超伝導コイルは簡単には修理できないだろうな。ひょっとしたら『ファインガール』の自己再生能力でも手にあまるかも知れない」
「それはもう……こ、航行不能ということ?」
「いや……、ラム・ジェットは使えなくても現在の速度なら銀河磁場から受けるローレンツ力を利用して近接の恒星系に向かうことはできる。ただしそれもイルスターとの戦いをうまく処理した後の話だ。もしもあまり重水素を消費してしまえば今度は恒星系内にとどまるために減速することさえできなくなる。そうなったら永遠に宇宙をさすらうことにもなりかねない」
「……た、たとえどうなっても」
 リッキィは無意味に手を開いたり閉じたりしながら父親の傍らに近寄った。
「パパはあきらめたりはしない人でしょ? いつも言っているじゃない? 生きているかぎりは希望はあるって……」
 エリオットは厳しい表情で傍らに立つ彼女を見つめた。
「いまもそう言ったかも知れないな。ヘンリーやマイアが生きてさえいれば……」
 彼女は一瞬瞳を見開き、それから困惑したように目を伏せた。

 娘が果たして妹とその夫の死をどう思っているのか、エリオットには確信がなかった。成長してから後、彼女たちが一見互いにうまくやっているように振舞っていても、彼はリッキィが心の底では決してマイアを好いてはいないことを薄々感じていた。
 ……コンソールに向き直った彼の宇宙服の肩に厚い手袋に包まれたリッキィの手が置かれた。彼女が父親の身体に自分から手を触れるのは珍しい。そしてエリオットの心のなかで不意に時間がずれ動き、遥か昔の遠い一日が蘇った。……食堂のテーブルに頬杖をつき、二度と帰らない面影を追い求めていたあの黄昏のひととき。背後から小さな掌がちょうどいまのように遠慮がちに、彼の手にのせられた……。
 エリオットは追憶を振りはらうように身震いし、そっとその手を押し除けると娘を振り向いた。
「……状況をはっきりさせよう。われわれは約三十億キロの距離をおいてイルスターに先行している。相手の速度はまだ『ファインガール』よりは遅いが、光速度の九十二パーセントに達し、なおも加速している。一方こちらはシールド噴射のためやむなく毎秒毎秒一メートルづつ減速しているから、いまのままなら必ず追いつかれることになる。わたしの計算ではおそらくそれは二ケ月後だ」
 リッキィはしばらくの間沈黙していたが、やがて低い声で尋ねた。
「……攻撃してくる?」
「間違いない。……あれは『肉食』だ。たぶんFEL……自由電子レーザーが使われると思う。集中的に照射されれば炭素結晶材も破壊をまぬがれないし、シャフトの制御システムにまで被害がおよべば『ファインガール』は完全に機能を停止する……」
 彼女は身震いした。
「やがて追いつかれ増殖のための餌にされるとわかっているのであれば、逆にこちらから攻撃するしかない」
「攻撃するっていっても……、武器は?」
「FELの修理はぎりぎり間に合うかどうかだ。しかも撃ち合いになれば強力に武装しているに違いない向こうが圧倒的に有利だ。……だがわたしたちには探査機がある」
「架台の修理を急いだのはそのため? ……探査機をミサイルにするつもり?」
「マイクロパイルの安全装置を強制解除して、ね。至近距離でうまく爆発させてやれば少なからぬ損害を与えられるはずだ」
「でも……む、むこうの対隕石防御システムは?」
 エリオットはうなずく。
「それが難題だ。そのままでは探知され遠方から撃ち落とされてしまう。……戦術を工夫しなければ」
 リッキィは身をかがめてヘルメットのなかの父親の目を臨いた。
「絶望的な要素ばかり。それなのにパパは気力が充実している。……まるで戦いを楽しんでるみたいね?」
 一瞬、エリオットは言葉を失った。
「……楽しんでいるわけじゃない。これは気楽なコンピューターゲームじゃない。生命がけの戦いだし、そのうえ相手は何万年もこうした破壊を続けてきてハンターへと特殊化した存在だ。それに対してわれわれには経験も知識も、そして防御のための有効な武器さえない。果たして二人してクレイドルへ帰り着くことができるかどうかさえわからない」
「……」
「だが少なくともわれわれのうち一人は生き残れるようにするつもりだ」
 リッキィの表情には明らかに脅えがあった。
「いや……そんなのはとても我慢出来ない!」
 エリオットは安心させるように微笑んだ。
「最悪の場合でも、ということだよ。……さあ、もう休みなさい。わたしもすぐに行くから」
 リッキィはそれきり黙ったまま彼の側を離れた。しかし居住区画への梯子の手前でもう一度だけ振り向いて、彼女はぽつりと言った。
「やっぱりパパは〈敵打ち〉にご執心なのね」

 ――娘の言うとおりだ。
 リッキィの姿が消えてからエリオットは思った。
 マイアたちの死を知ったとき彼は生きる目的を喪失したのだった。身体を動かすためだけにさえありったけの意志を振り絞らなければならず、ともすれば無気力な追憶の倦怠のなかに沈み込みがちな彼をただ生存のための努力だけが動かしていた。
 しかしイルスターによる脅威が現実のものとなったとき、彼は自分のなかに力に似た何かが生まれたのに気づいた。恐らくそれは復讐という新しいしかし空しい目標のためにすぎないことを彼は知っていた。――自分は盲目的にあいつを破壊したいだけなのだ。それが銀河の磁気の流れほどにも悪意を持たない、ただの機械であるのはわかっていながら……。
 やがて手痛い反動がくるだろう。無理を重ねれば、それだけのものをちゃんと後で支払わねばならない。だが、やらなければならないことは数多くあり、そして気力はまだ彼を支えていた。

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