「……おかしい」
エアロックから入ってくるなり、リッキィが言った。
「センサーが……こ、故障しているのかしら」
「どうした?」
「ベータ・プラス反応があるの。……アイソトープなんてないはずの場所で……」
エリオットは眉をしかめた。こういった難しい状況で、このうえ不可解な事件は願い下げにしたいところだった。
「エアロックに入ったら警告マーカーが点灯した。最初は……故障かと思ったけどカウンターまで反応しているみたいだから……」
「ちゃんとモードを確認してみたかね?」
「ええ、間違いなく陽電子だわ……」
エリオットはコンソールの表示にすばやく目を走らせた。外部センサーに異常はない。X線やガンマ線ではなく、ベータ線……。ということは外部からシールドを透過してきたものではなく何らかの原子核崩壊がメイン・エアロック自体の内部で進行しているということになる。――とうてい考えられないことだ。
彼はそのまま無言でエアロックへと向かった。恐らくリッキィの宇宙服のセンサーの故障のはずだ。しかし内部扉から一歩踏み込むと、エリオットのヘルメットの内部で真紅の明りがともった。
完全に当惑しながら彼はエアロックの内部を見渡した。べつに何も変わったものはない。……船外作業のためのスラスターが二台、壁に磁気固定されている。本来ならここに置くべきものではないが、すでにエアロックはその意味を失っている。あとは即席の隕石防御用の外装パネルが……。
エリオットの視線がくぎづけになった。
「……これは?」
「どうしたの?!」
緊迫した声でリッキィが尋ねた。
「……」
彼はつぎに言うべき言葉が見つからずに沈黙した。確かに隕石にもう少しで殺されそうになったとき背負っていった二重パネルの一枚に間違いない……。エリオットは身を屈めてその表面を覗き込むようにした。……ヘルメットの光のなかで炭化シリコンのセラミックの表面に水銀の飛沫のようなきらめきがある。よく見るとそれは深さ半ミリほどの凹型の小さな金属光沢をした窪みの連なりだった。
どう考えるべきかわからないまま手首のカウンターに目を移す。――確かに放射能があった。彼は後退りし、エアロックに飛び込んできたリッキィの身体にぶつかった。
「いったい何?」
エリオットは首をふった。
「……わからない。だが、長くここにいるべきじゃない。取りあえず出よう」
制御コンソールの前でエリオットは娘の横顔を見つめながら考え込んでいた。目に隈のあらわれた彼の青白い顔はここ一週間のあいだに胡麻塩の不精髭でおおわれている。抗老化剤でも防ぎきれないゆっくりと進行する加齢の印だ。そしてリッキィのどこか脅えたような表情にも、絶え間ない緊張からか疲労の色が濃い。――水を大量に湧かす算段を工夫して身体ぐらい拭くようにしないと……。ぼんやりとエリオットは思った。……イルスターとの戦いのまえにストレスでふたりともまいってしまうぞ。
「……放射性物質を含んだ隕石だったのかしら」
不意にリッキィがそう言い、エリオットはうなずく。
「そう考えるのが普通だ。しかしそれでは今になって突然放射能が探知された理由が説明できない。……とうてい見落としていたとは考えられないからね。あのときは表面には何の異常も見られなかったはずだ」
「……わたしも見た。確かに何もなかった」
「それにあの形状も気になる。何かが衝突した跡というよりは……。まるで強力な酸かなにかで腐蝕したような感じだ」
「……あのパネルは船外に出したほうがいいと思うわ」
エリオットにも異議はなかった。彼らはひとまずそれを船外のプラットフォームに置いたうえでカメラで監視することにした。同時に小さなサンプルを幾つか削り取って容器に密閉する。――ひょっとしたらひどく馬鹿なことをしているのかも知れない。しかし科学的な調査にベストをつくすことは『機械』をレンタルするうえでのクレイドルとの契約条項のひとつだ。
幸い実験設備の一部は稼動した。彼は娘にサンプルのひとつを分析装置にセットするように命じた。その装置はフルオートで試料を加熱し、表面から遊離した原子に波長を正確に調整したレーザーを照射してその固有のエネルギー準位にあるイオンの個数を記録する。そこに含まれるあらゆる原子の種類と状態が詳しく計量されるはずだった。
一時間後、リッキィが上がって来て見ると父親はコンソールのモニターのひとつを見つめているところだった。画面にはプラットフォームのパネルの映像が写しだされている。その後ろ姿がどこかしら緊張しているように感じられた。
「最初の分析結果……何かあった?」
真空中で用いられる金属フィルムのプリントアウトを手渡しながら彼女は尋ねた。
「……いや、別に」
エリオットはそれを受け取り、ちょっと目から遠ざけた。
「『アルミニウム』?」
「それとマグネシウム、ナトリウム。少量の硼素……ベリリウム」
「まるで周期律表じゃないか。一列に並んで――ひどく不自然だな」
彼は眉をしかめた。
「あの衝突の瞬間には陽子と中性子のジェットが発生したはず。若干のアイソトープが検出されてもおかしくないけど……」
「……だが原子量は逆に減っているんだ。それにシリコン二八と炭素十一が含まれているぞ」
リッキィは落ち着かない笑いを浮かべた。
「なんだかまるでパネルの素材が突然ベータ崩壊を始めたみたい……」
エリオットは不意に立ち上がった。
「推力停止! ――船外作業の準備!」
「い……いったい何?」
「悪いが説明している暇はない」
彼は備品室へと駆け込み、その間にわけがわからないまま推力を止めたリッキィはつぎに父親が姿を現わした時その小脇に抱えられた筒状のものを見てひどく驚いた。
「それ、分析装置のレーザー発振器……いったいどうするの?!」
「『消毒』だよ……」
エリオットはそのままあわただしくスラスターを背負い、船外へ飛び出していった。
数十分後、エリオットはぐったりとした様子で『グレタ』に戻ってきた。リッキィは少しとげのある言葉で出迎えた。
「身体がまともじゃないんだから無茶はやめて。……何をしたの?」
「……外装の炭素結晶を焼ききってきた。あの隕石衝突のジェットが飛んだ数十平方メートルの範囲に数個所、金属状の腐蝕が見られた。恐らくベリリウムだろう……。ついでにプラットホームの一部も切断して放棄しなければならなかった」
「でもなぜ? どうしてそんなことをしなければならないの?」
エリオットはコンソールに漂い寄り、二分割されたモニターにそれぞれ静止画像を呼び出した。
「見てご覧……。左が昨日のもの。右は二十五時間後――つまり現在のパネル表面だ」
リッキィは息をのんだ。
「これ……増殖してる!」
「おまえの言ったように確かに安定した同位元素が、しかも連鎖反応的にベータ崩壊を起こしているのだ。――この目で見たのでなければ到底信じられないことだがね」
*
エリオットは船載コンピューターのデータベースを検索していた。そこにはシーカーたちによってもたらされる新発見を含めて、クレイドルを出る時点で最新の情報が収められている。しかし今、彼が読んでいるものは地球時代からずっと引き継がれてきた科学ライブラリのひとつだった。
「……そう考えるほかないか」
モニターを眺めていたリッキィが振りかえった。画面には、万一の安全のために船尾に移され、今度は磁場で通常物質と遮断された例のパネルが映っている。
「何が?」
「ストレンジ物質だよ」
リッキィは眉をしかめた。
「『奇妙な物質』? ……確かにそのとおりだとは思うけれど」
「そういう意味じゃない。ストレンジレット――つまりストレンジ・クォークを含んだ物質のことだ」
「何を言っているかわからない……説明してくれる?」
エリオットは画面に映しだされた、かつてパネルだったものの変わり果てた姿を見た。それは金属光沢をもったスポンジ状に膨張し、炭素にまで反応が進んだ黒い部分があちらこちらに斑点を作っている。
「ハドロン――核子がクォークから出来ていることは知っているね。陽子はふたつのアップ・クォークとひとつのダウン・クォーク、中性子はひとつのアップ・クォークとふたつのダウン・クォークから構成されている。クォークは強い力を媒介するグルーオンによって堅くハドロンのなかに閉じ込められているから単独で観測されることは決してない」
「知ってるわ」
「アップ、ダウンのほかにもクォークは四種類知られている。つまりチャーム、ストレンジ、トップ、ボトムだ。しかし、これらは超高温超高密度の条件でだけハドロンを構成できるので、通常の宇宙空間にある物質を作り上げているのはアップ、ダウン二種類のクォークだけとされる。……だが、そうではないかも知れないんだ。科学者はアップとダウンのほかにストレンジ・クォークを含んだ物質の状態がありうると考えている。それがつまり『ストレンジレット』なんだ。
通常、ハドロンだけで構成された物質はごく小さい。最大の原子核でもせいぜい十のマイナス十二乗センチ程度の大きさでしかない。ところが一方でそれらが巨大な質量を作り上げている例もある。――中性子星がそれだ。それは重力によって押し固められた直径十数キロにも達する核子のかたまりだ。
自然界にはその両極端の形態だけがあって、それらの中間の大きさの核子物質は存在していないように見える。ストレンジレットはそのスケールの空白を埋めるものだ。アップ、ダウンのほかにストレンジ・クォークを含むハドロンは原子核よりずっと大きなものになりうると想像される。ビッグバンの直後のような超高温超高圧の条件下では数十センチの大きさにもなれるかも知れない」
「……じゃあ、あの隕石はストレンジレットだったと言うの?」
エリオットは慎重にうなずいた。
「ストレンジ物質はいわゆる暗黒物質――ダークマターの候補のひとつだ。この宇宙は光学的に観測される物質の量の何倍もの見えない質量で満たされていることは知っているね。そうした『ダークマター』の正体は科学者たちによって様々に説明されてきた。例えばそれはニュートリノだったりブラックホールだったり超対称性粒子だったりする。ストレンジレットもまたそうしたもののうちのひとつだ。もしもストレンジレットがダークマターであるなら、偶然わたしたちが遭遇する可能性は十分ある」
「……」
「あるいはそうではなく、あの衝突のエネルギーでストレンジレットが新たに生み出されたのかも知れない。物理学者たちが想定しているプロセスからすればかなりエネルギーレベルが低い気もするが……。しかしストレンジレット生成の仕組みはまだ全然知られてはいないのだし、重金属を含む大質量が準光速で衝突したわけだからね……」
「……でもなぜあれは増殖しているの?」
エリオットはためらった。
「うむ……それが難題なんだ。中性子星のような超重力下ではストレンジレットは中性子をつぎつぎに捕獲して巨大化し、最終的にそれを単一の『ストレンジスター』に変えてしまう。だが宇宙空間のような低圧低温の条件下でそうした連鎖反応を起こすとは考えられていない。核力の及ぶ範囲外では逆にストレンジレット自身の電荷が原子核との結合をさまたげる方向に働くからだ。
しかしいっぽうであきらかにあのパネルのアルミニウムや炭素の同位体は周囲の炭化珪素からハドロンが奪われることによって産みだされたと思われる。そしてさらにアルミニウムからマグネシウム、炭素から硼素へとその反応は進んでいるようだ。つまり……これはあくまでひとつの仮説にすぎないんだが、ストレンジ物質の相がエキゾチック粒子をともなって複雑な――いわば『核子化学』的な連鎖増殖反応を引き出すのかも知れない。ちょうど地球の置かれた物理的環境が酵素という複雑な化合物の存在を許すことで多彩で豊かな分子化学反応をひきおこしているように……」
「つまり生命?」
エリオットは苦笑した。
「さすがにそこまで断言したくはない。しかし核力で代謝する生命体が存在しないとは言い切れないのだし、ひょっとしたら宇宙空間はこうしたストレンジレット生命で溢れているのかも知れないじゃないか?」
リッキィは黙ったままゆっくりと首をふった。
*
エリオットはコンソールのモニターを見つめている娘の隣の席に無言で座ると画面を覗き込んだ。中央に光の点がある。背景の球状星団の明るさにも紛れようのないまばゆい輝き――イルスターのスクープ状磁場に螺旋状に巻き込まれる水素イオンのサイクロトロン放射、そしてラム吸入圧縮による部分的な核融合光だ。通常は真珠色と形容される穏やかな光であるはずのそれらは、進路後方の赤外域への波長シフトをコンピューター修正した映像のなかでは凄まじいまでに青白い光芒を放っている。まさに夜空に他を圧して輝く〈不吉な星〉だった。父と娘は息をつめてその怪しい姿を見まもっていた。
「……距離、三千五百万キロ」
リッキィは画面下の表示にちらりと目をやる。
「相対速度二百五十キロ毎秒。ゼロ・ポイントまで一万三千八百秒」
彼女はカメラを望遠に切替えた。ラムスクープの強力な磁力線で編まれた繊細な光のレースが高倍率で拡大された小さな円盤となって見える。しかしその背後に潜む狂った機械の黒い影はこの距離からではまだ見ることはできない。
数日前になって対隕石防御システムが回復し『ファインガール』を自由落下状態にしてようやくひと安心したエリオットは、初めてリッキィに彼の作戦について具体的に説明した。
「攻撃については、どうやら有効な機会は一度しかない。……前にも言った通り相手の防御システムをかいくぐって探査機をごく近くまで接近させなければならないが、そのためには敵の注意を引きつけてしかも探査機の存在をカムフラージュできるような何かが必要だ。そしてそれに使えそうな手段はわれわれにはたいしてない――率直に言えばたったひとつだけ。噴射プラズマだ」
「噴射プラズマ?」
「プラズマに隠して探査機を突入させる。電磁遮断効果で相手のドップラーレーダーをごまかすことができるはずだ」
「……で、でもそんな近距離ではFELでこちらがやられてしまう」
「自由電子レーザーの有効射程距離はそれほど長くはない。……レーザーによって結晶素材が気化するには数秒かかるし、その間ビームを一点に集中していなければならない。遠距離ではそれは非常に精密な照準の制御を必要とする。噴射によって絶え間なく振動している『機械』の間ではなおさらだ。……有効射程はせいぜい数万キロといったところだろう」
「でも相手のは『ファインガール』よりずっとパワーアップされてる。照準が定まらなくても一触しただけでかなりのエネルギーを浴びせられる」
エリオットはうなずく。
「そのとおり……安全を第一に考えるなら相手を百万キロ以内に近寄らせるべきではないだろうな。だが一方でプラズマの密度と振動数があまり低くならないうちに探査機を送り込まなくてはならないんだ。噴射されたプラズマの温度は数分以内に数千度まで下がってしまう。防御システムのレーダー電波を遮断しておける時間はだからせいぜい五、六分間――秒速一万キロのプラズマ・ジェットにとっては三百五十万キロ前後の距離になる。だからそのタイミングで敵に遭遇するように探査機をスタートさせ、直後にエンジンの噴射を開始しなければならない」
「……難しいわ」
「ああ。相手が遠すぎれば反撃の唯一の機会が失われるし、近すぎれば致命的な一撃を被ることになるだろう。しかしやるほかはない。ゼロ・ポイントは距離三千二百万キロから三千百万キロのあいだのどこかだ……」
それから十数時間。彼らの運命を決するその『ゼロ・ポイント』はすでに間近に迫っていた。
「距離、三千二百五十万キロ」
「速度は?」
「変わりません」
「獲物を捕えたと確信しているのか、あるいは限界速度に達しているのか……」
光速度の九十五パーセントではラムジェットが吸入し噴射する陽子は静止質量の三倍の重さがある。それはローレンツ変換式にしたがって光速に近づくにつれ指数的に増加する。一方で星間水素イオンの時間あたりの吸入量は速度に比例するだけであり推進力には当然上限がある。
「相手の噴射プラズマのスペクトルからトリチウム、ヘリウム三、陽子の存在を確認した。ようするに推進システムは『ファインガール』と基本的に同じということだ。エネルギー変換効率とラムスクープ圧縮抵抗から考えて、最高の効率でも速度はすでに限界に近いはずだ……」
彼はすばやくリスト端末で計算した……相手が現在の速度を保っていてくれるという保証はまったくない。しかしそれを承知で決断すべき時だった。エリオットは深く息を吸い、娘にうなずいた。
「……ハンガー扉開口。探査機作動!」
リッキィはコンソールのキーのひとつに触れた。モニターのひとつのなかでチタンと炭化シリコンの傾斜機能素材が作る銀白色の機体――『エンキドゥ』が静かに格納スペースを滑りでていく。それに鋭いまなざしを送るエリオットの口元には高まる感情を押えこもうとする緊張があった。……小さいながらも高性能なエンジンを備え、幾度となく彼らの目や手として働いてくれた信頼出来るロボット探査機。マイアはそれに「ギルガメッシュ叙事詩」に登場する英雄の名を与えた。……イルスター(Illstar)――狂えるイシュタル女神(Ill-Istar)を相手とする娘の弔い合戦になんとふさわしい、これは幕開きであることか……。
見つめる画面に隣り合ったモニター群がふいに生き返り、探査機の搭載カメラから送られてくる画像が映しだされた。星虹の淡い光に照らされる『グレタ』の細い三日月が次第に遠ざかり、やがて暗闇に浮かぶ巨大なシリンダーのつくる直線の小さな一部となっていく。……幸運が果たして彼等に微笑むかどうかは十二時間以内にわかるだろう。
「三千二百万キロを切りました」
リッキィが感情を押えた口調でそう言い、ふたたびキーのひとつに触れた。
「噴射千八百秒前。――『機械』から作業ユニットたちに加速警報が出されます。ハンガー扉閉鎖。架台フレーム・ロック・オフ!」
『グレタ』の船体が揺れた。加速度に対してクルーザーを支える枠組みが電磁的なショック・アブソーバーをともなって自由に回転する状態へ移行したのだ。不足する資材をかき集めてどうにか応急に修理したフレーム。それが鈍い振動とともに軋むたびにふたりははらはらした。
「距離三千百六十万キロ。噴射二百秒前」
「速度は?」
「……同じです」
エリオットは暗い微笑を浮かべた。
「よし! どうやらあの『女』に痛い目を見せてやれそうだな」
「噴射百秒前。秒読み開始」
リッキィの手が指令キーに延ばされエリオットは密かに歯をくいしばった。
――マシンよ!――
「……五十,四十九,四十八,四十七……」
無意識のうちにふたりは衝撃に備えて座席のうえで身体をかたくしていた。
「……五、四、三、二、一、――噴射。推力〇コンマ一G」
音は聞こえないものの『機械』の奥深くから次第に大きくなってくる重々しい振動が床から宇宙服を通じて身体に伝わってきた。船体の全長を貫く長大な融合シャフトのなかに作られたタンデム・ミラー磁場配位のなかで巨獣的スケールの重水素+重水素熱核反応が始まったのだ。毎分半トンのアイソトープが消費される融合反応のひとつごとにトリチウムと陽子と四メガ・エレクトロン・ボルトのエネルギーが放出され、それらはそのまま船体に対して秒速一万キロの速度を持つ超高温プラズマ流を形成しつつ尾部に開いた巨大なノズルから噴射される。
『グレタ』の球形の船体が『ファインガール』に対し次第に傾き始め、やがて身体に十分の一Gの重みが加わるころ、船尾方向に操縦区画の床を向けて安定した。船尾方向のテレビモニターの中には猛烈なプラズマの炎がゆらめいていた。『ファインガール』の背後に数万キロの長さにわたって白熱する光の航跡が生みだされているのだ。エリオットは『エンキドゥ』からの送信画像を見上げたが荒れ狂うプラズマのために画面は乱れ、すでに判読不可能となっていた。探査機との通信は途切れ、もはや二度と回復することはない。いまとなってはそれがプログラムどおりに使命を達成してくれるのを祈ることしかできなかった。
「『エンキドゥ』は姿勢制御用のイオン噴射でプラズマから一定の距離を保って自由落下状態で漂いながらイルスターの接近を待つことになる」
運命を決する作業を終えたあとの一種の虚脱感ともに、その日の最初の食事である非常用ペーストを口のなかに絞り出しながらエリオットは言った。
「……プラズマのドリフト電流がスクープフィールドの安定を損なうのをきらって相手が進路を修正したら?」
「たとえそうでもこちらが加速に入った以上は大回りをして必要以上に運動量の浪費はしまい。フィールドの半径以上に離れることはないはずだ。それなら『エンキドゥ』の最大加速でわずか三分の距離だ」
「でも電子回路にとって三分は長い時間……接近を悟られるかも」
エリオットは確信をこめて首をふった。
「プラズマを背景にして近づくことになるから探査機の融合光は見えない。センチメートル以下のレーダー波は撹乱されてしまって探知は不可能だ。メートル波を使えば『エンキドゥ』を捉えることはできるだろうが、わざわざそんな長波長帯にセットしているとは思えない。……そもそも肉食獣が獲物に寄生したシラミに興味を示さないのと同じに彼女は人間であるわれわれの存在など気づいてもいないさ。反撃を予想しているわけがない」
『エンキドゥ』の奇襲が完全に相手の意表をつくものであることについてエリオットは何の疑いも抱いていなかった。しかしそれとは別の懸念を彼は娘のまえでは口にしなかった。探査機はミサイルとして作られたものではなくその核爆発は完全にコントロールできるわけではない。安全装置の強制解除のための暗号コード――それはクレイドル委員会の綿密な調査と許可を得て初めて手に出来る――を『エンキドゥ』の搭載コンピューターに入力しつつも、エリオットはその最終的な爆発にいたるプロセスが数秒の誤差を必然的に含んでいることを十分承知していた。計算どおりならその爆発は電磁フィールドのバランスを崩し融合プラズマの漏出によってジェネレーターを破壊して相手を立ち往生させることができる。だがもし少しでもタイミングが狂えば相手は無傷のまま『ファインガール』に追いつくことになる。
「まあ確かに〈兎の足〉ぐらいは欲しいところだがね」
エリオットはそう呟き、リッキィは妙な目で彼を見た。
「……おまえには無意味な言い回しだったな。地球時代の〈幸運のお守り〉だよ」
「わたしにとって地球の話はパパとママの間の秘め事だった」
突き放すような娘の言い方にエリオットは話の接ぎ穂を見失い、しばらくふたりの間に気まずい時間がながれた。やがて彼は話題をかえるべく尋ねた。
「……ところで、ちゃんと薬を飲んでいるだろうね?」
リッキィは手に持った向精神薬剤のカプセルを見せた。
「この騒ぎでうっかり忘れているのじゃないかと思ってね」
「忘れたりはしないわ」
ふたりはそれっきり沈黙し会話も味気もともにない食事を続けた。
*
「……噴射は止まっている」その華々しい閃光ははっきりと見えた。彼は望遠カメラの映像と分光装置につきっ切りでその一撃の効果を探った。
「融合光の異常なゆらぎも確認した。やつのジェネレーターに何らかの被害を与えたことには間違いないな……」
「でもまだ光は見える」
画面の中央の青白い輝きは一層強くなっているようにさえ感じられる。
「多分、爆発のタイミングが千分の一秒ほど遅れたんだ。残念ながらジェネレーターを完全に破壊するには至らなかったのだろう。しかしそれでも電磁場の安定が失われた瞬間に漏れ出たプラズマが船体――恐らくは動力シャフトの一部も破壊したに違いない。さもなければ噴射を止めるわけがないからな。……接近速度は毎秒二百キロまで下がっている」
彼はコンピューターに数秒のあいだ数値を入力した。
「……与えた被害の程度にもよるが、もしこのままむこうがエンジンを使えないようなら最接近距離三十万キロでどうにか逃げ切れそうだ」
「……きわどい距離」
エリオットはうなずく。月と地球の間ほど……。出力としてならFELが十分有効だ。
「最接近の時点で船体に回転を与えよう。……姿勢を制御することはできなくなるがレーザー照射の威力は半減する。三十万キロの距離ならたぶん持ちこたえるだろう」
もっとも……。彼は心のなかで思った。……相手の推進機関の回復が早ければもっと近い距離から狙い撃ちにされるし、それを防ぐ手段はもはやないのだ。生き残れるかどうかは『エンキドゥ』の一撃がどこまで敵にダメージを与えられたかにかかっている。
「たまらないわ。さ、最接近をじっと待っているだけなんて……」
エリオットは宇宙服の上から娘の腕に触れた。
「安心しなさい。きっと……」
ヘルメットの内側で低い警告音が鳴り出し、ふたりは一瞬顔を見合わせた。
「コンピューターの警報!」
「何か探知したらしいな」
リッキィはモニターに飛びついた。
「せ、船尾方向に新しい噴射光を確認! ……数は三つ!」
「……ミサイルだ。FELの有効距離に追いつけそうもないので苦し紛れに撃ってきたんだ。予想していたことだよ」
エリオットは娘を落ち着つかせるようつとめて穏やかな声で言った。
「どうするの?!」
「船首を少しだけ各ミサイルの飛来するのと反対の角度へ回頭しなさい。……ラム・ジェット船を後方から撃ち落とすことなどできはしない。これはあいつの悪あがきだ」
彼らはモニターを見つめ続けた。やがて光のひとつが瞬くと消え去り、残りの二つもしばらくすると画面の外へと逸れていった。
『ファインガール』の噴射するプラズマの尾は場所によっては数万度。どんな物質もそこに数秒以上とどまることはできない。そしてわずか十分の一度の船体の傾きでもそれは進路の周囲に幅数千キロのバリヤーを作り上げる。追尾するミサイルたちはプラズマに突っ込んで自滅しないためには大きく進路を反らさなければならないが、そうすれば今度は加速が不十分となり標的には永久に追いつけない。
「これで相手もミサイルは使えないことがわかったはずだ」
エリオットはそれでも内心ほっとしながら微笑んだ。
「……だけどプラズマ遮蔽効果で今は後方レーダーは使えない。相手が爆弾を慣性投射してきたらまったく探知できないわ」
リッキィの不安にエリオットは首をふった。
「……その心配はいらない。十分の一Gの出力とはいえそれでも毎秒毎秒一メートルの加速度だ。三十万キロの距離で核弾頭を『ファインガール』に届く初速で打ち出せるような長大なマス・ドライバーはさすがの『機械』にも搭載できないよ」
「でもイルスターは思いもよらない武器を持ってるかも知れない。……わたしたちの考えていることも見抜かれてるかも……」
エリオットは相手の表情を窺った。……ここ数日リッキィの不安傾向が次第に目立つようになってきた気がする。度重なるストレスで彼女の精神の安定性が崩れかかっているという可能性もあった。
彼は意識して微笑しながら言った。
「おまえは相手をかいかぶり過ぎているよ。あれは狂ったプログラムでやみくもに動くだけの知性など何一つないただの『機械』さ」
リッキィは首を傾げたもののそれ以上何も言わなかった。
*
光行差によってほとんどの星が船首方向へと集中した船尾の暗闇に明るい輝きがある。すでに肉眼でもはっきり円盤として見える距離にイルスターは迫っていた。ただしクルーザーのすべての窓にはレーザーを照射されたときのために鏡面シャッターが降りていて実際にはそれを眺めることはできない。
「……三十一万キロ」
大儀そうにリッキィが言う。前方への加速度に船体の回転による遠心力を加えた一・五Gがふたりの身体にかかっている。重い生命維持装置を背負っていては身動きすることさえ困難だった。
「記録装置、すべてオン」
「この距離からイルスターを見る人間は、おそらくわれわれが最初だ」
エリオットは身体をずらすようにして画面に顔をよせた。
「……基本的にはイシュタル機械だな。……だが幾つか見慣れない突起がある。あの側面の円筒はたぶん自由電子レーザーのヘリカルコイルだ。そして隣にあるのはマス・ドライバーの射出口だろう。ミサイルの発射にはあれを使ったはずだ」
リッキィは奇妙なほど無表情だった。
「……不気味な姿」
エリオットはモニターの数値を見た。
「……センサーが過去数分の間に幾度か急激な温度の上昇を記録している。……一部で千度Kを超えた瞬間もある……」
「攻撃?」
「ああ、FELの照射だ。だがビームが見えないのであまり脅威を感じない……」
彼がそう言ったとたん船体がわずかに揺れた。
「何……?」
リッキィは脅えたように言い、エリオットは苦労してテレビカメラの画面を振り仰いだ。
「船尾のヘリウム回収装置の一部が吹き飛んでいくのが見える。……油断できないな。大した威力だ」
それから彼は顔をしかめた。
「恐らくあのストレンジレットのパネルも吹き飛ばされたな……」
「光が! ミ、ミサイルを撃ったわ!」
突然、彼女が叫んだ。
「……落ち着きなさい。この距離ではFELではどうにもならないことがわかったんだ」
「今度はプラズマじゃ対処できない。モ、モーメントが邪魔をして姿勢を変えられないもの!」
「冷静に! 大丈夫だ。エンジンを数秒の間止めて隕石迎撃システムにミサイルの軌道を計算させる時間を与えなさい」
「でも停止には十分以上かかる!」
「充分間に合う。……三十万キロの距離があるんだ」
それでもリッキィは震える指でキー操作をした。彼はそれを懸念を含んだ目で見ていた。
「あわてることはない。たとえ十G加速でも着弾まで四十分以上ある」
システムが働くのは一瞬だった。船首のレーザー射出口からの目に見えないビームはサーボ機構で制御される二枚の鏡に反射されて後方へと送られ飛来するミサイルの弾頭をつぎつぎに破壊した。
「……FELもミサイルも駄目。これであいつは手詰まりだな」
彼は再開された噴射による船尾の安定した炎を眺めながら続けた。
「しかもこれからは次第に距離は離れていく……」
しかしリッキィの顔色は良くなかった。
「……でも、いつまでも鬼ごっこを続けられない。間違いなくこちらの被害は深刻で、相手は軽傷……。や、やがて向こうの修復が終われば一G加速ですぐに追いつかれてしまう」
エリオットは彼女の不安をなだめるように大きくうなずいた。
「最初からそれはわかっていたさ。……『エンキドゥ』の攻撃はひとつのギャンブルだった。そしてわたしたちはいまのところそれに勝ったようだ。仮にこちらの攻撃が大した痛手を与えるものでなかったにせよ時間を稼ぐための意味はあったのだからね」
エリオットはコンソールのキーに触れ、自分で作成した戦略図面を呼び出した。
「時間を稼ぐ?」
「ここへ到達するためにだ」
彼はモニターのうえの図表の一部を彼女に指し示した。そこには『ファインガール』の軌道と思われる長くゆるやかな曲線の端に、小さな円周とその上のふたつの点が描かれていた。
「GSN―18202。連星系だ。……すでにずっと前から磁場航法で徐々に進路をそちらへと向けている。相手にわずかでも先行してあそこに到達できれば重力カタパルトの要領で逃げることができる」
「『重力カタパルト』?」
「――近接した連星の回転を利用して重力作用だけで宇宙船を加速するダイソンの方法だよ。そのときの加速度は連星の周転速度の二倍になる」
「……よくわからないわ。だって、そ、それではせいぜい光速度の百分の一程度の効果でしかない。……違う?」
「そのとおりだ。しかしお前は速度がベクトルであることを忘れている。連星の重力カタパルトはわれわれに軌道と直角方向の加速度を与えてくれる。そして力の働く方向は相互のわずかな位置の違いによって大きく変わってしまう。つまり古典的な三体問題だ。あれだけ高速で回転する連星系に突入するときにはその後の軌道要素を予想することはほとんど不可能なのだ。わずかな時間と角度の違いが大変な差になるからね。彼女がわれわれの後を追おうとしても連星通過後の『ファインガール』の軌道はあらかじめ十分正確には計算することはできず、また通過の後では加速が大きすぎてもはや修正することもできない……どうだ。少しは安心しただろう?」
エリオットは微笑し、モニターを確認して言った。
「もう相手もFELの使用を諦めたようだ。……回転を止めてもう少し過ごしやすくしたらどうだ?」
リッキィはわれにかえったように、しかし妙にぎくしゃくとした動作でキーを操作した。
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