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時代遅れのラブソング

船外活動/トーピード/時代遅れのラブソング

高本淳

 5 船外活動

 一歩外へ出たウィリアムは自分が金属光沢をはなつ巨大なパラボラの上にいるのを知って一瞬、『サガ』にあの光を送った反射鏡の真上に偶然着陸してしまったのに違いないと考えた。しかしすぐに彼はそれがランディングのための強力な噴射が塩の大地に穿った皿型の凹地であることを理解した。……耳をろうする轟音と息をするのも困難な圧力のために、彼は着陸に際して船の周囲で起こっている出来事にはまるで気づいていなかったのだ。いま彼がその上に立っている眩しく光る銀白色の物質は、純粋なナトリウムの微細な金属粒子と水素化ナトリウムの針状結晶の混合物であり、高速の陽子にたたかれた塩化ナトリウムが瞬間的に分解し、生成されたものだった。恐らく『サガ』はランディング地点から猛烈な勢いで四方に吹き出されるヘリウムと塩化水素の混合した緑黄色の旋風とともに降りたったことだろう。帰艦するときにはエアロックを念入りに空気洗浄しなければならないはずだ。
 彼がそうして明るく照明されたエアロックの外に突っ立っている間にカシルはまだ熱を持っているナトリウム溜まりを巧みに避けながらクレーターの脆い斜面を登っていた。彼がその後を追って歩き出したころには彼女はすでに補助照明灯をクレーターの縁に設置して前方の闇のなかへその光をはなっていた。
「何が見える?」ウィリアムはようやく彼女に追いつき、自分の照明灯の光を彼女のそれにつけ加えた。カシルは両手を腰にしばらく仁王立ちしていたが、やがて無言のまま闇の彼方を指さした。
「向こう側の崖ね。……かすかに見える」 彼には見えなかった。
「目が慣れるまで少し時間がかかるわ。右の明りをもう少し下に向けてくれる?」
 彼はそのとおりにし、二人の前にひろがる夜の平原を照らし出す低い光源を調節した。
「ここから約十キロ……。昼間だったらきっと手で触れられるぐらいの距離に見えるはずよ」
 彼らは着陸地点としてかつての海溝の底、幅がおよそ六十キロほどの平坦な部分を選んでいた。というよりもあの『光』がふたりにそれを選ばせたのだ。しかし少なくともここからは、彼女が見たというそれを説明するようなものは何も見えなかった。
「……何もないわ」彼女は残念そうに言った。
「あれだけのエネルギーなんだから、何かの痕跡を残していてもよさそうなものなのに……」
 ウィリアムはすでに何事も決めつけまいと決心していた。
「もう少し詳しく調べなくちゃ何も言えないさ。……例えばあの陰が始まるあたり」彼は左手の方向を指さした。
「あの地表の感じは妙な具合だな……」
「……待って」ウィリアムが背負った大きな荷物とともに歩き出そうとするのをカシルは止めた。
「まだこの星に名前をつけていなかったわ。いま特権を行使させてくれる?」
「もちろんいいとも」
 彼はそこに立ち止まり、カシルがゆっくり身体を一回転させて周囲の単調な景色をその目にやきつけるのを辛抱強く待った。彼女はしばし沈黙し、やがて背筋を伸ばすと厳かに言った。
「……わたしカシル・セイジはここに汝を『キュアレス――回復の見込みなし』と命名する」
「ふーん。……違いない」
 照明灯がなげかける光芒を背にして彼らはクレーターの縁を下りた。そしてそこでお互いに背負っていたものを下ろすのに手を貸しあった。折り畳まれたそれは簡単な操作で展開し、ワイヤーで編まれたタイヤをもつ小さな自転車になった。……サドルにまたがると二人は冷たい夜の闇に沈む平原に向かってペダルをこぎ出した。

 二十分ほどのサイクリングの後、彼らはその地形の縁に到着していた。
「いったい何? これは……」
 ウィリアムには答えられなかった。岩塩の大地の上に地表の盛り上がりが延々と続いている。幅は約百メートル、外側の縁の高さは人間の腰ぐらいあるがどうやら中央に行くにつれて低くなっているらしい。まるで何かが塩の岩盤を内側からむりやり持ち上げたかのように、いちばん外側は地表から剥がされたままの大きな岩塩の板でできていた。
「平原のなかをずっと続いているようね」
 彼は身を起こし左右を見渡した。確かに照明灯の光のとどく限りその『土塁』は一直線にどこまでも続いていた。
「上空を通ったときには太陽が真上にあってはっきりしなかったけど……。まるでモグラが掘った跡みたいだな……」
「だとしたら地球にいた仲間の千倍はあるやつよ」
「……堆積した塩が岩盤を形成する過程でできたものかも知れない」
「でもこれだけまっすぐなのも変じゃない?」
 ウィリアムはさじを投げた。「わからないな……。どうやら、こいつをずっとたどって行くと海淵に行き当たりそうだね」
「海溝のなかのさらに深い谷ということね。そこで何か手掛かりが見つかるかも知れない。行きましょう」

 二人の影が長く延び、遥か彼方の岩のうえに小さく揺れていた。着陸地点がこの海淵の縁からわずか一キロたらずの位置であるというのは、パイロットとしてのカシルのなみなみならぬ腕前を示していた。おかげで崖縁まで数分の行程ですむことをウィリアムは妻に感謝した。……何といっても完全装備の宇宙服というものは無重力状態かせいぜい小惑星程度の重力環境のなかで使用することを想定して作られている。一Gの重力のなか重い生命維持装置を背に、与圧のために自由のきかない身体でペダルをこぐというのはちょっとした曲芸にも似た試練だった。
 そうして新世界最初の上陸者たちは『土塁』に沿ってのんびりと進んだ。海淵の縁が間近になると彼らはさらに走る速度を落とした。……堆積した塩はちょうど氷河の上に降り積もった新雪のように海淵の上を覆っているから、うっかり車輪が踏みぬいたら地の底まで墜落することになる。事実そうした崩落の跡がすぐ目の前にもあった。照明に照らし出された白く輝く平原に突然差し渡し七、八百メートルある弓型の真っ暗な穴がぽっかりと開いていた。崖縁の位置を教えてくれるという意味で崩落があることは幸運だった。少なくともそこまでは安心して進めるということだ。

「用意はいいかい?」
 息をはずませ、腰の物入れから不格好な信号銃を取り出しながらウィリアムは尋ねた。背後からの照明は遠い山脈を仄暗く照らし出すほどの性能があったが、ほぼ真空に等しい大気のなかでは拡散することもなく、海淵はまだ完全な暗闇のままだった。カシルは傍目に見ても緊張していた。彼女が電子スコープを構えるのを横目で確認して彼は照明弾を発射した。反動を感じてから数秒後、眩しい光が炸裂して足許から始まる海淵の全景をすみずみまで照らしだした。照明弾は数十秒のあいだ輝き続け、彼らには目前の光景を観察するために十分な時間があった。
 カシルはその谷に自分の見た発光現象の説明となる何かを求めていた。……たとえ夫がああ言ったとしても、人工的な機械装置か、あるいはそれらの痕跡を見ることを半ば彼女は期待していた。……現実に『光』は存在したのだし、その独特で強烈な印象からも、どうしてもただの自然現象とは思えなかったのだ。
 一方、ウィリアムも自分の妻が彼女が夢うつつのうちに見たものを現実と混同していると思いたくなかったから――そんな錯誤はまったくふだんの彼女らしくもなかった――その体験をうまく説明する何かを求めていた。……彼はこの谷間にできて間もない新しい隕石口を発見することを密かに予想していたのだ。それは彼女の見た鋭い光をうまく説明した。……秒速十キロ程度で地表に衝突した小隕石の運動エネルギーは熱へ転換する過程でスペクトルのすべての波長で強烈な光を発するはずだ。
 しかしふたりの予想を裏切って谷底にはそうしたものは何一つなく、そのかわりに思いがけない眺めが用意されていた。
 二人は同時に感嘆の声をあげた。幅が四キロほどある海淵はまるで大理石づくりの壮大な古代都市の廃墟だった。無数の塩の柱――それらは恐らく海水がゆっくりと蒸発する過程で形成されたのだろう――が谷の両側を埋めつくしていた。比較的緩やかな崖は階段状に重なる無数のテラスから出来ていて、柱とテラスによる複雑な造形が幾度も繰り返されながら遥か下方へと続いている。……それらは強烈な光に照らし出されて純白に、あるいは淡い黄色、あるいは鮮かな青緑色に、そして一部では信じられないほど深い藍色に輝いていた。
「うわお。……なんて奇麗……」
「信じられないな、あの色は……。海水中のミネラルが析出したんだろうけど、それにしても……」
 荒涼としたれん獄の底に秘められていた思いがけない自然の造形に心打たれ、彼らは粛然として目前の光景を見つめていた。この世の誰一人、いままでこれを見たものはいないのだ……。
 やがて光は消え、鮮かではかない夢の世界はふたたび闇に沈んだ。
「……あの光。原因になりそうなものは見えなかったわね」
 長い沈黙の後、カシルはつぶやくように言った。
「ああ」ウィリアムは本人以上に当惑していた。彼女の見間違いでないというなら、あの発光現象の原因としてほかにどんな説明が考えられるだろう?
「もう一度やってみよう。今度はあちらの側から見てみたいな」
 彼らは崩落の跡を大きく迂回しながら左手の方向に回り込もうとした。カシルは彼女の自転車を『土塁』の縁においてからそこを登り、内部の柔らかい隆起に足をとられて転びそうになった。
「気をつけて。思ったより頼りないから」
 ウィリアムは慎重に跨ぎこしながらこの地形の構造をじっくり観察した。
「……周辺から真中にいくにしたがって徐々に破片が細かくなっているみたいだ」
 彼らはもろい岩塩を砕きながらよろめき歩き、中心に近いところで立ち往生した。そこは流砂のように細かい塩の粒子が溜まっていてそれ以上は進めそうもなかった。

「まるでテーブルソルトだな」
 彼は空の密閉ケースを取り出してサンプルを採集しながら突然気づいたように言った。
「この地形を可視光以外で見てみた?」カシルは首を振り、電子スコープを調整してから一覗きして驚きの声を上げた。
「……赤外線をはなってるわ!」
 ウィリアムは眉をしかめた。……温度が高いって?
「放射線は?」カシルは手首のゲージを見て首を振った。
「バックグラウンドレベルを差し引いて……ゼロ。放射能はないわ。どういうことかしら?」
 ほっとしたものの、彼はすぐに新たな疑問につきあたった。
「とにかく温度を計ってみよう」
 カシルが温度計を取り出して幾つものセンサーを塩粒に差し込むのを見ながらウィリアムは考え込んでいた。どこから熱が来るのだろう? ……地熱か? ここは海溝なんだからそれもおかしくはないが、しかし、この惑星の地表のすぐ下に熱いマグマ溜まりがあるとはとても思えない。
 彼はいま垣間見たばかりの海淵の内部を思い起こしていた。……あんな見事な造形が残されているからには活発なプレートの活動なんてあるわけがない。にもかかわらず、確かに熱はどこかで産み出されているのだ。
 考えあぐねて身を起こし、彼は左右に『土塁』の続く先を眺めた。……次第に暗闇へと溶け込んで行く平原の彼方から完璧な直線がやってきて左手十数メートル先で崩落によって断ち切られている。……この淵の向こう側にもやはりこいつは続いているのだろうか?
 海淵のむこう側を眺めてもはっきりしたことはわからなかったが、そうであってもおかしくはない。……いずれにしても数十キロ先でこの塩の平原は海溝の大陸側の崖につきあたるはずだ。『土塁』はそこまで続いているのかも知れない。
 彼は遠くに目をやり、かすかにその断崖が見えたような気がした。錯覚だろうか? それとも暗闇に目が慣れてきたのか? ……いや、確かに見える。地平線のあたりの明るい空を背景にしてうっすらと黒い山嶺が続いているのが……。
 明るい空だって? 大気がないのに……。しばし彼は不審に思い、やがて納得した。日没からはそれほど時間がたっていない。つまりあれは黄道光――つまり黄道面の星間物質が主星の光を反射して輝いて見える光なのだ。今、そのぼんやりした光の帯は彼らがいま調べている『土塁』の続いている方向にぴったりと一致していた。
 ……恐らくただの偶然だろう。それとも……?
 彼はまだ手に持ったままのサンプルケースに目をもどした。そのなかの岩塩の粒子はまるで石臼で挽いたように細かかった。彼のなかでいろいろな断片が合わさり、ひとつの絵ができかかっていた……。
「……かなり高いわ。夜は地表はマイナス百五十度を下回るだろうに……」
 はっとして彼はカシルを見た。
「カシル……」
 夫の口調の妙な響きが彼女を振り向かせた。
「いますぐここを離れたほうがいい」
 宇宙服姿が両手を広げた。なぜ……?彼は緊張した声で言った。
「いいから、早く。……温度計なんてほうっておけ!」
 彼女はわけのわからないという様子で、それでも彼の真剣な様子にただならぬ何かを感じとって、その言葉にしたがった。
「どうして……、こんなに……、いそぐの?」
 不規則に積み重なった岩塩の板のあいだを苦労して飛び移りながらカシルは尋ねた。『土塁』の縁を滑り降りたウィリアムは返事もせずに彼女をひっぱり下ろし、それから二人はサドルにまたがってまるで縫いぐるみのテディベアがサーカスの自転車乗りの演技でもしているかのように、ゆらゆら並んで走り出した。
「……どこまで、……いくのよ」
 ものも言わずに走り続ける夫の後ろ姿に息をきらしながらカシルが声をかけた。ウィリアムが遅れた妻を振り返り、返事をしようとしたその瞬間、突然、周囲の山々が輝き出した。……幅六十キロのこの海溝に臨むすべての斜面をまるで真昼のように照らし出して、目をくらませる白熱した光がそこに爆発したのだ。
 いままで暗闇に慣れていた彼らにとって、その突発的な明るさは現実の肉体的苦痛ですらあった。ウィリアムはフェイスプレートを腕でかばいながら叫び声をあげた。……何も見えない。光は強く、なおも強くなっていった。眼をしっかりと閉じているのに瞼を通して血管の赤い編み目が見える……。彼は手探りしてバイザーを下ろしたがほとんど効果はなかった。いまや彼らの世界のすべては強烈な青白い光に満たされていた。
 彼の足許の大地がまるで生き物になったかのように身動きし、そしてふいに起き上がった。気がつくとウィリアムは何もない空間を『落下』していた。カシルが恐怖の悲鳴をあげるのが遠く聞こえ、青白い光が残像を残し、……そして突然すべてが消えた。

 ウィリアムは岩塩の平原に倒れていた。すぐに起き上がろうとしたが完全装備の宇宙服と一Gの重力がじゃまをしてなかなか成功しなかった。幾度かすべったすえに彼は片膝をついて身をおこし、周囲を恐る恐る見回した。最初は何も見えず、彼は視力を失ったのかと慄然としたが、やがてバイザーが下りたままになっているのを思いだした。それを上げて数回目をしばたたいているうちに――マシンよ! 感謝します――ようやく周囲が見えてきた。
 数メートル離れたところに宇宙服が横たわっていた。ぴくりとも動かない。まるで外界の冷気が直接流れ込んだかのように、彼はみぞおちが冷たくなるのを感じた。駆け寄ろうとしたが『土塁』の柔らかい地面がじゃまをしていた。……何ものかが彼らを数百メートルにわたって『引き戻した』のだ。彼はよろめき、何度かぶざまにころがった。
 カシルのそばによるまで彼の頭は空白状態だった。しかし宇宙服の腕がわずかに動いているのを見た瞬間に全身がとめどなく震えだすのがわかった。おののく手袋で彼女のフェイスプレートの埃をはらう。それがひび割れたりしていないことを確認して初めて、彼は大きく息をついた。
「カシル……、カシル。大丈夫か?」
 彼女の口から小さなうめきがもれ、彼女は身を起こそうとしてもがいた。ウィリアムは手をかして引き起こし背後から身を寄せてささえた。その場で彼女の生命維持装置を肩ごしに素早くチェックする。……異常なし。ほっとして力が抜けそうになり、もうひとつ大切なことを忘れていたことに気づいて彼はもういちど、今度は放射線カウンターのゲージを確認した。 「ゼロだ……」彼はカシルのかたわらに思わず座り込んだ。……どうやら生き延びたらしい。それから支えを失ってまたころがってしまった彼女に気づく。船まで抱き上げていきたいところだったがさすがにそれは無理だった。彼は妻の身体を下から抱き抱えるようにして一緒に立ち上がった。
「ガンマ線はあびていない。……運がよかった」彼はつぶやくように繰り返したがカシルはまだ答えられる状態ではなかった。

 6 トーピード

「身体半分、青あざだらけなのに『運がいい』ですって」
 ウィリアムもそれとたいして変わらぬ状態だった。
「そうとも。脳波にも異常はないようだ。……三百メートル以上も滑落してこんなものですんだなんて、奇跡としか思えないよ」
「痛……。『滑落して』ですって?」診療ドックのなかで湿布を貼ってもらいながら彼女はようやく正常な反応を取りもどしていた。
「平らな土地でどうして滑落できるのよ?」
「その証拠にきみの自転車のホークはぐにゃり曲がってたよ。……きっと『土塁』がクッションになって衝撃を受け取めてくれだんだろう。あんな至近距離であいつに遭遇しながら軽い脳震盪だけとはね……」
「『あいつ』って?」
 カシルはどうやら自分よりウィリアムのほうが正しく事態を把握しているらしいと気づいた様子だった。
「もう大丈夫……」彼女は夫の手を押し止めて湿布のパックを奪いとった。
「今度はあなたの番よ」
「ぼくは平気だよ。……あ痛っ」
「……強がりはおよしなさい。それより、あの『光子魚雷』について早く説明してほしいんだけど」
「『光子魚雷』……?」
「あなたホロシアターを見たことがないの? ……わたしはてっきりクリンゴンの宇宙戦艦に攻撃されたんだと思ったわ」
「ああ、なるほどね……。じゃあ見たんだ。あの光を……」
 カシルは重々しくうなづいた。
「最初、あなたの背後が明るく照らしだされたわ。振り向くとあの山脈の中腹に眩しい発光体があった。それがすごいスピードでこちらへ近づいてくるのが見えたわ」
 ウィリアムは感心した。「ふーん。いい目をしてるね。ぼくはただ眩しいだけだった」
「目がよくなきゃパイロットにはなれないわ。あの正体はなんだったの?」
「……月さ。この惑星の」
 カシルの表情はそれを彼の冗談のひとつと思っていることを示していた。
「本当だよ。……周回軌道上を動いているという意味で、本当にあれはこの惑星の衛星なんだ」
「『周回軌道』ですって? 地上十メートルの高さの?」
「『地下』だよ。ここが海溝の底なのを忘れちゃいけない」
「……一体どういう意味?」
「つまり、あれは人類が遭遇した最初のマイクロ・ブラックホールだったってことさ」

 ふたりは遅い朝食を食べ、熱いコーヒーの注がれたマグカップを手にくつろいでいた。……一Gの重力と手堅い朝食があれば人間はどんな環境でも幸福になれることを彼らは証明していた。
「……あれが星系外からやってきたとは考えにくい。そんな放浪者が『キュアレス』の衛星になるなんてそれこそ奇跡的な確率でしかないからね。たぶんこの星系が誕生したときからこの空域に存在していたんだろう。原始の星雲ガスといっしょに回転しながら」
「それなら初めから主星の核に含まれていそうなものなのに。ブラックホールはどんな水素原子よりも重いんだから」
「すでに実例ひとつを発見した以上、この宇宙にはマイクロ・ブラックホールがたくさん存在していると考えるべきだろうね。ひょっとしたら、あらゆる恒星の内部には複数のマイクロ・ブラックホールがあるのがあたりまえなのかも知れない。たまたまそのなかのひとつが惑星軌道に残っていたんだとしたら……」
「……大胆なご意見ね。それでもそれが単独で存在する必然性はないでしょう。どれかの惑星の内部におとなしくおさまっていたっていいじゃない」
「おさまっていたんだろ、きっと。……小惑星のひとつの中に何億年もね。でもある日そいつがべつの小惑星に衝突した。小惑星はばらばらに分解して、その衝撃でブラックホールが裸で漂い出したんだ」
「見ていたみたいなことを言うのね」
 ウィリアムは赤面した。「あくまで仮説だよ。でもそう考えれば納得できる」
「そいつがたまたま『キュアレス』に捕われたってわけ?」
「『月』がそうであったようにね」
「それは引用符つきの『月』ね。古き良き地球の…… あなたはジャンアント・インパクト仮説は支持していないのね」
「いかにも。しかし『月』とは違って、この衛星の公転周期は惑星の自転よりもかなり早かった。そして、それが悲劇の始まりだったんだ」
「『悲劇の始まり』ですって?」
 ウィリアムは言葉をとめ、一瞬遠い場所を見るような目つきをした。
「……想像してごらんよ。『キュアレス』は暖かな大気と豊富な水に恵まれた地球そっくりな惑星だった。『イシュタルの機械』が播種したシアノバクテリアは酸素を放出し、珊瑚虫は大気中の二酸化炭素を固定した。何億年もの間、そこは地球生態系を移植されるのを待つだけの楽園を約束された土地だったんだ」
「しかし、いつまでまっても『イシュタル』は戻ってこなかった……」
「そう。レトロコンピュータウイルスが『機械』たちのメモリーを書き換えてしまったからね。ほとんどの『イシュタル』たちは機能を停止し、わずかなものたちが『イルスター』―『狂った機械』になった。『キュアレス』は忘れ去られ、数十億年の時が流れた。そして、ある日ブラックホールが……」
「だから、なぜそれが『悲劇』なの?」
「……潮汐作用だよ。マイクロ・ブラックホールの質量は小さいけれど軌道が十分小さければ大きな潮汐効果を及ぼす」
 カシルははっとした表情をした。
「潮汐力は距離の三乗に逆比例するんだったわ……」
「ブラックホールは『キュアレス』の大気と海水を軌道運動方向に引きずろうとし、惑星の自転はそれにブレーキをかける。『月』のように自転速度がまさる場合、潮汐作用は衛星を加速して軌道半径を増す方向に働くだろう。しかし逆の場合は……」
「衛星は次第にエネルギーを失い、軌道半径は減少する……」
「通常の小惑星ならまずロシュの限界で粉砕され、それから破片のほとんどは大気との摩擦で燃えつきてしまう。いくつかは地上に落下してくるかも知れないけど、惑星全体の環境にとっては何てこともない。……でもマイクロ・ブラックホールの場合はそうはいかない。何しろこいつは原子レベルの大きさしかないんだ……。上層大気の密度なんてほとんど真空と同じさ 。たぶんブラックホールの進路上に空気分子が存在するのは、われわれがアステロイドベルトのなかを飛んでいてたまたま小惑星のひとつに衝突するぐらいの確率だよ」
「ごくたまに軌道近くの酸素やオゾンの分子を取り込むだけでしょうね」
「小惑星程度の質量が気体分子に及ぼす引力の大きさを考えれば当然そうなる。しかし一方で軌道の周囲数センチの分子にかぎっては、ほとんど瞬間的にブラックホールに落ち込むはずだ。……何しろシュヴァルツシルト半径――『事象の地平面』にま近い重力勾配なんだから。気体分子を取り込むことによる質量の増加は軌道要素そのものは変えない。でも潮汐作用は増大する。潮汐力のブレーキによってブラックホールはじょじょに軌道を下げ、餌食となる気体分子の豊富な大気の底深くに入っていく。そこではすでに一立方センチあたり数十万個から数億個の密度で気体分子が存在する。……比較的短い時間――おそらく数百年のオーダー――のうちに『キュアレス』の大気はほとんどブラックホールにすいこまれてしまっただろう」
「……かわいそうな『キュアレス』!」
「気圧の減少とともに海水は沸騰し蒸発する。……後に岩塩の砂漠を残してね。水蒸気は紫外線で分解され、水素は金星でそうだったみたいに宇宙空間に逃げていく。そして遊離した酸素は岩石を酸化するか、あるいはブラックホールに飲みこまれるかのいずれかの運命をたどる。後に残るのは……」ウィリアムは窓の外の荒涼とした景色のほうへ手を振った。
「おう……まい……ましん」カシルはつぶやいた。

 高速で移動する眩しく輝く点を、二人は安全な距離まで移動した『サガ』の展望窓から眺めた。
「……七秒半ちょっと。海溝の幅が六十キロほどだから、秒速八キロ弱だな……。ここから見ているとまさに光子魚雷だね。……きみは惑星本体だけでなく、はからずもその衛星にも命名したってわけだ」
「……でも『衛星』の存在を最初に予想したのはあなただわ。命名の権利をゆずってもいいわよ」
「いや、いいよ。海底を驀進する衛星にとって『トーピード』って名はぴったりだもの。きみはどうやら名づけ親の才能があるらしい」
「ありがとう。代わりに衛星の領有権をあげるわ」
「そりゃありがたい。マイホームに庭が欲しかったんだ」
 二人が一緒に声をあげて笑ったのは久しぶりだった。
「……質量はどれぐらいあるの?」
「きみをあんなに投げ飛ばせたんだから、ぼくよりずっと重いよ」
「真面目に答えなさいよね」
「そうだな……。五掛ける十の二十一乗グラムぐらいかな」
「なにそれ?」
「……キュアレスのかつてあっただろう大気全部の重ささ。ぼくらがここに無事こうしているんだからそれよりずっと重いとは思えないし、また極端に軽いはずもない」
「あれより重ければずっとひどいことになるのはわかるけど、軽くても危険があるというわけ……?」
「もちろんそうだよ。普通マイクロ・ブラックホールは何億度って超高温でいろんな素粒子を輻射しているんだから」
「それって『ホーキング効果』のことを言っているの?」
「そう……。だからこそ最初はふたりともひどく放射線を浴びたんじゃないかと心配したんだ。でも、あいつが出していたのは比較的波長の長い電磁波とニュートリノだけだったようだ。もしも十億トンぐらいの小さなやつだったら、いまごろぼくらはガンマ線で骨までこんがり焼かれていたろうよ」
「運がよかったわ」
「運だけじゃないぜ。ぼくが気づくのがもう少し遅かったら……。軌道の真下の岩がこなごなになっていたのは見ただろう? もしもあの場所にいるときにブラックホールがやってきていたら数十万Gの潮汐力でミンチになっていたところだ」
「それじゃミートローフにならないですんだお礼をするべきね」
 ふたりは互いの無事を祝福して――型通り――異星の景色を見下ろす宇宙船の窓の前で抱きあいキスをかわした。
「……む。ところで、さっき領有権といったけど……」
「冗談よ」
「いや。ぼくは本気であのブラックホールの所有を申請するつもりだよ」
「なんですって?」カシルはウィリアムの抱擁をほどいた。
「どうして?」
「……他ならぬきみのためでもあるんだぜ。このやくざな『シーカー』稼業ももう終わりだ。ほっとしただろ? ぼくらはクレイドルに戻り、新しい事業を始めるんだ」
「ウィル……」
「今度は準備をしてあいつを採りに来るつもりさ。クレイドルに戻ったらすぐに……。考えてご覧、唯一人間が見つけたマイクロ・ブラックホールだよ。どれだけの利用価値があると思う?安価な核融合。重力波発生装置。あるいはタイムマシン通信装置。みんなが飛びつくような無限の可能性があるんだ」
「ウィル、きいて」
「まずあれを帯電させなくちゃならない。……初めは水素イオンを食べさせればいい。この船の噴射だっていいんだ。電荷の反発力が重力のそれよりも大きくなってきたら陽子加速装置の出番だ。そして十分帯電させたところでマス・ドライバーで軌道を持ち上げる」
「ねえ、ウィルってば!」
「それから『機械』の電磁スクープで支えながら加速すれば……。うっ、何だい……?」
衿もとをつかまれ、ウィリアムは彼女の目を見た。
「あなた、わたしがこの旅にいやいや参加したと思ってるんじゃない」
 一瞬、彼は女性ならではの論理のワープにかえす言葉を失った。
「……そうじゃないの?」
「それはあなたの誤解よ」
「でも……」
「確かにこの冒険を最初に言いだしたのはあなただわ。研究室をやめて新しく始めた仕事もうまく行っていなかったときあのパンフレットが送られてきたのよね」
「ああ」
「……でも協会は営利事業団体ってわけじゃないのよ。『シーカー』は政府による失業対策の意味合いが強いの」
「知ってるさ」
「それがわざわざあなたのところに名指しで電子メールを送ってくると思う?」
 ウィリアムは愕然とした。「てことは……?」
「わたしが取り寄せたのよ。内緒で」
「何だって?」
「あなたには事業は無理だと思ったの。……自分自身で動くのが好きで、決して人の上に立つタイプじゃないのよ、あなたは。ごめんなさいね、こんなこと言って」
「……知らなかった」
「秘密にしていて悪かったわ」
「だけど……なんで……?」
「……大学をやめたあなたを見るに忍びなかったから。すっかり元気がなくなってしまって……」
 ウィリアムは椅子の背もたれを手探りし呆然と腰を下ろした。
「ショックだったみたいね」
 ずいぶんたってから彼は尋ねた。
「……いまになって言うのはなぜだい」
「あなたのためにもう一度宇宙に出たんだ、と思っていたわ。自分がクレイドルの生活を犠牲にすることと引き替えに、あなたの生き生きとした姿を見ることができたんだと思っていたの。でもそれはわたしの自惚れだったわ」
 カシルはキュアレスの暗い空を見上げた。
「自分自身のことがわかったの。どうやらわたしは『飛んでる』ほうが好きなんだって……。確かに友達のみんなとの――いくら抗老化剤の力を借りても、みんなとっくの昔にお婆さんになって死んでしまったでしょうね――気のおけない世間話も懐かしいけど……」
 彼女はウィリアムを振り向いた。
「あの夜あの『光』を見た時、とても強くて、しかもなぜか懐かしい気持ちを感じたわ。まるで何かが心の奥深くへ呼びかけているような……。そして、あの谷間を一瞬の明かりのなかに見た時にも、魂をゆさぶられるほど感動したことを覚えている。たぶん理解してもらえないかも知れないけれど、何て言うのか、……自分のために宇宙がこの驚異を用意していてくれていたんだ、ってなぜか突然確信できたのよ。そんな大切なチャンスを見過ごして、何一つ知ることもなくクレイドルで満足しているなんて……」
 カシルは大きく首を振り、ウィリアムは初めて知る妻の素顔にただ深いスリルを感じていた。
「そんなのは犯罪的怠慢だわ!」
「驚いた。きみがそんな……」
「……らしくない? でしょうね。わたし自身、快適な都市の生活やサイラシンの自然を捨ててまで『シーカー』なんて職業を選ぶ人達の気が知れないって思っていたんだから」
「よくクレイドルを懐かしがってたじゃないか」
「そうだったわね。……でも、いまは違う。それらを犠牲にしてもなおひきあう何かがあるってわかったの。あるふっとした瞬間、……小さくて無力な自分が、広大な宇宙のなかに暖かく組み込まれているって感じることがあるのよ。
 バッサード・ラムジェットを限界まで駆動して『機械』を最高速度で走らせたときにも、それを感じていたわ。わたしはいま不滅の神々のなかの一人であると……。そのときわたしはカシル・セイジであることをやめて、何かまったく別のものになるの。……天空に広げた電磁スクープの帆が真珠色の光を帯び、星々の間に何億キロメートルの長さのプラズマの尾をひいて……。そうよ、そのときわたしは永遠のなかを天駆けるの……」
 夫の背後の、はるか彼方を見つめながらそう言う彼女の顔は、まるで深い性的陶酔のただなかにあるかのようにつややかだった。
「そのとき確かに知ったわ。わたしという存在はもう決して滅びることがないって……。今こそ自分はすべての意味、すべての力につながるひとつの道のうえにいるって……。だから……そう、あなたのためじゃなかったの……。この旅はわたし自身のためだったんだわ。……あなたはなにもわたしに引け目を感じる必要はないのよ。わたしこそあなたをこれに巻きこんだのだもの」
 ……なんて逆転劇だ。イニシアチブをとっていたのは彼女で自分じゃなかったのだ。
「……怒った」
「いや、ただ驚いただけ……」
 まるで無重力状態のなかで磁力ブーツをはいているような歩き方でウィリアムは給食システムの前まで行き、カップにホットミルクを注いだ。
「……考えて見たら、いずれにしてもブラックホールの事業化は無理だ」
 彼は力なく言った。
「あの『土塁』が熱を持ってたのを覚えてるだろ……。潮汐摩擦だよ。岩石の応力が急速に運動量を奪って行くから『トーピード』は数週間単位で軌道半径を減らしていく。このつぎ戻ってきたときにはもう大地の奥深くを周転しているに違いない。数年後にはこの惑星の核に落ち着いていることだろう……」
「……残念だったわね。クレイドルに戻れると思ったのに」
「そうだね……」
 自分の就眠カプセルに向かってとぼとぼ歩いていくウィリアムの後ろ姿をカシルは心配そうに見守っていた。あの人、まさか冬眠しちゃうんじゃないでしょうね……。

 7 時代遅れのラブソング

 カシルが離陸準備が完了したことを知らせに上がって来た時、ウィリアムは展望窓から惑星の最後の眺めを目に焼きつけていた。
 彼女は脇に立ち、夫の腰に腕をまわして一緒に景色を眺めた。
「これ……」ウィリアムはそのままの姿勢で一枚のカラー・プリントを肩ごしに彼女に手渡した。
「何……? ああ、『トーピード』ね」
 高感度カメラが超高速で移動する発光体を画面中央に静止させていた。
「衛星の領有権はぼくにあると言ったね」
「そう言ったけど、もう事業化の話はやめにしたんでしょ」
「……そうじゃなくて、ぼくのものならきみにプレゼントできるだろ?」
「わたしに衛星をくださるの?」
「いや、衛星じゃない。ぼくがあげるのは宝石だよ」
「『宝石』ですって?」
 ウィリアムは彼女を振り向いて笑った。
「奇麗だろ」カシルはプリントを見つめた。
「そうね……宝石だわ。どんなダイヤモンドよりも数段きらめいている」
「そしてどんなダイヤモンドより貴重で、しかもグラビティ……厳粛だ……」
「……ありがとう。でもなぜ……?」
「古い習慣なんだけど……、むかし地球ではよく夫婦が結婚してから何十年といった節目の年を祝ったものなんだ。……例えば二十五年目が銀、五十年目が金、そして六十年目がダイヤモンド……」
「まあ」カシルはちょっと頬を赤らめた。
「ぼくらは結婚してサイラシン時間でちょうど二百年目になる」
「結婚記念にブラックホールを妻にプレゼントするなんて、まったくあなたらしいわ。……ほんと、いかにも時代遅れのやりかたよね」
「気に入らないのかい?」
「逆よ……。とっても気に入ったわ」
 カシルは夫に黒くつややかな髪をあずけ、それよりは少し明るいウィリアムの指がそれをやさしく愛撫した。

 そして天頂で『オミクロン・ディフェンダ』がフレアをあげるなか、核融合エンジンのまばゆい噴射は東洋人の女と黒人の男を乗せた船をその輝きめがけ空高く押し上げていった。

 了 

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