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ラブソングふたたび

第一章

高本淳

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「えっ? 何ごと?」
 なかば腰を浮かせてカシルは夫をふりむいた。
「これって、――地震?」
「いやちがうようだ……なにがが『ハルバン』を揺らしているんだ!」
 妻の背後で懸命にモニター画面の数値を読み取りつつウィリアム・セイジが叫んだ。ふたりがいるのは星系内クルーザー『サガ』のコントロール・ルーム。そこにずらり並んだ探査機『ハルバン』からの映像を映しだしているモニター画面がいっせいに揺れ動きはじめたのだった。
「プローブをこんなに揺り動かすんだからそうとうでかい何かだぞ!」
「……何かって? いったいなに? さっき周りを調べたときには周囲何キロって彼方まで何もいなかったはずでしょ?――」
「そうだったんだが――たぶん掘削作業に気をとられているうちにカメラアイの死角から近づいてきたんだろう。薄暗くなったので夜行性の動物が歩き回る時間になったのかもしれない。ちょっと用心がたらなかったな!」
「だめだわ、機体がもちそうもない!」
 画面のひどい揺れは収まらない。探査機の頑丈な傾斜機能素材がめりめり音をたてて軋んでいた。

*

 最初はすべてが順調だったのだ。いままで幾つもの恒星系を探査したのとおなじように『オールド・ファッションド・ラブソング』は準光速から何カ月も何カ月も一G減速をつづけ――今回はラムジェットを『押しがけ』するための重水素をたっぷり確保してあるので気前よく――ゼータ・リベリニス星系の奥深く、遠日点二天文単位――ほぼ二地球年周期の軌道にまで侵入したほどだった。しかしお定まりのオートスキャンでまず最初のつまずきがおこった。
「何度やってもエラーだ」
 ウィリアムはぶ然としてつぶやいた。
「設定にミスはないはずなのにどうしてかな?」
「さあさあ、ウィル。そこをどいて。わたくしにまかせなさい」
 自信まんまんの態度で交代する妻に席をゆずりつつ、彼はできるものならやってみろという開き直りと、どうにかうまくやってねという依頼心のはざまにいる居心地の悪さを感じていた。
「この内惑星らしいやつが問題なんだ」
「ふむふむ――うわっ、なにこの嫌な色?」
「赤、って呼ぶな。ふつうは」
 じろりと夫を睨むと不穏な調子でカシルは言った。
「軌道が決定できないのならキャンセルかけてうっちゃっておいたら? こんな色した惑星、どうせろくなものじゃないわ」
「そうもいかないよ。……いちおうクレイドルへのレポートがあるからね」
「クレイドル、クレイドル――百光年も離れて、なんでこうもあの連中に気をつかわなきゃならないのかな? いっそローンなんて踏み倒しちゃえばいいのよ」
「いやはや。今日はえらく虫のいどころが悪いね」
 ぶつぶつ言いながらそれでもカシルは夫が立ち上げたソフトの基本設定をひとつひとつチェックしていった。
「ふーん、べつに間違ってはいないようだわね。めずらしく」
「めずらしくはよけい」
「えっと、こっちをこうしてみるとどうかな……」
 彼女がいくつかの項目のチェックを切り替えるうちに、とつぜん画面にウインドウが開いていくつかの数値とグラフが表示された。
「あ、出た。ふうん、さすが――いったい何をやったの?」
 例によってコンピューターを自在にあつかう技量を持つ人間へのわずかな妬みをこめたウィリアムの賞賛の言葉なのだが、カシルはまだ眉根をしかめたまま画面をにらんでいる。
「――変ね。ただ思いつきで惑星探索モードに伴星オプションを加えたのよ。そうしたらすんなり軌道が出ちゃった」
「どういうこと?」
「つまりね。いままでコンピューターはあの小さな光の点がゼータの向こう側にあるものとして計算していたの。惑星は主星の光を反射することで輝くわけだから当然の仮定でしょ? でもそうすると過去観測された光度や位置から割り出される軌道要素がケプラー運動のそれとは矛盾してしまってわけがわからずエラーになっていたわけ。でもいまわたしが伴星オプションを加えたことであの光が天体そのものから発するものでありうるという条件が加わった。だからコンピューターはそれが主星のこちら側にも存在できるという前提で軌道計算をやりなおしたのよ」
「……つまりあれは惑星ではなく、リベロ座ゼータの伴星ってこと?」
「みずから発光しているのであればそういうことになるのだけど――」
 ウィリアムは沈黙した。核融合で自ら発光できるほどの質量をもつ天体だったらはるか遠方からでもゼータ星そのもののゆらぎで発見できたはずだ。という以前に、そうした連星系は居住可能な惑星を持つ可能性がほとんどないから、シーカーである自分たちはあえて探査しようとは思わない。そうとも、あの天体は小さいにきまっている……にもかかわらず何億キロも彼方から見えるほど明るく輝いている?
「間違いはないんだろうね?」
「ここまではっきり結果がでているのだからエラーの可能性はないわね。不可解だけど現実よ」
「うーん」
 ウィリアムの親指が顎ヒゲの剃りあとをさかんになではじめた。

*

 急きょ『ハルバン』を発進させて問題の『惑星』の恒星面通過(トランジット)観測を試みた彼らはこの天体がどうやらただものではないらしいのをあたらめて思い知ることとなった。
「いったいなんなの? これって――放物面鏡の制御プログラムのバグ?」
「いや……ゼータ・リベリニス自身の輪郭ははっきり結像しているよ。ぼやけてるのはべつに観測装置のせいじゃないと思う」
「じゃ、どういうこと? なんでこうもはっきり見えないの?」
「わからない。――でも恒星面に入る真際のゆらぎはきちんと観測されているんだ。ということは間違いなくあの星は主星のこちらがわにある。そしてかなり濃い大気をもっているっていうことだ」
「でもそのあと太陽面が隠れないじゃない? いつまで待っても影がぼやっとしたままで……」
「焦点はあってるな――ほら、こうして光球表面をフィルタリングするとよくわかるだろ? プロミネンスのイメージはきちんとでている」
「そうよねえ――」モニター画面に鼻をすりつけるようにしてカシルは言った。「気のせいかしら? ねえ……中央付近の赤みが以前よりずっと強くなっていない?」
「ふーん、――そう言われればそうかもしれないな。でも、光度が増してる……ってことは、こいつはこの星自身がはなつ光じゃないってことだぜ――」
 論理的結論に達したもののあまりそれを認めたくない者のあやふやな口調でウィリアムはつづけた。
「つまり、やっぱり主星の光で輝いているわけだ……ただ、反射じゃない。信じがたいけど――透過しているんだ!」
 まるで幽霊でも見たようにカシルは画面からゆっくり後ずさった。
「透明な惑星ってこと? そんなことってある? ……無気味だわ!」
 いっしゅんウィリアムの頭に読書ライブラリのなかにある大昔のSF活劇のひとつがひらめいた。金星人だの木星人だの科学的におよそありえないキャラがぞろぞろ出てくるあのスペースオペラ――なんていうタイトルだっけ?
「……ううん、不可解だなあ。あるいは星が作られる前の微小な塵が球状にあつまっているのかな? それなら雲みたいに光を透過しても不思議じゃないんだが」
「でもなんでこんな完全な球形なの? 力学的にありそうもないでしょ?」
 ウィリアムはうなずく。たしかにそうした条件なら回転による遠心力と重力の相互作用の結果塵は赤道面付近に円盤状に集まるだろう。こうまでみごとな球体を形作るなんてことはまずありえない。それに……。
「そうか!」
「ああ、びっくりした。なんなの?」
「ごめん。いま気がついたよ。もしもあの天体がそんな塵のあつまりだったら透過した光はこんな色になるはずがないじゃないか。惑星を形成する過程の物質なら粒子のサイズはさまざまのはずだろ? そうした塵は特定の波長ではなくスペクトル全部を散乱してしまうはずだよ。つまり透過光はかぎりなく白に近くなる、ってこと」
「でもあの透過光は青でも白でもなく気色の悪い赤――」
「つまり太陽光のうちごく短い波長だけが散乱されているということだよ。波長で言えば四百ナノメートルあたりになるのかな――そんなに微小で均一なサイズの星間塵なんて不自然じゃないか。それよりむしろ……」
「うん」
「短波長の光を散乱する気体分子があそこにあると考えるほうが無理がないと思う――」
 ようやくカシルにも夫のいわんとするところが理解された。
「ガス惑星?」
「そういうことになるな」
「でもそれじゃなお不可解――。塵以上にそんな希薄なガスが惑星みたいな完全な球形を形づくるなんてはずないでしょ? こんなに主星に近い場所ではなおさらね。そもそもなにか引き止めるものがないかぎりおそかれはやかれ恒星風で吹き飛ばされてしまうはず――つまり気体は強力な重力場か、あるいは球状の皮膜のようなものであの場所とあの形にとどめられているってこと」
「うむ」
「でも重力場じゃないわよね。なぜならこの透過光は見てのとおり周辺も中心部分も明るさに大きな差がないから――それは密度に差がないってこと。重力場ならかならず核の部分を中心に圧縮されているはずでしょ?」
「うむ」
「じゃ、残りは球状の皮膜しかないじゃない。あなたは誰かが超特大のガス気球を作ってあの場所に置いたとでもいうの? あの天体は太陽系で言ったら火星なみのサイズよ」
 ウィリアムはため息をついた。
「攻め込んでくるなあ。でも観測される事実をうまく説明するのはそれしかないよ。合理的に推理していって、あり得ないことを消去して残ったものがどんなに信じられないことでも――それが事実だってことだろ?」
 まるまる一分ふたり顔を見合わせたのちついにカシルもため息をついた。
「ふむ、二百五十年目にしてようやく知ったな。それってシャーロック・ホームズを気取っていたのね?」
「え?」
「顎をすりすりするその癖よ」

*

 漆黒を背景に青く輝く球体――色彩の変化は遷移軌道上の『ハルバン』との位置関係が変わり、ほぼ正面から陽光がこの星を照らしているためだ。青みは天体の縁に近づくにつれて淡く明るくなり、本当ならくっきりとした青白い円周を描いて終わるはずだ。しかし惑星全面にわたって渦巻く真っ白な筋雲と球体そのものを覆っている白っぽくぼやけた表皮が眺めを多くの部分でさえぎっていた。
 はじめ彼らは予想したようにそれを気球のそれに近い白濁した半透明な膜だろうと思った。しかし『ハルバン』が望遠カメラの倍率を切り替えるにつれ細部が明瞭になり、その単純なイメージは裏切られた。『皮膜』は一様ではなく細かい構造を持つ『網』だったのだ――無数の純白の編目模様のパターンがこの天体の外殻を作っていた。ちょうどある種の放散虫の石灰質の球殻のように――長さのそろった細い棒状のユニットが三つ組み合わさって正三角形を作り、同じ形と大きさのそれが隣り合いいくつもいくつも連続して……ひとつの頂点には六つのパターンが集まって六角形を形成している。当然それでは球面は埋め尽くせないからまれに五角形も見られるはずだが……そうやって規則正しくデルタのパターンが無数につらなった繊細なレース編みが惑星の表面をすっぽり包み込んでいた。雲の筋を散らし、はなだから紺碧にいたるグラデーションに彩られた球体をそうして白い微細な三角形のつらなるベールが包みこむさまはじつのところ美しくもまた恐ろしい眺めだった。
「いったいぜんたいなんなのかな? これは」
 微動だにせず画面をにらんでいる夫の背後でカシルは苛立たしげにつぶやいた。
「自然の天体? 特大の実験気球? それとももしかして……」
「もしかして惑星サイズの生命体……もありかな。人工物だとしたらあんまりスケールが大きすぎる。かといって無機的な自然の産物とはちょっと思えない――少なくとも自然の天体ということはないだろうな」
「ふうん。あえて断言する?」
「ああ、なぜならこの宇宙で非常に狭いスケールレベルで特異的に観測されるパターンがあるとしたら、それはまずたいてい生命活動を反映しているものだからさ」
「こいつが何物かどうかって問題とスケールレベルが関係するわけ?」
「ほら、ぼくらシーカーとしていろんな惑星を見てきたけど、たとえば探査機の高度が十倍違っていたとしても表面を映した画像にこれといって決定的な差は見つからないものだろ?」
 夫のまのびした口調にカシルは大きくため息をつき、すこし落ち着いた口調で答えた。
「たしかに同じような大小分布でガスの渦だのクレーターだのが写っているだけね。もし探査機から距離に関するデータが送られてこなかったら画像だけ見ていてもほとんど何もわからないわ」
「そう、宇宙はディテールというものの存在を許さないフラクタルの神が支配している。原子レベルの微細な距離や銀河レベルの大規模構造の両極端のぞいた中間のスケールでは――一メートルも一キロメートルも一ギガメートルも――特別な意味なんかない。でもいっぽうで、もし探査機の送ってきた画像に一輪の花、一匹の昆虫でも写っていたとしたら――たちまち画像のスケールが決定される。高さ一キロのヒナギクも体長十メートルのノミも存在できないからね。生命現象には本質的に厳密なスケール依存性があるんだ」
「それで?」
「それでこの天体の微細な網の目なんだけど――あきらかなスケール依存性が認められるんじゃないかな。つまり何かひとつでも言えるとしたら、この構造はたぶん生命に関係しているだろうってことだ」
「あなたはひょっとして惑星サイズの放散虫がこの骨格を作り上げたと言いたいわけ?」
「それもあり得るかも知れない。しかし、たぶん……超大規模な土木工事を計画しやりとげるだけの能力をもつ知的な存在が関係していると思うな」
「……その根拠は?」
 カシルは黒い肌の下で夫の頬がかすかに紅潮していることを見抜いて尋ねた。こういうときのウィリアムはまちがいなく心のうちになにか新しい洞察を秘めているのだ。
「思いついたことがあるんだ。試しに画像解析プログラムを立ち上げて調べてみてくれないか? 網の目の数は全部でいくつあるのかを調べてほしいんだ」
「あなたが言っているのは球殻全体の『面(ファセット)』の数をかぞえるってこと?」
 とりあえず彼らは多面体の要素を呼び習わす数学用語を採用していた。構造の最小単位の梁を『辺(エッジ)』、それによって作られる三角形を『面(ファセット)』、六本あるいは五本の『辺(エッジ)』が集まる点を『頂点(ヴァーテックス)』――と呼ぶことにしたのだ。
 ウィリアムはうなずき、カシルは肩をすくめながら画面を拡大してそこに映っている三角形のくり返しパターンのひとつを入力ペンでなぞりコンピューターに記憶させた。そうしてプログラムをスタートするとまたたくうちに画面上のすべての『面(ファセット)』が赤くふちどられる。当然画面に映っていない部分は数えようがない。しかしコンピューターはそれをパターン推測して総数を合計することができ――答は瞬間的に返ってきた。
「81920」
「うーん。どんぴしゃり、予想したとおり……」
 リスト端末を眺めながらひとり悦にいった調子でウィリアムはつぶやいた。
「ちょっと、あなた、ひょっとしてその数をあらかじめわかっていたと言うつもりじゃないでしょうね」
「まさか――ぼくが予想したのは数そのものじゃなくて数がもつある性質、だよ」
「あん?」
「81920イコール、20掛ける4の6乗……つまり20のなかに4分割のパターンが自己再帰的に6回くり返して入っているわけさ」
「またわけわからないことを言っているなー」
「まあ聞けよ。三角形の各辺を二等分する点を結ぶとその内部に合同な三角形が四つできるだろ? それぞれの三角形に対して同じ操作を繰り返すことで三角形の数は4の累乗ごとに増えて行く。だから正二十面体からはじめて各面にそれを六回繰り返したうえで外接球面に投影された各頂点を結ぶことにより20掛ける4の6乗――凸81920面体を作ることができ……」
「うーんと、それってひょっとしたら――」
「それさ――まさにバックミンスター・フラーのジオデシックだ。最少の材料で最大の体積と力学的安定性を持つ立体構造――ただの編み目じゃない。惑星大の建造物さ。こんな数学的に計算されつくした構造が綿密な事前の計画なしに偶然できあがるとはとうてい思えないからね」
「……つまりだれかがデザインしたっていうのね? ひとつの『天体』をまるごと?」
 ふたたびにらみ合ったあげくカシルは肩をすくめ画面に目をもどした。
「名推理かも知れないわね、ホームズさん――でも、ひとつ根本的な問題が残っているわよ」
「というと?」
「この『星』が人工物であるという可能性は――なるほど途方もない話だけど――必ずしも不合理とは言えない。でも別のやっかいな疑問があるの。あそこには推定一気圧の呼吸可能な大気が存在するって事実」
「そのとおり。窒素七十三パーセント、酸素二十五パーセント、二酸化炭素その他の気体二パーセント――スペクトル解析からの想定だけどね。それは生命の存在の可能性を意味している。だから?」
「なぜ大気は宇宙空間に洩れ出さないのかな? こんな遠方からこそ小さく見えているけどひとつひとつの『面(ファセット)』は途方もない大きさ――一辺八十キロを超える巨大な三角形なのよ?」
「でかい窓枠にはでかい窓ガラス――温室と同じ構造でなぜ悪いんだい? 気密性をもった透明な材質で『面(ファセット)』はふさがれている……」
「『透明な材質』……ねえ? わかって言っている? この場合『透明』というのは――『ハルバン』からの画像を見てわかるように、どんなに浅い角度からでも『面(ファセット)』で反射される光が観察されていない以上は――真空と同じ屈折率、つまり密度を意味するわけよ?」
「ぐ」
 一瞬唇をゆがめたウィリアムを睨むようにしてカシルはつづけた。
「それにここのところをよく見てみて――」
 目をモニターに近づけて彼はもういちどうなった。
「この雲は『辺(エッジ)』を覆っているように見える。もしそうなら『辺(エッジ)』は対流圏より下にあるってこと」
 しばし考えてからウィリアムは慎重な言葉づかいで答えた。
「でもね。ほんとうに『面(ファセット)』が気体をすりぬけさせてしまっているのなら――内部の気体をひきとめるための何かの遠隔作用が存在していなければならないってことだぜ? まあ常識的には重力ということになるだろうけど――それならこの華奢なレース編みが地球に匹敵する質量を持っているというのかい? 内圧がなければこの球形は構造自身が支えなければならないはずだろ? もし現実にそれほどこの天体が重たく、にもかかわらず自転や公転にともなう構造そのものの歪みでばらばらにならずにいるんだとしたら、こいつは実在するとは信じられないほど強靱かつ超高密度な材質から出来ていなければならないってことになる。それなら密度ゼロの透明物質を想定したほうがまだましかも知れないぜ」
「そのとおりね、名探偵さん。――でもあり得ないことを消去して残ったものがどんなに信じられないことでもそれが事実なのよね?」
「うう……ん」
 とにかく謎は深まるばかりだった。

*

 画面に岩だらけの『地表』が広がっている。明るい岩の表面にときおり見られる薄汚れた茶色の斑点は地衣類かも知れない。あちらこちらに新雪のふきだまり。ときおり地をはう霧が眺めをさえぎる。
「赤道直下だというのにひどく殺風景ね。さしずめキリマンジャロの山頂といったところかな?」
「摂氏プラス五度か……太陽が真上にあってこの寒さじゃ、動植物にはちょっと辛いだろう」
 カシルの言葉にウィリアムは応える。
「――どうしてこれほど気温が低いのかまだよくわからないけど、ひとつには大気が極度に乾燥しているせいもあるはずだな。二酸化炭素濃度もかなり低い。この場所では重力は『まっとう』に働くから当然だけどね」
「そのぶん温室効果がじゅうぶん働かないわけか――山の上が寒いのと同じ理屈ね」
 カシルが送った指示から数分遅れでモニター画面がゆっくりと右方向にパンしはじめる。掘削パイプを搭載して先にランディングした自走キャリアのオレンジ色の機体が視界をかすめた後は良く似た風景がえんえんと続くだけだ。画面隅の方位を示す数値だけがものうげに流れていく。どこを見ても荒れ果てた景色なのだが、ただ地平線までの距離だけが違う。カメラはわずかに下向きの角度で回転しているがそれでも東南東と西北西方向を向くと山岳特有の群青色の空がモニター画面上方にはいってくる。そのためについ探査機が平坦な山の尾根の上に着陸しているという印象をもってしまう――しかしこのポイントは大気圧によって決定される惑星の基準球面(ジオイド)から考えれば『海抜ゼロメートル』でもあるのだ。ウィリアムはその思いつきにくすりと笑った。
「なにかおかしい?」
「いや、ここがじつはこの惑星表面で一番『低い』場所だ、と考えると妙な気がしてね。つまり――重力ポテンシャルで言えば『ハルバン』が降りた場所はまさにサドル型稜線のいちばん低い部分で『辺(エッジ)』の両端はそれより三十メートルほど『高い』ことになる。川があればまずここにあつまるわけだ。そもそも、だからこそ赤道地帯のこの場所を着陸地点に選んだのだけどね」
「みごとに期待はずれってわけね。川どころか水の流れたらしい跡もないじゃない。雨がふったとしても問題になる量じゃないってことだわ」ふん、と鼻を鳴らしカシルは言う。
「残念だけど大きな動物にお目にかかるのは到底無理みたい……豹の死骸ひとつなさそう」
 三百六十度一周してふたたび北北東の方向をむいて止まったカメラがすこし顔をあげる。そちらの方向に大地はえんえんと続きはるか彼方で小さな一点に収束していた。『辺(エッジ)』の上面に限ればその地形が極端に細長いアーチ状になるためなのだが、球形の天体を見慣れた目にはどうしてもそういうふうには見えず、つい比較的間近に円錐形の小高い山をながめているような錯覚をいだいてしまう。『頂点(ヴァーテックス)』からのびる他の二本の『辺(エッジ)』は紫色にけぶって低くたなびく筋雲にしか見えない。そこにそびえ立つ細い『刺(スパイク)』も印象としてはせいぜい数百メートルの高さ。しかし実際にはすべてのスケールがその十倍以上あるのだった。
「とりあえずボーリングしてみましょう。微生物のサンプルぐらい取れるでしょう。なによりこの下がどうなっているか知りたいし……」
 だまってうなずいてウィリアムはプローブに送るコマンドを打ち込むカシルの踊るような手つきをながめた。
「最初はまず通常のダイヤモンド・ビットでやってみる……地表の厚みがどのぐらいかわからないから……」
 一億キロの距離を旅した指令コードが届くと探査プローブの下面から回転ドリルが伸びて地面に食い込んでいく。ビットの回転制御やキャリアに積まれたパイプの連結は自動的に行われるのでカシルは掘り進められる深度にだけ意識を集中していればいい。
「想像どおりやわらかい――ほとんど抵抗なく入っていっているわ。地球の岩石みたいに地殻内部の圧力がかかっていないから当然だろうけど。ちょうど鉱物質の微惑星を掘り抜いている感じかな」
「うん。でも慎重に十一分のタイムラグを計算してね……『辺(エッジ)』の内部構造はまったく予想できないから」
「そのあたりはまかせて――」
 掘削開始からわずか十数メートル掘っただけで探査機のドリルはそれ以上掘り進めなくなった。強固な表面でむなしく空転するばかり――何より固いはずのダイヤモンド・ビットがまるで歯がたたない。あきらかに『辺(エッジ)』そのものの表面に達したのだろう。ふたりは刃先を回転掘削からレーザー溶解にきりかえてさらに掘り進めていくことにしたのだった。レーザーの高熱に耐えられる物質はいまだ知られていない。事実時間こそかかるものの着実に掘削パイプは地中深く伸びていった。ついでに発生したガスにふくまれる元素の種類を調べることで『辺(エッジ)』の素材がほとんど純粋な炭素であることを彼らは知った。おそらくイシュタル機械と同じ炭素結晶材だろう。
「……つまり巨大なダイヤモンドのパイプってことか」
「うん。もはや人工物に間違いないわね」掘削の記録を確認しながらカシルは言った。
「――構造材そのものはかなりの厚み。でも五十メートルちょっとというのは全体のスケールから見たらむしろ異常に薄い外壁だな。いくら炭素結晶材の強度が高いといったってこんなぺらぺらの壁で『辺(エッジ)』にかかる途方もない力を支えられるはずもない」
 この『温室』の窓が素通し――つまり透明な材質でふさがれていないことはあらためて降下途中の『ハルバン』の観測で確認ずみだった。探査機の軌道変化で天体の質量も測定でき、この惑星が確かに地球なみの表面重力を持つこともわかった。なんといっても下界から上昇気流にのって雲がここまで上がってくるのだから疑いようもない。あきらかに大気は重力で引き留められているのだ。したがって球殻の重さはほぼ地球質量――六掛ける十の二十一乗トン前後と見積もられる。言うまでもなくひとつひとつの『辺(エッジ)』に加わる圧縮と捻れの力は想像を絶する規模だろう。
「――内部にずっと強固な高密度の芯があってわたしたちはまだカバーに穴を開けただけなんじゃないかな? ……なにしているの?」
「しっ……なんか音が聞こえないか?」
 ウィリアムはコンソールにちかづくとヘッドホンを耳につけて彼方の天体からとどく微かな囁きに耳をすませた。
「さっきから吹いている風の音じゃない? 日暮れが近づいてきたからでしょ?」
「いや、べつの音。――機体の下からだな。なんか掘削パイプの開口部から聞こえているみたいだぞ」
 夫の言葉にはっとしてカシルはモニター画面のデータ群にすばやく目をはしらせた。
「ああ、これだ! ……ほら、パイプのなかが負圧になっているわ」
「空気が逃げている?」ウィリアムは妻が指さすグラフのひとつを確認して目をしばたたいた。
「ほんとだ。……てことは、『エッジ』の内部はからっぽ――真空ってことかい?」
「まさか。からっぽのはずはないじゃない……それじゃ、大気をひきとめる力はいったいどこから来てるの?」
 カシルの苛立たしげなつぶやきが終わるのを待っていたかのように――とつぜんモニター画面が激しく揺れ動いてあらゆる計器がめちゃくちゃな数値を示しはじめたのだ。

*

「カメラを背後に向けるんだ! 機能停止する前に正体を確かめないと――いったい何者なんだ? なんだか知らないがものすごい力だぞ」そう叫びながらウィリアムはすでに半ば諦めていた。この映像は五分以上前のものだ。同じ時間かけて緊急指令が届くまえにたぶんすべては終わってしまっていることだろう。
 それでもがくがく動くモニターカメラが首を振りはじめるまでふたりは歯をくいしばって待った。ようやくそれが動きだしあと少しで謎の襲撃者が映し出されようとしたとき、ふいにすべてのモニターが消えてまっくらになった。カシルはあわてて幾つものコマンドをやつぎばやに入力したが、画面は二度とふたたび明るくなることはなかった。
「ああ……」
 ふだんの彼女らしくもない弱々しい声でカシルは言った。
「『ハルバン』が死んじゃった! 元気な子だったのに!」
 思いがけない事態にウィリアムも当惑しきっていた。
「うーん、参ったな」
「どうする? これから……」
「『ハルバン』を失ったとなると調査計画すべてを見直さなければならない。予備機の『オンギ』はいま分解チェックのまっ最中だ。飛ばせるまで一週間はかかる」
「とてもそれまで待っていられないわね。『サガ』そのもので有人探査するとしたらあと三日のうちに心をきめないと……軌道修正がまにあわない」
「心をきめるといってもねえ。あんな凶暴な何者かが住んでいる世界においそれと降り立つわけにはいかないだろ。危険は冒せないよ――だって今回は……」
 そう言いおえるまえに……ウィリアムをそれほど慎重にさせている当のその理由が唐突にコントロールルームになだれ込んできた。
「――ちょうだいちょうだい! おにいちゃん! あーん、あたしのっ」
「ちがうだろっ! これはぼくのクッキーだぞ。ちゃんとロッカーにしまっておいたんだから」
「ちょうだい、ちょうだい、ちょうだいっ!」
 最後の『ちょうだいっ!』は可聴範囲ぎりぎりの高音域に移行しつつ発せられた。ウィリアムはきんきん鳴る耳を両手でふさぎながら「静かにしなさい、ふたりとも! コントロールルームで騒ぐんじゃないとあれほど言ってあるだろ!」とどなったが、予想どおり大音声の宣告もほとんど効果がなかった。
「――だって、ミヒョンが言うこときかないんだもん!」
カシルの腕が素早く伸びて息子の襟首をつかんだ。
「もの食べながらしゃべるんじゃないの。ユルグ、ほらほら、クッキーまじりのよだれが飛び散ってる。光学メモリーにこびりついたらどうするの。いじわるしないでミーちゃんに半分あげなさい」
「いやだよー! これぼくのだー」
「隠しといてあとで見せびらかすのなんて男らしくないわねえ。誰に似たのかしら。わけてあげなさい。おにいちゃんでしょ? 妹泣かしてどうするの?」
 バスケットボールを扱うようにカシルは息子を夫にパスしながら言った。
「お願い、あなた子供たちを外につれだして。わたしは『ハルバン』が救えないかもう一度やってみるから」
「ひどいよ。ほんとにぼくのなのに。おにいちゃんだからっていつも損するんだ!」
 ――息子よそれが人生というものさ。なかば同情しつつウィリアムはあえてしかつめらしく長男に言いきかせた。「ほらほら、聞こえたろ? ふたりともはやくコントロールルームをでろ。いま『ハルバン』が壊れてママはひどく機嫌がわるいんだ。平穏無事でいたかったらこれ以上ママを怒らせるんじゃない」

つづく

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