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ラブソングふたたび

第四章

高本淳

 エアロックの船内側扉を密閉してウィリアムは一瞬躊躇った。通常の船外活動の手順だったらここで真空ポンプを働かせるところだが、いまそれをやったら外部へのハッチが開かなくなるだろう。彼はスイッチにのばしかけた左手を意味もなく握ったり開いたりしながら右手で開閉ロックを解除した。
 こわごわ船外につきだしたヘルメットの上に水平線が斜めにかかっている。サガは水面に第三エンジンのカウルをつっこんだ形で静かに浮かんでいた。液面が衝突の衝撃をやわらげてくれたらしくこれといって船体の破損はない。しかし集合ノズルがすっぽり水に浸っているため姿勢制御エンジンが始動できない。使える探査ロボットがない今、状況を確認するためには誰かが外にでるほかなかった。
 周囲三百六十度をウィリアムは慎重に見回した。観測窓をふさいだあの虫たちはいまでは一匹も見ることができない。普段は姿をあらわさないのにサガが接近してきたら急に集団で反応した――ということは、やっぱりカシルの推理したとおり船体についた雨水が目当てだったのかもしれない。やがて陽光が水分を蒸発させてしまったためにいまのところゴキブリたちは影を潜めているというわけだろう。しかししょせん仮説は仮説、ふたたびどこからともなく大量にわき出てこないとも限らないのだ。たとえ生命の危険はないにしても好んで全身にたかられたくはなかった。視野を塞がれると面倒だし、なによりウィリアムはもともと六本足の類はどうも苦手なのだ――以前『蜘蛛』にあやうく廃棄処分されそうになった記憶は生来の嗜好を補強こそすれ、やわらげてくれるはずもない――。
「――虫たちの姿は見えない。空は急速に晴れ渡りつつある。風も微風まで収まった。船外活動を行う上での支障はいまのところないようだな」
「了解。想像があたっていればすくなくとも船体が乾いている間はゴキブリたちは現れないでしょう。不思議なのは豊富な水がこんなに間近にあるのになぜ『サガ』にあんなに夢中で飛びついてきたかだけど……」
「地球にいた羽虫と同じじゃないのかな? 少量の露で乾きを潤す習性があるんだろう。直接水面に落ちて羽が濡れたら飛び立てなくなるだろうからね」
「そうかもしれない。でもそれにしてはミツバチのように集団でなにやら組織的に動いているようにも見えたな」
「そんなこと言うから、いまミツバチみたいに巣に群れるゴキブリを想像してしまったよ――ぶるぶる。恐怖以外のなにものでもないな。何にしろやつらとはあまりかかわりあいたくはない。タンポポのほうがはるかに心和む」
「タンポポ?」
「ちょうど目の前一メートルも離れていないところに小ぶりのタンポポの綿毛みたいなのがあるんだ。色は根本が白で先端は薄い紫。花かもしれないな――まるで歓迎してくれているようだ。モニターを通じてきみにも見えるだろ?」
「見えるわ。チャイブにも似ているな。異星への第一歩としては上々ね。でも油断禁物。一見可愛い花が突然牙をむいて襲いかかってくるかも知れないわよ」
「まさか――B級ホラーじゃあるまいし」
「わかんないわよ。タンポポに似たモンスターの触角かもしれないじゃない。とにかく用心に越したことはないってこと」
「やれやれ、これだけ完全武装してなおかつ石橋を叩いて渡れと?」
「当然の配慮だと思うけどな」
 彼がいま着用しているのは完全循環式の気密服。通常着用する軽便な解放式――二酸化炭素を外部に捨ててしまうタイプではない。宇宙開発初期に開発された船外作業用宇宙服が遠い祖先でいわば身体に密着した宇宙船とも言える。しかしいかにもかさ高く身動きが不自由なのでシーカーたちの評価はかんばしくない。それでもカシルは新世界への第一歩を印そうとする夫にその着用を強要した。
 巨大な昆虫がサナギから羽化しようとでもするかのようにじたばたもがきつつエアロックから這い出しウィリアムはようやく宙に浮かんだ。取っ手を頼りに慎重にふりむくとすぐ目前に濁った水の壁が佇立している――理由もなく突然それが頭上に雪崩落ちてくるのではないかという本能的な恐怖がちらりと心をかすめた。微風にかすかに震える巨大な水球といっしょに虚空に浮かんでいるというイメージはあまり居心地のいいものではない。いや、自分はいま水生植物の繁茂する沼地の上五十センチに腹這う形で浮かんでいるのだ――彼は頭のなかの座標をむりやり転換してより安心できる映像を思い描くようにした。
 いったんそうと考えると、なるほどそこにはごくありふれた光景がひろがっていた。あちらこちらに絡まった水苔のような浮島がある。その上には葦のようなすらりとした植物も生えていた。浮島の間の水面の大部分は小振りな蓮に似た植物の葉でおおわれ、そこからさきほど間近に見たのとおなじ直径二センチほどの綿毛の玉を乗せた細い茎が無数に伸びている。噛みついてきそうな気配はまるでない。それでも彼はグローブの指を伸ばして慎重にその『花球』に触れてみた。驚いたことにそうすると綿毛はちょうどオジギソウの葉のようにゆっくり根本の方向に倒れていき、やがてぴたりと茎に重なった。
「おやおや、この世界の花はシャイらしい――煎じて誰かさんに飲ませたくなったよ」
「誰かさんというのがひょっとしてわたしのことなら――遠慮します」
「飲んでみなけりゃわからないだろう? びっくりするほど美味しいかもしれないぜ」
「ふん! どんなアルカロイドが含まれているとも知れないフラワーティーなんてまっぴら」
「なるほど――ざんねんながら少なくともフラワーティーにはならないな。どうやらこいつは花じゃないようだ。よく見ると花そのものはべつにある」
 その植物の本来の花と思われる器官を新たに見つけて彼は言った。三ミリほどの白く小さい筒状のものが茎の根元に無数に群れている。内部には雄しべと雌しべらしきものもあった。間違いなくこちらのほうが本来の花なのだろう。
「しかしどうもこの綿状の毛は花よりよっぽど目立っている気がする。近くで眺めるとますますたんぽぽの綿毛に似ている――でも種子をとばすためにあるんじゃない。不思議だ」
「意味もなくそんな器官があるとは思えないわね」
「うん、何か大切な機能をになっているんだろう。空中の水分を凝縮するとか――」
「水分を凝縮? 水生植物が?」
「……ありそうもないか」
 たしかに地球の植物の生態をそのまま持ってくるわけにはいかないだろう。これもまたファーストコンタクトに違いないのだ。ウィリアムはその奇妙な植物をあらためてじっくり観察した。花の集合体の下から短い葉柄を介して円形の葉が広がっている。葉の裏から直接長いヒゲ根のようなものが水中に漂っていた。直径三センチほどの厚みのある円形の葉の表面には球形の水滴が付着し、縁をつまんでそっと裏返してみると予想どおりびっしりと繊毛が生えていた。表面の撥水性と繊毛の親水性の相互作用でこの葉は安定して水面を漂うことができるらしい。浮力でなく表面張力を利用した構造は地球の水蓮の葉と同じだ。たしかにこの葉の形はスイレン科のそれに酷似している。
「そうか、ここでは植物の姿勢の定位は水面を基準にしているはずだな。重力も太陽の位置もあてにならないからね。あるいはこの綿毛はそのためのセンサーなのかも知れない」
「そうかな。植物学者さん、でも野外観察は後回しにして。わたしたちのスイートホームが沼地に没しつつあるんだから」
「そうだった。了解」

*

 何よりまず船を『沼』から引き上げるのが先だった。まぎれもなく彼ら全員は危機的状況にあるのだ。人間にとって必要不可欠な液体――水、には一部の撥水性の物質をのぞいて物体表面をやたら濡らしたがるというやっかいな性質がある。入浴後タオルで身体を拭かなければならないのはまさにそのためなのだが――同じ液体である水銀とはまったく逆だ。いまも『サガ』の船体表面は徐々に『沼』の水によって取り込まれつつあった。アメーバ状のその液面が微小隕石で凹凸状のフラクタルになった船体シールドをはい上がる速度は幸い緩慢だがまた着実でもあり、傍観していてほかのバーニアまで水で覆われたら脱出の手段を完全に失ってしまいかねなかった。
 ゆっくりと船の周りを辿って彼は状況を子細に調べた。いまのところ水没しているのは四つあるうちのひとつ第三カウリングだけだ。姿勢制御用集合ノズルからメインエンジンベルの半分までがすっぽり『沼』に浸かっている――もっともシステムを手動に切り替えて残ったバーニアの推力を足しあわせればたぶん表面張力に打ち勝って脱出できるだろう。しかし第二カウリングの間近にも水は迫っていた。そのむねカシルに報告した後彼はつけくわえた。
「たとえ脱出できても問題は残るな。大量の『沼』の水が船体にくっついてくるぞ。たぶん十数センチの厚みで『サガ』を完全に包み込んでしまえる量だ。おそかれはやかれやがてはすべての噴射ノズルが覆われてしまう」
「半日晴天がつづけば蒸発してくれるでしょう」
「そうかも知れないけど、天気まかせというのはあまり気にいらないな。ともかく手始めに船体を回転させておいたほうがいい。経線方向にプラス十度ほど――時間がかせげるだろう。できれば船をもうすこし池から引き揚げておければ安心なんだがなあ」
「綱をつけてひっぱりたくても肝心の足場がないってわけね――」
「ちょっと待ってくれ」カシルの言葉をウィリアムは途中で遮った。
「なにか問題?」
「いや――トラブルじゃない。魚らしいものがいたんだ」
 彼は小さな黒い影が幾つもすばやく水面下を動くのを眺めながら言った。「しなやかですばやい動きだ。たぶん脊椎動物――小魚の類だろう」
「こちらでも確認。この世界が地球環境を再現するためデザインされたとしたら魚がいてもべつに驚くべきことじゃないわ。今夜の献立は焼き魚かな?」
「夕食の材料にするのは無理なようだ。動きが速すぎて捕まえるどころかじっくり観察するのも難しい。すくなくともこんな甲冑をつけていてはね――」
 ウィリアムはフェイスプレートを水面ぎりぎりまで近づけた。
「こうして自分の影をつくるとすこしましだ。それにしても数メートルより深いところはほとんど見えない。透明度はあまり高くないようだ。水中に有機物が多いということだと思う。ぎゃくに魚にとっては住みやすい環境なのかも知れない」
「ウィル? 気づいてる? 画面の左上になんだか白っぽいものが映ってるんだけど?」
 彼は小魚の群から目を移して思わず苦笑した。
「波紋にまぎれて気づかなかった。あいかわらず目ざといね。――クラゲだ。いいサンプルになりそうだ」
「捕獲できる?」
「その気になれば水中に潜れるけれどその必要はない。じゅうぶん腕が届くよ」
 念のために船体の磁気プレートに足を固定してからウィリアムは慎重に気密服のグローブを水の中に差し入れた。
「おや?」
「こんどはなに?」
「気密服ごしだから微妙だけど、なんかやけにねっとりした印象だ。水というよりスープに腕をつっこんだみたいだよ」
「粘性が高い?」
「そんな感じかな……蒸発はしにくそうだ。よし! つかまえたぞ」
 肩ぐちまで浸した腕をひきあげると池の水がまとわりついてくる。断熱服地は親水性が高いからほうっておくとそれはまたたくうちに気密服の表面のすべてに薄く広がった膜をつくってしまうだろう。彼はクラゲを水面の少し下でつかんだまま反対の手でしごくようにして水分を押し戻した。無重力生活の経験からウィリアムにはわかっていた。大量の――とくにこうした粘性の高い液体を最終的に身体から液球としてうまく引きはがすのは難しいものだ。むしろ身体の一部を水面に接触させたまま連続した液内部の流れを作るようにしたほうが素早く容易に身体表面の水分をぬぐうことが出来る。つまり地上では自然に重力によって滴り落ちる流れを無重力空間では意識的に表面張力と慣性作用によって作り出す必要があるのだ。
「なるほど。そうか――」
「はい?」
「『サガ』を沼からひきあげるために何が必要かがわかったよ。水をかき取って沼に押し戻してやるためのスクレイパーだ。モップの柄の先にゴム製の特大ブレイドをつけたようなものがあればいい。こいつは船の工作室で簡単に作れるよ。あとは家族総出で甲板掃除だな……」

*

 そうそう望んだとおり行くはずもなかった。子供たちはほんの数分でモップ掃除に飽きてしまい、その後ウィリアムとカシルは沼の淵から泳いでいる魚たちをつかまえようとしたり水草をひっぱりあげようとしたりする子供たちを叱ったり、なだめすかしたり、おだてあげたり、また叱ったりしつつ、船体に這いのぼろうとする沼の水と格闘していた。
「つまるところセイジ一家のいつものパターン」カシルは波紋とともに水をおしやりながら淡々とコメントした。「でもユルグがミヒョンの世話をみてくれるようになってずいぶん楽になったな……」
「ああ、このごろおにいちゃんらしい自覚がでてきたようだ。気づかないうちにいつのまにか成長しているのさ」
 しかしほめるとろくな事がおこらないのもいつものパターン――数分もしないうちにミヒョンが懸命におぼつかない手つきで命綱をたぐりよせつつやってきて言った。
「おにいちゃんが虫にたかられてる!」
 ふたりはあわてて息子のところに飛んでいった。エンジンカウルを迂回してまわると上半身をゴキブリの塊にしてユルグが呆然とすわりこんでいた。駆け寄ったウィリアムがうなり声をあげて追い払うものの虫たちは息子の身体からなかなか離れていこうとはしない。ぎゃくにふたりのフェイスプレートにぶちあたるとそのまましがみついてさかんにはい回るありさまだ。しかしいったんは硬質プラスチックの上にまとわりついても見かけに反してそこが乾いていることがわかるとじきに飛び立っていく。それに気づいてウィリアムは叫んだ。
「ユルグのヘルメットが濡れているせいだ――やはりこいつらの目当ては水分なんだ。水気をふき取ってやればいなくなるはずだ」
 さいわい乾いたタオルは幾枚も準備してあった。カシルがユルグのヘルメットをぬぐってやると果たしてゴキブリたちは急に興味を失ったようにそこを離れてあたりを飛び回りはじめやがて気がつけば一匹のこらず姿を消していた。
「ユルグ、おまえ――池の中に頭をつっこんだな。それをしてはいかんと言っておいただろう? いつになったら一度で親の言いつけを聞くようになるんだ?」
「あなた……」カシルが彼のひじを取って言った。「そのぐらいにしておいて。――もう懲りたでしょ? ユルグ。ほらほら、乾かしてしまえばもう大丈夫。虫はこないわ。はやくミーちゃんのところに行ってやりなさい」
 曇ったヘルメットをタオルでふいてやりながらカシルは早口に言った。息子の顔はさすがに青ざめていた。生命の危険はないとしてもフェイスプレートをゴキブリたちに塞がれてかさばる気密服のなかで身動きひとつとれなかったのだからさぞ心細かったに違いないのだ。それでも血の気の失せた唇を頑固にひきしめて泣き出さないのはすべて自分のミスとわかっているためだろう。妻の直感したものを遅まきながら感じ取り息子に雷を落とそうとしたウィリアムはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「まあ、どうやらあいつの興味をよほどひくものが池のなかにあったんだろう」その場を逃げるように去っていく息子の後ろ姿を見送ったあと彼はその場でそりかえるようにして池を見上げた。「……なるほどこれか」
 はじめて周囲を眺め回したときには気づかなかったから、たぶん最近『沼』の反対側から漂いやってきたに違いない――他の『沼』の水生植物とはまた異なった『茂み』がそこに浮かんでいた。さしずめ地球で言う灌木にあたるだろう。ただひとつひとつの樹には幹はなくユリ根のように密集した部分から直接『枝』が出ている。くねくね曲がりながら絡み合いつつ長く延びた先端にそれぞれ三枚に分かれた葉が開いていた。葉柄らしいものを介することなく先端を縁取るように重なって直接葉がついているところをみると、あるいはこの『枝』自身葉が変形したものかもしれない。
 水中がどうなっているのか知りたくてウィリアムは目の前の水面の小さな浮き草をそっとかきわけた。にごった水のなかを覗いてみるとこの植物の球根からは丈夫そうな水中茎が幾本か隣あった他の樹へと続いている。球根や茎の節々から細いひげ根が広がり、互いにからみあって水中に幾つも緊密なバスケット構造をつくっていた。たぶんこれら『バスケット』の編み目のなかにとらわれた水の表面張力が『茂み』の姿勢を安定させているのだろう。
 バスケットのなかにちらりと動く影があることに気づいたウィリアムはさらに目をちかづけた。
「――ユルグにあんなに厳しく言っておいたくせに。自分こそもうすこしで頭をつっこみそうになっているわよ」
 カシルにそう言われて再度タオルを手に持っていることを確認してから、彼はそっと水面にフェイスプレートを触れさせてみた。
「あ、ずるい……勝手な父親ね!」
「頼む――やつには内緒にしておいてくれ」
「自分でわかっているだろうけど、そうやって水に顔をつっこんでいる姿はかなりおマヌケよ」
「なんとでも言ってくれ。好奇心には大人も子供もないさ」
「あの子が何に気をとられたのかわかった?」
「うん、たぶんこいつだ――バスケットの中に例のゴキブリがいるんだ」
「死んでいるの? 食虫植物かな?」
「いや……元気に泳いでいる。タガメみたいに水陸両棲らしい。しかも……」
 ウィリアムは水面から顔を離すとすばやくタオルで水をふきとった。
「直感なんだけど――どうも連中は密接な関係があるようだな。この『樹』と」
 そうつぶやくとそりかえるようにして彼は『茂み』の周囲に目をはしらせた。一匹の『ゴキブリ』がすばやく視界を横切った。その飛跡をたどっていたウィリアムは枝のひとつを指さしてカシルに言った。
「あの枝の先を見てくれ……」
 カシルは物入れから電子スコープを取り出しフェイスプレートに押し当ててしばらくながめていた。
「ふうん……なにやら蠢いているな。二匹のゴキブリが互いの位置をいれかわろうとしているようだわ」
 やがて葉先からふたたびゴキブリが飛び去った。
「――つまり、斥候が交代したわけか」
 湿ったタオルを小脇にはさみつつウィリアムはカシルの側まで歩み寄って言った。
「枝は先端まで筒状になって葉の中心に穴があいている。その穴は球根を通じて水中茎まで続いている――水中茎のネットワークとバスケット内部に出られる穴を通じて虫たちは自由に往来できる……」
「ねえ、ひょっとしたら、この『樹』は蘭の仲間なのかも知れない」
「え?」
「ほとんどの蘭科の植物は昆虫と共生しているのよ。受粉に利用するため花の構造が特定の昆虫の身体にあわせて見事に適応進化したり――この植物もそうなのかも知れないな。『樹』はあのゴキブリたちのために中空の茎を通路として提供している……」
「ふむ」
 頭上に手をのばして『樹』の葉をめくってしばし観察してからカシルは言った。
「――そうか。ねえ、ゴキブリってじつはシロアリと近縁だって聞いたことがある?」
「え?」とつぜんそう尋ねられてウィリアムを記憶を確かめるのにすこしてまどった。「ああ、そういえばどっかで聞いたような気もするな」
「図体こそ大きいけどたぶんこの虫たちはゴキブリよりシロアリに近いのかもしれないよ。これはいわば水中の蟻塚ということじゃない? たんなる通路じゃなく、たぶんこれこそが巣なのよ!」
「うむむ、なるほど――だから突然どこからともなく現れたと思うと綺麗さっぱり姿を消してしまうんだな。しかし……この『蘭』はこいつらに宿を提供して何の見返りがあるんだい?」
「まさに蘭科の植物と昆虫の関係じゃない? 受粉の手助けをしてもらっているのだとしたら?」
「そうだな。その通りかも知れない。地球でも蘭とシロアリはともに大成功をおさめた種族らしいからね。まさにこの星の生態系の頂点に君臨する最強コンビというところかな」
「ひょっとしたらこの虫たちがこの世界の主とか?」
「まあ、そこまでいっては言い過ぎという気もするけど、あたらずと言えど遠からずかも知れないな。地球だって見方によっては昆虫の惑星と呼べるぐらいだからね――急に端末に何を打ち込んでいるんだい?」
「霊感ってやつ。雨にあえばどうしても観測窓が濡れることになる。もしもこの虫たちが大繁栄をとげていたとしたらどこへ行っても今回と同じ危険があるわけでしょう。でもこいつらが本当にシロアリの仲間だったら上手く防ぐ方法があるかも知れない」
「あるとしたら素晴らしいね。どうやって?」
「虫たちには苦手な樹木が存在するのよ。たしか桧の仲間だったと思う。その精油成分がカギ――」カシルは検索結果を読み上げた。「α-カジノール、Τ-ムウロロール……か。こいつを合成することはできると思うな。つまり、シロアリが嫌う化学物質をあらかじめ船体に塗りつけておくってわけ」
「なるほど……うん、グッドアイディアだ。ぜひやってみるべきだよ!」

*

 ウィリアムがラボに入ったとき止まり木に片脚をからませるようにしてカシルはモニターを注視していた。
「どんな具合?」
 彼は妻の肩越しに画面をのぞき込んで言った。
「予想したよりかなり複雑だわ」
 彼女は沼の水のサンプルを挟んだプレパラートをマイクロスコープのスロットからひきぬきながら説明した。
「微生物の分布がおそろしく多様なのよ。その理由の第一はなによりこの『沼』では塩水と淡水が複雑にまじりあっているってことがあるの」
「ふうん? つまり地球で言うところの汽水ってやつかな?」
「まあそうね。塩水の塩分濃度は平均して約十五パーセント。各イオンの分量は低いけれど三十五パーセントの地球のものと元素比率はとてもよく似ている。惑星の進化はあなたのほうが専門だけど、赤道面に降着している岩石起源のものじゃないかな。原始地球で海水に塩分やミネラルを溶かし込んだプロセスがかつてここでも働いたんじゃ?」
「初期星系雲にふくまれた塩素や水が熱で分離結合し塩酸となって岩石中のミネラルを溶かし込む――たとえ惑星大に凝縮しなくてもある程度の数の微惑星が頻繁に衝突することで十分な熱が発生すれば可能かも知れないな……。太陽系のアステロイドにも過去幾度となく溶解した痕跡があることが知られているんだ。真空中では塩素ガスや水蒸気がすばやく失われてしまうだろうけど再凝結できる大気中という条件でなら大いにありそうなことだよ」
「惑星学者のお墨付きをいただけたようでなにより」
「――いっぽうで蒸発と凝固の循環は不断に淡水を生成するはずだね。ただ地球の陸地にあたるものがないので塩水と淡水がべつべつに存在することはできない、ということか」
「うん。さらに重力が働かないので河川と海が作る汽水域のように比重の働きで両者が二層にわかれることもない。それぞれがさまざまな体積の塊として混じり合ってる――多様性こそもたらされるけど個々の動植物にとってはあまり好ましい環境じゃないはずよ」
「なるほど……単細胞生物ならよけいにそうだろうな。塩分濃度が極端に違う領域がとなりあっているわけだ。間違った場所に入ったら最後浸透圧の関係でたちどころに細胞膜が破裂してしまう」
「だからこの星の生命たちはそれを防ぐための手段を進化の過程で獲得したの。彼らの戦略がようやくわかってきたわ。あなた『沼』に腕を入れたときのねっとりとした感触を覚えてる?」
「うん、粘度が異常に高い感じがしたね」
「それは水中に多量に含まれるポリマーのせいよ――プランクトンが自分自身を守るために分泌したものなの。面白いのは分泌した個体だけなくそれがつながって他の多種多様な微生物を含むコロニー全体を包み込むように膜状にひろがっているところ。このスクリーンが塩水と淡水の境を縁取ってイオンの拡散を防いでいるわけね」
「なあるほど――」
 ウィリアムは感心したようにうなずいて観測窓の外にひろがる『沼』を見下ろした。あののち家族全員スクレイパーで奮闘した結果『サガ』はなんとか水の魔の手からの脱出に成功し、当面の脅威が取り払われたことで彼らはじっくりとこの異世界の自然を研究するチャンスを得たのだ。
「――どうやらそれでわかった。けっこういろいろな動植物がいるということはそれだけこの『沼』が長いあいだ存在していたってことなんだが、正直どうもそこのあたりが腑に落ちなかったんだ」
「というと?」
「流れ込んでくる川もないのにどうしてそんなに長く『沼』が存続できるのかってね、ずっと疑問に感じていたんだよ。まあぼくらが遭遇したような雨が定期的に水分を補給することは間違いないんだけど、雨と蒸発まかせなんていつかしら決定的に供給と蒸発のバランスがくずれそうじゃないか?」
「うん、たしかに天候まかせじゃ危うい感じね」
「でもここの生態系は見事に安定している。そうとう長い期間にわたって環境が一定に保たれている証拠だよ。その理由のひとつがたぶんいまきみが言ったことに関係していると思う――たぶん高分子の膜に包まれた塩水塊の存在が『沼』の表面付近の飽和蒸気圧を低下させているんじゃないかな」
「海水は淡水より蒸発しにくい――なるほどね。地球上では塩分濃度が高い海水は低層にもぐりこむものだけどここは無重力だから対流はない。くわえて塩水を好む植物プランクトンは太陽光をもとめて主として『沼』の表面近くに好んでコロニーをつくる傾向がある。この高分子膜は微生物の棲み分けだけじゃなく『沼』の水分の蒸発そのものもコントロールしているのかもしれない。ふうん、面白いわ――ちょっとこれを見てくれる?」
 カシルはべつのサンプルをスロットにセットした。
「うん? 細胞の断面のようだけど?」
「例の『タンポポ』よ。綿毛の付け根の細胞なんだけどちょっと興味深い細胞内器官があるの」
「どれどれ?」
 モニターの拡大映像を動かしながらカシルは説明した。
「この部分に見える染色したのがそう――一種の開閉弁ね。細胞質内のナトリウムイオンの濃度によって細胞壁の水分の出入りをコントロールしているらしいわ。神経細胞の情報伝達受容体のカリウムチャンネルにちょっと似ているわね。オジギソウと同じく通常は触れられたり強い風を受けたり綿毛に物理的な刺激を受けるとこの植物は付け根の細胞内の水分を減らして綿毛を畳み込むんだけど、塩分濃度が高いときにかぎってはこの弁が働いて水分の移動を制限するようになる。つまり綿毛をのばしたまま風を受けるようになるってわけね」
「ってことは?」
「つまり一見何の役にたつのかわからなかったこの綿毛は周囲の大気の流れを利用して自分自身の場所を移動するための器官――一種の帆と考えられるの。それだけじゃない。前にあなたが言ったように空中の水分をこまかな毛でキャッチする道具としても働いているらしいわ。両方ともたまたま塩分濃度の濃い水域に立ち入ってしまったとき脱出し生き残るための手段と思われるんだけど、結果的にこうした植物たちが群生して塩水面ではなく淡水面を好んで覆うことで『沼』全体の水分蒸発も低いレベルにおさえられている……」
「なるほど感銘をうけるね。植物だけじゃない。たぶん間違いなく例のゴキブリもまた『沼』の水量調節に重要な役割をになっているはずだよ。雨が降るたびに雲の中をとびまわって蜜ならぬ水分を集めてくるのさ。もちろん『サガ』のような濡れた表面をもつ物体があれば喜んで群がってくる――」
「それが事実ならようやく襲われたわけがわかったわね。ミツバチが蜜を集めるみたいに水を『沼』にもどして蒸発分をおぎなっているってわけかな? 植物にしろ動物にしろ自分たちの働きで自らの生存環境を最適にバランスさせている――」
「まあどこの環境でも生命はしたたかに適応していくものだろうけど――ちょっとこの星の生き物たちが愛おしく思えてきたな。あのゴキブリたちをも含めてね!」

*

 ふたたび取り込まれないよう慎重に距離をおいてホースをのばし当初の目的であったスラスターの推進剤――水をたっぷり補給して『サガ』は飛び立った。危機を脱したいまになってこれらのよどんだ水球に後ろ髪ひかれる思いがするのはわれながら不思議だ、とウィリアムは思う。たしかに地球の数十倍のスケールのこの生命圏のなかで浮遊する小さなこれらの『沼』など二度と見つけることはできないに違いないのだ。しかし広大な未知の世界を探検する彼らとしては通過する場所にいちいち未練を感じてもいられない。
「パイロットどの、何か問題は?」
「ぜんぜん平気。この速度ならノープロブレム」
 スチーム洗浄したエンジンを乾かすためにカウリングを開いたまま『サガ』は飛んでいた。球形船体を取り巻く四基のうち一基を停止している以上はしばらくフルスラストは使えない。バランスを取らなければならないこともあって実際に使えるのは対角線にある第二と第四エンジンの二基だけ――まあこの天体の引力をふりきって大気圏外へ脱出するのでないかぎり十分だろう。とはいえどんな緊急事態がおこってそれが必要になるかはわからなかったが……。
「来て見てごらんなさい。素敵な眺めよ」
 不意に弾んだ口調でカシルが叫んだ。
「ここ数分のうちにきゅうに頭上を雲が覆ったの――でもぜんぜん暗くはならない。光は『下』からあたっているから――赤く照らされたドーム型のスクリーンを見上げている感じだわ」
 彼女の横に浮かんでウィリアムも外をながめた。全開にした観測窓の外にかぎりなく続くピンク色の世界がひろがっていた。ジオデシックの天蓋もいまはまったく見えない。
「おう。ささいな悩み事なんてふきとびそうだな。世界はバラ色ってわけか」
「風もほとんどない。雲のなかで『ジェットスパイダー』たちと鬼ごっこしていた時は気づかなかったけど、この星の夕暮れ時はいつもこうなのかな」
 観測窓から身を乗り出すようにしてウィリアムは答えた。
「見事なまでに一様な霧状のスクリーンだな――こまかな氷の粒子からなっているんだろう。数分のあいだって言っていたね? たぶん過冷却状態の水蒸気がちょっとしたはずみにいっきに凝結したんだ」
「どうしてそんなに急に気温が下がったのかな?」
「当然だよ。ここには海も陸地もないことを思い出してごらん」
「そうか、大地と海がないぶん大気も地球のように大量の熱を蓄えておくことができないわけね」
「ただ長波長の可視光と赤外線は夜の半球にもとどいているし、なにしろ厚みが膨大なので大気の大部分での温度は真夜中になってもそれほど急激に下がることはない。ゆいいつジオデシックの外殻に近いこのあたりの大気が宇宙空間に熱を奪われ薄い雲のベールができるわけだ」
「ガラス窓のすぐ側が寒いのといっしょ――放射冷却ということね。そうか、最初にハルバンを下ろした地点がなぜあんなに気温が低かったかようやくわかったわ。この薄い雲の層は明暗境界に平行して何十万キロもの幅と長さで広がっているはずね」
「壮大な夜具ってわけだ」
「綺麗は綺麗……だけど、この状況って遠近感がわからなくなる欠点はあるな」
 そう言いつつカシルがあくびを噛みころしているのをウィリアムは見逃さなかった。ひきもきらないアクシデントと発見の連続、くわえて完全な暗闇というものが訪れることがないこの環境ではともすれば睡眠時間が不足しがちだ。空虚な宇宙とはちがい大小の浮遊物が飛び交う空間でコンピューターまかせのオートパイロットを使うわけにもいかない。そろそろどこか安全な場所を見つけて停泊するべきときだ。妻の疲労を察して彼は考えた。
「見えるかい?――あそこに大きな岩塊が浮かんでるだろ」
「どこ? ……うん、うん。あの見事に球形をしたやつね」
「あのなだらかな表面からすると以前はすっぽり水で被われていたのかもしれない。浸食の影響であんな綺麗な形になったんじゃないかな?」
「調査したいの?」
「沼地のレポートがひととおりおわったからこんどはひとつ乾燥地帯を調べてみようと思っていたからね。想像どおりなら貝殻や化石のようなものが見つかるかも知れない。うまくいけば沼から湿地、乾燥地への生態学的な変遷も調べられる。どうかな? あの上に船を停めて一日ゆっくり休むというのは? そのあいだにグロブリンパッチも完成するだろうし、そうしたら新世界へ初上陸してみよう。家族そろって……こんどはもうすこし軽装でね」
「そうね。いいかもしれない――乾燥した土地なら危険な動植物の心配も少ないでしょうし……」
 例によってその予想はおおハズレだった。

つづく

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