| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

室井先生の書斎(前編)

1〜3

桓崎由梨

(1)

 古本屋通いを続けていると、時々、どの店へ行っても、同じ客と顔を合わせてしまうことがある。住所が近かったり、お気に入りの古書店が一致している場合は尚更だ。そういう客は、どうかすると、自分と本の好みが似ていたりするので要注意だ。その店に新着の古本が入荷した際、同じ本を狙って、奪い合いになる可能性が高いのだ。
 最近おれも、あちこちの店で、ひとりの男と、よく顔を合わせるようになった。そいつはおれと同い年ぐらいで、スポーツ選手のように背が高い。いつも担いでいる緑色のデイパックには、綺麗な翡翠色の鳥の絵が描かれたワッペンが縫いつけられている。鳥の足元には、『Kingfisher』という文字が綴られている。
 Kingfisher――カワセミのことだ。
 そこでおれは、そいつを『カワセミ男』と呼ぶことにした。
 手元を観察していると、カワセミ男は、よく、推理小説や探偵小説を買ってゆく。いずれも、質が高いわりには絶版になっている、そのジャンルでは有名な作家の本だ。
 カワセミ男は趣味がいい。だから、おれは少し心配だ。

 初冬の頃、おれは、古書店《しおり書房》を訪れた。
《しおり書房》は、昔ながらの、個人経営の古本屋だ。
 店主の安斎さんは、かつては「古本探偵」の異名をとるほどの古書ハンターだったが、病気で膝を痛めてからは、古書店の経営に専念するようになった。
 おれは安斎さんの足代わりだ。あちこちの古本屋をまわって、自分の欲しい本に加えて、安斎さんから頼まれた本を探して歩く。
 おれはプロの探偵ではないし、せどり屋でもない。だから、いつも無報酬でそれらの依頼を引き受ける。金を貰って義務的に探すよりも、古本を通じて、本好きの人間と仲良くなることのほうが面白いからだ。
 夕刻の店頭に、安斎さんの姿はなかった。
 レジには、安斎さんの奥さんが座っているだけだった。
「こんにちは。お邪魔します」
 おれが店に入ると、奥さんは値札貼りの手を止めて、笑顔を浮かべた。「あら、いらっしゃい」
「ご主人は、どちらに?」
「二階の書庫ですよ。あなたが来たら、あがって貰うように言われてました。遠慮なくどうぞ。わたしは、レジを離れるわけにはゆきませんからね」
「では、お言葉に甘えて」
 レジの奥には畳の間が続いている。靴を脱いでそこへあがると、座布団の上に、トラ猫のジェイムズが寝そべっていた。客が来たというのに起きあがりもせず、寝ころんだまま、尻尾を二・三度振ってみせた。《よく来たね。まあ、あがりたまえ》と言っているような態度だった。この猫の性格は、飼い主の安斎さんにとてもよく似ている。
 狭い階段をのぼり、おれは二階の書庫へ入った。安斎さんと奥さんとおれしか知らない、秘密の書庫へ足を踏み入れた。

 異次元書庫は、いつもと変わりなく、よく管理されていた。
 緑の絨毯からは、本物の植物の香りがほんのりと立ちのぼっている。頑丈な作りの書棚には、著者名別・ジャンル別に並べられた蔵書の数々が並ぶ。本につく害虫を取り除いてくれる《司書蜘蛛》は、八本の長い足を繰り出して、蔵書の隙間を移動していた。
 室内は広いが、安斎さんを探し出すのは簡単な筈だった。書庫には、安斎さんが持ち込んだ読書机と椅子が幾つかある。膝の悪い安斎さんは、たいてい、そのいずれかに腰をおろして本を読んでいるのだ。
 だが、三つある机のいずれにも、安斎さんの姿はなかった。
 入り口から一番遠い机の前で、おれは周囲の本棚を見回した。――変だな。ここから奥の書棚はまだ全部カラだし、通ってきたどこかにいるなら、気配を感じる筈なのに。
 おれは立ち止まり、耳を澄ました。すると、遠くから、小さな話し声が聞こえてきた。声には、パチッパチッと、硬いプラスチックを弾くような音が混じり込んでいた。独り言ではなく、会話のように聞こえる。
 意外だった。奥さんとおれしか知らないこの秘密の書庫を、安斎さんは、誰に喋ったのだろう。どうしても本好きの仲間に自慢したくなったのだろうか。あるいは、蔵書管理に困っている友人たちに、一月幾らで貸す契約でもしたのだろうか。
 おれは、声のするほうへ向かった。
 安斎さんは、ほんのすぐ先にいた。
 テーブルを間に挟み、見知らぬ男と向かい合って座っていた。二人はオセロゲームに熱中していた。先刻から聞こえていたパチパチいう音は、オセロの駒をひっくり返す音だったのだ。
 男は、安斎さんと同じぐらいの歳に見えた。大きな身体は少々太り気味で、机の縁に接している腹部が苦しそうだ。ベージュ色のスラックスに白いシャツという出で立ちは、特別個性的なわけではなかったが、どことなく妙にレトロな、不思議な雰囲気が漂っていた。丸い鼻の上には黒縁の四角い眼鏡。短く刈り込まれた頭髪はもうほとんど真っ白だ。どこかで見たことがあるような人物だったが、誰なのかは思い出せなかった。
 おれが躊躇していると、安斎さんが気づいて、声をかけてきた。
「やあ来たね。遠慮してないで、こっちへおいで。いや、ゲームはいいんだ。あとで、いくらでもできるから」それから対戦相手に向かって言った。「いいですよね、先生?」
「ええ、結構ですよ。それにしてもこれは面白いゲームですねぇ。ぼくは囲碁や将棋は苦手ですが、こういうモダンなものなら大歓迎です」
 いまどきオセロゲームに感激するなんて変わった人だなぁと思いながら、おれは二人の側へ近づいた。見知らぬ男に、ちょっと頭を下げて挨拶した。
「はじめまして。安斎さんのところでいつもお世話になっています、幸田といいます」
 安斎さんが横から付け加えた。「彼は、私の代わりに本を探してくれている人です。先生の作品もたくさん読んでいますし、きっと、お役に立つと思いますよ」
「あ、それは、どうも」
 男は、にこにこしながら、おれに言った。「こんなところまで来て自分の読者に会えるとは思わなかったよ。嬉しいね。ありがとう」
 ああ、この人、作家なのか。
 どんなものを書く人なのだろうと思っていると、安斎さんが続けた。
「幸田くん。こちらは室井先生だ。君のよく知っている、あの室井先生だよ」
「へ?」
 おれが意味を理解できずにいると、安斎さんは、にやりと笑った。「本物だよ、幸田くん。この方は『書棚の育て方』の作者、  室井 龍星  むろいりゅうせい先生だ」
「えっ!!」
 と叫んで、おれは男の顔をまじまじと見直した。「嘘でしょう?!」
「いや、嘘じゃない」
「そんなこと有り得ないですよ。だって、室井龍星は、確か六十年代に入ってすぐに亡くなって……」
 そこまで言った途端、おれはハタと思い留まった。言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、後に続けるつもりだった言葉を、もぐもぐ・ぐにゃぐにゃと喉の奥へ押し込んだ。
「本当に、室井先生なんですか?」
 男は、テーブルに積み上げてあった本の中から、一冊の雑誌を引き抜いた。それは、作家や芸術家の生活を時々特集している雑誌のバックナンバーだった。ページを開くと、男は、そこに載っていた写真を自分の顔の横に持ってきた。微笑を浮かべながら言った。
「ほら。これで、ただのそっくりさんじゃないってことが、わかって貰えるかな?」
 写真は、男が室井龍星本人だということを、充分過ぎるほどに証明していた。
 そしておれは、その時になって初めて、この人物を見た時に感じた、あの妙にレトロな雰囲気の正体にようやく思い至った。男が身につけている服の素材や襟の形、眼鏡のデザイン等が、現代の商品とは微妙に異なっているのだ。
 おれは洋服や風俗の専門家ではないから、詳しいことはわからない。だが、古い時代の映画やTVドラマで擦り込まれたイメージが、この男の姿の上に、無意識のうちに重ねられていたのだろう。それゆえの、ひっかかりだったのだ。
 それでも、おれは、まだ全てを信じる気にはなれなかった。この書庫が普通の場所ではないといっても、死人が生き返るような奇蹟まで起こるとは思えなかった。
「本物の室井先生だとしたら、どうやって、ここへいらしたんです? 先生とぼく達の時代では、四十年以上の開きがある筈ですが――」
「簡単なことだよ。ぼくの書庫にも、そこのと同じ扉があるのさ」
 男は、書棚の一つを指さした。
 その書棚には本を並べる棚がなかった。その代わり、背板に、扉とノブが出現していた。大きさは、人がひとり通れるぐらいのものだ。
 いつのまに、こんなものができたのだろう? おれは扉に近づき、そいつをじっと観察した。
 男は言った。「ぼくの書庫と、安斎さんの書庫。その二つが、その扉を挟んで繋がっているわけだ。嘘だと思ったら、扉を開けてごらん」
 おれは、扉のノブに手をかけてみた。ノブは軽やかに回り、扉は難なく開いた。
 嘘ではなかった。扉の向こうには、ここと瓜二つの書庫が広がっていた。延々と続く無数の書棚。下草が生えたような緑色の床。天井からふりそそぐ柔らかな白い光……。
「そんな中途半端な見方をしてないで、思い切って、中へ入ってごらん」
 ぽーんと背中を押されて、おれは、向こう側へ転がり落ちた。
 扉を通る瞬間、ふいに周囲が暗闇に包まれ足元の感覚を失ったので、おれはパニック状態に陥った。尾を引く叫び声をあげながら、おれは闇の中をどこまでも落ち続けた。落下は永遠に続くように思われた。が、その直後、いきなり全身に平衡感覚が戻ってきて、おれは、扉の向こうに見た書庫の床にうずくまっていた。
 顔をあげ、周囲を恐々と見回した。
 そこは確かに、安斎さんの書庫ではなかった。空気の匂いが違った。床の緑の色が違った。何よりも、ここには、何十年も使い込まれたような古びた雰囲気が漂っていた。
 床には、ところどころに、ヒメジョオンのような小さな白い花がたくさん咲いている。司書蜘蛛の体格は、安斎さんのところのより三倍ぐらい逞しい。書棚はどれもいっぱいだ。見慣れない版型や装幀の専門書・文学全集などが、ずらりと並んでいる。加えて、今の古書市場に出せば、何十万、何百万と値がつくに違いない和書・洋書が、ぎっしりと詰め込まれていた。
 おれの傍らには、いつのまにか、あの男が佇んでいた。
「こっちだよ」
 男は言い、おれの手を引いて書庫の中を歩き始めた。
 おれは引かれるままに、男のあとをついていった。膨大な数の本が、おれたちを見つめていた。そこに満ち満ちている活字の総量を思うと、頭がくらくらし、体の芯から微熱が広がった。
 安斎さんの書庫から出る時と同じように、おれたちは、異次元書庫から外へ出た。
 爽やかな畳の匂いが鼻の奥に広がった。
 目の前に現れたのは、十畳ほどの和室だった。最近ではあまり見かけなくなった、正統派の和室だ。
 室内には背の低い執筆机があり、貝を形どった卓上ライトが置いてあった。机の前には、使い込まれて潰れた座布団が一枚。机の上に乗っているのは、ワープロやノートパソコンではない。大きな升目の原稿用紙と、パーカーの太い万年筆だ。そして、この和室の中にも、所狭しと書籍が積み上げられていた。
 何だか、ステレオタイプとも言えるほどに作家でございといった雰囲気の書斎に、おれは、逆に感銘を覚えた。これはある種の装置なのだ。執筆活動という掴みどころのない世界へ没入してゆくために、この男が利用している巧妙な装置のひとつなのだ。
 原稿用紙に書かれた筆跡を見て、おれは、この男が、室井龍星に間違いないことを確信した。
 おれは、男に向かって、改めて頭を下げた。
「失礼しました。なかなか信じられなかったもので。本当に、本当に、本物の室井龍星先生なんですね?」
「まあ、信じられないのは、無理もないと思うよ」と、室井先生は言った。「ぼくだって、扉の向こうが四十年先の未来に繋がってるなんて、想像もしていなかったからね」
「あ、あの、もしよろしかったら、今度、先生のサインを頂けないでしょうか? 家に何冊か先生の本がありますので、もし差し支えなければ……」
「そんなものでいいならいくらでもしてあげるよ。何冊でも、持って来なさい」
「うわああっ、ありがとうございますっ!」
 それからおれは、室井先生と一緒に再び現代へ――安斎さんの書庫へ戻った。そして、これまでの事情を手短に聞かされた。
 謎の扉は、ふと気づいたら、書庫の中に出現していたらしい。
 最初に気づいたのは、室井先生のほうだった。
 扉を開けてみて先生は驚き、次には、その向こうへ足を踏み出すべきかどうか、しばらく迷い続けたという。だが、好奇心に勝つことはできなかった。ポケットにアーミーナイフを忍ばせると、心が命じるままに、先生は思い切って足を踏み出した――。
「……でも、着いた先が、ただの書庫で良かったよ」
 と、室井先生は言った。「そこにいたのも怪物なんかじゃなくて、ただの古本屋のおやじさんだったしね。おまけに、ぼくの書斎にあるのと同じ書庫を育てている人だったなんて」
 室井先生は、安斎さんの書庫の中を嬉しそうに見回した。「書庫の育て方も上手だね。書棚も空間も理想的な発育を続けている。ツリーをうまく育てられない人には、この書庫は絶対に手に入らないし、ツリーが枯れれば、この空間も縮んで消えてしまうんだよ」
 安斎さんは答えた。「今は、やたらと出版点数の多い時代ですからね。ツリーに食わせる活字には困りません。少なくとも、わたしが生きている間は大丈夫な筈です。ところで、幸田くん」
「はい」
「今日、君を呼んだのは、室井先生に会わせて、サインをおねだりして貰うためじゃないんだ。君の本探しの才能を、先生のために発揮して貰いたいんだよ」
「室井先生のためなら、どんなことだってやりますよ。で、何を探せばいいんです?」
「『赤砂の都市』という作品を知っているだろう? 室井先生の最後の作品だ。これには二種類の本がある。途中までしか原稿の揃っていない《オリジナル版》と、結末部分が別の作家によって書き足された《新月版》だ。今回探して欲しいのは、《新月版》のほうだ。初刷しか存在しない《新月版》『赤砂の都市』を、早急に、見つけ出して欲しいんだ」


(2)

『赤砂の都市』は、火星を舞台にした空想冒険小説だ。
 はるか昔、火星で文明を築いていた火星人たちが、惑星環境の変化によって、文明存続の危機にさらされる。火星人たちは智慧を絞り、生き残りのために様々な道を模索する。だが、荒廃の進んだ環境に適応して、惑星上に、危険な変異種が誕生してしまう。その生物は、元は火星人の家畜だったのだが、変異によって知性と凶暴性を獲得し、火星人類を食糧とみなして、次々と襲い始めるのだ。物語は、様々な立場にいる火星人が、環境の異常を改善させるべく奮闘したり、変異生命体との激闘を繰り広げる様子が、三人称多視点の手法でスリリングに描かれてゆく。
 火星に向けて、NASAのバイキング1号が飛び立ったのが一九七五年。その二十年前に着想されたこの小説は、冒険活劇物語の一種であって、科学的なアイデアを云々する類の作品ではない。そもそも、室井龍星はSF作家ですらないのだ。だからこの作品も、仕組みのよくわからない無茶苦茶な兵器が出てきたり、ずいぶん強引な展開もあるのだが、室井龍星が書くとそういったアラがあまり気にならず、何だか、妙に楽しめてしまう。空想の世界にしか存在しない「純白の火星花」に覆い尽くされた大地で、様々な性格の火星人たちが、衝突し、和解し、騙し合ったり、助け合ったり、新しい価値観に目覚めて苦難に立ち向かったりしてゆく様には、胸がすくような爽快感と、理屈抜きの面白さがある。
 だが、『赤砂の都市』は、最後まで完結しなかった。作者の室井龍星が、執筆中に、心不全で急逝したからだ。五十七歳の若さだった。
 室井龍星は死ぬまで現役作家だったので、この作品も、彼の死後、すぐに出版されることになった。その際、未完成のままのオリジナル版ではなく、別の作家が物語の結末を書き加えた「別ヴァージョン」が、先行発売されることになった。それが安斎さんの言う《新月版》だ。
 書いたのは、 野村 新月 のむらしんげつという人物だ。室井龍星に師事していた若手作家で、弟子達の中では最もデビューが早く、室井龍星との交流も活発だった。
 師匠の死後、新月は遺族の了解を得て、師の遺した構想ノートや資料を詳しく調べあげた。そして、「室井龍星ならこのような結末を書いたのではないか」という大胆な予測の元に、新月版『赤砂の都市』を完結させた。《新月版》発刊のゴーサインを出したのは、『赤砂の都市』の出版に関して室井龍星と約束を交わしていた、清論社だった。
 出版社の思惑通り《新月版》はよく売れた。室井龍星の遺作を読みたいと思う読者や、新月がどのような結末をつけたのか知りたいと思う読者が、一斉に飛びついたからだ。
 だが、本が売れたわりには《新月版》は不評だった。「室井龍星らしさの感じられないラストだ」という批判的な意見が、一部の評論家や読者の間から、湧き起こったからだ。
 曰く、
『室井龍星なら、こんな、もの侘びしい終わり方にはしなかっただろう。必ず、ハッピーエンドで締めくくった筈だ』
『……つまり野村新月は、室井龍星の作品を完成させるという道筋から外れて、のだ。悪い意味で、ファンの期待を裏切ってしまったのである』
 等々。
 新月の書いたラストは、火星人たちが変異生命体を滅ぼすことに成功したものの、結局は環境の激変に耐えられず、自分たちの身体を改造して外界に適応することを選ぶ――というものだった。つまり火星人たちは、今まで闘ってきた相手と同様に、自らが変異種になることを選んだのだ。あるものは砂漠に、あるものは極地の氷の海で生きられる姿へと変化した。急速に乾燥化と寒冷化の進む大地と海の下で、火星人たちは、文明の復活を夢見ながら長い眠りにつく。再生までの時を刻む、永久時計の音を耳にしながら――。
 といった感じの、他の室井作品にはないような、全体的に暗い雰囲気の結末だったのだ。
 批判の勢いが強かったせいか、結局、清論社は《新月版》の二刷以降を出さなかった。元々、話題作りのために発刊したようなところもあり、モトは充分に取れたと判断したのかもしれない。
 ほどなく、清論社は、室井龍星が書いた原稿のみで構成された《オリジナル版》を発刊する。結末のない、文字通り「絶筆状態」のこの本は、何度も版を重ね、現在、室井龍星の『赤砂の都市』と言えば、この本のことを指す。新月自身は、その後もしばらく自分のオリジナル作品を発表し続けていたが、いつのまにか文壇から姿を消した。評論家の中には、この時の出来事がショックで筆を折ったのだと言う者もいるが、真相は定かではない。

「でも、そんなに珍しい本なら、どうして、安斎さんがお持ちじゃないんですか?」
 おれは不思議に思って訊ねた。「室井龍星のファンなら、絶対に、リアルタイムで買っている類の本でしょう? 清論社は大手の出版社ですし、初刷だけでも一万部は」
「そのへんは、ちょっとした事情があってな」
 安斎さんは、あまり話したくなさそうな表情で、苦笑いを浮かべた。「持ってはいたんだが、昔、金に困っていた時に、そいつを高く買うという人がいてね――。まあ、他でもまだ手に入るだろうと思って手放したのが、間違いだったんだな。それ以来、一度手に入れた本は、絶対に手放さなくなったんだがね」
「……ようするに、目先の利益に、目がくらんだわけですか」
「あんまり責めんでくれよ。古本屋とはいえ、店を一軒経営するのは、大変なことなんだぞ」
「わかりました。じゃあ、とにかく、その《新月版》を探し出せばいいわけですね。でも、どうして室井先生が、その本をご入り用なんですか?」
「ぼくは、新月くんが『赤砂の都市』の結末をどのように描いたのか知りたいんだ」と、室井先生は言った。「世間で言われたように本当に酷い出来だったのか。それとも、ぼくが許容できる範囲のものなのか」
「それなら、安斎さんに、オチを教えて貰うだけでいいんじゃないんですか?」
「いや、そうではなくて、小説の形として知りたい。オチの内容だけではなくて、文体・構成・小説としての要素が、プロ作家の仕事として、全うされているかどうかを確認したいんだ」
「なぜですか?」
「それによって、元の時代へ帰ってからの行動を変えようと思うからさ。もし、新月くんの書いた結末がぼくにも納得できるものだったら、ぼくは自分の時代へ戻った時に、彼のために、可能な限り資料と草稿を遺してやろうと思う。完璧な結末を書いて貰うための手がかりをね。だが、もし彼が、高名心からいい加減なものを書いただけなら――ぼくは一切の資料を、死ぬ前に処分してしまうつもりだ。誰にも続きなど書けないように、今書いている原稿も草稿も全て焼き捨てる」
「そんなことをするぐらいなら、先生が、ご自分の手で『赤砂の都市』を完結させればいいじゃありませんか! こちら側で書き上げて先生の時代へ持ってゆけば、先生は、生きている間に、完結した本を出版できるでしょう?」
「残念だが、それは不可能なんだ。ここの扉は、ぼくの身体は通すが、他のものは通してくれない。何度も試してみたんだが、書物も原稿用紙も通してくれないんだ。持ち出したつもりでも手の中から消えてしまうんだよ。ひょっとしたら今のぼくの体も、本当はここに実体としてあるわけではなくて、非物質的な存在として、過去から投影されているだけなのかもしれないな。幻灯機が映し出す影のように、君たちの目の前に、ただ、影のみが映し出されているだけかもしれないね」
「そんな馬鹿な! だってぼくの手は、今、確かに先生の体に触れていますよ」
「触覚や嗅覚も含んだ影なのだとしたら? 世の中には、そんな幻だってあるのかもしれない」
「……」
「というわけで、ぼくが、この時代から四十年前の世界へ持ち帰れるのは、脳の中の記憶だけなんだな。だったらぼくは、それを最大限に利用して、新月くんの運命を好転させてやりたい。どうしても、ぼくの手で完結できない運命にある作品ならば、ぼくはそれを、他の誰でもなく、新月くんに仕上げて貰いたい。その新月くんに任せられないのなら、他の誰にも書いて欲しくはないんだ」
 室井先生は、おれの両手を掌で包み込んだ。じっと、瞳を見つめながら言った。
「君が、一読者として、ぼくに結末を書いて欲しいと思う気持ちはよくわかる。ありがとう。とても嬉しいよ。だったら、こうしようじゃないか。君が、もし《新月版》を見つけ出してくれたら、ぼくは、自分で構想している『赤砂の都市』の結末を、君だけにこっそり教えてあげる。君はそれを筆記するなり録音するなり、好きにするといい。それが本探しに対する、ぼくからのお礼代わりだ」
「……わかりました。それでいいのなら――。でも、内容を読むだけなら、どこかで借りるだけでもいいんじゃありませんか? 安斎さん、国会図書館には、もうあたったんですか。『赤砂の都市』は一般の書店に出回った本です。国会図書館に、蔵書として保管されていると思うんですが」
「図書館なら、おれも真っ先に調べたよ」と、安斎さんは言った。「だが、駄目だったんだ。確かに『赤砂の都市』は、あそこの蔵書として保管されている。しかし、肝心の書き下ろし部分が――つまり、野村新月の書いた後半部分だけが、ごっそり欠落しているんだ」
「落丁か何かですか」
「いや、『切り抜き』だよ。どこかのマニアが、必要な部分だけを、こっそり破いて持ち帰ってしまったんだな。公の図書館ではよくある話だ。有名な漫画家の初期作品が載ってる雑誌なんかが、よく、この手の被害に遭うらしい。手塚治虫の漫画が載ってる雑誌なんか、ひどいことになっているらしいぞ」
「じゃあ、地方の図書館は」
「大きな図書館の目録は片っ端から調べた。が、《新月版》はどこにも見あたらない。だからあとは、絶版本や、いっぷう変わった品揃えの古書店を探したほうが、見つかる可能性が高いと思う。図書館の廃棄品として、古書市場に出回っている可能性もあるしな。君に頼むのは、そういう事情があるからなんだよ」


(3)

 翌日から、おれは、全力投入で『赤砂の都市』を探し始めた。
 安斎さんは、全国に散っている友人・知人に同じ依頼をしており、今この時にも、多くの人間が同じ本を探し求めている筈だった。
 おれの担当は、阪神地方一円の古書店と、数年前から擡頭してきたインターネットでの古書取引をチェックすることだった。マニア向けの専門古書店を一軒ずつあたり、室井作品のファンを自称する人間に話を聞いてまわった。古書販売のサイトをこまめに巡回し、EasySeek等に探求本を登録した。ネットオークションの書籍カテゴリも、毎日欠かさずチェックした。
 安斎さんは、知人を経由して、水原藤雄という書評家とアポイントメントを取ろうとしていた。水原藤雄は、SFや幻想小説の書籍データベースを作成していることで有名な書評家で、自宅に膨大な蔵書を持っている。ここを訪ねれば、まず間違いなく、該当の本が見つかるのではないかと考えたのだ。
 安斎さん自身は水原先生とは面識がなかったので、人づてに話を通して貰った。だが、データベースに記載があったにも関わらず、新月版『赤砂の都市』は、そこには存在しなかった。そのことに一番驚いたのは、水原先生本人だった。
「お訊ねの本は、確かに、わたしの書庫で保管していました」と、水原先生は、困惑しきった様子で答えたという。「少し前に書庫の掃除をしましたが、その時に手に取った覚えもあります。しかし、誰かに貸した覚えはありませんし、そもそもわたしは、滅多なことではここの本を貸さないのです。うちにあるものは、わたしが小説史を書くための、貴重な資料ですから」
 電話で事情を聞かされたおれは、安斎さんに訊ねた。「そこの紛失も、マニアの仕業でしょうか?」
「いや、いくら何でもそれはないだろう。水原先生は、信頼できる人間以外は、絶対に書庫へ入れないそうだから」
「だとしたら、先生自身が、どこかへ置き忘れたとか?」
「有り得んね。あの先生の本に対する愛情の深さは、生半可なものではないよ。とりあえず、もう一度、よく調べてみると言ってくれたから、先生とは、今後も何度か連絡を取り合うことになるだろう」
 まるで、誰かの手によって意図的に遠ざけられているかのように、おれ達は《新月版》に辿り着くことができなかった。おれはふと思った。宇宙に存在する何らかの意思が、過去の歴史が変わることを許さず、室井先生の手に《新月版》が渡るのを、阻止しようとしているのだろうか?

 おれ達が走り回っている間、室井先生は、のんびりと二十一世紀の生活を楽しんでいた。安斎さんの奥さんは、この、どこからともなく出現したレトロな人物のことを全く不審がらず、店に来る客同様に、にこやかに対応した。室井先生も奥さんの性格が気に入ったのか、煎茶と瓦煎餅などごちそうになりながら、とりとめもなく世間話などしていた。猫好きの室井先生は、トラ猫のジェイムズのことも、文字通り猫可愛がりした。
 おれは、室井先生がこの時代で得た知識を元に、自分の時代で「予言者」や「インチキ占い師」になったりしないか気になったが、どうやら、その心配はなさそうだった。室井先生は、安斎さんのパソコンをいじってインターネットの世界を覗き見たり、カラープリンターの印刷精度に大興奮したりしていたが、いずれも好奇心に満ちた子供のような邪気のない喜び方だった。
 安斎さんが、それとなく聞き出したところによると、現在の室井先生の年齢は五十七歳。つまり――。
「先生の自己申告を信じるならば、先生が心不全を起こす日は、あと二ヶ月後だ」
 二人きりの時、安斎さんは、おれにそう教えてくれた。
「それが、こちら側でも二ヶ月後に起きるのか、向こう側の時代で二ヶ月後のことになるのか、それはわからん。だが、最悪のことを考えて、大急ぎで本を探すにこしたことはない」
「先生自身は、そのことを?」
「多分、知っているだろうな。雑誌のバックナンバーを調べればわかることだし、インターネットで検索をかけても出てくるし。だが、おれには何も言わないで、この時代を楽しんでいるだけだ」
 安斎さんは、珍しく溜息を洩らした。「だから、未来の知識で元の時代の人たちを翻弄しようなんてことは、これっぽっちも考えてやしないだろう。元々、そんな小賢しい真似をして喜ぶ人でもないしな」
「病院で検査して貰ったらどうです。四十年前ならともかく、今なら、いい薬があるんでしょう」
「健康診断なら、もう受けさせたよ。適当な理由をつけてね。ところが、異状なしだとさ。病気が見つからない以上、心臓の薬を貰うわけにはゆかないんだ」
 おれは時空の悪戯をうらめしく思った。こんな死の直前の室井先生ではなくて、もっと若い頃の室井先生が扉の向こうから訪れていたなら、おれたちには、もっとたくさんの時間が残されていただろうに。
「でも、先生は飄々としていますね。自分が二ヶ月後に死ぬとわかっていて、あんなに、のんびりできるものでしょうか」
「さあな。記録によると、先生は、自宅でひとりでいた時に発作を起こしたことになっているから、元の時代に帰った時、その行動を変えるつもりなのかもしれないな。それこそ、当日、病院へ行くつもりなのかも。医者の目の前で倒れれば、多少は、最初の処置が変わってくるだろう。そうやって、自分の運命を変えるつもりなんじゃないかな」
「それだといいんですが……」

 どこを回っても手掛かりがなく、現物も見つからないままに、日々は過ぎていった。
 おれは安斎さんや室井先生のためだけに本を探しているわけではないので、《新月版》が見つからなくても、古本屋には通い続けた。友人から頼まれている探求本が何冊もあるからだ。
 店主と顔馴染みの小さな店から、チェーン店型の大型店舗まで、気分転換を兼ねていろいろと回った。
 新古書店の百円均一の棚では、値打ちのある絶版本を数冊見つけた。インターネットのオークションに出品すれば、何千円にもなる代物だ。迷わず購入して、店を出る。
 高架下に並ぶ小さな古書店をまわり始めた時、おれは一軒の店で、見覚えのある人物と顔を合わせた。
 三十代の初め頃に見える、背の高い男。肩からさげた緑色デイパックには、カワセミのワッペンが縫いつけられている。最近、おれが、あちこちの古本屋で見かけるようになった人物――『カワセミ男』だ。
 おれは、さりげなくカワセミ男の側へ近づいた。今日はどんな本を買ってゆくのだろう。また、推理小説だろうか。
 だが、男の手元を見た途端、おれはショックを受けた。彼が持っていたのは、おれが長い間探していた、短編ミステリのアンソロジー集。勿論、絶版本。しかも彼は、それを完揃いで手にしていた。おれより一足先にここへ来て、全五巻が並んでいたのを素早く発見したらしい。このシリーズは、前回ここへ来た時には棚になかったのだ。
 悔しさのあまり呻き声を洩らしそうになった。この店の標準価格を考えると、そう高い値がついていた筈はない。男がレジへ向かうと、おれは本棚を見るふりをしながらレジの側へにじり寄った。売値を確かめるために。
「二千五百円です」
 店番のおばさんの言葉に、おれは愕然とした。欲しがっている人間に転売すれば、バラでも一冊三千円、初版で完揃いなら三万以上で売れる本だ。それがたったの二千五百円!
 男はデイパックに本を詰め込むと、悠然と店を出ていった。
 おれ自身は何の収穫もないままに、ガックリしながらそこを出た。
 ついてない。今日はこれで帰ろうか。でも、別の店で、もしかしたらいい本が見つかるかもしれないし……。
 そう思いながら別の店へ入った途端、おれは再び戦慄を覚えた。カワセミ男が、そこでも本棚を物色していたのだ。
 おれは慌てて、カワセミ男と反対の方向から本棚のチェックを始めた。彼がまだ見ていない棚から、急いで、自分の探求本を探し始めた。
 棚の中央あたりですれ違う時、カワセミ男は、最近の古本屋の客としては、とても珍しい行動をとった。おれの背後へすっとまわりこみ、体ひとつぶんの幅で道を譲ってくれたのだ。
 あっ……と思って、おれも素早く一歩先へ進み、カワセミ男のために道を作った。本棚の前ですれ違う際には、双方が同時に移動して、お互いに道を譲り合う――。それは、昔ながらの古書店を何十年もまわり続けた人間なら知っている、暗黙の礼儀のひとつだった。
 古本屋といえば最近のチェーン店型の新古書店しか知らないという客は、この種の礼儀には無頓着だ。本棚の端から客が近づいてきても、相手と出会った位置で、いつまでもぼーっと立ち尽くしていたりする。お互い、相手が動き出すのを、ひたすら待っているだけなのだ。この場合、結局は、気の短い客のほうが相手の背後へまわり込んで先へ進むことになるのだが、このやり方では、角度の関係で相手の立っている場所にある本の背を確認することができない。だから、先へ進んだ客は、あとでもう一度同じ場所に戻って、本棚をチェックし直すことになる。
 はっきり言って、これでは二度手間なのだ。
 カワセミ男のとった行動は、その二度手間を解消するための最良の方法だった。本棚の前ですれ違う際には、二人で同時に動く――つまり、お互いがお互いの体の幅ひとつ分先へ進めば、角度が開いて、途切れることなく本棚を見続けることができるのだ。この方法だと、あとで同じ棚に戻らなくて済む。
 おれが古本屋通いを始めた中学生の頃には、どこの古本屋へ行っても、こうやって道を譲り合っている大人たちがいたものだ。古本屋に通う人間は、誰に教えられることもなく、他の客の態度から、自然とその方法を学んできた。だが、今では、こんなことを知っている人間も、めったに見かけなくなってしまった。カワセミ男は、おれと同様にそれをまだ知っている、珍しい種類の人間だったのだ。
 何だか、少しだけ嬉しくなった。さきほどアンソロジー集を横取りされたことも「まあ、いいか」という気分になってきた。
 ――だが勿論、同類を見つけた嬉しさと、本の蒐集とは別問題だ。
 おれは店をそっと抜け出すと、少し先にある、もう一軒の古本屋へ先回りした。カワセミ男に先を越されないために。幸い、そこでは、絶版のSFの文庫本を一冊発見することができた。これも、出すところへ出せば定価の十倍にはなる本だ。迷わず買って、次の店へ走った。
 歩道を駆けていると、肩からかけたデイパックが揺れて痛かったが、そんなことに構ってはいられなかった。このあたりは古本屋の密集地だ。どこで再会してもおかしくはない。その前に、自分の欲しい本は全てチェックしておかなければならない。
 だが、おれたちは早くも、次の店でもう一度顔を合わせることになった。
 向こうも、先回りしてきたのだった。
 こちらに向かって一瞥を投げると、カワセミ男は、ハードカバーの棚にぴったりと張りついた。おれは文庫本の棚へまわり、素早く探求本をチェックし始めた。文庫本の棚の端には、さきほど見つけたのと同じシリーズのSF文庫があった。SFミステリとして名高い古典的名作作品だ。嬉々として手を伸ばした瞬間、横からさっと手が伸びてきて、その本をかっさらった。
 かっとなって相手の顔を見ると、それは紛れもなくカワセミ男だった。相手も嫌そうな顔をしていた。故意におれの邪魔をしたわけではなく、偶然、先に奪う形になったことに、少々困惑しているような表情だった。
「すみませんが」と、おれは、思い切って言ってみた。「それは、ぼくの買いたい本なのです。何とか譲って貰えませんか」
「それは、困る」男は、ゆっくりと答えた。一語一語、噛み締めるような喋り方だった。「先に手をつけた以上、買う買わないは、ぼくの自由だ。申し訳ないけど、譲るわけにはゆかない」
「見つけたのは、こちらのほうが先です」
「そんなことは証明不能だろう」
「何だとぉ?!」
「ちょっと、お客さん」レジの前に座っていた、古本屋のおやじが声をあげた。「店の中で喧嘩されちゃ迷惑だね。やるなら、外でやってくれないか?」
 これは喧嘩じゃない、ただの奪い合いだ! と言ってやりたかったが、騒ぎを大きくしたくなかったので、おれは、
「外で待っている。値段の交渉をしたいから」
 とカワセミ男に告げて、一足先に店を出た。
 銀杏並木の下でしばらく待ったが、カワセミ男は出てこなかった。悠々と店内を物色し続けるばかりで、ちらりともこちらを見ようとしなかった。
 どうやら、こちらが金額を上乗せしても手放す気はないらしい。本気で待っている自分が、だんだん、阿呆のように思えてきた。腸が煮えくり返るような気分を噛み締めながら、それでもおれは、あと一分、あと一分とねばって、木枯らしが吹く道路でカワセミ男を待ち続けた。
 彼はKingfisher――まさに、あのデイパックの上に縫いつけられた鳥のような男だ、とおれは思った。樹上から水中の魚に狙いを定め、一直線に飛び込んで、巨大な嘴で獲物をかっさらってゆく、カワセミのような男。
 携帯電話の着信音が鳴った。かけてきたのは、安斎さんだった。
《喜べ、幸田くん。新月版『赤砂の都市』を見つけた人がいるぞ》
「本当ですか?!」
 嫌な気分がいっぺんに吹き飛んだ。「どこにあったんです?」
《おれの知り合いが『エビス古書倶楽部』で見かけたそうだ。ショーケースの中に展示してあったらしい》
「『エビス』ですか。ちょっと値が張りそうですね」
《うん。まあ、どうしても折り合いがつかないようなら、あそこのオヤジに、結末部分を朗読させるって手もあるがな。もっとも、タダでは読んでくれんだろうがね。とにかく、一度、店に行って交渉してくれないか。カジさんは、電話では取引に応じない人だから》
「幾らぐらい用意すればいいんです」
《値札がまだついていなかったそうだから、下手に交渉すると、ふっかけられるかもしれんが……。まあ、八十万を越えることはないだろう》
「いきなり言われても、そんなには用意できませんよ」
《君に用意しろとは言わんよ。明日、うちへ資金を取りに来て、それから店へまわってくれ。カジさんは、今日『エビス』にいないんだ。『Toy Show』に、レア物のフィギュア・セットを持ち込んで出店中だ》
「会場で捕まえられませんかね」
《無理だろうな。あの人はマーケットに出た時には、知り合いと一緒に、あちこち飛び回っているから》
「わかりました。じゃあ、明日の午前中、そちらへうかがいます」
《頼んだぞ》
「はい」

トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ