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室井先生の書斎(後編)

4〜5

桓崎由梨

(4)

《エビス古書倶楽部》は、大阪のミナミ――難波・戎橋筋の近くにある店だ。本来は、絶版ミステリや絶版SF、有名漫画家の初版本などを扱っているのだが、その他、映画のパンフレットやポスター、アニメ関係のムック本、カード類やフィギュアまで、その時々の流行物全般を取り扱っている。本棚と玩具箱を一緒くたにしたような店で、店内の照明も明るく、見ているだけでもそれなりに楽しい。
 店主の鍛原かじはらさんは、おれより十歳年上の中年男性だ。安斎さんや同業者達の間では「カジさん」の呼び名で通っている。まだ若いのに、形の良い頭には一本の髪の毛もない。剃っているのではない。生えてこないのだ。
 おれが店に入ると、カジさんは会計カウンターの後ろで、アルバイトの青年と一緒に、段ボール箱を開けているところだった。茶色い箱の側面には、有名菓子メーカーのロゴマークと、玩具付き菓子類の名前が大きく印刷されている。
 カジさんはおれを見つけると、
「おう、久しぶりやないか」
「こんにちは。どうです、売れてますか」
「さっぱりやな。何か買うていってくれんか」
「値段によりますよ。こちらもねぇ」
 おれは、ショーケースの中をちらりと見た。赤っぽい表紙のハードカバーが、京極夏彦のサイン色紙の隣に置かれている。間違いない。新月版『赤砂の都市』だ。
 値札は、今日もついていない。
 いきなり訊ねることはせず、おれは、何気なく店内の古本を見て回った。おもだった棚にはほとんど入れ替わりがなかった。カジさんはどうやって暮らしているのだろうと、ひとごとながら気になった。ここは古本屋なのに、チョコレートのオマケを完揃いで売ったり、限定版のフィギュアにプレミアをつけて売るほうが今は儲かるのだろうか。裏側へまわると、絶版SF本の棚の前で、ハヤカワの銀背を鋭い目つきで凝視している中年男性と出会った。値段の高さが気になるのか、それとも探しているものがなくて、それでも諦めきれずに立ち尽くしているのだろうか。
 男の背後をそっと通り抜け、会計カウンターへ戻った。カウンターでは、アルバイトの青年がスナック菓子のオマケ・フィギュアを一つづつ開封し、シリーズの一覧表と照らし合わせているところだった。
 カジさんは値札を作りながら、嬉しそうに呟いていた。「このインコは可愛いな。カエルも、本物みたいやなぁ」
 おれは声をかけた。「鍛原さん、このショーケースの中の本なんですが」
「どれ? 水木しげるの初版本?」
「いや、そうじゃなくて、『赤砂の都市』です」
「君、室井龍星なんか読んでるんか」
「昔からのファンですよ。全部読んでるわけじゃないけど。これ、値札ついてませんね?」
「ああ、それなら、もう売却済み」
「へ?」
「何日か前に話がついてな、あとは、支払い待ちの状態や」
 そんなー!!
 おれは、へなへなと脱力しそうになった。恨みがましく言った。「売却済みなら、どうして、未だにショーケースに置いてるんですか」
「そうやって置いておくと、もっと高い値で買うと言い出す客がおるかもしれんからな」
「お客さん同士で、競り合わせるつもりですか」
「こっちも商売やからな。高く売れるに越したことはない」カジさんはそう言って、にやりと笑った。
 その時、店の扉が開いて、デイパックを担いだ背の高い男が入ってきた。カウンターのほうを見て、ちょっと頭をさげる。「こんにちは。お金、持ってきました」
「おう」と声をあげると、カジさんは、おれのほうへ向き直った。「幸田君、このお客さんがそれを買うてくれた人や。最近若い奴の間では、室井龍星なんかが流行っとるんか?」
 おれは客の顔を見た途端、あっと声をあげた。向こうも声をあげて飛びすさった。おれたちは同時に叫んでいた。
「カワセミ男!」
「あんたは、あの時の……!」
 おれたちは無言で睨み合った。
 先に口を開いたのは、カワセミ男のほうだった。
「……代金は消費税込みで四十万。それでよかったですよね、鍛原さん?」
「四十二万!」と、おれは叫んだ。「こちらは外税方式で払います。それでどうですかっ」
 カジさんは「ふーん」と言って笑った。そしておもむろに、本心とは微妙に違う言い方で言葉を続けた。
「幸田君。いくら顔馴染みやというても、一旦、他の客と話がついてる商品を、わしの一存であんたに譲るわけにはいかん。商売は信用第一や。筋は通さんとなぁ」
「では、四十三万では?」
「……」
「四十五万だったらどうですか、鍛原さん?」
 カジさんは、唸り声をあげながら、わざとらしく天井をふり仰いだ。くそっ、このタヌキおやじめ。もう一声かけようとした時、カワセミ男が、カジさんの前へ札束を叩きつけた。
「馬鹿ばかしい。ここはオークション会場じゃないんだ。代金は払いました。本は貰ってゆきますよ」
「ちょっと待った!」と、おれは大声をあげた。「今、新しい取引が成立しつつあるところなんだ。邪魔をしないでくれないか」
「おれは、札びらさえ切ればどんな本でも手に入ると思っている蒐集家が嫌いだ」カワセミ男はぴしゃりと言った。「金で全てが解決するなら、誰が毎日のように古書店を巡り歩く? 古本探しの醍醐味は、いかにして他人よりも早く本を発見するかにかかっているんだ。今おまえがやってるのは、最低のやり方だ」
「まぁまぁまぁ」と、カジさんが割り込んだ。「二人ともそう興奮せんと。新月版が欲しいってことは、あんたたち二人とも、結末部分を読むのが目的なんだろう? だったら、買ったほうが買えなかったほうに、そこだけコピーしてやったらええやないか。まあ、コピー代ぐらいは負担させて」
「お断りですね」と、カワセミ男は言い捨てた。「コピーなんか取ったら本が中割れして傷んでしまう。こんな奴のために貴重な本を傷つけるわけにはゆきませんよ」
「なんだとぉっ!」
 カジさんが大声で制したが、おれたちは、もう次の瞬間には揉み合いになっていた。つかみ合いが殴り合いになりかけた時、はずみで、カワセミ男の左手がカウンターの上を薙いだ。『赤砂の都市』は勢いよくはじき飛ばされ、床の上へ滑り落ちた。と同時に、おれは突き飛ばされた勢いでよろめき、利き足を大きく右へ踏み出していた。そして、おれのスニーカーは、床の上の『赤砂の都市』を、しっかりと踏みつけてしまっていた。
「うわあああっ!」
 カワセミ男が叫び声をあげて床にはいつくばった。おれの右足を凄まじい勢いで払いのけ、両手で本を拾い上げた。頬の赤味が徐々に増してゆく。『赤砂の都市』の表紙には、スニーカーの裏の畝々とした模様が、くっきりと刻み込まれていた。
 店中に怒号が響いた。「何てことをしてくれたんだ。これは人に渡すために探していた本なんだぞ。せっかく美品で見つけたのに、どうしてくれる?!」
「うっ……」
 おれはさすがに言葉に詰まった。頭上から、カワセミ男の発する罵詈雑言が雨あられと降ってきた。それだけでは気がおさまらないのか、カワセミ男は、おれの体を掴んで激しく揺さぶり始めた。カジさんが間に入って引き離してくれなかったら、おれは本当に殺されていたかもしれない。
「ええかげんにせんかっ」と、カジさんが一喝した。「ここは酔っぱらいの溜まり場やない。他の客の迷惑になることはやめてくれ」
「でも、これじゃ気持ちがおさまりません」と、カワセミ男はまくし立てた。「それともこうなった以上、本の代金を値引きして貰えるのかな。鍛原さん、この人は、あなたの知り合いなんでしょう。責任とって貰えませんか。五万円ぐらいキャッシュバックしてくれたら、考えてみてもいいですよ」
 カジさんの表情からたちまち血の気が引いた。「なんちゅうことを言うんじゃ」
 全くその通りだ。このタヌキおやじに現金払い戻しを要求するなんて、カワセミ男は根性が座っている。
「ちょっと待ってくれ」
 おれは、襟元の乱れを直しながら言った。「……わかった。悪かった。申し訳ない。謝って済むことじゃないが、お詫びはきちんとするよ。おれの知ってる古本屋のオヤジが本の修復技術を持っているから、タダで修復して貰えるようにかけあってみよう。勿論、腕前は保証する。それで、何とか勘弁して貰えないか?」
 カワセミ男は、一瞬、虚を突かれたような表情になった。が、すぐに元の表情に戻って、「――まさか、騙して取り上げるつもりじゃないだろうな」
「だったら、修復には、あんたも立ち会えばいい。ただし、時間がかかるだろうから、帰るのは遅くなるけどね」
「遅くなるのは構わない。おれは車だから」
「じゃあ、ちょっと待っててくれ」
 おれは携帯電話で安斎さんに連絡を入れた。手早く事情を説明した。
 安斎さんは電話の向こうで言った。
《現物を見ないと正確には答えられないが、その程度なら、何とかなりそうな気がするな》
「簡単な作業なんですか?」
《まあな》
「室井先生でも、できるでしょうか?」
《多分な。おれが側についていれば、まず間違いは起こるまい。――ああ、何も言わなくてもわかってるよ。君は、先生と本が接触する機会を作りたいんだろう? 修理代をタダにしてやるから、読ませてくれとか何とか》
「さすがですねぇ」
《君が考えつく程度のことなんか誰にだってわかるさ。そっちこそ、悪意にとられないように気をつけて行動するんだぞ》

 おれは、カジさんに店内を騒がせたことを詫びると、カワセミ男を連れて《エビス古書倶楽部》を出た。
 名前を知らないのは話しにくいので、おれはまず自分から名乗り、それからカワセミ男に本名を訊ねた。彼は工藤と名乗った。
 工藤が駐車場に置いていたオデッセイに乗り込むと、おれは《しおり書房》の位置を道路地図で教えた。すると工藤は、
「《しおり書房》なら知ってるよ。前にも行ったことがあるから」
「じゃあ、店主の安斎さんとも知り合いなのか?」
「いや、個人的なつきあいはないよ。全集を一度買ったことがあるぐらいだな」
 《しおり書房》に着くと、奥の畳の間で、安斎さんと室井先生が待っていた。卓袱台の上には作業用の白い和紙が敷かれ、修復のための道具一式が並んでいた。工藤が足跡付きの『赤砂の都市』を差し出すと安斎さんは、
「ああ、これぐらいなら大丈夫、すぐに綺麗にできるよ」と答えた。
 作業を見学させて貰っていいでしょうか、と、おれが訊ねると、安斎さんはそれも承知してくれた。おれたちは卓袱台の隣に座って、安斎さんと、室井先生の手元を見守った。
「無理に擦ったりしないで、そのまま持ってきて貰えたのが良かったね」
 室井先生はそう言いながら、まず、表面の土埃を丁寧に払い落とした。それから柔らかな布に書籍専用の液体クリーナーを含ませ、足跡のついた箇所を丁寧に拭っていった。本の紙質を痛めないで汚れだけとる特殊な液だ。慌てず、余分な力を入れず、ゆっくりと汚れを落としてゆく。四十年前に発刊された本は、新刊本とは比べるべくもなく古びていたが、二人は、我が子を撫でるように、それを大切に扱った。
 最初は不安げな表情をしていた工藤も、次第に、深い尊敬の念のこもった目で室井先生と安斎さんの仕事ぶりを見つめるようになった。だが、目の前にいるのが、本物の室井龍星だということまでは、さすがに気づいていないようだった。
 作業が終わった時、工藤の怒りはすっかり解け、冷静な人物の顔が戻っていた。
「ありがとうございます、本当に助かりました」
「いや、これも仕事のうちだからね」と、室井先生が言った。「こちらこそ迷惑をかけたようで申し訳ない。約束通り、修理代はこちら持ちにしておこう。そのかわり、ちょっと、お願い事を聞いて貰ってもいいかな」
「何でしょうか」
「君が見ている前でいいからね、この本の結末部分だけを、ちょっと、読ませて欲しいんだ。ぼくはこの作品を途中までしか知らなくて、長い間、最後にどうなるのか、ずっと気になっていたんだ。そんなにかからないと思うから、少しだけ時間をくれないかな」
「その程度のことでしたら、どうぞ遠慮なく。ぼくは、ここで待っていますから」
「すまないね。ありがとう」
 室井先生は、修復が終わったばかりの『赤砂の都市』を手に取った。感慨深げに表紙を見る。それからページを繰って自分の筆による部分を飛ばし、新たに書き加えられた部分を読み始めた。おれは何となく緊張してしまい、それにつられて、工藤も真剣な面もちで先生の手元を凝視した。張りつめた空気を崩したのは、トラ猫のジェイムズの鳴き声だった。ジェイムズは「にやぁ」と鳴いて工藤の側へ寄ってゆくと、ブルージーンズの裾を激しくひっかき始めた。
「おや、気に入られたね」
 安斎さんが、にやりと笑って言った。「そいつはおれに似てきまぐれなんだ。自分から見たことのない客に寄ってゆくのは珍しいな」
「まるっきり見たことのない客でもないんでしょう?」と、おれは言った。「何度かこの店へ来ているそうですよ」
「ははあ。そういえば、そのバッグのカワセミには見覚えがあるな。君は以前うちで、乱歩全集の完揃いを買っていったことがあるんじゃないか?」
「そうです。よく覚えてらっしゃいますね」
「守備範囲はミステリー? 室井龍星の本はどうして集めてるの。古典SFにも興味があるのかい」
「室井龍星の本は、人から頼まれて集めているんです。ぼく自身は、復刻された数冊しか読んでいません。新月版は、ぼくが、プレゼントとして人に渡すために買ったものです」
「あげるって、こんな高価な本を?」
「いろいろお世話になった方なんです」
「でも、何十万もする代物だよ。プレゼントにするには、少々、値が張りすぎてやしないかい」
「もう高齢の方ですし、病気で身体を悪くされていますので――。一日でも早く買ってあげたかったんです」
 安斎さんは腕組みをして俯いていたが、ふと顔をあげて工藤に訊ねた。「もし間違っていたら申し訳ないんだが、君の知人というのは、もしかしたら、野村新月本人じゃないかね?」
 えっ!! と、おれが大声をあげたのを、安斎さんは穏やかに制した。
 工藤も目を丸くしていた。「どうしてわかったんです?」
 安斎さんは答えた。「新月版『赤砂の都市』の件で、おれは水原藤雄先生と何度か連絡を取り合っている。それで最近、他からもこの本に関する問い合わせが入ったことを聞かされた。その人物は野村新月の知り合いだと名乗り、彼のために新月版を探しているのだと答えた――。その話を、ちょっと思い出したものでね」
「仰る通りです。ぼくは新月先生のために、新月版『赤砂の都市』を探していたんです。水原先生のところへ電話をかけたのもぼくです。理由を説明すると、少し長くなりますが……」
 安斎さんがぜひ聞きたいと言うと、工藤は、少しづつ事情を語り始めた。室井先生も読む手を休め、話に耳を傾けた。

 工藤は少し前まで、虫垂炎で市民病院に入院していたのだという。腹膜炎を併発して大変だったそうだが、幸い、大事には至らなかった。だが、入院生活の退屈さにはまいってしまった。そこで自宅から大量の未読本を取り寄せ、毎日のように読むようになった。
 彼の病室は大部屋で、野村新月とはそこで知り合ったという。だが、最初、工藤はその人物を新月とは知らなかった。「新月」というのはペンネームだし、野村という姓もありふれている。枕元の名札に書かれた「野村行雄」という文字を見ても、そんなことは想像もしなかった。工藤は、新月の本名を知らなかったのだ。
 新月は、工藤の右隣のベッドに横たわっていた。肝臓と膵臓を悪くしており、七十歳という年齢を勘定に入れても、ひどく痩せ衰えていた。工藤の目から見ても、明日何があってもおかしくないような様子だった。だが、新月は工藤が古い時代の空想小説を読んでいるのを見ると強い興味を示し、自分から声をかけてきた。その時工藤が読んでいたのは、室井龍星の長編小説の復刻版だった。
『……室井龍星とは懐かしいね。今の若い人でも、そんな本を読むのかい』
『他の人のことは知りませんけど、ぼくは好きですよ。ほんとはミステリーのほうが好きなんだけど、室井龍星の作品は、冒険小説の一種だと思って読んでます』
『でも、今の小説と比べると、ずいぶん古くさいだろう?』
『最近は、こういう作品が結構ウケたりするんですよ。レトロ・フューチャーっていうのかな。古くさいところも含めて、何か、懐かしい感じで落ち着くんですよね』
 新月は、何とも嬉しそうに表情を綻ばせた。それ以降、工藤に向かって、いろんな本の話をするようになった。昔の作品だけでなく、最近のベストセラーまで完璧に読み込んでいる彼の読書量に工藤は驚嘆した。自分と同じ本の虫を見つけた喜びに震え、退院までの間、毎日のように本の話をした。その勢いは同室の患者が「二人の会話がうるさいので部屋をかえてくれ」と、詰め所の看護婦に訴えるほどに、熱のこもったものだった。
 退院は、無論のこと、工藤のほうが先だった。新月は、口にこそ出さなかったがひどく淋しげで、工藤は病室を去る時、またお見舞いにきますからと言わずにはいられなかった。
 一階の受付で入院費を支払っていた時、工藤は、新月の妻と出会った。何度か顔は合わせていたが、二人きりで話をするのは初めてだった。工藤が退院の挨拶がてら、新月の本好きには勉強させられたと言うと彼女は、
「うちの人は本のことしか頭にないような人ですからね。何でも若い頃は作家の真似事なんかしていたそうですけど、あんまり聞かない名前ですから、きっと、たいした作家じゃなかったんでしょうねぇ」
「何ていう筆名だったんです」
「新月っていうそうですよ。野村新月。不景気そうな名前でしょう。『満月』のほうがよかったのにねぇ」
 そう言って老齢の奥さんはコロコロと笑ったのだが、工藤のほうは仰天した。名前しか知らないとはいえ、野村新月は、室井龍星の関連書には必ずといっていいほど名前の出てくる作家だ。もし自分の知っている野村氏が新月本人だとしたら、自分は、大変な人と話をしていたことになる。
 工藤は冷や汗を流した。病室での楽しい会話の中で、工藤は何度も、室井龍星や野村新月に関して、しゃあしゃあと批判的なことを口にしていたからだ。
 挨拶もそこそこに、工藤は病室へ飛んで帰った。そして、奥さんの言ったことが本当だったと知った。
 だが、新月は、自分が作家扱いされることをひどく嫌ったという。ただの本好きの老人でいい、そのつもりでこれからもつき合って欲しい、と強く要求した。工藤は、それでも何となく落ち着かなかった。そこで、何か望みがあったら遠慮なく言って下さい、と告げた。それは、彼流の礼儀の払い方だった。
 すると、新月は答えた。
「そうだな。じゃあ、お言葉に甘えて、室井先生の本を可能な限り集めて貰うことにしようかな。いや、新刊でなくていいんだ。わたしは金持ちじゃない。だから古本で充分だ。なるべく古い時代のものを――原本に近い形で収録されている本を、少しづつ、集めて貰えないかな?」
 現在、新月が室井龍星の本を一冊も持っていないことを、工藤は不思議に思った。が、人は様々な理由から蔵書を手放す。立ち入ったことは聞かず、彼はその日から室井龍星の本を探し始めた。
 工藤の持っていたシリーズは、復刻版なので代表的な二・三作しか収録されていない。だから、探さねばならない本はたくさんあった。工藤は、新しい本を見つけるたびに病院を訪れ、それを新月に手渡した。新月は室井本と再会するたびに目を細めて喜び、次に工藤が訪れるまでに、何度も読み返しているようだった。
 室井龍星の本を探しているうちに、工藤は『赤砂の都市』に、《新月版》と呼ばれるヴァージョンがあることを知った。だが、その話題を出すと、新月は笑いながら、
「その本だけは探さなくていいよ。あれは今思い出しても恥ずかしい、若気の至りのようなものだから」
 と言うだけだった。本人がそう言うのなら、工藤も納得すべきだった。が、彼はあえて逆らった。新月版の内容を知る人から「そう悪くもない作品だ、むしろ、もっと評価されてもいいだろうな」などと聞かされると、黙って見過ごす気にはなれなかった。知り合いのツテを通してコピーを読ませて貰ってからは、その確信をますます強めた。当時の評論家や読者の評判が何だ。自分はこれをひとつの作品として面白く思う。それを新月にわかって貰いたい。そう考えて、《新月版》を、強引にプレゼントすることに決めたのだ。

「多分、新月先生は、もう長くはもたないと思います」
 と、工藤は言った。
「ずいぶん高齢ですし、病気も進行しておられるようですから。だからぼくは、一日も早く、この本を先生に渡したかったのです。ここに一人、この本を面白がった人間が確かにいるのだということを伝えて、安心して貰いたいのです」
 室井先生が言った。
「……工藤くん。わたしを、その病院へ連れていってくれないか。わたしも新月先生に会ってみたい。この本を読んだ感想を、ぜひともお伝えしたいのだ」
 工藤は、少し躊躇するような様子を見せた。当然だろう。今日会ったばかりの赤の他人を重病人に面会させるなんて、普通だったら許しはしない。
 すると室井先生は、たたみかけた。「新月先生に、君の他にもファンがいることを知って貰いたいんだ。手間はかけさせないよ」
「……わかりました。では、日にちと時間を決めましょう。短い時間なら、都合がつくと思います」

 数日後、室井先生は、工藤と一緒に病院へ行った。
 おれと安斎さんは留守番を命じられていた。室井先生が、「ぼくは、新月くんとふたりきりで会いたいんだ。これは、ぼくたち二人だけの問題だからね」と言ったからだ。
 新月先生は病状が悪化し、個室へ移っていた。
 工藤は病室で両者を二人きりにし、自分は廊下で待つことにした。だから、直接には二人の会話を聞かなかった。後日、彼は新月先生の口から、感謝の言葉と共にその時の様子を知らされたという。その話と、後に、室井先生がおれたちに話してくれたことを総合すると、以下のような感じになる。
 工藤から室井先生を紹介された時、新月先生は、それが誰なのか全くわからなかったという。工藤が病室を出たあとも、新月先生は、ぼんやりと室井先生を見つめているだけだった。そんな彼に、室井先生は自分から正体を明かした。
「ぼくですよ、新月くん。室井です。お互い、歳をとったものですね。君がぼくよりも年上になってしまうなんて、時間旅行というのは、何て酷いものなんだろうね」
 普通の人間なら、この言葉だけでは何のことやらさっぱりわからなかっただろう。だが、空想小説を書いていただけあって、新月先生の直観力は、瞬時に鮮やかな働き方をした。理屈抜きで、目の前にいる人物が、本物の室井龍星であることを理解したのだ。
 新月先生の瞳に、たちまち強い光が戻ってきた。
「先生……。室井先生なんですか。本当に先生なんですか。まさか、こんなところでお会いすることになるとは……」
「ああ、そのまま、そのまま。無理に起きなくてもいいから、そのまま聞いてくれ」
 だが、新月先生は上半身を起こし、背に枕をあてがってもたれかかった。「いや大丈夫。もう治りました」
「相変わらず律儀だねえ。仕事のほうは、今、どうしてるの」
「何とか書くことで食っています。ほとんど無名に近いのですが、仕事は、まだあります」
「……今でも、野村新月の名前で?」
「いいえ。先生が亡くなってからは複数の筆名を使い分けて――あ、いや、本人を前にして『亡くなった』は変ですね」
「いいよ。どうせぼくはこの時代では、空気みたいな、幽霊みたいな存在なんだから。でも、別名義というのは、また、どうして?」
「『野村新月』という名前は、空想小説を書く時だけに使おうと思って、置いてあるんです。結局、その名前を使う機会は、もうなさそうなんですけどね。別名義になってからは、いろんなものを書きましたよ。中間小説、ミステリー、エッセイやら書評やら、文章と名のつくものは何でも請け負いました。ホラーや官能小説なんかも手がけましたよ。あれは描写の勉強になりますな。純文学に挑戦したこともありました。ごく短い作品を、二・三度、載せて貰ったきりですがね。おかしなものでね。空想小説だけを書いていた頃には、それが世界で一番美しくて面白いジャンルだと思っていたんですが、毛色の違うものを書き始めると、どうにもそちらも面白い。わたしは気が多いんでしょうな。だから大成しなかったんでしょうな。それでも振り返ってみれば、わたしなりに、充実した人生だったような気がします」
「そうか。だったらぼくが、これ以上言うことは何もなさそうだね」
 新月先生は、にっこりと微笑んだ。それは本来ならば、室井先生が決して見る筈のなかった、老成した弟子の姿だった。
 室井先生は、紙袋の中から、新月版『赤砂の都市』を抜き出して言った。
「新月くん。ぼくが今日ここへ来たのは、これのためです」
 新月先生の顔から純真な笑みが消え失せた。代わりに、ほろ苦いものが混じった笑みが広がる。新月先生は掛け布団のうえで、両方の掌を、せわしく握ったり開いたりした。
「最後まで、読ませて貰いました」
 と、室井先生は言った。「まさか、こんな終わり方にしているとは思わなかった。思い切ったことをしたものですね」
「お恥ずかしいことです」新月先生は、片手で頭をかきながら言った。「若い頃の過ちのようなものです。本当に、申し訳ありません」
「いや、ぼくは感謝しているんです。この締めくくり方では、ぼくの読者の中には納得しない人もいたことでしょう。でも、これは紛れもなく、ぼくの中にある傾向のひとつです。それを大切に結晶させてくれた君には、やはり、お礼を言うべきでしょうね。ありがとう、新月くん。でも、これじゃあ、酷評も出ただろうね」
「ええ、まあ、多少は」
 二人は顔を見合わせた。そして、静かに笑い合った。
 新月先生は続けた。
「わたしはこの本を、誰よりも先生に読んで頂きたいと思っていました。誉められなくても、自分の未熟さを怒られることになっても、それでも、もう一度、先生とお会いしたかったのです。だって先生は、あんなに急に、いなくなってしまったじゃありませんか。もう一度、先生の声を聞きたかった。わたしの頭の中では、あの楽しかった日々が、いつも繰り返し響いていた。先生の声と姿が消えなかった。それがわたしに、一生、小説を書き続けさせたのです」
「そんなことを聞かされると、何だか、罪作りなことをしたような気になるなぁ」
「いえ、気にしないで下さい。本物の先生と、わたしの中にある先生とは、似て異なるものですから」
 新月先生は、穏やかな表情に戻って続けた。「ずっと、もう一度お会いしたいと思っていました。それがこんな形で叶うなんて、人生、捨てたもんではありませんなぁ……」
 それから二人は、長い間、思い出話にふけった。おかげで工藤は、病室の外で何時間も待たされることになった。けれども、中で交わされているに違いないあたたかい会話のことを思うと、長い待ち時間が、少しも苦にならなかったという。
 それに、本好きの彼は、常に鞄の中に未読本を入れていたので、時間潰しは、いくらでもできたのだ。

(5)

「それでは、ぼくは、そろそろ元の時代へ戻ります」
 病院から《しおり書房》へ戻り、おれたちに一部始終を聞かせてくれると、室井先生は帰り支度を始めた。
「自分のためにも新月くんのためにも、しなければならない仕事が山積みです。当分、書斎にこもりきりですな」
「また、いつでも遊びに来て下さい」と、安斎さんは言った。「この書庫は、わたしと幸田くんしか知らない、秘密の場所ですから」
「ええ、また寄らせて貰いますよ。仕事の合間にね」
 先生がそのまま帰りそうになったので、おれは慌てて声をかけた。「先生。あのう、あの約束は……」
「約束? 何か、約束してたっけ?」
「はい。ぼくが新月版を見つけ出したら、先生の構想していた『赤砂の都市』の結末を、こっそり教えて頂けるという約束でした。あれは、どうなったんでしょうか」
「ああ、すっかり忘れてた。ごめん、ごめん」
 悪気はなかったのだろうが、室井先生は、本当に忘れていたようだった。先生がもう一度座布団に腰をおろしたので、おれは、MDプレイヤーを録音モードにした。
 室井先生は話し始めた。
「ぼくが構想していた結末は、火星人たちが星を渡る船を完成させて、若い世代を、地球へ送り出すという終わり方だ。太古の地球へ辿り着いた火星人たちは、文明の曙を迎えたばかりの地球人たちと交流することになる。火星人たちは神とも悪魔とも呼ばれ、時には地球人と結婚しながら、世界中へ拡散してゆく。そこから、地球の神話と伝説に絡めた、新しい物語を始めるつもりだった。この物語は火星だけで終わるんじゃなくて、舞台を地球へ移して、大河シリーズになる予定だったんだよ」
「じゃあ、新月先生の書いた結末とは、随分、隔たりがあったんですね」
「うん。だが、新月くんが書いたものは、あれはあれで、ぼくが考えた結末の一つなんだ」
「どういうことですか」
「新月くんの書いた結末は、ぼくがデビュー直後に書いたものの、ボツをくらって未発表になっていた作品のラストを流用したものだ。実は、その原稿が『赤砂の都市』のベースになっているんだが――新月くんは、ぼくの遺稿を整理していて、そいつを見つけたんだろう。彼なりに感銘を受けた部分があって、それを『赤砂の都市』の結末として利用したんだな。つまり、新月くんは、あの作品の結末を、自分の感性で創作したわけではない。室井龍星という作家の書いた過去のテキストの中から、最も相応しいと思ったものを、相応しい形で嵌め込んだだけだ。彼はあの作品に関しては、奥ゆかしくも、優秀な編集人として働いただけなんだよ」
「そんな! だったら新月先生は、どうして、そのことを皆に発表しなかったんです。先生の作品だとわかっていたら、ファンも評論家も納得したでしょうに!」
「言っているよ。言っているじゃないか。彼は、ぼくの遺稿と資料を基に結末をつけたと言ってたのだろう? 新月くんがそう言ったら、それは彼が勝手に創作したという意味ではなくて、本当に、元になるものがあったという意味なんだ。それを誤解したのは、一部の評論家と熱狂的なマニアだけだ。否定的な意見だけが一人歩きするようになったのは、全く、不運だったとしか言えないね。まあ、きちんと説明しなかった新月くんも悪いんだが――彼流の遊び心というか、ちょっとした悪戯のつもりもあったんじゃないかな。原典があることを伏せておいた時、皆がどういう反応を示すか、確かめたかったのかもしれないな」
 安斎さんが横から訊ねた。「――偉大な作家の全ては処女作に集約されている……と言いますが、新月先生も、それにならったということなんでしょうかな?」
「さて、どうだろうね。自分の気持ちを優先できれば彼は満足だったのでしょうが、世間を甘く見ていた部分があったことはやはり否めない。結果的に、彼は、負うべきものを負ったのだと思います。そこから先のことは、ぼくが口を差し挟むべき事柄ではない。……ただね、ぼく自身は、あの結末を読んでいて単純に嬉しかったんですよ。どこかにいなくなってしまった子供が、突然、元気な姿で戻ってきてくれたみたいでね」
 先生は卓袱台の上に両手をつき、ゆっくりと座布団から腰をあげた。
 おれたちは二階へあがり、異次元書庫へ入った。時空を越える扉の前で、室井先生は、もう一度礼を言った。
「今度は、ぼくの時代に遊びに来て下さい。歓迎しますよ。ぼくの時代の珍しいものを、いっぱい見せてあげます」
 おれたちは、ぜひお願いしますと答えた。扉は静かに閉まり、室井先生の姿は、向こう側に消えた。
 その直後、扉そのものに異変が現れた。書棚の背板にくっきりと刻まれていた輪郭が、徐々に溶け崩れ、扉としての形がなくなり始めたのだ。
 おれは慌てて扉に飛びついた。ノブを両手で掴み、必死になって手前へ引っぱった。だが、扉はまるで沼に沈んでゆくように、背板の中へ吸収されてゆく。ノブは濡れた魚のようにおれの掌からすり抜け、扉と共に書棚の背板へ溶け込んだ。書棚の中へ埋没してゆく扉を、おれたちは、呆然と見守るしかなかった。消える、消える。何もかも、消えてしまう――。
「行かないでくれ!」
 と、おれは叫んでいた。扉の向こうには室井先生が待っている。おれたちの訪問を楽しみにしている。扉がなくなったら、その約束が果たせない――。
 だが、扉とノブは、急速に書棚と同化していった。やがて書棚の背板から、過去の世界と繋がる通路は、完全に姿を消し去った。
 目の前が暗くなり、足元がぐらりと揺れた瞬間、安斎さんにポンと肩を叩かれて、おれは正気を取り戻した。
 おれは、安斎さんに訊かずにはいられなかった。「ぼくたちは、もう室井先生に会えないんでしょうか。永遠に……」
 安斎さんは、静かに首を横に振った。微笑みを浮かべながら、言い切った。
「あの扉は、ある日突然、この書庫に出現した。だから同じようなことがまた起こっても、決して不思議ではない。信じて待とう、幸田くん。いつかまた、ここにある書棚の一つに、もう一度、室井先生の書斎へ繋がる扉が現れるさ。そいつは必ずやってくる。やってくるに、違いないんだ――」

 室井先生が元の時代へ帰ったあと、安斎さんは、新月先生に頼んで、新月版『赤砂の都市』の結末を確認させて貰った。
 その本は、過去が書き変えられたと思われる現在では、死の直前の室井先生の遺言によって新月先生に草稿が手渡されたこと、新月先生は、その草稿を基に《新月版》の結末を仕上げたこと――が、最初のページに明記されていた。
 そして、ラストは、こんなふうになっていた。
 変異生命体を滅ぼした火星人たちは、やがて、環境に適応して火星に残ることを選んだ者と、星を渡る船で宇宙へ新天地を求める者とに分かれてゆく。彼らは双方、生き延びるために何某かの大切なものを失うことになる。環境に適応することを選択した者は火星人としての元の身体を、宇宙へ旅立つことを選んだ者は慣れ親しんだ自分たちの故郷を。だが、彼らに後悔はなかった。それが未来を掴むことなのだと納得していたからだ。旅立つ者たちは空から、見送る者たちは地上から、お互いの幸運を祈りながら去ってゆく。情感に溢れたラストシーンは、もうすでに、作者が誰であるかということを越えて感動的だった、と安斎さんは言った。
 が、実はおれたちは、このラストが元の新月版と――つまり、過去が変わる前と変わった後でどう違っているのか、今では、全く指摘することができない。この新しいと思える結末が出現した途端、おれたちは一人の例外もなく、以前持っていた新月版に関する記憶(そういうものがあったような気がするのだ)を、きれいさっぱり失ってしまったらしいからだ。
 これは、いったいどういうことなのだろう? これが、過去が書き変わるということなのか? 史実だけ見るならば、特に変化した部分はなさそうな気がする。室井龍星という作家が『赤砂の都市』の執筆途上で急逝し、野村新月が結末部をつけたし、評論家と読者の間で賛否両論が巻き起こり、野村新月の書き足した結末があったほうがいいのか無いほうがいいのか、未だに決着がつかないまま現在に至っている――。この事実のどこかに、以前と違う部分はあるのだろうか? 誰か、知っている人がいたら、教えてくれないだろうか? 過去が書き変わるには膨大なエネルギーが必要で、何かがそのために、おれたちの記憶の一部を、エネルギー源として消費してしまったということなのか?
 手元にそれを証明するものは何もない。MDの中身もからっぽだ。おれはここに、何を録音していたんだっけ?

 そんなことを考えていると、あの扉の向こうから室井先生がやってきたこと自体が、今となっては、ただの白昼夢であったようにすら思えてくるのだ。たくさんの人間がいちどきに見た、大きな白い幻。
 だが、それでもおれは確かに覚えている。丸っこい先生の顔と体、掌の分厚さ。椅子に座り、書棚の前に立ち、畳の間で本のページをめくっていた真剣な表情、軽妙でいてゆったりと響く滑らかな低い声。何よりも証拠として残った、サイン入りの先生の本。もっとも、それを誰かに見せても、本人が書いたとはとても信じて貰えないだろう。おれは迂闊にも、復刻版の新しい本に先生のサインを貰ってしまったのだ。その奥付は、当然のことながら先生の死後の日付になっている。あとで訊いたら、安斎さんもちゃんとサインを貰っていたそうだが、勿論、こちらのほうは時代を合わせて古い本にサインして貰っている。古書市場に出せば百万近くの値がつく筈だが、安斎さんは、きっと一生、この本を手放さないに違いない。
 新月先生は、その後、個室を出て大部屋へ戻った。室井先生と会ってから妙に元気を取り戻し、医者が驚くほど病状が良くなってしまったのだという。桜の花が咲く頃には退院するかもしれないという話を、おれたちは聞いた。それが、自宅で逝くための措置ではないことを、おれたちは切に祈っている。
 水原先生のところの『赤砂の都市』は、遊びに来た孫が、自分の家へ持って帰っていたことが判明した。蔵書を持ち出されたことを、水原先生は怒るべきなのか喜ぶべきなのか大いに迷ったという。資料を勝手にされるのは困るが、自分の孫が空想小説のファンになってくれることは、やはり嬉しいのだ。
 カジさんは相変わらずだ。古本よりも、フィギュアの陳列と販売に情熱を傾けている。
 工藤とは、今でも時々古本屋で出会う。スーパーマーケットに勤めている彼は、職場の配置変えで、おれの休みとかち合うことが多くなった。相変わらず、狙っている本が重なったり、百円均一のワゴンの前で睨み合ったり、百貨店の古書市で奪い合いになったりすることがあるが、以前のような拘りはもうお互いにない。
 おれたちは古本屋で会っても、これといって特に挨拶をすることはない。ましてや「ちょっと、そこでお茶でも」などと言って、世間の垢にまみれたような、ベタベタしたつき合いをすることもない。
 それでも彼は、今でも、古書店の棚の前ですれ違う際には、さりげなく通り道をあけてくれる。おれも同じようにして道を譲る。
 そうやって、心の隅で、ちょっとだけ相手のことを気にかけながら、お互いに古本探しを続けるのだ。

(了)

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