そのマスターの趣味はチョット変わっていた。店の入り口はすべて鏡張りで、深紅色の階段が地下の闇へと続いている。下りきると十九世紀の英国風の扉があり、すかし窓を通じて幽かに明かりが漏れている。意外に滑らかに動く扉を押して中に入ると、これも意外に明るい光に包まれた室内で、ただ辺りは夥しい物物で覆われ、おのずと探り足になってしまう。それも特に目的を持って集められたようでもなく、ロゼッタストーンのミニチュアの向こうに水墨画のような白夜の風景が掲げられているといった具合である。
碑伊太は既に椅子に座り思い思いの様子で時を過ごしている客人たちの顔を一人ずつさり気なく見回しながら、とても静かな曲が流れている室の中をゆっくりとカウンターへ向かった。その向こうには、椅子に座りギターの調整に余念のないマスターと思しき人物が見える。
碑伊太がカウンターの椅子に座ると、マスターは少し驚いたような仕草で顔を上げ、水とメニューを差し出した。髪は短めで良く整えられたあごひげと丸めがね。碑伊太は、ちょっと神経質そうだが紳士的な物腰に安心感を覚え、《エデンの水》を注文すると椅子を廻らせて再び客人達と、そして今来た扉を見渡した。
―此処にも居ない。
そう思うと、静かに響くホーンの音色と共に、この町にたどり着いた時のことを思い出していた。
そもそものきっかけは、友人に行方不明の「莱(らい)」を探してくれとの依頼だった。「莱」とは彼のつけたニックネームで十年ほど前から地球に輸入され始めた一種のバイオニックビーストである。もともとはプョプョした粘菌のようなものらしいが、ある方法で飼育すると望みの形態に変化し、またある程度行動パターンを教えるとはじめは模倣し、学習が進むと自由意志のように振舞うペットである。人を模倣させることは禁じられているのだが、彼は何と九年前に彼の町を襲った時空大震災の時に亡くした――正確には行方不明になった――弟の模倣をつくってしまったのだ。その時、悲しみに暮れた彼らの一家はセントラルシティに移り住み、裕福な彼らは“プョプョ”を弟を失った十二歳の兄に与えたのだ。碑伊太はセントラルポートの大学で、自分には良く分からない研究に没頭しているその友人と知り合い、当時莱らしい猫のような“プョプョ”を知った。よく友人に纏わりついて仕事の邪魔をしていたが、友人は煩がらず「我が莱」と呼んで自慢していた。事実、此処まで良好な性質に飼育された“プョプョ”は稀だったかも知れない。当時のニュースではよく出来の悪い性格になった“プョプョ”の不法投棄が問題になっていたのだ。
今年の春だった。大学の六回生になった彼はあらかた研究が終わったと言い、殆ど大学に来なくなった。碑伊太は自分の研究が忙しくあまり気にしていなかったが、六月頃、彼から頼みがあるとの連絡が入った。それが「莱」の捜索だったのである。事情を聞くと、彼は「莱」を弟にする研究に没頭し、完成しかけた頃行方不明になったらしい。かくして弟のフォトグラフとカードを託されてこの町に碑伊太は下り立った。九年前に震災に襲われた町、ポートエンターである。丁度碑伊太の研究が時空の平行と断絶に関するもので、時空大震災の今なお残る影響を観察するため、夏休みを利用して来るつもりであったが、「莱」が此処に戻っているかもしれないという友人の言葉に、あまり深く考えず引き受けた。違法の片棒を担ぐ危険性はあったが、百万クレジットは大いに魅力的でもあったから。
はじめの二、三日ぶらぶらと町を散策した後、碑伊太は時空震のポイントを測定しながら「莱」の痕跡を追い求めたがどちらも余り捗ってはいなかった。それから一週間程経ったころに立ち寄った中央ライブラリーで耳にした奇妙なカフェの噂があった。時空ドライブしているカフェ自体は珍しくないのだが、そのカフェは夕日の輝く、それも辺りが全て深紅色に染まる一瞬に現れ、無愛想なマスターが誰が聞くでもない、余り耳にしない曲を一晩中かけては朝には消えていくらしい・・・。
―そこだ。と碑伊太は直感した。
―そこにいる。(誰が?)
碑伊太は自問もせずに、その時を待った。
噂を耳にした日から降り続いていた雨があがると、碑伊太は輝く夕日の通へと足を向けた。そのカフェが現れるというポートエンターの銀河通りは、三十年前は時空ドライブの草分けポイントとして活躍した時空港の歓楽通りとして大いに栄えたらしい。今では他に多くの中継ポイントができ、また時空震後の回復が進まないこともあって、セントラルポートのような賑わいは無いが、それでも碑伊太にとっては小奇麗で落ちついた、なにか懐かしさを感じさせる一角であった。
日の入り間近の七時過ぎ、碑伊太はポートエンターの中心街から一キロほど西に外れた坂道の上に立った。そこから真っ直ぐ南に下り雑貨屋の角を左に曲がれば銀河通りである。
碑伊太が銀河通りに入ったとき下り気味の道に沿って日が沈み始めていた。通りの先に見える海のさざなみが金色と紫のしじまに染まり、通りに面した両脇の建物は、急速に暗がりを孕んだ紅色に彩られ、赤や緑のネオンの輝きが生き生きと踊りだす。
一匹の白い猫がやはり紅く染まりながら、碑伊太の左側の鉢植えを飛び越えて通の先に駆け出していった。行き交う人々の影法師は碑伊太に向かって長く伸び、猫に続くように幾つかの影が碑伊太を追い越していく。
銀河通りのどん詰まりで一際夕日が輝く時、そのキャンバスから白い水の糸がにじみ出るようにひとすじの時空境界線が垂れ下がりはじめた。見る見る白い糸は増えて行き何かの形へと収斂していく。夕日が水平線の下に沈み込み、真紅色が最後のともし火を終える頃、そのカフェは忽然と姿をあらわしていた。碑伊太は近づきながら時空量を測定し、その細部を観察した。出来たばかりの時空莢に時折吸い込まれるエネルギーの流れに乗って、何かの浮遊物が飛んでいく。吸い込まれる寸前、何かの形になったり閃光を放つものもあった。
その流れが一通り終わると、内側の淡い光を反射する鏡張りの入り口がぽっかりとあいていた。夜空は深みのある群青色に染まり、金星が鏡の端に映って金環食のように大きく輝いている。
碑伊太の前に数人がまた入っていった。
そこまで思い出がままぼんやりとしていたら、とても良い香りに、意識はカフェの店内へと戻された。目の前に、《エデンの水》が置かれ、その落ち着いた味わいは碑伊太の緊張を和らげた。
いつの間にか曲が勇壮なマーチ様のものに変わっており、まるで何かの来訪を思わせるように、カフェの中央に紫色の靄がかかりはじめていた。靄の中からきらきら輝く光点の幾つかが見え隠れしている。マーチ様のロックは「Tiger!
Tiger!」と歌いだしていた。
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