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レゾナンス

(1)

中条卓

医用機器研究所はN県の高原にあり、最新の設備と全国でも有数の広大な敷地を誇っていた。新幹線の駅までナミコを迎えに来てくれた、キクチと名乗った研究所員は、平均30キロオーバーで埃っぽい県道をすっ飛ばし、研究所の敷地に乗り入れたところでエアコンを切って窓を開け放った。途端に耳慣れない蝉の鳴き声とひんやりと乾いた風が流れ込んで来た。

「東京とは蝉の種類が違うんですね。音はかなり大きいのに、あまりうるさく感じませんもの。」

前後左右の急加速に酔いかけていたナミコがほっとして言うと、

「そうですね。僕も3年前初めてここで夏を過ごした時、そう思いましたよ。ここは真夏でも30度を越すような事は滅多にないんで、単に暑苦しく感じないだけなのかも知れませんが。」

キクチは相槌を打った。

よく手入れされた並木道を過ぎ、車はコンクリートで塗り固められた区画に接近していく。鉄条網さえないものの、二重の高いフェンスで囲まれ、いかめしい通用門のあるその一角は緑の多い構内ではいささか異様な雰囲気を醸していた。

「申し訳ありませんが、ここからは少し歩いて頂きます。車のモーターが高感度の磁気記録装置に影響してしまうんです。」

がら空きの駐車場に車を止めると、キクチはすばやく降りたって後部座席のドアを開け、ナミコに手を貸そうとした。キクチの手がナミコの指に触れそうになったとき、ナミコは思わずその手を振り払ってしまい、慌てて謝ろうとした。

「すみません。」

声を出したのはキクチの方が先だった。

「いえ、こちらこそ。」

(またやってしまった あたしはいつになったら平気になれるのだろう)

ナミコは自己嫌悪にかられて唇を噛んだ。キクチは悪びれる様子もなく、さっさとトランクからナミコの荷物を取り出し、両手に提げて歩き始めた。

(この人も海外で暮らした事があるのかしら)

全く違和感を感じさせないキクチの ladies first の挙措を見ながら、ナミコはD大学の心理学研究室に留学していた時の事をふと思いだした。小柄なナミコに合わせて、ゆっくりとした足取りでキクチは門に近づいていく。

「3週間の予定で東京からみえたミモリ・ナミコさん。宿舎に寝泊まりされるそうだけど、夜中に抜け出そうとしても大目に見てあげてください。」

キクチは門衛にナミコを紹介した後も、冗談混じりのやり取りをしばらく続けていた。門衛は頭頂部の禿げあがった人のよさそうな老人だった。

「ここは何もない所だからね、3日もいると娑婆が恋しくなりますよ。」

門衛が愛想よく声をかけてくる。

「研究といっても避暑に来たようなものですから、のんびり過ごさせて頂きます。よろしくお願いします。」

ナミコは丁寧に頭を下げた。

入り口ではIDカードと声紋によるダブルチェックを行っていて、ナミコは合成音声の指示に従ってゆっくりと三回自分の名前を繰り返した。それは幼児を相手にしているようでもあり、あるいは異教の神殿に参拝しているような奇妙な感じだった。ふと浮かんだ疑問がそのまま口をついて出る。

「もしも風邪を引いて声が出なくなったら、どうすればいいんですか?」

「鋭い質問ですね。このシステムはうちの音声認識研究所で開発したんですが、連中、最初はそんなことを考えもしなかったらしい。おととし流行ったボリビア風邪の時にはおかげで門前払いを食いましたよ。ふらふらしながら入り口まで辿り着いたっていうのに。」

キクチの口調は腹立たしげというよりも、可笑しくてならないというようだった。

「研究所に怒鳴り込んでやったらすぐにソフトを取り替えにきました。こんどの奴は声嗄れに対する自動補正機能付きってわけです。どうも怪しいとにらんだので、試しに同僚のIDカードを借りて、そいつの声色をまねてみたんです。この阿呆ときたら、」

キクチはインターホンに向かって顎をしゃくって見せた。

「…まんまと引っかかりやがって。なんのことはない、認識の精度を甘くしただけだったんです。」

ナミコは思わず声を立てて笑った。

「そんな調子ですから、まあ何の調査をされるにしてもどうか気楽に構えてやってください。ここの研究なんて大体がいい加減なんですから。」

そういうキクチの眼は、けれど笑ってはいなかった。

研究所は地上1階、地下1階建ての平べったい建物で、壁を叩くとやけに軽い音がして、木とプラスチックだけでできているかのようだった。ナミコに与えられた部屋は決して広いものではなかったが、主任研究員の部屋らしく、大きな両袖机にスチールのファイルキャビネットにウォークインクローゼット、使わない時は壁に収納できるソファーベッドに真新しい電子レンジ付き冷蔵庫、電磁調理器を備えた流し台と何でもそろっていた。机上にはデジタル放送にも対応している洒落た極薄ディスプレイが置いてあり、端末として使用していない時には時刻と天候に応じて切り替わる風景画を映し出していた。机の引出しを開けると無線キーボードを兼ねたパネル型コンピュータが入っていたが、たいがいの操作は音声で行えるということだった。ナミコは大学のみすぼらしい研究設備との落差にいささか驚かされた。

今度の仕事はここの研究所長から同級生のよしみで、ナミコが所属する心理学教室の助教授に依頼されたものだった。助教授からは非公式のアルバイトと言うことでかなりの額を前渡しで受け取っていたが、それもここの豪華な設備を見れば納得がいった。

「ナミコ(助教授は嫌いじゃないけど、名前を呼び捨てにするのは勘弁してほしい)、夏休みの予定を出していないようだけど、ひとつアルバイトをする気はないかね。」

だいぶ薄くなった髪とは対照的なふさふさした口髭をひねりながら、たまたま研究室にふたりきりになった機会に話を持ちかけられたのだった。

「どんな仕事でしょうか。」

「私の旧友から頼まれたやつでね、ある医療用検査機械が被検者に与える心理的影響を調べて欲しいというんだ。君、磁気共鳴画像ってきいたことがあるかね。」

「ひょっとしてMRIって呼ばれている検査のことでしょうか」

「そう、それそれ。なんでも大変強力な磁石を使って体内の様子を観察する装置らしいね。友人がいうには、今までこの機械を人間に使って身体的に有害な副作用があったという報告はないそうだが、なにぶんにも人間が日常生活では経験しないような強力な磁場だ。身体は何ともないにしても、万が一精神に変調を来すような作用があったとしたらおおごとだ。特に問題なのは、研究のために毎日のように磁場にさらされているスタッフの健康管理でね。」

助教授はいつかの階段教室での講義を思わせる口調で、身振り手振りを交えて喋っていた。

(人前で話すのがほんっとに好きな人なんだわ)

ナミコはいつか机に押し付けられて、いささかのけぞりながら話を聞く格好になっていた。

「依頼された仕事は被検者となったボランティアと研究スタッフの心理テストだ。といってもこれは予備的な調査で、統計的に有意なデータを出すことが目的ではない。恐らくはなんら影響なし、という結果になると思うし、向こうもそれを期待している。企業にとっては一応調査をした、というポーズが重要なんだね。だから、まあ、気楽にやってきてくれたまえ。」

ナミコの意向を聞こうともせず、こちらに口を挟む隙を与えないまま、一方的に話を決められてしまったが、これが彼のいつものスタイルだった。

(女子学生を口説く時もあんな調子なのかしら…まあ、ちょうど研究が一段落着いた所だし、お金も入るんだから)

ナミコは既に避暑地へ旅行する気分で、あれこれと持ち物を考えたのだった。

研究所員は毎日のように自ら被検者になって装置のテストを繰り返しているが、そちらはもう少しここの雰囲気に慣れてから手掛けることにして、ナミコはまず民間のボランティアから調査を始めた。研究員以外のボランティアが撮像法のテストのため被検者となったのは延べ230回で、被検者は全部で76人、その大部分が近くにある大学の学生だった。与えられた短い期間で彼らを相手にできることというと、アンケート調査くらいしかなさそうだった。夏休み中のことでもあり、回収率は期待できそうもなかったが、そのうちの一部の学生と面接してちょっとした心理テストを受けてもらえば、何とか報告書の体裁を整えることはできるだろう。ナミコは研究所のデータベースから抜き出した学生のメールアドレス宛に、大急ぎで作ったアンケートのフォームを送った。返信されたデータをここの端末でグラフ化し、結果を解析するつもりだった。

回答率は54%と思ったよりもかなり高かった。今どきの学生にとっては携帯を使った心理テストなんて日常茶飯事で、パソコン以外の機械はまったく苦手なナミコがテレビ番組を予約録画するよりもずっと気楽な作業なのだろう。もっとも、アンケートの冒頭にナミコの顔写真を入れておいたのが効を奏したのかも知れず、中にはメル友の募集広告と勘違いして顔写真と自己アピールを送ってきた男子学生もいた。

学生達の大部分は実験に参加したことを有意義で刺激的な体験と感じていた。検査後に体調の変化を訴えたものはほとんどなく、数名が軽い閉所恐怖症の傾向を示していたが、精神的な影響を自覚している者は一人もいなかった。検査が彼らに及ぼした影響がもしあったとしても、それを調べるにはもっと綿密なテストが必要だろう。まあ予想通りの結果だった。

画面をスクロールしながらアンケートの最後に入れておいた雑感(「質問、意見、感想など何でも結構ですから、思い付くままに記入してください。」)の欄をぼんやり眺めていると、ほとんどが空欄、たまに的はずれな質問や落書きめいた冗談といった中で、珍しく長い文章が目についた。

「僕は通算5回被検者になりましたが、一番最後に検査を受けた時になんとも言いようのない奇妙な体験をしました。検査と関係があるのかどうか自分にもよくわからないのですが、できれば直接会ってお話ししたいと思います。」

そして携帯の番号。これはどうだろう。単なる「お話し」目当ての口実だろうか。あるいはこの手のアンケート調査につきものの、手の込んだいたずらかも知れない。指定された番号にかけてみたら、会員制のSMクラブにつながった、なんて話もある。でも、せっかくだからアンケートの解析が終わったら連絡をとってみようか。ナミコは学生の名前と番号を自分の携帯に打ち込んだ。

「NMR現象そのものは結構昔から知られていたんです。」

装置の概略を説明して欲しいというナミコの頼みに応じて、キクチは先日所内を案内してくれた時とはうって変わった真面目くさった口調で話し始めた。コーヒーの飲みさしが入った紙コップやコピーした論文の山を押しやって机の上を空け、直径30センチほどの透明なプラスチックの円筒が載った黒い箱を引っ張り出してきてパソコンとつなぐ。

「水素原子を例にとると説明しやすいんですが、水素原子というのは一個の陽子の周りを一個の電子がぐるぐると回っていますよね。」

キクチが専用のペンでタブレットに何かを書き込むと、さっきの円筒の中に、青いビー玉に楊子を刺して作った独楽のような格好の水素原子の模型が現れ、ゆっくりと回転を始めた。ホログラムを使った立体映像だ。

「電子の流れすなわち電流ですから、一個の水素原子はそのまま一個の電磁石と見なすことができます。普通の状態では体内の無数の水素原子はまったくバラバラに勝手な方向を向いている。」

ペンを指揮棒のように構えてタブレットをクリックする。合図に従って青い独楽は一気に増殖して円筒を満たし、それぞれ思い思いの速さで回転し始めた。無重力状態の宇宙船内でばらまいたように、独楽は横向きだったり、逆さになったり、勝手な方向を向いている。ひとつひとつの独楽は本物さながら、軸を振りながら回転するのだった。

「まあ、きれい。」

「手を入れてごらんなさい、手のひらを上に向けて。大丈夫、噛みつきゃしません。」

言われるままにナミコが円筒に手を入れると、ペンに操られた独楽のひとつがナミコの掌に飛び乗ってぐるぐると回った。

「ところがここに強力な磁場をかけてやると、この独楽が一斉に同じ方向を向くわけです。まあ、実際には話はもう少し複雑なんですがね。」

「これ以上難しくなるんですの?」

振り向いたナミコにうなずき返すとキクチは再びタブレットに呪文を書き込み、全部の独楽がナミコの掌の上で回転するように画像を縮小した。やがてナミコの掌を挟むように、赤と黒に塗り分けられたオモチャのような馬蹄形の磁石が現れ、しばらくすると沢山あった独楽が融け合って、ひとつの大きな独楽になり、掌の上に直立した。

「今度はこいつの周りに、ある共鳴周波数で回転する電磁波をかけてやります。」

パラボラアンテナを備えたミニチュアの人工衛星が現れ、円筒の縁に沿って回り始めた。独楽の回転軸が人工衛星の動きに釣られるように次第に傾き、横倒しになったかと思うと、ついにはひっくり返ってナミコの手の甲から半分飛び出した。ナミコは説明の内容よりも、キクチが操る3次元コンピュータ・グラフィックスに眼を奪われていた。次の瞬間、人工衛星がかき消すように消滅した。

「電波を切ってやると、水素原子はまた元の状態に戻って、その時にラジオ波をだすんです。」

独楽の中心からピンクの光の輪が次々と波紋のように広がった。

「このラジオ信号を解析して画像にしてやると、体内の水素原子の分布やその化学的な状態についての情報が得られるというわけです。紙芝居はこれでおしまい。」

最後の光輪がスクリーンの縁にあたって消えた時、ナミコは思わずため息を漏らした。

「この映像はキクチさんがお作りになったんですか。」

「ええ、まあ、暇にまかせて。音楽がないのが残念ですが。」

「まるで映像作家ですね。どんな音楽をおつけになりたいんですの。」

「そうですね。シンセサイザーでは月並みなので、バッハのオルガン組曲なんかどうでしょう。」

「そうねえ…バッハでは少し重たすぎませんか。私としてはバレエ音楽の方が合いそうな気がします。」

出しゃばり過ぎかと思ったがキクチは別に気を悪くしたふうもなく、真剣にナミコの提案を検討しているようだった。

閑散とした学生食堂で、洗い晒しのジーンズに汚れてはいないがくたびれきったTシャツを着た学生は、紙コップのジュースに口をつけようともせず、挨拶もそこそこに話し始めた。

「よく事故とか病気で死にかけた時なんかに、ふっと魂が自分の身体を抜け出して、気が付くと空中から自分を見おろしている、っていうでしょう。」

「幽体離脱とかアストラル体投影とか呼ばれている現象ね。それが検査の最中に起きたの?」

「ええ。初めは何がどうなったんだかわからなかったんです。気が付いたら機械の外に立っていて、ああ、もう終わったんだと思って、すると、いつの間にか操作室にいたんです。後で考えてみると、ドアを開けた覚えがないんですけど。とにかく、操作室に入ってみると、まだ先生がこちらに背を向けて座っていて、モニターを見ているんです。そのモニターを覗いてみたら、僕が台の上に横になっていたんです。」

「先生」というのは機械を操作していたキクチのことらしかった。たしか医師免許は持っていると言っていたし、白衣を着ていれば医者に見えないこともない。

「どうして自分だとわかったの?」
「機械の中に半分以上隠れていたから、顔が見えたわけじゃありません。でも、その時は間違いなくあれは自分だ、って思ったんです。」

ナミコの方をろくに見もしないで、学生は淡々と話し続ける。

「声をあげようとしたけど全然声が出なくて、その時振り向いた先生と眼があったんです。先生は僕に気づいたようでした。顔色がさっと変わったんです。それでようやく僕もこれはえらい事だぞって思って、そう思った途端、すうっと足の方から元に戻ったんです。眼を開けると検査が終わるところでした。」

「夢を見ていたのじゃない?」

「そうかも知れません。少なくとも、その時はそう思いました。機械から引っ張り出されて寝台から起き上がった時も先生の様子に変わったところはなかったし、友人に話しても誰もまともに取り合ってくれないので、それっきり忘れていたんです。でも、今度のアンケートに答えているうちに、ひとつだけ腑に落ちないことがあるのを思いだしたんです。」

学生はいったん口をつぐむと、ようやくジュースに手を伸ばした。コップはびっしりと汗をかいている。

「身体から抜け出して操作室で先生の後ろ姿を見ている時、先生の白衣の衿がめくれているのに気が付きました。検査の前には向かい合って話したのでそれは見えなかったんです。検査を終えて謝礼を受け取り、歩き出してからふと振り返ると、検査室に戻る先生の後ろ姿が見えました。」

「衿が見えたのね。」

「ええ。白衣の衿がさっき見たとおりにめくれていたんです。」

ふたりはしばらく無言で向かい合っていた。

大学から戻ったナミコは部屋の窓際でタバコをくゆらせながら思案にふけった。まじめそうな子だったし、話を終えたときには胸のつかえを下ろしてほっとしたような様子でもあった。秘かに測定した瞳孔反応も、学生が嘘をついているのではないことを示している。からかうつもりじゃなさそうだ。でも話の内容があんまり荒唐無稽じゃない。彼が幽体離脱の証拠と信じてる、例の白衣の衿だって根拠というには薄弱よねえ。deja vu でした、で片づけてしまえるもの。そもそも予想していた心理的影響からはかけ離れすぎていて、報告書に記入すべきかどうかも決めかねた。記憶力の一時的な減退とか被暗示性の亢進というのならともかく、よりによって超常現象とは…

冷房が少し効き過ぎだ。3本目のタバコに火をつけ、ナミコは窓を開け放った。研究所に着いた時と変わらぬ蝉の鳴き声が流れ込んで来たが、夏も盛りを過ぎた今、声はいささかヒステリックで苛だたしかった。

「面接調査はどうですか。何か収穫がありました?」

検査室を覗くとキクチが声を掛けてきた。

「実はあんまりまともな報告が書けそうにないんです。こうなったらここのスタッフの方々の心理テストをさせて戴くほかないみたい。」

「テストですか。ナミコさんのお願いとあらば喜んで志願しますが… どうです、交換条件といっては何ですが、正常な成人女性のサンプルとしてデータを提供してもらえませんか。」

「ええ、でも、どこを撮すんですか。」

キクチはにやりと笑った。

「胸部か骨盤といいたいところですが、頭で勘弁してあげましょう。」

「困ったわ。中身のないのがばれてしまう。だってうんと感度の良い検査なんでしょう。」

ナミコのうろたえ方はいつも冷静そうな彼女に似つかわしくはなかった。キクチは意外そうにナミコを見つめながら宥めるように言った。

「大丈夫、普通に生活している人なら異常が見つかることなんてまずありませんよ。何もあなたの過去を暴こうというわけじゃない。」

キクチは装置のコンソールに向かって声を掛けた。

「OK、じゃあ検査を始めようか。」

「リョウカイシマシタ。カンジャノナマエトIDナンバーヲニュウリョクシテクダサイ。」

合成音声が答える。目を丸くしているナミコにキクチは片目をつぶって見せた。

「これも音声研究所の作品でしてね、ルーチンの検査ならほとんどキーボードを叩かずに済ませられます。」

「患者、ミモリ・ナミコ。ID、099、ハイフン、0731。」

キクチは一語一語区切るようにゆっくりと発音しながら、機械に検査の指示を与えた。

「頭の撮影だけだから、検査衣に着替えてもらう必要はないでしょう。えーと、念のためお聞きしますが、心臓ペースメーカーや人工弁、動脈瘤のクリップが体内に入っているということはありませんね。骨折や手術の既往は?」

ナミコは首を横に振り続けた。

「時計やボールペン、電卓にキャッシュカード、そういったものはこちらのカゴに入れておいてください。髪にはヘアピンとか着けてないでしょうね。アイシャドウもいけませんよ。あ、そのブローチははずしたほうがいいかも知れない。裏の留金が鉄製だから。」

「機械に張り付いてしまうんですね。」

「ええ、張り付いたが最後、二度と取れなくなります。と言うのは冗談で、まさか外れることはないとは思いますが、多少引っ張られますからね。ブラウスが伸びてしまうかも知れない。」

「本当に強力な磁石なんですね。」

「ええ、液体ヘリウムをふんだんに使った国内で最も強力な超伝導磁石ですから。」

誇らしげにキクチは答え、銅箔の電磁シールドを張った重いドアを開ける。検査室内には絶えずコンプレッサの音が響いていた。

「そうだ、ちょっと手品をお見せしましょう。」

キクチは傍らの棚から鉄道線路そっくりの、長さ50センチメートルほどのレールを取り上げた。

「これは単なるアルミのレールです。従って磁石にくっつくこともない。」

キクチは寝台の足元の方にそのレールを立てると少し傾け、手を離した。レールはすぐに倒れると寝台のクッションに当たって鈍い音を立てる。

「ところがお立会い。何と磁石の中心部では重力が弱められてしまう。」

キクチは寝台を機械の中へ滑り込ませ、今度はレールを寝台の頭の部分、すなわち機械の中心部に立ててみせる。磁場の中心を示す光のラインがくっきりとレールに描かれた。手を離すとアルミのレールは水に沈むようにゆっくりと倒れるのだった。

「重力うんぬんというのはもちろん冗談です。電気を通す材料が磁場を横切るときには磁場から力を受けるんです。フレミングのどっちかの手の法則ですよ。どっちかは忘れましたが。自分で手を添えてやってごらんなさい。」

言われるままにレールを傾けようとしてナミコは驚いた。レールは非常に粘っこい液体の中にあるように、ゆっくりとしか動かないのだ。抵抗に逆らってレールを倒すのには相当な力が必要だった。ナミコは光の線に沿って自分の手を動かしてみた。不導体である手には何の力も加わらなかったが、光の中を動いている手は、なんだかそこだけ別世界に移動してしまったような奇妙な感じがした。

超伝導磁石が液体ヘリウムを使っていると聞いたせいかも知れなかったが、MRI撮影装置の寝台に横たわると、巨大な冷凍庫に収納されるような印象を受けた。油圧機構で上下する寝台に横たわり、頭を固定されて機械の中に飲み込まれていく。

(小型ガス室といったところね。閉所恐怖症の発作を起こす被検者が出るのも無理ないわ。もうじきここにヘリウムガスが充満して、あたしはこのまま冷凍保存されて未来へ送られるんだわ。21世紀の女心理学者のサンプルとして。それとも天井から降りて来る刃で切断されて解剖の教科書用の材料にされるのかも知れない。)

ナミコの夢想は目の前に差し出されたイアホーンで破られた。旅客機の機内で使うようなチューブ式のイアホーンだった。

「検査の間、何をおかけしましょうか。ご希望があればなるべくそれに沿うように致しますが。」

キクチが声を掛けてきた。ナミコはしばらく考えて答えた。

「ジムノペディかブクステフーデのパッサカリアがおありでしたら、検査の時間に合わせてどちらでも。」

「ウィ・マドモアゼル。かしこまりました。」

足音が遠ざかり、ドアがしまると注文通りサティのピアノ曲が流れてきた。

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