早朝の並木道はノースリーブでは涼しすぎるくらいだった。前の晩特に早く寝たというのではなかったが、どうも最近は早くに目が覚めてしまう。頭の芯にかすかに残っていた疲労も消え、小鳥のさえずりを聞きながら歩くうちに気分が晴れてきた。研究所の門を出て砂利道をしばらく上ると、手入れの行き届いた杉林があり、そこここに点在する瀟洒な別荘が、木の間に見え隠れしていた。素足に引っかけたサンダル越しに、湿った土の感触が伝わってくる。林間の空気は立ち並ぶ木々や下草、菌類や昆虫の秘かな息吹に満ちて濃密だった。
(芳醇なワインってとこね。都会では味わえないごちそうだわ。)
遠くで早くもつくつく法師が鳴いていた。声のする方へ向かうにつれて道がほんのり明るくなり、やがて木立が途切れて円形の空き地へ出た。雑草が生い茂った空き地は早くも強い日差しに照らされていて、ナミコは薄闇に慣れた眼を眩しそうに瞬いた。ひらひらとこちらへ向かって来るものの気配に手をかざすと、見たことのない蝶だった。翅を広げた大きさはナミコの掌ほどもあり、黒で縁取られた瑠璃色の翅には葉脈のような細かい透かし模様が入っている。
(もっと近くへ来てよく見せてちょうだい。)
リクエストに応えるように飛ぶ方向を変え、蝶は目の前の丈高い草に止まって翅を広げた。
(きれい…)
ナミコは思わず蝶に向かって手を差し伸べた。翅に指が触れかけたその時、ナミコの目の前で蝶がふたつに分裂した。
(え?)
あっけにとられて見守るナミコの眼前に、まるでストロボで撮った分解写真のように、飛び立つ蝶の姿が何重にも重なった。蝶の姿は増え続け、気がつくと空き地は無数の蝶に埋め尽くされていた。それは半ば透き通った残像で、向かい側の林が蝶の翅越しにはっきり見えるのだった。夏の間中この空き地を飛び回るすべての蝶の軌跡が、今この瞬間に重ね映しになっているようだった。幻の蝶は何度かナミコの身体をすり抜けた。
(deja vu? とも違う、これはまるで…そう、時間の長いトンネルを覗いているような感覚だわ。)
互いに重なりながら飛び回る無数の蝶の一匹がまっすぐに顔をめがけて飛んできたのでナミコはあっと声を上げ、眼を閉じた。恐る恐る眼を開けた時にはもう幻影は消え去っていて、しらじらと陽に輝く空き地に蝶の姿はなかった。冷や汗が腋を流れ落ちた。ナミコは眩暈に耐えながら、さっきまで蝶がとまっていた丈の高い草を見つめていた。
林を抜けて研究所に帰る道すがら、ナミコは空き地での出来事の意味を考え続けた。
(あれは何だったのだろう。あの無数の蝶のイメージ、あれは決して幻覚ではなかった。誰かが、例えばキクチが得意のコンピュータ・グラフィックスで作ったイメージをテレパシーで送ってよこした? でも、何のために? それともあたしは、ある種の超常現象を経験したのだろうか?)
対照のため行ったESPテストでは、ナミコ自身も平均以上のスコアを獲得していた。
(たった一度MRスキャナーの中に入っただけで、超能力が芽生えるなんてことがあるのかしら。第一、あれは一体どんなカテゴリーに入る現象なのだろう?)
蝶の幻影に囲まれている間、ナミコは眩暈に似た奇妙な感覚を味わっていた。時間がかげろうのようにたゆたいながら、ひとところに停滞しているような感覚。日常とは別の異質な時間、あるいは時間のない世界に迷い込んだような…
ナミコはふと頭に浮かんだ「夢の時間」という言葉の出典を思い出そうと努めた。
いつもは立ち寄ってしばらく世間話をするナミコが、今朝は何かに気を取られたように足早に通り過ぎようとするのを見て、門衛が後ろから呼び止めた。
「ミモリさん、郵便が届いてますよ」
詰め所に戻ってきたナミコに、門衛は机の引き出しから取り出した分厚い茶封筒を差し出した。
「あとで部屋に届けようと思ってたんだけど、ついでだから、持って行ってくれませんか。重たくて悪いけど」
「あ、はい」
挨拶もせずに通り過ぎようとしたのがきまり悪くて、ナミコは頬を染めながら封筒を受け取った。表書きは教室の事務員の見慣れた筆跡だった。どうやら出張中に届いたナミコ宛の郵便物をまとめて送ってよこしたものらしかった。やけに重たいのは心理学関係の雑誌が何冊か入っているためらしかったが、封筒を脇に抱えて歩きながら、ナミコはかすかな胸騒ぎを覚えていた。
(雑誌なんか、夏休み明けに取りに行けば間に合うのに、なんだってわざわざ送ってよこしたんだろう。暑中見舞いはほとんど電子メールでこちらに届いているし)
自室に戻るとナミコは開け放してあった窓を閉め、空調のスイッチを入れた。机の上に封筒の中身をぶちまけ、椅子に足を組んでタバコに火をつける。見慣れた学術雑誌に混じって、USレターサイズの水色の封筒が目に留まった。差出人は米国の国立刑務所病院の医師だった。細身のタバコを唇の端にくわえたまま、備え付けの電動レターオープナーで封を切った。文章はおよそ簡潔で事務的なものだったが、内容を把握するのにはひどく時間がかかった。
手紙は連続強姦事件の犯人として服役中の**が後天性免疫不全症候群の診断で現在同病院に入院し治療中であることを述べ、事件の被害者全員に再度血液検査を受けるよう勧告していた。経済的な理由等により検査を自国で受ける事が困難な場合には、所定の用紙に記入して申し込めば、無料で検査を受けられるともあり、折り畳んだ申込用紙が封筒からこぼれ落ちた。
エイズ? ナミコはしばらく息を止めた。犯人の血液検査は陰性だったはずだし、自分の検査結果も陰性だったのに、なぜ今頃? 何度も読み返してようやくわかったのはこういうことだった:逮捕直後に行った検査は確かに陰性だったが、犯人はその後刑務所への護送中に逃亡して行方をくらまし、再逮捕されたときには完全にエイズを発症していた。エイズに感染してから検査が陽性に出るまでにはタイムラグがあり、その間にも他人に感染させる可能性はあるので、事件の関係者に再検を勧めているということらしかった。そういえば検査を受ける時に、あとでもう一度調べた方がいいと言われたような気もするが、忌まわしい記憶を追い払おうと努めているうちに失念してしまったのだった。
中世の火刑法廷で有罪宣告を受けたような気持ちだった。身に覚えのない罪で告発され、拷問に苦しみ抜いたあげくに死刑を宣告される… やりきれない気分だったが、加害者に対する怒りの念は不思議と湧かなかった。男の顔は今となってもやはり思い出せなかった。ただ、がりがりに痩せこけて何本もの管でベッドに縛りつけられている瀕死の病人のイメージだけが鮮明に脳裏に浮かんできた。
(遠感?)
ナミコはそのあまりの生々しさにたじろいだ。男は殺風景な個室に閉じこめられ、薄れかけた意識の中でただ死を待ち望んでいた。看護婦がノックもせずにドアを開けて入っていく、点滴の瓶を抱えて。瓶の中身は麻薬らしかった。点滴を繋ぎ換える看護婦の動作を見ながら、ナミコはいつかとめどなく涙を流していた。骨をむしばむ腫瘍の痛みから一時解放され、安堵のぼやけた微笑を浮かべる男が、ナミコには哀れでならなかった。
* *
無菌治療室の前にS氏が立っている。キクチの姿に気づくと彼はゆっくりと振り返り、右手を挙げて見せる。相変わらず痩せてはいるが、その動作はしっかりとしていて隙がなかった。キクチは昔何十人もの若い衆を顎で使っていたという彼の話を思い出していた。
「Sさん…」
とうとうその部屋から出られたんですね、と言おうとしてキクチは言葉を呑んだ。両手に包帯を巻いてはいるが、S氏は点滴の瓶を下げていない。数日前にキクチが手ずから挿入した胃管も、導尿用のカテーテルもきれいさっぱりなくなっていた。ゆうべ吐血して何度も胃を洗浄したのに、とキクチはいぶかしんだ。突然、何事かが了解された。
「ああ、もう要らなくなったんですね」
S氏は無言でうなずいて見せる。なぜか時間が気になって腕時計を見ようとしたところで目が醒めた。
枕元の時計は午前2時45分を指していた。ほとんど同時にベルが鳴り響く。2度目のベルを待たずにキクチは受話器を取った。
「キクチ先生でいらっしゃいますか。2-1病棟ですけれども、たった今、Sさんが呼吸停止、心停止しました。今、当直の先生と代わります。」
全身を襲う脱力感と戦いながら、キクチは当直医の報告を聞いた。
S氏はキクチが大学に在籍していた3年間にわたってずっと主治医を務めた患者だった。発熱と体重減少を訴えて外来を受診した彼を診察し、頸部のリンパ節が累々と腫れているのを発見して、すぐに入院させたのもキクチだった。生検の結果は、日本人には比較的まれなホジキン病―リンパ節を冒す悪性腫瘍だった。腹部の超音波検査、クエン酸ガリウムを用いた腫瘍シンチグラフィー、胸部と腹部のCT検査、リンパ管造影、いずれの検査でも頸部以外にリンパ節の腫脹は発見されず、臨床病期はIb期と判定された。放射線の単独治療で90%以上の5年生存率が得られるはずだった。
「よっぽどドジを踏まない限り、必ずと言っていいほど治る病気だ。気を楽にしてやんなさい。」
調子の良い助教授に肩を叩かれながら、キクチは初めて自分一人で治療計画を立て、放射線の照射範囲と照射線量を決定した。頑健で我慢強いS氏は放射線の副作用でひどい口内炎ができたときも病院食を残さず平らげ、浅黒い顔の真ん中にややくっつき気味に並んだ眼を光らせながら、終日病院の廊下を行ったり来たりして過ごした。「ライナック焼け」と呼ばれる頸部の皮膚炎もごく軽く済み、リンパ節の腫れもすっかり引いて、やがてS氏は元気に退院した。
ところが半年後のガリウムシンチグラフィーで腹部に病変が見つかり、今度は化学療法を行うために、S氏は再び入院したのだった。キクチはこのときも彼の主治医だった。心配顔のS氏の妻に向かって、キクチは再発に対して化学療法を行った場合でも有効率は70%以上であることを説明して慰めた。
だが今度もS氏は不幸にして残り30%の側に属してしまった。一度は退院したものの、また半年ほどして、前回の入院時に放射線照射していなかった膝の裏にあるリンパ節に再発したのだ。それからは次々と腫れてくるリンパ節にそのつど放射線をかける、もぐら叩きのような姑息的治療が続いた。入院期間が次第に長くなり、入院と入院の間隔が短くなるにつれ、次第にS氏は痩せて無口になった。回診のたびに無言でこちらをじっと見つめるS氏に自らの無能ぶりを責められている気がして、キクチの心は落ちつかなかった。やがて最後の段階が来た。全身のリンパ節腫脹と高熱のため、S氏は初めて救急車の世話になって病院に運ばれて来たのだ。坂道を転げ落ちるように、S氏の容態は悪化した。化学療法の副作用により白血球が減少したS氏は感染予防のため無菌病室に収容された。薬の副作用で胃潰瘍ができると、鼻から胃管が入れられ、次いで鎖骨下の静脈から持続点滴のカテーテルが入れられた。肺炎を併発すると抗生剤の点滴が追加され、酸素マスクが装着された。濃厚赤血球液、血小板輸液、抗生剤、昇圧剤、高カロリー輸液…ベッド脇の点滴台には輸液ポンプがくくりつけられて常時4,5本の瓶がぶら下がり、尿量を正確に計るため膀胱内に留置されたカテーテルを含めて6本もの管がS氏をベッドに縛りつけた。意識が混濁しはじめて二日目の夜中に、キクチは彼の夢を見たのだった。
(あの時俺は医者の仕事に嫌気がさしたんだ。)
キクチは眠れないまま研究室のソファに横たわり、大学時代の回想にふけっていた。S氏の急変を告げる看護婦の声は今でも耳に焼きついて離れなかった。
(あの時の電話のベル… 俺は眠りながらベルの音を聞き、無意識のうちにS氏が亡くなった知らせだろうと判断して、あんな夢を作り上げたのかも知れない。)
ソファから起き上がり、飲み残しのコーヒーが入ったカップを手にすると、キクチは裸足のまま部屋を歩き回った。スピーカーからは皮肉にも「グッド・モーニング」が流れている。
(しかし、死後の意識というようなものがあるとしたなら、無菌病室のベッドから解放されたS氏の意識に感応して夢を見たということも有り得る。)
S氏の霊がこの世を去るにあたって主治医のキクチに感謝の意を表すため訪れた、などというロマンチックな解釈をする気にはなれなかった。自分が行った医療行為がどれだけS氏のためになったのか疑問だった。むしろ、何もしなかった方が良かったのではないかとさえ思えた。
(医学に絶対確実なものなどない。それなのに患者とその家族を安心させるために医者は不断に嘘をつき続け、統計を引用する。だが、あなたは90%以上の確率で助かりますという言葉がどれほど慰めになるというのだ。確率というやつがどうも俺は好きになれない。例えば、一枚のコインを放り投げて裏が出る確率と表が出る確率は共に50%で等しいことなんか、小学生でも知っている。コインを放り続けていれば、表と裏が出る相対頻度は50%に限りなく近づいて行くだろう。だが、次に出る目が表か裏かを知る事は誰にもできないのだ。平均寿命というのもそうだ。現在の俺の平均余命は多分40年以上あるだろうが、それを知ったところで、明日も俺が生きているだろうということを誰も約束してはくれない)
放射線治療学にも画像診断学にも失望して、キクチの興味は予防医学へと向きはじめた。ところが、予防医学と画像診断学との接点を探るなどという非実用的な研究テーマは根っからの臨床家である教授の気に入らず、口論の末にキクチは大学を飛び出してこの研究所に来たのだった。
(研究か。患者を診る事から逃れて、行き着いた先が超能力の実験とはね。)
ナミコの寝室を訪れたあの夜以来キクチは何度となく、自ら夢中飛行と名づけた時空連続体内の移動を試みていた。半醒半夢の状態で別の場所、別の時間へと移動するのは楽しい経験だった。どうやら時間内の移動より空間内の移動の方が概して楽なようだった。飛行とは呼んでみたものの、実際の移動はほとんど瞬間的に行われるようで、途中の景色を眺めるというわけにはいかない。しかし、近距離の移動と遠距離の移動とは、移動に要する時間こそ変わらなかったが、その難易度がかなり違っていた。すぐ近くの、自分がよく知っている場所―例えば、研究所の中庭―に行くのは簡単で、その情景を思い浮かべさえすればよかった。行く先の景色は非常に鮮明で、中庭に立つとしっとりとした夜の空気や虫の音を感じることができた。しかしながら、自分の身体の方はいささか頼りなく、夜空に手を透かすと掌越しにはぼんやりと星明かりが見えたし、花を折ったり、石を拾おうとしても半透明な指はむなしく空を掴むばかりだった。かと思うと全く見知らぬ土地への移動は難しく、まれにうまくいったとしても、分厚いガラス越しに風景をみるような感じで、その場所の音や匂いまでは感じることができなかった。それでも毎晩練習しているうちに飛行距離も次第に長くなり、東京あたりまでなら簡単に行けるようになった。旧知の友人の元をこっそりと訪ねて様子を探ったりするのは朝飯前だった。
(こりゃあ俺は優秀なスパイになれるな)
ほとんどの人はキクチがそばに立っても全く気づかなかったが、中には敏感な者もいて、夢枕に立ったと翌朝一番で電話をよこしてきたりもした。
(生霊なんてのは案外自分が気がついていないだけの超能力者なのかも知れん)
電話の件はキクチの夢中飛行が単なる夢ではなく、たとえ幻のような姿ではあっても実際に自分がその場所に何らかの形で移動していることの証拠と言えそうだった。
(マクロスコピックな不確定性原理)
ナミコとの会話の中でふと口をついて出た言葉が思い出された。そもそもこの言葉は超伝導現象の解説書に出てきた、「マクロスコピックなレベルで起きる、量子力学的な現象」という言葉に由来していた。量子力学では素粒子のある時間における位置は正確に決定できず、粒子の存在確率はある広がりを持った雲のようなものとして表される。飛行している間の自分はベッドの中と飛行の目的地というふたつの場所にその存在確率が分散して、文字どおり雲のような掴みどころのない存在になっているのかも知れなかった。この実体のなさがキクチを苛立たせた。
(何とかしてもっと自由に時空を移動できないものだろうか、希薄な幽霊としてではなく、質量を持った実体として…)
そうすれば、ナミコにも何かしてやれるはずだった。
元来キクチはESPや心理現象といったものに興味があったわけではないが、S氏の件が示しているように、超能力者としての素質は昔からあったのかも知れなかった。それは感受性が人一倍強く、しょっちゅう虫の知らせを口にしていたばかりか、自分の死期まで正確に予言した母から譲り受けたものかも知れなかった。毎日実験に携わっている研究グループの中で自分だけが飛び抜けて高い能力を持つに至ったのもそのせいらしかったが、それだけではなく、ナミコと出会って以来自分の能力が加速度的に発達していることにキクチは気づいていた。ナミコに対して最初から抱いていた好意は、今では互いの運命的な絆に対する確信に変わっていた。この先自分の能力がどこまで発達するのか、その能力を使って何ができるのかは見当もつかなかったが、キクチはその力を何よりもまずナミコのために役立てたかった。それは同情からというよりも、自分の運命に対する挑戦のような気がするのだった。
超能力者の歴史は栄光と賞賛よりもむしろ、悲惨と嘲笑に満ちている。奇妙なことに、超能力者がその能力を社会のため、あるいは自分のためにでさえも役立て得た事例はまれだった。予言者がいい例だ。生前、自らの非業の死を予言し、その通りの運命を従容として受け入れた男の話は、なるほど美談かも知れないが、一歩間違えれば単なる笑い話に堕してしまう。サイコメトリーを犯罪捜査に利用しようという試みも、はかばかしい成果を挙げてはいない。ただ一つ例外があるとしたら、それは時間旅行だった。時間旅行者はある意味では全能の存在だ。誰も彼を出し抜いたり、打ち負かすことはできない。だが、歴史上そのようなヒーローは現れたことがない。となると、以前ナミコとの議論で言及したように、可能性はふたつにひとつだろう。時間旅行は全く不可能なのか、あるいは、確定されていない事件のみに干渉しうるという条件つきで可能なのか?
(彼女のMRI検査の画像は光ディスクに保存されている。まずあれを消してしまおう)
自分が冗談のつもりで言った時間旅行の理論を、キクチは試してみる気になっていた。何の物理的証拠も残していない事件は改変可能なはずだった。
* *
「米国のFDA―まあ、日本の厚労省みたいなもんです―は2.0テスラ以上の超高磁場MRIの臨床応用には許可を与えていません。磁場強度が高くなればなるほど共鳴周波数も大きくなる、すなわち、外から照射するラジオ波の周波数も大きくしなければいけないんです。ところが、電磁波というのは周波数が大きくなるほど、言い替えれば波長が短くなるほど生体に対する透過性が低くなるんです。光を考えて見ればわかると思いますが、青い光は波長が短く、したがって散乱して空の色になる。波長の長い赤外線はガラス越しでも室内に入ってきて畳を暖める。一方紫外線は皮膚で吸収されてしまうかわりにエネルギーが高いから皮膚癌の原因になる」
研究室を訪れたナミコから磁場強度について質問されたキクチは、さっきからぐるぐると部屋の中を歩き回りながら解説を続けていた。今日の彼はいつになく興奮気味で早口だった。
「周波数の大きなラジオ波を身体の中心部まで届かせるには送信機の出力を上げなければいけない。どんどん上げていく、するとどうなります?」
ナミコは大きな眼をみはったまま、首を横に振った。
「…電子レンジですよ。人間調理器の出来上がり、というわけです。まあ、丸焼けになるわけじゃないが、眼球のように血流が少なくて水ばかり多い組織は過熱してしまう可能性がある。陰嚢内の温度が上昇するという報告もあります。おっと、これは余談ですね」
「つまりその、あまり強い磁石を使うと検査自体が危険なものになってしまうんですね」
「そういう勧告があったんで、日本でも超々高磁場MRIの研究をやっているのはここと筑波しかない。でも動物実験を繰り返しているうちに、言われているほどの危険はないことがわかってきました。米国のデータは危険性を強調しすぎている傾向さえあります。そこで僕は考えた。FDAは単に体温が上がる以外の、何か予期しない副作用が発見されたのを隠蔽するために、わざわざデータをねつ造したのではないか?」
芝居がかった口調とは裏腹に、キクチの表情は真剣だった。
「では、予期せぬ副作用とは一体なんだったのか。どう思います?」
キクチは一息入れると、一気に核心に迫ってきた。
「それはあなたが一番よくご存知のはずだ。つまり、高次の精神機能に対する影響です。」
ナミコはとぼけて見せた。
「そんな報告があるんですか? 私、医学は苦手なので…」
「僕だって心理学はまったくの素人ですよ。でも、ESPカードが何を調べるためのものか、ぐらいは誰にでもわかる。テストを受けた職員はみんなあなたの調査結果を知りたがっていますよ。もちろん、僕も含めてね」
「あれはほんのお遊びで追加しただけです。それに結論も何も、サンプルが少なすぎてお話になりませんわ」
ナミコは慎重に言葉を選びながら答えた。
「そうですか。ま、いずれにしても、FDAが超高磁場MRIの臨床応用を渋っている理由はまずそこらへんにあると僕は踏んでます。今ごろは軍の研究所あたりに研究開発の中心が移っているんじゃないでしょうか。あなただって上からの命令で来ているわけでしょう? 実は防衛庁から派遣された美人スパイっていう可能性だってある。どうです、図星でしょう?」
ナミコは思わずむきになって反論した。
「まさか、そんな。わかっていらっしゃるくせに」
言ってしまってから、ナミコははっと口に手を当てた。
「ということはつまり、あなたにはもうおわかりだということですな。合言葉はESP、ですね」
キクチはにやりと笑ってみせた。
「まあ、そんなことはどうでもいい事です。僕が知りたいのは、超高磁場あるいはラジオ波のどちらか、あるいは両方が大脳に作用するとして、その作用部位はどこかという事です。僕は大脳生理学者ではないから、超能力の発現機序には興味もなければ語る資格もない。ただ、いちおう僕も研究者のはしくれですから、超能力がどこから湧いて出てくるのかには興味がある。もしかしたら、発生源を画像として捕らえられるかも知れないじゃないですか」
キクチはようやく言葉を切り、ナミコに向かい合った回転式の椅子に掛けると、毛臑をむき出しにして足を組んだ。ナミコはキクチが自ら「超能力」という言葉を2度も口に出したことに気づいていたが、それよりも超能力はどこから来るのかというキクチの質問に気を引かれた。それは数日来ナミコ自身が調べ、また考えていたことだった。ナミコは灰皿に置いた吸い差しのタバコを見つめながら話し始めた。
「そうですね、例えばテレパシーのような能力は太古の人間には普通に見られたのではないかという意見があります。動物にも類似の現象が見られる点、いわゆる超能力者の多くが超能力以外の面では未熟で不安定なパーソナリティーを示すことが多い点などから考えて、超能力を一種の退行現象ととらえるわけです。」
「先祖返りってわけですね。」
「そう。となると超能力の源は発生学的に古い脳なのではないかという議論が出てきます。間脳とか視床下部といった旧脳に属する部分ですね。」
キクチはうなずきながら独り言のように呟いた。
「ふむ。1次感覚中枢の役目は感覚情報をふるいにかけて意識にのぼせるべき情報を選び出すことだとも言いますね。そうすると、原始人はテレパシーによるコミュニケーションを行っていたが、言葉が発達するに従ってその能力は衰えていった。けれど今でも出力の低い鉱石ラジオのように、古い脳はテレパシーを傍受し、雑音に埋もれかけたメッセージを小声で呟き続けている。ところが進化することに忙しい新皮質はそれを黙殺している…」
「新皮質による抑圧という考えは、テレパシー現象がしばしば夢の形をとって現れるという事からも裏づけられるかもしれません。覚醒時に起きる無意識からの呼びかけはいわゆる、」
「虫の知らせというやつだね。テレパシーについてはそれでいいとして、予知とかサイコメトリーといった、時間が関わってくる現象はどうだろう。僕は右脳に鍵があるのじゃないかと思っているのだけれど。例えば、」
「オーストラリアのアボリジンの間に伝わる夢の時間といったことね。確かに右脳は時間を超越した脳だという意見がありますわ。」
「アカシャ記録あるいはアラヤ識…」
「シュタイナーですね。」
「そう、それにユング。」
議論は次第に熱を帯びてきた。やがてふたりは互いに相手の言葉の先々を読んで反応していることに気づき始めた。心の中で思っていることに相手が反応し、その言葉に対して(それとも言語化される以前の思考に対して?)即座に浮かんだ印象が再び反射される。めまぐるしいスピードでやりとりされる思考は、まるでレーザー光線のようにその強度を増していくようだった。もはやその過程は止めようとしても止められなかった。
(共鳴現象?)
ふたりの脳裏に同時に言葉が浮かんだ。言葉はもはや反射を繰り返す2枚の鏡の間に閉じこめられた光のように、振動しながらふたりの間を漂っている。
(子供の頃、頭の中に右くんと左くんという二人の人格がいて、簡単には決めかねる事があると議論を始めたものだった。今にして思えば…)
(右脳と左脳の間の相互作用を自覚していた?)
(そうらしい。そんな経験って誰にもあるんじゃないかな、子供は…)
(子供は左右の脳が未分化だから、どちらも相手の存在を)(ほんの少し自分とは離れて存在する)(分身として感じているのだわ)
(分身?)
同時に我に返って、ふたりは口を噤んだ。キクチはまっすぐナミコの目を見つめている。ほんの一瞬だったが、お互いの心の間に高速の通信回線が開き、ふたりは互いに相手のことを、あたかも自分の中のもうひとつの人格のように感じていたのだった。回線が再び途絶した今では、胸に大きな穴が開いているような気がした。しかし、ナミコの中では、互いの心が通い合った瞬間の喜びが急速に共犯関係のうしろめたさに変わっていった。自分の心の中に無断で入り込んできたこの男に対して、またそれを容易に許してしまった自分に対してナミコは今では怒りさえ覚えていたが、同時にその怒りをキクチが感じとっていることも痛いほどよくわかった。
「閉回路ですね。」
ぽつりとキクチが呟いた。
「極低温に冷やされたコイルに追い込まれ、出口を絶たれて永久に流れ続けている超伝導状態の電流ですよ。悪循環といってもいい。全部のマス目に振り出しに戻ると書かれたスゴロクだ。何だって前を向こうとしないんです。心を開くことがそんなに恐いですか。」
饒舌になり過ぎていると感じながらもキクチは自分を抑えることができなかった。
「あなたの閉回路の悪い点はね、まるで超伝導磁石さながらに強力な磁気を帯びていることですよ。わかりませんか。僕はこれでも愛の告白というやつをやらかしているつもりなんですがね」
ナミコは曖昧な笑みを浮かべたが、その目はキクチを射るように見つめていた。
「もっとも、超伝導状態のままでいてくれた方がいいかも知れない。いったん常伝導状態に戻ったら最後、ものすごい熱量が発生しますからね。クエンチングという緊急事態です。いや、失礼、検査の予定があるのを忘れていました」
キクチは唐突に席を立つと、足早に操作室へ去っていった。
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