いつの間にかナミコはMR室の重いドアの前に立っていた。ハンドルに手を伸ばした瞬間、音もなくドアが内側に開き、ナミコは転げるように室内に入り込んだ。ナミコの胸ポケットからボールペンが飛び出すのと、スキャナの開口部をのぞき込んでいたキクチが振り返るのとはほとんど同時だった。クリップに矢がデザインされたナミコのボールペンは強力な磁力線に捉えられ、ペン先を弾頭にしたミサイルさながら、まっすぐキクチに向かって行く。恐怖に凍りついたキクチの心臓にボールペンが深々と突き刺さり、驚愕と苦悶の表情を浮かべながらキクチが倒れる。磁場の中心に置かれたアルミレールみたいに冷たく硬直して。白衣の胸に大輪の花が開き、花びらが床にこぼれる…
…ドア・チャイムの音で目が覚めた。キクチの部屋から戻ったあと、激しい疲労を覚えてソファに倒れ込み、そのまま寝入ってしまったようだった。部屋はもう真っ暗だった。明かりをつけ、目を瞬きながら開けたドアの向こうにキクチがいた。
「机の上にCD-ROMをお忘れでしたよ。夕食の時に渡そうと思ったんですが、下りてこられなかったので持参しました。貴重なデータが入っているといけないと思って。」
キクチはきまり悪げにケースに入ったディスクを差し出した。
「昼間は大変失礼しました。気が動転してしまって…」
「いいえ、私の方こそ。どうぞ、よかったらお入りください。今、お茶を淹れますから。」
受け取ったディスクを机の上に置き、ナミコはコーヒーメーカーのまわりで忙しそうに立ち働いている。キクチは勧められるままソファに腰を下ろし、所在なげに部屋の中を見渡した。ナミコの部屋に招かれたのは初めてだったが、夢中飛行で何度か訪れた部屋の調度には見覚えがあった。窓際のサイドテーブルに野草を活けた白磁の花瓶を見つけて、キクチは目を細めた。
「あなたが留学中持ち歩いた花瓶ですね。」
ナミコはカップにコーヒーを注ぐ手を止め、キクチに背を向けたまま口を開いた。
「そうです。でも、私、そのことを口に出しては言いませんでした。」
キクチの緊張が背中越しに伝わってきた。
「ねえ、キクチさん?」
ゆっくりと振り返るナミコの動作に釣られるように、キクチはソファから立ち上がり、一歩前に踏み出した。
「私、わからなくなってしまった。すべての記憶を共有するって、素晴らしいことなんでしょうか。それとも恐ろしいことでしょうか。1たす1は1なのかしら、それとも、もしかしたら0なのかも。」
ナミコは胸に花瓶を抱え、キクチに向かい合って立つと目の高さまで花瓶を差し上げた。祭儀を執り行う古代の巫女のように、きつく目を閉じたまま、ナミコは突然その手を放した。キクチはあっと声をあげて手を差し伸べようとしたが、足がすくんで動けなかった。音もなく落下する花瓶をキクチは凝視した。白磁の花瓶が固い研究室の床に落ちて粉々に砕ける光景を思い描いて、ナミコは身をすくめた。
…音はしなかった。ナミコはゆっくりと目をあけ、花瓶が何事もなかったかのように無事に床に着地しているのを見た。花びらが微かに揺れている。目をあげるとキクチが照れくさそうに微笑んでいた。ナミコは泣きながらキクチの胸に飛び込んでいった。
* *
ふたりは長い間抱き合ったままだった。キクチはゆっくりとナミコの髪を撫でた。タバコとコロンの混じりあった奇妙な匂いがした。唇を押し当てると、まるでむき出しの神経線維に触れられたように、ナミコの肩がびくっと震えた。キクチは一瞬手を止め、それからもっと強く髪を掴んで、ナミコの顔を上向かせた。広い額はうっすらと汗ばんでいたが、滑らかで吹き出物ひとつなかった。汗の味を舌に感じながら、キクチは背中に回した手の力を強めた。ナミコはなすがままになっていた。キクチの脳裏に、昔見たSF映画のシーンが浮かんだ。抱き合ったままの男女がゆっくりと空中に浮かび、暗い室内を漂い始める…
(あれはタルコフスキーの映画だった。タイトルは何だったろう?)
キクチの手が腰まで下りて来たとき、ナミコは初めて身じろいだ。
「だめ、いけないわ。わかっているんでしょう?」
キクチの脳裏に、タイプされた英文のイメージが浮かんだ。グロテスクにゆがんだ字面を追うまでもなく、彼はその内容を理解していた。
「わたし、感染しているかも知れない。あなたにだっていつうつるかわからないのよ。いいえ、避妊の問題なんかじゃない…」
予感が当たっていたことに対する苦々しい思いを噛みしめながら、キクチは彼だけが知っているMRIの検査結果をナミコに知られまいと躍起となった。自分でも思いがけない言葉が口をついて出た。
「結婚しよう」
ナミコはまじまじとキクチの顔を見つめた。
「突然何を言い出すの。からかわないでちょうだい。」
「本気だよ。」
「同情なんてたくさんだわ。」
ナミコは再びわっと泣きだした。
(同情なんかじゃない!)
ナミコの心を暗く塞いでいる絶望の闇と格闘しながら、キクチは声を出さずに叫んでいた。ナミコの絶望は深く垂れ込めた雲の姿をしていた。キクチはナミコを抱き抱えたまま、雲をかき分けて上昇しようと努力した。昔愛読したサン・テグジュペリの描いた、月光に煌めく雲海のイメージを思い描きながら…
ナミコは泣きつかれてそのまま眠ったようだった。腕の中の子供のような寝顔を眺めながら、キクチはぼんやりと就眠幻想にふけっていた。
(このまま空を飛んで、レイプされる前のナミコ、無垢でひたむきだったであろうナミコに会いに行けたら)
そして何とかして感染を防ぐのだ。
腕をそっと引き抜いてベッドから抜け出し、脱ぎ捨ててあったしわくちゃの白衣を引っかけると、キクチは後ろ手にそっとドアを閉めて姿を消した。
* *
キクチはMR室の制御卓に滑り込み、手早く操作盤に指を走らせ、ラジオ波の出力を最大に上げた。さらに撮像時間を通常の10倍以上に設定する。
「ケイコク。セッテイサレタ・ケンサジカンデハ・ズガイナイノ・オンドガ・キケンナレベルマデ・ジョウショウスル・カノウセイガアリマス。」
「うるさい!」
キクチはスピーカーのスイッチを切った。
撮影室のドアを開けてずかずかとスキャナに近寄り、キクチは検査用寝台に横たわった。寝台の出し入れは足元に設置された操作盤でしかできないようになっていた。手を伸ばしても操作盤には届かない。キクチは脳裏に操作パネルを思い描き、寝台移動用のボタンに想像の指を走らせた。油圧ポンプの微かな音を立てながら、寝台がスキャナに吸い込まれていく。スキャナの中心部で目の前に据え付けられた鏡を覗いたキクチは、撮影室のドアが半開きのままなのに気づいた。舌打ちして、足でドアを蹴る真似をする。ドアは勢いよく閉まり、閂が生き物のように滑って内側から撮影室を閉めきった。
スキャナはいつもの耳障りな音を立てながらチューニングを開始した。キクチは目を閉じて操作室の制御卓を透視し、念力でスタートボタンを押した。
機関銃のような連続音とともにRFパルスが照射される。眼窩の奥が次第に痛みだした。頭の芯で何かが炸裂し、視野の縁がピンク色に輝きだす。キクチの意識は真っ白な闇の中に落ちていった。
* *
胸騒ぎで目を覚まし、自室から走り通して来たナミコは息を切らしながら操作室に飛び込み、撮影室に通じるドアの重いハンドルを掴んだ。両手でハンドルを押し下げながら、力任せにドアを開けようとするが、銅板に裏打ちされたドアはびくともしない。制御卓の上の小窓から撮影室をのぞき込むと、検査台の上に横たわったキクチの足が見えた。窓ガラスの表面に貼られた磁気シールドが干渉縞をこしらえていて、ひどく見通しが悪い。固いテーブルを拳で叩くようなMRスキャナ独特の音が、スピーカーを通して聞こえてくる。
「キクチさん!」
ナミコは覗き窓を叩きながら叫んでいた。
キクチの足がぴくりと痙攣し、両手が何かを掻きむしるように動いた。空気が急に重苦しくなり、なにかが焦げるような幻臭を嗅ぎながら、ナミコはキクチが味わっている苦痛を共感していた。
突然、スピーカーからけたたましい警告音が流れだし、ディスプレイの右上に赤い表示が点滅し始めた。表示は"QUENCH"と読めた。警告音の間隔が次第に短くなり、ついに連続音になったかと思うと、研究所中にサイレンが響きわたり、テープに吹き込まれた緊急放送が流れだした。
「緊急放送、緊急放送、MR室でクエンチングが発生、検査担当技師および被験者は危険ですので直ちに室外に退去してください。繰り返します…」
室内からは、コイルから発生する熱量のため爆発的に気化したヘリウムと窒素がスキャナの排気口から吹き出す、ごうっという音が聞こえてきた。
もう一度ナミコが渾身の力を込めてハンドルを押すと、何かが向こう側ではずれる気配がして、急に抵抗がなくなった。ナミコがドアを開けて撮影室に入ろうとした刹那、警報を聞いて駆けつけた研究所員が後ろから飛びついて、ナミコを羽交い締めにした。
「あぶない、窒息してしまいますよ。」
「離してください、キクチさんが中にいるんです。」
ナミコは絶叫した。
若い所員はナミコの手を無理矢理ハンドルからもぎ取ると、立ちはだかるようにして言った。
「とにかく、あなたはここにいてください。僕が中を覗いてきますから。」
「いえ、私も行かせてください。息を止めていれば大丈夫なのでしょう?」
「…わかりました。僕の後についてきてください。でも苦しくなったら合図してくださいよ。すぐに外にでますから。決して部屋の中のガスを吸い込んではいけませんよ。いいですね。」
部屋の中はもうもうたる白煙が充満していて、スキャナの位置さえ定かではなかった。天井と床の両方に備えつけられた大型の換気扇がフル回転で煙を吸い込んでいる。ふたりは手探りでスキャナに近づいて行った。寝台はキクチが横たわっていた状態のまま、装置から半分飛び出しかけていた。
(キクチさん!)
寝台の上にキクチの姿はなかった。怪訝そうな顔の研究所員を押し退けるようにして、ナミコは寝台の上に敷かれたウレタンフォームのマットに掌を押し当ててみた。マットはじっとりと水蒸気に濡れていたが、まだ微かなぬくもりが残っていた。息が苦しくなってきた。ナミコは狂おしくあたりを見回したが、撮影室内に人の気配はなかった。スキャナから壁に向かって走る排気ダクトから、再冷却されて液化した窒素が滴っている。思わず差しだしたナミコの手を所員が掴もうとしたが間に合わず、ナミコの指先にしずくが触れた。火箸を突き立てたような痛みにナミコは我に返った。もう限界だった。喉に手を当ててみせると、所員は無言でうなずき、ナミコの手を引いてドアへと向かった。最後にもう一度振り返った時、ナミコは奇妙な事に気づいた。
寝台の上には検査中に被験者が動かないように固定するためのストラップが、誰かが横たわっていたそのままの状態で残されていたのだ。まるで縄抜けの奇術を見ているようだった。
(テレポーテーションだわ)
キクチは危険が身に迫ったのを知ってどこか安全な場所へと瞬間移動したのに違いなかった。次々と集まってくる研究所員達を眺めながら、ナミコは大きく安堵の息をついた。
* *
「…先にご報告いたしましたように、研究所スタッフおよびボランティアの学生に対してアンケート調査を行い、スタッフについてはいくつか簡単な心理テストを行いましたが、超高磁場への被曝が高次の精神機能に影響を及ぼしていることを示唆する所見は認められませんでした。閉所恐怖症の発症はありませんでした。スタッフには全般的な疲労の兆候が認められましたが、これは長時間のVDT作業の影響として説明できそうです…」
ナミコはメールを打つ手を休めて窓を開けた。ボックスに残った最後のタバコに手を伸ばしかけてやめた。もうタバコは止めよう、と思った。もともと好きでもなかったのに、何かから逃れようと強迫的に吸っていたのだ。窓からは冴えざえとした月光とともに霧を含んだ夜気が流れ込んでくる。昼間の暑さが嘘のようだった。復旧作業に追われるMR棟はまだざわついていたが、夜気の底では早くも虫が鳴きそめていた。
キクチの行方は知れなかった。クエンチングの責任を取らされるのを恐れて逃亡したというのが大方の見解だったが、液体ヘリウムを頭から浴びてこちこちに凍ったまま床に倒れ、粉みじんになって吸い出されたに違いない、などとしたり顔で意見を述べる者もいた。もちろん撮影室の扉に閂が掛かっていたことをナミコは誰にも言わなかったし、あの時一緒に撮影室に入った研究所員はストラップの件に気づいていないようだった。
教室に戻って報告書を提出したら、その足で医学部病院を訪ねて血液検査を受けよう、ナミコはそう決心していた。もしも結果が陽性だったら、ウィルスの増殖を抑える薬を飲みながら、いつとも知れぬ発症までの時間をキクチの探索に充てるつもりだった。もしも陰性だったら? その場合にも超能力の研究を続けながら、キクチを探すことになるだろう。でもどうやって? 見当もつかない。だが、今、ここにつながる時空連続体のどこかに彼がいることだけは確かだった。
(絶対に見つけてみせるわ、何年かかろうとも、いえ、繰り返し最初の出会いに戻る事になろうとも)
メールを送信し、コンピュータの電源を落としかけて、ナミコは「ジキニマイリマス ナミコ」というメッセージを、キクチの目に触れそうな電子掲示板に送りつけようと思い立った。あるいはキクチがどこかの時点で発信したメッセージが既に書き込まれているかも知れない。茫漠とした情報の海に、いったいどんな石を投じたら反応が返ってくるだろうか。ナミコは検索用のサーチエンジンに "resonance" と打ち込み、しばし目を閉じた。
了
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