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ソル・オ・テラ/ヤーヴェイ

12・DEMENTIA
13・IAN ACRE
14・SOL O TERRA
15・MARIA

Vincent Ohmor / 白田英雄訳

12・DEMENTIA

 エアはヤーヴェイのブリッジブロックに目立たないように作られていた、専用のドッキングポートに接舷した。細い腕がエアの頑強な船体をとらえ、ステーションの内部に引き込んだ。
 エルノクは、まだ彼が訪れたことのない部屋のひとつに案内され、めずらしさからきょろきょろ辺りを見回していた。
「新しい服と、整髪剤にサングラスだ。さっさと着替えるんだな。」
 そういってユウは部屋の隅の椅子に腰をおろしてしまったので、エルノクは何となくもじもじしはじめた。
「あ、あのな。ちょっと席をはずしてもらえないか?」
 ユウはげらげら笑いだした。
「恥ずかしがっている柄かよ。ユーの方ならいいのかい?」
「なんで、ユーがそこで出てくるんだよ。」
 ユウは意地悪そうな笑顔を見せた。
「どうせ、この見かけが気になるだけなんだろ。どうせ気にするなら、まがい物のオレよりも、この体の正統な持ち主の方がいいだろ。ユーは美人だしな。」
 思わずむかっときたエルノクはユウの細い手を握り締め、そのままおもいっきりひっぱりあげた。小さい体ながら体力的にエルノクに勝るユウはなおも余裕をもってにやっと笑った。
「おおっと、お手やわらかに頼むよ。それに、せまるなら相手が違うぜ。」
 さっきのエアとのちょっとしたやりとりでかえって妙な気になっていたエルノクは、その言葉にかあっときた。そして気が付いたら反射的にユウを抱き締め、『彼女』の唇をふさいでいた。
 ユウは突然のエルノクの行動にびっくりして彼を引き離すことすら忘れた。
 彼は夢中で彼女をなおもきつく抱き締めた。
 人は誰かを抱きしめることで安心感を得るという。いつもユウはエアを抱きしめることで安定を得ていた。しかし、いま、エルノクはエルノクの胸の中でそれを感じていた。
 ユウを包み込んでくれるような存在が現れたのはケン以来だ。
 ケン?
 そう、 ユー わたしのかつての婚約者……
 ユーの?
 そう、私はユー。
 いや、オレの名はユウ、ユウイチ・アヤ……
 しかし、この身を包み込む暖かい感覚にいつしかユウの頭のなかは真っ白になっていた。
 この世に生まれ変わって何十年が過ぎただろう。初めて『彼女』を心から安心させてくれる存在があらわれたのだ。『彼女』が心から甘え頼ることが許される存在が。
 二人の時間は止まり、いつしかユウも自分を包み込んでいる存在に夢中でしがみつき、目を閉じて自分からエルノクの唇を求めていた。
 その瞬間二人にはもはや他の何も必要ではなかった。ついに見付けたのだ!
「ユウ……?」
 ユウはまだぼんやりとした表情のまま唇を離した。そして互いに名残惜しそうに体を離して相手の顔を見つめあった。
「ユウ……」
 エアの心配そうな声に、ようやっと視線をエルノクから外してエアの方に向けたところで、急に自分の行為を思い出して、ユウは唇を押さえた。彼女の目には鏡を見るたびに自分を見つめ返す少女とよく似た存在が映しだされていた。
「……ユウ!」
 唐突に耳に入ってきたエアの声に、二人だけの永遠の時間は消え失せ、冷たい現実がよみがえった。
 ユウは自分がパニックにおちいっているのを、なぜか他人ごとのように冷静に感じていた。そして、前にも一度感じたことのある感覚。その正体を思い出して、ユウの偽りの支配下にある脳細胞すべてが恐怖でうち震えた。ユウがユーの肉体を得てよみがえったとき、初めてユーが『目覚め』ようとして、そのためユウの存在が単なるユーの脳に貯えられた記憶でしかすぎなくなる瞬間、つまり、ユウの存在の消滅の感覚だった。
 恐怖は辛うじてユウの存在をつなぎ止めたが、冷静にこれらを見つめていたユウの部分は、ああこれはもう駄目かなとぼんやり思っていた。
 エルノクはなぜか急に青ざめたユウを慰めようと再び手をのばしたが、彼女はそれをふりはらい、部屋からかけだした。
 それを追おうとするエルノクの前にエアが立ちふさがった。
「馬鹿!」
 思いっきりそう叫ぶと、エアはユウを追って行ってしまった。
 エルノクは部屋にひとりとり残されて、はじめて今自分が何をしたのかを悟った。
 しかし、まだ興奮からさめきらぬ頭は、何が原因でこうなったのか理由を見付けることはできなかった。のそのそとユウの用意した服に着替えながら感じたのは、ユウが彼のことを誘惑していたのではないかという思いだった。
 座る場所もなく、立ったまま何時間も待たされただろうか。部屋の入り口はすべてロックされ、彼はどこにいくこともできなかった。いい加減いらいらしかけていた彼は、部屋のドアが開く音にさっと振り返った。
 着衣の乱れを気にも止めないエアの姿に一瞬どきっとして、ユウに対する裏切りをはたらいたような気分にエルノクは罪悪感を感じた。しかし、エルノクは冷静さをいくぶん取り戻していた。それゆえ、エアがユウに対し何をしてきたかに想像がおよび、また頭に血が昇りかけた。
「警告しておいたはずだよ。」
 エアは陰欝な表情でつぶやいた。
「ユウは?」
「隣の部屋で眠っている。もしかしたら、もう目覚めないかもしれない。
 まだあんな経験をしたばっかりだっていうのに。ま、いまさらあんたを責めてもしょうがないけどね。ユーの方はなんとか無事だけど、ちょっと不安定かもしれない。」
 エアはエルノクをにらみ付けた。
「これが最後の警告だよ。今度ユウに手をだしたら、あたしはあんたを殺す。ううん、ユウが二度と目覚めなかったなら、あたしはあんたに死よりひどい苦痛を与えてやる。覚悟していなさい。」
 エルノクは少女ににらみ付けられたじろいだ。しかし、心のなかでなにか理不尽なものを感じていた。

 エアが戻ってきてから何時間かが経過した。エアはあれからずっとエルノクのことをにらみ付けていたので、彼は気が休まる暇もなかった。ドアが外からあけられ、ようやっと二人の間の緊張は和らいだ。入ってきたのはユーの方だった。
 ユーはまだ少しぼうっとした表情で微笑んだ。
「ちょっと長く寝すぎちゃったみたいね。あら、エルノク、着替えたのね。」
「ああ。」
 ユーはちょっと頭を振ってからにっこりと笑った。
「でも仕上げがまだみたいね。待たせといて悪いんだけど、髪型も変えたら?」
 エルノクが髪を整えはじめると、ユーが感心したような声をだした。
「へぇー。ソラリスにしては目の色が違うのね。これなら立派にヴェガ・アール人として通るわ。」
「そりゃありがと。」
 エルノクはぼそっとそれだけ答えた。


13・IAN ACRE

「依頼人は、というよりその代理人ね、その彼は部屋の外に待たせてあるわ。イアン・アークレという人よ。」
「イアンだって?」
 ユーは謎めいたほほえみを見せた。
「あら、お知り合い? なら話は簡単ね。それに準備もいいようね。」
 ユーがドアを開けると、入ってきたのはしかし、ひとりの老人だった。
「大長老イアン・アークレよ。」
 ひょろりとしたその老人に、エルノクはいたく驚かされた。
「イアンってこの人が? それに大長老だって? あんたイアノ・アークレ・イアンが変装してるんじゃないのか?」
 老人はちょっと当惑してユーと目を合わせたが、すぐに威厳をもって切り返した。
「きみは息子のことをご存じのようだな。情報屋のイアンはわしの息子だ。ここのユーの名にちなんで、同じ命名法をとったのだよ。」
 エルノクは老人をじろじろ見つめた。なるほど、イアンとよく似ている。老人の咳払いに、彼は我に返った。
「そんなことはどうでもいいのだ。エルノク君。わしはとある王国貴族の代理として、きみに仕事を依頼しにきたのだ。」
 エルノクは眉をしかめた。
「私にとっちゃ王国貴族相手の仕事はタブーなんですよ。」
「きみにしか頼めんのだよ。それともきみは、いたいけな赤子が暴君の手にかかろうとするのをみすみす見逃そうとでも言うのかね?」
 エルノクは頭をかいた。
「どうにも話が飲み込めないのですが。」
「詳しい話はきみが仕事を請け負うと約束するまでできない。」
 エルノクは肩をすくめてみせた。
「それじゃあ、私にこの仕事を請け負うなというのと大して変わりませんよ。それで私に何のメリットがあると?」
 老人はすました顔で言った。
「メリットの問題ではないのだよ。ひとつは名誉のため。いまひとつは、組合に対する忠誠のため。」
 どちらにしても、エルノクには関心のないようなことばかりだ。大体において、老人の態度は名誉だとか忠誠だとか話しているような感じでない。エルノクが口を開くよりも早く、ユーが彼の手を握って懇願した。
「私からもお願いするわ、エルノク。あなたはこれで昔からのしがらみを断ち切ることができるのよ。」
 一体彼女は何を知っているというのだろう。
「きみがクセルクス大公と知り合いなのはわかっておる。先の事件できみが大公に接触したこともわかっておる。」
「魔法か? それとも情報屋?」
 老人はにやりとして答えをはぐらかした。
「そしてこの仕事は、その大公本人も気に掛けていることなのだ!」
 エルノクは手近の椅子にどっかと腰掛け、二人を見上げた。
 確かに大公には返しきれないほどの借りがある。
「話を聞きましょう。」
 老人は大きく息を吐き出してほほえんだ。
「きみはエオモス・ターガスを知っているかね?」
「ええ、サキアス……殿下の弟でしょ?」
「その本人が今どうしているかは?」
「さあて。もう何年も会っていませんからねぇ。」
「墓の下だよ。」
「え?」
 老人はまたもにやりとしてみせた。イアン程でもないが、似たようなくせをもっているようだ。
「変死したんだ。おそらくオルミティア王が下手人だろ。」
 ことばのないエルノクに、老人は説明を続けた。
「伝統的なトゥンガールの王位継承権は兄弟よりもそのこどもの方が高い。エオモスが変死したのはキアサ王の死のすぐ前のことなんだよ。サキアスが王位を辞退しなかったら彼も消されていた可能性が高い。」
「結構複雑な裏がありそうですね。」
 老人はうなずいた。
「左様。きみに今回の依頼をしてきたのは、エオモス公爵の未亡人ミンリアなのだが、知っておるかね?」
 エルノクは視線をさまよわせてちょっと記憶をたどってみた。
「ミンリア、というと、そう、ミンリア・ユスタスパ、あのユスタスパス将軍の娘では……。」
「さすが王国に知り合いの多いイアムくん、いや、今はヒノモトゥスくんだったな。クセルクス大公が公爵夫人にきみのことを紹介し、大公を経由して組合のわしのもとに仕事の依頼が来たのだ。
 エオモス公爵は貴族というよりも冒険家としての血が濃い方で、生前とある辺境で宝物を発見したのだ。その宝物は、公爵の形見として夫人が現在所有しておるのだが、最近マルスの魔法使いたちの間に不穏な動きが見えての、連中がその宝物を狙っているのだ。魔法使いたちの手を恐れる毎日をすごすよりは、いっそのことその宝物を手放そうと考えて、夫人は大公と相談したのだよ。」
「それで、その宝物とは?」
 老人は上目づかいにエルノクを見ながらにやりとした。
「ソル・オ・テラだ。」


14・SOL O TERRA

「ソル・オ・テラの原石はテラの魂が封じこめられた巨大な水晶の結晶で、マルス南部の魔法都市パステヴルの神殿に祭られているそうよ。伝説によると、約五千年前のレア戦役のあとに、それまで潜伏していた魔法使いたちが集まってパステヴルをつくったとも言うわ。その原石から魔法的なものを写しとった、いわゆるソル・オ・テラといわれる、長さ一ウーンキアの結晶は全部で十あって、その内の六つは今もマルスの指導的な魔術師たちがもっているらしいけど、他の四つは銀河中に散逸してしまったとか。その内のひとつが、帝国博物館所蔵の『  ガ イ ア の 涙  ラ・ラルム・ド・ラ・ゲー』に、私のもってる『 魂 の な か の 魂ラーム・ド・ラーム』なのね。」
 ユーは組合発行の銀河大百科事典から顔をあげてエルノクの方を見た。エルノクがさっと視線をそらすのを目に止め、彼女は肩をすくめて百科事典の画面に目を戻した。
「エオモス・ターガスがフォーマルハウト第二惑星の廃墟から発見したのも、散逸した方のひとつね。彼はそれに『ル・ボ・フォマロー』と名付けたそうよ。どういう意味だかわかるかしら?」
「……。」
「すばらしきフォーマルハウトとでもいったところかな。よっぽどこの星域に惚れ込んでいたのね。」
 エルノクはこたえなかった。
 イアン・アークレは魔法使いからのガードとして、半ば強制的にユーを彼に同行させていた。ユーはヴェガ・アールの女貴族の着るようなサリを身にまとっていた。あれ以来ユウの方はまったく姿を見せておらず、エルノクは別人とわかっているだけにユーの姿に胸が重くなっていた。
 もうひとつエルノクの気に入らないのが彼らが乗っている船だった。
 この船、アル・クリフォールは彼の船というよりは組合の船といったほうがよくて、カミマ・ヒノモトゥスは名だけの存在だった。エルノクはアル・クリフォールに一歩足を踏みいれて以来、彼が命令を一切だす必要のないことに気付いた。船長のヴェガ人がすべてを心得ていた。
 ここにはエルノクの、『エルノク・カミマ・ヒノモトゥス』の影武者までもが乗っていて、エルノク本人は乗っていようがいまいが関係なかった。
「自由商の過去はあまり唐突に作ることはできないの。」
とユーは説明した。
「エルノク・カミマ・ヒノモトゥスが自由商になったのは三年前よ。これが彼の最初の大きな仕事ということになるわ。ターガスの大物貴族に対して初仕事をしようとする自由商人はいないからね。」
 頭にきたエルノクは、ひとつのことをイアン・アークレとユーに約束させた。問題の石をエリドゥから運びだすまではアル・クリフォールを使うが、途中でロンギウスクルスと接触して、エルノク・イアムとしてヤーヴェイに運ぶということを。本当だったら一秒だって我慢できないほどなのだが、エリドゥを離れるまでは仕方がなかった。
 ユーはいま部屋の端末でソル・オ・テラについての情報を拾っているところだった。
「エル、ソル・オ・テラがサキアにひかれるってこと知っていた?」
 エルノクはむすっとして首を振った。ユーはかまわず続けた。
「エルはサキアが強いからね。だからソル・オ・テラとかかわることになる。それにしても、これほど強いサキアに出会ったのは初めてだよ。きっと大昔のトゥンガール王族の血を引いているのね。家柄が良かったら絶対王になっていたでしょうに。」
「冗談じゃない。真っ平ご面だね。」
 そこには言外の意味も含まれていたのだが、ユーはそれを軽く受け流した。
「やっと答えてくれたわね。それには私も同感だわ。サキアの血統はマルスの魔術師にいきつくというから、だからきっとソル・オ・テラとの相性もいいのね。」
「ユウは?」
 ユーはくすくす笑った。
「私はサキアとは何の縁もないわ。エメルの遺伝子バンクには伝説のサキアが生まれる前のものしかないから……。だけど『彼』の方は純正の テ ラ 人 テラストリアルよ。肉体的に違っても霊的には。だから現在生きている人間では一番ソル・オ・テラとひかれあうことになるわね。」
 エルノクは首をひねった。ユウやこのユーには、ときどき真意をつかみかねることをふと洩らすくせがあった。以前ユーの生まれについて話題になったときも、結局は核心に触れる前に話をそらされてしまった。
「ユー、きみは一体何者なんだ?」
 ユーはくすっと笑った。
「ただちょっと長生きしただけの女よ。」
 エルノクは肩をすくめた。結局だんまりをながくは続けていられなかったか。
「なぜ今になって行方不明のソル・オ・テラの存在が知られたんだろう。」
 ユーは少し表情を引き締めた。
「引かれあっているのよ。現在最強のサキアを持つ男と、ラーム・ド・ラームを手なずけた魔法使いが出会ったから。組合は四つめのソル・オ・テラも発見したわ。」
「それで石を三つも集めて、組合は何をするつもりなんだ?」
「どうもしないわ。」
 しかし、エルノクはそのことばになにか裏があることを本能的に感じとっていた。


15・MARIA

 クセルクス大公を公式に訪問したのはエルノクとユーの二人だけであった。クセルクス大公は王宮にいたので、二人はもう何時間も王宮の控えの間で待たされていた。
 エルノクは部屋のなかを行ったり来たりしながらぼやいた。
「まったく人を呼びよせといてこの待遇は何だ。おいユー、本当に俺の素性のことはあいつに伝わってるのか?」
 口元に笑みを洩らしながら彼の動きを目でおっていたユーはうなずいた。
「なかなかおよびがかからないのは、彼が使者につかまって動けないからなのよ。」
「使者?」
「マルスのね。」
 とたんにエルノクは歩き回るのをぴたりとやめた。
「例の件でか。」
「それ以外には考えられないわ。」
「連中は俺たちの存在には気付いているのか?」
 ユーはちょっと神経を集中させてからこたえた。
「存在にはね。でも向こうが本格的にこちらのことを探ろうとしないかぎりは、私たちの目的までは探れないわ。それにしても」
 ユーは壁を透かしたように部屋のまわりを見渡した。
「ここは盗聴器や透視装置の見本市みたいね。そのいずれもが別々の系列のもとにつながっている。」
「魔法か? 透視か?」
「ちょっと違うわね。それよりも、ほら、迎えがようやっと来たようよ。」
 ユーの予言どおり、すぐに部屋のドアが開けられて、案内の役人が現われた。
 しかし、役人はエルノクに伝言をもってきただけだった。
「ヒノモトゥス様、イアノ・アークレ・イアン様がお会いしたいとのことなのですが。」
「イアン? ああ、わかった。
 あの狸野郎、エリドゥに来ていたのか。」
 イアンは探しているときにはみつからなくて、向こうが必要と判断したときにしか姿を現そうとしない。
 役人に案内されながらエルノクは心の中でぼやいた。
「この前んときゃ、あいつの言葉がきっかけでひっかき回されっぱなしだったからな。気をつけないと、またいいように踊らされることになるぞ。」
 さすがにエルノクも、シャルク・アーンのところでの一件以来、自由商組合の意志に半ば強制的に従わされ続けてきただけに、いい加減頭にきかけていた。
 いつも冷静に状況を読み取り、確実な判断を下してくれるゲオルゴスが隣に控えていないことに、多少の不安が無いわけでもない。しかしイアンほどの情報屋相手では、すぐれた読心能力をもつゲオルゴスでさえ役不足といえた。
 イアノ・アークレ・イアンの部屋に向かう途中に、エルノクは十分心構えをしてのぞんだつもりだった。しかし役人の開けた部屋の中を見て、エルノクは目一杯驚かされることとなった。
 イアンと一緒にいたのは他でもない、ターガス王国の元首、オルミティア・マリア・ポスタ・ターガその人だった。
 オルミティアは十何年か前とほとんど変わらず美しかったが、エルノクをみとめて浮かべたその妖しいまでの微笑みは、しかし彼の憶えている彼女のものではなかった。
 一瞬、エルノクは彼女にどう呼び掛けていいものか迷ったが、口をついてでてきたのは昔と同じ名だった。
「マリア……、一体どうしてここに。」
 オルミティアはふと寂しげな目を見せた。
「おお、まだ、わらわのことをそのように呼んでくれるのか。」
 かつて、まだエルノクが宮廷にいたころ、エルノクと同じ年頃の子供といえばオルミティア・マリアとサキアスぐらいしかいなかった。幼きころの彼等には何の束縛も無かった。しかし、マリアがシャルク大帝の元へ連れられていって以来、彼女の存在は遠いものとなっていた。
 エルノクはにやにや笑い続けるイアノ・アークレ・イアンに詰め寄った。
「一体どういうわけなんだ?」
「その者はわらわにそなたの居所を証したのじゃ。驚いたぞ。先の事件で名のでた、元自由商人エルノク・イアムこそが、十年ほど前に行方不明となりし大公家の跡取り息子エルノク・クセルクスだったとはの。ま、すぎたことはどうでもよかろう。」
 イアンの代わりに女王は答えた。
 オルミティアは外見は以前のままであったが、その雰囲気はまったく変わってしまっていることにエルノクは気付いた。
「それで、女王陛下。いかなる御用でこのような一介の自由商などにお目通りなさったのか?」
 若きターガスの君主は鷹揚に手を振った。
「他人行儀は無用じゃ。」
 そして身を少し乗り出してにやっと笑ってみせた。エルノクはそこになにかおぞましいものを感じて背筋が凍った。
「わらわはそなたを婿として迎えるつもりじゃ。わらわはそのそなたの強いサキアが欲しいのじゃ。」
 エルノクは一瞬眉を顰めて見せたが、オルミティアはそれに気づかなかったようだった。
「よいかエルノク、サキアこそが王国をささえる真の力じゃ。その強い者が王国を支配できる。
 そなたは長きあいだ家をでている間に追われる身となった。もはやそなたに王位継承権はない。しかし、わらわと臥所をともにするあいだとならば、そなたも十分すぎるほどの力と富をえることになるのじゃ。そのようなけちな盗賊に身をやつす必要があろうか?」
 エルノクは鼻で笑った。
「本当にそんな下らない理由で私を夫として迎えようと言うのですか?」
「そなたに選択の自由はないのじゃ。」
「本気ですか?」
 オルミティアは一瞬悲しそうな表情を見せた。そこにちらっと昔の彼女がのぞくのをエルノクはみとめた。
 しかし、エルノクは昔のようなときめきを、この哀れなひとりの女からえることはできなかった。
 かつての彼の女神も、サキアに縛られ発狂したシャルク大帝の強大な力で結婚させられて以来、そのやさしさを忘れた。
 いまこの目の前にいる女性にエルノクはもはや何の同情も感じていなかった。
「それが、刺客まで指し向けて消そうとした相手に対する言葉ですか。
 自らが王位に就くまでは強いサキアを持つ者を消し続け、王位に就いたとたん、掌を返すようにサキアを取り込もうとする。」
「いつから気付いておった?」
「つい最近、親殺し、兄殺しのうわさを聞いてから。」
 女王はほうっとため息をついた。
「わらわは逃げることができなかったのだよ、そなたのようにはな。
 逃げ出す勇気も無かった……」
 エルノクは彼女を哀れに思った。しかし、もはや彼にできることはなにもなかった。
 エルノクはなおもにやにや笑い続けるイアノ・アークレ・イアンに一瞥をくれた。
「この前はせっかくお膳立てしてやったのに、生かすことができなかったみたいだな。」
 ということは、ヤーヴェイで帝国のスパイの話をしたのはオルミティアの差し金だったのかと、いまさらながらにエルノクは思った。しかし、この会見の前ならばいざ知らず、何の感慨もそこに見出すことはできなかった。
「気をつけな。『刺客』はまだおまえのことを狙っている。」
 エルノクはそんなイアンを無視して黙ったまま部屋をでた。

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