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Sugar Room Babies

第一章(承前)

中条卓

*                   *

 夕食後、CDを聴きながらうつらうつらしはじめたレイを引きずるようにして寝室に運びベッドに寝かしつけたタクミは、自室で遠隔読影の仕事に没頭していた。遊びに来た若い研修医が「地球防衛軍司令室」と名付けた仕事部屋にはCAD用の大型机の上に数台のパソコン本体とディスプレイ、キーボードとマウスが所狭しと並んでいる。CT、MRIそして最近ではCR(コンピューテッド・ラジオグラフィー)といって通常のX線写真までがデジタル画像になりつつある。コンピュータを使って絵を作っているのだから、これらはすべてCGといってもいいだろう。それらコンピュータ画像のデータは1件あたり数メガバイトだが、タクミが病院あてに送り返すデータファイルは1日分50件あまりで数百キロバイト、サイズにしておよそ千分の一である。タクミの仕事は、いわば情報の精練作業なのかも知れなかった。

 仕上げたレポートをFAXモデムで送信しながら、タクミはモニターの表示をマッキントッシュ側に切り替えた。レポート作成/送信用のWinPCとインターネット接続用のMacとは1台の17インチモニタを共用しているのだ。まずはパソコン通信の会議室を覗いてみたが、新しいメッセージは届いていなかった。続けてメール受信のボタンをクリックすると24通の新しいメールが流れ込んできた。大部分はタクミが趣味でやっている英語俳句のメーリングリストからだった。NATO軍によるユーゴ空爆を扱った句が多いのは、ほとんど時事問題を取り上げない日本語の俳句とは対照的だった。放っておくとどんどん溜まる一方なので片端から消去しながら読み進む。

 2、3の句に対する簡単な感想とそれにインスパイアされた自作の句とをポストして接続を切り、パソコンの電源を落とす。パジャマに着替えて寝室のドアを開けたがベッドは空でレイの姿はなかった。トイレかと思って待っていたが帰ってくる気配がない。前に一度酔っ払って帰宅したあげくトイレで便器を抱きかかえて眠っていたことがあるので、念のため覗いてみたがレイの姿はなかった。廊下に出ると書斎のドアが半開きになっていて、ぼんやりとした灯りが漏れていた。

「明日も講義があるんだから、早く寝た方がいいんじゃないの」

 声を掛けても返事がない。音を立てぬようそっとドアを開けるとレイはこちらに背を向けて自分のパソコンを操作していた。ブラウザを立ち上げ、せわしなくマウスボタンをクリックしながら次々とウェブページを渡り歩いている。(何か調べものかな)おやすみ、と一声かけてドアを閉めようとしたタクミはぎょっとして立ちすくんだ。CRTに照らされたレイの両肩のあたりになんだかぼんやりとした影が見えるのだ。目を凝らしたとたんにその影は急に焦点が合ったかのようにはっきりとした形になった。手をつないだふたりの子ども…頭だけがやけに大きいはだかの子どもがこちらに背を向け、床から1メートルほど浮かび上がってレイの肩越しにCRTを覗きこんでいるようだった。距離感がつかめず実際の大きさはよくわからないが、レイのお気に入りのスヌーピーのぬいぐるみよりは小さいようだ。(ホログラム?)一歩部屋の中に足を踏み入れようとした時、左肩の影が振り向いた。どこか見覚えのある顔(男の子だ)と一瞬目が合う。乾いた唇からかすれた息を洩らしながらタクミはぎゅっと両目を閉じた。再び目を開けたときにはふたりの姿は既になく、レイの動きがはたと止まっていた。

「レイ!」

 駆け寄って肩を揺さぶる。糸が切れたみたいにレイの全身から力が抜け、やがてびくっと我に返って振り向いた瞳はまだ焦点が合っていなかった。

「…ああ、タクちゃん、どうしたの」
「どうしたのって、君こそいったい何をしてたの」

 言われてレイはようやく自分がパソコンの前に座っているのに気づいた様子だった。

「あれ、あたし何でこんなとこにいるんだろう。ベッドに運んでもらって布団を掛けてくれたのは覚えてるんだけど」
「なんでだろうね、夢遊病かねえ…いやそんなことより、さっき君の肩のあたりに妙なものが見えたんだけど」
「妙なもの? 何それ」
 ゆうれい、と言いかけてタクミは口をつぐんだ。「いやなんでもないんだ。モニタの光がどこかに反射したのかな、何かが動いているみたいに見えてどきっとしちゃったんだよ」
「うーん、ひょっとして幽体離脱ってやつかしら。エクトプラズムってやつ?」
「まさか」

 力なく笑ってその場をごまかし、もう一度レイを寝かしつけたタクミであったが、すっかり目が冴えて眠れなかった。

 軽いいびきをかきながら昏々と眠っているレイをあとにパソコンの前に戻ったタクミはブラウザを再起動して、レイが眺めていたウェブページの履歴を調べてみた。ディスクキャッシュを多めに設定してあるので相当前まで遡ることができるはずだった。

「なんだこりゃあ?」

 ページを次々にたどりながら、タクミは奥深い迷路に導かれるような異様な感覚を味わっていた。

*                   *

 子癇、常位胎盤早期剥離、前置胎盤、臍帯の捲絡、胎児仮死、産後出血、子宮破裂、先天奇形、ショック…産科学の教科書には恐ろしげな文字列がこれでもかと並んでいる。出産/出生しようとする母児を待ち受けている危険がこんなに沢山あるのに、そして今それをひとつひとつ確認しているところなのに、ちっとも恐くないのはなぜだろう。医学部の図書館で本のページをめくりながらレイは自問していた。そう言えば昔からそうだ。医学部の同級生の間に medical student syndrome (医学生症候群)が蔓延して、講義で習ったばかりの珍しい病気の症状が自分にも当てはまると誰彼が騒ぎ立てているときでもレイは平静だった。自分の健康をやみくもに過信していたわけではない。将来いつなんどきどんな病気が襲ってくるか知れたものではないという気持ちは、実習の中でひとりひとりの患者の病歴を聞き取っていくにつれて、医学生なら誰でも抱くものだろう。だが未来が不確定であると思えばこそ人は現在の健康を自覚できるのではないだろうか。少なくともあたしは、今この瞬間に自分が健康であることを痛いほど感じている。未来なんて、今この一瞬の積み重ねに過ぎないじゃないの。

 出産という具体的なイメージを描く前に、そもそも妊娠の実感がまだ不充分な気がした。放射線科病棟の出産経験のある看護婦さんに尋ねてみたが、胎動を感じるようになって初めて妊娠を実感したという人から、自分が産み落とした子供を胸に抱かせてもらってようやく実感できたという人まで、答えはさまざまだった。

「先生は妊娠中、自分の赤ちゃんをエコーで見てみた?」

 後輩だがすでに2児の母であるイワモト医師にきいてみた。彼女の夫は内科で開業しているから、自宅にエコーの機械があるはずだった。

「え、ええ実はときどき。最初は恐かったんですけど、奇形がみつかったらどうしようとか」彼女の専門は小児放射線科で、出生前超音波診断も手がけている。
「でも何て言うんだろな、自分のお腹の中にこういう形でこういう大きさのニンゲンが入って生活してるんだな、っていう具体的なイメージがつかめて安心できましたよ」(ニンゲン? ああ、人間ね。でも胎児って人間なのかなあ)
「それってたとえば自分の心臓の動きをはじめてエコーで見たときみたいな感じかな」
「ああそれ、似てますね。あなたこんなに健気に動いてたのね、って誉めてあげたくなるみたいな」

 その日の午後さっそく放射線科外来の診察室でレイは自分の胎児を観察してみることにした。部屋の照明を落としてモニターの明るさに目を慣らし、おもむろに診察用の寝台に横たわってブラウスをたくし上げ、スラックスを下ろしてさすがにふくらみが目立つようになったお腹をむき出しにする。よしよし、毎晩クリームを塗ってケアしているおかげで妊娠線は出ていないぞ。背中に枕を当てて上体を少しだけ起こし、超音波が皮膚で反射されるのを防ぐゼリーをチューブから絞り出して塗りたくる。

「うひゃあ、冷たい」

 温めておくんだった。モニタの画面を見ながらプローベをお腹に当てる。患者相手の時とは向きが逆になるので最初はまごつくがすぐに慣れて、縦横斜めにプローベを操りながら自分の子宮を観察する。本当は膣の中に直接入れる機械の方がよく見えるのだが、ちょっとそこまではねえ。恥骨の上に真横にプローベを当て、骨盤の中を覗き込むと大きくふくらんだ膀胱が黒い風船みたいに見える。その風船に後ろからのしかかっている丸いものが子宮。あった! 胎児の頭が見えた。ふたつの大脳半球とその中にある脳室がはっきりと見える。目玉もちゃんとふたつあるわ。頭から背中の線をなぞると、小さな背骨がドミノゲームの牌みたいに続いている。背骨の前には成人の倍の速さで時を刻む心臓が倦まずたゆまず自分の存在を主張し続けている。ぼくは・ここに・いるよ・ぼくは・ここに・いるよ・ぼくは・ここに・いるよ…(明滅する・灯台だわ・海の底へ・呼びかけてる・ブラッドベリ・萩尾望都の・短編)ほらここにはもうひとつの心臓。…あたし・まって・いるわ・あたし・まって・いるわ・あたし…心臓、肝臓、腎臓、こんなに小さくて、でも完璧なんだ。
 そしてここにも完璧な、そして不完全なもの。ペニス。男性器。かわいいおちんちん。身体の真中から左右にプローべを振ると上下左右に突き出た突起物、手足が見える。君は右利きかな、だったら右手を振ってみてね。

「おっと」

 思わずレイは声を上げた。偶然にすぎないとは言え、胎児がまるでこちらに挨拶するみたいに右手を 動かしたのだ。へえ、お腹の上をとんとん叩いて胎児がそこをキックしたらこんどは別の場所を叩く「キックゲーム」っていうのは聞いたことがあるけど、これは何て呼んだらいいのかな。「ウェイブゲーム」? プローべを大きく移動させ、もうひとりの胎児を画面の中心に捉える。男の子と向き合う格好で、あら、指をしゃぶっているみたいな女の子。その骨盤には豆粒のように小さいながらもすでに子宮が備わっている。入れ子になった宇宙。中世の天球図みたいね。さすがにそこまでは見えないけれど、卵巣には卵子がぎっしり詰まっていて、そのひとつひとつに次の次の世代の設計図がしまわれているわけか。うーんなんだかちっぽけで壮大な話ね。

 超音波診断装置を片付けたあと読影室に舞い戻り溜まっていたMRIのレポートを大急ぎでテープに吹き込んでトランスクライバーのミソノさんに渡し実習グループの学生に課題を与えCT室を覗きこんで研修医の質問に答え、ようやく喫茶室で午後のお茶を飲む時間ができた。喫茶室のおばさんとは長年のなじみなので、頼めばメニューにはないハーブティーを淹れてくれる。神経を鎮めるというカモミールティーをシュガーレスですすりながら、レイは学生時代の解剖学実習を思い出していた。学生2名につきライヘは1体だった。他大学出身のドクターに話すと羨ましがられるにしろ気の毒がられるにしろ、必ずやエモーショナルな反応が返って来る。人間の身体は表面だけ見ると気味が悪いほど左右対称なので、半身を受け持つというのはメスとピンセットという原始的な道具を手に、単身で人体という領土のすべてを征服しようとするようなものだった。解剖学実習というのは日常生活からはかけ離れた異質な体験だ。実習室の中はホルマリンの甘酸っぱい異臭に満たされ、石づくりの冷たい解剖台の上には半透明のビニールに包まれたライヘが並んでいる。解剖学実習の異様さをまざまざと実感する機会が二度あった。一度目は手の解剖。解剖台の上に置かれた手を黙々と解体しているうちに、自分の視野の中にあるどの手が死体のものでどれが自分のものだか確信が持てなくなってくるのだ。眼の前で繰り広げられているのは手が手を切りさいなむという極めてシュールな光景。人間が人間を食うことさえこれほど直接的ではないと思えた。

 そしてもうひとつが顔面の解剖だった。鋭利な鋸で真っ向唐竹割りにされた頭部がふたつ、解剖台のこっちと向こうに置かれる。眼を閉じたおんなじ顔がふたつずつ、ずらっと解剖台に並ぶのだ。これらの顔はあたかも右手と左手のように、そっくりでありながら決して重ね合わせることができない。解剖台に埋め込まれたような、あるいは今にも浮かび上がってきそうな物言わぬ顔の皮を剥ぎ、脂肪をむしり、筋肉を取り去っていくのだ。

「顔面には特殊な脂肪組織が2ヶ所存在する。諸君がこれまでに見慣れてきた毒々しい橙がかった黄色ではなく、レモンイエローと呼びたくなるような鮮やかな黄色のその脂肪は他の部位よりもターンオーバーが短く、人体の中で最初に燃焼する役割を担っている」

 定年も真近いはずの第1解剖学教室のゴンドウ教授はいっこうに衰えないバイタリティに溢れる声で実習講義を進めていた。

「その特殊な脂肪は眼窩と頬部に存在する。したがって病人はまず頬がこけ、目が落ちくぼむことになる」

 そう、眼窩の脂肪は組織学的にだか生化学的にだかは知らないが、他の部位の脂肪とは違っているのだ。だからこそあたしはあの若い娘の病気に気づいたのよ。CTでは通常黒く見えるはずの脂肪が妙に白っぽかったのだが、これは重症の飢餓状態か、さもなければ自発的な飢餓すなわち拒食症でしか見ることのない所見のはずだった。彼女の脳はまるで老婆の脳みたいにしわが目立った。これも拒食症で見られる「仮性脳萎縮」と呼ばれる病態のはずだった。そして彼女の手と歯は彼女が単なる拒食症ではなく、過食と嘔吐を繰り返していることをまざまざと示していた。あの手の甲にできたタコ…日に何度も口の中に指を突っ込んでいるうちに前歯にぶつかる部分が固くなってしまったものだ。そして彼女の歯は胃酸にやられてぼろぼろだった。

 カンファレンスの途中でレイの院内PHSが振動しだした。無言で席をはずし、廊下で白衣のポケットから取り出す。院内放送で呼び出されなくなったのはいいのだが、どうしてこう電話というのはこちらが出たくないときに限ってかかってくるのだろう。明滅しているLEDをにらみながらフリップを開く。

「はい、放射線科の麻生です」
「ああどうも先生、お忙しいところお手間を取らせてすみません。小児科のタケヤマですが」
 いきなり神経質そうな女性のきんきん声が響いてきた。思わず耳から遠ざけたが、30センチほど離しても十分聞き取れるほどの音量だ。
「あの実は、先日ご協力いただいた羊水検査のことで折り入ってお話したいことがありまして、申し訳ありませんがお手すきでしたら小児科の教授室までお越し願いたいんですけれども」

 ていねいだが有無を言わせない口調から重大な用件らしい感じが伝わってきた。PHSをポケットにしまいながら、レイは動悸が速くなるのを感じていた。

 小児科の教授室は放射線科と同じ建物のひとつ上の階にある。いったん医局に寄って身なりを整えてから、レイはライトグリーンのカーペットを敷いた階段を上がっていった。踊り場には天井から床まで明り取りの大きな窓があったが、空は低く暗かった。タケヤマ医師とは何度か会議で顔を合わせたことがある。レイよりもいくぶん年上で講師のはずだったが、考えてみれば自分の部屋でなくわざわざ教授室を指定してきたのは妙だった。ノックをしてドアを開けると白衣の女性が机の前から振り向いた。

「麻生先生ですね、どうぞおかけください」
「失礼します」
「教授は学会出張中でして、ここなら内密にお話ができるものですから」

 向かいのソファに腰を下ろしたタケヤマ医師はハムスターを思わせる小柄な体形で、座るとレイよりも頭ひとつぶん以上低かった。腋に抱えていた書類をちょこまかとテーブルに広げて見せる。

「単刀直入に申し上げますと、先生からお預かりした試料をうちのラボでお調べしたところ、ある酵素欠損の疑いがもたれたのです」タケヤマ医師は数字とアルファベットの組み合わさった略語を早口でまくしたて、それから酵素のフルネームを英語で言いなおしたが、どちらもレイには初耳でさっぱり見当がつかなかった。

「サーファクタントの合成過程で働く酵素でして、これがないと」
「サーファクタントが欠乏してしまう?」
「ええ、というか、量的には問題ないのですが、生物学的な活性のない異常なサーファクタントが産生されてしまうんです」

 サーファクタントという言葉は surface active agent すなわち界面活性剤を略したものだ。血液と空気中のガス交換が行われる肺胞の表面を潤している物質で、これがないと肺胞はつぶれてしまい、呼吸ができなくなってしまう。

「ということは、新生児期に呼吸不全に?」
「ええ、申し上げにくいのですが、欠損症の場合には通常重度のIRDSを来たします。残念ながら現在まで1ヶ月以上の生存例は…」

 IRDS… Idiopathic Respiratory Distress Syndrome 特発性呼吸窮迫症候群…レイの脳裏に、むかし小児放射線科学会に発表するために何十枚となく仔細に検討したX線写真の画像がよみがえった。両肺がくもりガラスのように白くなり、ひどい場合には心臓さえはっきりと見えなくなってしまう。写真を撮られたおチビちゃんたちの苦しい息遣いが聞こえてくるようでやりきれなかったわ。そう思った途端にタケヤマ医師ののっぺりした顔が球面レンズを通したみたいに歪んだ。あわてて目をそらすと教授の机の上に置かれた銀のやじろべえがクレーンか何かのように眼前に迫ってくる。どうしたんだろう、遠近感がすっかり狂っている。タケヤマ医師が相変わらず無表情でたんたんと話しつづけている声を、レイはプールの底から見上げながら聞いていた。

「ほんとうは患者さんにこんなお話はしないことになっているのですが、先生なら医療関係者でこうした疾患についてもよくご存知でしょうから、冷静に受け止めていただけるだろうということで…今ならまだ中絶が可能ですし…」
「ちゅうぜつ?」
「ああ、3ヶ月を過ぎてますから妊娠中絶というよりも子宮内での安楽死ということになりますかしら」

(安楽死? 生まれてもいないうちに死を迎えさせるんですって? 冗談じゃないわ)強烈な怒りが湧いてきた。

「ちょっと待ってください。そんな軽々しく安楽死だなんて、だいいちふたごなんですよ。その検査は定量的に信頼できるものなんですか?」
「えっ、ふたご?」タケヤマ医師は虚を突かれたようだった。「そうでしたの、でも一卵性なら説明がつきますね」あわてて書類のページをめくる。「DNAマッピングでは一種類のパターンしか検出されていませんから」

(スクリーニングだなんて言っておきながらDNAまで調べてたのね)

「一卵性ってことはないでしょう、男の子と女の子なんですから」
「そうなんですか、それは興味深いですね」

 度の強いメガネ越しにタケヤマ医師の目が光り、俄然表情が生き生きとしてきた。(このタヌキ女、本性を現したわね)

「仮に二卵性双生児だとしたら、一方は正常な酵素を持っている可能性がなきにしもあらずですわね。いずれにしても直接細胞を採取して調べてみないとなんとも言えませんが」
「お断りします。この話はなかったことにしてください」

 憤然と席を立ち出て行こうとするレイの背中に追い討ちを浴びせるように
「生検を受ける決心がつきましたらいつでもご連絡ください、お待ちしてま…」
 という声が響いてきたが、最後の方は教授室の扉に遮られてレイの耳には届かなかった。

 結局それからレイは一度もタケヤマ医師に連絡しなかったし、サーファクタントのことはタクミの耳にも入れずじまいだった。聞けばタクミのことだ、もっとよく調べようと言い出すに決まっている。テストの信頼性、サーファクタント欠乏症の致死率を調べ上げ、サンプルが本当にレイのものなのかどうか、そこに二人分のデータが含まれていないかどうか、別の施設に依頼してでも確認すべきだと主張するだろう。レイにしても意志決定のためのデータは多いに越したことはないと頭では理解しているつもりだ。でも、あらかじめすべてを予測するなんて、人間にできるわけがないわ。何か見落しているファクターがあるはずよ。

 この妊娠について最初から検討しなおしてみると、不可解なことがふたつあった。たとえ一時期にせよ、胎児の頭数を決定しかねたこと、そしてもうひとつ、男と女のふたごだということがほぼ確実なのにも関わらず、DNAのパターンが一種類しか検出されなかったこと。非科学的と笑われそうだが、レイはこれらふたつの事実を結ぶ何かがあることを直感していた。その何かさえつかめれば、ふたごを無事出産する方法が見出せる、そんな気がした。しかし手がかりは見出せないままずるずると時が過ぎ、ふと気がつけば出産準備用品を機械的にボストンバッグに詰め込んでいたりする。タイムリミットは差し迫っていた。休めた手をお腹にあててさすってみる。

「ねえあなたたち、どうしようか。あなたたちのうちどっちかが重い病気かも知れないの。それでもママはあなたたちを産みたいの、っていうか、お薬を注射して死なせるなんて絶対にしたくないの。ねえ、ママはわがままなのかな、残酷なのかなあ」

 不覚にも涙がこぼれた。涙がシャツを濡らしたとたんにひときわ強い胎動があった。胎児たちの抗議のようだった。もう一度、左側で強く、右側でそれよりもやや弱く、突き上げるような動き。突然レイは胎児たちの意志をはっきり理解した。彼らはただひとこと、「否!」と叫んでいるのだった。

「なかなか頚管が開きませんね。こりゃあ誘発した方がいいかな」
「パートナーとも相談したんですが、私たちはなるべく自然の経過に任せたいんですけど」

 レイは決してタクミのことを主人とか旦那と呼ばない。パートナーか同居人で済ませている。フェミニズムを奉じているわけではないのだが、奴隷じゃあるまいし今どき主人なんて、と思っているし、といってハズというのも気恥ずかしい。タクミはレイのことをやはりつれあいとか同居人と呼んでいた。

「自然経過ですか…しかし、胎盤は永久に胎児を養うことはできないんですから、自然というのはやはり予定日の前後二週間くらいで出産することだと思うんですがねえ。だいいち双胎の場合には早産になるのが普通ですし」
「でも平均と正常は違いますでしょ。この子たちにとっては四十二週をだいぶ過ぎたあたりで出て来るのが正常なのかも知れませんよ」
「もちろん今のところ胎児の状態には異常が見られませんから、もう少し様子を見ても悪くはないでしょうが…」

 すでに四十週に入っていた。いつ陣痛が始まってもおかしくない、というより通常ならとっくに産まれているはずの週数である。妊娠した日付の計算違いという可能性は、何事にも厳密なタクミの性格を考慮するなら、まずほとんどありえなかった。

「でもまあ、誘発するにしろしないにしろ、ここは入院していただいて分娩の進み具合をモニターした方がいいと思うんですがねえ。無理にとは言いませんが」

 モリタ医師の歯切れは悪かった。やっかいな患者だと思っている様子が言葉の端々ににじみ出ている。大学病院とはいえ産科で扱うのは健康な女性が大半なのだから、患者とは呼ばずにクライアントと呼ぶべきなのだが、彼はそうした時流にはまったく疎く、自分の研究にしか興味がないタイプの医者ではあった。たしかに生半可な知識があってプライドが高い医者という人種はもっとも扱いにくい種類の患者/クライアントではあるのだが。

「とにかく分娩の兆候が現れたら速攻で入院していただきますから、準備しておいてくださいね」

*                  *

「いつぞやは救急患者の紹介をありがとうございました。先生のお診たてどおり、やはり摂食障害でした。わたしたち、「食べ吐きボダ子」って呼んでるんですが、食べては吐く、吐いては食べるを繰り返すボーダーラインのケースっていう意味なんですの」

 職員食堂で声を掛けてきた精神科医はジーンズとラガーシャツに白衣という格好で、レイと同年代のむくつけき男だったがしぐさや言葉は妙に女性的なのだった。

「階段から足を滑らせて落ちた子ですね」
「それがねえ」ちょいと奥さん聞いてちょうだい、という感じで手首から先をひらひらさせながら、「はっきりとウラが取れたわけじゃないんだけど、どうも母親に突き落とされたみたいなのよ」
「まあ」
「驚いちゃうでしょ、それも元々は娘の方が暴力を振るってたらしくて、たまたま母親が反撃に出たらああなっちゃったみたいなの。食べ吐きと暴力ってあんまり結びつかないんですけどね。あら、ひょっとしておめでた?」
「ええ、もうそろそろ出てきていい頃なんですけど、なかなかコンセントが得られなくって」

 なかなか決まらない外科の教授選考についてふたことみこと意見を交換したあとで、さりげなくレイが切り出した。

「周産期精神病っていうんでしょうか、お産の前後ってなんだか精神状態が普通じゃなくなりますね」
「そうねえ…最近は妊産婦のケアが進んだからそうそう派手な症例にはお目にかかんないけど、もともと病気のある人は一時的に悪くなることが多いわねえ」
「実はわたし、お腹の中の子たち…ふたごなんですけど、彼らがここから出てきたくないんじゃないかって、そんな気がしてならないんです。実は羊水検査で先天異常の可能性があって、それが気になっているせいだろうとは思うんですが、時によるとはっきりと彼らの意志を感じることがあって」
「声が聞こえるの?」

 精神科医はさりげなさを装っていたが、ほんの少し声をひそめていた。

「声っていうんじゃなくって、頭にダイレクトに伝わって来るみたいな感じ。テレパシーってきっとこんなのだろうなって思っちゃう」
「うーん、電波系ですか。いちばん心配なのは幻聴だけど、電波もちょっと問題かしら。なんなら一度外来にいらしたら。火曜の午後なら空いてますから」

 その頃タクミは自分のパソコンにコピーしたレイのブラウザの履歴をもう一度調べなおしていた。プライバシーを覗き見するようで悪いとは思ったが、まるで夢遊病のようにレイが眺めていたウェブページの内容をくわしく分析する必要があると判断したのだ。内容は恐ろしく雑多だった。国連、NASA、厚生省、ゲノムプロジェクト、理科年表、植物図鑑、動物園のガイド、無料で入手可能な日本文学と世界文学のデータベース、ブリタニカオンライン、WHO、NATO、CIA、各国大使館、世界中の大学のありとあらゆる学部のページ、新聞記事、雑誌、オンライン書店、CD通販、ありとあらゆる言語で書かれた日記のページ… レイは英独仏西に堪能だったはずだが、それ以外の言語のページもやたら多かった。読めるはずのないページをこんなに訪れるなんてやっぱり変だ。タクミは腕組みをしてしばし考え込んだ。これはまるで、地球を訪れたエイリアンが手っ取り早くこの世界と人間について調べようとしているみたいじゃないか。最後の方には米国医学図書館の医学文献データベースであるMEDLINEの検索結果がずらっと並んでいた。サーファクタント欠乏症の出生前診断? なんだってこんなものを調べてるんだろう、まるっきり畑違いじゃないか。

 レイが大学病院の玄関を出たとき、ぐずついていた空からさあっと雨が降り出した。図書館でコピーした文献を入れたプラスチックのケースを頭にかざして歩き出す。転んではまずいので走るわけにはいかない。乾いていたアスファルトが見る見るうちに黒ずみ、やがて水しぶきで白っぽくなる。いったいどうしたものだろう。自然経過に任せてみるとはいったものの、四十週で出て来ることこそが自然なのだと言われてしまうと心がぐらついてしまう。あたしが産むべきかどうか迷っているから、この子たちも出て来られないんだろうか。

(マ…ママ…)

 かすかな声に呼ばれて思わずレイは足を止めた。

(ママ、聞こえてるんでしょ)
「だれ?」あたりを見回しても人影はなく、車の通りも途絶えている。
(ぼくたちだよ。ママのお腹にいる、名前はまだないの)

 こんなことがあるはずはないという気持ちと同時に、ずっと前からこの瞬間を待っていたような気がした。動悸が激しくなり息が苦しかった。

(ああママ、お願い、落ち着いて。ひとつだけお願いがあるの。あのね、ぼくたち、生まれたくないんだ)

 ますます激しくなる雨に打たれながら、レイは呆然と立ち尽くしていた。

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