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Sugar Room Babies

第五章(承前)

中条卓

「きゃあ、ごめんなさい」

 何気なく浴室のドアを開けたレイが顔を真っ赤に染めながら大慌てでドアを閉めた。やがてすっかり茹で上がったタクミが腰にバスタオルを巻いたままキッチンに現れ、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出してグラスに注いだ。

「あ、あなたも飲む?」
「う、うん」

 タクミはグラスをふたつ手に持ってダイニングの席についた。どぎまぎしながら受け取ったレイが口を切る。

「えーとあの、ごめんなさいね、いきなりドアを開けちゃって、ていうかその、ここのところずっとおあずけだったもの無理ないのかも知れないけど…」
「え、何の話?」

 脳裏に先ほどの光景がよみがえり、レイはまたしても赤面した。浴室のプラスチックの椅子に腰掛けたタクミが背中を丸め、あろうことか自分の指を肛門に挿入していたのだ。

「あ、ああ? ああーっ!」ようやく合点がいったタクミもつられて顔を赤くした。「いやその、あれは決してそんな、新手のマスターベーションとか前立腺マッサージとかいうのじゃなくて」

 ぐびぐびっと麦茶を一気に飲み干したタクミがようやく落ち着きを取り戻して語ったのはこういうことだった。

「つまりね、乳がんの自己検診ってあるじゃない」
「鏡を見ながら自分でさわるやつね」
「そうそう、あの原理で自分で自分の直腸診ができないものかって思ったのさ。直腸がんのほとんどは指が届く範囲にできるっていうし、男性ならほれ、前立腺だって自分で触ろうと思えば触れるわけだから」
「なるほどね。でもわざわざお風呂でやらなくっても」

 得たり賢しとばかりにがぜん勢いづくタクミ。

「風呂だからこそいいのさ。温まって身体も肛門も柔らかくなってるし、指が汚れたってすぐに洗えるし」
「突然ドアを開けられることがあるのが欠点ね」
「まあそれは…カギを掛けておくとかね。いやいっそお互いに直腸診しあえば親睦も深まるってもんさ。これがほんとの臭い仲ってね」
 こういうふうに、とタクミは自分の股間に顔を埋めるようにして
「前から指を突っ込めば敏感な指の腹で直腸の前壁から前立腺を触診できる。逆に背中側からアプローチすれば直腸の後壁が診察できる、と」

 なんだって今までこんな簡単で無害な検査法が普及しなかったのだろう、たぶんそれは言いだしっぺが確実に恥をかくからなんだろうけど、そんなの問題じゃないね、ぼくが先陣を切って広めたっていいくらいだ、とタクミの弁舌は果てしなく続くのだった。

 例によってインターネットで医学文献を検索してみると、一九七八年と一九七九年にその名も Lehrer (教師)という医師(たぶん)が「直腸自己検診の臨床試験」というそのものずばりの論文を発表しているのだが、抄録を読むことはできなかった。似たような報告がその後続々と発表…されていないところを見ると、彼の試みはたんなる試みで終わったらしい。なぜ普及しなかったのだろうか、とタクミは自問しつつ目をつぶってさっきの感覚を思い起こしてみる。粘膜に覆われた触覚だけの世界。たしかにあれはパートナーのヴァギナに指を突っ込むのとはまったく別の異様な体験だった。言ってみれば自分の中にひそむ異質な空間への旅。突然 Weg nach Innen という言葉が浮かんだ。自分の中にもうひとつ別の世界を孕んでいるのはどんな気分なのだろう? できればそんなものとは夢の中以外では関わりたくないというのが普通の感覚なんじゃないだろうか。そう、単純に「自分の中に指を突っ込むこと」が怖いのだ。こいつぁやっぱり一般受けしないよなあ。

 その晩タクミはレイの子宮に腕を差し込んでふたごたちに触れる/触れられる夢を見た。

*                  *

 タクミが夢でレイのお腹に腕を突っ込み異様なその感触にうなされているころ、水を飲みに起きたレイは洗面所の鏡の前にふと立ち止まっていた。一瞬そこに老婆が見えた。脂の抜けた髪、肌理の粗くなった皮膚、ほんのわずか、でも確実に曲がってしまった腰… 鏡を覗き込みながらレイはつぶやく。

「あたし、ひどい顔をしてるね」
(そんなことはないわ。ママはいつでもきれいよ)
「ルミなの? めずらしくそこにいるのね」
(うん、わたしきょうはひとりなの。ねえママ?)
「なあに」
(ごめんね、わたしたちのために。うんと疲れているんでしょう)
「あはは、子どもはそんなこと言うもんじゃないの」
(でもママ、ママの中にどんどん疲れが溜まっているわ。わたしにはわかるの。それにわたしたちが夢を見ているこの場所にもなんだかいろんなものが溜まりはじめている。)
「そうなの…」
(でも大丈夫。わたしたち、もうじき出ていくから。もう少しのしんぼうよ)
「えっ?」
(おやすみなさい)

*                  *

 指定された高級ホテルのスイートは照明が落とされてほとんど真っ暗だった。シャンデリアに煌煌と照らされた廊下から一歩足を踏み込んだレイカは闇に目を慣らすためしばらく立ち尽くしているしかなかった。かすかに雨音が聞こえる。雨? あんなに晴れていたのに?

「何をぐずぐずしている。寝室は左手の奥だ」

 かすかに苛立ちを含んだかすれ声。おじいちゃんてわけじゃなさそうね。真っ暗な部屋でやりたがる客なら前にもいた。光線療法に使うはずの四万ルクスの蛍光灯に毛穴の一本一本まで照らされながらいろんなポーズを取ったこともあったし、満月の光じゃないと興奮しないという自称狼男のお相手だって務めた。たいがいの事には驚かないよ。

「待て。そこで全部脱ぐんだ。ピアスも外して一回転して見せろ。よし、てのひらをこちらに向けて両手を上にあげながらゆっくり歩いて来い」

 ドアのない寝室の入り口に立った時、何か重いものをベッドサイドのテーブルに置く、ごとりという音が聞こえてレイカは思わず身震いした。

 寝室に入ったとたん、天井から降り注ぐ細かいシャワーに全身がぬれ始めた。スプリンクラーの故障? のわけはないよね、なにか仕掛けをしたんだ。雨だと思ったのはこの音だったのか。そりゃ、あたしはかまわないけど、部屋が水浸しになったらどうするつもりなんだろう。ようやく目が慣れてベッドの足元を照らすわずかな光に浮かび上がる男のシルエットを見分けられるようになった。やせているけどすごい筋肉。ボクサーかジョッキーってとこ? 背は高そうだからジョッキーってことはないか。あらなんて立派なボクちゃん。男の手に導かれるままに口に含んだそれもしっとりと濡れて草の匂いを放っていた。

(あ、なんかすごい、本気で感じてきちゃった。声がでちゃう)

 男のうごきが激しくなるにつれて雨足がますます強くなる。まるで全身を滝に打たれてるみたい。しぶきがほとばしり、湯気があがる。息が苦しい、と思った時にはもう遅かった。絶頂と同時に呼吸が止まった。

 幻の豪雨に鼻と口をふさがれ、断末魔のけいれんにがくがくと揺れるレイカの中に雨男はたっぷりと注ぎ込んだ。くっきりと両手の痕のついた乳房を離すとそのままレイカの死体は仰向けに崩れる。雨男は小降りになった雨を見上げて口元をゆがめた。冷えはじめた汗にぐっしょり濡れたレイカの下で、男は汗ひとつかいていなかった。

*                  *

 タクミは週に一回、血管造影のバイトをするため、以前勤めていた病院まで二時間かけて通勤している。東京からは始発の電車に乗れるので比較的楽だが、東京までの一時間はすし詰めだ。そんな時タクミは自分を貨物列車に詰め込まれたモノか家畜なのだと観念することにしていた。もともと人ごみが嫌いなのだが、在宅勤務になってからはそれが高じて人嫌いの域に達している。ホステスまがいに化粧した女子高生、手鏡を覗き込みながら毛抜きで抜いた眉毛を一本一本手すりになすりつけるあんちゃん、雑巾とにんにくの匂いを撒き散らす脂禿げの中年男、いぎたなく口を開けて眠りこけるOL… 吊革にもつかまれず本も読めず、窓の景色さえ見れずに立ち尽くしていると嫌悪感で息が詰まりそうになる。

 ようやく病院にたどり着く頃にはへとへとだ。このうえ半日の立ち仕事はきつすぎるな、四十過ぎたらこんな仕事はやめようなどと考えながら、持参したサンドイッチと病院前の自販機で買った缶コーヒーで遅い朝食を取っていると、
「おはようございます」術衣に着替えた研修医のミウラ医師がカーテンのかげから登場した。
「おあよう」むりやりパンを飲み下し、「先生とは初めてだっけ?」

 協立病院は研修医を数名抱えていて、彼らが入れ替わり立ち替わりタクミに検査を教わる決まりだ。タクミは自分のホームページに血管造影のマニュアルもどきを掲載していて、研修医たちにはあらかじめそれを読んでおくよう言い渡してあるのだが、なにぶんにもインターネットにつながっているパソコンが医局に一台しかないので、ほとんどの場合、血管造影のいろはのいから手取り足取り教えてやらなければならないのだった。タクミは看護婦さんに頼んで十八ゲージの太いディスポ注射針、通称ピンクしんを出してもらった。

「はじめて血管造影に入る研修医の先生には毎回同じことを言ってるんだけどね」透明な包みから針を出し、キャップを外して針先を見せる。
「医療従事者が誤って感染を起こすケースの大半が針刺し事故なのは知ってるよね」
「ええ」長身のミウラ医師が勢いよくうなずく。
「その針刺し事故の大部分はリキャップ、つまりいったん使った針にもう一度キャップをかぶせようとする時に起きるんだ」言いつつ右手に持った針と左手のキャップとを交差させる。
「だから、一番確実な針刺し事故の予防策はリキャップしないこと。いったん血液に触れた針はそのまま専用のごみ箱に捨てる。でも、どうしてもリキャップしなくちゃならない場面だってあるよね、たとえば病室で何か処置をする時とかね。そういう時には、どう間違っても絶対に指に針を刺さないやり方でキャップをはめなくちゃいけない。こんなふうにね」

 かたわらの机にキャップを置き、右手に持った針の先でひっかけてから右手の指だけでキャップをはめてみせる。

「こう、片手でやれば針刺しのしようがないよね。そのためにはキャップを置くときからよく気をつけて、引っ掛けやすい態勢を整えておくことが大事」

 ミウラ医師に針を手渡してやらせてみるがなかなかうまくいかない。

「慣れれば簡単なんだけどね。まあどうしても両手でやらなくちゃいけないというのなら、反対の手に持ったキャップを押し込むんじゃなくてね、針先にかぶせた後でうしろから引っ張るようにしてキャップをはめるんだ。彫刻刀の使い方と同じ。小学校で習ったでしょ、刃よりも前に自分の手を出さない」
「はあ」ここぞとばかりにタクミは力説する。
「あのね、これはセンセイがこの先もずっと医者を続けていくためにすごく大事なことなの。血管造影の手技なんて全部忘れてもいいから、リキャップの仕方だけは覚えておいてほしいな。自分の身を守るためだからね」

 例によって本筋と関係のないところで思いっきり脱線するタクミであった。

*                  *

 雨男は数ヶ月間レイを尾行してその行動パターンを探った。今日の放射線診断カンファレンスが区の生活習慣病センターで開かれること、帰りが遅くなったレイが人通りの少ない近道を利用することも計算済みだった。雨男は峠を照らす街灯の陰に潜んでレイを待ち受けた。レインハットとレインコートを濡らしながら。

 息を切らして坂道を登ってきたレイは、やせて背の高い男が街灯の陰から現れたのを見て足を止めた。男は人なつこそうな笑顔を浮かべ、片手を挙げながら近寄ってくる。「やあすみません、光南台へはこの道を下ればいいんでしょうか」ええそうですよ、と言いかけたレイの目の前で、雨男はコートの下から細長い棒のようなものを取り出した。

(ママ危ない!)

 ルイとルミの叫びにレイははっと後じさった。細身の杖の先は銀色の針になっていて、街灯に照らされて濡れたように光っている。雨男はにこやかな笑顔をこちらに向けたまま、フェンシングの構えよろしく両足を前後に広げて腰を低く落とした。仕込み杖は正確に子宮を狙って繰り出されたが、レイはかろうじて身をひるがえし最初の一撃から逃れた。

「何をするのっ!」男は目を細めてレイの隙をうかがう。
「あんたに用はない」赤い舌。のどの奥の深いくらがりから絞り出されるような低い声。
「ちょっとこの針を下っ腹に差し込ませてもらうだけでいい。多少は痛いかも知れないが、消毒してあるから心配はいらん。あんたの腹の中のお客さんたちはあっという間に天国行きだ。痛くも苦しくもない」
「あなた誰? なぜこの子たちを狙うの?」崖っぷちに追い詰められないよう、円を描いて後退しながらレイは尋ね、同時に何か武器に使えるものはないかと必死であたりに目をくばる。
「減胎処置っていうんだろ、胎児の数が多すぎるときに弱そうな胎児を選んで殺す薬、あれと同じものが仕込んである。母体に影響はないそうだ」

(この男は何を言っているのだろう/そんなくすりがあるわけないじゃない/でも冗談を言っているようには見えない/あの構えは何? フェンシングかしら、見たことがない/剣、なにか剣の代わりになるものは?)

(ママ、あそこにとがった棒があるよ)

 言われて振り向いた先には誰かが捨てたビニール傘の白い取っ手のついた心棒が転がっていた。両足をなぎ払おうと繰り出された雨男の仕込み杖から水しぶきが飛び散る。水しぶき? その時初めてレイは相手の全身がずぶ濡れなのに気づいた。お腹をかばいながら横っ飛びにとびのいて膝を付き、再び立ち上がったレイの手には傘の柄が握られていた。

 剣道は三段になるまで通った。小さい頃から父親にしごかれたから実力はもうちょっと上だと思う。でも妙な構えで下腹部ばかり狙ってくる奴が相手じゃ勝手が違いすぎる。ビニール傘じゃ心細いよお。それでも機先を制して敵の手から仕込み杖を叩き落とした、と思った瞬間相手はその手をついて跳躍し、はっと気づくと背後を取られていた。ヘビのように巻き付く腕。裸締めだ。ひじ打ちを放とうにも身動きできず、やがて意識が遠くなる。

 がっくりと力が抜けたレイの身体を地面に横たえ、雨男は取り落とした杖を拾いに向かった。腰をかがめたところへ猛然と自転車ごと突っ込んできたのは、誰あろうタクミだった。

 こどもたちの悲鳴が聞こえて、しゃにむに流星号を漕いできたのだ。いちども聞いたことのない声だったが、ふたごの声だというのはすぐにわかった。後から考えるとそれは声などではなく、どこそこでレイが今まさに危険にさらされているという圧縮された情報そのものだったのだが、もちろんその時のタクミにはそんなことを考えている余裕はない。男の腰にむしゃぶりついたまま坂道を転がる。

 フィットネスクラブで上半身を集中的に鍛えているタクミの腕力は相当なものだったが、雨男の力はそれを上回っていた。今にも振りほどかれそうになってしまう。何か武器になるものは?

(ポケットの中!)

 ふたたび甲高い声が脳裏に響いた。さっと右手を離して上着のポケットを探ると何か鉛筆のキャップのようなものが指先に触れた。ポケットから引き抜いたタクミの手の中には十八ゲージのピンク針があった。どうすればいい? 後頭骨と頚椎の間、俗に「ぼんのくぼ」と呼ばれている部位に思いっきり深く、ピンクのプラスチック部品の根元までこの針を刺し込んでやれば、針先は延髄に達して呼吸中枢を破壊し、こいつの息の根を止めることができるだろう。それとも血管を狙う? 針先を覆う半透明のキャップを片手で外す。時にはメス代わりに使われる鋭い切っ先が現れる。雨男が身を振りほどくのとタクミが針を突き刺すのと同時だった。

「うぉおっ」叫びながら雨男は身をひるがえし、右耳の下に手を当てた。タクミが突き刺した針は過たず頚動脈を貫き、針の根元からはしゅうしゅうと真っ赤な動脈血が吹き出てくる。
(やったぞ)このまま出血が続けば敵は血圧が下がり動きが鈍るはずだ。しかし、雨男は冷静だった。
「ふんっ」気合もろとも雨男はピンク針を引き抜き、その跡を右手でしっかりと押さえて止血した。頚動脈を頚椎の横突起に向かって強く押しつければ血流を止めることができる。雨男はそんなことも心得ているようだった。雨男は左手で間合いを計りながらじりじりとタクミに迫りつつあった。こちとら格闘技はずぶのしろうと、蹴りでも入れられたら即アウトだ。

「レイ!」渾身の力を込めてタクミは叫んだが、レイはぴくりとも動かない。

(ルイ、ルミ、何とかしてくれ)

 タクミが声に出さずに念じた瞬間、タクミと雨男の間にぼんやりとした人影が現れた。ずっと以前にレイのベッドのそばで見かけた半透明のこどもたちの姿。

「いよいよ真打ち登場か? ふん、ただ眺めるしか能がないおまえらに何ができるっていうんだ」

 雨男はあざけりながらさらに一歩、間合いを詰めた。が、なぜかタクミとの距離は縮まらなかった。もう一歩、また一歩、雨男は前に進もうとしているのだが一向に近づいてこない。夢を見ているような感じだった。突然、雨男の背後に新たな人影がふたつ現れ、男を包む雨のしぶきが一段と激しくなった。またふたつ、さらにふたつ、小さな影はふたつずつ現れては雨男を包囲していく。やがて雨男のまわりは手をつなぎ合い、上下左右に重なり合った無数の人影によって半球状に囲まれてしまった。雨男はすでにタクミを見失い、よろけながら歩く姿が雨のカーテン越しに見えたが、いくら足を運んでも雨男の位置は変わらず、ドーム状の空間からは出られないのだった。雨はますます激しくなり、雨男の姿はほとんど見えなくなった。はっと気を取り直したタクミはレイに駆け寄った。よかった。瞳孔に異常はない。そっと抱え起こして呼びかけているうちにようやくレイは目を開けた。

「ああ、タクちゃん、どうしてここに?」
「こどもたちに呼ばれたんだ。間に合ってよかった」
 はっと身を固くしてレイがあたりを見回す。
「あいつ、あの男は?」
「わからない。急に幽霊みたいなのが出てきてあいつを囲んだんだ」
「あっ、あそこ!」

 レイが指差す数メートル先の地面に男は横たわっていた。相変わらず半透明の影に覆われているが、もう雨は止んでいた。ぴくりとも動かない。

「死んだんだろうか?」
「ねえ見て、髪の毛が」

 男の髪は真っ白に変わっていた。髪だけではない、着ていたレインコートからその下に着込んだスポーツウェアまで、男の身につけていたすべてが何年も雨ざらしになっていたかのように漂白されていた。やがてふたりの目の前でドームがゆっくりと回転を始めた。回転は次第に早くなり、ついにはこどもたちの小さな影を見分けることができなくなった。ドームはもはやほとんど透明だった。地面にひざをついたままのタクミとその肩にもたれたレイの目の前で、雨男の身体に急激な変化が起こりつつあった。

「時間が…」

 時間がどうなっているのだろう? 微速度撮影の動画みたいに雨男の姿が変わっていく。皮膚が干からび眼球がどろりと転げ落ち髪が抜け衣服がぼろぼろと崩れていく。真っ白な骨が皮膚を破って現れたかと思うと褐色に風化して一握りの土になり、それも消えてかすかなしみだけが残った。数十年あるいは数百年分の時間が男の上だけを流れ過ぎたかのようだった。ドームも男の姿もすっかり消えたとき、タクミは放り出されたままの流星号の後輪がまだ回っていることに気づいた。タクミはのろのろと立ち上がり、自転車をレイのところまで引っ張ってきた。

「夢でも見ていたみたい」
「いや、夢なんかじゃないよ」

 タクミは首を横に振りながらレイの目の前に何かを差し出した。それはすっかり乾いたレインハットだった。

*                  *

 最初は目撃者が都会に集中していたため彼らの存在は新たな都市伝説とみなされ、まともに取り上げられることがなかった。

 深夜、帰宅を急ぐOLがふと背中に視線を感じて振り向くと、子どもがふたりこちらを見ている。こんな遅い時間に何だろうと目を凝らすがその姿はぼうっと霞んで妙にとらえどころがない。「あなたたち…」一歩前に出ると子どもたちの姿は消え、OLはそこが袋小路だったことに気づく。混雑した地下鉄の車中でぼんやりと外を見ていたサラリーマンが手を取り合いながら歩く二人の子どもを見かける。楽しそうだな、と思いながら見ているとその姿が妙に光っているような気がする。彼らが歩いている場所が工事中で立ち入り禁止のホームであることに気づいた瞬間、ふたりの姿は消えてしまう。あるいは高層ビルの建築現場や原発の内部など、絶対に子どもが入れないような場所での目撃が続いた。うわさが広まり、週刊誌に取り上げられる頃には田舎でも彼らを見たという者が現われた。白昼のあぜ道で、薄暗い酒蔵で、漁船の舳先で…

 やがてどこからともなく奇妙なことばが人々の口にのぼった。

「ハンセイジン」

 反省、伴星それとも半製? あるいはどこにでも現われるから汎性なのか。幽霊〜死者の霊〜ではなく、その姿が生き生きとしていながら半透明で、まるでどこか別の場所からのホログラムの投影みたいに思えるという、ある学者の発言を機に「半生人」という呼称が定着した。その頃にはこの現象が日本だけのものではなく、世界中で起きていることが確認されていた。

*                  *

 言い出しっぺはレイだった。ストーカーによる襲撃のショックに打ちのめされるかと思いきやしぶとく立ち直り、というかいざとなれば強力な助っ人がいるのだからと開き直った態で、いっそ気分転換にみんなで旅行に出かけようというのだ。

 そもそものはじまりはこうだった。ふたたび休職したレイの分まで稼がねばと仕事の量を増やしたタクミが、レポートをいちいちタイピングするのには飽きたし肩こりはひどくなるのにも耐え兼ねて音声入力用のソフトウェアを通販で買ったのだ。ソフトに発音の癖を覚えこませるためマイク付きのヘッドセットを付けながら、用意された妙な例文をパソコンに向かって始めはぼそぼそとつぶやいていたが、なかなか認識されないのに腹を立ててしまいには喧嘩腰でがなりたてるタクミの姿をレイは笑いをこらえつつ観察していたのだが、そのうちにようやく普段の仕事に使えるレベルまでソフトが「利口になる」と、こんどは持ち前の集中力でタクミは医学用語を覚えさせ始めたのだった。画像診断のレポートには英語も頻出するのだが、タクミが買ってきたソフトは基本的に日本語を入力するためのものなので、英語にもわざわざ日本語の読み仮名を振らなければならない。"subsegmental atelectasis"は「さぶせぐめんたるあてれくたしす」、"enhancing lesion"は「えんはんしんぐりーじょん」といった具合である。そしてさらには日常語をわざわざ小難しい擬古語に変換してしまう医学用語の世界へと踏み込まなければならないのだ、タクミの苦労は並大抵のものではなかった。雨男を撃退したことなんて、この間のタクミの苦労にくらべればまあ屁でもないくらいのものだ。(そもそも実際にやっつけてくれたのはふたごとその仲間たちだったのだが)なにしろ「まんせいけっかくせいきょうまくえん(慢性結核性胸膜炎)」だの「ひていけいこうさんきんしょう(非定型好酸菌症)」だの「あきゅうせいれんごうせいせきずいへんせいしょう(亜急性連合性脊髄変性症」あるいは「きんいしゅくせいそくさくこうかしょう(筋萎縮性側索硬化症)」といった魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界なのである。ただでさえ痰のからみやすいタクミが咳払いを繰り返しすぎてのどを痛めながらもなんとか日常的な報告書の音声入力ができるようになるころには、レイはそんなソフトのことなんかすっかり忘れ果てていたのも無理はない。だから、
「今日はずいぶん音声入力しちゃったよ」と自慢げに言い出したタクミのことばにあんなに過激に反応したのだ。

「え? ええっ! まあなんてことかしら、あたしがろくにお風呂にだって入れないっていうのに!」レイの激しい剣幕に気おされたタクミが、いったい何が起きたのか理解するにはしばらく時間がかかった。なんのことはない、「音声入力」を「温泉入浴」と聞き違えただけのことだったのだが、
「そうよ、温泉。温泉に行こうよ。んもう、何が何でもいくからね!」とまあ、そういうわけなのだ。

*                  *

 その遊園地は砂浜にひっそりと建っていた。砂は白く細かく、足元でさくさくと音を立てた。真冬ということもあって閑散としていたが、人気がないのは施設のほとんどが自動化されていて、人が訪れた時だけ動くようになっているせいでもあった。

 しばらく海を見ていたいというレイを海岸のベンチに残し、タクミはぶらぶらと施設を眺めて歩いた。海洋開発事業団がてこ入れしているせいか、深海潜水艇や海底作業マニピュレータを模したアトラクションが多かった。ふとタクミは子どもの泣き声を耳にして立ち止まった。打ち寄せる波の音にまぎれて聞き取りにくいが、声は「サイコプロジェクター」と銘打たれた物置ほどの小さな建物から漏れて来るようだった。黄色く塗られた窓のない円錐台をぐるっと回ると腰をかがめてようやく通れるぐらいの入り口が見つかった。薄暗い中に回転式のリクライニング・チェアが一脚置かれていて、そこに座った五才くらいの男の子がわんわん泣いているのだった。抱き上げようと近づくとぎゅっとしがみついてくる。

「どうしたの?」

 子どもは無言で壁を指差す。建物の中は球形のスクリーンになっていて、そこには子どもの泣き声に合わせてうごめく奇怪な模様が渦巻いていた。子どもが首を振るたびに、稲妻のような赤い線がスクリーンを横切る。

(ははあ、なるほど)

 子どもを抱き上げ、椅子の頭上で鈍い銀色に輝くパラボラアンテナの圏外に連れ出したとたんにスクリーンの映像がふっと消えた。

「もう大丈夫だよ。このキカイはね、君が頭の中で考えたことがそのまま絵になって見えるキカイなんだ。だから恐いな、って思うと恐い絵が見えちゃうんだ。君、ひとりで来たの?」
「ううん、パパと」
「パパはどこへ行ったのかな」
「タバコ」
「そうか、ねえ、せっかくだからおじさんと一緒にもう一度見てみない? 今度はきっとうまく行くと思うよ」

 男の子はしぶしぶうなずいた。子どもを膝に乗せて椅子に座り、パラボラの下に頭を入れるとスクリーンがぼんやり光り始めた。

「どこへ行こうか。船に乗って釣りに行くかい? 釣りに行ったことある?」
「うん」

 スクリーンには小さな漁船から撮影したとおぼしき海の映像が流れだした。観客の声にも反応するようにできているらしい。

「波が来るぞ」

 沖へ出るにつれて波が高くなり、船は左右に大きく揺れた。スクリーンの映像に合わせて子どもが体を揺すっている。波の音に混じってミニマム・ミュージック風のBGMが流れる。椅子をぐるっと回転させると水平線が途切れずに見えた。

「どうしようか、今度は海にもぐってみようか」

 言うが早いか画面は海中のシーンに切り替わる。水しぶきを浴びた気がしたのか、子どもはぶるっと震えた。波の音が急に遠くなる。

「小さい魚がたくさんいるよ。どんな色の魚がいい?」
「えーとね、ええと、ほら、赤いのとか青いのとか、黄色とか、あとみどりとか!」

 スクリーンいっぱいにイワシの群れが現われ、色とりどりに着色されていく。ネオンサインみたいに次々と色を変える魚が全体では複雑なラセンの模様を描いているようだった。なかなか幻想的な眺めだ。椅子を倒すと天井いっぱいに渦巻きが現われる。子どもが緊張しだしたのに気づいてタクミはあわててテーマを変えることにした。

「今度はイルカさんだよ。イルカと一緒に泳ごう」

 画面はエメラルドグリーンに一転し、イルカたちが近づいてきた。

 外に出ると冬の午後の陽射しがひどく眩しく感じられた。

「あっ、パパだ。おじさん、じゃあね」

 タバコをふかしながらぶらぶらと歩いて来る男の方に子どもは駆け出して行った。タクミの掌に子どもの手のやわらかい感触が残っている。そうか、こんな感じなんだよな、本当は。

 遠くから休憩時間の終わりを告げるサイレンの音が運ばれてきた。

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