少女はデジャ・ヴに悩まされながらも懸命に走り続けた。この道が知っているところか知らないところか、それさえも分からなかった。
「トトートや。」少女の母親は彼女が目を覚ますとこう言った。
「トリイベル夫人のところへ行って、これを買って来ておくれ。」
少女は驚いた。トリイベル夫人という名に覚えはあったが、その人の店には一度しか行ったことがなかった。しかもそれは少女がほんの小さい時で、母親に連れられてのことだった。今、覚えているかどうか自信もない店である。
「他の店じゃだめなんですの? お母さん。」
母は静かに首を振った。
「トリイベル夫人しか知らないものなんだよ。」
そう、と言って少女は首を傾げた。
「何を買ってくればいいのかしら?」
「*****」
少女は再び驚いた。聞いたこともなかったからだ。覚えるために三回も口にしなければならなかった。
「夕方までに」母親は念を押した。
「必ず帰って来ておくれ。」
少女は走り続けた。似ている家並みが、同じところを何度も彷徨う錯覚へと陥れた。
夕方までには余裕があった。だが、彼女はどこか使命の重さを感じ、そしてまた、ある何かを予感してもいたので、走りに走った。何の根拠もなかったが、彼女は自分の走る道を正しいと思った。
がらくたのような街並みを抜けると、突然視界が開けた。あたり一面畑である。だが、そこには何も植えられていなかった。黒々とした土が少女の目を打った。
今度こそ、デジャ・ヴではない。この景色には覚えがあった。
がらん、とした空間に、冷えた空気が広がっていた。雲がどんよりと空を覆い、霧が遠い何処かを隠していた。
少女は少しも戸惑わなかった。この道を知ってはいたし、それとなく自信があった。いつまでも畑が続き、人の気配はまるでなかった。少女は疲れることなく走り続けた。
道は上り坂に変わった。畑がいつの間にか消え、道は山中へと伸びていた。少女の思い通りだった。
その道は暗い森に覆われ、重い気配が被さっていた。少女はこの森の匂いを覚えていた。上り道は辛かったが、少女はその足を止めなかった。この坂が終われば小高い丘になり、今まで走ってきた道のりを一望できる。その快さを思い出したからである。森は深く、知らない鳥のさえずりが、亡霊のように漂っていた。木々が風に震え、うねりを打ち、彼女もまた、微かに震えた。しかし足取りは乱れなかった。
森が消え、ざぁっと風穴が開いた。少女は光ある空間に放り出された。
頂上だった。上も前も、横も後ろも、空のほかに見えるものはなかった。世界は奥底へと沈み、少女は眼下を眺めつつ走って行った。霧に包まれ、それほど見えはしないが、今まで自分が紛れていた景色が足下にあることは、少女に余裕と満足を与えた。彼女は溜息をついた。
少女は家を出てから初めて歩いた。周りも明るく、怖くはなかった。
すると、どこからか騒音が聞こえてきた。少女の予期した通りに、道は車道へとぶつかった。知っている道だった。少女は安心のあまり立ち止まった。あとは頭も体も知っていた。真っ直ぐ歩けば良いだけである。
少女はゆっくりと歩き出した。何台もの車が、大きな音のかたまりを放り投げては少女を追い越して行く。つまらない…自分の今に物足りなさを感じ始めたその時、少女は、脇道から走ってきた少女にぶつかった。
二人の少女は同時に驚いた。
「トトートじゃないの!」
「シャーデイ!!」
二人はこの偶然に驚いて、しばらく黙ってしまった。何て久し振りなんだろう。こんなこともあるのだ、と二人は見つめ合った。
二言三言、話すうちに、シャーデイはふと思い出したように言った。
「トトート、貴女、私の家に来なさいよ。こんな場所では話せないわ。私の家に来たことなかったわね。早く、いらっしゃいよ。」
そう言われて、少女は一瞬ためらった。だが、先ほど感じていた自信とつまらなさ、そして友人の強いすすめもあって、少女は友人の誘いを受けることにした。その家が、目指す店の方向にあったことも少女を安心させた。その頃には、少女の心に圧しかかっていたある予感も、その重さを失いつつあった。
二人は楽しく話を交わしながら、家へと向かった。
友人は先に門扉を開き、少女を手招きした。少女は家へ入る前にちらりと空を見た。あいかわらず雲がかかっていたが、正午頃だろう、と少女は見当をつけた。
そして、友人の家に足を踏み入れたその瞬間、ばりばり、という大きな音が、天から傾れ落ちてきた。少女が空を見上げると、雲が裂け、遠くの霧が捲れあがっていた。張りつめるような予感が、再び少女の心を打ちつけた。
太陽が姿を現した。
あ、と少女は叫んだ。その光は、すでに夕陽のものだった。
少女は走った。斬りつけるような予感と、焦り、そして泣きたい衝動に駆られて少女は走り続けた。車のガスに咽びながら、少女は狭い歩道を狂った様に走った。
あっという間に『トリイベル』という看板が目に入った。喉から心臓が飛び出そうなくらい、少女は不安に打ちのめされていた。店に着くことで、却って不吉な予感が少女を支配した。
古い店だった。夕陽が照らしているにもかかわらず、暗い外観だった。『トリイベル』と彫られた金のプレートだけがきらきらと輝いていた。
少女がドアをくぐると、来訪者を報せるブザーが鳴った。古い外観に比べ、中は近代的だった。リノリウムの床に磨かれた金属の造型が静かに配置されていた。暗い部屋の中、夕陽の光がオブジェによって、立体的に反射し合っていた。
女が現れた。少女は直感的にトリイベル夫人だと思った。その時、少女の瞳から涙が自然と流れ落ちた。
女は、黒いレースが豪奢な異国の服を身に着けていた。踵の高い黒いブーツが女の美しい脚の形を存分に引き出している。
「トリイベル夫人!」少女は半ば怒鳴る様に、そして半ば哀願する様に叫んだ。トリイベル夫人は美しい顔を静かに傾けた。ほどなくして、その表情は何かを了解したものへと変わっていった。
「貴女、トトートさんね? 一体どうなさったの? 大分会いませんでしたね。」
「あの…、母が、*****を頂いて来なさいって。」
「*****ですって?」
女は美しく沈黙した。
「何かの間違いではございませんか?」
女の緩やかな口調は少女を苛立たせた。夕陽は最後の輝きだった。
「いいえ、母はそう言っていました。」
少女はしゃくり上げそうになるのを我慢して言った。
「トトートさん。」
少女は何か張りつめた様な予感が再び心を満たすのを感じた。
「*****はもうこの世に存在しないものなのです。」
少女は打ちのめされたように表情を失った。耳鳴りがした。
「で…では、トリイベル夫人…、私はどうすれば…。」
夫人は上品な、しかし厳然とした口調で少女に言った。
「お母様に問い質して御覧なさい。ほら、電話はあちらですわ。」
少女は心に痛みを抱えながら電話に向かった。不安がますます少女を締めつける。
少女は指の震えのために、何度もボタンを押し損じた。
やっとの思いで、正しい番号を押し終えた。だが、電話は通じなかった。
少女は不安に駆られて何度も何度もボタンを押した。
四度目に入り、ようやく相手とつながる気配が感じ取れた。
だが、少女は電話が通じたことで、不吉な予感が一層高まっていくのを感じた。
傍らのトリイベル夫人も蒼い顔をして、少女を見つめている。
「もしもし…」少女は乾いた声で呟いた。
「……オ・カ・ケ・ニ・ナ・ッ・タ………ハ…」…テープをゆっくり回転させた様な機械的な声が受話器から流れてきた。少女は息を呑んだ。
「トトートさん!」夫人は少女のただならぬ様子を見て叫んだ。
「…ゲ・ン・ザ・イ…………オ・リ・マ・セ・ン…」
少女は目の前が崩れ落ちていくのを感じた。その唇が白くなった。
「ト…トトートさん、大丈夫ですの? 一体何ですって?」
少女は夫人に説明しようと試みた。
だが、言葉が声にならなかった。
「………ヨ・ク・オ・タ・シ・カ・メ・ノ・ウ・エ………ク・ダ・サ・イ…」
少女は自分の予感が何だったのかを理解した。少女の動きが止まった。
夫人が懸命に話しかけている。少女は受話器から手を放した。
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