部屋の扉がゆっくり開く……音もなく。そして闇のなかで何者かがひそやかに動いた。気配はひとつではなかった。血に飢えた幾つもの眼が戸板からもれ入る月光のなかに青白く光る。確信をこめ、もの慣れた様子でその異形の影たちはこの部屋の奥の壁に沿って並んだ二つの寝台に忍びよると、しめし合わせるように腕をふり上げその鋭い爪を一気に夜具に刺し通した。
「くっ……!」
くぐもった低い叫びはしかし、予期せぬ手ごたえのなさにうろたえた襲撃者の喉から発せられたものだった。あわててひとつの手が上がけを引きはがす……と、そこには空しく切りさかれた寝床があるばかりだった。その刹那、戸板が激しい音とともに押し開かれてさし込む満月の光が彼らの目を眩ませた。逆光のなかすっくと立つふたつの影。抜きはなたれた長剣を落ち着きはらって構えるその姿は、不意をついたつもりの襲撃者たちがかえって致命的な罠にはめられたことを明瞭に物語っていた。
「やっぱり……ね。デスの言ったとおり……」
若々しい声が重たい夜の沈黙をやぶって響いた。
「人間を装っていたんだな。……こいつら、魔獣だ」
「数は多いぞ……油断するな」
年長者の低い声が答え、同時にその剣の切っ先が呼び込むように、すっ……と下がる。つぎの瞬間まるで魅入られたかように襲撃者たちのひとりがそこへ挑みかかった。
一閃……! すさまじいまでの切れ味。魔獣は肩口から下腹までまっぷたつに両断され、おびただしい血煙と断末魔の痙攣とともにどうと床にのめりこんだ。月明りのなかにすでに半ば変容したその姿……傾斜した額に密集した剛毛と歪んだ唇からはみ出た牙、そして無念のうちに空をつかんだ指先の鋭いかぎ爪。それこそこの者たちが人の姿を借りた魔物である証だった。
「はっ、今夜は久しぶりに楽しめるぜ!」
若者は笑いをふくんだ声音で叫んだ。そこには旅篭屋と見せかけて旅人を引き込み、夜陰に乗じてその身体を食らい尽くすおぞましい魔窟に踏み込んだ者の脅えなど露さえもない。いまやむしろ魔獣たちのほうがとまどっていた……こいつらはいったい何者なんだ?
その疑問は戦士たちが剣をふるい始めるやいなやたちまち驚愕と、さらには狼狽へと転じた。まさに麻幹を斬るという言葉どおり、その逞しい腕に握られたふたふりの剛剣は魔獣の腕を、首をあっけなく断ちはなち、また返す刃は背後を襲わんとする敵の胸板をつらぬき臓腑を切り裂いた。その動きは月に戯れる波光を思わせて自在にして滑脱……しかも互いがぴたりと呼吸を合わせ、少しの無駄もない。たちまちに部屋の魔獣たちは一体残らず切り伏せられ、戦いは騒ぎを耳にして駆けつけた新手を相手に外の廊下へ、階段へ、そして階下の広間へと続いていく……。
このころにはようやく魔獣たちも尋常ならざる相手と悟ったか、自らの爪や牙のみならず棍棒、鉈などおのおの得物を手に、はたまた人間たちから奪った皮革の鎧兜までもその身につけて数をたよりに一勢に押し寄せ攻め潰そうとはかる。だが所詮は陥穽に落ちた無力な犠牲者を屠殺してきただけの烏合のともがら。対して老若ふたりの研ぎ澄まされた手練の剣技はひたすら超人的な冴えを見せた――身をかわし、受け流し、間をつめ、叩き伏せ、切りひらくその動きは一瞬の光か風か。瞬くうちに無数の死体とほとばしる血潮で床はおおわれ、その赤黒い泥濘の上を踏みこえながらさらにこの無敵の戦士たちは剣戟鏘々死をふり撒きつつ舞い踊るのだった。
たまらず寄せ手は算を乱し、ついには命からがらわれ先にとどっと逃げ出し始めた。
「待て、ラン! 追うな……」
しかし老戦士デスの制止を背に若者は狂ったように歓喜の鬨を上げ、表の闇に散って行く魔獣たちの後をひた走った。
「……しかたのないやつ」
舌打ちしつつ剣の血糊を拭い、わずかに乱れた息を整えながらデスはたったいまおのれが作り出した修羅場を見わたした。何十という魔獣の死骸が血の海のなかに折り重なり横たわり中にはまだ死に切れず蠢くものもある……。
「因果なことだ」眉をしかめ悲し気にそう呟いて腰の鞘に刃を納めかけたが……、
「……?」彼は手にした剣を不審な面持ちで見やった。
たったいまあれだけの数の肉体を切り裂きながら刃こぼれはおろか脂すら浮いていないつややかな漆黒の刀身。此の世に二つとはない魔剣……だが今、握る手先に微かな、ごく微かなその唸りが感じられるのだった。
「……まさか?」
魔獣狩師の目に幾多の困難な戦いの間にも見せたことのない動揺の色がうかんだ。
*
闇を裂き、地を馳せランは獲物を追う。しかし逃げ遅れた数体を血祭りにあげた後は広い森のなかに散った魔獣たちはもはやこの狂戦士のまえに姿を見せようとはしなかった。
「くそっ……」
皆殺しの予感に高ぶったその身と心を静めるすべもなく、凛とした白光の抜き身を手にランはひたすら夜の森を疾駆した。月の光もとどかぬ闇のなかを根株や潅木を巧みに避けるその敏捷な動きは人のものとも思えない。
「……!」
突然、少年の足がぴたりと止まったのは梢をわたる遠い木霊が耳朶に触れたためだ。
……若い女の悲鳴のようだった。しかし……?
人里は遠く森は深い。こんな夜更けに村娘などそのあたりにいるはずもないのだが……。
つぎの瞬間彼は剣を構え直すと全力で走り出していた。微かな悲鳴にまじってのぶとい咆哮が夜気を震わせたのだ……魔獣あり! 果然、狩師の血がふつふつと燃えたぎりランは、尋常の人間なら手探りつ数刻かかるほどの道程を一気に走破して、林床の開けたその広場に躍り込んだ。
見れば……頭上から射す青白い月光に照らされた大地のうえ黒い髪を褥に白衣の姿が力なく伏している。さらにそれに屈みこむようにして毛むくじゃらの灰色の巨魁がひとつ!
「……ええいっ!」
満身の気合いを込めランは疾り寄りつつ白剣を横にはらう。しかし魔獣は身体に似合わぬ素早い動きで間一髪飛びずさり、少年の一撃は丸太のような二の腕をわずかに掠ってすえた悪臭をはなつ体毛がぱっと月明りに舞うのみ。
はっ……、はぁーっ。くだんの魔獣は二度、三度、踏み込むランの切っ先をからくもかわし逃げうせる。その度に若く俊敏な身体も右に、左に、宙を飛び彼我の間合いを詰める。息をもつかせぬ速攻をしかし紙一重に摺り抜けられて恥辱に目もくらむほど猛り狂った少年が、ついに相手の巨体を大樹の根元に追い込み、最後のとどめと必殺の剣を振りかざしたとき……不意にマントの裾を背後からつかむものがある。
咄嗟に握りを持ち変え振り向きざま新たな敵を突き殺そうとしたランは、しかし足許に腹這ううら若き女の姿を見とめてぴたりとその手を止めた。
「無事だったか? ……よかった」
その一瞬の隙をついて魔獣は大きく跳躍し背後の暗い森へ姿を消した。追おうとはしたが娘にすがりつかれていてはさすがにランもなすすべはない。やがてあきらめて膝をつくと脅えきった身体を抱き起こした。
「怪我はないか?」
声に出すかわりに少女は蒼白の顔をわずかにうなずかせ、この救い主が人か魔かを推し量りでもするように美しい大きな瞳でなぶるように見まわす。薄物をまとった胸元がはだけて見慣れぬ黒い宝石が光る胸の谷間が月の光にあらわだった。……目のやりばに困り、少年は居心地悪げにみじろいだ。娘は夜目にも疑うべくなく美しかったのである。
「……怪しいものではない。安心するがいい。だが、女……なぜこんな所に?」
問われて張り詰めていた気が緩んだか崩おれそうになる娘の身体をランはあわてて支え……柔らかく豊かな乳房を脇腹に感じて不覚にも頬を赤らめた。
「ありがとうございます」
鈴のように涼しく、しかしどこか密かに甘い声で娘は言った。
「……わたしは西の村の長の娘ドオル。夜盗たちにかどわかされたのです。家の者はみな殺され、ただひとりわたしだけが……女奴隷に売るためでしょう生かされました。しかし一行が北の峠を指して森を抜ける途中、突然おびただしい魔獣の群れに襲われたのです。盗人たちは戦い空しくつぎつぎと倒れていきついに最後の一人になった時、あのいやらしい猿人にその腕で抱きすくめられ……あとのことは覚えていません」
指が白くなるまできつく娘が自分の衣服の袖口を握り締めているのに気づいたランは、そのたおやかな背にためらいがちにしかし優しく腕をまわした。
「気丈な人だ……ドオルとやら。さぞや恐ろしかっただろうに。しかしもう心配はいらない。これから後はぼくのこの剣が貴女を護る」
「どうぞお名前をお聞かせください。夜の森のただなかでわたしのために闘ってくださったあなたは……?」
「ラン……魔獣狩師だ」
「ああ……」ドオルのひんやりとした掌がいまだ剣を握りしめる己の二の腕にすがるように押しあてられた瞬間、ランの背筋に甘美な戦慄が走った。
*
その場所にデスの姿はすでになかった。夜がしらじら明け始めた魔獣の館はしんと静まりかえり、彼の名を呼ぶランの声は空しく森に吸いこまれて消えた。さすがに死屍累々としたなかにドオルを伴うのははばかられ、ランは野天の焚き火で暖をとりながら携えていた干し肉をふたり分け合って腹をこしらえた。
少年に何も言わぬまま老戦士が姿を消してしまうのはいかにも奇妙だった。裳裾をたくし上げおぼつかない足取りのドオルの手をひきながらの道程は確かに思うにまかせなかったものの、それでも昨夜の戦闘からそれほどの時がたっているわけではない。もっとも制止を振り切って逃げる魔獣たちを深追いしたのは自分自身であったからランとしてもその失踪を咎めることはできなかった。
こうしていつまで待ってもデスは姿を見せそうにないと見切ったランは連れのために館のなかで旅装束の一式を捜し出し、魔獣狩師の報酬と、すでに天涯孤独となった娘の当座の暮らし向きのために魔獣たちが掠奪し貯めこんでいた宝石の幾つかを懐に納めると、厭わしい建物に一気に火をはなちその場を後にした。
「わたしの伯父にあたる者がここから東の方にある村に住んでいるはずです」
「ではとりあえずそこまで送ろう。三日ほどの旅程だな」
「お連れは……?」
「デスのことなら心配無用だ。魔獣の森の周辺に人里は幾つもない。いずれ落ち合うことはできるだろう」
そうして一転して男の装いとなってみるとドオルは傍目にはまるでランの弟のように見えた。細い肩や豊かな腰回りはなるほど若い娘のそれであったが長い髪を旅商人の頭巾に隠した涼とした風貌は奇妙なほど彼自身に似ていた。その事実は最初のうちランを戸惑わせたが、やがてこの異性の連れが危惧していたような足手まといにならぬばかりか望ましい旅の相手であったことを知って予期せぬ喜びを見出した。……道々ドオルはこまめに薬草や茸を摘み、目敏く鳥や蜥蜴の卵を見つけては粗末な野外の食事に滋養と変化を与え、さらに魑魅魍魎の跋扈する夜の森での野宿の際にはランと代わる代わる東の空が白むまで焚き火を見守り続けた。そうしたとき彼の眠りを覚ますのにドオルは必ず少し離れたところから低く声をかけた……戦士としてぎりぎり研ぎ澄まされた者の身体に不意に触れることの意味を彼女はよく心得ていて、その思い遣りもまた彼にはありがたいものだった。抜き身の白剣をかたわらに林間の闇にひそむものの気配を鋭く探りつつも、すぐ側で静かな寝息をたてるドオルの存在にランはいつしか不思議な安らぎと満足とを感じていたのだ。
「おれは何処の誰ともわからぬ孤児だそうだ」
礫でしとめた椋鳥の肉を頬張りながらランは言った。
「この白剣だけを身に携えていたと聞く。……覚えていないが、魔獣にもう少しで殺されそうになっていたところをたまたま通りかかったデスに救われたそうだ。だから……」
彼は炎に映えるドオルの美しい横顔をちらりと盗み見た。
「ひょっとするとあなたとぼくは血がつながっているのかも知れない」
「……わたしの知っているかぎり身の回りに魔獣にさらわれた子供の噂は聞きません。あるいは血が繋がっていたとしても遠い類縁なのでしょう。……ではあなたも寂しい身の上なのですね」
「……同じ境遇というわけだね。しかしぼくにはデスがいる……。育ての親で、師匠で、かけがえのない仲間でもある」
彼がそう言ったとき娘の目に奇妙な表情――怒りとも悲しみとも焦燥ともつかぬ何か――が一瞬浮かんだことに、だがランは気づかなかった。
旅を重ねて三日目の早朝、彼女の伯父夫婦が住むというその村はずれの家にふたりはようやくたどり着いた。
「土塀がこんなではいつ何が入ってくるかわからないな」
ランは雨風に半ば土に戻った日干し煉瓦の堆積を足で突き崩しながら言った。
「この家に間違いないのか?」ドオルはうなずき、黙然として廃屋を眺めていた。
「……もう何年も誰も住んでいないようだ」
「でももうわたしには他に頼るところも……」
少年はため息をつきあたりを見渡した。……はるか以前にここが魔獣なり盗賊なりに侵され掠奪しつくされていることは明らかだった。
「これではあの魔獣の宿のほうがまだましだったかも知れない」
わざと気楽な調子でそう言ってはみたが……振り向いたランは頭巾をはずし豊かな髪を肩まで垂らした男装の乙女が白いかんばせを悲しげにうつむける姿に胸をつかれた。
「どうする……これから?」
魔獣との戦いには並ぶ者ないランも世俗のこととなるとひとりの無垢な少年にすぎない。
「とりあえず雨風はふせげるでしょう。壊れたところは後日、村の男手を雇って修理するつもりです。お陰でここしばらくの貯えはありますから……」
「でもここは村はずれ……魔獣の森も近い。塀を築き門を立てるまで気は許せない」
血の気のない顔でそれでも艶やかにドオルは微笑した。
「それではいましばらくわたしをあなたの剣で守っていてください。せめてお連れの方の消息がわかるまで……。虫のいい願いでしょうか?」
否応もなかった。デスの行き先がわからない以上どこへ向かうこともできない身である。そして……ドオルの側にもう少しのあいだ居すわる口実が出来たことをむしろ密かに喜んでいる自分に彼自身驚いていた。これまでデス以外の人間とは――それが若い女性であればなおさら――心安くつき合ったことなどない彼だったのだが……。
*
当座の食料や家の補修のための人手を求めて何軒かの近所の家々を訪れ、例の宝石を代価に彼らは目的のものを手に入れた。善良そうな村人たちは荒れ果てたこの屋敷に住む者が現われたことをかえって喜び、ランの耳朶染めながらの否定にもかかわらず『若い夫婦』を歓迎するため清潔な古着やとりあえずの生活に必要な日用の品々を親切に提供してくれた。
わけあって着のみ着のまま駆け落ちた恋人たち……どうやら村人たちはすっかりそう決め込んだ様子で、夜の食事のときドオルはそれを悪戯っぽい微笑みとともに繰り返し、ちょうどそのとき飲んでいたスープにむせかえりそうになってランはあわてて器の水を口にふくんでごまかした。
「むしろ気が重い……」
「なぜ?」
少女の問いに彼は口ごもった。……やがてはドオルのもとを去り、魔獣狩師としての阿修羅の日々に戻らねばならない自分なのはわかっていた。だがいまこの瞬間、質素でありながら心安まる食卓を前にしてそれを言うのはためらわれた。
「……人づきあいは苦手だから」
そんな答えを真に受けたのかドオルはくすくす笑いながらテーブルの上の彼の無骨な手に白い指をそっと触れた。
「あなたは剣を置くとまるで子供のようにはにかみやなのね?」
むっとした顔をつくろうとした意に反してランの唇に寂しげな笑みが浮かび、わずかに白い歯がこぼれた。
……目の前では揺れ動く灯が彼女のほんのりと微笑んだ口元や黒く輝く瞳を照らし出し、窓の外の夜の闇からふたりの団欒をくっきりと切り取っている。かつて幽鬼のようにその闇から闇を渡り、村々の灯火を遠く見ながら街道を冷たい夜風のように通り抜けた自分がふとひどく遠いものに感じられた。
「……デスがここにいればいいのになあ」
ランはぽつりと呟いた。が、なぜかその言葉はドオルから笑みを奪った。
「どうした?」少女の気持ちの変化を敏感に察してランは尋ねる。
「……別に」いままでの浮き浮きした会話は途切れ勝ちになり、やがてどこか気まずい思いで夕食は終わった。
ドオルは寝る前に湯を使うと言って早々に部屋に下がってしまい、ランは隣り合った自室の寝台に仰向けに横たわり傾いだ天井を見上げながら自分の言葉の何がそんなに彼女の気持ちを傷つけたのか思いあぐんだ。隣室での湯あみの気配を心の隅にとめつつ、ランは剣士のつねで無意識のうちに周囲の物音に油断なく耳をすましていた。遠く魔獣の森の木々をゆらす風の声、村から微かに聞こえる犬の遠吠え、そして暖気を帯びた屋根裏の梁がきしむ音……。そうして万象の気配に気をくばりながらいつしかランの意識は満ちた腹のためもあって穏やかな、だがいったん事あれば瞬時に覚醒するいつもの眠りに落ちていった。
……部屋のなかに何者かの存在を感じてランは目を開けた。一瞬のうちに五体が眠りから覚めると同時に左手が傍らの白剣の柄をさぐる。その場に横たわったままひき絞られた弓のように心を張りつめ敵の襲撃に備える彼の鼻孔に、しかし不意に湿った髪のかぐわしい香りが触れて部屋の入り口に立つおぼろげな影の正体を告げた。
「ドオル……?」
そう問いかけるのと同時に女の両肩から絹ずれの音と共に薄ものが床に落ち、驚愕し身を堅くしている彼の寝具にひんやりとした裸身が滑りこんできた。
「なぜ……」
男の唇を女の指がそっとふさぎその耳に甘い言葉が吐息とともにささやきかけた。
「……怒ってる?」
『怒っているか』だって? ぼくはむしろ君のほうが……ランの思考はしかし、しなやかな四肢が身体に絡み、柔らかな唇が唇に重ねられると砕けて散った。
黒石と金の鎖が熱く燃えた胸に冷たく押しつけられて長剣が重い音とともに床に倒れると、魔獣狩師の逞しい腕はおずおずと滑らかな裸の背中にまわされて、その深い溜め息は闇のなかの女の妖しい微笑みに混じりあった。
*
「望みのものを手に入れたわけだな……」
暖かく息づく肉体を腕のなかに感じつつうっとりと目を閉じていたランはあわてて寝台のうえにはね起きた。夜明けの薄明に愛の余韻がまだ残る部屋の戸口に厳しい顔つきの白髪の男が立っている。
「デス……!」
いったいどうやってここを……という疑問と房事にふけって彼の侵入をまったく感知できなかった己れの未熟への慙愧とに混乱しながらランは叫んだ。しかしデスは少年――と呼ぶよりすでに一人前の若者となったランを無視して、宿敵に対するかのような鋭い視線をドオルへと送りつつ言った。
「魔獣たちの結界を破ってこの場所を捜し出すのにずいぶん手間取った。だが、まだ間に合う。その腹をこの手で切り裂けば呪われたウロボロス――閉じた魔の円環を打ち壊すことができるだろう」
シーツを裸身に巻きつけ脅えた表情の少女に殺気を込めて詰め寄るデスの常ならぬ様子にランは我を忘れてその前に飛び出した。
「まってデス。何か誤解している……」
白髪の剣士はじろりと彼をにらむとつぎの瞬間黒剣を鞘ばしらせ下帯ひとつの無防備なランを襲った。
「何をするんだ!」
その凄まじい切っ先を辛くもかわして飛び下がったランの胸から血がひとしずく糸をひく。若者はそのまま後退りつつ床に一転、しかし起き上がったときにはその手に白剣が握られていた。
「狂ったか? デス!」
「……かわしたか。お前にすべてを教えたのは間違いだったかも知れない。今となってはわれらの技量は互角。真剣を交えれば必ずどちらかが死ぬ。……これもまたこの魔女の思う壷か」
デスは無念そうに言った。
「魔女?」
「暗き太母と言っても同じこと」
「『暗き太母』……ドオルが魔獣たちの支配者だと言うの? 馬鹿な……何かの間違いだ、デス」
「これを見ろ!」
デスは自ら剣をかざし低い唸りをあげるその黒い刀身にランは息を飲んだ。
「これほどの妖気を発する存在は他にない……ラン。その女から離れろ。お前と殺し合いたくはないのだ」
ランは混乱した。父とも師とも仰ぐデスの言葉。しかしこの数日を共に過ごして愛と信頼を深めあい、昨夜肌をも重ねたドオルをどうして見殺すことができよう。
「で……でも、ぼくには信じられない」
「すでに誑かされたか……ならば仕方ない」
デスは剣を構えじりっと前に進み仕方なくランはドオルを守るように寝台のまえに足場を定める。
「デス……。ぼくもあんたとは戦いたくない……」
しかしもはや相手は無言……瞬間白髪を逆立て身を沈めつつ地を這うような一閃を送ってきた。
「ええいっ!」
ランはやむなく宙に飛び上段の太刀で応える。
「たっ!」
俊烈な白剣を剛敏な黒剣が受け止め高く澄んだ音が冷えた大気に鳴りわたった。
老戦士が違わず看破したとおりふたりの腕は互角、並の剣士ならとうてい受け取めきれぬであろう凄まじいデスの連続攻撃をことごとくランははね返す。黒き風、白き光、互いに寸尺も譲らず撃ち合う刃、削り合う鎬の響きは一瞬の途切れもない。
だが、ひたすらドオルを襲おうとするデスに対してランは次第に守勢に立たされていた。長剣で戦うには部屋は手狭でありながら唯一の戸口は老戦士にふさがれている。背後の少女を気にして彼が十分に動けない一方で相手は遠慮なく剣をふるうことができた。何よりランにはまだデスに傷を負わせるだけの決心がつきかねている。……このままでは何時かは隙をつかれ守りを破られる、そう見抜いたランは大声でドオルに叫んだ。
「早く! こうしている間に窓から逃げろ……!」
彼女はその言葉に即座に従って寝台を飛びだし窓の戸を開け放つ。これでドオルは無事……ランがそう思った刹那、デスが憤怒の唸り声とともに激しい攻勢をかけて彼はたまらず一、二歩後退した。
つぎの瞬間老戦士は意表をついた動きに出た。……当然剣で受け流すと予想した牽制の突きをしかしデスは自らの腹に呼び込みつつ間合いをつめ、一瞬呆然としたランの額を黒剣の柄で激しく撃ったのだ。
「……あっ!」激痛と衝撃に目がくらみ半ば朦朧とした彼の視野に脇腹を剣で貫かれたまま窓際に駆け寄り、身を乗り出そうとしていたドオルの無防備な背中に必殺の気合いで剣を振り下ろすデスの姿があった。そして声もなくのけぞった少女の裸身が鮮血ほとばしらせつつ窓の外に逆落としに落ちていくのを見ながら彼はついに真っ暗な忘却の淵に飲まれた。
……気がつくとランは床に仰臥しその片目は血糊に閉ざされていた。割られた額の痛みにうめきながら身を起こすと部屋がぐらりと揺れる。そのまましばらく眩暈がおさまるのを待ってから彼はそっと周囲を見渡した。窓から射し込む朝日のなかに黒く横たわる影がある。
「……デス!」囁くようにしゃがれ声を絞り出しランは床這いながら老戦士ににじり寄った。
「……なぜあんなことを」
その身体の下にはおびただしい血が溜まり、すでにこの老人の生命を救うどんな手だても残されていないことは明らかだった。
「……これでいい」
途切れそうな息づかいとともに血の混じった泡を口端にためつつデスは微かな声で言った。
「……鎖は断ち切られ新しい日々が生まれる。……生きよ、ラン」
その幾多の戦いと苦悩の皺を刻みこんだ顔をランの涙で濡らしながら……デスは最後の吐息をはきつつこと切れた。
滂沱と流れる涙が血糊で覆われたランの目を洗った。他ならぬこの手でこともあろうに最愛の人の生命を奪うことになろうとは……。
「わからない……なぜ?」
半刻もそうしていただろうか、ランはようやく膝をついて立ち上がりすでに青く美しい空の広がる窓辺へと歩み寄った。……ためらい勝ちに身を乗り出した彼は、しかし予想したドオルの無残な姿がそこに見えないことに愕然とした。窓の外の地面には半ば渇いた血溜まりがあるだけで少女の身体は影も形もない。あれだけの創傷から血を滴らせながら……。
希望よりむしろ当惑が大きかった。村人たちの手ですでに運ばれたのか? だがそれにしては庭は静まり返り、誰ひとりこの惨劇に気づいた様子もない。そうするうちに爽やかな朝の大気が彼の意識を次第に明瞭にした。彼は向きなおり部屋のなかをあらためて見回す。デスの身体を貫いたはずの彼の剣が見あたらなかった。ドオルの身体。そしていままた彼の白剣。……どこか妙だった。しかしランは疑念は後回しにしてとりあえず老戦士の骸を弔うべきことを自らに言い聞かせた。
ひとりデスを庭に埋葬し、しばしその前に額ずいたランは師の黒剣を手に屋敷のなかを再びドオルの行方を捜した。しかし家の内部は悲しいほど前夜の団欒のままであり娘の生死を示す何の手掛かりもない。撃たれた額の傷はまだ激しく疼き、朝から一滴の水も食物も口にしていないランは強い疲労感を覚えた。
せめて喉を潤すべく、裏庭の井戸の縁で瓶の水を貧るように飲みほしていた彼の耳にその時微かな物音が聴こえた。すぐ近く……というよりもむしろ……。ランは驚き怪しみながら自らの腰の剣を見た。低い唸りが鞘から発している。引き抜くとその漆黒の刀身は次第に強く振動を始めていた。ランの脳裏にデスの言葉が蘇った。……黒き魔剣を鳴かすもの……。
「……ドオル!」彼は走った。門を抜け村からの街道をまっしぐらに……魔獣の森へと向かって。
*
剣に教えられてランは立ち止まった。森の木々の暗がりのなかに白く浮きあがる影がある。それが先日戦ったあの巨猿であり……そしてその太い腕に抱かれ、ぐったりとしたドオルの姿があることにも彼はもはや驚かなかった。
「お別れね……。ラン」
「やっぱりお前は……。デスの言ったことは本当だったんだな?」
ドオルは青ざめた顔をわずかに微笑ませた。
「半分だけはね。確かにわたしはすべての魔獣たちの支配者にして暗き太母。でも己れの生命を捨ててまでわたしを斬ろうとしたことは彼の間違い……。この身体はわたしという存在の現われのひとつにすぎず、たとえそれを傷つけてもわたし自身を滅ぼすことはできない。無益なことを試みなければあの男も余命つきるまでこの世にとどまれたものを……」
「その無益なことを今またやらねばならぬ。デスのこの剣でぼくはお前を斬る」
正眼に構えた剣をかすかに震わせつつそう叫ぶランに、しかしドオルはどこか婉然とした笑いを浮かべて言った。
「それを試すのはお前の自由。またそうせずにはいられぬ気持ちも分からぬでもない。……しかしお前はまだすべてを知ってはいない。まずはわたしの話を聞いてからのことにしては?」
ランはためらった。奸計か? しかし……。ドオルも猿人もあまりに静かに落ち着きはらっている。深閑とした森のなかで彼の意気込みだけが虚しく空回りをしているようにさえ思えた。
「ぼくの知らぬすべて?」
逡巡のあげくのランのその問いに、ドオルは身体の脇に白剣をかかげた。
「例えばこれ……。お前はデスと知り合う前からすでにこの白剣を持っていたという。しかし誰がそれをお前に与えたのだろうと考えたことはないの?」
ランの首筋にぞっと鳥肌がたった。ドオルが今語ろうとしている事柄についてなぜか彼のなかに不思議な予感があった。
「『黒剣』と『白剣』、そしてわたしのこの……」魔女は胸の黒い輝きを指し示した。「『冥王石』は暗黒の三位一体を象徴する。それらは『父』と『子』と『母』……。『父』が失われた今、『子』であったお前にその黒剣が譲られたのだ。そして白剣はやがてわたしが産むであろう次の選ばれし聖なる『子』に引き継がれる」
「……どういう意味だ?」
ランの声はしかし、ささやくまでに小さくなっている。
「デスの言葉を思い起こすがいい。『ウロボロス』――自らの尾に喰らいつく輪廻の蛇についての警句を……」
一瞬彼は恐ろしい真相を垣間見、よろめいた。
「デスは……ラン、すなわちお前の父親であり、ドオルであるこのわたしこそお前の母。この白猿を含めてすべての魔獣は、それゆえお前の同胞……」
彼女はいまや成熟した女の妖艶な笑みをうかべていた。
「さらに今また、昨夜の契りでわたしの胎内に注ぎこまれたお前の子種が新しい『ラン』や魔獣たちとなっていずれこの世に産み出されるだろう」
ランは……、否、いまや自らを『デス』であるとも悟った若者は力なく大地に跪いた。
「思い出したのね。お前の前世を……」
彼は涙に濡れた顔を暗き太母へとふりむけた。
「……な、なぜだ。なぜ、こうしたことを? すべては何のために?」
今や微光に包まれ、その輝きのなかで無数の女人の姿形に揺れ動き変化しつつ“それ”は言った。
「われらはもとよりこの世のものではない。……他界からの侵入者だ。われわれは自らの姿を変幻自在に変容させることができる流浪の種族。われらの夢は『力』。しかしそれはこの世を侵略し破壊するためのものではない。いかに戦いの技に長けていようともこの世のすべてを敵として長らえることができようか? むしろこの世界に溶け込みその一部となって生きること……それこそがわれわれの望みだ。
それゆえわれらはこの世界の住人の身体を模倣し、それらと交わり子孫を残す道を選んだ。少しづつ気取られぬ様に、長い時間をかけてわれわれは自らを変化させてきた。……いまやお前の姿は普通の人と少しも違わない。事実同胞のなかでもっとも人に近く、しかもなお猛々しさではあらゆる人間に優っているがゆえに、お前は聖なる子として選ばれたのだ」
いままで信じていたすべてが打ち壊される痛みを感じつつ彼は尋ねた。
「おれが魔族……であるなら、なぜ仲間であるはずの魔獣を殺さなければならないのだ?」
「なぜならわたしが産み出すごく一部のものはすでに人間と区別できないものの、大多数はいまだに異形の姿であるから……。お前がその剣でそうしたものたちを淘汰していく一方でより人間に似た兄弟姉妹たちが人と交わりつつその形態を定着していく。そうして年月を重ねるうちにその数は次第に増え、その模倣は一層巧みになり、最後には人間たちと完全に混じり合い、彼らの本質にわれらの飽くなき力への欲望をつけ加えることになるのだ。今や多くの魔族が人間として生まれ、暮らし、死んで行く。……昨今、人間たちの中にもまたわれら魔族にも似て残虐な行ないに魅了される者たちが増えていることに、お前は気づかぬのか?」
彼の手から黒剣が地に落ちて渇いた音をたてた。
「……そうだったのか?」
「これらの新しい『人間』……すでにわれらと彼らとが融合し一体となった種族……はやがて、この地のすべてをその力によって支配するだろう。彼らは世界の森羅万象をわがものとして自由に支配し、君臨し、搾取し尽くし、そして新たな別世界を求めて旅立つだろう。彼らはかつてこの地上の人間たちがそうであったように善良で穏やかであっても地面にしがみつくことしか知らぬ怯懦な生き物ではなく、進取の気性に富み美しくも残酷な誇り高い天空の支配者となるのだ。
……力。そしてそれによる果てしなき意志と尊厳。それこそがわれらが歩むべき道――冥境魔道……」
その声の木霊が消え失せぬうちにすでに『暗き太母』はそれに仕える魔獣とともに姿を消し、そしてその場には自らの運命によって打ち倒され死んだ様に動かない一つの姿だけが残った……。
了
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