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月狂いの夜

doru

 マスター悪い。グラス割っちゃった。いい酒がもったいないな。もう一杯お願いできないですか。ありがとう。きゃしゃな身体つきなのに力ありますって?……ははは。おれそんなに力あるように見えます。マスターも一杯いかがですか。グラスを割ったおわびに、おれからおごりますよ。どぞどぞ遠慮なく、おれ今夜は機嫌がいいのですよ。
 おれマスターとどこかであったことありました? そうですよね、おれもマスターもこの店が初対面ですよね。おれマスターと初めてのはずなのに、何だか昔なじみにあったような気がしているのですよ。妙ですよね。マスターもそうですか、いやあ、ははは……不思議ですねえ。
 それにしてもこの店さっきからお客さん誰も来ていませんね。あ、失礼、マスターはとってもいい人に見えるのにお客さんが誰も来ようとしないのはちょっと変だと思っただけなのですよ。
 ああ、そうか思い出しました今夜は満月だったのですね。それでこの店には誰も来ていないのがわかりました。みんな満月の月狂いを恐れて出歩かないようにしているのですね。確かにこんなに月の美しい夜は出歩かない方がいいですよ。
 それにさっきも当局に月狂い通報があったようなのです。マスターも今夜は早めに店を閉めた方がいいと思いますよ。
 おれの名前ですか。マスターどうしてそんなこと聞きたがるのです。おれを見ていたら急に聞いてみたくなった? ふふん、いいでしょ教えましょ。おれの名前は矢尾惟と云います。ええと字は弓矢の矢に、動物の尾、思惟の惟、これは名前です。おれの名前教えましたから今度来るときには酒代少しは負けてくれますよね。
 おれの名刺が欲しいのですか。うーん、残念ですけどおれ名刺持っていないのです。というか名刺は持ち歩かないようにしています。今度はおれの職も知りたいのですか。身元調査ってわけですか?
 ああ、悪い、またグラス割っちゃった。最近は力の加減もだいぶ慣れてきたと安心していたのですけど、ちょっと気を抜くとこうなってしまうのです。堪りませんよね、力が有り余っているのも考えものです。
 さあさあ、マスターもおれのことばかり聞いていないでぐいっと飲みましょうよ。おれが注ぎます。おおっとマスターもかなり飲めるのですね。
 え? なんですって? ひとつゲームをしないか、ですって? 変わったお店ですねえ、ここは。それもお客さんを退屈させないサービスのうちですか? どんなゲームです? ……かわりばんこに相手に質問をして答えてもらう? ただし本当のことを答える必要はない? 面白そうじゃないですか。相手の答えを信じようと信じまいとそれぞれの勝手なんですね? 互いの話のなかに嘘が入っているかも知れない。それぞれがそれを選びだして持ち駒として使うわけですね? 
 さてはマスター、おれのこと知りたくてさっきからうずうずしているのでしょ。おれのことを聞きたいけど、どこから聞いたらいいのかわからなくて、そんな遊びをいま思いついたのでしょう? いいですよ……おれ、普段ならそんなことしないのだけど、マスターの誘いにのってみたくなりました。
 それじゃまずおれから。そうですね……マスターは一年前のエリア8の事件のこと覚えていますか? なんでこんなこと急に思い出したのかな? ほらあれもやっぱり今日みたいにとびきり美しい月が出ていた夜の出来事のことです。覚えてない? は、は、は……それ、嘘ですね? 数百人のルナ教徒が、この店のすぐ前のロードで何者かに爆殺された事件、マスターが覚えていないわけがないもの。たぶんまっさきにあの惨状を目撃しているはずです。違いますか? 当時の現場写真をある筋から見せて貰ったことがあるのですが、ありゃあひどいものでした。どれもこれも焼けただれた肉の固まりに変わっていましたよ。
 え? それならこっちはあの事件の晩はどこにいたって? なんだかアリバイを調べられてるみたいですね。実はあの夜、おれもエリア8のロードにいたんです。ただし、おれはルナ教徒ではなく、ただ官庁街に向って行進している彼らを静かに眺めていたんです。え? それじゃますます怪しいって? 違いますよ。おれ犯人じゃありません。でも、それじゃなぜそんなところにいたのかって尋ねられると弱いな。じつは覚えてないのです。その事件を含めて以前のことは何一つわからないのです。記憶喪失ってやつですか……ふ、ふ、ふ。信じてませんね? たぶんその夜は美しい満月だったからおれも月に酔うつもりでふらふら出掛けたのかもしれません。自分がどんな目にあうかも知らないでね。
 そうです。あの事件では生存者はいなかった。おれは当然ルナ事件の哀れな犠牲者の一人に入っていないといけないのです。おれは死んでいなければいけないと云うことなのです。
 だけど今おれはマスターの前にいる。生きていると云うことはルナ事件の夜にはいなかったと云われるのですか。はははは……ルナ事件の夜にいたのは本当です。では今のおれは死人でしょうか? 足がついているから生きているだって、さあ、それはどうでしょう。実はおれにも今の状態が死んでいるのか生きているのかわからないのです。マスターの前にいるおれは本当は幽霊かもしれませんよ。
 おっといけない。ずるいなマスターは。自分が質問ばかりして。今度はこちらが尋ねる番ですよ。いいですね?

 マスターはこんな水商売をやる前は何かまったく別の堅気の仕事についてましたね?しかもかなり知的な専門職でしょ。え? どうしてわかったかって? じつはおれの仕事は人間観察業でもあってね。どんな仕事かはかんべんしてくださいな。警官には見えないから私立探偵か? ふふ、まあ、そんなようなものだと思ってくれていいです。とにかく、そんなわけで大抵の人間の話し方を聞いていれば何をやってる人かわかりますよ。マスターは……そうだなあ、なんか心理カウンセラーか牧師さんみたいな感じがするな。は、は、確かに酒場のマスターも似たようなものか。ところでマスターは本当の月狂いを見たことがありますか。何度か見たことがある?
 本当ですか? もし見ていないのだったら、近くの月狂いセンターに行ってみるといいと言おうとしたんですよ。どこのセンターにでもたいていのタイプがホルマリン漬けで展示されていますからね。
 月狂いを本当に見たこともない人間に月狂いがどんなものか説明してもわからないかもしれないけど、とにかく誰もが一目でおぞましさを感じる存在ですよね。月狂いを見たのだったらマスターもそう感じたでしょ? え? 嫌悪は感じなかった? そのかわり憐れで悲しかった? そりゃあ嘘だ。月狂いなんて同情するべき奴らじゃないですよ。まさかマスターはルナ教徒じゃないでしょ?
 だいたい月狂いってのは一口で云ってみれば人種の進化に外れたもの、遺伝子の怪物たちですよ。連中は姿形も統一されていないし、おおむね人間に狩られるのを恐れ暗闇の奥に好み隠れていて、満月の夜になると地上に出てきて月の光を浴び変化していく。つまりは伝説の鬼や狼男や蛇女の現代版。いや、あるいはそんな伝説もたぶんたまにあらわれるそうした実在の月狂いが語り伝えられたものだったのでしょう。
 でもそんな怪物は別に脅威でもなんでもない。見つけしだいかたっぱしから殺していけばいいだけです。やっかいなのはその形態が表面に現われてこない月狂いです。こちらは全体の数パーセントしか占めていない、極めて数の少ないものたちで姿形は人間と同じですから、捕まえにくくて、その上生意気にも人間よりも知能が高いのが特徴です。こちらはさしずめ吸血鬼でしょうか?
 最近政府が捕まえた月狂いは、IQが350もあったそうです。特殊なルナ力で人間の家族を騙して、その家族の子供として巧妙に紛れ込んでいたと云うから恐ろしいじゃありませんか。こういうやつらをのさばらしておいたら何が起るかわかったもんじゃない。見過ごしているうちに人間の社会のなかで密かに自分たちの種族を増やして、しまいに地球をのっとってしまうかも知れない。そのために種の純潔法は月狂いを見つけ次第抹殺することを認めているんです。月狂いは社会に疫病を巻散らかす鬼、得体の知れぬ侵略者です。この世にいるべきでない怪物なんですから撲滅すべきなのは当然ってものでしょ? そう思いませんか、マスター。おっと……いけない。おればっかり質問していた。今度はマスターの番ですよね。
 え? なんですって? エリア8にいたルナ教徒たちはあのときの爆発で全部死んだのだけど、おれだけ死ななかったのはなぜか、ですか? ふ、ふ、死ねなかったと云った方がいいかもしれません。おれの平凡な幸せと引き換えにおれは生を得たのかもしれません。
 ルナ事件を境にして人間としてのおれは死んで、今のおれはこのとき誕生したと思ってくれてもいいです。
 おれがエリア8で一度目の死を迎えたとき、え? こうして目の前で話しているから死人じゃないって、ふふふ、マスターさっきもそう云いましたね。でもそうかもしれませんね。あのままおれもルナ教徒たちと一緒にあの世におさらばしていたらどんなに楽だっただろうかとこんな身体になってみて思ってしまいますね。
 ああ、悪い、マスター、またグラス割っちゃった。
 月への貢ぎ物をするつもりの馬鹿な誰かがルナ教徒たちの中に爆弾を投げ込んでくれて、おれはそのとばっちりを受けて一度は死んだのです。
 その後、あのルナ事件の犯人は捕まっていないから、たぶん犯人は月に操られたルナ教徒たちとそのまま一緒にあの世行きと云うところでしょう。きっと地獄にいってますよ。
 マスターもそう思いますよねえ? え? マスターはルナ事件の犯人はまだ生きているって云うのですか? こりゃ面白い。その根拠は? ただの勘だ? ……ふ、ふ、マスター、どこまで本当のことを言っているのかな?
 とにかくバラバラになった屍体の山のなかからなぜかおれの遺体だけが政府のちゃんとした研究室に運ばれました。
 本当に偶然って恐ろしいものですねえ。満月の夜にエリア8のロードに歩いていなければ、おれはルナ事件に遭って死ぬこともなかった。いっぽう肉片だけが散乱するロードの中で唯一頭部が無事だったのもおれだけだったらしい。生命科学研究センターが長年開発していた人工の身体組織がおれが死ぬ直前に完成したのもこれまた偶然の一致だと云います。
 センターの所長はおれのことラッキーボーイだと云ってくれましたよ。こんなに偶然の一致が起こるのは珍しい特殊なことだって、一つでも狂っていたら今の君は生まれてないのだよって云ってくれたのです。
 ……ラッキーボーイと云ったのはおれにとってのラッキーではなく研究センターにとってラッキーだったのかもしれないって云われるのですか。どうなのでしょ。それに本当に偶然の一致だけだろうかって云うのですか、できすぎているとでも? さあ、おれにはよくわかりません。一応公の組織が云ってるのだから本当のことなのでしょう。もし、もし何です。まだ云うことがあるのですか?これが偶然ではなく始めから仕組まれていたものなら、つじつまが合うって? ははは……そんな馬鹿なことないですよ。SF小説じゃあるまいし。

 さておれがマスターに質問する番です。その前にもう一杯貰えます? 何杯も飲んでいるのに酔ったようには見えないって……おれ十分酔ってますよ。今夜が満月だからかなあ……。だからマスターとこんなに話してるじゃないですか。今度はルナ教徒の話にしましょうか。いいですね。マスターも知っていると思うのですけど、どうして一部の人間たちは月狂いにあこがれてあんな怪物たちを崇拝しようとするのでしょう。
 おれはルナ教徒たちの気がしれないです。マスターにはわかりますか? ほう、マスターはルナ教徒たちの気持ちが少しはわかるような気がするのですか? ……もともと人間ってのは完全な生き物じゃない? なるほどね。進化の頂点にいるような気になっておごり高ぶっているけどそれは錯覚だっていうんですね。確かにどんな種族でも長い時間その形を変えず過ごすことはできないって聞いたことあります。でも月狂いたちはおれたち人間より特に進化した存在とはおれには思えませんね。むしろ獣へと退化した連中ですよ。
 ふんふん、進化ってのはそういうものじゃない? マスター、生物学の先生だったんですか? なんかすごく確信に満ちた言い方だなあ……進化は必ずしも高い知能を持った生物を産み出すとはかぎらない、って言うのですか? ミツバチは特別な花の咲いている環境でなければ生きられないし一匹一匹の知能はほとんどないに等しいけれど、人間と同じに生命進化の頂点にいる? ふうーん。そんなものですかねえ?
 それで、ルナ教徒たちは月狂いには成れる資格は持っているけど、どこか心理的になりたくないと思っているからなれない連中だって。ほうそれは初耳です。物質的には月狂いになるには別に月の光に当たらなくてもいいっていうのですか。ふうん、それじゃ満月の夜に月狂いが出やすいのは何故です? どうして人間のホメオシタシスが月の引力に影響されるのですか。科学者の中には、人間の身体に含まれる海水が月の引力に取り憑かれて月狂いができるとか、情動をつかさどる爬虫類脳が月を本能的に掴んでしまうとか云っていますよ。
 月は昔からあります。人間も昔からいました。それが2050年を超えるまで、人間の種にほとんど変化がありませんでした。それが2050年から80年まで、たった30年の間に爆発的に月狂いが現われました。月と月狂い、月狂いと進化、進化と月、この三種の間には何があると云うのでしょう?
 マスターは人間が月狂いになることは何億年も前に決められていて、やがてくる変化の日のための遺伝子として組み込まれていたと云うのですね。それが何らかの刺激に基づいて月狂いが爆発的に増えたと云われるのですか。それじゃ、その何らかの刺激とは具体的に云うと何です? なにかのウイルスが引き金になったのでしょうか?
 わからない? すべて友達の考えたことだと言うのですか? ずいぶん奇抜な考え方をする人ですね。その友達はいまどうしているのです?
 ……マスター汗が流れていますよ。身体大丈夫ですか。水でも飲みますか? いいのですか。そんなに汗かいてどこか悪いところあるのですか? なんでもない? 珍しいんですよ。おれがこんなお節介やくのは。おれたちがこうやって出会えたのも何かの縁です。マスターもそんなに苦しそうにお酒を飲まずにおれと楽しく飲みあかしましょう。この妙なゲームもしまいまで付き合いますよ。なんだかおれマスターのことだんだん好きになってきたようです。いつまでもマスターとこうやって酒を交わしていたい気になってきているのです。不思議なことですね。マスターもですか。おれたち本当に気が合いますね。
 今度はおれが話す番ですね。さっきはどこまで云ったでしょうか。ああ、おれが生命研究センターに運び込まれるところまででしたね。
 おれの後も頭部が無傷の死体は何度も研究センターに運ばれたと噂だけは聞いているのですが、未だにおれに続くものが現われていないところをみると、おれを襲った偶然とおれの強運は非常に特殊だったようですね。
 おれは頭蓋骨と脳髄を分離した姿で、ガラスの容器に約一日。正確に云うと25時間13分32秒の間ぷかぷか浮かんでいる間に移植の準備、移植ユニットの整備とオペの手配を研究センターは終えたらしいです。
 おれの脳髄の移植がそれほど手早く行われたのはいくつか理由があって、各種の動物実験を経て、初めて移植を行なうのがおれの脳髄だったということもあったかもしれませんし、どれぐらい脳髄のままでおれがぷかぷかと浮かんでいけるものか、連中もわからなかったのでしょう。どうせするなら生きのいい方が成功率も高い、おれじゃなくても無傷の脳髄さえあれば次の実験ができると考えて、処理を急いだのかもしれません。でもおれは最初で最後の成功例だった。後にも先にもおれ以外の移植の成功例はまだ聞いたことがないのだから皮肉なものです。
 とにかく、おれがルナ事件で遺体となって25時間13分32秒後にオペ執刀医の高隙博士の指示のもとスタッフがおれの脳髄をガラスの容器から出して移植をしてくれました。本当はおれのオペは高隙博士ではなく、他の医者が受け持つはずだったのですが、たまたまその者が偶然の事故に巻き込まれて死んでしまって研究センターは慌てて北の僻地に隠れ住んでいた高隙博士を探し出さなければいけなかったそうです。
 おれの脳髄の人工身体組織への移植がどんな複雑だったのかわかりません。そうです。いまのおれのこの身体がそれですよ。……信じてもらわなくてもいいです。内部構造はすべて脳髄から発せられる神経繊維と神経パルスを各ボディの節々に温点、冷点、圧点、痛点、各感覚機能まで接ぎ、まったく普通の人間と同じ、いやそれ以上の感覚を味わうことも可能にしてくれてます。
 更に外見は目の虹彩、内蔵器官にまで完全な生体人工物なのに特殊な機械で計ってようやくわかるようなものを与えてくれました。だから、ほら、いくら見てもわからないでしょ? 脳髄からの指令で涙腺の調節まですることができます。おれには余計なものですけど、人間らしさを出すにはこれが一番だというのが高隙博士の意見なんです。
 おれの移植は成功して再びこの世に生を受けたとき、初めに聞いたのはICUの生命維持装置の音でした。初めて眼に写ったのはある少女の顔でした。
 この少女、高隙博士の娘、高隙香織はおれの目覚めるのを知っていたかのようにおれの部屋で待っていたのです。
 彼女が見せてくれた鏡には、黒い髪、黒い瞳を持つ見知らぬ男が写し出されていました。見知らぬ男の顔をどれぐらいおれは見詰めていたのかわかりません。
 おれは微調整のため研究所にいた間、彼女はおれに今の名前矢尾惟を考えてくれました。彼女の父親がオペを指揮したせいもあって、彼女はおれ専用の看護婦みたいになっていましたよ。もっとも他のものはおれの周りに寄るのを嫌がっていたようでしたから、必然的に彼女がおれの世話をしなければならない状況になっていたのですけどね。彼女も父親が担当医でなくてもおれの世話をしたがっていたみたいです。
 彼女のことが好きだったのか? ……さあ。おれのこと親身になって世話をしてくれてましたから、彼女はおれに好意を持っていたのかもしれません。
 そんなおれの世話をしてくれた彼女ももういないですけどね……彼女とは別れたのかだって、いいえ、彼女は死にました。
 おれが彼女を殺しました。
 彼女は月狂いでした。高隙博士の本当の娘として生まれた月狂いだったのです。おれといて気が緩んだのでしょう。ついうっかり満月の夜におれの前でルナ力を使ってしまったのです。よく知られているようにルナ力は人間の感情を支配しそれを望みのままに変化させてしまうのですが、人工生命体に移植されたおれの脳はその影響を受けなかったのです。……なんですって? 彼女はわざとおれの前でルナ力を使って見せた? ははは……そんなことあるものですか。彼女はたまたま偶然にルナ力を使ったところをおれに見られてしまったのです。馬鹿な月狂いです。
 彼女がルナ力を見せたのは訳があるって? おれにはわかりませんね。彼女がおれの前であんなものを見せるつもりになったのか。
 おれは即座に彼女の首を絞めました。おれの手の中で死んでいく彼女は哀しい眼でおれをみつめていました。最後までおれを見ていました。……やめましょう、こんなつまらない話は。

 さて今度はマスターの番ですよ。おれの話はつまらなかったから、もっと面白い話をしてください。おやおや、またあの友達の話ですか? その男はやっぱりこうして月の明るい夜にこの酒場に現れたって? ……あなたの教え子だったのですか? やはりマスターはただ者じゃなかったんですね? そんなあなたがなぜまたこんな場所でバーテンダーなんかしているのです? それは秘密ですか? とにかく大学にいられなくなったわけがあるんでしょう? 姿を隠したあなたを探して散々苦労したあげくその男はここを突き止めた。なぜそんなにまでしてあなたを探さなきゃならなかったのです? ふーん、あなたの影響力が必要だった?
 ルナ探知機? ええ、よく知っていますよ。そのお陰でおれたちは隠れた月狂いを狩り出すことができるようになったのですから。その装置にかければ人間の脳がルナ力の影響を受けたかどうか一目でわかるのです。
 そのルナ探知機がここにある? わたしの鞄の中身がそうだろうって? なぜわかったんです? ……あなたが発明者!? ふう、こいつは驚いたな。まあ、バレてしまっては仕方がないですね。せっかくの機会だから、ちょっとおれたちふたりの脳を検査してみようって? ええ、いいですよ。
 ……ほら、おれの脳はまったく影響を受けていない。当然です。高隙香織のルナ力が働かなかったのですから。今度はマスターの番です。
 うん、やっぱりルナ力の痕跡はない。おめでとう。マスターは月狂いたちに感情をねじ曲げられてはいないようですね。
 もっともマスター自身が月狂いだったら別ですけど……はは、冗談ですよ。
 さっきから話題になってるその友人もまたこの装置の開発に力を貸したというのですね。不思議ですね。その友人は人間が月狂いに進化していくと考えてるぐらいだから、月狂いに好意的だったのではないのですか? それがなぜわざわざ月狂いを狩り出すような発明を? ……人間たちの恐怖心を解消するため? 確かにルナ探知機がなく月狂いがどこに潜んでいるかまったくわからない時代、人間たちはぴりぴり緊張していたでしょう。暴動やリンチは日常茶飯事で月狂いよりも人間が間違って殺されるほうが多かったと聞きます。まさに中世の魔女狩りの再来ですね。……なるほど、確かにこの探知機のおかげで人々は安心して月狂いに対応することができるようになりました。……そんなぐあいに月狂いはつねに自己犠牲によって人間たちとの共存を求めてきたとその友人はいうのですか? 妙に月狂いの肩を持つじゃないですか? その男自身、月狂いじゃなかったのですか? 違う? 月狂いに感情をコントロールされたわけではないのに彼らに怖れも敵意も抱かない気高い精神の持ち主だった? おれには単に馬鹿者としか思えませんけどね。まあ、とはいえルナ探知機の開発にかかわった人間なら文句は言えないかな? なんといってもおれの仕事はその恩恵を多いに受けてるのだし……。

 そう。やはりわかってしまいましたか。おれは月狂いハンター。対月狂い用サイボーグ兵士です。おれの脳はルナ力に免疫性があるから……月狂いは死ななければなりません。高隙香織は月狂いでした。おれは月狂いを見逃すことはできない。だからおれは彼女を殺した。それでいいじゃないですか。彼女の自己犠牲が意味するもの? そんなもの知るもんですか。おれは月狂いを見つけしだい殺していきました。母親に抱かれている月狂いの赤子もいました。おれはすがりつく母親を投げとばしその目の前で赤子を踏み潰したこともあります。
 月狂いは社会の害になる。彼らは大きくなるに従い、芽を摘み取ることが難しくなる。だからどんな小さな芽でも踏みつぶさなければいけないのです。
 マスターためいきついてどうしたのです。涙なんか流してどうしたのです。自分のことわかっているのか、だって? おれのどこがぜんぜんわかっていないと云うのです。失礼な。じゃ、マスターはわかっているとでも? ほう、そうですか。その友人は一年前のルナ事件でいなくなった? その男がおれと何の関係があると云うのですか。黙って聞いていろと云うのですか。いいでしょ。面白い、じゃあ話してください。
 人間と月狂いとの共存を提案するために、例のその友人はエリア8のロードまで出掛けたのですね。ますます馬鹿じゃないですかその男は。政府がルナ教徒たちならまだしも、月狂いを迎え入れるはずはないじゃないですか。わかっている? わかっているのなら、マスターはとめたのでしょうね。当然とめたのに友人は笑って少しの可能性でも賭けてみると云って出掛けてしまったのですか。それきりその友人は戻ってこなかった?
 どうしておれの顔見ているのです。何ですって? はっきり云ってください。
 ははは……面白い、これは面白い。あなたの馬鹿な友人がこのおれだと云うのですか? そんなことあるはずないでしょう。薄々感づいているから、これほどまでに否定するのだと……おれは月狂いが嫌いなだけです。それじゃ何故それほどまでに月狂いを憎悪するのだと……月狂いは死ぬべきだからです。不幸なのは人間の方……月狂いさえいなければ人間は滅びることはない……。

 いや、人間はいずれほろびる定めなのだ。すでに種自身の遺伝子のなかから別の存在へと生まれ変わる準備のための指令が送られてきているのだ。月狂いの誕生はまえぶれにすぎない。生命の大変化が始まろうとしているのだ。
 そしてそれがなんだというのだ。どうせおれ自身はもうすでに人間じゃない。機械の中にうめこまれ内分泌系の遠隔制御によって感情をコントロールされているだけの存在だ。おれは虐殺マシンであり、人間というより機械だ。月狂いはおれよりは人間よりのほうにずっと近い。……そうだ人間はあたらしい種族に道をゆずって消え去っていく。おれもまた月狂いたちと同じく人間とは違う運命を歩けばいい。そんなおれが滅び行くだけの惨めな人間たちのために、なぜいま月狂いたちを殺しつづさなければならないのだろう?

 マスターやめろ、この男の深層意識に入ってくるな。これ以上入ってくるとおまえを殺すぞ。やめろ、やめろと云っているのだ。

 おれは……人間じゃない?……そんなことはない!

 おまえはルナ力によって影響されているのだ。感情の抑圧回路が制御不能だ。そうか、こいつを誘い出すため偽情報をネットに流したのはおまえたちなのだな。もっと早く気づくべきだった。悠長に月狂い組織のシッポをつかもうとしたのが間違いだった。

 マスターもうやめてください。おれはもう駄目です。おれはたくさんの月狂いを殺してきました。これ以上……

 月狂いは殺してしまえ!

 マスターこれ以上入ってくると本当に死んでしまいます。おれの中から出ていってください。

 そうだ、月狂いは死ぬべきだ。おまえの力を使うのだ!

 マスター死んではいけない。

 ……死ね! 死ね! 死ね! 月狂いはみんな死んでしまえ!


 マスター? 眠っているだけですよね。目をあけてください。おれ……昔の名前思い出しました。おかげで連中のコントロールから自由になったんです。マスター 目をあけてください。おれです。生きてますよね? からかっているだけでしょ。昔みたいに……
 だから……だから頼むから目をあけてください。
 マスター マスター、マスタぁぁぁおれたちを残して死ぬなあぁぁぁ。

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