ぼくはとうさんの後について浜辺を歩いている。浜辺の両脇、右側には黒い海が音もなく浜辺を濡らし、左側には黒い蔦が絡まる無気味な崖が浜辺を眺めている。黒い海と黒い崖に挟まれた浜辺は痩せ衰え死にかけた老人にも似ていた。 ぼくは浜辺は嫌いだった。靴の中に小さな砂がじゃりじゃり入って足に血まめを作る。暑苦しい太陽が肌をじりじりと焼き焦がしていた。ぼくは、暗いうちにかあさんの元を離れたというのに、今まで一度として休んだことがなかった。 ぼくは疲れていた。それなのにとうさんは大きな背中を向けて歩き続けている。ぼくはとうさんの後をついて置いていかれないように、長いとは云えない足で歩いていかなければならない。短い足で歩くのだから本当に辛い。休まなかったら、どうにかなってしまいそうだ。 そうだ、少し休もう。 海で泳ごう。黒くて気持ち悪い色だけど、こんなに静かなんだ。人間を食べる魚だなんているはすがないじゃないか。冷たくて気持ちいい海が抱きしめてくれるはずだ。 それとも崖の影で昼寝してもいいかな。黒くて気持ち悪い蔦だけど、大丈夫だろう。寝ている間に蔓が首に巻き付くことなんてないだろう。涼しくて気持ちいい風がこのどうしようもない疲れを癒してくれるはずだ。 ぼくがそう考え、足を止めたとき、一羽のはやぶさが空から突然舞い降りてきた。鋭い嘴が額を割ったのを感じた。ぼくは情けない悲鳴を上げ、頭を手で押えた。そしてはやぶさが去った空を仰ぎ見た。だけど、はやぶさの姿はどこにも見えない。相変わらず忌々しい太陽と雲一つない青空が広がっていただけだった。 頭が血まみれになっていたら小心なぼくは貧血を起こすかもしれないなと恐々手を離すと手には一滴の血もついていない。少し安心して、少し不安になった。安心したのは、頭が血にまみれてなかったからだ。不安になったのは、はたして今のはやぶさは存在したのかどうかだった。よく考えて見ると、はやぶさは野生の鳥だ。その鳥がどうしてぼくみたいな禄でもない人間に近づいて来たのか? それに足をとめ、寄り道をしようとした途端、狙いを定めて襲いかかるそんな偶然があるのだろうか? 血まみれになっていない頭と消えたはやぶさ、考えられることは一つだ。太陽の熱とこのどうしようもない疲れた頭が、いるはずのないはやぶさを創りあげたのだった。 ぼくがどこに行きたかったのか、今までどこに住んでいたかも、わけがわからなくなりかけていた。ぼくが休もうと考え、歩かなかったから記憶が奪われたのだ。案内人のとうさんの背中が遠いところに行ってしまったからこんなことになってしまったのだった。 休まない。休むもんか。ぼくは唇を噛んだ。自分を見失わないように、苦しくても辛くても、最後まで歩いていこうと決心したのだった。 やがて、崖がなくなり、黒い海から少し離れた場所に小さな白亜の建物が現われた。危険が去ったのだ。そう思うと目的の地についた安心感で、身体中の気が抜けていき建物のホールに座り込んでしまった。さっきまでのどこにいくのかわからない。ぼくが一体誰なのか、あやふやで足場が崩れそうな不安じゃなく、何かを大切なものをやりとげ、やり終えた心地良い疲れだった。 かび臭い古い本、古い家具、何百年も変わらない先人達が残してきた遺産。それらを見たとたんこの建物が博物館だとわかった。この博物館が何のためにここに建てられたのかわかった。この博物館はとても大切なものを保存している永遠の記録所だったので、ぼくのようなものにしか見えないように、あんな危険な黒い海や黒い蔦をわざわざ創り出す必要があったのだ。 なんてことなのだ。ぼくは昔の記憶がうずくのを感じ頭を押えた。博物館の奥へ奥へと入っていくと忘れていたことが少しずつ思い出すことができた。ここには昔何度も来たことがあった。幼い頃からとうさんの背中を追って、何度も遊びに来ていたのに、どうして忘れていたのだろう。それに、いつもぼくを可愛がり遊んでくれた、とても優しいおじいちゃんがいたこともすっかり忘れていたのだ。 とうさんとぼくは博物館の一番奥へと入っていくと、おじいちゃんがぼくたちのために椅子を三つ用意してくれていた。おじいちゃんととうさんは椅子に腰掛け引継のために難しい打ち合わせを始めた。ぼくも椅子に腰掛け二人の話を聞いているとこの博物館を創り替える計画を立てていた。 ぼくはそれを聞くと、とても嫌な気持ちになった。できれば古い物は残しておきたかった。だけどそれにはどうにもならないのはわかっている。大好きだったおじいちゃんの死を間近に感じてしまうのは、ぼくには辛かったから、やりきれなくなって、泣きたくなって、おじいちゃんととうさんが相談している場から離れた。 ぼくはぶらぶら、博物館の中を歩いてみることにした。未来の本棚から、数冊の本を取りだし読んでみる。見たこともない聞いたこともない題名が並んでいる。ぱらぱらと頁をめくる音が静まり返った博物館の中で響いている。繊細な文字と胸を打つ言葉が連なっている。これは未来の言葉だ。一度も見たことのない本、誰もさわったことのない、初めて開けられた未来の本。それはぼくたちのために創られるはずの本だった。 夢中で読んでいると、ぼーん、ぼーん、ぼーん・・・博物館の掛け時計がなった。 身体を強ばらせて、本を閉じた。本を読んでいるうちに閉館の時間になっていたのだ。 ぼくの時間は終わったのだった。未来に創られるはずの本は時計がなると、消えていった。それと一緒に今まで読んだ本の内容もぼくの記憶から消えてなくなっていくのがわかった。 また涙が流れる。涙腺が緩いのは生まれつきだから仕方がない。古い物も新しい物も失っていくのは何度経験しても、ぼくには寂しすぎるのだった。 ぼくが博物館を出た。案内してくれたとうさんはもういない。彼は館長になってしまった。 夕日は赤く染まり、海は黒く、博物館は白かった。 ぼくは一人来た道をとぼとぼ歩いて帰る。
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