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幻想博物館

doru

 

 逃げなければ殺される! 

 わたしは森の小道を歩いていると、背中から灰色狼が音を立てて忍びよってくるのがわかった。灰色狼を刺激しないように森から逃げ出そうと小道から逸れ、森を抜けようとしたのだが、誤って更に奥深くに入っていってしまったのだった。
 どれぐらい歩いただろうか。何気なく顔を上げると、古ぼけた案内板が地面に斜めに突き立てられ、消えかかった文字でこう書かれている。

 『尋常の人、幻想博物館に入るべからず』

 わたしは悩んだ。狼のうなり声がますます近づいてくる。ぐずぐずしている暇はなかった。わたしは思い切って、案内板の下の青銅の扉を開け、幻想博物館に入って行った。
 幻想博物館は、地底に掘られた巨大な建造物だった。長い螺旋階段が地底の奥深くまで伸び、わたしの靴音だけがうら淋しく響いている。
 ところどころに置かれている蝋燭の炎を頼りに歩いていると、ガラス張りの小部屋が見えてきた。中を覗くとうなだれた一組の老夫婦が銀色の浴室の端でひっそり座りこけている。
 老夫婦はわたしが来たのがわかるとぎこちなく立ち上がり、意味ありげな薄ら笑いを浮かべて、何かの準備をしはじめた。
 老人が椅子を取り出し、老婆が縄を取り出した。そしてにやりと笑った老人が老婆の持っていた縄を天井につるし、椅子に上がり、首をくくった。
 老人の身体が振り子のように揺れて、白眼を剥き、長い舌を出した。
 ひぃぃ・・・わたしは数歩後ずさり、小さな悲鳴をあげた。
 そんなわたしを見て、老婆は手を叩き、ひゃひゃひゃと甲高い笑い声をあげる。
 やめてくれ、わたしはそう叫んだのかわからない。わたしは叫び声をあげる前に『老人』から、逃げ出していたのだ。

 螺旋階段は途中で切れていた。いや、正確には螺旋階段は切れていない。今眼の前には青銅の扉があり、その部屋に入らなければ、前には進めない仕組みになっているのだった。わたしは扉の取っ手を握り、中に入った。
 青黒い人間が丸太のように床に転がり、彼らの顔には黒い湿疹ができ、小さく上下する胸でかろうじて彼らが生きているのがわかった。
 これは伝染病だ。彼らは死の伝染病にかかっている。わたしは彼らを見てそう直感した。こんなところにいるとわたしまで彼らの仲間になってしまう。そう考え、元来た道を引き返そうとした。しかし引き返すことことはできなかった。何者かに背中を物凄い力で押され、寝ている一人の病人の胸の上に倒れこんでしまったのだった。
 ぐちゅっと鈍い音が身体の下から聞こえてきた。病人の胸が潰れ、口からどす黒い血を吐き、その血はわたしの顔に直接かかってしまったのだった。
 胸に鋭い痛みが走った。・・・もう駄目だ。移ってしまった。わたしも病人になってしまった。
 わたしは立ち上がると情けなく歩きだし、反対側の青銅の扉を開き、後ろを振り返った。
 今のは『病気』だった。

 『病気』を体験したわたしは、しくしくとうずく胸と微熱が続く忌々しい身体を引きずるようにして次の青銅の扉を開けた。そこは、一冊の白い雑誌と長椅子があるだけの殺風景な小部屋だった。隣室からは蜜蜂の羽音にも似た目障りな音が聞こえてくる。嫌な音だ。わたしは片耳を押え、隣室への青銅の扉を押したが、開けることができなかった。
 どうやら準備が終わるまで、この白い雑誌でも読んで、ここで――ここが待合室なら隣室は待合室といったところか――待っていろということだろう。
 わたしは、準備が終わるまで、長椅子に座り、何も書かれていない白い雑誌を読むことにした。

 『神々の記憶は夢であり、夢は神々の記憶である。これはわたしの記憶である』

 白い雑誌には意味のわからない美しい文字が現われては、やがては消えていく。この内容は決して記憶には残らないだろう。そうは思っても虚しく読んでいると、女の声が、わたしの名を読んだ。白い雑誌を手に、隣室の青銅の扉を開けた。
 そこは巨大なゲームセンターだった。誰もいないのに、機械は動いていき、すべての画面の中では多くの戦闘機が争っているのが見えた。一つの争いが終わるたびに、画面中の多くの人間の姿が消えていく。残っていた人間がいても片手が消え、片足が消えている不具者ばかりだった。
 くそっ、わたしはうめき声をあげた。これは神々のゲームだ。要領のいい神々が束の間の退屈を紛らわすために、機械たちに争いを起しているのだ。そして待合室で聞いたあの耳障りな蜜蜂の羽音は神々の喜びの声だったのだ。
 こんなくだらないゲームはやめろ、わたしはそう叫び、持っていた白い雑誌を画面に叩きつけた。今まで写し出されたすべての戦闘機が一斉に燃え上がった。戦闘機の巻き添いになった人間が赤く燃えただれていく。
 蜜蜂の羽音が一斉に高まった。わたしの一撃が何もかも焼き尽くし、神々は喝采をあげて拍手しているのだ。
 わたしは、いたたまれなくなり、『暴力』から逃げ出した。

 『暴力』の螺旋階段はこれまでのものとは違い灰色に焼け焦げている。それが永遠に続いているのだった。わたしの胸の痛みもこれまで以上に激しくなり、身体中がうずき、熱っぽい、頭がだるくここがどこなのか考えることもできそうもなかった。身体を冷やすために、わたしは何か冷たいものを欲しているのがわかった。
 更に螺旋階段を降りていくと、さまざまな冷菓が所狭しと売られている。顔のない太った者たちは好きなだけ冷菓を手で直接すくいあげ食べている。わたしも彼らの真似をし、冷菓を口の中に入れようしたのだが、うまくすくいあげることができなかった。冷菓をすくいあげるにしても、取り方にコツがあり、多過ぎるとすべて流れ出してしまうのだ。わたしは、傍で食べていた者に頼み込んで、代わりに取って貰った。
 手の上には赤と白の斑の冷菓が乗っている。それを口にしようとしたとき、冷菓が一斉に動き出した。わたしはそれを放り出し、踏み潰した。冷菓と見えたものは幾千匹もの小さな蛇だったのだ。潰れた蛇たちが鎌首をあげて笑い、太った者たちは口から幾千匹もの蛇を吐き出して笑った。
 わたしは、急いで『貪欲』から逃げ出した。

 わたしはぎこちない足取りで砂漠の中を歩いている。わたしは餓えて、病気だった。それでも柵に沿って歩いている意識だけはあった。柵の回りに黄沙が増えていき、目指す場所が近くなっているのがわかっていた。
 柵の向こう側に芝生が見えてきた。芝生の中では、少年たちが大きなラクビーボールで遊んでいた。
 わたしは眼を細めてまぶしすぎる芝生と少年たちを見た。彼らの仲間に入ればきっと元気になるはずだ。わたしにはそんな確信があった。
 だが、少年たち側の芝生の生命力とわたし側の砂漠の生命力とでは、かなりの差が開いていた。その落差が柵となってわたしの前に立ち塞がっているのだった。わたしはそれでも、最後の力を振り絞って柵を乗り越えた。・・・まだ、乗り越える力は残っていると信じていた。
 柵は乗り越えたものの砂漠と芝生の間には隠された大いなる『混沌』があり、わたしはもがけばもがくほど『混沌』の奥へと沈みこんでいった。

 『混沌』で溺れた後、わたしは生まれたままの姿となり、幻想博物館の最下部にある氷の寝台の上に横たわっていた。すべての力を幻想博物館に吸い取られた今、すべての感覚が麻痺し、もはやここから逃げ出そうという気にもなれなかった。
 この地底でこのまま誰にも見出されることもなく滅びてしまうのか、そう思うとやるせない哀しみがあった。
 幻想博物館よ、すべてのものをわたしから奪い去っても、皮肉なことにこの哀しみだけは残してくれていたのか。幻想博物館、おまえはこれまでに幾人の男の人生をめちゃくちゃにしていったのだ。わたしは、幻想博物館に向けて自虐気味につぶやき笑った。
 わたしのつぶやきを嗅ぎつけたのか幻想博物館のどこかで何かがが身をもたげる気配があった。わたしにはもう何も残されてはいないのだから、もう何が来ても恐ろしくはなかった。静かな気持ちでそれが来るのを待っていると、幻想博物館の最上部から神々しい光が零れ落ち、光の中から長い髪の女が現れ、わたしの身体を暖め始めたのだった。わたしはまだ助かる。そう思うと凍りついた身体の奥で熱く燃え上がる炎を感じていた。

 女は、幻想博物館の『生』だったのだ!


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