「いらっしゃい」ラーメン屋のおやじの声が店内に響き渡る。なぜ響き渡るかと言えば客がいないからだ。今この店は暇である。というより四六時中暇なのだ。ラーメン屋のおやじは長年ここに店を開いているが、なぜかいつもこの調子である。味には自信があるつもりだ。まるごとの鶏と丁寧に下処理した豚骨をベースに各種の素材を手間ひまかけて煮込んだスープは琥珀のごとく澄みわたりさっぱりとしていながら実に深い味わいがある。それに絶妙にマッチする麺は太からず細からず微かにちぢれた歯ごたえと喉越し最高の熟成された手揉みの特注品だ。これらが渾然一体となってかもしだす味覚のハーモニーたるやすでに快感を超えて悦楽に近い。長年かけて編み出した秘伝の味は付近の同業者には絶対負けないという自負はある。しかしなぜか客はこない。おやじはもんもんとしているのである。 まあ客商売である以上そういうこともある。場所が悪かったり客層がちょっとずれていたりして誠実な努力がむくわれないこともあるのだ。わかってはいるのだが、やっぱりおやじも人間だから自信を失いかけることだってある。 そんなある日、青白い顔をした少年がふらりとラーメン屋にやってきて最初のおやじの声になったのである。少年は小さい声でチャーシューを頼んだ。手作りチャーシューがこれまたおやじの自信作である。汁のなかにひたひたに浸ったそれはたっぷりと肉汁を含んでボリュームがありながら箸の先で軽く触れただけで解きほぐれるほど柔らかい。少年は隅でうまそうに麺をすすりチャーシューをほおばった。おやじは満足そうにそれを眺める。旨いものを食べているときは誰でも幸せそうな顔になる。それを見るのがおやじは好きなのである。閑古鳥が鳴いていてもラーメン屋をやめようという気にならないのはそんなわけがある。
ところがおやじがふとよそ見をしている隙に少年の姿が消えてしまった。 「ややっ、食い逃げか?」 あわててカウンターをまわってふと見るといままで少年の座っていた席に湯気をたてたままのチャーシューメンが残されている。驚いたことにはいましがた調理して出したときのまま麺にも具にもまったく手がつけられていないのである。 「どうしたことだ? いったいぜんたい、こいつは?」 狐につままれたような気分でおやじは丼を下げ、中身をそっくり捨てながら考えた。 「考えてみりゃあ見かけない少年がたった一人で食べにくるってのも妙だ。こりゃ、あんまり客がこないので居眠りをしているうちに寝惚けて夢でも見たに違いない……ええい、情けない」 おやじはひどく落胆して自分自身に言い聞かせた。 「そろそろ暖簾をたたむ潮時かな」 だが次の日からおやじの運命は変わった。
「らっしゃい!」寿司屋の板前の声が店内に響き渡る。ガラスケースの中には生きのよいネタがあまっている。客がこないからである。親方は職人気質の男でちょっとでも味の落ちたネタは惜しげもなく捨ててしまう。もったいないと思う。親方は新鮮なものを新鮮なうちに出す心意気だから、仕入れも朝一番にいっていいものを仕入れてくる。妥協をゆるさない彼の下での修行は辛いが、そんな親方の気風のよさに惚れて、この店で長年勤めているのである。だが、そんな経営が裏目にでて、この店の内情は火の車だ。最近では親方とおかみさんの喧嘩が絶えない。新鮮なネタを出し、腕も並外れていいはずなのに客はこない。改築して当節流行りの回転寿司にでもすればずいぶん違うのだろうが、頑固ものの親方がそんなやりかたを納得するわけもない。 そんなある日、青白い顔をした少年が一人でやってきて最初の板前の挨拶になったのである。少年は鯛を頼んだ。ありふれたネタだ。しかしここの店のはそんじょそこらの鯛じゃない。身の締まった明石の天然ものしか使わないのだ。そのうえで日高産の最上の昆布の上に切り身を並べ手すきの和紙をしいて軽く塩までしてある。その塩だってニガリを含んだ赤穂の自然塩だ。それだけ手間をかけていながら値段は他の店とほとんどかわらない。おかげで儲けはまるでない。しかし最高の材料を使い一切手を抜かない。それが店の親方のやり方なのだ。 ところが板前がほんのわずかよそ見をしている間に煙のように少年は消えていた。 「いけね。逃げられたか?」 しかしいままで少年がいたはずの席を見るとちゃんと鯛が一貫並んでいる。 「ええ? どうなってんだい?」 確かに少年が旨そうに寿司を食べている姿を見ていたはずなのに、板前は自分の記憶に自信がなくなってきた。 「薄気味わるいな。狐か狸に化かされたか? ちえっ、いくら昔堅気のこの店だからって、二十一世紀の世のなかにそんな馬鹿な……」 板前はひどくがっかりして自分につぶやいた。 「あんまり暇なんで頭までおかしくなっちまったかな。やれやれ、これじゃせっかくの寿司職人の腕が泣くってもんだぜ。親方にゃあ世話になってるけど、そろそろ見切りをつけて他の店をあたったほうがいいのかなあ?」 だが次の日から板前の運命は変わった。 「いらっしゃいませ」 ギャルソンの声がフランス料理店に響き渡る。そんなに広くない店なのに、店が広く見える。客がいないからである。まだ宵の口だとはいえ、今の時間繁華街には食欲を満たすために老若男女を問わず大勢の人が飲食店に入っているはずである。それなのにこの店はほとんど客がこない。この店のシェフは本場三つ星レストランで長年修業をしてきたという男である。ギャルソンもこのシェフの味に惚れてこの店に押しかけるようにして働かせてもらっている。だけども、客はこない。ひとつにはいかにも場所が悪いのだ。繁華街からちょっと離れた住宅街にあるこの店にはたまに近所の顔見知りたちが足を運ぶ程度である。グルメな若者たちは都心の洒落たスポットに集まってしまう。店構えをもっと明るく流行りのエスニック調のものにでもしたらいいのだろうが、オーナーが戦前から開店していたこのレストランのレトロな雰囲気をいたく気にいっているらしく頑として建て替えようとはしないのだ。
そんなある日、青白い顔をした少年が一人でやってきてギャルソンの最初の台詞になったのである。少年はプレーンオムレツを注文した。ありふれた料理である。普通わざわざ本場で修業したシェフに頼む料理ではない。しかしシェフは全力投球だ。手早く卵を解きほぐしバターが溶けるか溶けないかの瞬間を見計らって一気に流し入れる。一瞬、熱せられた良質な卵とバターの渾然一体となった馥郁たる香りがたちのぼる、と見る間にふつふつと煮え立ったそれらは手早く折り畳まれフライパンの端に寄せられる。その柄を数回とんとんとたたいて形をととのえると奇跡のような手つきで返されたフライパンからオムレツは暖められた皿の正確な中央に移される。熱いけれど未だとろとろに溶けたままの中身をやさしく包み込むスポンジケーキのような外皮は湯気をたてつつ、まるでコンパスで描いたかのような正確で美しいふっくらとした優しい曲線を描いている。じつは本当に美味しいオムレツを作るのは難しいのである。素材、火加減、手際のよさ……単純なだけに料理人の腕がもろにでてしまう。そしてここのシェフが腕をふるったオムレツは間違いなく天下一品なのだ。この絶品を最高の状態でお客さまの前に出すのはギャルソンの仕事。彼はいつも料理の皿をサービスしながらこの上なく誇らしい気分になるのである。 しかし彼がちょっと窓際の花瓶の花を整えている隙に忽然と少年は消えていた。 「……そんな馬鹿なっ?!」 呆然とたたずむ彼の目の前にはシェフのオムレツが手つかずのまま残っていた。ギャルソンは確かに少年がそれにナイフを入れたとき熱い半熟状態の中身がとろりと溢れ出るのを見ていたのである。 「夢でも見ていたんだろうか? あ、痛っ」 彼は自分の頬をつねり、それから古びた渋い洋館のなかでそんな馬鹿なことをしている自分の姿を想像してちょっと情けなくなった。 「この館、幽霊屋敷なんだろうか? 確かにこれだけ閑散としていりゃあ、幽霊もでるわな。職場を間違ったかなあ? ほかの仲間たちみたいにさっさとホテルにでも移ったほうがよかったかも」 だが次の日からギャルソンの運命は変わった。 「はあい、ここが今大評判のあのカリスマラーメン屋の前でーす」 派手なピンクの服を着た新人のバラドルがカメラに向って叫んでいる。暖簾の前には大勢の人が自分の番をまって並び行列は数ブロック先まで延びている。あの少年が入っていったラーメン屋である。ラーメン屋のおやじが店をたたもうと決意した次の日から客が急に入り始め、評判が口コミで広まっていつのまにかテレビや週刊誌でもとりあげられて、今や行列ができる超有名店に変わっていたのである。ラーメン屋のおやじは食事する暇もないぐらい超多忙なラーメン作りに毎日励むことになった。
「またきましたよ。ご亭主」 暖簾を分けて入ってきたのはいまをときめく若手の歌舞伎俳優と最近襲名したばかりの人気の落語家である。こちらもまた例の少年が鯛を注文した寿司屋。あの翌日からなぜか客が殺到しはじめたのだ。あっというまに馴染みが増え、それがまた新しいお客を呼んでくるという具合でいまでは予約を入れないとまず食べられないというほどの人気ぶりなのだ。舌の肥えた上客がはるばる都心からタクシーを飛ばしてやってくる毎日である。店を変わろうと考えていた板前も目のまわるほどの忙しさのなか、親方同様若いものたちをしかりとばしながら生き生きと働いている。 「ようこそいらっしゃいました」 ギャルソンはオーナーともどもドアの外まで来客を出迎えた。 「どうぞこちらへ」 彼は緊張した面もちで、それでも誇らしく到着した予約客たちを館の最上の席へと案内した。まるであの少年が呼び込んでくれたように、あのあと急に客が増えはじめたのだった。昭和初期の雰囲気を残すレストランのなかで出される極上の料理は評判が評判を生み、まもなく一流企業の役員が会合や接待に使ってくれるようにまでなった。そして今日とうとう駐日フランス大使が自ら主催するディナーパーティの下見のためにはるばるこの店を訪れたのである。 そんな店が一件、一件と増えていく。そのうちある共通点に世間は気がついた。キーワードは少年である。不思議な少年が入った店はまたたくまに行列のできる店に変わるのである。興味深いこのネタにマスコミがとびつかないはずはなかった。『現代のざしきわらし』とキャンペーンがはられ、少年の身元の情報提供者には多大な賞金が送られることになった。賞金目当ての我こそは多くの情報提供者が出た。しかしそれらを確かめてみるとどれも不思議な少年とは何の関係もないごく普通の少年たちであった。しかしそんなことにもめげず、騒ぎは小さくなるどころか少年を探せとますます大規模なキャンペーンが展開されるのだった。 そんなある日、味がよいが客が入らないとある店に青白い顔をした少年が入ってきた。話を聞いていた店主はもしやと思い、たまたま置いてあったカメラでそっと写真を撮ってみた。少年が消えた後で現像してみるとはたして半透明のその姿が映っていたのだ。それから後の事態の進展は早かった。テレビ、ラジオ、週刊誌マスコミがその写真を掲載して一斉に少年探しをはじめたからである。その結果自分のところにいる入院患者こそ例の不思議な少年かもしれないというある病院関係者からの情報提供があったのだ。 その患者の写真を行列のできる店の者すべてに見せて確認した結果、やはり現代のざしきわらしはこの交通事故で重傷を負い長い間意識不明のままの少年であることがわかった。ニュースはまたたく間に世の人々の知るところとなり、不幸な少年に同情して膨大な量のお見舞いの手紙や品物が病室に届いた。いっぽうでどこでどう調べたのか少年の生い立ちや趣味、親族の写真に、資産関係まで公表する大衆向け週刊誌の報道合戦が始まった。そのあげくついには眠れる少年に求婚する女性まで現れる始末であった。 しかしそんな騒動が1ヶ月たち、2ヶ月立つうちにあれほど騒いでいた世間も少年のことをいつのまにか忘れ去り、そのうち週刊誌もまた昔どおり大物芸能人の離婚騒動を追いかけるようになっていた。 それから一年後、突然地球上空に無数のUFOが出現した。それらは地上に降り立ち、中からタコそっくりの火星人型、なまこ型、珪素型、翼の生えた天使型など、ありとあらゆるタイプの宇宙人がぞくぞく繰り出してきた。当然ながら日本のみならず世界中が驚天動地の大狂乱、大狂態の騒ぎとなった。驚いたことにはそれらの宇宙人たちは侵略にきたわけでなく、また地球の代表者と通商や銀河連邦への加入の話し合いをするわけでもなく、ただの旅行者としてひたすら料理を食べまくったのである。それも少年の現れた店にまっさきにやってくるのだ。どうやら少年の夢はテレパシーによって全宇宙に中継され、宇宙メディアを通じて放送されていたようなのだ。 つまり眠れる少年は宇宙では人気絶大のグルメレポーターだったのだ。どうやらこの地球でも彼の強力なテレパシーは周囲の人間に無意識の影響を与えていて、それが人々を彼の訪れた店へといざなっていたらしいのである。しかも彼は事故にあう前まで料理人を目指していたほど生まれついての天才的な味覚センスの持ち主だったから、その夢遊病的なレポートも実に的確で質の高いものであったのだ。美味しい食べ物への執着と怨念とが彼を離脱幽体に変えて優秀なグルメレポーターとしていたのである。 そんなわけで星々から彼のもとに様々な文化的催しにからむ表彰状だのトロフィーだのメダルだのがつぎつぎと送られてきた。あわてて政府もまた国民栄誉賞を少年に送り、人気のない内閣総理大臣が少年の眠るベッドの横でにこやかに笑っている写真が新聞の第一面を飾った。 だが意識不明の眠れる少年は何も知らない。世間の騒ぎとはうらはらに少年は栄養点滴のチューブを静脈に差し込まれたまま病室でひたすら眠りつづけているだけだった。
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