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ネア
小林ひろき

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 ゴルディロックスの鐘が鳴った。時折、ネアと鳴く声が何処からともなく、黄昏へと響いていた。
 一回。
 二回。
 三回。
 四回。
 五回。
 回数を数えても切が無い。何度も数えようとした。
 気怠いだけの黄色い部屋、クスリの袋がヒラヒラと風に舞う。どうしたことか、鳴く声もなくなった。寂しいではないか。今日日、その鐘を突くものもいない。
「誰がやってるの?」
「誰ってさ。」
「分からない。あの音がふらあ・とするんだ。」
「鐘の音が聴こえるだろう。なにも聴こえない?」 
「知らない。」
「えっと、分からないのかな。」
 応える義務がない。応えようとする意志がない。
「意志ってさ別に加わるわけではないから。加えようとする側にしか意志はない。」
「ええと君は一人がいいのかな?」
それが怖いことか、知らないんでしょうと。
「一人でいい。」
「一人が良いなんて信じられないよ。さぁゴルディロックスの鐘の音がしているんだから。」
「醒める。」
「冷めたの?」
 いいやという風に、手を振る。しかし別の意味―こんにちわのような意味で捉えられた。
「ネア。」
「ネア。」
 月光はどこへも向かうことない。その位置を、本来の位置を定めたまま、光が照らしている。
 狭い。狭い。路地。小人になってしまったようでいつつ、歩いた。
 午後からの集会だった。誰も名前も知らない。集会であるのに名簿らしいものもない。恵画有栖は筆記具がムダだったことに気づいた。会は思ったより、何もない。
 何もないのだから、昨日から続いた不安もなくなった。
 ゴルディロックスの鐘が鳴る。鐘が鳴ったららどうする?
 どうしようもない。
 やることがない。
 寝ていればいいのか。
 ―餓える。
 誰かが、言ったことは覚えている。誰だったのかはどうでもいいことだ。
 誰? 
 参加者は誰か・なのだろう。あいつらではない。あいつらといったら余所の子達。余所の子達。
 皆、あの鐘を聴いたのだ。ゴルディロックスの鐘を。鐘はどんな色、形状、デザイン、皆良くわかっていなかった。判然としないそれに惹かれているものも多かった。
 文脈はいい。恵画有栖の空想は文字通り空を想った。前後は退屈だったからであろうしそれ以上の答えがない。かわいげもない。
 遠くの塔。
 雲の切れ間から見える遠い世界。
 あるいは空。
 ズッシリとしたカメラを向けた瞬間、勝手に写りこんでしまう、必要枠。いや必要としていない。切り取れば肉が無くなってしまう。取り去れば骨もないのだ。
 未熟な、ソラ。
 不必要な、ソラ。入り込んでしまう、ソラ。
 誰が決めたかいらないもの。
 空は勝ちすぎるから。
 強すぎるから。
 決して写してはいけなかった。
「鐘が鳴ってる?」
「いや。」
「聞こえたふりをするゲームは?」
「よーし、しよう。」
「ネア。」
「ネア。」
 ―外部への些細な要求。聴こえたフリ、フリでしかない。黄昏はそんなフリで次第に加速的に落下していく。
「大体のところね、ネア。」
「こんにちわ、ネア。」
「一晩お貸ししますよ、ネア。」
「一杯良いですか、ネア。」
「ここからだと一つブロック先を左折してください。ネア。」
「鐘が聴こえてませんね?」
「聴こえたと思いましたけど?」
「ああ、そうですか。」
「うん、そうですね。」
「ネア。」
「ネア。」
「ネア。」
「ネア?」
「ネア?」
 「いいですか? 恵画さん聴いてますか?」
聴いていたと思う。確かに、聴こえていた。知覚していた。硬いゼリーのなかに吸い込まれて聴こえなかった、そんな気がした。気がしたのかさえも妖しい。
 ただ、真偽なんていっていいのか、この場合。場合なんて集中力がいる、持たない、私には。
 ネア。そういってしまえばまず正しい。正しいことを確認しあうようで気味が悪いだけを除いては。号令に「正しい」とスプレーの飛沫を吹きかければ足りる。足りるけれど、そこにまで私はまず、至っていない。至らずの有栖。貶せば正しい。異論はない。
 フッと頭はニヤケるように頬に命じた。正しい、がネアのゲームを外す。ゲームを外す。それは違いない。至っていないのは間違いないけれど、それ以外、手がない。
 簡単に、ほら。
 「ネア。」

 金属のアームがクルクルと回っていた。
 真っ白い手術台に寝かされた私は、麻酔の作用で意識が拡張していたようだ。こういうのを幽体離脱とでもいうのだろう。
 どことも、誰とも言えない意識。無意識か。とにかく混沌としていて、何が私かという哲学すらも飛び越えて超克する。大それたことを気ままに想像してる。
 青いケージが見える。もはや私ではなくなったものがフラットに流れていく。あれが、私の一部だったのかとボンヤリと4つの眼で見た。こうなると私がいたってどうでもいいかと思える。投げやりに投げ出された私は、もちろん誰かによってだろうが、この状況を見ている。それは虫のような眼。前はどのように見ていたか?ただアップデートされた私は上から物を見ていた。
 下はまるで空間がない。どうして立っていられるのか重力もない。運動している・のか? 
 静止しているからそうなのだろう。自分を確認する遅さに苛立ちながら、ぐずぐずと私は覚醒を待っているらしい。まるで人ごとになってしまった私は私が起きるのを待っているらしい、ということは間違いないのであって「ああ、私が寝てる」で良い。
 重文銃創は、安心してそこに座した。座そうとしてそこで目覚めた。
 幾重もの白いカーテンがヒラヒラと舞っている。表からはこどもの遊ぶ声がした。
 病室だった。
 病室は3床使っているか、ないかの部屋だった。
 明るい、と思った。
 明るくてそれ以外はよくわからない。
 自分の姿を見る鏡もない。包帯もない。でもなぜそれを確認するのだろうか?
 確認しないといけないような不安がシーツに滲む。じりじりと記憶が蘇る。事故だったような、病気だったような、なぜここに眠ってるのかだけが焦点が合わない。クラッシュして目がおかしくなったのか。
 まるで、私が状況になってしまったかのように。 
「銃創さん?」
 医師の恭しい声にハッとする。
「なんでしょうか?」
 思ったより、私は委縮していた。
「モニターできますか?」
「は?」
「やはり、本人確認は取れていなかったのでは?」
 ただ向こう―。そうとしか言いようがない。声がしていた。奥、おく、よくわからない。ごぞごそと耳患いのようで気味が悪い。
「◆■さんでしょうか?」
 間違いなく私だ。ここから這い出したい気持ちで返事する。重文銃創だ、私は。
「今の状況だけお伝えします。」
 医師は続ける。
「あなたは事故に遭われました。医療事故です。」
 あまり落ち着いて聞いていられなかった。発狂する寸前だ。なぜ? どうして? なんで? 疑問より、この状況だ。
 ―ゴルディロックスの鐘が鳴った。
 「ネア。」

 ああ、もうどうやら向こう側へは、行けないらしい。
 むこう。
 固定された画面は走査線を映し出す。リハの時間は意味なかった。
 動かしたいと思えば動く。支障なんてない。
 差し障りは心理的なことでしかない。動かそうと思えばいいのだ。結果、遊びができて動いてしまう。まるで機械の様に、自動的なのだ。私は変身した。完成したからか、いやもとより壊れていたから充実をどこかに捉えそこなっていた。一線を侵しておいて、超えておいて、外部は嘘なのだ。これが真実の告発だとも思えないのが私の弱点であった。
 飛沫は砂。ぐしゃぐしゃと滅茶苦茶に白けさせる。とらえた像は何だったのか。腕を曲げる、滑らかでない。その動き。無駄ではないか、無駄ではないか。無駄では…。
 完結した時計がじっくりと自己を確認している。あれは盗人が出口を確認するようにも見えた。出口をはっきりと知っている。だが出られない。楽にさせてはくれないのだろう。そうしてくれる必要があるのかは知らない。楽になれればと言えば矢が飛んで来よう。
 それだけが知れていた。
「楽にしてくれ。」
 譫言のように銃創は呟いていた。
 医師の回答に緩和の二文字はない。それが普通だったとして痛みを感じるわけでもなく淡々と治療は続く。慣れとしか言いようがない。
 マシーンライズせよ。自分を奮い立たせる。金属が動くだけなのだ。遊びも、滑らかに動かせるための機能だ。御しきれ。己を。
 ふと、銃創は内向的になっている自分を確認した。ああ。今日はまた一つ自分を殺せるようになった。指折り数えた。

 制御とは殺し続けることなのかもしれない。
 自覚とは消し続けることなのかもしれない。
 生活とは演舞しつづけることかもしれない。

 銃創は研磨材で擦りあげたように痛い気に、キレイに目的化されてく。人間ではない、ラインに銃創は立たされた。愛される傑作、それが銃創だ。
 いや元から人間だったのかさえ怪しい。懐疑は他人より自分に向けられた。出口は結節点のようなものだったのか、分水嶺のようなものだったのか、総て判別がつかない。
 院内でが、一番の問題だった。銃創は片手で頬杖をしながら机に座った。ロビーの中で、自分と似た仕様の者達を見た。REVELの文字が赤々とルージュを引いたように、見紛うほど高級感があった。
 似たような境遇の者達は気になる。どんな人生を送ってきたとか、どんな趣味があったとか関心はやたらに多い。
普段、彼の周りには特に人人はいなかった。ぼっちというやつかもしれない。金属を身にまとった者達はやはり自分の鏡像なのだ。
 いやしかし。だけど。
 私はあいつらとは違うと私は何処まで言えるんだ? 銃創は潔癖であった。
 知らぬ人間も少ない、REVELは医療機器メーカーだ。高校生のとき新聞でREVELの広告を見たことがある。その程度の知識だった。
 そのロゴを身体に張り付けて生活することになろうなんて何だか可笑しかった。笑いというやつは論理を宙刷りにしてしまったとき訪れる、という。私の論理なんてのは、合ってるか間違ってるかくらいしかない。何に対してかも良くわからない。また笑えてくる。頬という組織があった時は緩んでしょうがなかっただろうに。そんな模様を多良部比曾壱が見ていた。
「センサライズ動いて、ます。」
 歯切れが悪いが淡々とした抑揚のない、指摘すれば欠点だらけなのだろうが、比曾壱の語りによって緊張は解れた。
「ほっく、ほっく。」
 汗をかけないし生理機能のほとんどが生体とは違うから、息を整えること自体がムダだ。
車が停車しているときの冗長なエンジン音、私はあれを思い浮かべてしまう。
「すまんが、今日はこいつら検査とかは?」
「ほっく、ほっく。検査は終了してるさ、一斉の機能点検だ。あんたもやったろ?」
確かにREVELのロゴを一昨日見た気がする。ただ、奇妙な健診だなと思えただけだ。
「ああ。知らなかったよ。皆一斉なんだな?」
「早く終わらせたいって事情よ。ほっく、ほっく。」
確かに、スイッチを切れば終われる。
ここの皆、ひとまず静止するだろう。俺、いや私もそうだ。銃創だってここでお終い。
―ゴルディロックスの鐘が鳴った。
 ここでいいんだ。石碑でも立たないだろうか。銃創が眠る場所だ。 
 一回。
 二回。
 三回。
 四回。
 五回。
 数えたらキリがない。一体、誰を寝かしつけたというのだろう。
「ネア。」

 銃創は目覚める。フライトジャケットのワッペンの中におざなりに付けたアルファベットの数文字がなぜか無性に気になった。どこのデザインかを知っていた。
 でも?
 ああ、取り違えられたということは着てたものも向こうが持ってちゃったのか。
 靴まではとられなかったようだ。けど、フライトジャケットと交換したものは何だ?
 思い出せない。
 交換が成立したのかさえ、いや何かがおかしい。
 盗難ということでいいんだよな。ばさばさと布団を畳む。病室のベッドは配置換えが済んでいた。金属のフックに接合されるような形で私はしっかりと固定された。石像になってしまったのかと思うと気が楽だ。
 気が楽とはいえ、食事はピルが配給されてくる。軽く頭部の穴にそれを押し込むとすんなりピルは挿入された。満腹中枢だけを支配する薬、それが食だ。但し、多良部の話ではピルにも幾つか種類があって唾液が止まらない、(とはいえ分泌腺は存在しないのだが、) とにかく依存性の高いものも外で流通しているのだという。
 多良部の言い分を聴いていると何かそれ目的でここにやってきたような印象を受けた。  
 変わったやつはいる。ハードコアユーザーはどこにでもいるさ。美食、そんな願望はまず叶わない。多良部の防衛策だったと思えなくもなかった。何もかも、捨てて、間違いと知りつつも―だったのかもしれない。ここへきてしまった、か。
「多良部よ。向こうはいいのか。」
「向こうには、飢えばかりだ。」
「飢える?」
「ああ。対象はどこまでも増える、時間はない。買えるほど時間がない。」
 ぼとぼとと泡でも吹くように多良部はお喋りをした。
「増えたら、買えないのが分かってる。なぁ重文。おもちゃ屋って行ったことあるか?」
 あるにきまってる。
「ケースの中の愉しそうなやつ、全部欲しいって思えたことは。ほっく。ほっく。」
「あったかもしれんし、よく覚えてねぇな。」
「俺はさ、欲しかった。金がないのも知ってた。ほっく、ほっく。」
「そんなにあれがよかったのか?」
「わかんね。その前はカタログ開いてた。」
「カタログ?」
「ああ。何でも載ってた。電話すれば届くんだ。」
「さっきから話が見えねえんだわ。俺、バカになってきてるし。」
「俺?」
「俺だよ。俺。」
「随分、銃創も砕けたね、ほっく。」
「それでカタログの件は?」
 返答をそのまま待つ。
「カタログやケースを開ける鍵ってどこにあんのかな?」
「そりゃフツー。管理人室とか…。」
 何か言ってはいけないような邪気を感じた。多良部から黒濛々とそれが漂う。
「お前、開けたことあるのか?」
「ほんの些細なことだったけど食肉工場に入った。」
 脈絡がおかしい。カタログはどこ行った?
「腹が減ってたんだよ。その時は、カタログ眺めてるだけじゃ足りなくなった。生肉に齧り付きたい。それが運のツキ。」
 やり切ったという表情に若干腹立たしさを感じる。しかし――。清清しい。
「要は侵入先で事故か。」
 多良部は黙って頷いた。
「ほんとバカだったよね。飢えを済ましたら向こうへ行かなくて済んだ。」
 汝、美しい。そういってやる必要がある。これだけ世界で飢えを叫ぶ人間がいて、ほんとうに飢えを満たせる人間なんて、表で主張してる奴より希少なのだから。
 医師とのやりとりにも慣れた。考えてはいけないことだが、重文銃創はもとからマシーンだったのではないかといえるほどに安定していた。私は化け物だ。いまとなっては機械だ。
 だとしたら周りもそう考えているのだろうか。医師は目の前の化け物に物怖じせずに対応している。殊勝なことだ。
 医師はいう。重文さんはこちらのミスでラジカセの中にいるのだと医師は話した。医師は別にふざけていないのが口調や表情から分かった。
 最後に医師は、
 「D 棟には行かないことを約束してください。」
 と私がそこへ行くのを拒んだ。D棟を本気で見に行こうなんて気はなかった。見物の、軽い気まぐれだ。
「あそこは精神機械科なんです。」
「はぁ。」
 精神機械科、ただの漢字の羅列だ。組み合わせたって今の私と大差ない。
 機械科の診察を終えると、妙に油臭くて吐き気がした。センサライズで何か引っ掻けたか、良く解らない。ちょうどD棟といえば診察室の真向いだろう。行くなと言われたって目に入っちまうだろうが。さっきの話を反芻して笑けてきた。多良部が冷凍庫で凍死寸前で発見された、そんな絵を。
「くっはっはは。」
 つっかえる様な乾いた笑い。腹を抱えるといってもどっからが腹か。自分を点検していると私は動物だったころの本能を感じた。一瞬、意識がスロウになる。何十倍にも時間を区切っていく。見たくない風景を見ないためにも、制御の舵を微妙に、いや何とかして変えていきたかった。
 ―が、目が合ってしまった。
 D棟の何者かをうっすら感じる。センサライズとか普段のそれではない、悪寒にも似た感覚だ。凝視されている。幸いキョロキョロ動く目が私に付いていないことがよかった。目線を交わすことがあれば間違いなく、あれは危ないモノの類。
 ずっと近くにいて。
 それはずっと遠いはずだったのに。
 今は傍らよりも近い。
 悍ましい者だ。
 力が抜けていくのを感じた。ガタンと50㎏の金属は倒れた。
「何か倒れたぞ。」
「倒れたの? 」
「見て、見て。」
「ああ、機械の人だ。」
「看護婦さん呼んできて。」
 周囲に人が集っている。群衆のなかにアイツがいたか。ヒソヒソ声が辺りに響いた。
 重文銃創は思い違いをしていた。
 D棟の患者の会話はいつも非日常のなかにある。彼らの妄想はいつも一貫していた。機械科の患者であれば、死はどんなものだろうという点に集約されていた。それは自らが機械科の患者になりたいという願望も含められていたし、それ以外の単なる面白がりの狂信者も中にはいた。3~4人で集まって一日中、機械化された自分たちの破壊の夢を見る。一般人には目に入ることはない。スケッチにそれを書くものもいた。目から発条が出て死んでいるモチーフはお気に入りだった。彼らの期待は機械の身体はどう壊れるかにあった。
「だからよ、ハラからグッシュアとドリル差し込むの。」
「ゴリゴリと下腹部からハンマーで潰したようにさ。」
「背骨だってバリバリとねじ繰り回してスプリンクラーだよ。」
 兎に角、病院側もREVELも彼らのことを隠したがった。機械化手術で助かる命と副次的な残響だ、と。精神の中に無敵の機械を宿した人人。
 残響の街で人形が喘いだ。
 楽にしてくれ。
―ゴルディロックスの鐘が鳴った。
「ネア。」
「なあ、まだ続ける?」
「ネア。続けるさ。」
「ああいいぜ、ネア。」
「もう寝れば、ネア。」
「ネアなんて始めたらいつ終わるやら。」
「分かるわけない。」
「ネア。」
「ネア。」
そんな外部への要求、終わりなく続く。
「ネア。」
恵画有栖はどうするというのだろう?
「至らない。けれど続けていいのですが? 終わってもいいんですか?」
「ネア。」
「終わらせても放り出しても終わらない。」
「生は長い。ネア。」
「終わらないのだとしたら、始まる以前には戻せませんか?」
「ネア。」
 外部への要求は続いている。カードを置いて恵画有栖は考えた。
 

 ○□新聞は大量殺人鬼が学校で事件を起こしたニュースを取り合上げてる。D棟患者の須原場譲はニタニタと満面の笑みでロビーにやってきた。
「やぁ。」
「嬉しそうだな。」
「いや、いや、うーん。」
「何かあったの?」
「新聞新聞。」
「テレビみたっすか?」
「見た。」
 譲は流していく。
「これ!」
「ああ。」
「?□公園から数分のところ。」
「そ、そ。」
 当たり前に想定して殺しに行く。
 数分というリアルな言葉も今では普通に考えられる。
 皆が顔なじみだし、挨拶もする。些細なコネも重要だ。知ってる人間、情報すべてから、聞き出せること全てが、彼らの殺しのイマジネーションの補強材を構成した。
 社なのだ。
 そこでは死を祀っていた。
 重文銃創は目覚めた。階を移した病室であるらしい。頭上から一瞬放たれる波によって、ここが前にいた階と違うことに気づいた。矛盾について考える暇もない。センサライズされた空間はもう一つ、別の事実をこちらに伝えてよこした。どうやらここは私のいた病院じゃない。医師の声がした。
「重文さん。多良部さんが…リンチされて、亡くなりました。」
 ―鐘が、聴こえたか?
 「メェ。」



 
 /1
  
 冷やし中華の器を片づけると、護堂榮一は顕微鏡を覗き込む。
 食事の残り汁を流しにポトポト落とした。ちょうど学校の理科室のような作りの研究室は、茹だるような暑さの外とは違って、冷房のひんやりとした空気が辺りにたちこめていた。プレパラートのなかは蟻の標本であった。
 強靭な顎の作りに男は美学する。顕微鏡のなかのムシはただ美しいだけであった。
 REVELの中央研究所51号室、それが護堂に設えられた仕事場であった。護堂はそことは別の、研究室を、「繭」として持っていた。研究が楽にならないから、別の研究所を設けただけというのが護堂榮一の言い分だった。
 いつか報われるわけではない。
 報われている瞬間だけが、あればいい。
 護堂榮一の究極的な研究は無常なのだ。
 無常の美に辿り着きたい。
 REVELから与えられた、課題は蚊の研究であった。ずっと夏休みであった。繰り返す、この31日間を。護堂榮一の同僚は52 号室が設えられていた。サルの頭に電極を差す実験をしている。
 キィキィと鳴く籠が運ばれていくのを見たことがある。同僚が食堂で気前よく話しているのを聞いたのだった。いや――。あの蚊に、聴いた。
 顕微鏡で足を毟りながら、蚊が話すのだ。
「ああ、そうだよ。姪がね、いつも小うるさいんだ。」
「いつも殺してやりたいと思ってる。」
―ゴルディロックスの鐘が鳴った。
「ネア。」

 銃創が眼を覚ますと、無感情へと誘われた。アイツだ。だけど4つの眼はアイツを認識できないでいた。靄のように微かになって絶望だけが襲ってきた。ほろりとした、力尽きるもの、バケモノだ。
 
 ひとまず状況を冷静に捉えていた。俺は多良部比曾壱を救うべきだ。痣だらけになっていく生身とは違って、金属部のREVELの文字だけルージュみたいにクッキリと見えた。
 血の方が、赤い。
 無駄な感想を走らせるな。
 動け。動け。動け。なかんずくにも動け、動け。
 俺には力があるから。赤い字は静止を律動させる。なにかが立ち止って考えろ、という。須原場譲はちっぽけだ。だけど――グキッと指を折った。
「っ。」
 そこまでする必要がない。頭の中に響いてくる、ぞわりとした感触に襲われる。背後に誰か、いたか?問いかけて、目の前の多良部は息絶えていた。
「おい。ネアだよな!」
「何もそこまでしなくても…。」
 潮が引いたように軽蔑する。ざわりと皆は怯えていた。
「―ネア。」


「もう、そうなるんだ。私は一人でいい。」
 恵画有栖は叫びだしていた。内部へと走り出していた。加速しだしていた。
「鐘の音なんてしてないよ。」
「一人が良いなんて信じられないよ。さぁゴルディロックスの音がしているんだから。」
「いやっ。」 
「イカレ野郎っ! くたばれ。このっ!」
 譲は殴りかかった。有栖も応戦する。
 殴って殴って殺したい。許せないからこいつは。
 ペン先で貫きたい。ペンをグッと掴みざくざくと刺した。こいつらの願望だから。やってやるわ。やってやったら機械だって分かる。こいつら人間の振りしてるだけなんだから。ヘラヘラ、人狩りの夢見た、愚か者だから。
 須原場譲は静止したんだ。
 きっとそうだったんだよね…。
 きっとそうだったから私には虚しく感じたんだよね。
 生暖かい血飛沫あびながら、殺人鬼は二人だけで傷つけあった。

 中央研究所に護堂涼音様がいらしたのは夏の終わりごろだった。受付で名簿に記名する。こつこつと白いハイヒールを鳴らしながら、エレベーターホールの前で待つ。白いジャケット姿の涼音様は榮一様の研究室へと向かった。白いスカートをたくし上げる。白いジャケットの儘、した。 
「――っぁ――っ。…―っ。」
 涼音様は榮一様の姪だった。榮一様の女だった。偶にこうして研究所に上げては行為に勤しんでいるようだった。
 涼音様は声を押し殺している。

 蚊が飛んでいる。

 
 ビクビクと男が痙攣する。終わると、どっさと男はソファに座り込んで酒を煽った。
 休日で中央研究所に人はいない。磨いた廊下に照りかえす陽光が眩しい。だらりと女は髪をかきあげる。グラスはじとっと滲んだ。REVELの情報はあまり上がってこない。一研究員が知ることではないことだからだ。
 俺は全体を俯瞰できない。この時間が一体どのように結実するのか?
 涼音の協力が必要だった。
 そして、こんなときに相手が欲しい、そんな思いもあった。
 護堂には嘘があった。
 楽だ。無常の美に辿り着きたい。だが乾く、腹も減る、そういう相手も欲しい。
 蚊を相手にしている榮一と、生身の榮一は重ならない。人は変わる。俺は変わる。構成する周りも変わっていく。集団も変わる。だったら拘る必要が元よりない。「俺は」変わる。変える。意図した。変えてしまう。普通なら十年かかる拘りも克服も二分あれば足る。変えていい。許可した。俺を「変える。」折り合わせない。植物の如く榮一は止めている。火はついた。
「蚊を見たか?」
「え?」
「最近あれが喋るんだ。」
 指を伸ばしながら、涼音は返した。どうでもいいなと思いつつも言葉を編んだ。
「ああ。最近の研究だとあれが病気を媒介するって話よ。」
「病気?」
「ええ。」
 情報はあまり口外しない方がいい。
「聞いてなかったな、それ。」
「知ってるものだと。」
「ほんとうに都合いい、連中だ。」
 とってつけたように溌溂と返した。
「連中? あなた他にも誰か情報源があるの?」
 表は閉まっている。
「いいや。」
 榮一は涼音の話を遮って、なにかぼんやり思考したかった。
 ああ。ただ気怠い。

 「ネア――。」
 医師は語りだした。
「もとは彼らの拠り所だった装置です。」
「機械でいいんだよな? それも。」
「ええ。」
「ポータル型ネットワークとでも言うんでしょうか。」
 繋がっていられるから、アイツは認識できなかったのだろうか? もとより居ないと考えてもいいから、か。でも――。
「ネアはもう稼働してないんです。」
「は?」
 稼働していない?
「嘘、繋いでる人間がいるんでしょう?」
「ほんとうにあれはどこにもないんです。D棟の人間達だけが「ゴルディロックスの鐘が鳴っている」と話す…。」
 医師の声がスピーカを振動させる。
「ネアに繋いでいる人間達がD棟の人人です。今回の処置は汚染を避けるためです。あなたを私たちは守りたいのです。」
「ちょっと、話が見えない。」
 俺を守る、いや、そもそも、そのネアに最も近いのはアイツだろう――。
「あいつはどこです?」
「あいつ?」
「認識できないんだ。」
「そういわれましても、重文さんの診療の時間はD棟患者全員隔離していました。一緒の階にいることなんて、まずない。」
 

 蚊は散布が終わろうとしている。卵から育てた。榮一の傑作だ。組織へは動物実験の効果がボーダーを超えたので、試用を許可された。気分がいい。数年ぶりだ。ここまでさっぱりしている状態は。
 出口を抜けようとすると受付のAは微笑んだ。
 祝福してくれているのだ。彼女もこの日を喜んでいるに違いない。
 思い込みでいいさ。ザックと手に何かが刺さったのを知って、榮一は死んだ。
 

 鋼鉄の隔離室に俺はいる。
 重文銃創は医師の話の信憑性をセンサライズした空間で測った。医師を信じていないわけではない。警備体制の不備を問題にしているわけでもない。
 ただ、悲しい。悲しいけれど、受け止めてもらえるような状況にはない。ただ隔離されている。別のところにいる。友達と思えた奴の魂を悼むこともできない。身体はこんなとき速く動かせればいいのに。俊敏に動くから。

「生体端末が普及し出したのは39年も前のことです。」
「俺は生まれていない。」
「私が子どもだった頃、生体端末用タンパク質の開発がさかんに進められました。」 
「装着義務があるか、ないかは小論文のテーマだったような。」
関係ない話で紛らわそうと思う。
「そうだったかもしれませんね。」
「REVEL社、いや、その前身の中央研究所が実用を推進してきました。生体端末は体のなかに電極性のフィルムを埋め込んでおくだけでできますね。」
「突然記憶力が良くなるとか、毎朝早く起きれるようなものでもない?」
「貴方にとってあまり関係のないものです。」
 二、三、質問を繰り返していた。水や空気のようなものか。私は学習になると子ども同然だった。重たい体が少し軽やかさを取り戻した。

 「―ココォ。」
 「ュュウ。ブワッワッ。」
 ゴウシュウビャクダンの青、山葡萄の潰れる香り。
 クジャクの扇、ガムを噛んだ。
 何処へ泳いでいけばいい?
 「ュウ、ュッ…―。」
 拓いたら、止まれる? 
 「―ココォ。」
 「―ココォ。―ココォ。―コォ。―コォ。」


 ヴェント艦隊のノシス・ネットワークはジャミングを拒絶した。
 ラフマニノフのカセットを鳴らす。イヤホンは繋いでいる必要はないけれど、そんなスタイルが良かったのだ。
「宙局は第二世代型を切り捨て、第三世代型を選んだようですね。」
ブルーの点灯する回廊を拳原玲央は歩いてきた。
「当たり前なのかもしれない…。私達は弱いから。」
 ぽつりと藤村ライカ―艦長は言った。艦載機、約300機を載せた第一艦―あじさいは雷雲の立ち込める嵐の中を航行する。
 雷撃が貫通すれば艦も危うい。ポイント(129、34、89)はすぐそこだった。
「こちら、ヴェント艦、あじさい。宙局へ。パイロットエントリーを開始してください。」
「ノシス・ネットへ。ダイヤル。」
 高速回転機が稼働する。
「レジオ、ネット。ダイヤル。」
 まだか。
 藤村艦長は苛ついていた。早急にしたい癖がある。
「玲央、アンカーポイント決定。人員を待つより先に出ろ。」
「了解。複眼鏡興す。ニード。」
「ニード、アナライズ。」
 やや割れた口調で機械が返した。
「カタカナ語並べてるんじゃあない。」
 イコン、点灯確認。イヤホンジャックを離した。
「独身趣味め、」
 オーケストラの合図が船内に響いた。
「あじさい、聞こえるか? パイロットエントリー、33パーセント。」
藤村は画面を睨む。厳しい表情に変わった。
「経験が物を言う、か。」
 メンバーは年寄ばかりだ。熟練したパイロットたち、死線をまたひとつ越えようとするのか。
「何、喋っとるっ。うなばら、発進せよ。」
「うなばら、発進。」
 アンカーポイントへと第一機が勢いよく発進する。
 第一機。
 第二機。
 第三機。
 第四機。
 第五機。
 乱数か、散じることで衝突を避ける。
 「シューター・セクションへ、レジオナイザー回避補助願います。」
 拳原はおとなしく、シューター・セクションへエクスポートした。シューター・セクションは慌てていた。除外ルーチンにより、レジオナイザーの仕事を最低限の負荷にする。
 歴戦の勇者という名の、読めない連中が宇宙へ飛び出した。
 ギリギリの回避。魔法の如く、とにかく疾い。
 鬼?YASYAというハンドルネームの男をスパイダーシューター、樹陰拾遺は起点とした。
樹陰が画像を丸で囲うと、すぐさまパイロットたちへ、ある気配として伝わった。
 

 第一から第三艦に積まれた艦載機合計905機は小惑星(129、34、89)を破壊し、使命を終えた。

 「―ココォ。―ココォ。―コォ。―コォ。」
 不必要な、ソラ。
 入り込んでしまう、ソラ。
 誰が決めたかいらないもの。
 空は勝ちすぎるから。
 強すぎるから。
 決して映してはいけなかった。

 ノシス・ネットが応えている。頭の中に直接、語り掛けるように。
 恵画は第三世代の恩恵を受けていた。気持ち悪い。
 護堂を注射針で刺した。痛くて苦しいから。


 ゴウシュウビャクダンの青、山葡萄の潰れる香り。
 クジャクの扇、ガムを噛んだ。
 何処へ泳いでいけばいい?
「ュウ、ュッ…―。―ココォ。―ココォ。―コォ。―コォ。」
 気持ち悪い。泡が昇って行った。
「呼吸器を止めて、ください。」
「この子は生かしておくわけには…。」
「―ココォ。―ココォ。―コォ。―コォ。―コォ。―コォ。―コォ。―コォ。」
 点滅するランプの様に、泡が消えてはできる。
 夏の、あの日に向かっていく。
 
  /2

 深い。重文銃創の感想だった。
 こうして縛られて、3日は経った、だろう。機械だって眠るさ。

 ―ゴルディロックスの鐘が鳴った。
 この音か。なんてことない。それでも楽にしてくれなかった。やっぱりそうだよな。いつも、凌いでいる。この音から逃げている。
「ネア、やったことが合ったのかな。」
 少女の声がする。白昼夢か?そんなわけない。
「ネア、そんなもんか。」
 反して期待している。
 この少女が、何か、自分に決定的な、何かをもたらせてくれる。―予感。
「ネアっていつから入ってるんだ?」
 聞きたいことだらけだ。多良部のことも加えても余るくらいに。
「手紙って書いたことある? ネア。」
 考える。とたんに言葉に詰まった。
「ネア、貰ってばかりだ。昔から。」
「昔があるんだ。」
 過去がない、とでもいいたげだ。
「淋しいのか。」
「熱いの。嫌いなんだ。」
 俺が熱い、男だって初めて知った。
「もう、先がないの。ネアの子達は虚無だから。」
「おまえも含めてか?」
「ええ。呼吸器を外そうって。」
「外そうって?」
「お医者さんもネアに罹ってるよ。ほんとうは。」
 一瞬動転した。
「だったら、何故、俺は隔離されてる。」
「怖いの。」
「は?」
「怖いから、壁を荒らさないようにしてるの。」
「荒らさない? 」
「荒らしたらどうなるかわからないでしょ。」
「でも、お前らは多良部を殺した。」
「事実だね。怖いから。怖いから。怖いから。怖かったから。」
「なにいってるんだ。」
「怖いから。」
「なにいってるんだ。そんなことで殺される必要があるのか?」
「ソラはね。」
「ソラ?」
「そう、みんな消してしまいたいんだって。強いから。」
「潰してきたってことか? そいつが。」
 こいつ、何もかも軸がない。引っこ抜いてしまえばいい。
「おじさん、私のコード、頭から引き剥がしちゃえば、キモチいいって、いまおもったでしょ。」
「ああ。思ったね。なぶり殺したい。」
「ネアはね、そういう場所だったの。生かされるために殺して。生きてくためにも殺すの。」
「殺しが重要な要素だったっていうのか?」
「違うわ。暴力ほど、あなたをこんなに感じるのに。」
「感じるって何だ。」
「鐘が鳴るわ。」
「おい、誤魔化すなよ。」
 奴は消えた。俺を支えていた装置がボロリと壊れていた。こんなにも力があったか?
 
 
 扉が自動的に開いた。
 REVELの文字が見えた。人間の血――。
「ふふふ。」
「なんだ、まだいたのか。」
 もうこいつは心象風景にすら、成っちまっている。
「何が起こってる? 説明してくれ。頼む。」
「24時間前、REVEL内でウィルスで汚染された蚊が放たれたわ。」
「汚染? 刺されたらやばいのか?」
「うんと、触媒なの、あれは。」
「触媒?」
「鐘の音を消してくれますようにって。神様に頼んで作ってもらったの。」
「神様がこんな阿呆するかよ。」
「試してるの。私には分かるわ。」
「それだったらこの状況は何だ。人体が転がってるじゃないか。」
「ちょっこっと高熱が出る仕様なのだ。」
「お前は?」
「恵画有栖。」
「ネアは作動してんのか。」
「してない。」
 まただ、REVELの文字が見える。
 一つ距離を置いて、また。また。
「ありゃいったい何なんだ?」
「ボリュケイン縄、結界なの。」
「結界?」
「そう。」
「じゃあ何か? これもそうだっていうのか?」
 重文銃創は肩の文字をつるりと、なぞる。
「少なくとも多良部さんはそう機能させていたわ。」
 多良部。
 何故か懐かしくて堪らなくなった。
「鐘の音を消したい連中がこいつ、を書いてるのか?」
 この異常な状況だけしかわからない。
「蚊が暴れたみたい。みんな抑制に必死なのね。」
「お前は何で平気なのさ?」
「私、余所からの子だからさ。」


 鉄塔の連なる鉱脈がしばらく電算センターを律動させている。
 同級生達は一度固まった。
 猟銃とスパイを使役する。
 中のものとは連絡を取った。秘密の合図をかけると電算センターは静止した。
 中央研究所、生産発令区、電算センター。
 中央の上に中央のある、特殊な作りをここは要した。
 生産するは生体機械。生体端末の第三世代型だ。慎重に目的を顕わにし出す。こそこそという音すら捨てて。名前のない同級生達が進む。
 樹陰拾遺が倒れこんだ。
 「ここからだっれ。」
 呂律が回らない。
 

 たった3年だ。成就はネアより早かった。
 ノシスゲリラ達は生産発令区を毀してしまった。
「(誰かが見てるの?)」
「(いや、ここから始める。)」
「ノシス・ネットへ。ダイヤル。」
 生産発令区は別の姿へと変わった。捨ててきたもの、失くしてきたもの、今なら、と。
その瞬間から一つとしてミスは許されなくなった。
 彫刻する、何者かが。友達、好敵手、仲間、家族、親友…―。
 かちりと噛み合わせた途端、完成形へと成り損なう。そこから先は油断も許されない。傷口は膿んでいく。たゆまぬ研鑽でしか証明できない。強いから。優しいから。厳しいから。
 ―同級生の顔はほころんでいた―ここにいないから。ぼくは、年老いてしまったように感じる。
「赤姫、もういいよ。」
 ダンと、銃口から硝煙が上がる。連れていたマシンがガタリと倒れこんだ。 
「猟銃を咥え込んだら楽でいいよね。」
 ぼくは続けて言う。
「一旦、照らし出して、行ってしまうんだろう? ここに送り込まれた以上、ここを堅守する。しっかりしろ。」
「異界は、もうここまで来てるのに。暗がりに逃げ込んでいる。」
「その先にも、暗がりがある。」
「―限りがあるんだ。」
大理石は空っぽだった。ただそこに存在していただけだ。
「ダイヤル。」
 大切にされないなら、あそこはどこまでも暗い。
 アシュケナージの、か弱い音がした。
 
   /3

 セキュリティが事態の深刻さを捉えたのは、26時間前だった。隔離施設にフェーズ5の患者がやってきてから藤村は兎に角、苛ついていた。
 宙局衛星放送のベースボールチャンネルと100円の葡萄酒をゴクゴク飲みながら、セキュリティスタッフは除外ルーチンを繰り返していた。スティールすら投げ出そうと思う。斜に構えていた。自覚とは消し続けることなのかもしれない。
 藤村ライカは一貫して、作業を続けていた。シューター・セクションへ連絡する。電話を落とす。手がおかしかっただけ、それだけの理由だった。
 こんな日からライカは作業を已めた。意味がなかったという訳でもなかった。微睡の中にいようとしただけなのかもしれない。あのまま続けるには力がない。心境は努力を否定していた。前に出るには時間がいる。
 立ち向かっていては頭の何処かがおかしくなりそうだった。必要がない。考える脳もない。――弱い人。そう、セキュリティ内では噂がたっていた。
「嫌って言ってもねぇ。立ち向かわない、と。」
「もう嫌、立ち向かいたくない。」
「そうはいっても勿体無いよ。そこそこやれば?」
「だってさ、ライカはまともな管理能力をもってないじゃないか。しばらく修行だよ。ここで。」
「そう。私はそのまともにすら届かない。」
 スタッフの皆は唖然とした。
「届かないんだったら、駄目だって言うんだ。それなら質問の意味もないじゃないか。生きた意味もない。」
「死んだっていうの? あなたは?」
「次がない。死んだら次がない。欲しくない。要らない。超えることにも意味がない。分かってるんだ、簡単なこと…。」
ざわざわとチームは喚いている子どもを鎮めようとする。
「慣れるから、もう少し我慢すべきだよ。」
「やめろ、そんな事、嘘だ。嘘だ。」
ライカは自分のことを話した。ただ知って欲しくて。
「君の生活史なんて聴きたくもないのだよ。誰も、ね?」
誰もがそう。時間のほうが大切なのだ。
錯乱状態か、暴れている。
「ログはとれてるんだ、ライカ君。止めたまえ。」
この事態をセキュリティの別の組織が捉えている、だろう。
「迷惑だって顔だ。」
むき出しになって喚いている。
「視えてるんだ、顔が、覚えてないだろ。」
忘却がか、覚えている。視角野が白んでくる。同僚の顔も、すべてのっぺらぼうだ。
 どちらにも立てないというなら、憐れみをくれてやれ。
 ―鐘が、聞こえないか?
「メェ。」


「―コォ。―ココォ。」
 泡が昇っていく。 
「ュュウ。ブワッワッ。」
 鳴き声がする。
「ュウ、ュッ…―。」
「―ココォ。―ココォ。」
(拓いたら、止まれる?) 
「―ココォ。―ココォ。―ココォ。―コォ。―コォ。ュウ、ュッ…―。」
「ブワッワッ。」
「―コォ。―コォ。」
 人人が沈んでいく。
 世界は拡大した。傷を負っていくために世界が開けていくのなら。私は世界なんていらない。そのように、二人は決心した。
 恵画と藤村は重なった。互いを確認し合う。
「先に到着してる子がいるなんてね。」
「そう…。」
 何故、ここにいるのか?

「じっとしてたくても、もう無理ね。」
「これから愉しいよ。」
「ネア。」「ネア。」
 警鐘はいつでも鳴っていたから。ネアのネットワーク、失った第二世代のネット、のはずだった。ジリリと目覚まし時計を止めただけだった。
 護堂の部屋へ通した、女が母だということを知って、未来も過去も動転するように、クリアノードの海が満ちている。
 涼音様は声を押し殺している。
「ノシスのネットへ。ダイヤル。」
 司令室がダイヤルしている。小さな数ミリの、ノシスの艦艇がパイロットを要請する。
「パイロットエントリー開始します。」
「了解、インターバル。」
 チクリ、と蚊が榮一を刺す。ネアの因子だから。護堂は元より相応しい人材だった。
 夏の日、私はここに生まれた。
 ネア因子のより深くて繋がる適合者になるように、私がより選ばれていくように、重複した世界の先を行くものとして。願いというよりも呪いに近くて私は只の狂信する、何者かであった者でしかなく、その先も限定された私でしかない。
 
「呼吸器を止めて、ください。」
 須原場を刺した後、私は眠っていた。記憶や諸々をライカと共有したあとは、偶に隔離されたあの男の部屋にいた。余所の子でも、私はいるもの。集会が虚しいだけだって分かるのは私を毀して、とび超えて、答えなんて見つからなくて、甘えたかっただけだ。ひとつだけ知ってるのは虚しいって、ことなんだ。
「呼吸器を外してください。」
 言ってほしかった。
 その甘い響きを。
 
 ―社なのだ。
 ここでは死を祀っていたんだ。

 成就を感じた。私は二回死んで。いやそれ以上死んで。
 「護堂、あの青がどこから来たのかな。」
 答えがない。安らいだ。ずっと昔から知ってたような、あの男の無口。翼なんて、都合いい言葉、飛び立ってしまったから、あなたは。音速に近い飛行、見えたものは無い。心が割れたんだ。だからと言って写してはいけなかった?
 ねぇ、有栖。
 光差す細腕にするりと編み込んだ螺旋。
 そこから瞬く間にライカの始期が跳ねた。
「何?」
「私………だから。私………………だから!」
 刻んでおく必要があった。
 しかし刻まれただけだった。ポジフィルムを透かした鮮やかな風景、眩しい。
「護堂の娘だから、殺されない。」
「終わりなんてこないよ!」
「いつが、そのいつが…。」
 似た二人、交換してしまったような二人。
 ここから動けないんだ。私達は。終わりが欲しい。

 砂時計を傍らに、医師会は本部が焼かれていることに気づいた。
「ネアは?」
「答えていません。」
「重文さんを送ったのは間違いだったかも、しれません。」
「ですが、本質に至れば。その…。」
「速すぎた、かもしれない。」
医師は黙り込んだ。




 「俺は」重文銃創だ。
 「私は」重文銃創です。
(何してるの?)
二人になっちまった気がするのさ。いや三人か?
(ふふふ。)
ここから誰が繋がってる? 大勢か?
(だったら助けてるでしょ。助けに来てくれてる。私は来たけど♪)
「俺が怖いから、ダメってわけか。」
「意外に順応早いね。」
「慣れた。」
淡く、銃創は言った。
(肩を落とさないで。そうね…。)
「貴方を迎えたいのは山々だけど、その身体じゃ無理ね。」
ダン、と廊下に響いた。
(怖いだけよ。)
ダン、ダン、ダン。
「これでも、制御下にあるんだが。」
「―メェ。」

 メインルームへ、アリスと白兎が歩いてる。
「9W7 Q ♪」
「何だ?」
「いえ、私が捜してるから。私の眼から貴方を隠すわ。」
「何か関係でもしてるのか?」
「たぶん、しっかりしてよって感じてる。すべて滅茶苦茶だもの。」
「アンタが頼んだんじゃないのか? 神様に頼んだって、言ってなかったか?」
「いえ。」
 ピシャリ、と恵画が突き返した。
「私が、ここにいるから。」

 撤収準備にかかったヴェント艦隊は悠々と安全圏へと去ろうとしていく。
 去り際にノシスが別の星を必要なく破壊する。
「止めてほしい。」
「止めるってあれを、ですか?」
 ぎっと拳原はライカを睨んだ。ライカはおかしい、時々、病的にさえ見える程に平らかだ。
「違うというの?」
「小惑星を潰し尽さねばいけない。星降りの夜は未然に防ぐべきです。」
「あれは浮遊しているだけだわ。」
「ですが!」
 下には…。
疑問は疾風の隔て。
「星系の上に定位してるだけなの。使命以上の使命は均衡を崩すわ。」
 大人しくしてろっていうのか。
「貴方は破壊工作が目的だ。」
 ―だったら、知りもしない方が幸せだ。道は悪を背負って、知らぬことが善と知って。

 ノシス・ネットワークが小惑星を捉えた。艦隊はすぐさま沖に出る。ウェーブの巻いた、アルゴン。恒星もなく、するりと雲間へと、闇へと。ヴァイオレットの闇間とコペンハーゲンブルー。玲央は故郷のそれを忘れてしまいそうになる。ナトリウムに晒されて、泣きつくように黒く。霊長類の目的と知って、ならば、この憤りは何か…。
 シャッターが少しずつ降りていく。光線の激烈さが目を焼いてしまわぬように。
 「赤姫」の名が、今ならば言える。
 きっと友達でいられると考えていたから。雨に濡らさぬように。殺さぬように、と。
 救われなくとも、分からずともいい。歴史には限りがある。
 一時を、一時を、ここから…。
「藤村さん。」
 星系はどこまでも謎めいて、深い。
 貴方は消えた方がいい。ほろりと噛みつぶすには柔らかい程に、淡く滲むようだ。
「セッテ・ネットに介入します。」
「ネア・ネットからは貴方は信頼されているのに! 裏切る気なの?」
「セッテには要がないんです。ですから私が要になります。」
「あなた死ぬ気?」
「いえ、誰も死ななくていいです。ぼくが、通じているから。」
「ダイヤル。」
 まるで硬直してしまったかのように。
 時が止まっているかのように。

「―赤姫。」

「これが取引になるのか? 価値がお前にあるとも思えない。」
「これは交渉だ。セッテに到達したのは玲央だけじゃない。」
「ダイヤル。」「ダイヤル。」

 消えたんじゃない。センサライズされないだけだ。
 聴こえる? あの子達行ってしまったわ。
「ダイヤル。」
 艦隊は静まった。人など、そこに元から居なかったか、のように。
 小惑星帯と衝突してヴェント艦隊は消息を絶った。

 宙局は、何も見てはいなかった。見ていたら、溺れるから。
 海原を駆けるには潜り続ける必要があるから。
 ソラは勝ちすぎるから。
 ソラは魚にだってなれるから。
 濃厚な、まだ昏い重力が世界を包括する。
「ノシス・ネットへ。ダイヤル。」
「レジオ・ネットへ。ダイヤル。」
「ネア。」
「ネア?」
「誰だか、わかんないな。」
「答えを頂戴。」
「あげたらどうなるの?」
「これは交渉よ。」
「取引にもならない。イノベーションでもあるわけ?」
「革新しろというの? 無駄な時間よ。」
「無駄か。なら話は通っているのかな?」
「おじさん、味方になってくれるの?」
「さぁね。話次第さ。手短に。」
「長い、長い、話なのだ。」


「だめさね、疲れちまう。やってもらったようにしか、出来ない。」
 グレースケールの白髪まじりが応えている。まるで私達と本気で争っているかのように、だ。
「要求は分かった。」
「取引をする。」
 ――ネットを情報と記憶が結び出した頃、私達は悪魔に魂を預けてしまいました。

 欲することが悪なら、パンはいらないでしょう?
 溺れないなら、早く泳げるのでしょう?
 魚は走らないんだ。
 何処までも追いかけて、追いかけて、潜ってるならタダじゃ置かない。


「ダイヤル、ダイヤル、ダイヤル…。」
 恵画が念じる。
「伝染させる気か? 君達は?」
「焼かない内に、です。」
「焼くだって?」
「私達なら、やりかねない。」
 手が震えているより、早く心が怯えだしたから。
「解析不能になるから…―。」
「いいかい。君達。これを見て。この文字。」

 REVELと、あった。
 業が、私達を加速させる。
 どこかで火が付く。
「落ち着いてくれる、かな。親身になるのは当然なんだ、いいかい?」
 優しい響きとは裏腹に厳しい口調だった。
 アルゴンの紫が舞う。電気が走ったような怒り。
「餓鬼なんだ、私達は――。」
 光は青く、豊かに、温かい。
「これを覚えておいてくれ。」
 防壁は破られた。宙局に寄せられた告発が医師会を圧力する。
 忘却を教えたのは誰?
 これは青い、淡い、炎だ。ほんの数ミクロの死地だ。
 ―そこでは死を祀っていたから? 
 業が止められない。その先を、想像してしまう。
「もういい?」
 あの人たちは帰ってこないから。糸遊が、私達を焼き尽くしてる。
 何処までも。


  /4

 ――少年たちが線路を歩いている。
 死体が埋まってるから。死体が歩くから。首がなかったから。
 祀るには些細な、ほんの些細なことだ。あの人達はネアから出て行ってしまった。
 遠い昔から一緒だったのに。恐怖が人を追い出してしまった。
 ここから這い出した、あの子も這い出した。死霊達は這い出てしまった。
 さぁ、ネアのゲームを再開しよう。感覚が、首のない獣へと、伝わっていく。
 少年は赤姫双太と、言った。
「セッテ・ネットワークへは?」
 腫物を触るように、双太は答える。
「気持ちわりぃ。」
「五月蠅いな。」
 「な」が跳ね返る。
 当たり前の反応だ。感覚野の連帯なんて、耐えられない、はずだ。
 強靭な双太の精神が、それを支えていた。
「これから僕達が戦い続けるってのはナシだ。」
「ああ。そうだといい、が――。」
 緑のスロープはいつでも頼りなさげに、碧い信号を潜っていく。
 外部への些細な要求、ネアなしに。煉瓦が崩れていく。
 鐘が聴こえるか?

 「ここからだっれ。」
 拾遺を抱き起すと麻痺した男を介抱した。男は気持ち悪くて死にそう、だと吐いてみせる。野郎に抱きかかえられてる事にも、何もかも。
 撃って倒れた、というよりも、痛みをコイツは感じてない。
「麻酔でもやってるのか?」
「いいや、耐えられないことを我慢した、のさ。技術は申し分なかった、だろう?」
 酒に酔ったように、ヘラヘラしている。満足なのだ。
「もう、私の術には飽きた、か?」
「いや、何処からだった?」
「そんな事、決まってる。」
 最初から、さ。
 充填剤の匂いがした。
「明日には抜けるんだよな?」
「ああ、かもな。」
 強烈なフラッシュバックが鼻を抜けた。メンソールのそれを67倍にしたような感覚。
「痛てっえ。」
 今ではない、壺中の天地。二人はセッテ・ネットに介入する。可能性でしかない。この場が。渾沌から、ただ口を開け放した。どろどろした重油の海が満ちた。
「こちら、ライカ――。」
 アナログの雑音。何処からともなくやってきて消え消えになる。
「貴方たちの場所に、人を向わせられない。」
 どうして泣いてるんだ?
「此方はヴェント艦隊、小惑星帯へ達する。ノシス・ネットから権限を取られたわ。」
「あー、言わんこっちゃない。」
「お前! 大概にしろ。」
 冷めた双太に苛立った。
「人が死のうと、してるんだぞ。」
対置する力か、全てが揺れる。
「この連絡、意味分かるか?」
「無視しろ、と?」
「――馬鹿。」

 シャトルが一機残らずポートへ去っていた。
「言い残すことは、私には…ない。」
「ミッション完了。」
 宙局が伝えてくる。ライカは気分が悪くなった。
「ノシス・ネットから皆へ。感謝する。大いなるミッションへ皆で向かおう。」
 先陣は一目散に帰って行った。ゴールドの紋章を掲げながら、日曜日の予定を立てながら。何がほんとうだったのか、分からない、まま。
 私にも、皆にも、全ての人類にも。
「情けない、だろ?」
 双太、おまえっ。
「おっと、交渉だって言ったろう?」
「人間か、お前。」
「竜だ。もう――…危ないぞ。」
「拒絶する気か?」
「いいや。」
「保っていられるんなら、この限りをくれ。」
双太が言ってる。
「ああ。遣え。」
「私は馬鹿だった、ほんとに。情けない。消えるよ、ここから、だ。」
 玲央は、消えぎえになる。電算センターを占拠した、あの日からの未来がここにあるというのに。
「いつか、チェスの仕方を教えてくれない、か?」
「お前なら、簡単だろう?」
ぶっきらぼうに返した。
「筋をさ、教えてくれないか。」
 拙い、フォルテが、か弱くも触れた気がした。

 クリアノードの海は、やがて静まった。
 ざわめきも、戸惑いも、目を閉じている。
 終わったという感慨も終えて、蒸気機関に少年達は跳ねられた。
 それもまた、可能性の話だ。浮気性の海が叫んでいる。
 ゴルディロックスの鐘はどこでしょう?
 宇宙はそれを否定してから、日はまだ浅い。
 ネットが、世界を覆い尽くした。癒着体達が歩き回っている。時に2000人にも及ぶ群は、ニューヨークの街の様にいつも誰かを探している。目をかけられるのだったら、逃げた方がいい。いつも誰かを探している人人は、衝動的な場面しか想定していないからだ。
 クリアノードの海は君達を歓迎しないだろう。ニューヨークタイムズが小さな幸せをニュースにするように。

 ボリュケイン縄を肩にペイントした重文銃創が歩いていく。
 なぜ歩いているのか。出口を与えられたから? 有栖が理由か? 
 金属の廊下は奇妙なほどに薄暗い。赤いランプが点灯している。哀しみだけがどこからか去来していた。
 また、この先に出口が、その先も出口があって、想像するとたまらなくなる。何処までも出口が続く。暗がりを歩いているほうが……自分がどこへ辿りつこうとしているのか、分からずにいた。身体が重い。
 幸い、殴られることはなかった。皆、熱で参っている。有栖の言う、ネアが消えているおかげなのだろうか。
「何処へ…行くんだ?」
 このまま終わりがなければ…と考え始めていた。病か、どうかなんて…。この身体だったら…。
「接触してもらいたい、ところがあるの。」
「どこへ、繋がれっていうんだ。」
繋がれるなら、そんなところがあったのだろうか。鐘が聴こえても仕方がない。
「ネアの本質に。」
「そこ、か。」
予測通りの回答だったと銃創には思えた。有栖がさっと返した。
「残念だね。」
「ああ。」
ネアの入り口に、また入れということか。眩むような終末。月曜日は退院に違いない。
「退院できるのか、俺は?」
「良好だけど、そうじゃないわ。銃創。ある人に会って。」
会うと言ったって、人がいるとは思えない。
「人が皆、倒れてるじゃないか。」
「―私達が世界を焼いてしまう前に、「その人」に接触して。」

 重力を強く感じる。飛行機の操縦桿を強く保とうとすると、意識を失った。落下していく機体から自動的に引き離された。
 荒野のなかへと這い出た。助けを機体がコールしている。
 安心して待てばいい。担架の上で眠りにつく。青い部屋、白い窓辺、ここから眠りにつけばいい。だけどあの音はもうしない。あの音がしないのだ、しない。ここから出ることはもうない。空はあんなにも自由だというのに、一歩も。宙局も見てはいないだろう、実際に肉体をもって飛んでいるのは俺達なのだから、レジオ・ネットが指図してくるのは殺すための飛び方、速く、戦うためじゃない。
 未熟な、ソラ。
 不必要な、ソラ。
 入り込んでしまう、ソラ。
 ここは、パイロット達の自由そのものだから。
 レジオ・ネットとの繋がりが重力を伴って切断される。ワッペンの連中のシルシはもういらなかった。
「有栖、お前は何につながれてる?」
「私は、ネア。」
「いや、違うな。」
「どうして?」
「違う、から。熱に浮かされてないのが証拠だ。」
「私、余所の子なんだよ。」
「いいや。」
「どうして、黙ってよお。」
「お前らは誰と繋がってる?」
「銃創、怒るよ。」
「怒る? 前から止められないのはこっちなんだ。いい加減に、有栖。素性を話せ。」
 俺に、何ができるというのだろうか?
 カメラで映らないアイツがここにいるのか? 前々から気配だけはD棟にあったアイツ。
「お前らはどこと繋がってる?」
 接続されている、というなら引きちぎってみせた。パーツはバラバラと砕け散った。火花が舞う。楽園はどこにもない。
「私は、ライカ、ねえ、助けて。アリスだよ。」
 有栖が幼児じみた声で喋りだした。
「どこにもいねぇっていうなら、哀しいだけだぞ。心があるなら、向き合いな。」
「私達は悪魔に魂を預けてしまったの。」
「悪魔?」
「そう。私達は私達の物語を歩むために、その人と契約を結んだわ。」
「物語なんて、必要か?」
この身体で先なんて考えたくない。
「ええ。私達はやり遂げたいの。」
しっかりと有栖は目を見開いた。誰とも一緒でないのに。
「沈んでいく機械とは違って、か。」
「未来があるってそういうことでしょ。」
「さぁな。そうだとは言えないときもある。偶然、機械になってるわけだしな。」
「機械でいられるときもあって、人間でもいられるというの?」
「わからんが、人間だ。俺は。」
「わからないのに人間なんて言えるの?」
質問を立て続けに受ける。
「理由づけに便利なのさ。」
―今は、そうとしか言いようがない。
「よく分からないわ。」
「ああ。未だ俺にも、な。でも大切な事だ。」
金属の廊下を抜ける。眩しげな世界に目頭が熱くなった気がした。
「ここから、抜けて。」
「あって欲しい奴は?」
「あなたじゃ、無理だわ。」
「無理?」
「ここから真っ直ぐ。歩き出して。」
 風景が崩れ出した。陽炎がゆらゆらと昇っていく。
 死地にいるのは誰?
「こっちに来るんだ。」
 銃創は有栖の腕を引っ張り上げた。

 
双太も消え、藤村さんも消えた。
 拳原玲央は、セッテ・ネットの要になる、という目的も潰えた。茫然と立ち尽くしていた。
 ネア・ネット、ノシス・ネット、レジオ・ネット、セッテ・ネット、様々な政治的思惑が重なり合った上で我々はどこへ向かっていくのか、すべてのネットの上部だと知ったセッテ・ネットは双太との連帯を終えたのち、場は静かになった。
 連帯? いや殺人ではないか? 
 奴を遣った以上の効果がここには顕れてはいない。憤りともつかない、奇妙な安堵がここにはあった。私を見出していたのは、常に目的だ。おのずからすべてを成せというのが私の本懐だった。すべて、どんな身分であろうとも序列の先に見いだせるものがあるなら、私は一つ先んじても、何も問題はあるまい。なのになぜ、私はこんなにも小さな寂しさを感じているのか。
戦いもこの身の上のためと思って、艦隊に乗り込んだ。
 誰がなんといおうとここから先は進まねばならない。なら、ここには統べる何があろう?
「双太。私は救おう。」
 ありとあらゆるネットが疑問符を投げかけると、郵便ポストに投げ込まれようとする。待つことはない。静かに矢を放てばいい。
 ここにいる。セッテ・ネットよ。ここにいるぞ。
 硫黄を砕いたような黄色の目覚め、何を始めようとするのか。私は?
 首を擡げた獣の目覚め。銀河が何を呟いている?
「 どこから、あのネアが始まっている? ―ダイヤル。」
 古い歴史へ、あれは古代よりも古い猿達のものか、ならばここには必要か? 彼らの暴力が? 

 D棟患者達の願いはテレビの向こうへ映っている。
 REVELの中央研究所がウィルス感染事故、死傷者が多数。形式的な空白が彼らを襲った。有栖も、譲も向こう側の人間になってしまった。下らない会話だったのか、すべてが人間未満の彼らの罪か、応えのない時間が襲った。
もしや、こちら側すら向こう側なのではないか? 仲間意識が迫ってきては、返す。集団だったのか、僕らは?
「ネア。」
「ネア。」
 引きちぎられた、仲間意識、みんな繋がっていたから、分からない。狂気も、怒りも、喜びも、そこから出ることしか客観的なんて言えない。
「ああ、ネア。」
 続けるというより続けられている。パスが回ってきた、というしかない。
 いつしか、ウィルス感染はまさしく今、ここで起こっているんじゃないか、ネア・ネットは狂気し、恐怖した。検疫も何もない。ネアが精神的に深く根を下ろしていたから、あちらが落ちればこちらだって危ない。それは古いネットワーク、身を守るための強くて、合理的なシステムだ。
「医療事故ですって。ネア。」
「人殺し、ネア。」
「核戦争前夜、ネア。」
「あれはテレビゲームみたい、ネア。」
「クリスマスと、中東戦争、ネア。」
「壁が崩れたわ、ネア。」
「空想じみたネットね。ネア。」
「やってみろ、ネア。」
「刺された。ネア。」
「犯人は逃走しています。ネア。」
「閑静な住宅街、ネア。」
「セキュリティが見張ってますから、ネア。」
「肝心な時にもよって来やしない、ネア。」
 これは古いネットワーク。いつからだったか。
 ―ネア。

 いつしか外が異界になり始めようとしていた。内側に獣が集まろうとしている。
 玲央がすべてを確認し終えると、銀河に問うた。
「私達はあなた方に足るのか? 」
 銀河は答えをくれない。
「私は…。叫ぶことすら、無駄だ。グノシスの教えと知ってなお、人を教えてくないか? これ以上の解決が人にあるのですか? 多くの血が流れた。すべて、この銀河の先にあなた方の解決手段に辿りつこうと、もがいた結果ではないのですか? 私達はセッテ・ネット。応えを下さい…。」


 /5

 調停者は静かに座っていた。
 重文銃創が有栖の手を引っ張り出す。
「出口か?」
「私は死んだの。出口なんてない。」
「死んだ? なら俺は、誰の手を掴んでる?」
「私は、この場から消えていたいんだ。」
雑音の切れ間に有栖が正体を現した。
「やぁ、有栖。」
調停者はレェフェンと言うらしい。白髪交じりの男は軽く挨拶する。
「有栖、物語は順調かね?」
「銃創を連れてきたわ。」
「彼が、そうか。」
「長い、長い物語を彼なら耐えられる、そう思ったんだけど…?」
「まぁ、誰でも物語は語れるさ。しかし、世情が変わってきたのさ。有栖。」
レェフェンは平たいプレートのような反射する物体を見せてよこした。
「文学青年のお話さ、みてごらん。」
 ハイスクールのデューイは授業中も授業後も、ノートを欠かさずとっていた。ノートは平凡だったので、誰かに見せようとも思わなかった。クラスの者も多くは優秀だったのでノートを見せる必要がない。デューイは時にエネルギッシュにノートを記した。
 回収される心配もない彼だけの世界、いつしか青年の王国になった。その一枚は理解しやすく一般的だった。汎化された内容はデューイの人生だったのかもしれないし、彼が書いている痕跡は命だったのかもしれない。書くことは人生なのだ。中指にできたマメが語ってる。
 いつしか、デューイの周りはデジタル・ネイティブばかりになった。人生は今日も書いてることだけだった。だけれども、創作の場ではデューイは少数派だった。彼の人生は一枚の紙片でしかない。その一枚の紙片は創作者達は簡単にスキャンしてしまう。目で追い、それは彼らにとって好ましいものへと変身した。
 デューイはいつでも考えていた。自分の人生があぶくのように膨らまされて、改変されていく模様を。聴いた知恵も、覚えたことも、感情ですら、自らは所有できない。所有できないなら、何を書いているのだろう。
 記憶を書いているのだ、自身は、そしてその先の未来を書いているのだ。だけれどもデューイは一枚の力しか持っていなかった。
 ペンを折っていいですか? 神様。僕は僕を自由にしたいから。

「―答えられないよ。レェフェン。」
「まぁ、そうさ。こんな時代さ、所有する者達でくっきりさ。」
 調停者は少し穏やかになった。
「ちょっと、待て。俺はこれから何も所有できない。身体は機械なんだ。」
「君には眼があるよ。安心したまえ。」
「俺は未来があるっていうのか?」
「ああ。十分な、ね。だけれども、ここにいる者以外は、未来を望んでいるわけではないのさ。ゴルディロックスの鐘が聴こえるか?」
「また、その鐘か。」
「ああ、聴こえる人間じゃあないね? 君達は?」
「もう、いいんだ、あれは。最初から最後まで俺には無縁だったよ。」
「有栖は?」
「皆、来てはくれなかったわ。狂える時間とぬくぬくとした場所があれば十分だって。」
「そうかい。なら、物語を終える契約でいいかな?」
「終えるって、どうなるんだ?」
「ネット共栄圏が増えすぎたよ、行き渡るというなら私の調停者としての立場から見て、拡がることは彼らにはない。共栄圏が増えたとしてもパイが増えたわけではないからね。」
 期待していた、とでもいうふうにレェフェンは語った。
「ネア。」
「まず、そこから削除対象だ。」

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