わたしが人帰坂の家にたてこもっていた頃、ベーグハルト=シュヴァイツの指揮による殺戮交響曲が湾浜市100万世帯を恐慌にまきこんだ。老若男女をわけへだてなく毒牙にかけた無差別殺人犯は、ふたをあけてみれば、幼稚な自己充足願望にとりつかれた少年にすぎなかったけれど。
そうだ、彼とは利き腕がおなじだったんだ。
しめっぽい雨のつづく初夏、蟷螂草の苗床を荒し庭へはいってきた少年の、おかっぱにそろえた前髪の裾にのぞく海色の瞳が、わたしを捉えてはなさなかった。お茶碗をもってたちつくした26の女に、少年は滑稽なほど丁寧な仕草で目深の帽子をもちあげて、ひっこりとお辞儀してみせた。
「気をつけて。僕はあなたを殺しにきたのだ」肩をすくめて彼はつけくわえた。「死んだら人生は丸損。はなまるぞん。手をたたいたら走ってお逃げ。あなたの反撃は許さないよ」
ふところからグロック17式拳銃を抜いた少年は、なめし革のようにざらついたほほを手のこうでぬぐい、真近から真近へと鉛弾をとばすべく腕を水平にした。破裂音とともにスピーカの筐体を暗黒の点がうがつ。少年はわたしに照準をふりむけた。
神さまがわたしに生きろと告げた。奇跡が起きた。
普段なら買物袋をさげ歩くだけで億劫なのが、TVマンガのヒーローみたく反射神経をよくしたわたしは、銃口から射出されたはしから弾丸をにぎりつぶして、あんぐりと口をあけた少年を殴りとばした。洗晒しの米をぶちまけたみたくまっしろな歯がとびちった。
スーパーガールに変身したわたしにとって、鉄製の銃身をへし折るのはまち針で風船を割るくらい簡単なことだ。
「あなたのような特別な力があったら」意識を回復した少年がうめいていった。「僕はいくにんもの人を、いくつもの家族をなぶりごろしにしないで済んだのに。僕がもとめたのは命そのものでなく、命をもうばう強大な権力だったのだ」血と涎をたれながす口許からはたえまない呪詛の言葉。わたしの身体にまとわりついてくる。「あなたはなにものも怖れる必要がないのにちっぽけな家にとじこもる。ビーダーマイアは世界の敵だ。
すべての日常と普遍性は破壊されなければならない。だから僕がたちあがったのに」
「少年、あなた名前は」わたしはたずねた。
「ベーグハルト=シュヴァイツ」
「ベーグハルト、あなたはまちがっている。わたしはわたしの世界を守るためにこの家を快適にする。あなたが世界を刷新しようとしているあいだに、わたしは洗濯機をまわして掃除機をかけ、思いだしたように帰ってくる子どものために食事の準備をする」
「子どもってだれのこと」不明瞭な発音で少年が叫び、真紅のつばが糸をひいた。
「あなたのことよ、ベーグハルト」聖母の微笑をたたえて、雲の晴れ間から飴色の陽光があたかも祝福するかのように射す食卓をわたしはしめした。ボウルに盛った野菜炒めからたちのぼる湯気に誘いよせられ、歯を失った少年は半ば呆然と夕餉の席についた。
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