| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

午睡

水無瀬ひな子

 

 トウキョウは湾浜の北に位置し、旧首府時代の名残で港(の残骸)はあるのだけれど、汚染の進んだ湾岸地域へ近づくのは腐肉食らいのカラスくらいで巨大な防波堤に囲まれた街区からは海が望めない。それでも、一度でいいから海ってどんなのか見てみたい、などと考えるのは子どもだけだったし、彼または彼女がそのようなよからぬ考えを抱くと、たいていの親は黙って頭を小突くか、だしぬけに説教しだすかという場合がほとんどだったから、ほとんどの利口な子どもは想いを秘めて、成長してからは、なんやかんや、可愛い女の子と付き合いたいだとか、こころ優しい男の子の友だちを作りたいだとか、それぞれ健全な悩みをもつようになって、小さいころの想いなんかは容量オーバーの頭からちょろちょろ洩れだして、やがては歳を経て子どもを叱る側にまわって、海なんか見る気もなくなって、その代償として平和な生活を送る権利を獲得する。だから、都市の地理的環境を忘却した住民にとって「海」は縁遠い言葉だ。
 問題は魚が食べられないことじゃなく――もちろん今では肉も葉野菜もとうもろこしもじゃがいもも欠乏しているけれど、そのことではなく――そもそも人が住むにふさわしい場所ではないのに、いまだ十万人が檻の内にとどまっているということだ。
 重度の食料不足でも、お酒だけはたんとあるのだ、と今年八十歳になる茶飲み友だちのあざみ婆がいった。彼女によれば、シンシュク、イケフクロが眠らない繁華街だった時分以来のターミナル街区の地下道には幾百、幾千、幾万もの居酒屋が軒を連ねている。都市の地下は長大な酒蔵さながらなのだとか。
 旧時代の都市。土気色の頬につたのような血管をはりつかせたがらっぱちな酔っ払いや終末論者たちの集う物騒なたまり場。考えただけでぞっとする。
 人が集まっているところへはなるたけ寄りつかないようにしよう、と獺子は常々思っていた。顔見知りと道端で会っても挨拶もしない。他人と関わりあいになるべきじゃない。それが〈都会〉のルールなのだっていうものね。
 食糧不足。行政空洞化にともなう無法地帯化。
 獺子を含め、平和で安全な郊外地区に居住する者にとって、都市とは貧困と混沌の象徴以外のなにものでもなかった。
 トウキョウでだんなを探して、ギンゼイ、シフヤをつなぐ銀光線の車輌の席でうとうとしていたら、降りるまぎわでひったくりに財布を奪われた。さいてーよ。だいたい、街に住もうだなんて感覚からおかしいんだって。ねえ。
 湾浜もトウキョウも、大地震や大津波でまとめてドッカン滅びちゃえばいいのよね、といったその緒方怜奈のだんなは、二年前に彼女の前から姿を消して行方知れず。浮浪者の巣窟だといううわさのアキハバラかオオクウボ辺りにいるのだろうと想像がつくけれど、親しいといってもそれなりに気をつかう性分の獺子はいわないし、意外に無鉄砲な玲奈が危険な地域に単身飛びこんでいってけがでもしたら困るから、進言する人はいなかった。
 亜麻倉は夏草の濃い緑に占められている。舗装のはげた大通りの道路には、無数の葉を彫琢した翡翠板に透したかのような美しいミントグリーンの影がたまさか落ちていた。
 恋人が欲しいわ、と玲奈がけだるげにため息をついた。燃えるような恋がしたいわ。
 ばかだね、とあざみ婆。あんただんながいる身なんだから、恋人作ったら愛人になっちゃうじゃないの。不謹慎でしょうが。
 それはそうだけど、でも、思っただけでは罪にならないでしょう。
 罰当たりな娘だね。
 二人の会話に獺子はくすくすと笑う。すずやかな午後の風が彼女の赤毛をなびかせた。それはそれは心地よい風だったから、三人はひととき、しゃべるのも忘れて、なぶられるままでいた。
 やがて玲奈がいった。
 男運もなにも使い果たしたお婆さまはおいて、獺子、だんなの具合はどうなの。
 どうもこうもないよ、と獺子は答える。
 あいもかわらずね。子どもがえりしたせいで、お酒も煙草ものまなくなったんだから、悪くないじゃないの。
 意地の悪い言い分だった。獺子が言い返さないのを見越して、
 収入、わたしが働くぶんしかないから、超がつくくらい貧乏よ。
 本当に貧乏ならこうやってお茶を飲んでいる余裕なんてないさ。と、婆が声を低くしていった。おいしいご飯を食べて、服だってよりどりみどり。これで、真面目に働いているだなんて。昼間からワインを飲める身分の人間がいうセリフじゃない。
 都市も郊外も暇なのは変わりないでしょ、と玲奈。
 まあね。通貨制度もずっと混乱中だからね、と婆。
 ところで、お茶会がいつのまに飲み会に変わったんだか。
 あら、時代は移ろっていくものでしょう、お婆ちゃん。
 木々の葉がゆれ、陽の直射が彼女たちの目を射た。獺子は手をかざして、強い陽光から額と頬をかばった。日傘ってどこかになかったかしら。アンバーがかった陽の光は怜奈が働いているスーパーからくすねてきたワインの瓶を、その細長い首の上下で斜め60度にわっていた。
 玲奈が注ごうとしたワインをこぼした。麻のシャツに薔薇色の染みが広がっていった。
 獺子が慌てて布巾を渡したけれど、一足、対処がおそかった。染みは、ロールシャッハテストのインクみたいに奇形の柄をなした。
 いいわよ、後で着替えるし。コマチ通りの裏に『ネグリ』って服屋があったでしょう。あそこのお店、使えるのよね。
 このちょっとした出来事がお開きの合図になって、三人は駅の手前で別れた。
 『ネグリ』へは玲奈と婆がいった。陽に焼けたサーファーやその恋人が身に着けるような極彩色のシャツを愛用するのは、欲求不満の募る玲奈のみならずあざみ婆もだ。初めは消極的だった婆だが、最近は進んでそういった服を着るようになった。この付近で地味な衣裳に身を固めているのは獺子だけだった。南国の香りのする服を好まないのではなく、どう工夫しても似合わないのだった。一度、冗談で玲奈にワンピースを着せられたことがあった。まじまじと鏡を見て、そのまま顔を白く塗れば遊園地のピエロだと思ってから、以降、服漁りにつきあって時間をむだにすることはなくなった。
 旧駅の手前で別れてだんなを迎えに出発した。ぶらぶらと大路を海方へ向かって歩いていった。旧時代の終末期にリュウキュウから植林したという椰子の葉が太陽光から大路を護っていた。100余年以前のリュウキュウと現在のトウキョウや湾浜、亜麻倉の暑さは変わらない。
 滑川こと亜麻倉の静脈は内部から太平洋へとゆるやかに水を送りだし、その二級河川が海へ溶けこむ境目に、足をからげて仁王立ちしただんなは、岸辺で獺子が手をあげたのに気がつくと水からあがって、びしょびしょのズボンの裾をしぼることもせず駆け寄って、小さな子どものように力いっぱい抱きついてきた。矢を射る弓がしぼられるように獺子のほっそりした身体はきりきりしぼられて、ねえ苦しいよ、やめて、と叩いただんなの肩が夜通し走らせたバイクのように熱くなっていたのでびっくりして、
「スナガワ、熱があるんじゃないの」
 抱きすくめられながらも比較的自由に動かせた右手を彼の額に当てると、あんのじょう掌が放出過多の体熱を感知した。額から離した手が彼の汗にまみれていた。
「帰ろうか、家に」
 頭を撫でてやった。スナガワの腕から力が抜けて、普段よりもきつめの拘束から獺子は解放された。
 彼はまた、獺子が磯石を跳んで向こう岸へ渡ると、緊張した面持ちで彼女の踏んだ石を踏み、後を追った。まとわりついてくる潮風が不快なのか、スナガワは脱いだシャツで頭半分をおおった上、獲物をねらう肉食獣のように砂浜を疾駆したけれど、加速するたびにざらめの砂に足をとられて、二度も三度も転びそうになった。風は、凹の形にくぼんだ都会式の河川敷を管として、ボウ、ボウと不安定な響きを辺りへ響かせた。突風に吹かれまきあげられた細かな砂塵が、数十年は車の通らないアスファルトの道路へはらはら散り落ちて、もとは空の青に映える炭色だった路面をいっそう、平凡な無人郊外の風景の内へとうずめていった。
 だんな。
 スナガワ。
 砂川兼行。
 風の強い日だったけれど獺子の歩む足どりは一定不変で、テイクオン、テイクオフとも均等、均質に拍をきざみあげた。木陰も人の住まない家の外壁も海岸沿いには用意されておらず、陽はちりちりと着実に肌を焦がした。湿気を多く含んだ大気は電信柱や信号機にまで汗をかかせた。
 たとえばいきなり、塗装のはげかけたガードレールがにわかにぐにゃりとしおれるか、ひなたに放置したキャンディみたいにどろどろ溶けたとしたって、不思議じゃないどころか、さもありなん、いえいえこの暑さだもの当然よね、と勘違いして素通りしてしまう。どんなに非常識な事件だろうと、暑気の因果に当てはめるとたちまち納得をしてしまう。そんな日中もしかするとだんなは、スナガワはわたしが来るのを待つあいだ、真水と潮の流れをへだてる境界に何時間も突っ立って、もとより休憩を入れる頭もあらず、ただ足をひたした水の動きがさわさわとなぶる運動にこころよさをおぼえたのだとしたら、それはやはりわたしの責任で、何も理解していないスナガワは、間違ってもわたしを責めたりはしないけれど、どのような形でか、つぐないはきっとなさなければならないのだろう。
 いつだかにスナガワはいったものだ。ずるずる続いていた同棲生活に踏ん切りをつけて入籍した直後。まだ彼との意思疎通が、会話が困難でなかった時期。
 郊外に家を買う話のついでに、新婚の浮かれ気分でおしゃべりになっていたスナガワがついうっかりと口をすべらせた。
 トウキョウはいずれ壊されなければならないんだ。
 不健全で非科学的な〈意識の牢獄〉なんだからね。
 それにどういった真意がこめられていたのか。――今となっては、獺子には知るよしもなかった。
 海岸通りを途中で脇へ折れると住宅街へでる。小路の坂を道なりにのぼっていくと、極楽寺と書かれた緑文字の立看板が目についた。旧江ノ島電鉄の利用されなくなって久しい線路にはウェハースのようにスライスした板が並置されている。枕木の上を踏んで辿って丈の低い山側へ切れこんだ路へ抜けた。近辺二百軒で比較的新しい一軒にたどりつくのは易しかった。家へ着くやいなや、スナガワはソファに倒れこんで、すやすやと寝息を立てはじめた。獺子は毛布をかけてやった。
 肉食のイソギンチャクが小魚をくわえこむさまを見た。獺子が14歳のときの記憶だ。そう、中学校の遠足だ。マリンパークを訪ねたのだ。ふわふわしたピンク色の毛玉みたいな生物が――そのときまでわたしはイソギンチャクとは海草なのだと勘違いしていた――せびれが金色をしたはではでしい熱帯魚の胴に触手をからめ、魚が暴れるのも意に介せずそっくり飲みこんだシーンがトラウマになって――と回想するや、どことなく触手に似た弾力をもったスナガワの四肢が丸まって、むしゃむしゃと毛布を食った。
 眠りに落ちたスナガワはおいて、獺子はマドラーでかきまぜた甘味の強いレモネードを喉へ流しこんだ。肌の火照りが収まったのは、クーラーからの送風が、部屋中を冷やしたせいだったのか。きん、と静まりかえった空間は氷水にひたした金属のように冷たくて、泡ガラスのコップをにぎった拍子に獺子は、ゆき、という漢字はどのように書くのだっただろうか、と不意に考えたけれど、自分が生まれてからというもの巡ったこともなく実際目にしたこともない物の当て字などどうだっていいか、と思って目をつぶった。
 ねむたい。
 壁かけの丸時計を見る。仕事は二時からだ。家を出るぎりぎりまで勘定に入れるなら、三十分以上は時間の余裕がある。
 寝ればいい。目覚まし時計なしで起きられるなら、お昼寝をすればいい。
 それだけのことなのだ。

 まどろみの至福は、蜜つぼへ誘いこまれる蜂が感じる恍惚と同種の、麻酔薬的な作用が脳に働くために引き起こされる現象であり、いかに明確に症状を自覚しようとも、反抗の意志を貫くのははなはだむずかしい、というのは一般常識の範疇というより人間の生理に基づく経験則だけれども、獺子のまぶたが鉛のように重くなったのは、まさしく、彼女が進んで快楽的な作用に身を投じたからで、眠ったからには、滅多なことでは起きないのもまた既知の経験則である。

 植物の香りは宅の開け放した窓から忍び入って、親鳥のあずかりしらぬところで卵胚が雛形をとるように、いつのまにか部屋の隅々まで充満している。むっとする匂い。鋭敏なスナガワの鼻はそのオリーブの実が醸すような芳香を嗅ぎとっていた。カーテンの揺れるかすかな音を頼りにまぶたを開いて、意識も定かではないままにむっくり起きあがって、知性に欠ける彼の脳が毛布をかけた世話女房の心遣いも気どらないうちに、足は自動的に窓外へと歩きだし、手は勝手に網戸を引き開けた。おきぬけだったこともあり、目やにが視界をおおってフォーカスとピントがはなはだしくぼけていた。
 彼は直感した。干からびながら饐えた旧都市の隅で、なにか大規模な変化がはじまっていることを。
 にげないと。
 にげよう。
 にげろ。
 急激に高まる不安にスナガワはおびえて、脇目もふらずに窓から飛びだし、どたどたとやかましい足音とともに、通りの角の向こう側へと消えて、見えなくなった。

 醒めると西陽が射していた。壁かけの丸時計を見上げると四時をすぎていた。
起きぬけで、長時間ソファに寝そべっていたおかげで、肩と腰がきしんだ。けっしてやわらかくはない肘置きに後頭部をもたせかけていたから頭痛もした。仮病を使って休もうかしら、と真っ先に獺子は思案した。それも悪くない。郊外に住むかぎり、生活にかかる費用なんてあってないようなものなのだし。だけど税金が払えなくなるのは困るかな。
 顔を洗った。蛇口を捻ってほとばしるのは水ではない、人の平均的な体温よりやや低いくらいのぬるま湯だ。地熱の効果で、地下を這う水道管が熱せられるせいだ。「水」と「お湯」のノブがついているものの、本物の「水」がそこからでたことなどついぞなかった。
 窓を全開にして、縁側へ降りた。ふわりと影が落ちてきた。庭へ降りた。亜熱帯の植物特有の青くさい匂いが鼻をついた。西を路塀、東を軒にはばまれた窪地にはほとんど陽が射さなかった。長方形の土地には黒々とした影を流しこんだ。湯もまかないのに土地は雑草に覆われた。春から秋にかけて蚊やあぶが飛び交った。滅多に足を踏み入れなかったから、いよいよ荒れ果てた。
 スナガワ。わたしの声、聞こえてる?
 不安になって獺子は呼びかけた。山にこだまを求めるようにして、なるたけ遠くへ声を飛ばそうとした。こころみが成功したかは心許なく、返事もなかった。裏庭に敷きつめた砂利は崩落した古屋敷の瓦礫のようにまがまがしかった。普段よりわずかにまぶしすぎる陽光。ただただ、嫌がらせのようにわめくばかりの夏虫。
 だんなの返事はついになく、その夕べ、獺子は街へ越して以来はじめて仕事を休んだ。


トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ