東池袋のアパートの一室で年季の入った古樫の食卓に思わせぶりに置かれた写真を発見し、不可解な遺留品を残したまま半日待てども帰らない同居の友人を心配した中津川ひなぎくは、豊島区上空に200の魔眼を飛ばし周辺地域を探索した。おりしもひなぎくの本身が安っぽい怪奇小説じみた夕刊の見出しに目を落としていた午後四時頃、とある高層ビルの屋上に佇んだ友人の存在を魔眼がとらえた。 視た。短い髪を払うようにして被写体が振り返った。〈眼がくらんだ〉。 縦並びの文字の各々が磁気を帯びたかのように反発し、拡散して爆発という流れを繰り返した後、眸のうちで色光の層に分解された。光層は複雑に分割され精密に選りわけられた後、魔眼が鳥瞰する眺めをひなぎくの網膜上に再現した。像は白飛びした灰色の渦が鋭角的なビル群のフォルムをとった後、じょじょに焦点が定まって、機能的に割当てられた都市の地区区分がはっきり見定められた。 骨ばった塔、という奇妙な形容が思い浮かんだ。少なく見積もっても四〇階建て以上であることが確実と思しきそのビルは、天を衝こうとするかの勇壮な伸びあがりに較べて階当たりの面積は猫の額ほどで、縦横のバランスの悪さが腰の落ち着かない印象を増していた。 四方を子供の背丈ほどの高さがある金網に囲われた縁際に友人がいて、彼女は鉄クリップで綴じたようにまぶたをぎゅっと閉じて、その華奢でかよわげな身体つきからは想像もできない重々しい声で呪言を詠唱していた。 術師に莫大な魔力を授けるのと引き換えに、肉体と精神を蝕み食らいつくす黒呪式である。過酷な修行を重ねて天賦の才を開花させることに成功したひなぎくとても、禁断の呪式に手をだす誘惑にかられることがあったが、〈黒〉に染まった魔術師のすべてが最終的には非業の死を遂げているという魔界史録の信憑性をためし、不文律にあえて逆らうだけの勇気はなかった。 友人は、名を、駒込ちひろといった。雨の降りこめたように昏い瞳と体熱のかよわない頬のぞっとする冷たさに、ひなぎくは同じ魔女として愛情を注ぎ、温もりを与えようとした。だが出来損ない魔女のちひろはかえって劣等感と敵愾心を抱いた。募った憎しみはやがて人間世界への軽蔑と憎悪にすり替えられた。 ちひろのにぎりつぶした掌にそれがあった。紡錘形の緑青に縁どられた指痕はかびがむしたようだった。数葉の写真はどれもがひとけのない夕どきの路地を斜にとらえていた。沈みきる前のあざやかな陽色やぽつぽつと燈りはじめた高街燈のやさしげな燈光に、深井戸の腐り水をぶちまけたかの濁闇がまるで逆説的に、鮮烈ないろどりを添えていた。ひときわ目を引く一葉には糠のような汚泥に覆われどこへ伸びているとも判別できない石畳と、それほど狭くはない道を上方から圧しつぶしにかかっている双子ビルの極端な傾き具合から表現主義の絵画めいて見える街景が写りこんでいたが、写真はまぎれもなく実在の景観を切りとったものでなんらの図像的修辞も魔術による誇張も施されてはいない。 ¥51,250のポラロイドカメラ――二年前、ちひろの誕生日に新宿のヨドバシカメラで購入されたもの――をより紐にとおして首から提げている。魔眼が傍観しているわずかな時間にもちひろの腕は機体を持ちあげ数回シャッターを切った。街の随所が灰煙を噴き燃えあがるタイミングに合わせる技は熟練の域に達しているといえた。 ことは明白だ、とひなぎくは考えた。彼女は地獄の悪魔と契り〈黒〉の力を手に入れた上、その面妖な術をもってして東京を亡ぼすつもりでいるのだ。 ふいに、空を見上げたちひろと〈眼が合った〉。 「そこに幻存在しているのよね、ひなぎく」 ちひろが顔をほころばせていった。 「わたしを処理するの、ひなぎく。街を守るためにわたしを犠牲にするの、ひなぎく。それで友だちをなくしてきたのよね、ひなぎく。それで満足なの、ひなぎく。この腐った街に友情を捨ててまで守る価値があるの、ひなぎく。これまでに何人の友だちを処理したの、ひなぎく。いったい一人処理するたびに東京都がお金をくれるとでもいうの、ひなぎく。おかしな仕組みだと考えたことはなかったの、ひなぎく。生かして守るべきは隣人であり友人であって彼等彼女等の住処ではない例えそれがどんなに立派な建築物であったとしてもと〈説法師〉がいったのを忘れたの、ひなぎく。とても大事なことだと思うのよだって友だちを処理するのは大変なことだしだって友だちを処理すると結果的にあなたが寂しくなるしだってあなたはそうして今まで友だちを失ってきたのだしましてやわたしの全存在を否定しようとしている今このときにさえあなたは批判的精神を発揮して友だちを処理することの意義を再考することがないというの、ひなぎく。それはおかしいというかまったく平仄があわないのではないかしら、ひなぎく」 淡々とした口調で彼女が述べるあいだにも都庁は鯖折られサンシャインビルは環状線に向い卒倒しようとしていた。ちひろの戯言に付き合っている暇はない。もはや一刻の猶予もない。 ビル上空にひなぎくの魔眼が結集してちひろをにらんだ。 「話も通じないのね、ひなぎく。つまらないわ、ひなぎく」 〈視=死線〉の雨をちひろにたたきつけた。ちひろの肉体に開いた無数の風穴からどどめき色の雲がわいた。〈黒〉の魔粒子が宙へ拡散していく。 「あなたは強かった、正しかった、で終っていいのね、わかったわ、あなたはつまらないわ、生まれ変わったら二度とあなたと会いたくないしあなたのようにはなりたくないとこころから願うわ、ということでさようなら、ひなぎく。写真は餞別にあげる」 ちひろは泡のようにはじけた。処理は済んだ。ひなぎく――彼女の本身が有する双眸――はとめどなく涙をこぼして、友人を悼んだ。ひとしきり泣いた後で写真と写真機を回収するためアパートを出た。魔力を使いきっていたので、自ら現地へおもむくほかすべがなかったのだ。 街は迷路と化していた。道路は死人と瓦礫に覆われて通行不能だったし、路地裏へまわったところでうずたかい崩落ビルの梁柱の丘に行手をさえぎられた。礫をかきわけ丘へのぼり山にはトンネルを掘って前進した。ネイルアートを施した爪は剥がれて柔肉がむきだしになった。微細な建材の粉や破片がその肉を傷つけた。手足はもちろん服をかぶった胸や脇腹までが血に塗れた。目的の建物へたどり着いたときには上着は刻まれて衣服の体を成さなくなっていた。 周辺地域のみならず都内で唯一、無事に生き残ったのだと断言してよいにちがいないビルのエレベータはしかし電気系統の停止処置により停まっていた。非常階段を昇り困憊をきわめた頃にようやく屋上へ到着した。鉄扉を押すと粒立った夕立の雨が顔に衝突した。タイルの上に放置されていたカメラを半分裸の胸で抱きかかえて熱っぽい息を吐きながらひなぎくは金網の外へ眼を遣った。〈黒〉をたらふく吸った暗雲が東京をまるごと包んでいるかのようだった。
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