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海賊
水無瀬 ひな子

 生まれてこの方帝都で過ごしてきたきみが遠足の行先を告げると両親は押し黙った。普段は優しくない人たちが怯える根拠は杳として識れなかった。

 準備は着々と進められた。教室では偶数個の班が編成され、仲のよい友人である立原とも子と同班にわりあてられた僥倖をきみは喜んだ。亜麻倉市発刊の案内誌を資料にスケジュールを組んだ。担任が観光プランの精巧さを褒めそやすあいだ中とも子はガムを噛んでいた。

 前夜、きみは不安と期待がないまぜで宵っぱり目が開いていた。明け方ちかく波頭の砕ける音にいっそう目が冴えた。家は中央線沿いに所在する一戸建てだった。駅とは近接しているが湾岸からは離れていた。数秒か数刻か判然としない緊張した時間が終息して、張りつめた糸が解けるようにゆるやかな安堵をえた。

 重い汗でしめった下着とパジャマを洗濯機へ投げこみ、山手線と湘南新宿ラインを乗継いで亜麻倉駅へ到着したのが午前9時だった。型どおりな学年主任の訓示を聞きながし出発した。

 榎電の切符を購入する段から貧血気味だった。各所をめぐるあいだに体調は悪化した。しきりに退屈風をふかす男子らには殺意すら覚えた。

 苔生した長谷の寺院で本格的なめまいに襲われた。軒のベンチで横たわるきみを班のみなが取り囲んだ。おまえ班長なんだから最後まで完遂しろよ、と横柄に発した。勝手なことばっかいうなよと一言とも子が怒ってくれた。きみはとも子に予定通りコースをまわるよう頼んだ。とも子はきみを気遣ったが、最終的には班員らを先導して往った。

 住職がきて、躰にさわるから寺舎に入れと勧めた。穏当でありながら断固たる口調だった。きみは従った。きみとさして年の違わない若い坊主が畳部屋に薄手の布団を敷いてくれたが、そのことに関しては住職はいい顔をしなかった。

「午後には法事の準備があるでしょう。急なことで、部屋が空いていなかったんですよ」

 敷布を整えながら彼はいいわけしていったが、住職が去るや紅い舌をぺろりとのぞかせた。

「開かずの間なんです。本来お客を上げちゃいけない決まりになってるんですが、寺で迷信を語るのもナンセンスですしね。年寄りでない僕は信じちゃいないですよ」

「すみません、ご迷惑おかけして」

「この程度で迷惑したりしませんよ。亜麻倉は初めてですか?」

「ずっと都内から出たことがなかったんです」

「結構じゃないですか。災難でしたけど今度また遊びにきてくださいよ」

「くるべきではない。外地の人はうみあたりなさるんだからな」

 衝立の陰で住職がつぶやいている。若僧は舌打ちして退ぞいた。

 きみは眠りについて夢を見た。

 遠い異国の地できみは4人の子供に食べさせるおやつのクッキーを焼いていた。子供はみなきみの産んだ子だった。夕刻、旦那が戻った。旦那は漁師で、漁果が思わしくないので村が干上がってしまうとくたびれた調子でいった。貝料理とパンでもてなしたが食べてもらえない。彼は板間へと横たわった。きみは超能力のもちぬしだったらしく、欲求のおもむくままに彼の意識下へともぐりこんだ。

 夢のなかの彼は海賊の下っ端だった。襲った村では男と見れば殺したし女と見れば犯した。

 官吏がきて船長に交渉を申しこんだ。船長は応じた。手下たちをひきつれて会見に臨んだ。

「あなたがたの海賊団の働きをとがめるのは国家にとって有益ではない」

 黒髭の官吏がいった。

「わたしたちの海賊団の働きをとがめるのは国家にとって有害である。なぜならわたしたちは宰相閣下の密命を帯びて、敵国の海域まで荒らしまわっているのだから」

 銀髭の船長がいった。

「意見は一致する。だが、国民が国家権力の弱体化を噂しはじめている。海賊をとらえることすらできぬ議会は烏合の衆ではないかと。革命が起きては元も子もない」

「議会は、わたしたちの海賊団から生け贄を差しだせというのか」

「勘違いをなさらぬように。宰相はあなたがたの団の働きを充分に認めた上で、国家の威信を損なわぬ処断を求めておられるのだ」

 官吏と船長の視線が交錯し火花を散らしたが、もとより勝負はあきらかだった。

「わたしの愛すべき手下ども、くじを引け。外れくじに当たった者は残念だが、海賊と国家の名誉のために絞首台で命を捧げるのだ」

 外れを引いたのは彼だった。近場の港で降ろされた彼は官吏の手で牢へぶちこまれ、衆前で縛り首に処せられた。賊団の幹部と宣伝され市民たちから嫌悪の対象と見られるようになった彼の死体は樽詰めで広場にさらされた後、魚どもの餌にされた。

 旦那は覚めて、ついばまれて粉と化した皮膚がいまだに骨と筋肉の上にはっているのを見て不思議に感じた。それから台所で泣いているきみを見てなお困惑した。

「おまえが泣く理由はないだろう」

 袖を涙で濡らしながらきみは答えた。

「あなたの欲望と何の関わりもないことが、わたしには悲しい。あなたに愛されるためには、わたしも海賊のひとりとして死なねばならないのでしょうね」

「何ばかなことをいってる。おれの夢に干渉するな」

 旦那は荒々しく叫んで、貧相な小屋からとびだした。きみは目覚めた。あまりのリアルさに夢を夢とは思えなかった。

 担任と保険医が部屋へ上がったので幻惑は中断された。きみが倒れたために、教師間で緊急会議が開かれたのだと担任が教えた。

 きみはぼんやりとして訊ねた。

「先生、うみあたりって言葉に聞覚えありますか?」

 生憎、菓子の種類に精通していないなと教師がいった。これらのやりとりは保険医の耳には届かなかったし、その場にいた若い坊主も知らない顔をしていた。保険医が付き添ってきみを家へ送り届けた。人情喜劇もかくやという愁嘆場を演じるかと思われた両親はうってかわって無愛想に接した。拍子抜けしたがその方が気楽でよかった。月が替わるとじぶんから切りだすのでないかぎりきみが遠足中に倒れた話題をふる者はなくなった。

 夏の終わりから睡眠欲が減退しはじめた。一日の平均睡眠時間が2時間を切るようになっても体調に変化はなかったから、闊達なきみが実は不眠で悩んでいるといっても本気にする者はなかった。きみにとってはしかし切実な問題だった。身体機能の低下が見られず日常生活に不具合をきたさなかったとはいえ、不安を醸成するには充分だった。

 ある晩きみは家にとも子を呼びつけた。部活の疲労から眠りたがっていたこの友人に一睡の余地も与えずくだらないことを喋り続けた。暗色に隈取りされた目をこすりながら、とも子は辛抱強くきみの話を聞いていたが、きみは彼女を強引に外泊させた理由も忘却していた。

「とも子、どうしてわたしの家にいるの?」

 とも子はぽかんとして、きみが本当に覚えてないと知るや泣きだしそうに顔を歪めた。

「病気だったら医者に見てもらえよ。あたしじゃ治せないよ」

「うみあたりだよ。病気じゃない」

 きみの表情は翳りを帯びていた。肺を圧し潰そうとするよぶんの息をそこざらえ吐きだしてそのようにいった。それから白紗のカーテンを引いた。東の空が明るんでいた。赤茶けた潮が唸りをあげて押し寄せた。血と水と鉄さびの臭いがただよってきた。無数ともいえる人の足や頭が水面に浮きあがっては沈んだ。道路も低層ビルの屋上も一緒くたに海にのまれた。流れる戸板にしがみつく幼児や、いったんは外れた首輪を電信柱にひっかけて溺死ぬ犬を眺めているきみは、きみじしんが裁きの神としてあるかの錯覚に陥りかけたのだが、もちろん迷妄にすぎなかったしそのような心理に陥るのがうみあたりの所為であると自覚してもいた。

「真っ赤な海に、街も、人も沈んでいくんだ」

 とも子は沈黙した後、わたしらしばらく会わない方がいいよといった。



 きみは外出を拒むようになった。引きこもった部屋から一歩たりとも出ようとしなくなったので、母親は涙に暮れた。父親は部屋の錠を開けて連れだそうと試みたが、研いだ剃刀で切りつけられてからは怖気づいて手出しをしなかった。友人らはきみが教室に不在であることを気にかけなかった。

 立原とも子は具体性のない後悔と不満をくすぶらせていた。

 ある日とも子は衝動的に学校を早退し、小さいころたびたび遊んだ公園へ足を運んだ。深い意味はなかった。ぶらんこにゆられ風に吹かれていた。桜色の夕立ちが?を打ち、高速道路の灯光が肉感的な趣きのあるとも子の肢体を染めあげた。

 とも子は、思春期の少女らしく浜辺の砂より多量な雑念をかかえている癖に、物事を敏速に処理できない頭しかもたないのだった。

 友だちが不安神経症にかかっているあいだはテスト免除とかそういう制度ないのね。心配のしすぎであたしまで頭惚けているのに。

 自分勝手にそう考えた瞬間、天啓が降りた。

 翌日、午後の受講を放棄してとも子は湘南へ下った。あるいは友人のためではなく、数学のテストを受けたくない出来心からしたのかもしれない。

 古都をめぐった夜、寺で二人の坊主と面会した。住職はとも子を座間へとおして、通好みの渋茶と甘みの少ない菓子でもてなした。といっても特に詮索する内容もなく話題はゆるやかに雑談へ移行した。若い僧がお茶を淹れてきたので、なんの気なしにとも子は訊ねた。

「あのお、あのコ寝言とかいってなかったですか?」

「寝言とおっしゃいますと?」

「さあ?」

 若僧が笑った。とも子も照れたが脳裏をよぎる言葉があった。

「ウミアタリ」

「存じませんな。当寺には関係のないことでしょう」

 住職がにべもなくいった。温和な表情に変わりないが、拒絶の意思をはっきり示していた。

 気まずくなって寺を辞去しようとするとも子を若僧が引止めた。境内でくじを引かせてくれるというのだ。引くと小吉の札がでた。得意になったが、大概の方は凶以下でも中吉以上でもないくじを引かれるものですよと彼は冷静に告げた。

「運勢は三度占ってアベレージを鑑るのが適当です」

 次回からの代金はきっちりとるつもりらしく、懐のさびしいとも子は断然断ろうとしたが、それはいけないと彼が強く勧めた。住職は境内の外れへ消えた。とも子はなんとなく彼に話しかけようとしたが制止された。引いた札面を確認したとも子は激しい動揺に見舞われた。

「正直な札がでたようですね。記念にお持帰りになってください」

 とも子は小銭を彼に押しつけ、石段を飛ぶように駆下りた。寺門から飛出して街灯の灯りに札をかざした。札には運気をあらわすひと文字こそ書きつけられてなかったが、油性マジックの殴書があらわされていた。深呼吸してそこに次のように書かれた文を読みあげた。

『明朝六時、榎島駅のホームで私の仲間がお待ちします』

 冬場の午前六時は夜明けではない。薄墨の夜だ。かりかりと上下の歯をかちあわせ、凍てついたアスファルトをスケートリンクに見立てたようにぎこちなく脚を滑らせながら、プラットホームの端から端までとも子は往復した。少しばかり躰が暖まる。肺に溜めるまもなく吐いた息が視界をマスキングした。ほのかな雪色に火照る線路へ列車が滑りこんできた。走る覚悟があるのかすら曖昧な二両の扉がにぶい音を立てて開いた。まるみを帯びた肩に羊毛の打掛けをまとわせた少女の碧眼がとも子の姿形をとらえていた。寒さからとも子が肩を怒らせていると車内の少女が手招いた。

 とも子は少女の側まで移動した。駅構内からは眺められない海の方角を少女は差した。そちらから跳ぶような足取りで向かってくる者がある。思わず鼻をつまんだのはそいつが海綿状の肉体からひどい悪臭を放っていたせいだった。顔立ちは昨日の坊主に瓜二つだが、頭の先から爪先までながめると到底人には見えなかった。彼は熱くなまぐさい息をとも子に吹きつけた。せきこんだら少女が薄荷の飴玉をくれた。なめると舌にはりつくそれは海獣の汗の味がした。なにか重大なことをいわれたようだったが聞き逃してしまった。魔術を使ったように瞬間で二人は消え失せたから情報は結局、入手できないようだった。電車が出発し、まぬけにも内部にとりのこされたとも子は、かじかむ手を息で暖めながらぶつくさこぼした。

「勘弁してよ。なんなのよー」

 件の寺院へ再度訪れたが坊主らはおらず、それどころか門にはかんぬきがかけられていた。通りすがりの老人が肩をたたき、そこは廃寺だと諭したので言葉を失った。

 東京へ戻ってからとも子は毎日きみの部屋の前へ陣取って話しかけた。手応えのない会話に飽いたらマンガを読み、それらが底を着いたら教科書まで読んだ。おかげで成績が上がったが嬉しくもなかった。

 年を越した睦月、留守番を頼まれたとも子がきみの家の炬燵で蜜柑を食べていると、視線を感じた。とも子はなぜか金縛りに遭ったようで振返れなかった。生白い足が眼前を横切った。台所で水を飲む音が聞こえた。やがて素足がとも子の前へきてとまったので非常な努力の末に足の持主を見上げた。

 そこに海賊が立っていた。正確に述べるなら、海賊の衣装を着けて銀の装飾サーベルを腰に差したきみがいたのだった。

「出航するわ。あの人の仇を討つの」

「……あんたに好い人がいないのはあたしがよく識ってる」

 きみは応えなかった。とも子の姿は眼中になかった。そのまま外へ出ていこうとしていた。

とも子はきみの母親に電話をかけたが繋がらなかった。父親の番号は携帯に入れなかった。しかたなく家に鍵もかけないで後を追った。

 葉の落ちた街路樹がおおう大通りをきみは往った。交差点向かいの公園では5、6歳の親子連れが焚火で鳩を燻していた。違う子供が池に浮かんだ錦鯉の屍骸を棒さきで突ついていた。きみを見かけた子供は火がついたように泣きだした。無視して池の岸を渡ったところに広場があって、そこでは燃盛る炎のように紅染の髪を逆立てた若者らがギターをかきならしていた。草野球のチームが練習試合をしていた。かっきーんと打ち放たれた球がきみの首筋をかすめてとも子の頭部を直撃した。陸にあげられた魚のように痙攣するとも子を見捨て、彼女の周りにわらわらと群がる野球部員らの人波を切分けて、きみは公園を抜けた。スクランブルだった。縦横無尽に人が渡る車道の真ん中できみは立ち尽くした。信号が赤になった。八方から怒号のように悲鳴のようにクラクションの音が響いた。きみを襲ったのは、目もくらむような怒りの衝動だった。人を傷つける能力のない飾り刀の鞘を払って獣じみた咆哮とともに天を突き空を切った。クラクションのみならず本物の怒号がきみにぶつけられた。

 野球部員らに運搬されようとしていたとも子の意識が還ったのは、激化する車道での応酬が耳を破ったからに違いなかった。数人の坊主頭にかつがれなから、降ろせととも子は吼えた。スクランブルの中心へ疾駆すると、暴れているきみの腰に飛びついた。鈍らなサーベルの刃がとも子の背を幾度と打って内出血を起こさせたが、付近の交番から飛んできた警官の手伝いもあってきみを歩道へ引戻すことに成功した。

 あやつり糸が切れたようにアスファルト地へ膝をついたきみの瞳に、現実などまるで映ってなかった事実を認めてとも子は慄然とした。

 精神科へ入院したきみをとも子は頻繁に見舞ったが、最後の面会ではきみの母親から直接、気持はありがたいがもう会いにこないでほしいと告げられた。きみの父親は青ざめていたが、妻が頭を下げるのに合わせて低頭した。その前に階段で彼らの慟哭を聞いてしまっていたとも子は、善意の申し出を裏切らないための約束をとりつけざるを得なかった。

 病棟から出る直前、鉄柵と厚いガラス板とに仕切られた病室をとも子はながめたが、きみは壁を凝視してまったく気づかなかった。サーベルはとりあげられて、緑青色の拘束服が衣装の代わりに押し着せられていた。なによりその処遇にかんして、娘盛りのきみが羞恥心を覚えてない様子なのが痛々しかった。ただきみはざんばらに刈った髪の上にちょこんと乗せた船長帽だけはとられまいとするように、背骨が曲がるほど躰をちぢめ頭をうずめていた。

 とも子は噛んでいたガムを吐いてきみに別れを告げた。ロビーを抜けて屋外へでると斜めに雨が差していた。門をくぐる手前で振返ると、3階のきみの部屋にだけ室内灯が灯っていた。傘を畳んで一ゆうしたとも子は雨を飛沫にかえて駆けた。

 窓辺にたたずみ微動だにしないきみの姿は海賊団の亡霊さながらだった。半身は冷めた影を落としていた。影はそれで血気が失せたように沈黙した。ノイズじみた驟雨がきみをまだ見ぬ幻の沖へといざなう黄昏を真闇の帳が遮りはじめていた。

  (終)

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